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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ヒトラーと措置入院 相模原事件についてのある考察

2016-07-29 16:14:01 | 社会評論
          

「ヒトラーの思想が降りてきた」
 被疑者は、自分が犯行に及ぶに至った思想的転換をこのように述べています。
 これはとても示唆的なのです。
 ようするに彼は、これによってひとつの「世界了解」を成し遂げ、行動の指針を得たわけです。

 では当のヒトラーはどうでしょうか。
 彼もはじめから「ヒトラー」であったわけではありません。
 当初は、貧富の差やさまざまな社会的矛盾に行き当たり、それについていろいろ悩む「普通の」青年でした。
 その彼に、「ヒトラー」が降りてくるのは意外に遅く、30歳の頃です。その折のことを彼はこう語っています。
 
 「この転換のために私には、最大の内面的精神的格闘が始まった。そして数か月の理性と感情の格闘の後に、ようやく勝利は理性の側に傾き始めた。二年後、理性が感情を追い払い、それ以後感情は理性のもっとも忠実な番兵となり、忠告者となった」(『わが闘争』より)

 いささか抽象的ですが、ようするにこの世界は「ユダヤ対アーリア民族」の生存を賭けた戦いの場であるという世界了解に到達した瞬間なのです。
 ですから「理性」とは「ユダヤ人を抹殺すべし」ということですし、「感情」とは、「いやいや、そんなことをしてはいけない」という「ヒューマニズム一般」を意味しています。

 いま、私たちが暮らすこの社会を問題含みだと考え、民族や国家などを中心に「あるべき人間」による共同体を夢みる一定の人々がいます。しかし、この「あるべき人間」、「あってはならない人間」という二分法に対しては、「ヒトラー」が降りてくる可能性は常にあるのです。
 それが降りてくると、「誰が生きていいのか」、「誰が生きてはいけないのか」を決める権利が自分にあるかのように思われます。今回の被疑者は明らかにそう思い、その通り実行したのでした。

 ヘイトスピーカー、過度の愛国民族主義者などのところへは「ヒトラー」は降りやすいし、すでに降りているのかもしれません。

           

「措置入院」について
 これについても論議が進んでいます。ようするに、この被疑者の場合、それを解くのが早すぎたのではないかということです。それについては厚労省が本格的に調査するようです。
 それが適切であったかどうかの検証は必要でしょうし、それ自体には異議はありません。

 しかし、措置入院を拡大解釈し、拘束者や拘束期間を拡大する方向のみを追求することには重大な懸念があります。
 私たちは、戦前、治安維持法下で、予防拘禁という制度をもっていました。これは精神病者も酔っ払いも、反体制的な思想の持ち主や政権批判をする者などなどをどれもごっちゃにし、なんの犯罪も行われていないのに、予め拘束してしまう制度でした。

 例えば、天皇が行幸する際など、その辺り一帯の精神病者や依存症患者、「危険」思想(主として左翼)の持ち主を一斉に拘束してしまうのです。その数はおびただしかったといいます。
 さらにはそれが拡大解釈され、なんのイベントもない時でも、当局の恣意によって「オイコラ、ちょっと来い」で身柄を拘束されることはザラでした。

 こうして措置入院の拡大解釈は、人権侵害の危険性を孕んだものになる可能性があるのです。

 今回の事件は、自分とは差異をもった人を抹殺するということでした。その予防措置が、今度は自分とは差異をもった人たちの自由を奪いその人権を損なう方向で考えられることはあってはならないのです。

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われらみな「迷惑」をかける存在

2016-07-27 23:40:33 | 社会評論
 以下は、本年三月に発刊した同人誌に私が載せた小論です。
 別に、今回の障がい者殺戮事件を予言したわけではありませんが、弱者切り捨てや、差異をもった者へのヘイトといった一般的な風潮の中で、ひしひしと感じるものがあって書いた一文です。かなり長くなりますが、今回の事件とも関連すると思い、あえて再掲いたします。


