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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

書かれなかった物語? ウンベルト・エーコ『パウドリーノ』を読んで

2017-08-29 11:34:56 | 書評
 別に暇な生活を送っているわけではない。朝起きて、さて何をしようかというようなことはいまのところない。やらなければならないことがけっこうあって、ちょっと怠けていると予め定めたことどもができなくて置いてゆかれることもある。

 そんななかで、よく読めたなぁという比較的長い小説を読んだ。上・下二巻、合わせて700ページのものだ。一気に読んだわけではない。しなければならないことの合間合間に、ボチボチと読み続けてやっと読了したのだ。

             

 作品は、イタリアの記号論学者として高名なウンベルト・エーコの作品で『パウドリーノ』だ。
 エーコの小説としては『薔薇の名前』が知られている。映画化もされたから、そちらの方で知っている人も多いだろう。私はこの小説も映画も両方に接したが、その乖離は甚だしかった。
 小説の方では、若い僧が密かに思いを寄せる村の娘は、魔女として裁かれ処刑されてしまうのだが、映画の方では彼女は処刑されることなく、助かってしまうのだ。これによって、原作にあったヨーロッパ中世の不透明な厚みのようなものが一挙に吹っ飛び、映画の方はずいぶんと軽くなってしまった。

 なぜこんなに著しい違いをもった映画化をエーコは承認したのかと疑問に思ったが、果たせるかな、新聞紙上でエーコがこの映画の解釈に激怒しているという記事が載るところとなった。
 しかし、これはこれで、エーコ側が映画化を了承する際に、ろくすっぽ脚本もチェックしないままだったのかという疑問も湧く。それとも、途中で監督が勝手に原作を捻じ曲げてしまったのだろうか。

          

 それはさておき、今回読んだ『パウドリーノ』は同じ中世に題材をとりながら、まったく違った趣を示している。『薔薇』の方が中世の聖性を司る闇の部分を描いた重厚なものであったのに対し、こちらの方は、その聖性すらも勝手にでっち上げて「商品」にしてしまおうというハチャメチャな冒険譚なのである。

 パウドリーのは主人公の名前なのだが、貧しい農民の子として生まれながら識字と語学の才能に恵まれ、あわせて機転が利くホラ吹きでもある。
 そんな才能を時の神聖ローマ帝国のローマ皇帝、フリードリッヒ・バルバロッサに見出され、高い評価を得て養子扱いをされるに至る。パウドリーノもまた、自分の養父ともいえるフリードリッヒに付き従い、遠征においてはそれに随行し、その過程で魑魅魍魎とも言える対象に出会い、あるいは敵対したり、あるいは同盟をしたり、恋をしたりの奇想天外な物語が展開される。

 遠征先でのフリードリッヒの最期には密室殺人のサービスまでついている。
 遊び心に満ち満ちた作品なのだが、私はそれらを、なんと想像力に満ちた作品なのだと感心しながら読み通した。
 しかし、作家エーコの遊び心は、私のこんな感嘆を遥かに超えていたのだ。

          

 そのひとつは、この小説がいかに荒唐無稽に見えようが、ここに登場する人物、例えばフリードリッヒは実在の人物であり、前半で描かれたイタリアの都市同盟との対立や、後半の十字軍遠征などは、すべて史実と一致しているのだ。
 そればかりか、フリードリッヒの死が何に起因かはわかっていないようなのである。この小説がそうであるように。

 もうひとつの例を見よう。
 パウドリーノの冒険譚の聞き手であり、それを記録するのみか、最後には自身物語の中へと組み込まれるニケタス・コニアテスという人物が出てくる。
 パウドリーノとニケタスの会話は、一つ一つのエピソードの間に通奏低音のように挿入される。それはまるで、ムソルグスキーのあの「展覧会の絵」に挿入されたプロムナードのようなものである。

          

