六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

桑の実が熟す頃、田均しが始まる。

2012-05-31 17:19:17 | 想い出を掘り起こす
   写真の説明は後半です。

       

 先般来の田起しがひと通り終わったところで田んぼに水がひかれ、田均しが始まりました。
 農作業を観るのが好きです。
 実際の経験としては、疎開先の母の実家で小学生の頃、手伝いだか邪魔だかわからない程について回ったことがある程度です。
 その頃、田舎では田植え時期と稲刈りの時期には、学校でも農繁期の休みというものがあって、一族郎党、揃って野良へ出たものです。
 小学生も必要な労働力とみなされていたということで、その間はちゃんと働いたのです。

 私も一応、生きていれば130歳ぐらいの祖父に教えられて田植えをしたことがあります。 
 人差し指と中指を伸ばし、その間に苗を挟むようにし、親指を添えてそのままっスーっと田の泥の中へ差し込むようにするのです。この時、稲をしっかりキープして、ある程度深く差しこむようにしないと後で苗が浮いてきてしまいます。

 稲刈りは刃物(鎌)を使うのでもっぱら大人の仕事で、私たちははざ掛けのところまで稲束を運んだりしました。

    

 田植えも稲刈りも全て手作業でした。加えて除草剤などは一切使いませんから、田植え以後は雑草との戦いです。田の中を這うようにしてそれを取り除きます。
 その作業は夏中、炎天下の中でも続くのです。

 百姓の仕事は地と向かい合う、つまり、腰を曲げてまさに這うようにする仕事がほとんどでした。ですから昔は、年配のお百姓さんには腰が曲がった人が結構いました。それでももちろん田へ出続けたのでした。

 そうした田んぼでしたから、そのなかにはいっぱい水棲の小動物たちがいました。
 田植えをしていてもゲンゴロウやミズスマシ、アメンボがスイスイ泳いでいました。フナやメダカ、それに野田、ア、間違い、ドジョウなどが足に当たるほどいました。

 厄介なのはヒルです。知らない間に足にくっつき血を吸います。怖いのではありません。従兄弟などとヒルが吸い付いたままの足を見せ合って自慢します。
「ほら、三匹くっついたぞ」
「俺は五匹だ」
 といった具合です。ひとしきり放おっておくと吸った血でヒルがまあるく太ってきます。
 「こんちくしょう」
 と言って引っ張るのですがなかなかとれません。

 とってしまえば大した傷口でもないのですが、それでも大変です。
 後で猛烈に痒くなるのです。
 どうやら、血液を凝固させない成分を分泌しながら吸うようで、その成分が痒みを誘うのです。このあたりは蚊と同じですね。
 履いているわらじでもう一方の足の痒いところをこすります。
 たいてい両足ともやられていますから、代わる代わる足を上げて掻くのです。

       

 でも今から考えるとこういう田んぼはいい田んぼだったのでしょうね。
 自然と共生していて、いうまでもなく有機農法で、化学成分が混入する余地はありません。
 しかし、先ほど述べた作業様式からいって生産性はこんにちのものと桁違いでしょうね。
 この頃では、田起しも田均しも、田植えも稲刈りも一反や二反はあっという間です。
 ですからこの辺りもほとんどは兼業農家で、農作業は土日にいっせいに行われます。
 もちろん農繁期のお休みなどというものはありません。

       

 これは祖母の方からよく聞かされたことです。
 「《米》はな、百姓が八十八回手を加えねばでけんのじゃ。それで米という字は八十八と書くんじゃ」
 なるほどと思うのですが、床に落としたご飯粒も、「米には八十八の・・・」とか「一粒の米でも一年経たねばでけんのじゃ」といって拾って食べさせられるのには閉口しました。
 しかし、そうした刷り込みは力を持つもので、今ではこぼしたご飯も余程のことがない限り拾って食べます。

 
 
 前半の写真は私の家の北側の田んぼで始まった田均しです。
 このお兄ちゃん、いつも一人で黙々と作業を進めます。
 土日以外にも作業をしますから専業かもしれません。
 古い農機具も大事に使います。
 どうも有機農法に挑戦しているようです。
 このお兄ちゃんの作業を見るのが好きです。

