映画
『雨月物語』を観て、
「これは戦後民主主義の映画だ」と口走ったばかりに、ネット上のあるところで、
「それはまたどうしてか」と詰問されるはめになった。まことに口は災いの元、いや書いたのだから筆禍というべきか。
まあしかし、書いてしまったものは仕方がない。また、そう感じたのも事実なのである。ただし、その時発した感想はあまりちゃんと考えた結果というより、漠然とした感想ではあったのだが。
しかし、問われた以上もう少し丁寧に答えるべきであろう。小学生の頃から、宿題にしても何にしても、リスクを背負ってからする癖が付いているのだから、これに答えるために後知恵で考えるのも悪くはあるまい。
周知のように、この映画は
上田秋成の原作を踏まえながらも、その全九話のうちから「浅茅ヶ宿」と「蛇性の婬」から材を得て
川口松太郎と
依田義賢が脚色したものを
溝口健二が撮ったものである。
そこには金を稼ぎ色情に絡め取られて行く男と、出世を夢見る男がいる。そして、それをそれぞれ支えながらも、その男たちの野望のために犠牲を強いられる女たちがいる。
結局、男たちの野望は挫折し、その野望を悔いることによって、元の場所へ(映画においてもまさに同じシーンへ)と回帰する。
ここには明らかに
意図された循環がある。要するに、
「生活者の座」のようなものに端を発し、それからのテイクオフを試みた結果、結局はこの「生活者の座」のような場へと回帰するという循環である。
もうひとつ、見逃せない要素は、全編を貫いている
戦乱というバックグラウンドである。
彼らを脅かしたのも戦乱であるし、彼らを欲望へと奮い立たせたのも、女たちを災難に突き落としたのも、あのあやかしの姫、若狭が彷徨うことになったのも、全て戦乱の故なのである。
あの日本の敗戦から八年という1953年、脚本家や監督が、
映画における戦乱を、あの戦争とオーバーラップしないで描いたとはとても考えられない。
まさにあの映画は、
あの戦争へのひとつの総括としてあるのだ。
これは言い添えるべきだろうが、あの頃の映画で、戦争の爪痕を何らかの形で刻印されていないものはほとんどない。例えそれが、一見、単純と見える喜劇や時代劇であろうとも・・。
しかし、こうした一般論には解消出来ないであろう。私は「なぜ、この映画がとりわけ戦後民主主義に関わるのか」と問われているのだから・・。
この映画は、やはり男たちの野望そのものを戦争そのものとして捉らえていると思われる。
それは日本が、「近代の超克」や八紘一宇、大東亜共栄圏を掲げ、戦争そのものに突入して行く様を如実に示しているようだ。要するに
現実からのテイクオフとしてのある種の決断である。そして、あのあやかしの姫、若狭への関わりは、美学における日本ローマン主義への耽溺にも思えるのだ。
考えてみれば、
戦争そのものが非日常的な例外状態の連続であり、それ自身が幻影の世界なのである。それを男たちは己のものとして生きようとした。そして挫折した。
その帰り着くところは、結局は女性たちが守り続けたリアリズムの世界なのである。それを私は先に
「生活の座」から出でて、「生活の座」へと回帰する円還として示してみた。
これは
この映画のかなり核心的なモチーフといって間違いない。
もうひとつ、付随的かもしれないが、一度は娼婦になった女性を、むしろそれ故に迎え入れるという設定は、それ以前にはなかったシチュエーションではないかと思う。要するに、ここにもひとつの戦後がある。
これでもってこの映画が「戦後民主主義の映画である」と立証し終えたとしてもいいのであるが、根が親切(おせっかい?)な私はこれしきでは終われないのだ。
要は、あの戦後の総括はこの映画でなされているような形で果たしていいのか、あるいはそこにこそ
戦後民主主義の限界があるのではなかろうかという疑念が残るのである。
この映画では、戦争はあたかも
自然現象でもあるかのように外在的に扱われている。確かに、武士という階級が争った時代においては、庶民にとってはそうであろう。
しかし、すぐる戦争においては
庶民=無罪ではない。
「生活の座」≠戦争ではない。
庶民の「生活の座」そのものが、例えイデオローグのアジテーションによるとはいえ、戦争と無縁ではなかったのだ。庶民は、戦況に極めて具体的に関わり、一喜一憂したのである。
だからこの映画を、戦後の総括としてみた場合、そこには決定的な欠落がある。
その一つは、
戦争を外在的な、何か私たちに無縁の場所から降りかかるかのように描いていることである(むろん、あそこで描かれている時代においてはそうであったろう)。しかし、日本が経験した戦争はそんなものではなく、
庶民が一丸となり、その一丸から外れたものを非国民として告発したような戦争だったのである。
したがって、庶民は(少なくとも近代国民国家の庶民は)戦争の被害者であるのかという問いが依然として残る。彼らが戦場で何をしたのかという問題もむろん含むが、それ以前の戦争へと事態が進む過程において彼らがどう関わったかの問題である。
だからここでは、彼らは単に戦争の「被害者」であったのかが問われなおされねばならない。それと同時に、
「生活者の座」は、本当に戦争とは無縁な場であるのか、戦争がなければそこはユートピアなのかという問いも残るのだ。
「生活の座」として政治や戦争と一見無縁な座が、要するに、生産と消費の座が、戦争へと結びつく、あるいはそれを媒介として戦争肯定へと至ることは充分あり得るのだ。
『雨月物語』は優れた映画である。脚本、演出、そして何よりもカメラの
宮川一夫の絵が素晴らしい。
よく読んでいただければお分かりのように、
私はこの映画そのものを批判したり否定したのではない。
これ程見事に、古典に依拠しながら、
「戦後民主主義」を、その限界までも含めて描写したことにただただ感心しているのだ。
ただし、あの回帰の楽天主義には疑問符を付けながらではあるが・・。
これで、質問者の問いに答えたことになるのだろうか?