 で、このニケタス・コニアテスは、またビザンツ帝国に実在した政治家であり、歴史家でもあった。彼の主著は全21巻にも及ぶ『歴史』であるという。
 その彼が、最終章では、パウドリーノから聞いた話をどうしようかと聖バフヌティウスに相談する。
 そこで聖バフヌティウスはいう。
「あなたがこれをそのまま書けば、世に流通する聖遺物のかなりのものが捏造されたものであることを暴くことになる」
 実際のところ、パウドリーノたちは多くの聖遺物を「作り出して」きたのだった。これはまさに、そう「名付けることによって事物は出現する」のだという記号論学者としてのエーコの面目躍如たる部分でもある。

 聖バフヌティウスはさらに続けていう。
 「たとえ事実に反しても、大きな歴史においては小さな真実を変更して大きな真実を浮かび上がらせることが可能なのです。あなたが書かねばならないのは、ローマ人の帝国の本当の歴史であって、遠く離れた沼地で起きた小さな出来事や野蛮な国々の野蛮な人びとのことではないはずです」
 これにニケタスも屈することになる。
 こうして、「大きな歴史」「ローマ帝国中心の歴史」のなかでは、その時代を実際に生きた人びとのことは、その存在をも含めて、とるに足りない些少なこととして抹消されることになる。

 これがこの小説のラストシーンである。
 「え、待てよ」と思う。ここにエーコの最大の遊びが、そのウィットがあるのではないか。
 ようするに、700ページにわたって私が延々と読み続けてきたこの一大スペクタルは、実際には誰の手によっても「書かれなかった」物語なのだ。
 私は、語り手不在の、書かれなかった物語を読んだということになるのだ。これはまるで、エッシャーのだまし絵のような話ではないか。もちろんこれは、エーコが仕掛けたトリッキーな設定である。

               

 もうひとつ、エーコの遊び心を挙げておこう。
 主人公のパウドリーノは、アレッサンドリアの貧しい農民の子なのだが、識字への能力が旺盛で、またどんな未知の言葉でも3日もそこで暮らすとその言葉を習得する程の記号に関する天才ぶりを発揮するのだが、エーコ自身がこのアレッサンドリアの出身であり、記号学者であるとしたら、彼は主人公のパウドリーノに自分をオーバラップさせてニンマリしているのではとも思える。

 読んでいて、ヨーロッパ中世史への自分の未知を痛感させられた。それがわかっていたら、エーコがあちこちに仕掛けた「事実」と「物語」の共振をもっともっと楽しむことができたのにと思わざるを得なかった。


私が読んだのは、図書館で借りたハードカバーのものだが、岩波で上・下とも文庫化されている。

 
 

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回る回るよ、時代は回る 視野から田んぼが消える日

2017-08-26 10:13:53 | 写真とおしゃべり
 私の住まいは都市郊外の市街地と田園風景とがせめぎ合うような場所だというのは何度も書いてきた。
 せめぎ合うも何も、半世紀前、私がここに住み始めた発端は、100メートル四方に何もない田んぼの真中に、材木商の亡父が材木置場にと一反(300坪=約992㎡)を買い、置いた商品の盗難予防にここに住まないかと誘ってくれたもので、狭いアパートで親子3人暮らしだった私は、当時の名古屋の職場への通勤が厳しくなることは承知の上で、それを了承したのだった。
 その意味では、私の移住そのものがこの地の市街化の尖兵であったわけである。

          

 その後、いわゆる高度成長期に市街化は一挙に進んだ。しかしその停滞、バブルの崩壊などでその勢いは削がれ、しばらくは市街と田園の拮抗したままの状態が続いた。

 それがここ2、3年、またまた急速に市街化が進み始めた。しばしば書いたように周辺の多くの田んぼが失われた。そして昨年、私の家の真向かいに、チェーン店のドラッグストアが開店するに及び、市街化はさらに急速に進みつつある。

             

 このドラッグストアの開店そのもので、私のうちの二階からの眺望のうち、東南方向の田んぼがすべて失われた。
 それでもまだ、私に家の北側には、300坪の休耕田を挟んで2反(600坪)の現役の田んぼが広がり、その田植えや稲刈りをウオッチングするのが恒例となっていた。