        
       
 かつて私は、無邪気にも自分は健常者であり、そうではない障がい者がいると考えていました。差別や排除をしたことはあまりないと思うのですが、ただし、同じ人間なのに気の毒にという同情や憐憫の気持ちはあったと思います。
 しかしながら、私が陥っていたそうした同情や憐憫も含めた「常識的な見方」そのものに、実は差別や排除に至る要因があるのではと次第に気づくようになりました。
 その契機はというと、障がい者という規定そのものが実は歴史的、地理的、政治的に事後的に規定された極めて恣意的な区分にすぎないと知ったことによります。ようするに「障がい者そのもの」などというものはどこにもないのです。

 ある地域のある文化においては双子は障がいとみなされ、その子供もその両親も忌避されたといいます。それは両親の妊娠中の性交の結果とみなされ、倫理的な批判の対象ですらあったといいますから非科学的で滑稽ともいうべきでしょう。
 老いること自体が障がいであるというのはわが国でも近年までありました。深沢七郎の小説「楢山節考」(一九五六年、木下恵介が五八年に映画化)はそうした背景によるもので、現に「姥捨」の地名は全国に散見できます。長野県の駅名や地名としてその存在は有名ですし、近くでは愛知県の豊橋市にもあるようです。
 しかし、この姥捨てはまだいい方で、直接、老人を物理的に始末したり、餓死させたり、あるいは自殺を強要することもあったようです。
 
 私はあるところで、「人類の歴史には、連綿として継承されてきたひとつの流れがあリます。それは、適者生存という原則をさまざまな差異を持った人たち、相対的に弱い個体にも拡散し、全体として共存して行く環境をつくろうという適者そのものの拡大の動きで、それが人間の文明といわれるものの内容をなしてきました」と書きました。しかし、それに至る過程のなかでは悲惨な事実もあり、そうした過程を経てやっと現状に至ったということでしょう。
 では障がい者とそうでないものの線引きは、その言葉の意味においては現実的にどのようにしてなされているのでしょうか。
 ちょっと変な言い方で抵抗があることを承知のうえでいうのですが、そのひとつのキーワードは「迷惑」ということにあるかもしれません。それは例えば、車椅子で通行したり公共の乗り物に乗車したりするのは迷惑だという非難が現実にあることからも伺えますが、他の人からの助力が必要であるという点からもいえるかもしれません。
 先にみた双子の例はともかく、老人の例でみれば、やがては介護など人の手助けを必要とする迷惑な存在といえるようです。さらにこの国の老人には、年金をいたずらに増大させているという暗黙の非難が重なります。
 重ねて、経済至上主義の立場からは、障がい者というものは生産性にほとんど寄与しないという面でもお荷物扱いされます。
 
 しかしここで考えなければならない点は、私たちの誰しもが、さまざまな点で周りの人たちへ「迷惑」をかけながら生きているということです。この世に生まれてすぐに、まったく自分ひとりで自給自足をしながら生きてきた人などというのはいません。多かれ少なかれ、ほかの人の力を借りながら生きているわけです。とりわけ生誕してから自活できるまでの年月が長い人類においてはそうなのです。
 だとするならば迷惑は万人が万人に対して依存しているという人間社会のありようそのものにほかならないといえないでしょうか。大金持ちが「俺はそれにたいしてちゃんと対価を支払っている」といっても事態は同じです。むしろ彼が大金持ちであればあるだけ多くの人たちの迷惑ないしは助力の上に生存しているとすらいえるのです。

(略)
 