 側溝の写真は田へ水をやるためのものです。
 かつては自然の小川で、私の子供たちもここで小ブナやドジョウを捕りました。
 しかしいまや完全なコンクリート製の溝で、田に水が必要な折のみ、近くのポンプで組み上げた水が流れます。
 したがってかつてのような水生動物の影は皆無です。
 写真にある緑のものは水棲の植物ではなく、干上がっている間に生えた草たちです。

 

 その他の写真は、家の南側にある桑の木とその実です。
 今年は豊作でびっしり実をつけています。
 桑の身は緑、白、赤、紫、黒、と色を変化させます。
 このうち、食べて美味しいのは最後の黒です。
 紫と黒の境界は見極めが難しいのですが、触るか、軽く引っ張ってポロリと取れてくるものが完熟で甘くて美味しいのです。

 採れた実は、例によって娘が勤める学童保育のおやつに持たせます。
 都会の子たちが興味津々でこの実を見つめ、そして味わってくれることを期待して。

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六文銭の愉快な仲間を紹介します。

2012-05-28 02:01:43 | 写真とおしゃべり
 これはは梅雨時の話題かもしれません。
 
 そういえば、4月28日に沖縄の梅雨入りが発表されて以来、梅雨の話題がとんと出てきませんね。ちょっと調べてみたら、去年の今頃は九州から東海地方まですでに梅雨に入っていました。
 ところが今年ときたら、昨日など雲ひとつないような晴天でした。これはやはり庭の草木に水をやらねばなりません。

 そこで水を撒いていたらどこかから嬉しそうな声が聞こえます。
 「ん?どこかな?」と手を止めて探したらいました。
 さすがアマガエルというだけあって水には敏感なようです。

       

 いま水を撒いたばかりの葉蘭の上にすまし顔で鎮座しています。
 さっそく携帯を取り出して、「はい、ポーズ」です。
 このカエルじつに人懐っこくて、接写機能を使って10センチぐらいのところから撮ったのですが、全く逃げようとしません。

 ですから容易に捕まえることができます。
 今日はしませんでしたが、前なんか捕まえて手のひらに乗せても、しばらくはそのままじっとしています。そのひんやりとした感触はじつに気持ちがいいのです。
 よくこれで外敵から身が守れるものだと感心するやら少し不安に思うやらです。

       

 このカエル、小さい上にその容姿がなんとなくユーモラスですから結構人に愛されるようです。俳句にもけっこう登場するのですが、この場合は「青蛙」として出てくる場合が多いようです。

 正直にいって、私はアマガエルと青蛙は一緒だと思っていましたが、生物学上の分類は違い、その容姿もかなり違います。ここに載せた写真はアマガエルで、青蛙に比べてこちらのほうがうんと可愛いようです(青蛙さん、ごめんね)。

 で俳句の方ですが、ここで詠まれている「青蛙」は、ほとんどが「アマガエル」のことだそうです。
  
     梢から立小便や青がへる        一茶
     恐る恐る芭蕉に乗って雨蛙       夏目漱石
     青蛙ぱつちり金の瞼かな        川端茅舎 
     雨蛙飲まず食はずの顔をして      右城暮石


 などなど、どれをとってもいささか川柳的ですね。俳諧の諧は諧謔の諧だとはいえ、やはり対象が愛らしくてユーモラスだからだと思います。

       
 
 極めつけは芥川龍之介のものですね。

     青蛙おのれもペンキぬりたてか     龍之介    

 確かに艶のある鮮やかで明るい緑は「ペンキ塗りたて」を思わせますね。観察と比喩の面白さですね。

 さて、このカエルは人懐っこいといいましたが、こんな映像があります。
 まずはその鳴き声ですが、どうもひとの鳴きまねに反応するようで、この動画ではとりわけ子供のやや高い声に反応しているようです。
  
 http://www.youtube.com/watch?v=7h9pK6ArrAk

 続いては、ひとが猫じゃらしよろしく毛髪状のようなものを動かすと餌と誤認して飛びつく様子が伺えます。
 そればかりではありません。その指や爪に対してもパクリパクリと食らい付くのです。

 http://www.youtube.com/watch?v=hpU2uxjnyZc

 面白いですね。

       