             
 
 しかし、その手前の休耕田が埋め立てられ、そこに4軒の家が建つこととなった。そのうち、一番奥の家はすでに着工し、ほぼ完成して内装工事中である。ただし、これは私の部屋の窓からの眺望にはまったく関わりなく、なおも眼下には青々とした田が広がっている。
 この分でゆくと、今年の稲刈りも見ることができそうだとたかをくくっていた。

          

 2、3日前のことである。朝寝坊の私の耳に時ならぬ車両の、しかも重車両と思しきもののエンジン音が飛び込んできた。そういえばしばらく前、測量か割付かの作業をしてたっけと思い出した。
 まさに私の部屋の眼下、まっ正面でいよいよ建築工事が始まったのだ。
 まずは土台作りのようだ。一日中騒音がうるさい。TVの音響は50ほどにしないと聞こえないぐらいだ。

             
            二階の窓からこの距離で作業が行われている

 ここに家が建つと私の田んぼウオッチングは終了することになる。かつて、四方八方田んぼであったわが家からの眺望に終止符が打たれることになるのだ。あとは、遠くの家並みの間にちらっと青い箇所が見えるぐらいになってしまう。

 もちろん嘆いても仕方がないことではある。ただただ、時に従っての土地の変遷に思いを馳せるばかりだ。
 こうして、半世紀で風景は激変し、田園が市街の侵食に屈したわけだが、このあたり一帯が田として開墾されて以来、田園風景は何百年の単位で、あるいは一千年近い単位でさしたる変貌もなしに続いてきたのではあるまいか。

          

 こうしてみると、私の生きた時代というのは、自然にしろ人の生業にしろ、伝統的なものを破壊して新しいものを登場させるというまさに近代に属することが身にしみてわかる。
 そして生意気にも、若き折には、その近代そのものの限界や矛盾を打ち破るのだと、ポスト近代(ポストモダンとは違う)を目指した闘いに臨み、近代の強固な壁の前に一敗地にまみれたまま、のたうち回ってこの歳を迎えたことになる。

          
              これは建築物の土台になるようだ

 風景は「まわりの様子」ではない。そこに自分が住まい、そこから生み出されるものに何がしか支配されるという意味ではまさに私にとっての世界にほかならない(世界内存在?)。
 思えば多くのものと別れてきた。ここへきた時は、まだ空地にはキジがいて、雛を連れて練り歩いていた。田園に固有の昆虫や鳥類、魚類、田の匂い、とりわけそれを波打たせてやってくる風の涼やかさ・・・・、それらを記憶の中にしまいながら、いま私の眼前から消えようとしている田園を静かに見送ろう。

          

 最後の写真は、私の近くの空地だが、ここも数年前まで立派な田んぼだった。いつも、私より少しお姉さんの農婦が、こまめに田んぼをチェックし、疲れると畦に腰を下ろして、自分の田を慈しむように眺めえいたのが印象的だった。
 数年前、耕作をやめた時は、田んぼもだが、その農婦のことが気になったものである。もう田を見続けることに限界が来たのだろうか、と。
 やがて埋め立てられ、雑草が生い茂っていたが、ここ終日ですっかり刈り取られ、簡易トイレなどが持ち込まれたところを見ると、やはり何かができそうだ。
 
 家が建ち、それが家々に増え、その間の田がオセロゲームのようにひっくり返ってゆく。それが私の住まう一帯なのだ。








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この光景は? 都市の変貌・わが街 岐阜

2017-08-19 16:03:05 | 写真とおしゃべり
 岐阜駅前からわずか2、3分のところでこんな光景を見ることが出来るなんて、廃墟フェチにはたまらない光景だ。
 ただし、正確にはすべて廃墟というわけではない。再開発により、背中合わせのビルのこちら側が取り壊された結果、向こう側の背中が露呈したという次第なのだ。
 しかし、この地域の再開発が進めば、これもまた取り壊されるのはそんなに遠い日のことではないだろう。