 障がい者は迷惑をかける存在という規定は、しかし、その迷惑のおかげで成り立っている社会が既にあることを明らかにします。ようするに「迷惑」という観点からみればそれは万人に共通するものであり、したがってわれらみな障がい者、あるいはわれらみな健常者といえるのです。
 いうならば、障がい/健常の問題はこの世界における人間の複数性というあり方のなかで生み出される単なる差異にすぎないのです。にもかかわらずそれを労働生産性の効率などに一元化して捉えたり、社会的弱者として捉え、ただただ憐憫や同情のうちに福祉の対象とする立場は、少し条件が異なると、生産性や社会的効率を理由に、容易にそれらの切り捨て論に転じたりすることになります。
 冒頭に述べた、障がいについての常識論の限界です。
 
 現在この国で進められようとしている自己責任論的な新自由主義によるセーフティ・ネット縮小の動きは、その一環であると思います。 政権周辺には障がい者、老人、貧者などに対し憎しみを隠さないイデオローグもいます。そうした姿勢から打ち出される諸政策には薄ら寒いものがあります。
 前世紀、私達はその極端な例をみてきました。ナチスといえばユダヤ人抹殺を思い浮かべますが、それに先行して、あるいは同時進行的に障がい者も抹殺されているのです。その数は、三〇万人ともそれ以上ともいわれています。「あるべき」人間像を中心において、そうではないものたちを駆逐しようとする思想はとても危険なのです。
 
 これを書き終わった折、私は左腕の骨折のため入院を余儀なくされました。私もまた他者に「迷惑」をおよぼす存在であることを身をもって示したのです。

  
障「害」という文字の含意に反対し、障「がい」と表記しました。
この一文は『不穏なるものたちの存在論』(李珍景著・影本剛訳 インパクト出版会)の第四章「バクテリア:私たちはみなバクテリアだ」からの示唆を受けています。
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身辺雑記

2016-07-24 13:35:22 | よしなしごと
 とりたてて書くこともないが、私ぐらいの歳になると、3日も姿を消すと、あいつもとうとうくたばったかといわれそうなので、ご近所情報でも少しばかり。

 農協の野菜売り場へゆく。この時期、葉物は少ないが、夏野菜は出揃ってきた。万願寺とうがらし、いんげん、なす、きゅうり、トマト、大葉、みょうが、かぼちゃ、じゃが芋、などなどをどっさり買う。車まで運ぶのが重い。

 野菜の写真を撮してもなんということもないので、前の花売り場にあった花の写真でも載せておこう。

 
 

 午後、郵便局へ徒歩で。ついでに少し違う道に逸れて歩く。
 何年前か前に廃業した医院がそのままで残っている。かつては、医院としてはけっこうモダンなデザインだと感心したものだが、長年空き家が続くとどうしても荒廃してくる。かろうじて廃屋の手前ぐらいだろうか。不動産屋の看板がかかっているが、あまり買い手が付きそうに思えない。

 

 気が付くと、道を挟んだ塀がこいの家も空き家になっている。たしかここはきちんと整理された家だったはず。ひょっとして、廃業した医師の自宅だろうか。

        

 帰宅したら、セミたちが合唱で出迎えてくれた。
 ニイニイゼミとアブラゼミ、前者は枇杷の木、後者は桑の木と棲み分けている。
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工事とセミ 永六輔と大橋巨泉

2016-07-20 23:35:10 | ひとを弔う
 道路を挟んだすぐ前でドラッグストアの建設工事が続いていて、やっと一段落したと思ったら、うちのすぐ隣の埋め立て工事が始まったことはすでに述べた。

             

 それもなんとか一週間ほどでほぼ終わったようだ。それでホッとしていたら、今度は道路の舗装の補修工事が始まった。なんだかここんとこうちの周りは工事ばかりで、落ち着かない事この上ない。

             

 枇杷の木で鳴いているセミ、いつものアブラゼミと鳴き声が違うので見に行ったが姿がわからない。よくよく目を凝らしてやっと見つけることができた。
 ニイニイゼミだった。小さくて(約2センチ)地味な色合いだからとてもわかりにくい。ひさしぶりにこのセミに出会った感じがする。
               
                     
 
