六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

あなたな何を? 10年前の世相から・・・。

2013-10-29 02:20:17 | 想い出を掘り起こす
 以下はちょうど10年前に私があるミニコミ紙に書いた時事川柳入りの落語のようなものです。あんまり今と世相は変わっていませんね。

 後半に出てくる自民党の総裁選挙ですが、「ライオンと亀」というのは小泉氏と亀井静香氏のことです。「橋下さんち」とあるのは当時の最大派閥であった橋本派のことです。

 またこの年、セリーグは18年ぶりに阪神が優勝し、2位が中日でした。とはいえ、その差は14.5ゲーム。9月途中で中日の山田監督は休養となり、さらにシーズン後、落合博満氏の監督就任が決まりました。

 なお、前半に出てくる「炎上」というのは昨今のブログの炎上ではなく、火災という意味です。

 ところで、その頃、あなたは何をしていましたか?

           

熊 ちわっ、と。おや、新聞とにらめっこかい。
六 いや、なんだか血なまぐさい事件が多いような気がしてさ。
      今日もまた血がしたたっている紙面
熊 そういえば、最近のもの盗りも荒っぽいのが多いな。
      盗る前に殺してしまえホトトギス
六 なんだい、そのホトトギスってのは。
熊 信長より気が短いってことさ。

六 爆発だとか炎上なんてのも多いね。とくに名古屋近辺でさ。
熊 リサイクル型のゴミ燃料発電所が燃えちゃったな。
      人命とカネだけ燃やし電気こず
六 かえって環境を汚染したりして。
      環境に優しく環境破壊する
熊 結論として明らかになったのはこうさ。
      また一つ公共事業のおおまかさ

六 そういえば「北」の国を巡る六カ国協議もそう簡単にいきそうにないね。
      丸くなるにはまだ角が六つあり
熊 よくわからんのは、こんな状況だよ。
      核非難する国もまた核をもつ
六 強硬な人たちがいて、安易な取引はするななんていってるね。
熊 でも、あんまり突っ張るのもな。
      取り引きでいいその結果平和なら
  まあ、話し合いが継続するだけよかったということか。

六 ところで、この号がでる頃は自民党の総裁選挙が終わってるね。
熊 ライオンと亀とドングリの背比べかい。
六 橋本さんちは結局統一候補出せなかったようだね。
      長老はドングリどもを束ねかね
熊 タマもいないしな。
      人材がいそうでいない大所帯
六 いや、志の問題もあると思うな。
      数とカネ余って理念ちと不足
熊 景気の方はどうかな。失業率がやや改善されたといってるが。
六 これ以上もうリストラ出来なくなったんじゃあないかなあ。
      ぜい肉がなくてリストラ底をつく

熊 ところでいよいよ決まったね、阪神の優勝(18年ぶり)。
      十八年前は私も若かった
六 久しぶりだもんな。
      濁点が勝者敗者の別れ道
熊 なんだいそりゃあ。
六 トラドラさ。

熊 さてっと、深まりゆく秋を楽しまなくっちゃあ。
六 そうだね。
      盃を今宵交わさんメールする
  あれっ、どうしたの、自分の鼻に指当てたりして。かゆいのかい。
熊 メールだとか何だとか面倒なこといわなくっても、ここにいるだろう。
  ほら、立派な飲み友達がさ。
六 どこが立派なんだい。
熊 飲みっぷりと勘定の時の逃げ足。
六 ・・・・・・・。



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死が日常だった時代から四分の三世紀を生き延びて 

2013-10-26 02:30:21 | 想い出を掘り起こす
 ついに四分の三世紀、つまり75年を生きてしまった。
 もちろん、この国の平均寿命からしたら珍しくもなんともない。
 
 私がものごころついた頃、この国では多くの人たちが死んだ。
 戦地では荒唐無稽ともいえる作戦のなか、無数の兵士たちが戦死した(その中には私の実父もいる)。また、私たちの一つ上の世代は、「神風」というオカルト風の名を冠した「特攻隊」として無謀な死を強要され、その犠牲者のみで6千人にも及ぶ。