       

 場所は、岐阜駅前の繊維問屋街の一角である。
 この光景の向こう側は、繊維問屋街の表側ということになる。ただし、そのうち何軒が生き残っているかはあとに述べるような事情からして、定かではない。恐れく半数以下であることは間違いない。
 
 かつてこの一帯は、繊維二次製品(縫製加工品)の問屋が最盛期には1,500店と軒を連らね、仕入れに来る全国各地からの小売商が列をなして賑わったものである。
 その背景には、水の豊富な土地に栄えた紡績工場の数々、そして木曽川をはさんだ尾張一宮を中心とした織物工場の隆盛、それを受けての岐阜を中心とした縫製工業の繁栄があった。
 1970年代の終わりごろまでは、岐阜の街を歩くと、至るところから工業用ミシンのドドドドッという駆動音が聞こえたものである。

       

 こうして、岐阜は繊維二次加工品(ようするに既製服)の有数の産地となり、その全国への供給の場所として駅前繊維問屋街が賑わったわけである。
 こうした賑わいに陰りをもたらしたのは、皮肉にも高度成長の進展であった。1960年代に始まったそれは、重化学工業や巨大公共事業などによって一挙にこれまでの産業構造を変革するところとなった。

 かつてはこの国を支え、またこの地区やその他の生産地や販売の集約地を支えた繊維産業は、この高度成長後期とともにどんどん衰退へと向かう。
 そのひとつは、労働集約産業でしかもそのファッション性からして多品種少量生産を迫られるこの分野は、当時盛んに叫ばれた合理化、生産性の向上に馴染みにくく、繊維産業そのものが全体の製造業から相対的に後退を余儀なくされたということであり、さらには、流通革命の嵐の中で、家庭内職のような零細をも含む製造者、中小が多い販売者の連鎖はその分野でも著しく出遅れたといってよい。

       

 現在の繊維業は、その製造は海外が主流で、当初は中国が主流だったが、その中国でも各種産業が隆盛をみるにしたがいいまや賃金コストが合わなくなり、より安価な労働力を求めてベトナムなどの周辺国へと拡散して行っている。
 さらに流通面では、それら産地との最短ルートで大型小売店で売られるケースが多く、街角の衣料品店は次第に姿を消しつつある。
 残っているのはオートクチュール系のブティックなどであるが、これらは単価からして上に述べた製造や流通の隘路をクリアーしうるということであろう。

 なお、かつて縫製業のメッカ岐阜ではいまも多少の業者が残ってはいる。ただし、そのうちの一部では、外国人を研修生名目で低賃金、重労働で働かせて問題になっているところもある。

       

 さて、例によって脱線著しいが、ここに載せた光景はそうした歴史的背景をもとにこうなったといえる。
 ちなみに、1980年頃には1,500店ぐらいあったこの問屋街は、いまでは500店を割り込んでいるといわれる。
 なかには、完全にシャッター街になり、昼間通るのも怖いぐらいのところもある。   
 そうしたなかで、広大な面積を誇る問屋街全体がいまや再開発の対象となっている。駅前に広がるこのエリアが、どのように姿を変えるかは、将来の岐阜のイメージを決定づけるものとなるであろう。
 しかし、その姿はいまのところ私たち市民には明らかにされていない。

       

 折しも、来年2月には、現市長の任期満了に伴う市長選が行われる。おそらくその政策の一つの重要事項がこの地域の将来像をどう提示しうるかだろうと思う。
 注目してみてゆきたい。

 思えば一つの風景から、それを生み出したいきさつやら、未来像やら、いろいろな問題が浮かび上がるものである。
 しかし、この独特の風情、風貌は嫌いではない。
 だから、これはこれで残してもと思うのだが、そうは「問屋」がおろさないだろう。
 