 名古屋は、クマゼミが席巻していると聞いたが、この辺はまだアブラゼミのテリトリーだ。
 木曽川が防波堤になっているのだろうか。

             

 ツイートにも書いたが、永六輔が亡くなり、続いて大橋巨泉も逝ってしまった。
 私にとっては、彼らは、小学生の頃からラジオで聴いていた三木鶏郎の「日曜娯楽版」の系列に繋がる、ひねりの効いたユーモアやウイットに富んだ系列の人達だった。おごる者たちへの批判は痛烈だった。
 「もはや戦後ではない」という言葉は今頃になって私のなかで実感をもって響き渡っている。
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一難去ってまた一難 わが家の環境事情

2016-07-18 01:49:18 | よしなしごと
 今年になって、地方都市の郊外に住む私のうちの居住環境が激変しつつあることは前に書いた。
 そのひとつは、片側一車線のバス通りひとつ挟んだ向かい側に、チェーンのドラッグストアができるという話であった。
 建築の騒音というものは、今の市街地では一番大きいのではないかと思う。ダンプが出入りして土を運び、ブルがそれを均してゆく。
 コンクリートパイルがドスンドスンと打ち込まれ、その都度、音響とともに築50年のわが木造家屋が震度3ぐらいにグラグラと揺れる。

            

 こうした苦行が2ヶ月ほど続いて、やっと店舗の外観は出来上がり、連日のすさまじい音響からは開放されることとなった。あとは内装と商品の搬入、駐車場のライン引きぐらいだからさしたる騒音はあるまい。

 あとあとの影響としては、混雑時のガレージからの車の出し入れに多少の影響があるやも知れぬ。失われたものとしてはこの角度に見ることができた田んぼがみごとになくなったことである。

               

 いつの開店かは知らないが、目の前にできたから便利だろうとはいえる。
 それについても関心がある。実はこの200メートルぐらい離れたところに、やはり地元チェーンのドラッグストアがあって、今まではそこを利用していた。
 ドラッグストアも昔とは様変わりし、生鮮食料以外のかなりの食品を置いている。今までのところも、人参、じゃが芋、玉ねぎぐらいはけっこうお値打ちにおいている。卵はいつも行くスーパーでは10個入り一パックが200円以上するので、188円で買えるこのドラッグストアで買っていた。豆腐ももやしもスーパーより安かった。

            
          この角度の地表は去年まではほとんどが田んぼだった

 当然のこととして、ここと新参者との間で熾烈な競争が展開されるだろう。
 主夫である私としては、両者の品揃え、価格、商品のクオリティの比較検討は欠かせない。今まで無視してきた折込チラシも要チェックだ。

 まあ、これはこれとしていいのだが、せっかく騒音や振動から逃れることができたかと思ったら、新しい苦行が舞い込んできた。
 それは、わが家の環境変化の第二弾、隣の休耕田が埋め立てられ宅地化される工事が始まったのだ。一難去ってまた一難である。しかも今回はいたって至近距離で、私のデスクから10メートルと離れないところで埋立工事が始まったのだ。

            

 繰り返しやってくるダンプ、それが積んできた土を振るい落とす音が実に大きいのだ。そしてダンプによる地均し、これも実に音響が大きい。それらが、私がこうして座っているデスクの10メートル以内で行われているのだ。冷房嫌いなので窓を開けっ放しにしているのでその騒音は耐え難いほどだ。
 確かに、工事が始まる前、タオル一本をもって挨拶には来たが、この騒音はバスタオル3本でも耐え難い。

            
          窓から撮ったもの この距離感で工事が行われている
 
 写真や動画から、その距離感や音響もお分かりいただけるだろう。
 この休耕田は、この前ツバメの乱舞を載せたところであるが、もうツバメもやって来ないだろう。思えばあれは、彼らの私への別れの挨拶だったのかもしれない。

            

