六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「美しい国・日本」と教育基本法

2006-09-29 04:43:37 | 社会評論


  もう一度考えてみましょう!

  これは、ネットで知り合った若い人へのコメントです。
 
 彼は、日本というこの郷土を愛し、その文化や伝統を愛するが故に、「愛国心」を養成する教育基本法の改正があってもよいのではないかと考えているらしいのです。
 誤解をされるといけないので、予め断っておきますが、 彼は決していわゆる右翼ではありません。むしろ日本の軍国主義化には反対なのです。ここにこそ問題があるように思います。この風土や文化や伝統を愛する、いわば 愛郷心が、愛「国」心へと絡め取られて行く過程です。

 戦前の多くの日本人もそうだたのではないでしょうか。 「愛郷」というカテゴリーが「愛国」へと収斂し、気が付いたら侵略戦争のまっただ中にいたのです。

 以下は、そうした歴史的経験を、若い世代に何とか伝えたいと思って書いたものです。

====================================================

●教育勅語 

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

   明治二十三年十月三十日    御名御璽

●現代口語訳

 私の思い起こすことには、我が皇室の祖先たちが国を御始めになったのは遙か遠き昔のことで、そこに御築きになった徳は深く厚きものでした。我が臣民は忠と孝の道をもって万民が心を一つにし、世々にわたってその美をなしていきましたが、これこそ我が国体の誉れであり、教育の根本もまたその中にあります。
 あなた方臣民よ、父母に孝行し、兄弟仲良くし、夫婦は調和よく協力しあい、友人は互いに信じ合い、慎み深く行動し、皆に博愛の手を広げ、学問を学び手に職を付け、知能を啓発し徳と才能を磨き上げ、世のため人のため進んで尽くし、いつも憲法を重んじ法律に従い、もし非常事態となったなら、公のため勇敢に仕え、このようにして天下に比類なき皇国の繁栄に尽くしていくべきです。これらは、ただあなた方が我が忠実で良き臣民であるというだけのことではなく、あなた方の祖先の遺(のこ)した良き伝統を反映していくものでもあります。
  このような道は実に、我が皇室の祖先の御遺(のこ)しになった教訓であり、子孫臣民の共に守らねばならないもので、昔も今も変わらず、国内だけでなく外国においても間違いなき道です。私はあなた方臣民と共にこれらを心に銘記し守っていきますし、皆一致してその徳の道を歩んでいくことを希(こいねが)っています。


   明治二十三年十月三十日    御名御璽

 
 言うまでもなくこれは戦前の教育基本法に相当する「教育勅語」です。これに敢えて、*****さんのお書きになった前のご発言を対置します。

>>愛国心教育というのは国のために命を捨てろとか
御上を愛せという育なのでしょうか。
>>それとも歴史が築き上げてきた日本固有の伝統や文化を守り
若者に教えてい教育なのでしょうか。
>>日本の子供たちに伝統や文化や日本の精神を教えこは
いとなのでしょうか。


 この教育勅語と*****さんのご発言とはそんなに変わりませんね。教育勅語にも、「国のために命を捨てろとか御上を愛せ」とは書かれてはいません。
 また、*****さんの主張される「歴史が築き上げてきた日本固有の伝統や文化を守り」なさいはとても強調して書かれていますね。 
  要するに、*****さんがこれまでおっしゃってきたことの集大成のようなものですよね。

 しかしです、しかしこれが実際には、「国のために命を捨てろとか御上を愛せ」として機能したのです。

だから危ないのです。  
 
 *****さんが、軍国主義を指向しているといいたいのではありません。むしろそれを避けようとしていらっしゃることは十分理解しています。
 それだらこそ、*****さんのお持ちになっている愛郷心はそれとしても、あるいはまた、*****さんなりの愛国心をお持ちになることは認めるとしても、それを法制化し、あまねく他者に強要することは避けるべきではないかと思うのです。

 法制化されたものは解釈次第で、一人歩きします。
 上の勅語でも、「家族愛」の強調が、天皇を中心とした家族意識へと拡張され、国民は天皇の赤子と位置づけられました。こうなれば「親に孝」ですから、ましてやその親が「現人神」であるとしたら、国民たるものそれに抗うことは出来ない仕組みになってしまったのです。

 そしてまた、「国内だけでなく外国においても間違いなき道です。」とされることにより、海外への進出、そこでの日本語や神社参拝の強制、創氏改名の強要が当然視されました。

 ちなみに、朝鮮半島や中国での日本の植民地支配についての反感がとても根強く、今なお警戒心が強いのはそのせいです。
 ヨーロッパなどの植民地支配は、経済や軍事、政治の面ではその支配を貫徹しましたが、被支配民族の文化や伝統を根底から破壊した例は少ないようです。そのせいもあって、かつての宗主国と被支配国が独立後も仲良くしているところが結構あります。