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盛夏の徳山ダム 湖底の記憶と何度目かの訪問

2017-08-14 17:41:55 | 想い出を掘り起こす
 名古屋の友人とともに、久々に徳山ダムを訪れた。
 ダムができてからは四回目ほどだが、それ以前、つまり徳山村全村がダム湖の湖底に沈む前、その徳山村から四囲の山ひだに触手を伸ばすように蛇行する渓流にアマゴやイワナを求めて何度も来ている。もう半世紀近くも前になるのだろうか。
 もちろん揖斐川の最上流地帯である本流にも竿を出したこともある。

        

 村の中心、本郷の他に下開田、上開田、戸入、門入という西谷方面、山手、櫨原、塚という東谷方面の集落名は今も記憶に残るが、もちろんいまとなっては全ては水の下だ。
 思い出すといろいろ切ないが、いちばん痛切に瞼に残るのは、ダムが完成し、貯水が行われはじめた頃に訪れたときであった。各集落の殆どは水没してしまっていたが、山手の高いところにある建物、例えば本郷にあった数少ない鉄筋建ての小学校跡は迫りくる水面と対峙するように残っていたし、話によると山側からはそこへ至ることができ、残された教室の黒板には、最後の生徒たちの寄せ書きが書かれているとのことだった。
 しかしいまや、それも水に飲まれ、その広大な水面からは、かつてそこに2,000人の人たちが豊かな自然と共生していたという痕跡を見て取ることはできない。

        

 なくなるものはなにによらず切ないものだが、とりわけここについていうならば、それだけの人々を追い出して作られ、その貯水量において全国一といわれるこの巨大なダムが、実は、高度成長期の脳天気な右肩上がりの水需要予測などをもとに作られ、状況が変わったいま、実際にはほとんど実効性のない壮大な無駄に終始しているという事実がいっそうその虚しさ切なさを誘う。
 水資源公団は、悪あがきの続きとして、湖底の殆ど動かない死水といわれる冷水塊を、隧道を掘って木曽川に導入しようとする追加計画をねっていると聞く。
 そのために、またもや何千億という経費を要し、土建屋を潤すこととなる。しかも、揖斐川上流の冷水塊を、木曽川中流に放出するというこの無謀な計画は、それによる木曽川の生態系破壊をまったく考慮に入れていない。

 ことほどさように、徳山ダムを見つめる私の眼差しは、個人的な思い出と、それらをぶち壊して強行された環境破壊の土建屋行政への公憤などが入り混じって複雑なものがある。

        

 ダムサイトで一息入れてから、旧東谷方面の湖畔に沿って北上する。先日までの雨による濁りが心配されたが、ここの膨大な貯水量は少しぐらいの濁りで全体の色合いが変わることはない。それに、近くの谷からの流入はそれほど濁っていない。
 整備された片側一車線の道路が終わって、昔ながらの林道になる辺りがダムの突き当りだ。かつてこの辺で、水没しきれなかったかつての流れや道路、橋梁や田畑の跡を見たことがあり、今回もそれを見たかったのだが果たせなかった。
 というのは、これまで濁りが少なかったと書いたが、ダムの北方、福井県境から流れてくる河川は濁流といってよく、前に水没跡を湖面を通して見た辺りも、すっかり濁りきった水の下になったしまっていたのだ。それにあの折よりも、全体に貯水量も増えているようだ。

        


 諦めて、西谷入口付近の徳山会館へ戻る。会館で展示などを見ながら話を聞いた人(館長?)とは、いろいろ話題が重なって面白かった。もちろん、旧徳山村の出身者で、話すうちに私の思い出の多くが改めて裏付けられた。
 そのひとつは、往年、私が夢中になっていた渓流魚の釣りについてだが、徳山のアマゴは水が良いせいか、みな幅広で立派だという私の記憶はみごとに裏付けられた。彼もまた、確信を持ってそれを断言した。

        