 沖縄の地上戦で住民をも巻き込んだ大きな犠牲が出たのもこの頃だ。さらに本土でも、激しさを増す空爆の中で一般市民の多数がその骸を晒していた。ヒロシマやナガサキで悪魔の閃光が万余の死をもたらしたのも、むろんこの頃である。
 
 そればかりではない。私たち幼年期にあるものも、死して報国の鬼となれと教育された。通い始めた国民学校も戦時教育一辺倒で、さもなくば警戒警報や空襲警報で逃げ惑う日々であった。
 
 考えてみれば、私がものごころついた時代というのは、歴史上最も多くの日本人が死んだ時代であり、かつまた、日本人が最も多くの近隣諸国の人びとを殺した時代であった。

              
                        

 私はそうした、いわば死が日常化していた時代にこの世界へ参入したのであった。多くの出征兵士たちが歓呼の声に送られて戦場へ向かう一方、すれ違う様に「英霊」と呼ばれる戦死者たちが白い四角い箱に収められて帰ってきた。それに涙することすらはばかられる時代だった。
 空襲により大量に死者を出した都市では、その死体は空き地に集められて焼却された。

 それよりおよそ10年余ののち、長じた私は、僅かな期間ではあったが、政治的な闘争の世界へ没入したことがあった。それを導いたのはいまにして思うと生硬な理論やイデオロギーであったが、その根底には、幼少時に経験したような死の時代を再び招来してはならないという決意があった。
 しかし、悲惨へのアンチ・テーゼがまた別の悲惨を生むという事態の中で、私は無様に立ち尽くしていた。

 それ以後の私は、ここに書くのも忌まわしく、思い出せば自己嫌悪の嵐に襲われるような日々を過ごしてきた。無為徒食、怠惰な日常の積み重ね。
 
 確たる道標もなく、いわば思いつき同様にさまざまなことをしてきた。「紆余曲折」を文字通り生きてきたともいえる。
 いや、過去形で語ってはなるまい。今もなおそうなのだから。

 「四十にして惑わず 五十にして天命を知る」は孔子が自分の一生を語った言葉であるが、私にはまったく当てはまらなかった。
 そして孔子はいう。
 「七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず」と。

 これも私には相当しないであろう。ここまで来た以上は、「心の欲するところ」に従いたいとは思うが、「矩を踰えず」(=人の道を越えない)とはゆくまい。
 私の「心の欲するところ」は、おそらく、「人の道」などには収まらないだろうという予感があるからだ。
 したがって、安らかな悟りの境地などというのは無縁だとはじめから諦めている。

 そんな私だが、孔子を越えた点がひとつだけある。
 孔子が74歳でその生涯を終えたのに対し、私は75際に達したということだ。

 これから先の抱負などはない。
 それを仰々しく語っても、守られるはずはないからだ。
 ただ、死が日常だった日々のことは忘れないでいたい。
 あ、それから、18回目の初恋でもしようかな。


     


写真の説明です。
 戦前の写真はここに載せた三枚しかありません。
 敗戦後も5年間ほどの間、写真は一切ありません。つまり、疎開している間の数年間は写真などとは縁がなかったのです。田舎ではそんなふうだったのです。
 
■最初のセーラー服姿のものは、親戚をたらい回しにされていた2歳の頃ですから、養子縁組のお見合い用に撮られたものだと思います。
 生後一週間で実母が亡くなり(その意味では私は鬼子です)、貰い手が見つかるまであちこちにいたようですが、もちろん私の記憶にはありません。
 この時点では実父は生存していましたが、まもなく戦死しました。

■下の二枚は、国民学校一年生への入学時、大垣の親戚中でいちばん裕福なうちの門前で、たぶんそのうちの好意で写真屋が撮ったものです。

 私の「キヲツケ」と敬礼の姿勢に軍事色を見て取れます。
 足はかかとを付けて60度に開き、背筋を伸ばして左手はズボンの縫い目に沿ってまっすぐ下へ、そして、右手は指を反らせるようにしてこめかみに当てる。当時この姿勢は、少国民にまで徹底していました。その意味ではナチスの「ハイル・ヒトラー」の敬礼と同様です。
 