*****さん これはレトリックの問題ではありません。
 いったん法制化され、実効支配の場を与えられると、それらは物質的な効力を与えられるのです。

 以上の考察から、私は、*****さんのお持ちになる愛郷心や、あるいは愛国心は、
教育基本法の改正にはむしろそぐわない
と思います。
*****さんや私が愛する「美しい日本」が、「醜い日本」にならないためにも、ここは踏ん張るべき時だと思うのです。
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「六の落書き帳」から

2006-09-26 16:46:41 | インポート

          諧謔のためのシンフォニー  終楽章・アレグロ





          本当に行ってしまっても良いのだろうか?  え?
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「si-のようなもの」と六の時事川柳 06.9.24

2006-09-24 16:43:51 | 川柳日記


「命名」

  完成度の高い憂鬱が忍び寄ると
   街の午後は薄茶色の湿気に満たされた
  だからというわけでもなく
    欺かれた午睡の夢を掴み取って
    鳩たちはちりぢりに飛ぶ

 強い言葉を
    例えば屈辱といったようなそれだが
    街路樹の根方にそっと置く

 風が垂直に吹くのを見たあとでは
    ベリーダンスの捩れは少し儚い
  暗いというわけではないのだから
    いや例えそれが暗くともだが
  それらはいとおしいものに違いないのだ

 もはや虚妄などといってはならない
  もう来てしまっているのだから
   名付けることだけが残されているのだ






<今週の川柳もどき>  06.9.24

 別荘を雛壇候補拝んでる
  (安倍氏別荘で人事構想)

 復党を再チャレンジとまず許す
  (郵政反対派復党か?)

 出張で椅子がなくなるクーデター
  (タイ。帰国したら席がない)

 テロ防ぐはずがテロより死者を増す
  (米軍戦死者9・11を上回る)

 古里は過疎が進んで水清し
  (国交省河川の水質発表)

 酒あおり士気を高める自衛隊
  (広島。無免許飲酒で事故)

 腸チフス米軍よりも強かった
  (ビンラディン病死説?

 押収で太子果たせぬ再デビュー
  (旧一万円札の偽物)
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彼は白い鳩を見た!『クナッパーツブッシュ・音楽と政治』 奥波一秀(みすず書房) 

2006-09-23 16:28:21 | 書評
  たたかう指揮者  

 いかめしい題名であるが、私はこれをひとつの推理小説であるかのように読んだ。

 政治を端的にある対立軸を巡る差異の闘争として捉えた場合、様々な局面、様々なレベルが考えられるであろう。
 この書でも多様な対立軸が報告され、その都度、「政治」が実践されるのだが、20世紀を彩るもっとも大きなそれは、例えば、ナチズム、スターリニズム、(あるいはわが軍国主義時代を加えても良いかも知れない)を巡るものではなかろうか。それらをおおざっぱに、「革命と戦争」とくくってもよいかも知れない。

 書の題名になっているハンス・クナッパーツブッシュ(1888~1965)は、ワーグナーを得意としたドイツの指揮者であり、とりわけワーグナーの最後のオペラである(舞台神聖祝祭劇)『パルジファル』をこよなく愛した。
 そして、彼が指揮者として活躍した、1910年代の前半から、65年というのは、まさに革命と戦争の時代だったのである。

       

 とすると、ここでのもっとも大きな政治の局面は、ナチズムとの関わりということになろう。ナチ時代のドイツで、ワグネリアンとくれば、既にしてあるイメージが彷彿とする。
 だが、事態はそれほど単純ではない。 

 冒頭に、「推理小説であるかのように」と述べたが、優れた推理小説が、犯罪が行われ、その犯人を言い当てるというにとどまらないと同様、この書の場合にも、犯罪は行われたのかどうか、その動機は、いかにして行われ(あるいは行われなかった)のか、並み居る探偵たちはそれをどう判断したかを含めて、様々な史料を駆使した推理が進行する。

 また、ここでの政治は、ナチや、対ユダヤといったマクロなレベルにとどまらず、指揮者同士の関係、劇場や演出家との対立、とりわけ、批評家との軋轢といったレベルをも含んだものとして、極めて重層的に展開される。

 本書は、二部構成になっていて、クナッパーツブッシュ(以下、クナと省略。現実に彼はそう呼ばれていた)のミュンヘンのバイエルン州立劇場音楽総監督就任を持って区分されている。
 
   第一部 「巨匠(マエストロ)」への道
   第二部  政治と音楽

 著者は序文で、「政治と音楽の問題事例として本書を手に取られた読者には、第二部から読まれることをおすすめする」と述べているが、それに敢えて抗し、私はこの一部から読まれることを「おすすめする」
 
 なぜなら、この第一部においてこそ、「犯人」と目されかねないクナの経歴が、どのような人間関係の中で、それらにどう対処しながら経緯したのかが詳細に示されているからである。それにより、私たちは、彼の人物像としてのある類型と、そしてそれとは全く矛盾するようだが、彼の単独性のようなものを知ることが出来るからである。

 また、ここを読まないと見逃してしまう面白いエピソードが結構あるのだ。
 例えば、後にブレヒトの『三文オペラ』に曲を付けて名をなすクルト・ヴァイルとクナとの関係、あるいは、演奏会場で、事前に自分に批判的である批評家に「出て行け」という結構長い演説をぶつクナ。