 もうひとつは、私の参画している同人誌の先達、Oさんをよく知っていたことである。Oさんは、徳山で産まれ、戦前、少年通信兵を志願してここを離れ、復員してからもいろいろあったが、この故郷へ帰り、ダムに追い出されるまでここで過ごした人だ。彼もOさんのことはよく知っていた。ただし、近況の方は私のほうが詳しいので、それらに話が弾んだ。

 彼が、かつて西谷へ入る道が、上開田までは通じていて、その途中にシッ谷の大ダル(滝)を見ることが出来るというので、地階でランチを摂ったあと行ってみた。
 つい最近降った雨のあとというので、路面には小さめだが落石があったり、木の枝が散乱していたりしていささか心細かったが、距離も近いというので出かけてみることとした。

        

 少し行くと小さな滝と思しきものがあったので、それかなと思ったがどうも違うようだ。これは単に雨で増水した小さな沢が飛沫を上げているに過ぎなかった。さらに進むと、今度こそほんものの大ダル(滝)があった。木立に囲まれた山間から押し出されるように落下する滝の姿はなかなか雄大で、途中アクセントもあってじゅうぶん絵になる。
 あとで調べたら、この滝の落差は3m+10m+2m(の三段滝)でさして大きくはないが、その滝壺が道路脇に迫り、道路下の橋をくぐってゆくとあって、すぐ眼前に滝壺が迫り、数字以上に大きく感じられ、かつ迫力がある。車から降り立つと、霧のような飛沫に全身が包まれて夏とは思えぬ涼しさである。

          

 しばらく涼を堪能してから、その道の終点へと向かう。かなりの急勾配だ。終点には、上開田の集落の記念モニュメントなどがあった。
 ここからのダム湖の景観もいい。ダム湖の突き当り付近に、福井県境にある冠山が見えると聞いてきたのだが、到着と相前後して雲が出はじめ、最初、うっすら見えた冠山をすっぽりと飲み込んでしまった。
 しばらく待ったが、雲が薄れる様子もないので、写真に収めるのは諦めた。

        

 ダムで仕切られた人造湖など、そんなに何回も来るものでもあるまいが、私にはなんとなく郷愁に似た思いがあって、冒頭に書いたように何度も足を運んでいる。
 おそらくは、この湖底に沈んだアナザーワールドを知っていて、なおかつ、それらが水責めの刑のように水に侵されてゆく経由も目撃しているからだろう。
 戦争の記憶同様、やはりこの湖水の下に埋められたものたちの記憶は伝えられてゆくべきものだろうと思う。


 
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「燕雀相賀」はもう死語なのだろうか 私の「燕」考

2017-08-07 01:35:24 | よしなしごと
 「燕雀相賀」という言葉がある。人家の軒に巣をかける燕や雀も、人家の完成をともに祝っているという意味である。燕雀と人の暮らしの近さからうまれた言葉である。

 しかし、報じられているように、最も身近であった雀の数が近年、減少している。環境の変化にもよるが、ひとつには雀が巣をかける場所が減っているということだ。これは、建築様式の変化だが、一見和風建築に見える家が、実際にはこれまでの家と違って、軒と瓦との隙がまったくなく、巣がかけられないということらしい。
 では、燕の場合はどうだろうか。

              

 燕が軒先などに巣をかけた場合、やがて子ツバメが顔いっぱいの口を広げて餌をねだる様子や、成長した子燕たちが巣立ってゆく有様を慈しむように眺めてきた伝統がこの国にはあった。毎年々々のそんな繰り返しを。
 私が疎開していた農家の母屋にも、軒下ではなく家の中の土間の梁に毎年巣をかけていた。いくら治安が良かった昔の農家でも、一年中、戸を開けっ放しにしておくことはないのだが、ではどうやって燕が出入りしていたかというと、土間に通じる軒下の箇所に、10センチ四方ぐらいの穴が開けてあって、そこから彼らは出入りをするのであった。猫好きの人が、ネコ専用の出入り口を作ってやるのと同様である。