 さて、私も一句とひねってみました。
   
     孤老慰めてひと鳴き雨蛙    六文銭
 
 だめだなぁ、私のは川柳のつもりなのに、上の俳句よりも硬いですね。だいたい、孤老なんて漢語を持ってくるのが失敗のもとでしょう。
 さあ、諦めて、遊んでもらったお礼にもうひと撒き水をくれてやるか。

     雨蛙水進ぜよう鳴くがよい   六文銭
 

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グルジアから英雄がやってきた! 身辺雑記など

2012-05-25 01:27:50 | よしなしごと
 標題でそれが誰のことか分かる人はやはり年配の人だろう。
 グルジアはかつてロシア帝国の領土であり、ロシア革命後は1991年までソヴィエト連邦の一部であった。
 このグルジアに1878年に生を受け、レーニンに次ぎ、ソ連の2代目の指導者になったのがヨシフ・スターリンであった。彼はヒトラーと並び、20世紀を震撼させた全体主義の象徴となるのだが、それが今回の記事の主旨ではない。

       

 内視鏡手術後3日以上が経過し、さまざまな禁が解けたので、久々に農協へ行ったら、破竹が出ていたので早速ゲットしてきて湯がいた。
 破竹は硬い部分と柔らかい部分の見極めが難しい。大枚250円(4本で)をはたいたのだからと欲張ってぎりぎり包丁が立つところまで使ったら、果たして硬い部分が残ってしまった。

          

 午後、宅配便で毎月3本ずつとっているワインが届いた。
 などというと優雅な生活を送っているようだが、月々2,550円だから一本あたり800円余の贅沢である。
 このシリーズ、毎月違う国や地方のワインが送られてきて楽しい。
 今月はグルジアのワインだった。

 ちょうど、H・アーレントの『全体主義の起源』の解説書の、ソ連についてのところを読んでいて、当然スターリンも登場しているので、その奇遇に驚いた。
 私の年代になるとグルジアと聞けばすぐスターリンを連想するのだ。

       

 ところでこのグルジア、ネットで検索すると、スターリンの出身地ゴリ市では、今なお市役所前に銅像が立っているという。一方では、スターリンの子孫が「もうここには住みづらい」といって国外へ出たという話もあって、いろいろ複雑なようだ。
 検索ついでに、ヒットしたのはグルジア出身の力士たちで、現在、十両以上には臥牙丸、栃ノ心、黒海の三人がいるようだ。黒海はなんとなくそれらしいが、ほかは全く知らなかった。

 ついでながら大相撲も、国技だの何だのとしゃちほこ張らないで、この際、抜本的な改革を行い、オリンピック正式種目を目指したらどうだろう。かつて、柔道がそうであったように。まあ、これは余分なことだ。

          

 閑話休題。
 ところで、せっかくきたワインだが、6月3日まではお預けである。
 術後の諸制限が緩和されたとはいえ、飲酒は2週間のご法度で、その解禁日が6月3日なのである。その日になったら、赤でも開けようか。

 夕方、近くを散策。去年までちゃんと耕作されてきた田んぼが、今年は田おこしもされず放置されている。三方を住宅に囲まれ(とくに南側は高い建物)、一方はバス通りという離れ小島のような田んぼなので、もう米作りを諦めたのだろうか。それとも、この農家に何か変事があったのだろうか。
 野次馬根性がむくむくもたげて気になることしきりだ。いろいろ事情はあろうが、田んぼが減ってゆくことは少なからず寂しい。

       