 演奏会で、指揮者が曲を解説するというのは聞いたことがあるが、こんなエキセントリックな演説は前代未聞であろう。
 これまでわたしの聞いた指揮者の演説で(録音だが)、バーンスタインがピアニストのグレン・グールドと協演した際、聴衆に向かって、「これから演奏する曲は、グールド氏の解釈によるものであり、私の解釈ではありません」といったというものがあり、それがもっともドラマティックなものであった。 

 ワーグナーの?あるいはヒトラーの?街・ミュンヘン 


 さてこの書の第二部は、クナがワーグナーの街、ミュンヘンに来るところから始まる。

 この街が、「ワーグナーの街」と呼ばれるのは、ワーグナーがバイロイトに自己の確固とした基盤を持つまで、この地の王、ルードヴィヒ2世の庇護を受けながら活動したからであろう。ミュンヘン郊外にルードヴィヒ2世が建てたノイシュバンシュタイン城には、この若き王がワーグナーのためにしつらえた劇場空間がある。
 
    


 私はそこに立ったことがあるが、この空間で、ワーグナーが演奏をすることはついになかった。こんなことを書きながら、私はルキーノ・ヴィスコンティの映画、『ルードヴィヒ/神々の黄昏』を思い出している。狂気との狭間にあったといわれるこの若き王のワーグナーへのナイーヴな思い入れ・・。

 しかし、ミュンヘンは、「ワーグナーの街」であると同時に「ヒトラーの街」でもあった。いわゆる「ミュンヘン一揆」といわれるクーデター未遂によってヒトラーはデビューするのである。その罪による2年の幽閉の後、彼は新生ドイツのスターとして公認の地位を得る。

 そうしたミュンヘンで、ノンポリ(非政治的)でいられるわけがない。彼の就任からして、既に前任者のブルーノ・ヴァルターを押し出すという力学に依っていたのだ。しかも、そのヴァルターがユダヤ人であるとしたら、実際にはその交代劇は平穏であったとしても、クナ(アーリア民族)による陰謀説がつきまとうのは避けがたいところであった。 

 加えて、音楽は趣味判断の世界である。したがって、ユダヤ人であろうがなかろうが(ヴァルターはユダヤ人であったが、同時にドイツ・ナショナリストであった)、その音楽評価の問題は残る。事実、ヴァルター派と目される人達は、クナの音楽を認めようとはしなかった。かくしてクナは、またしても批評家とのトラブルに巻き込まれ、ついには裁判沙汰にまで至る。

 しかし、クナを待ち受けていたものはそればかりではなかった。国会議事堂炎上事件などを契機に一気に権力に登り詰めたヒトラーに彼は疎まれてしまうのだ。ヒトラーは、クレーメンス・クラウスのような貴族趣味を評価し、いささかいかつい感じの(実際に長身であった)クナを敬遠したようである。

 しかし、この時期、クナは迫害の被害者であったのみではない。小説家トーマス・マンの追い落としにはかなり重要な、というより主導的な役割を果たしている。
 しかし、それもつかの間、ハーグでのクナ自身によるナチを揶揄したような発言が決定的になり、彼はミュンヘンを追われ、その活動の拠点をウィーンに移すのだが、そのウィーンを首都とするオーストリアがドイツに併合されるに及んで、彼の自由に活動できるエリアは全くなくなる。
 
 その後の彼に出来ることは、ベルリンフィルと組んで、ナチのプロパガンダ演奏のツアーに参加するしかなかったようである。
 やがて、戦局は逼迫し、演奏活動すら不可能になり、敗戦を迎える。

 この間、彼が好むと好まざるとに関わらず、当面せざるをえなかった「政治」的軋轢の多重さを整理しておこう。

1)日増しに強くなるユダヤ対ゲルマンの闘争。ユダヤ殲滅へ。
2)トーマスマン、シューペグラーなど解明派との闘い。
3)音楽をそれ自身として評価しえない評論家との闘い。
4)そして、何よりも大きい、ドイツ民族派内部における闘争。とりわけ、クナに一貫して否定的であったヒトラーとの軋轢。

 このうち、1)と4)のユダヤやナチに対するクナの対峙は、著者が集めた史料で見る限り、それぞれアンビバレンツなものを含んでいて、それが、敗戦後のナチ狩りの際、クナのへの評価を複雑にすることとなった。

 
  ブラック OR ホワイト? 