 作業をしている兄ちゃんに訊いたら、あと一週間ぐらいはかかるという。そして当面は埋め立てだけで、ここに建つはずの4軒の家屋の建築は秋以降だという。
 執行猶予のようなものだが、これはこれでピンチなのだ。すぐとなりに家ができるということは、暑いからといって、これまでのように裸でうろちょろできない羽目になったということだ。

   https://www.youtube.com/watch?v=7nwmfZ1GiMU

 嗚呼!田んぼの中の一軒家で、「人殺しっ!」と叫んでも誰も駆け付けなかった頃が懐かしい。




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生前退位について思うこと

2016-07-15 15:08:26 | インポート
                  

 過日、自動車免許取得に関する高齢者講習にいった折、天皇の免許はどうなっているのかを調べてここに書いたその当日に、生前退位の話が出てきて驚いた。別に、私が書いたものを読んでそう思ったわけではなく、すでに数年前から検討していたようだ。
 昨年12月の誕生日を迎えた談話にも、「年齢を意識すること」、「それによって式典の手順など間違えることがあること」などを率直に語っている。
 
 宮内庁やら政府筋が何やらごちゃごちゃいっているが、常識で考えたら、直ちにそれを実現する方向で考えるべきだろう。
 昨年の天皇のいわゆる公務を見ると、270回に及び、そのうち、国内外の出張は75回にもなるという。今時、82歳になってこんなに働いているひとはいない。私も含めて、60歳や65歳でリタイヤーしているのが多く(年金のみでは食えないで働いている人もいるではあろうが)、多少忙しがっていても仕事が趣味だったりしている人もいて、公務として押し付けられたものではない。

 摂政でもなんでもいいから、とにかく公務から開放するのが先決だろう。法的な措置として、皇室典範を改正しなければならないそうだが、どうせいろいろ怪しげな「見識者」がごちゃごちゃいうのだろうから、何年もかかりそうだ。そんなものは事後的にやればいことだ。

 後継者の皇太子について聞くに堪えない悪口雑言を言っている連中もいる。例えば、デヴィとかいう女性。なんかの拍子にそのブログを覗いて驚いた。皇太子一家の悪口に専念しているようで、よくもまあ、あんなにあることないことを並べてることができるものだ。そして、それに同調している連中もかなりいるのも驚きである。その質は、ヘイトスピーチとほとんど変わりない。
 皇太子一家を擁護するかどうかはともかく(これだけ書かれると、一つの家族として弁護してやりたくもなる)、こうした連中にはある種の危険性を感じる。

 彼らは、概して皇室に対して過剰な期待をもっている。たとえば、それはリーダーシップのようなものであったり、古風な家族関係などの価値観への期待であったりするのだが、いずれも余分なことである。
 それらは、いってみれば憲法に定める象徴の域を超えた期待であり、彼らの天皇解釋は明らかに政治的な偏向を示している。ようするに、自分たちの価値観のために天皇を利用しようとするものといっていい。

 ついでながら、天皇家を平和の守り手であるかのようにいう向きも問題があるように思う。確かにそう感じられる点もあるが、それは現政権が憲法を捻じ曲げてまで著しく平和主義を脅かしていることから、本来、ニュートラルな天皇家の言動がそうみえるのであって、平和を守るのは天皇家ではなく、私たちなのだ。

 何はともあれ、同じ老人としての私の感想は、早く楽にしてやるべきだということだ。私よりも5歳も上なのだから。
 天皇であれ誰であれ、老いたるひとを縛り付け徹底的に利用しようとすることは許されるものではない。



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天皇の自動車免許証

2016-07-13 02:15:21 | 日記
 ここでクイズです。天皇は運転免許証をもっているかどうか?はたまた車を運転したことがあるかどうか?
 