 そうして、毎年、燕がくるのを待つ。もう、あちこち飛び回っているのに自分の家だけに来ないと「今年はどうしたのかな」と気を揉み、やってくると「おう、遅かったじゃないか」と安堵するといった具合だった。
 こうして、燕と人とは完全に共存、共住してきたのだが、そればかりではない。農家にとって、燕は田畑の害虫をとってくれる大切な共働者でもあった。いまのように農薬で虫を殺すことがなかった時代であれば、なおさら彼らの存在は貴重であった。

           
                「月夜桃に燕」歌川広重(部分)

 ところで、昨今は、燕が軒先やガレージに巣をかけると、周辺が糞などで汚れる、車が汚れるということで、叩き落としてしまうことがあるらしいのだ。私自身、その現場を目撃したことがある。
 かつての農家のように相互依存の関係もないわけだから、追い払おうとするその言い分もわからないでもない。ただ叩き落とす前に、何らかの対策を講じるなど方法はないものかと考え込んでしまう。

 そんな時代になったからだろうか、もうかなり前、私が30代の頃、福井と岐阜県境の石徹白の民宿での一夜をしみじみと思い出す。その折、私たちの一行は、石徹白川やその支流に、アマゴやイワナの渓流魚を求めて行ったのだが、いまのように高速などができていない頃で、その少し前までは秘境とさえいわれていた山深い集落の石徹白、名古屋・岐阜からの一日の強行軍ではとても釣りを満喫することができなかった。

 そこで集落内にあった民宿に宿泊したのだが、それは今いうところの民泊であろうか、いわゆる営業用に改築などされた職業的民宿ではなく、ありのままのその住居に泊めてもらうということで、いってみればフスマひとつ向こうには、その家の家族が寝ているようなそんな民宿だった。

           
        旧国鉄の特急つばめ号 乗客中央は日本最初のボクシング
          世界チャンピオン白井義男の対戦相手 ダド・マリノ


 私たち一行は、一番大きい部屋(8~10畳)に通されたのだが、なんだか様子がおかしいのだ。夕間詰めまで釣っていたせいで、私たちが到着した折には、すでに夕餉の用意がなされていたが、その食卓が、本来なら部屋の中央にある電灯の真下あたりにしつらえられているはずなのに、部屋の隅の方なのである。
 私たちは、その異変の原因にすでに気づいていた。

 その部屋の電灯の近くには、なんとツバメの巣があり、しかも、もう子が孵っているのと電灯でまだまだ明るいのとで、ときどきそれらが鳴き交わしていたのだ。そしてその下には、建築用のブルーシートが敷かれ、さらにその上に新聞紙が敷かれていた。もちろん彼らが垂れ流す糞対策であった。
 私たちはそれを避けたところで食事をし、かつ、眠るということになった次第なのだ。民宿の主は、「お燕さんが来とるもんで」とさして申し訳なさそうでもない言い訳をポツリと呟くのみだった。

 私たちは「郷に入れば郷に従え」で、これもまた乙な風俗と誰もクレームなどはつけなかった。それに誰もが、小さく開けた盆地に谷の水を引いたわずかばかり田んぼにとって、害虫を捕食してくれる燕たちがいかに貴重な存在であるかを常識として理解していた。

 物心ついてすぐに疎開を余儀なくされ、農村で数年間を過ごした私にとって、そしてまた上に書いたような事柄を少なからず体験していた私にとっては、人と燕との共存は当然のことであり、親から子へと語り継がれ、民宿の主がいうごとく、「お燕さん」として軒先のみならず一番大きな部屋を提供することが不自然でも何でもないことはとうぜんの了解事項であった。

           

 しかし今、燕は人の住居の周辺を汚すけしからん鳥として迷惑視され、ときによっては、先程みたように暴力的に排除されようとしている。それを一方的に非難するわけにもゆかないだろうが、少なくとも、殺傷沙汰ではない形で対応できないものだろうかと重ねて思う。