  戦後のクナの活動再開は意外と早く、1945年7月にヨッフムがミュンヘン・フィルを振ったのに続き、8月にはバイエルン州立管弦楽団とともに演奏をしている。
 この両者に共通し、戦後を象徴するのは(というか幾分見え透いているのだが)、その選曲のうちに、ユダヤ人の作曲家、メンデルスゾーンの作品を取り上げていることである(この政治!)。

 ちなみに、周知の彼の曲「真夏の夜の夢」に関し、ナチは、この作曲家とその作品の記憶を抹殺すべく同名の曲を募り、それに応じて実に44曲もが作られたが、そのどれもがメンデルスゾーンを超えることは出来なかったという。

 しかし、クナはそれほどすんなり復帰を果たせたわけではなかった。
 1945年の秋にはさらなる非ナチ化が徹底されるところとなり、クナもまた、そのブラックリストに名を連ねてしまうのだ。

 彼の罪状は、ナチ宣伝省の要請によるベルリンフィルとのプロパガンダのための公演旅行、そして、ユダヤへの差別発言と抑圧行為の疑いであった。
 これらは、随所で著者が実証しているように、まごうことなき事実である。従って、その面だけで見れば彼は明らかに有罪である。

 反面、彼には弁護さるべき面もあった。
 それは彼自身が強調しているように(むろん、強調しすぎなのだが)、ユダヤ人に対する迫害が強まりつつあった時点でも、ユダヤ人との付き合いがあり、ときとして彼らを擁護したこともあるというのだ。

 さらに決定的なのは、彼がナチの党員ではなかったこと、そして既に見たように、ヒトラーに疎まれ、ミュンヘンから追放されたことがあるという事実である。
 彼自身は、それらを例として、自身を「反ナチの闘士」であったかのように弁明しているが、それは言い過ぎというものだろう。

 前回、私が整理したように、ユダヤ問題やナチの統制に対し、彼がアンビバレンツな面を持っていたということは事実で、それらが功を奏して、二度目の復帰を果たすのは一年半後の1947年1月のことであった。
 その復帰のコンサートは、熱烈な聴衆の歓迎によって満たされたというが、著者が冷静に見ているように、音楽家としてのクナの復帰を祝うと同時に、敗戦により鬱積していた民族的エネルギーの噴出という面もあったのだろう。

 その後の彼は、順調に活躍の場を広げ、ついには、若年の頃、ハンス・リヒターの助手として潜り込んだバイロイトの、常連の指揮者にまで登り詰める。そして、彼がその学位論文にまで取り上げた『パルジファル』を、ほとんど毎回演奏するに至るのだ。


       
        1951年のクナの演奏による『パルジファル』のジャケット



 しかし、これでもって彼の闘争が終わったわけではなかった。
 バイロイトにも新しい波が押し寄せ、ワーグナーの作品への新しい解釈や演出、装置のモダン化は避けられぬところであった。
 しかしそれは、「クナのワーグナー」ではなかった。そしてついに、1952年の出演をもってその関係は決裂し、翌53年にはクナは出演を拒否する(替わってクレーメンス・クラウスが指揮)。


 クナは見た!白い鳩を!

 このクラウスの急死が、再びクナをバイロイトへと招くこととなる。その折り、クナの出した条件は、『パルジファル』の終幕に主人公の頭上に白い鳩が舞い降りるシーンを、ワーグナーのト書きに忠実の演じるということであった。しかし、これは全体の演出を壊すものであり、演出者(ヴィーラント)としても譲れぬところであった。
 
 そこで、ヴィーラントは一計を案じ、鳩は降ろすものの、オーケストラピットからは見えるが、客席からは見えない高さにとどめたのであった。
 そんなことは知らないクナは、大いに満足し、客席で観てい鳩など見えなかったという夫人に、「女というやつは!こまごまと何でも気にするくせに、いちばん大事なことはいつも見過ごすわい」といったというのだ。

 私はこのくだりを読んで、滑稽であると同時に、なぜか目頭が熱くなるのを覚えた。このエピソードは、彼が見ていたものと、その他の者たちが見ていたものとの乖離を示して象徴的ではあるまいか。
 むろんこうしたことは、誰にでも起こりうることである。しかし、これがある種のせっぱ詰まった状況の中でおこった場合、それは当人の想像を越えた悲喜劇として現れざるをえない。そしてそれが、戦前戦中を通じてクナが体験してきたところではなかっただろうか。

  彼の音楽への情熱、ワーグナーに対する傾倒、とりわけ『ルジファル』への固執は、それ自身は政治的でも何でもない。しかし、それがひとたび、現実の状況に投げ込まれるやいなや、様々なレベルの「政治」を介してしか、彼の表現は成立しない。そんな中で彼は、意識するとせざるとに関わらず「政治的」であらざるをえなかったのではないか。
 彼が見ていた「白い鳩」を、敢えて隠したり、見ようとしない者たちとの闘い・・。

 『パルジファル』は、「同情によって知を得る清らかな愚者の物語」だという。そしてその終幕は、「救済者に救済を!」という謎めいた合唱によって締めくくられるているという。「救済者」が誰で、その救済者がなぜ、どのように救済さるべきなのだろう。

 クナの学位論文が、『パルジファル』に関わりながら、その関心が主人公のパルジファルではなく、むしろ、「不幸な呪い」を背負った「永遠のユダヤ人」クンドリーにあったらしいということは、興味をひく事実だ。その「浄化と救済」を際だたせるためにも、クナにとっては白い鳩が不可欠だったのであろう。