 答えは、「もっている」です。1954年に取得し、そして現在も更新中です。
 今年の1月8日に更新したようで、やはり高齢者講習も受けたようです。
 彼の誕生日は12月23日ですから、それ以後一ヶ月の間に更新できるとしても、かなり遅れてそれがなされています。公務などの都合があったのかもしれませんが、事前に更新する場合が多いことを考えると、更新すべきかどうかを迷ったのかもしれません。
 それがあってか、82歳の現在、これが最後の更新で、3年後には返上するそうです。

            

 で、現実に運転しているかどうかですが、若い折は美智子さんを乗せて箱根までドライブ(もちろん前後を警護の車にガードされて)したことがあったようですが、最近では皇居内のみのようで、助手席に美智子さんを乗せての場合が多いそうです。
 皇居内は公道ではないから、道交法の適用以外ですが、たぶん著しい違反行為(飲酒やスピード違反)はしていないことでしょう。むしろ、運転距離が短いので、ストレスを感じるのではないでしょうか。

            

 ところでその免許証ですが、天皇には戸籍がありませんから、住所は「日本国」となっていて、氏名欄は「明仁」だそうです。
 なお、そのプライベイトカーは1991年製のホンダ・インテグラで、色合いはグレイだということです。

            

 以上はどうでもいい話ですが、先般、後期高齢者の免許取得前の講習で6,000円ほどをとられたので、やんごとなき筋ではどうなっているかを調べてみた結果です。
 私は、あと2回ほどの更新で天皇が免許を返上する年齢に達するのですが、それまで公道上を走行できるかどうか、じっくり見極めてみたいと思います。

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若者たちの選挙行動について

2016-07-12 02:02:19 | 日記
  写真は最近のもの 内容には関係ありません。

 今回の選挙から18歳以上に選挙権が与えられ、その数は全国で240万人という。
 それがもたらす変化はあるのだろうかと関心があった。
 しかし、その影響はほとんどなかっといえる。
 どういうことかというと、出口調査などによると、彼らの投票パターン=支持政党の分布などは成人のそれとほとんど変わりなかったというからである。

            
 
 その意味では私の勘はあたっていた。
 というのは、当初、18歳以上の選挙権が与えられると聞いたとき、今の若者は政権与党に舐められているなと思ったからだ。なぜそう思ったかというと、私がその歳であった60年前には、保守系の政権党は決して若者に選挙権を与えようなどとは思わなかったに違いないと思ったからだ。
 
 
            

 その頃の大学生の間では、保守系の政党支持はほんとうに極小で、それを公言しようものなら馬鹿にされかねなかったからだ。当時の各種選挙の分析からでも、保守系支持は年齢層が高いほど多く、若者はそうではなかった。
 だから、まったく不穏な話であるが、老人が徐々に亡くなれば必然的に革新化するかのようにすら思われたのだった。

            

 それが逆転したのはおそらく1980年代だと思われる。
 この頃、東大でも京大でも、政党支持率第一位は自民党になったのであった。この背景には、かつては貧乏人の子が一生懸命勉強して国公立に入ったのに、この頃には、小、中、高の段階から、存分な教育投資をされた者たちがしめるようになってきたからだと思われる。
 以来30年余、これなら選挙権をやってもいいだろうという政権の判断のなかでの選挙権年齢が引き下げられたのである。

            

 その意味ではいまや事態は逆転している。アンチ保守の集会などには老人が多いという現状に、たまたま来た若者は違和感を覚えるかもしれないほどである。

 ただし、私は、若者たちが保守・革新という旧式な図式のなかでいずれかを選択すべきだとは思っていない。あなたたちこそ私が生きることはない未来を生きるのであるから、既存の政治的な図式にとらわれず、自由な判断をして欲しいと思っている。
 ただし、その判断が、自分と他者を巻き込んだものであるということをくれぐれも考えてほしい。
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あの戦争の日々に七夕を知った