 ちなみにこの「キヲツケ」については、ナガサキの被爆後、すでに命をなくした弟を背負ってやってきた「焼き場に立つ少年」をかつて以下のブログで紹介したのですが、その折のこの少年がまさに私も教えられた「キヲツケ」の姿勢を、背中の重荷にも耐えながら懸命に維持しているのを見て、不覚にも涙をこらえることができませんでした。
  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080901

 私の写真に戻ります。肩にかけているのは小型の白いズックのリュックサックで、ランドセルではありません。自慢じゃないですが、私はランドセルというものを背負ったことはありません。ついでながら、幼稚園というところへも行ったことはありません。

■隣は4年ほど前に亡くなった義母ですが、黒いモンペ姿です。この黒い色というのが、せめてもの儀式用だったのだと思います。六の胸の名札にはもちろん名前が書いたありましたが、その裏には血液型が書いてあったと思います。どこで空襲にあって負傷をしてもという備えだったのでしょうが、集中的な都市部での空爆でどれほど役に立ったかは定かではありません。

 なお、義父は中国大陸の東北地方、ハルビン郊外のソ満国境付近へ兵役でとられていました。
 1945年、父36歳、母30歳、六はまさに6歳の春でした。



 
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【ある奇跡】ツマグロヒョウモンとの戯れ

2013-10-23 04:56:26 | よしなしごと
        

 所用の帰りに、とある家の敷地にある黄色っぽい花の上で、その翅を閉じたり開いたりしている蝶を見かけた。
 世界中の熱帯や亜熱帯に生息する蝶で、さほど珍しくはないのだが、近年は個体数が減っているのか、そんなに頻繁に見かけることはない。
 写真に収めようと、ケータイを取り出し、身構えた途端、身を翻し、かなり遠くまで飛び去ってしまった。ろくすっぽ望遠もついていないケータイでは、シャッターを押してもあの距離では点にも写りはしないであろう。
 
 
 
 諦めてケータイを仕舞い、その場を立ち去りかけた時である。
 その蝶が戻ってきたのだ。
 そして私の顔の前を、何かを確認するかのようにヒラヒラ舞い始めた。どうせまた、すぐに飛び去るのだろうと思っていたら、なんと、私の目の前の先ほどの黄色い花に再び止まったのだ。
 
 

 その距離わずか数十センチ、慌ててまたケータイを取り出し、この距離なら接写だとそれに設定して撮り始めた。次第に大胆になり、30センチ、20センチ、そして最後には10センチ以内にケータイを近づけても一向に逃げる気配はない。

    
 
 この流れは一体なんなのだ。
 一度は逃れたものの、もう一度よく見たら、この男なら人畜無害だろうと戻ってきて、さまざまなポーズをとってくれたとしか思えないのだ。
 あるいは、キリスト教の聖人アッシジのフランチェスコのように、鳥獣や虫の類、草木などの自然そのものが私に心を開いたのだろうか。

       
 
 もちろん捕らえようとすれば容易に手にできる距離だ。
 しかし、この蝶の友情に背くようなことがあってはならない。
 とまっているとはいえ、しょっちゅうその翅を閉じたり開いたりしているので、撮すタイミングが難しい。
 それでも、何枚か、至近距離のものを撮ることができた。

    
 ありがとう、だけど人に捕まったりするなよといって別れた。
 蝶や花というと女性を連想しやすい。
 ましてや、あれほど私に馴染んでくれたのだから女性に違いないと思って帰宅してネットで調べたられっきとした男の子であった。
 でもいいんだ、君の美しさはそれでもっていささかも減じることはない。