<追記>写真を撮っていて気づいたのだが、グルジアのアルファベット表示は「GEORGIA」で、これはアメリカのジョージア州と同じ綴りで発音も同じだという。
 ただし、語源的にいうとグルジアのそれはキリスト教の「聖・ゲオルギウス」に端を発するのだそうだ。一方、ジョージア州のそれは、当時の英国王ジョージⅡ世によるという。
 なるほどと、ここで納得しないところが六の野次馬根性。
 ではヨーロッパでの「ジョージ」という名前の由来はと探ってみると、なんとやはり「聖・ゲオルギウス」に行き着くではないか。
 ちなみに、「ゲオルギウス」の語源は「大地(geo)で働く(erg)即ち農夫」とのこと。

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忍者の撒き菱? と間奏曲としてのお相撲の話

2012-05-22 01:32:41 | インポート
 稲の品種(はつしも)からして田植えの遅いこの地区では、やっと田起こしが行われつつあります。
 これまでどこにいたかと思われるようなムクドリの群れがやってきて、掘り返された虫けらたちを求めて耕運機のあとをついて回るユーモラスな風景があちこちで見られます。
 近くの苗代を見たら稲は15センチほどに成長し、もういつでもいいよという感じでスタンバイしていました。

       

 私の窓から見える田んぼは、比較的のんびりしていて、昨日やっと田起こしをしました。その前日、この田圃で青黒く点々としているものの写真を撮りました。
 都会地の人にはなんだかわからないかもしれませんね。
 この青黒いものはそのまま鋤き込まれましたから、たぶんまた来年現れるはずなのですが、その答えは最後の写真に譲ります。

              

 話はその前日に飛びます。たまたまつけたTVで旭天鵬の優勝シーンを見ました。
 花道を引き上げる時、ほとばしるような涙を流していたのが印象的でした。

 相撲のことはあまり詳しくはありませんが、幕内最年長(しかも歴代で)の優勝のようです。しかもこの人、相撲界にモンゴルブームを呼ぶこととなったそのモンゴルからの一期生なのだそうです。
 ようするに、白鳳はもちろん、朝青龍などよりもうんと先輩らしいのです。
 それでいて初優勝。涙がでるはずですね。
 説明や解説を聴いていて、「ああ、この人でよかったな」という祝福の気持ちが自然に湧いてきました。

       
 
 これも説明で知ったのですが、この人の優勝でモンゴル勢の優勝回数は50回目だとのこと、これにもいささか驚きました。

 私がある新聞社の時事川柳欄に「君が代が虚しく響く国技館」と投稿して入選したのはもう10年ほど前でした。その頃は、まだこんな句でもそれなりに時事性があったのですが、現在、こんな句を投稿しても絶対に採用されないでしょうね。今では時事性もニュース性も全くない当たり前のことになってしまっているからです。

 さて、上の青黒いものの正体は、ここに掲げたレンゲ花が変化したものです。
 花が散り、そこにできた青黒いさやの中に実が入っているわけなのですが、よく見ると、もうはじけて実が飛び出たものと、まださやが閉じているものとがあります。

       

 昔はこれを鋤き込んで肥料にし、そのためにわざわざ収穫後の田にその種を撒いたのですが、いまや化学肥料全盛の時代、かえって適正な肥料の投入を混乱させるとかであまり積極的にはレンゲを育てないのだそうです。
 ですから、私が子供の頃そうであったような一面に広がるレンゲ畑はほとんどなくなりました。
 実はこの花、岐阜の県花なのですが、そのお膝元においても一面のレンゲ畑はもはやそんなには見られないのです。


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月はどっちに出ている?

2012-05-21 14:15:47 | よしなしごと
 日蝕は観なかった。
 次回にしようと思う。
 次回はこの辺りだと2041年10月25日だそうだから、私は102歳と364日、あと一日で103歳になる日。  

 私は大丈夫だとしても、そのころまで太陽や月は元気でいるだろうか?
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「切られ与三郎」ならぬ「切られの六」