2016-07-07 02:20:55 | 想い出を掘り起こす
 

 今日は七夕。最初に記憶にあるのは戦局も逼迫した1945年7月。疎開していた田舎で、何もないところだったが、竹はどこにでもあった。母方の祖父が、「今日は七夕だ」と細めの竹を切ってきてくれた。
 五色の短冊などというものは全くない。紙そのものが不足していた時代、どんな紙に何を書いたかはまったく記憶にない。母屋のいとこたちといっしょにいろんなことを書いたことは覚えている。それを大人たちがこよりを作って笹に結びつけてくれた。

 いまから振り返れば、「早く戦争が終わりますように」と書くところだろうが、そんなことを書いたら戦意高揚を妨げる非国民といわれそうな時代、ひょっとしたら、「一億火の玉」、「神風が吹きますように」、「一人一殺」などと物騒なことを書いたかもしれない。

 まったく覚えてはいないが、今から思えば実に質素極まりない七夕飾りだったが、それができただけで嬉しかった。疎開先から帰っても、何回かは七夕飾りを作った。色彩は豊かになったがやはり質素なものだった。
 長じて、商店街などの豪華極まりない七夕飾りを見るにつけ、あれは私たちのものとは違う次元のデコレーションだと思っている。

 私の七夕のイメージは、童謡の七夕の歌にフィットしてる。
 もっとも、かなり大きくなるまで、この歌詞の、「きんぎん砂子」を「きんぎん繋ご」と思い込んでいたのだが。「きんぎんつなご」というのもいいイメージだといまだに思っている。

 何年か前、スーパーで自由に文句を書いて笹に吊るすイベントをやっていて、その短冊に、明らかに子どもの字で「お金がほしい」と書いてるのを見てげんなりしたが、考えてみたらストレートの直球で、「いい学校へ入りたい」とか「有名になりたい」というのも所詮は「お金がほしい」に還元されるのではないかと思った次第。
 
 この時代、現実を無視した夢を持てという方が大人の勝手な言い分かもしれないと、非現実的な私自身が萎縮しながら考えている。

    https://www.youtube.com/watch?v=cke3Enf-r3o

   作詞/権藤はなよ 補作詞/林柳波 作曲/下総皖一

     ささの葉 さらさら
     のきばに ゆれる
     お星さま きらきら
     きん ぎん 砂子

     五しきの たんざく
     わたしが かいた
     お星さま きらきら
     空から 見てる
コメント (4)
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ピンチヒッターで観た『蒼(そらいろ)のシンフォニー』

2016-07-03 16:05:28 | 映画評論
 まったくどじな話である。
 2日(土)、夕刻からの所要の前に、せっかく名古屋へ出たのだから映画でもと思い、チェックしていた映画館へ向かった。しかし、チケット売り場にはそのお目当ての映画、(『ブロークバック・マウンテン』、『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』でアカデミー賞をとったアン・リー監督の旧作『恋人たちの食卓』)は表示されていない。
 尋ねると、「それは昨日まででした」とのこと。そういえば、だいたい土曜日から映画は変わる。この日に名古屋へ出ることはわかっていたので、日付を確認せず事前にチェックしておいたのが間違いだった。
 
 折から、ほとんど真夏日というカンカン照り。これからトボトボと他の映画館を訪ねる元気もない。それに、どこかで何かを見つけても夕刻の用件に間に合う保証もない。
 そこで、その映画館で、もう頭の部分は始まっているという映画を題名も内容も確かめずに観ることとし飛び込んだ。
 上映していたのは『蒼(そらいろ)のシンフォニー』という朴英二監督のドキュメンタリー映画。

               