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天野祐吉さんの訃報に驚くふたつの理由

2013-10-21 14:24:55 | ひとを弔う
           

 21日朝刊での天野祐吉さんの訃報には驚いた。
 驚いた理由はふたつある。

 ひとつはつい前日、20日付の「朝日」の読書欄でその文章を読んだばかりだったからである。
 従前より連載の、「CM天気図」については毎回欠かさずというほどではないにしろ、目に付けば必ず読んでいた。その論調は、大所高所はともかく、昨今のCMのウオッチングを通じ、その周辺との関連の中での出来事に触れ、それらの着地点などをサラリとまとめるという小気味の良い読後感を残すものであった。

 先に触れた「朝日」の読書欄では、「■1964年に売れた本」と題し、その年のベストセラーを表示しながら、同年の東京オリンピックによる古い東京の変貌や、女子バレー監督の大松博文氏の「おれについてこい!」や、よき時代の経営者像などに触れたあと、純愛書簡集の「愛と死をみつめて」で書かれている日本語の質に言及し、「いま、こういう日本語をかける若者が何人いるだろう。世の中が変わるということは、実は“言葉”が変わるということであるんだろう。」という含蓄のある文章で結んでいる。

 ちなみに、この文章全体のタイトルは、「“日本”遠のき“ニッポン”へ」であり、高度成長期の中で、ある種の“日本”が失われ、“ニッポン”へとのぼせ上がって行く過程を言い当てていて絶妙というべきだと思った。

 先に驚いた理由がふたつあるといったが、もうひとつは極めて私的なものである。
 天野さんの死因は高熱を発しての肺炎によるものだとのことだが、奇しくも、氏が入院された先月の15日、私も高熱を発して入院したのであった。
 さいわい、私の場合は、気管支炎に留まり、一週間の入院とその後の通院を経て全快にいたったが、氏はそのまま還らぬ人となられた。

 こうした偶然のご縁も含めて、そのご冥福を祈りたい。      合掌
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長浜(滋賀県)を散策しながら、街のにぎわいを考える

2013-10-21 02:30:23 | 写真とおしゃべり
 岐阜を出る頃は小雨だったが、東海道線で米原まで行き、そこから北陸線に乗り換える頃には雨は上がり、長浜に着いたときは曇ってはいたが雨の心配はなくなっていた。一昨日のことである。
 地域の人たちのグループで、長浜を散策し、写真でも撮ってこようかという催しへの参加である。ここんとこ追い込みにかかっていた同人誌関係の仕事を前日の夜までにやっとし終えて、ちょっとホッとした思いでの参加である。

 

 長浜へは通算して4度ほど来ているが、一番最近来たのは昨年のことで、しかも10月のちょうど今頃のことであった。
 ただしその折は、この長浜が目的ではなく、イヌワシを見たいという沖縄から来た女性を伊吹山へ案内したのだが、生憎の悪天候でその目的が果たせず、その代替地としてこの長浜にやってきたのだった。その経緯は拙ブログに書いた。
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20121020

 

 その折はウィークデイのしかも雨降りとあって人の気配は少なかったが、今回は土曜日の、しかも天候は回復過程とあって、かなりの人出で賑わっていた。しかも、その賑は街の一角にとどまらず、面としての商店街全般に及んでいた。

    

 この街はその点で結構面白い。決定的な観光スポットがあるわけではないが、ちょっとした契機のものを巧く活かしている。
 街の内容や佇まいからしてそうだ。本当に古くからあるものが保存されてあるかと思うと、それに似せた、いわば、擬古的なものがかなりある。そうかと思うと、とてもモダーンな店もある。

 

 トータルしてみると、いくぶんキッチュな感じもあるのだが、しかしそれらは場当たり的で薄っぺらなものではない。そうした混在にもかかわらず、商店街のアグレッシヴともいうべき「やる気」がビュンビュン伝わってくるのだ。
 結果として、その内実は分からないが、いわゆるシャッター通り化を免れている。

    

 ようするに商店街が生きているのだが、そのためには街ぐるみの努力が不可欠だろうと思う。加えて、各店舗の努力がよく見て取れる。先に、擬古的といったが、そうした点を巧く捉え、応用した各店舗のファサード、もっとも目につくフロント部分の商品展示など、さまざまな工夫が見てとれる。
 ある程度の賑いを保つために、町の人々が水面下で懸命に努力しているさまを思い、それにはもちろん敬意をあらわす以外ない。