2012-05-20 02:31:17 | よしなしごと
 今月はよく切られる月だ。
 ついこの間、首の脂肪の摘出手術をしたばかりなのに、今度は内蔵だ。

 去年、内視鏡でS字結腸のポリープを切除して一年、その予後の検診ということで軽い気持ちで出かけたが、今度は別のところに見つかってまた切られてしまった。

 で、術後の注意事項としては、今日一日は自宅軟禁(自宅安静)、3日間は流動食を中心に小分けをして食べること、風呂もシャワーのみで5分以内に済ますこと、肉体労働は汗をかかず体に負担をかけない程度、そして極めつけは14日間の禁酒。

          

 これでも昨年、20ミリと12ミリのふたつをとり、「ひと昔だったら開腹しての除去だ」と脅され、戒厳令的な制限つきだったことに比べれば多少楽な方である。
 なんたって、今回はたった3ミリの小粒のものだったから。
 医師曰く、「とらずに済ますこともできなくはないが、まあ、この際、<疑わしきは罰す>でしょうな」とのこと。最終的には私も同意。

 ただし、小さくともその質が問題。
 その検査結果は28日以降だとのこと。
 とても静かな老境とはいえぬ日々ではある。

 胃の方の内視鏡検査もしたため(こちらはややただれ気味だが一応異常なし)、朝の9時から午後の5時半までかかった。
 待ち時間などに、持参した小難しい雑誌の論文を三本読み、あとは iPod nano 三昧。
 クラシックにジャズ、小林秀雄の講演まで聴いた。
 持って行って本当に良かった。
 看護師さん(若い女性)に、「お若いですね」と冷やかされた。

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生活保護受給へのネガティヴ・キャンペーンに抗議します。

2012-05-18 00:10:07 | 社会評論
      写真は本文とは関係ありません。

 お笑いコンビ「次長課長」の河本準一氏の母親が生活保護を不正受給しているのではないかというニュースが週刊誌などで面白おかしく報じられ、その尻馬に乗って世耕弘成や片山さつきといった参議院議員が国会でもとりあげる動きを見せているそうです。
 それに対し吉本興業から、生活保護を受けていたのは事実だがそれは河本氏が無名時代であり、現在は受給しておらず、不正受給ではないと反論のコメントが出されました。

       

 こうした事態のなかで、本来はもっと注目さるべき問題が見過ごされていて、そちらの重要性が完全に隠蔽されたり歪められたりしていることに激しい怒りを禁じえません。

 そのひとつは、メディアが不正だと確定しないままに、誰それが生活保護を受けているというプライヴァシーに属する問題を公然と報じ、国会議員までが軽率にもそれに乗って非難中傷の片棒を担いでいるということです。

 それ自体が問題なのですが、さらに重要な問題があります。それは時折見かけるこうした「不正」受給を面白おかしくとりあげる報道が、本来、生活保護を受ける権利を持つ人たちを抑圧するネガティヴ・キャンペーンになっているという事実です。

       

 あらためて言うまでもなく、この競争社会、格差社会において、経済的困窮に追い込まれる人は次第に増加しつつあり、そうした人達へのセーフティ・ネットとして生活保護はあります。
 それは、そうした人たちの個人としての責任ではなく、そうした人たちを一定の割合で必然的に生み出す現実においては、その受給は当然の権利としてあるべきものなのです。

 しかるに、この国の生活保護の受給実態はどうでしょうか。国が定めた受給資格によるその対象となる人々のうち、実際に受給している人の割合を「生活保護の捕捉率」というのですが、この国のそれは、近年増加しつつあるといわれているものの、それでもわずかに20%なのです。
 ようするに、生活保護を受ける資格のある人のうち、五人に一人しか受給していないのが実情なのです。
 この数字がいかにひどいものであるかは、イギリスの捕捉率が90%、アメリカのそれが75%であることからしても歴然としています。

 なぜこんなことが起きるのでしょうか。
 それはひとつには貧困を自己責任とする全く誤った考え方があります。格差がますます激しくなる現状が示すように、国民の一定数は貧困たらざるを得ないというのが現実なのだということに思いが至らない考え方です。
 にもかかわらず、そうした自己責任論が幅を利かせ、その影響は受給資格者にまで及んでいるのです。

       