 要するに、彼が見据えたこの白い鳩こそ、彼が否応なしに置かれた「政治」を越え出ることの象徴であったのかも知れない。しかし、残念ながらその鳩は、彼にしか見えなかったのである。


          
 

 <追記> これは書評というより、この書を読んで触発されたものを勝手に書き綴ったものである。だからこれは、この書を単になぞったに過ぎないといえる。
 第一、私は、ここに述べられている クナッパーツブッシュについて、名前だけは知っていたが、それと意識して聴いたことがないのである。
 加えていえば、私はワーグナーがあまり好きではない。彼のいくぶんパラノイックな音楽(そうでないものもあるが)よりも、どちらかというと、モーツアルトのスキゾフレーニーな奔放さを好む。

 だから、モーツアルト・ワーグナー音楽祭なるものの存在すら信じられないのだ。この書の中でも、指揮者のカール・ベームや評論家のアインシュタイン(かの物理学者の弟)が、「クナはモーツアルトは下手だ」といっているのを読んで、むべなるかなとほくそ笑んだりしているのだ。

 しかし、ここに書かれている 「政治と音楽」という問題には惹かれるものがある。もっと対象を広げるならば、政治と芸術一般、あるいは思想そのものをも包摂する問題となる。
 ナチとの関連でいえば、クナとほぼ同時代を生き、総統から金の指揮棒を貰ったというフルトヴェングラー、そして音楽家ではないが、やはり同じ時代を生きた哲学者ハイデガーを想起せざるをえない。また、場所をかつてのソ連に移せば、やはり同時代を生きた ショスタコーヴィチにも思いを馳せないわけにゆかない。
 
 あるいは、かなり次元が異なるが、アレントが語る 『エルサレムのアイヒマン』や、その映画版としての 『スペシャリスト』をも想起してしまうのだ。
 また、本邦に目をこらせば、戦前のいわゆる 転向問題や、戦後の 思想転換(西田哲学の若手がスターリニズム哲学に走ったりした)をも想起せざるをえない。

 要するに人は、政治的な状況の中で、何ものであり得るのか、あるいはあり得ないのかの問題である。もっと枠を広げれば、必然の中での自由意志といったアポリアとの対面でもあるが、ここまで来ると抽象度の高い議論になってしまう。

 なお、この書で示されているクナの所業は、そうしたマクロな政治状況との関連にとどまらず、クナ自身の実践する「政治」としても読むことが出来る。
 権力が遍在(フーコー)しているとしたら、 彼の表現への強い意志は、それら様々なレベルでの権力との絡みとして、「政治」的たらざるをえない。

 書評ではないと断った上で、なおかつ注文を付けるとすれば、詳細な追跡調査とそれについての「諸探偵」の推理は紹介されているが、それらをさらに総括した 著者自身の推理、あるいは見解があっても良かったのではないかと思う。これは無い物ねだりではない。

 なぜなら、最後に正直に白状するが、ここまで私が延々と(質的な浅薄さはさておき)述べてきたのは、この著者が、実は、 このネット上で知り合った人だからである。
 むろん面識もなく、最近まで本名も知らなかったのだが、ひょんなことで、この著作があることを知り、読むに至った次第である。

 このネット上での著者の書き込みは、常に私にインパクトを与えるものであり、そうであればこそ、上に述べたような著者への今一歩突っ込んだ注文も出てくることになる。いわば、著者の能力を知るが故の注文である。
 しかし、この著作と現在とでは、数年の隔たりがある。その隔たりの間に著者が学んだものが、さらに強烈なインパクトを伴って著されることを待望するのだが、既にその片鱗が小論として発表され始めているようだ。

 なお、この書は、私がこねくり回したような読みではなく、もっとサラッと、20世紀前半のドイツの音楽事情を伝えるものとして読んでも十分楽しい。
 例えば、1937年のザルツブルグ音楽祭に登場するクナをはじめ、ヴァルター、フルトヴェングラー、トスカニーニなどという顔ぶれを想起するだけで、身震いをする音楽ファンがいるに違いない。

         <長々とお疲れ様でした。THE END
 
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「デカンショ節」って何だろう?

2006-09-18 17:57:08 | よしなしごと
 今日は(も?)手抜きです。
 
 仕事の関係で、丹波に長期滞在している知人から、丹波の秋の産物などの便りが届き、それに触発されて、学生時代によく歌った「デカンショ節」がそちらの民謡であることを思い出しました。

 そこで、デカンショ節の由来など既知のもの未知のものなど取り合わせて整理してみました。
 もう今では、飲んでこの歌を放歌高唱するなんてことはないのだろうなぁ。
 
 私の頃は学祭などの打ち上げは、ファイヤーを囲んでこれらを歌い、その回りをでたらめに踊り狂ったりして、そして、翌日はその余勢でデモに出かける・・なんて(遠い目)。

 ===========================

これは丹波栗ではないが、見事な栗の花
 

 松茸、黒豆や丹波栗ですか、良いですね。
 黒豆は煮るのにやや手間がかかりますが、艶のある黒いダイヤのように煮上がったときの達成感は何ともいえません。

 この黒豆、枝豆として食べても、普通の大豆よりこくがあっておいしいですね。幾分こくがありすぎの面がありますから、ビールもですが、もう少しハードなスコッチなどにも合いそうです。

 丹波名物といえば、もうひとつ、「デカンショ節」がありますが、本場のものをお聴きになったでしょうか?
 
  デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 
  あとの半年ねて暮らす ヨーオイヨーオイ デッカンショ 

  丹波篠山山家の猿が アヨイヨイ 
  花のお江戸で芝居する ヨーオイヨーオイ デッカンショ 

  酒は飲め飲め茶釜でわかせ アヨイヨイ
  お神酒あがらぬ神はなし ヨーオイヨーオイ デッカンショ 

  灘のお酒はどなたが造る アヨイヨイ
  おらが自慢の丹波杜氏 ヨーオイヨーオイ デッカンショ

  雪がちらちら丹波の宿に アヨイヨイ
  猪がとびこむ牡丹鍋 ヨーオイヨーオイ デッカンショ

  丹波篠山鳳鳴の塾で アヨイヨイ
  文武きたえし美少年 ヨーオイヨーオイ デッカンショ

 昔はよく、学生などが酒を飲むとこの歌を歌ったものです。放歌高唱というか、がなり立てるような歌い方で、私にも経験があります。
 先輩から、この「デカンショ」の意味は、哲学者のデカルト、カント、ショーペンハウエルを讃えたものだと聞かされ、うぶな私は、しばらくはそれを信じ、その部分は敬意を込めて歌っていました。

 なぜ、学生歌になったかは、最後の歌詞にあるように、旧篠山藩主の青山家が学問を奨励し、篠山に鳳鳴義塾等の私立の中学校を作り、その中の優秀な者は東京に寄宿舎を作り遊学させたという事情が背景にあるようです。
 
 その遊学生たちが、もともと篠山地方にあった民謡にアレンジを加え、望郷の念をを込めて歌うようになり、それに東京や他の地方から来ていた学生も唱和するようになって全国に広まったのだそうです。
 そう聞けば、「丹波篠山山家の猿が 花のお江戸で芝居する」という歌詞も頷けるものがあります。

 面白いのは、本場の丹波篠山ではすっかり廃れてしまっていたものが、学生歌から逆輸入され、今では地区の名物として町おこしに利用されているらしいということですから、人間様のおやりになることは複雑ですなぁ。

<追記>なお、肝心の「デカンショ」の語源については、 この記事にコメントをくれた「游氣さん」にお答えするため、幾分追加で調べたことを書き添えておきました。興味のある方は、下のコメントをクリックしてご覧下さい。
コメント (5)
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南京ハゼとツバメと六の時事川柳 06.9.17

2006-09-17 17:11:32 | 川柳日記


 南京ハゼの枝を縫うようにして巨大なツバメが・・なんて感じでしょう。
 むろんこれはJRバスのボディに描かれたマークに他ならない。

 このツバメ、かつての国鉄時代からのシンボルマークである。
 もとを正せば、1930(昭5)年、東京・神戸間を走った、特急列車「」号に由来する。
 この列車、先行した特急「富士」、「桜」に比べ、東京・大阪間の所要時間を一挙に2時間半も短縮して走ったため、「超」特急と呼ばれた。
 
 要するにそれまでの、10時間50分を、8時間20分に短縮したわけである。この記録は、4年後の丹那トンネル開通でさらに短縮され、8時間になったが、それ以後、1956(昭31)年、東海道線全線電化までの22年間、破られることはなかった。

 こんなすごい列車だから、シンボルマークになるのは当然だった。なお、現ヤクルト球団の愛称「スワローズ」は、前身の国鉄スワローズのものをそのまま引き継いだものである。
(たまたま撮った一枚の写真から、これだけのことを語るのはしんどい。フ~ッ




<今週の川柳もどき> 06.9.17
 
 法王とブッシュが仕組む十字軍
  (イスラム殲滅)

 もう既に首相気取りで指示を出す
  (今の首相は誰だっけ)

 暗闇を抱えたままで縊られる
  (松本被告)

 世は無情笑うトヨタ泣くフォード
  (4万人のリストラ)

 禁煙の後追いかける禁酒法
  (飲酒事故)

 切り刻む秘密が無くて指は無事
  (シュレッダー

 手鏡をとられ今度はで触る
  (教授。前に没収されたので)

 名古屋では不惑が虎をひとひねり
  (山本昌、ノーヒットノーラン)
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ショウコウとホリエモン

2006-09-17 00:16:14 | 社会評論
 


 今から20年近い前だろうか、所用があって京都へ行き、タクシーに乗っていて、とある交差点で信号のために止められた。ふと傍らをみると、マイクロバスの屋上を改造した特設舞台で、白い衣装の若い数人の女性が軽やかに踊っていた。そしてその中央には、ひげ面の男がにこやかに立っていた。
 「あれは何ですか」と聞く私に、「なんや東京の方から来た新興宗教の宣伝で、オウムたらいうもんですわ」と運転手さんが教えてくれた。