 

 シャッター通り化に悩む各地の商店街や地域は、ここをじっくり視察などして研究してはどうかと思うが、視察というと議員様や商店街組合のエライさんたちがチラチラっと街を眺め、あとは観光気分の宴会でおしまというのでは話にならない。

 

 反面、大型店の全面支配のもと、専門店や小売業者が、衰退の一途をたどる街にもそれなりの必然性がある。1973年(昭和48年)10月に定められた「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律(略称、大店法)」によって、当初は、地域小売業者を守るために大規模小売店舗の商業活動の調整を行なう仕組みを定め、地域との協議などを義務付けていたものが、なし崩し的に改正され、ついには2000年(平成12年)6月に廃止されてしまったことが大きい。新自由主義的な規制緩和のなせるところである。

 
 
 つい堅い話になってしまった。
 ついでながら、この長浜、年間を通じてさまざまなイベントを企画し、相当の人びとを集めているようだ。私たちが訪れた一週間前(10月12日)には、この街が呉服商が盛んなことから始まった「長浜きもの園遊会」が催され、全国から1,000名を越える着物姿の女性が集まり街の華やぎは最高潮だったという。
 一週間遅れたことを悔やんだが、これがホントの後の祭りだ。
 
 

 

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星ヶ丘(名古屋)界隈と『奇跡のリンゴ』

2013-10-18 17:44:57 | よしなしごと
 久しぶりに星が丘へ行った。とはいえここへはしばしば行っている。
 お目当ては9階にある三越映画劇場である。
 ここは今池にあるキノシタ・ホールと並んで、良質な映画の二番館として貴重な場所である。
 公開時に、心ならずも見逃したものをしばしばここで観る。

 しかしながら、場所は名古屋の東部に位置する街、岐阜からわざわざは出かけにくい。この日は、たまたま名古屋での集まりがあり、その流れを利用して足を伸ばしたわけである。

      

 ところが、その前の集まりが終わった時間と、映画の始まる時間とが空いてしまったので、ほんの少しだが周辺を歩いてみた。
 今でこそすっかり山の手の風情を持つ街だが、私が初めて名古屋へ来た半世紀以上前には、市電はもっと手前の東山公園までしか来ておらず、そこから先、つまりこの星が丘界隈は未舗装で、雨が降ると赤土がぬかるみ、低い灌木の山々の間に村落が点在すような場所だった。

 
 
 その頃に、というかしばらくして市電が星が丘まで開通した頃に、この街を訪れたことがあるのだが、それがどんな用件だったのか今となってはとんと思い出せない。とにかく若い頃はあちこちふらふらしていた。今のように、携帯やメールがあるわけではないので、なにか用件があり、人と会うとなるとそこを尋ねるしかなかったのだ。

 

 そんなことを思い出しながら散策しているうちに、映画の時間が迫ってきた。
 映画は『奇跡のリンゴと』という、無農薬無肥料の木村式メソッドでリンゴを栽培しようといういわば苦労話で、それらは最後に必ず成功するという意味で予定調和的といえばそれまでだが、しかし、そうした予備知識にもかかわらず意外と面白かった。

 そのひとつは、お岩木山を中心とした弘前地方の雄大な自然が満喫できるようなカメラワークが随所に見られたことである。
 ストーリー展開にしてもそれほど安易な成功譚ではない。まずはその年月の長さが予想外だった。この栽培法がやっと実を結ぶのに何と11年を要しているのだが、その間、電気も止められるような赤貧を洗うごとき生活や、周辺の人間関係のこじれや変化など、その推移が淡々と描かれてゆくだけにその歳月の重さが余計偲ばれる。

 キャストもいい。阿部サダオが朴訥でしかもひたむきなな主人公を好演していたし、その妻を演じた菅野美穂も、これまでの比較的きらびやかな役どころとは違って、汚れ役とまではいわないが、地味で、それでいて芯の強い女性を巧く演じていた(映画が終わった後、私の後ろにいた人が、クレジットを観て、「え、あれって菅野美穂だったの」と驚いていた)。