 内容は面倒なので解説に譲る。
 「日本で生まれ育った朝鮮学校生徒たちを取材したドキュメンタリー。在日コリアンの子どもたちが民族の言葉や歴史などを学ぶ朝鮮学校では、高校3年生になった生徒たちが「祖国」である朝鮮民主主義人民共和国を訪問する。自身も朝鮮学校出身の映画監督パク・ヨンイが茨城朝鮮初中高級学校の高校3年生の祖国訪問に同行し、全日程を生徒たちと共に過ごしながら撮影を敢行。日本のメディアでは見ることのできない朝鮮の人々の素顔や、現在も続く南北分断の悲劇を捉えるとともに、生まれ育った日本で様々な困難にさらされながらも明るく堂々と生きる生徒たちの姿を映し出していく。」

            

 これがけっこう面白くて、観ている内にどんどん引きこまれてゆく。どこが面白いかというと、この高校生一行がやたら元気で、なかにはとても面白いキャラの男の子もいて彼らの表情を観ているだけでこちらも浮き立つ感じがする。
 しかし、明るいだけではない。板門店の境界付近では、父祖の出身地が済州なのにもかかわらず、韓国籍がなく、決して踏めぬ韓国の地を複雑に眺めやり、言葉少ない感想しか漏らすことができない女学生の姿を映し出す。

 私もしばらく前に学んだのだが、在日の人の国籍は、朝鮮半島の南北の出身地によるものだと思っている人が多い。ようするに南部の人は韓国籍、北部の人は「北朝鮮籍」だろうぐらいに思っている。
 しかし、じつは「北朝鮮籍」という国籍はない。理由は日本が国として認めていないことによる。それに対し、南朝鮮は国交があるので「韓国」と呼ばれる。
 戦後、もともとは朝鮮籍しかなかったのだが、韓国が出来たあとにそこへと国籍を変えた人が韓国籍となった次第。したがって厳密にいうと、韓国籍か朝鮮(南北朝鮮民族)籍のいづれかになる。
 ついでながら、在日の人の出身地を見ると、日本に連行されたり自分の意志で来たりした人も含め、地理的な関係で南部出身の人がかなり多い。

            

 映画に戻ろう。朝鮮民主主義人民共和国側の歓迎は、いくぶん演出されたものがあるとはいえ、実際に彼らと接する人たち、とりわけ若い人たちはその「任務」を越えて明るく率直である。ほほえましい交流があちこちで起こる。先に述べた面白キャラの男子生徒が、出会った接待側の女性を手当たり次第口説きまくるのは、青春を謳歌していて実にほほえましい。
 それぞれのモニュメントの前で、そのポーズをまねて写真に入る彼らの姿も青春群像劇として絵になる。

 私は現実の朝鮮民主主義人民共和国の体制をやはり好きにはなれない(日本のいまの体制につても疑問符が一杯だ)。しかし、そのもとで懸命に生きている人たちをとやかくいおうとは全く思わない。それを踏み出してしまうのがヘイトの連中で、基本的には様々な問題を民族や人種に単純に還元してよしとするレイシストたちだ。
 どんな人びとの上にも、まさに「蒼(そらいろ)」が広がり、そのもとで人びとの織りなすシンフォニーが奏でられているのであり、私たちもまたその一員なのだ。

            

 映画の最後は、彼らが帰国して幾ばくかが過ぎた卒業式のシーンなのだが、そこで例の面白キャラの男の子が述べる謝辞がむちゃくちゃにおもしろい。ほろりとさせるかと思うと吹き出しそうなエピソードが混じり、泣き笑いが渦巻いている。

 映画の途中から入ったので気づかなかったが、終演後灯りがつくと、さほど広くはない映画館ではあったが、ほぼ満席の状態で、中央付近で笑い転げたりほろりとしていた中年女性の一団が、満ち足りた顔つきで席を立つのが印象的であった。

 お目当ての映画ではなかったが、とてもいい時間を過ごすことができた。


なお、現在、朝鮮学校は、無償化や各種補助からも完全に外されている。朝鮮民主主義人民共和国との外交関係がどうあれ、そこで学ぶ子らには関係のない話で、その両親などからも容赦なく税金のみは取っているのだから、これはある種の差別に他ならない。
 

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