 へー、「唱って踊って革命を」という一昔前の民青みたいな教団だなあと思った。
 その教祖の麻原彰晃(いいネーミングだと思う)こと松本智津夫の死刑が確定したという。

 手元に、『別冊太陽』の1992年春号、「輪廻転生」があり、ある高名な宗教学者(故人?)と麻原彰晃の対談が載っている。

 前半は神秘的なコンニャク問答のような話であるが、後半になると教団や麻原個人の現実的な話になる。
 既に、熊本県などの地元民と軋轢があった教団側が、法廷闘争を行っているとき、この宗教学者は、
 「・・・宗教集団としては、最後まで俗世間の法律は無視するという手もあると思うんですよ」
 と、まるで非合法活動を勧めるようなことをいっている。そして、麻原個人のカリスマ性と入信が結びつかないという愚痴に対しては、親鸞や道元を引き合いに出して「宗教運動の必然」を語っている。
 要するに、麻原と親鸞、道元を同列に論じているかのようなのである。

 改めて日付を確認してほしい。
 この1992年をさかのぼる3年前の1989年には、この教団は既に、男性信者一人を殺害し、さらには、坂本弁護士一家を殺害しているのである。
 1990年には、この教団は衆議院選挙に大挙立候補し、その自信に満ちた言動にもかかわらず、全員が泡沫候補として惨敗している。そしてその敗北が契機になって、「唯一の真理の具現者」である自らが合法的に受け入れられなければ、非合法活動によってでも権力をというテロルへの決意をますます固めたといわれている。

 その後の彼らの行為は周知の通りである。
 ここで問題は、この高名な宗教学者(日本の歴史風俗にも詳しい)が、まともな常識人なら誰しも眉唾だと思うようなカルト教団に、なぜあんなにまでしてエールを送り、まるでお先棒を担ぎのような言説に終始したのかである。
 彼ばかりではない。このオウムに何らかの可能性を見ていた言論人は他にも結構いた。

 確かに、異物としてのオウムバッシングには行き過ぎた面もあり、それへの批判はあって然るべきだが、しかし、それと彼らのカルト性を許容することとは一線を画すべきである。
 
 この間、背広とネクタイで入廷するホリエモンを見ていて、麻原への扱いとの同一性を見てしまうのは突飛な連想だろうか?
 ホリエモンはわが息子であり弟だといっていた某党の幹事長、やわらチャン顔で応援演説をぶっていた経済の専門家で今回参議院議員を辞職なさる大臣さんなどは、今のホリエモンをどう思っているのだろうか。
 まあ、既に利用価値の無くなったものには、何の思いのかけらも持ち合わせないというところが本当のところだろう。

 暗闇に彷徨う麻原と、どぶに落ちた者としてつつき回されるホリエモンを見ていて、つい、それをリンクしてしまう今日この頃であった。
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政治の音楽化? 音楽の政治化?

2006-09-15 17:04:27 | よしなしごと
 以下は、友人の日記に私が付けたコメントですが、これをもって今日の日記と致します(いわゆる手抜きですね)。
 前提となっているのは、ショスタコーヴィチの音楽を巡って、政治と音楽、あるいは芸術という問題です。
 
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 絵画のような視覚的なものについては、かつての日本の戦意高揚絵画のように、割合分かりやすいものもありますが、それとても作家は反戦や戦争の悲惨さを念頭に描いたかも知れないとすれば、明確なポスター(それすらも?)を除いては、断定しにくいものがありますね。

 ここでは、表現されたものを巡ってと同時に、内面ー外面といういわば不可能性の領域にも関わることになります。

 ショスタコーヴィチの場合の日記のゆれなどにそれを見ることは出来るのですが、音楽そのものからの感得は困難なように思います。


苦悩する(しすぎ?)ショスタコーヴィチ


  ある党派が好んで使った旋律などの使用などはわかりやすく、これはショスタコの後期のシンフォニーなどにも聴くことが出来ます。しかし、これとてもその使用が即その政治意識への同化とは断定できない面があります。

 ショスタコの当面した問題は、いわゆる「社会主義リアリズム」の問題で、党建設、ソ同盟建設の課題(典型)をまっすぐに表現しろというものでした。それらはいわば、起承転結を持ったひとつの物語(勝利へ!)ではければならなかったのです。
 
 従ってまず、形式としての抽象は拒否されます。いわゆる「雪解け」後でも、抽象絵画を観たフルシチョフが、「こんなものはロバの尻尾で描いたものだ」と評したのは有名な話です。

 ショスタコの場合も、マーラー譲りの独特の感興の表現が批判され、もっとクッキリした分かりやすいものを要請されたのでしょう。はっきりしたことは分かりませんが、5番もその点で批判をされたようです。


自作一番を演奏するマーラー(戯画)

 
 反対に、亡命先から帰国したプロコフィエフなどは、いわゆる新古典派様式による「分かりやすい」曲を作り歓迎されました。(だからといって彼を否定的に評価しようとは思いません。)