 脇ではやはり山崎努だろう。こうした親父の役はまさにはまり役という他はない。他には、三人の女の子たちがいい。暗く、苦しい場面もあるのだが、こうした子どもたちの佇まいは、観ているこちらを和ませてくれる。

  

             

 さて長くなってしまったが、この映画を観た動機を語らねばなるまい。
 ネットで知り合ったMJさんという方とこの春、一夕を岐阜で過ごしたことがあった。その方が後日、送ってくれたのが「奇跡のリンゴ」ならぬ「奇跡の酒」であった。やや甘いかなとは思ったが、芳醇でとても美味しいお酒であった。
 そのお酒がなぜ「奇跡」なのかというと、その酒米が、まさに、「奇跡のリンゴ」を生み出した木村式無農薬無肥料の方法によって栽培されたものだったからである。

 そうしたことで、MJさんから伺った話からも、私自身が調べたことからも、この「奇跡のリンゴ」についての予備知識は持っていた。
 この映画の公開は6月だったのだが、いろいろな都合で見過ごし、気づいたら上映期間が終了してしまっていた。
 それを冒頭で書いた三越の二番館で改めて観たという次第なのだ。

 MJさん、改めていろいろありがとうございました。


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土下座禁止(させるな・するな)法案の制定に向けて

2013-10-16 01:46:49 | 社会評論
 変なものが流行るもので、土下座を見る機会が多くなったようです。
 企業の失態を詫びる姿勢はニュースなどで見られますが、最近はTVドラマや映画にまで広く普及したようです。
 いろいろな感想があるでしょうが、私にとっては不快感を伴う現象です。
 よく時代劇などで、大名行列の際、庶民が土下座をしているシーンがありますが、あれも事実とは違うようなのです。道端に座ったりして低い姿勢で迎えたのは事実のようですが、額を地につけるようなことはなく、行列を見ることは可能だったといいます。

 こうした、封建時代にもあまりなかったような土下座が世にはびこることを憂い、以下それに対する法案を準備してみました。

         


土下座禁止(させるな・するな)法案

《前文》本案は、土下座という行為をさせること、ならびにすることが、第三者から見て醜悪であるとともに、それ自身何らのメリットをもたないのみか、本来の責任の所在やその解決のためになされるべきことを隠蔽し、それらへの擬似的解決を与えるというデメリットのみを持つ行為であるとして、その強要、ならびにそれへの追随を禁止することを主旨とする。

第一条 なんびとたりとも、他者に土下座を強要することは許されない。
    第一項 単に自己の溜飲を下げるための行為はこれをよしとしない。
    第二項 他者の尊厳を傷つけるための行為はこれを慎むべきである。
    第三項 第一項、第二項に鑑み、他者の土下座を撮影しネット上などに公開することは許さるべきではない。

第二条 なんびとたりとも、土下座をし、もって当該事案の解決に供することを禁じる。
    第一項 土下座をもって、当該事案の具体的解決に代行させることは許されない。
    第二項 土下座による代行を排し、当該事案の解決に誠心誠意取り組むべきである。

第三条 重要な事案が存続しているにもかかわらず、それらを土下座をさせたり、あるいは土下座に応じることによってその事態が解消したかのように装うことは許しがたく、その事態の重要性に鑑み、以下の刑罰を処するものとする。
  刑罰1 100万円以上の罰金、または一年以上の禁錮
  刑罰2 公衆の面前での土下座3分間

《付則》本案は、重要な責任を回避しようとする連中(例えば東電や原子力ムラなど)が土下座で済まそうとしたり、あるいは被害者側が、土下座でもってなんらかの解決が得られたかのように許容してしまうことを防止するためのものである。
 本案の主旨は、土下座というパフォーマンスがどれほど周到な状況で行われようとも、それらが当該事案の解決とは無関係であり、混同されてはならないということにあるが、同時に、土下座という行為は、させる側にとっても、する側にとっても、醜悪以外のなにものでもないことを改めて確認することにある。