 いまは市街地の郊外で、だんだん少なくなってゆく田んぼを見つめて暮らしている私にとっても、春から秋にかけての訪問者を心待ちにする気持はつよい。私の家に巣をかけることはないが、それでも周辺にその姿見かけるとなんだかほっとする。
 逆に、春先になっても見かけることがないと、なんとなく落ち着かない。
 
 以下に載せるのは、昨年、私の窓の下の休耕田で乱舞する燕のグループである。
 今年はこの休耕田が埋め立てられ、四軒ほどの家が建てられつつある。そうすると、来年には、こんな風景も見られなくなるだろう。

 https://www.youtube.com/watch?v=dSAEJrAJKGc

 もし燕に歴史家がいたとしたら、かつて益鳥として、「お燕さん」とまでいわれた自分たちの一族が、いまや害鳥扱いされ始めたことの理不尽さをどのように記述するだろうか。
 そして、冒頭に掲げた「燕雀相賀」という言葉は、完全に死語の領域に追いやられたのだろうか。


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七〇歳を過ぎてから絵筆を握った丸木スマの作品を観た

2017-08-05 11:57:29 | アート
 実現可能かどうかはまだ分からないが、あまりあちこち行けなくなったら、絵を書いて過ごしたいと思っている。絵心みたいなものはあるが、それを表現する才能だとかバックグラウンドの基礎的技法などはまったくない。だいたいデッサンの経験もなく、いまからそれにチャレンジしようとは思わない。
 とりあえず、描くということ、というか、描くという行為自体を始めてみることだろうか。

             

 そんな折、若い友人、大野左紀子さんのブログに触発されて、七〇歳過ぎてから絵を描き出した丸木スマの絵画展を観に行った(一宮市三岸節子記念美術館 8月13日まで)。
 丸木スマは、「原爆の図」などの丸木位里、俊夫妻の母ではあるが、七〇歳を過ぎるまでは、普通の働く女性で、ふとしたはずみで絵筆を持ち始めたという。

          
 
 初期のものについては、なるほど、はじめて絵を描く老人はこのように描くのか、といった感じであるが、観てゆくうちに、それが彼女の個性として昇華され、さらに色彩の多様性やバックの独得な処理へと進化し、誰も彼女のようには描けない領域を生み出してゆくのがわかる。
 彼女の描きたいという力が、絵画という領域のなかで、あるいはその周辺で、確実に彼女のテリトリーを、しかも発展途上のそれを築き上げてゆくのだ。

              

          

 観てゆくに従い、私はこういう絵を「描かない」から「描けない」に変わってゆくのがわかる。彼女に比べ、私には余分な制約、既成概念の蓄積が多すぎるのだ。そういうものを振り払って、私が描きたいもの、描きたいという衝動そのものに向き合うことは不可能なのだろうと思う。

           
           

 第三者の視線を多かれ少なかれ内面化してしまっていて、その基準による計算づくを振り払うことは至難のことである。とくに私のような小心者の自意識過剰人間にとっては。
 極めて平凡な言い方になるが、スマの「ノビヤカサ」は私の対極にあるのかもしれない。それだけに、私を魅了するものがある。

 こんな絵は私には描けない。それでもいつの日か絵筆を握るかもしれない。
 そんな折など、これらスマの絵を想起して、自分の小賢しさを恥じることになるかもしれない。それでも描くという衝動があるようなら、描いてみたい。

              
               美術館正面の三岸節子の立像

*三岸節子記念美術館 三岸のかつての実家、織物工場の跡地に建てられたもので、ノコギリ型の工場が散見できたりするなど、周辺にその雰囲気が残っている。
 一階は三岸の常設展示場だが、年に何回か展示内容が変更されるという。
 そして二階が、今回のような特別展の会場になっている。
 なお三岸節子は一宮の名誉市民になっているが、ほかに、戦中戦後、女性の参政権や普選運動など女性の権利のために活躍したい市川房枝もこの地の名誉市民である。

           
             帰り道、岐阜羽島の近くで見かけた蓮田
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