 芸術そのものをイデオロギー運動の一翼として強力に位置づけるスターリニズムやナチズムは、芸術家に与える抑制と強要という点では突出していますが、しかし、一般的にいって、芸術そのものが常に何らかの制約のもとにあるのであり、敢えていえばその制約を糧とするものであるとするならば、その意味では、ショスタコは、20世紀の偉大な音楽家であったと思います。

 おまけですが、かねがね**さんがお触れになっていらっしゃるハイデガーの「哲学」と「政治思想」との関連においても「近くて遠い田舎道」のようなものですから、芸術の問題となるとさらに迂回路が・・。

ちなみに今年は、ショスタコーヴィチ生誕100年記念イヤーです(1906~1975)。
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ゆったり空間と六の時事川柳 06.9.10

2006-09-10 18:05:10 | 川柳日記
  昨日は、レトロな重要文化財の赤煉瓦造りを紹介した。
 今日はその正面にある「ウィルあいち」(愛知県女性総合センター)という建物の内部である。各種催し物が行われる。
 私は、「あいち国際女性映画祭」のために二日間通った。


  三階まで吹き抜けの明るい図書室


 そのスペースを三階から


一階にある小展示スペース。個展などにピッタシ。
 
 内部は、ゆったりとしていて気持ちが良い。
ゆったりといえば、昨日紹介した赤煉瓦造りも内部はかなりゆったりしている。

 高度成長期に、機能本意で建てられた建築物の内部は、えてして、せせこまっしく、味気がないようだ。



<今週の川柳もどき> 06.9.10  

 修学旅行がやたらに多い人
  (小泉さん、フィンランドから安倍支持表明)

 無理矢理に見せつけられる出来レース
 次期総理戦後を塗り替えるつもり
  (総裁選)

 自衛隊あさってに向け十二発
  (誤射。こっちへ飛んできた)

 さすが元知事会長の言い逃れ
  (梶原前知事、事態の解明はせずと)

 改めて英米も問うイラク戦
  (大量兵器無く、アルカイダとも関係なく)

 パブリックサーバントとは何だっけ
  (各地で公務員による飲酒人身事故)

 貸した金命で払わせる保険
  (闇金融が借り手に保険を)

 遠回りして松茸がやって来る
  (北朝鮮産、中国経由)
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四十数年前に裁判があった。

2006-09-10 00:04:59 | よしなしごと
 

 地下鉄を名古屋市役所で降りて、今は空堀になっている名古屋城の外堀などを眺めながら東へ行くと、昔の名古屋地方裁判所がある。
 堂々たる赤煉瓦造りの建物であるが、現在は裁判所としては使われておらず、「名古屋市市政資料館」となっていて、建物自体は国の重要文化財に指定されている。

 ここを目指して行ったわけではない。先に日記に掲載した、「あいち国際女性映画祭」が、この建物に向かい合った、「ウィルあいち」で開催されたからである。



  しかし、この建物には、かつてこれが裁判所であった折りの想い出がある。
 それは、ここで行われた裁判を2、3回傍聴に訪れたからである。その裁判というのは、いわゆる60年安保の際、パクられた学友の裁判であった。
 闘争の終盤の6月、一挙に68人が逮捕された。私も機動隊の幌付きトラックにまで引きずられたが、大混乱の中、かろうじて逃げることが出来た。

 68名のうち、起訴されたのは首謀者とみなされた2名のみだった。
 いわゆる「裁判闘争」などと意気込んではみたが、道交法や公務執行妨害などのつまらない罪状で、闘争の正当性を主張する学生側とは全く話そのものが噛み合わず、なんだかつまらない裁判だった。
 結局は罰金5千円(現在の7、8万か)だったように記憶する。

 しかし、これ程の科料のために、延べ何人もの人間が、延べ何日かかかって、儀式めいたことを延々としなければならないのかが不思議なのだが、そこに法の執行者としての国家の威信とやらがあるのだろう。



 これも前の日記に書いたが、60年安保と同じ年、三井三池の大争議があった。その記録映画、「三池---終わらない炭鉱(やま)の物語」を、この旧裁判所の前にある「ウィルあいち」で観るというのも歴史の織りなす綾であろうか。
 
 三池闘争の発端は1,700名かの指名解雇だったのだが、それに反対する組合を切り崩すのに、会社側は220億円(現在に換金すれば3,000億ぐらいか)を用いたという。
 そんな大金があるなら、1,700人ぐらい解雇しなくても、あるいは辞めさせるにしても十分な厚遇をすればと思うにだが、そこは、会社の目的が、直接の首切りというより、組合そのものに引導を渡すことであってみれば、十分頷けるのである。

 5,000円の罰金を取るために仰々しい裁判をやってのける権力というものと同様、まさに「総資本」の意志の誇示であったわけである。

 その意味で、あの裁判と、その建物の前で観た記録映画に描かれた事態とは、四十数年を経由して私のうちでまたしても結びついたのであった。
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