以下は広告です。
 土下座を必要とするひとたちのための「土下座講座」を開講しました。
 以下、必要に応じてお申込みください。

 一般コース
  土下座の基本をその準備段階の柔軟体操も含めて分かりやすく指導します。
 上級コース
  土下座によってすべての懸案が解決したかのように思わせる高度なテクニック、ならびにパフォーマンスを指導いたします。

 受講日、受講料につきましてはお問い合わせに応じてご連絡いたします。
 なお、上記の他に、「スペシャルコース」として特別講師に半沢直樹氏をお招きしたものもあります。


 
 
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オディロン・ルドン展を観る@岐阜県美術館

2013-10-14 17:26:23 | アート
 オディロン・ルドン(1840-1916)の作品を、岐阜県美術館がかなり持っているのは知っていたが、これほどまでとは知らなかった。
 展示作品150点ほどのうち、実に4分の3ほどが岐阜県美のもので占められ、それにルドンの故郷、ボルドーから来たものを加えるとほとんど作品が網羅されてしまうからである(もちろん、その他のところから来たものもあった)。

                                     「アポロンの戦車」岐阜県美術館所蔵

 作品の質も相当なものである。
 フランス国家が買い上げたという「目を閉じて」という作品は現在オルセーに展示されているが、その別テイクのものは岐阜にあるし、「オフィーリア」、「アポロンの戦車」などの別テイクも岐阜にある。とりわけ「アポロン」については、ボルドーにあるものと並んで展示してあったが、アポロンを人間神の形象で表示したボルドーのものより、文字通り燃える炎で表現した岐阜のものの方がいいと思った。

 展示のプロローグともいうべき、ルドンに影響を与えたクラボーの植物学図鑑や、ロドルフ・ブレスダンの作品を見た時には、これはもう、シニアグラスの世界ではなく天眼鏡の世界だと思った。視力2.0のひとでもかなり目を凝らして観なければならない細密な絵なのだ。
 ルドン本人のものになってからは多少ましになり、だんだん構図も大胆になってくるのだが、黒チョークや木炭で書かれたそれらはただただ黒い。「黒の画家」といわれた所以であろう。

 ただし、内容がおもしろくないわけではない。
 1800年代の後半といえば、同じフランスでは印象派が花開き全盛期を迎える頃である。その同じ時代に、ルドンはまったく違う絵画を求め続けたともいえる。
 その絵画は、印象派風のそれまでの写実からの分離とはまた違った、心象そのものにおける写実からの分離ともいえる。一般には象徴主義の画家といわれているようだが、意識下の形象に似た画風は20世紀のシュールリアリズムに通じるのではないだろうか。
 その晩年、マルセル・デュシャンなどと同一の美術展に作品を並べたというのも納得できる。

              
               「オフェーリア」岐阜県美術館所蔵

 普通、美術展というのは、後半になるといい加減疲れてきて、その観方も粗雑になるものである。しかし、この場合はそれに当てはまらない。
 それは、その後半に至って、それまで抑制されてきた色彩の世界が一挙に花開くからである。
 この優しくて深みのある色使いはなんなのだ。なぜこれをもっと早く描かなかったのか、などの思いが去来するが、それもまた彼にとっては必然だったのだろう。
 冒頭部分で述べたような作品、オフェーリアやアポロンやオイディプスが、そして静物が並ぶ。
 別にフィナーレを華やかにという演出なのではなく、彼自身の画業がそうした経路を辿ったのだ。

 美術館を出ると、しょっちゅう来ていて見慣れた風景なのに、なにか場違いの場所に放り出されたような気がした。
 そして、樹々の間から見える夕焼けの赤さに、ルドンの燃えるアポロンを思い出していた。

   10月27日(日)まで、岐阜県美術館で
 

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稲刈りPart2 稲架(はざ)掛け式のもの

2013-10-12 15:41:16 | よしなしごと
 二階の窓を開けていろいろなことをしていたら、なにやらエンジン音のようなものが聞こえる。覗いてみたら、予想通り、バス通りを挟んだ斜め前の田圃で稲刈りが始まっている。

 
                稲刈りの様子と田圃に置かれた稲束

 ここの方式は、例年、先般紹介(10月8日付け拙日記)した稲藁がバラバラになってしまうものと違い、ちゃんと藁を残して刈り取り、それを稲架(はざ)掛けにして天日干しにするものだ。

                                     向こうに小さく見える人と二人の作業

 棚田などで活躍しそうな小型の刈り取り機がフル稼働だ。
 顔は撮しませんからと許可をとって撮影した。
 道端には、稲架掛け用のパイプなどが置かれていた。
 稲架掛けが終わったら、また撮そうと思う。


             
              オマケ 隣の田圃にあったオブジェ風のもの


【追伸】夕方、もう一度見に行ったらスッカリ稲架掛けが終わって、辺り一面、稲の青臭いような匂いが漂っていた。

 
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華麗ならざる加齢についてのレポート

2013-10-10 14:35:40 | よしなしごと
 写真は、わたしの散歩道から

 急に老いるのを「老いるショック」というのだそうだ。
 私にはそれほどの経験はないが、つい最近、急性気管支炎で入院を余儀なくさせられて以来、それ以前とさして状況は変わりないにもかかわらず、何かと自己規制をすることが多くなった。
 何かに誘われたり、あるいはしたいことがあっても、それはこの際やめておいたほうがと断念することが多い。交通手段などにつてもかなり慎重に選ぶようになった。

         

 こうしたある出来事を結節点にしながら、段階的に老いは進んでゆくのだろうと思う。
 ここしばらくの私の変化についてまとめてみた。

 60歳代まで私が歩くスピードは決して遅い方ではなかった。私の前をゆっくり歩いている老人がいると、うっとおしいと思ったりすることはなかったが、やはりおとなしくその後をついて行くのではなく、隙を見て追い越したりした。その都度、自分の若さに優越感をもったりもした。
 鉄道や地下鉄の構内では、エレベーターはおろか、エスカレータ―もほとんど使わず、自分の足で上り下りを行っていた。

         

 ところが今では、歩くスピードは決して早くはない。私の脇をスイスイと人びとが追い越してゆく。
 意地ででも使わなかったエレベーターやエスカレータ―をごく自然に使うようになった。つい最近、ある駅の階段を登ったのだが、途中の踊り場で一息つく有り様であった。
 これは足腰の弱体化であるが、いつから階段を忌避するようになったかははっきり記憶に無い。たぶん、古希を過ぎてからの自己規制によるものだろう。

         

 ついで読書に関してである。
 かつては、新書ぐらいだと斜め読みをしても大意を掴むことはできた。
 しかし、今は、ちょっと骨のある本だと指でなぞるように読み進んでも意味がつかみとれないこともある。
 最近、ある本を読み始め、最初の何ページかで大した本ではないなと見極めを付けて、それでも一応斜め読みをしたのだが、何が書いてあるのかさっぱり分からなかった。ただ、それがつまらない本であったことは間違いないと思う。
 概して、書を読むスピードはかなり落ちた。
 脳細胞が老化し、身につけていたはずのリテラシーが怪しくなってきたということだろう。

         

 食い物だが、量は減ったが、美味いものへの執着はそれなりにある。まあ、食い意地は治らないということだ。
 酒も同様、旨い酒を味わって飲みたいものだ。

         

 異性への関心だが、相手が老若にかかわらず、同席すれば気持ちが華やぐ。
 街中などで出会う若い女性の躍動する肢体は眩しくも美しい。
 視姦ぎりぎりのところで拝ませてもらっている。
 「肉食系老人」などというカテゴリーはあるのだろうか。

         

 ようするに結論をいうならば、心身ともにその能力は著しく低下しているにもかかわらず、諸々の欲望のみは捨てきれていないという、いってみれば歳相応に枯れることすらできないいちばんたちの悪い齢の重ね方といえるだろう。
 やがて、4分の3世紀を生きることになる。





コメント (4)
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