 さらには、実際の受給に関しても問題があります。厳しい監視の目でチェックされ、買い物や預金、子供の塾通いまで問題視されます。ようするに、自由と引換えにしか受給できない仕組みなのです。
 ですから、その資格があるにも関わらず申請すら行わない人たちが多くいます。そしてその結果として病気の治療も受けられないままの孤独死や、親の白骨とともに暮らし続けるというグロテスクな事態も生まれます。

 それに加えて今回のようなネガティヴ・キャンペーンです。メディアは不正と思われるもののバッシングには牙をむくのですが、上に述べた受給の捕捉率の問題をいっさい伝えようとしません。国会議員たちはもちろんこの事態に責任がるわけですが、それを是正するどころか自らの売名のためにこのネガティヴ・キャンペーンの先頭に立つ始末です。

       

 もしそこに不正受給があったとしたら、それを告発することを否定するわけではありません。しかし、メディアはそれを報じると同時に、受給資格者でありながら受給していない80%の人たちに対し、その権利を行使し、悲惨から抜け出るよう呼びかけるべきなのです。
 それを棚上げした今回のようなネガティヴ・キャンペーンは、受給資格を持った人びとに対し、その門戸を閉ざす役割しか果たさないことは明らかです。
 
 なお、最後に申し添えますが、生活保護などのいわゆる福祉は、その対象者以外の人による「憐憫」の対象ではないということです。それは、既に見た現状からして、その人たちの正当な権利であり、その権利の行使を憐憫としてではなく、その正当性において承認することは、この社会をこのようなものとして維持し続けている私たち全員が果たすべき義務なのです。
 

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衝動買い アルゼンチン・タンゴなど

2012-05-16 15:56:50 | よしなしごと
 久々に衝動買いをしてしまった。
 アルゼンチン・タンゴなどのCD三枚である。

 アルゼンチン・タンゴが好きだ。
 コンチネンタル・タンゴも嫌いではないが、ヨーロッパ色に染められたそれよりも、ワイルドな匂いがプンプンするアルゼンチン・タンゴが好ましい。

       

 かつては、ラジオなどでもそこそこ聴くことができ、紅白でもしばしば歌われたりしたそれだが、どういうわけかここのところすっかりマイナーなジャンルになってしまった。
 むしろ、クラシックの分野で、アストル・ピアソラの「リアルタンゴ」などをマルタ・アルゲリッチやヨーヨー・マの演奏で聴くことはできるが、それもまた、タンゴ特有の「俗性」を削ぎ落したかのようである。
 
 ディスカウントのようなCDの売り場でそれらを見つけ、思わず「聴きたい!」という衝動に駆られ、手が伸びたのもそのせいがある。

 バンドネオンがリズムを刻み、バイオリンがすすり泣き、その間を転がるようなピアノの旋律が行ったり来たりする、そこにしばしば哀愁を帯びた歌声が加わる。
 もともと、ブエノスアイレスの港町にたむろする女たちのセックス・アピールを喚起する音楽、それに合わせて、船員など根無し草の男たちが吸い寄せられる音楽、そこには、恋愛、結婚、家庭、子育て、などといった生産性に基づく男と女との出会いとは全く異なる、デラシネたちの出会いと別れが一夜の火花となって交錯している。
 そしてそれが、アルゼンチン・タンゴの魅力だと思う。

       http://www.youtube.com/watch?v=SO6KmbyB88Q

 買ったCDのうち一枚は、フランシス・カナロ、ファン・ダリエンソやカルロス・ディ・サルリなどの大御所の演奏を集めたアンソロジー(というかごった煮)、そしてあとの二枚は、ピアソラ以降の若き才能と言われるアトス・バッシーシを中心としたもの。「TANGO MANIA」は伝統的なタンゴの曲集で、バッシーシのバンドネオンとイレーネ・ヴィオーニの歌(これがかなりいい)が入り、「TANGO NEGRO」はバッシーシの作曲になる叙情的なネオ・タンゴの曲集。
 
 バッシーシは、実はイタリア人だが、ラテン民族の血のせいか、それなりにパッショネイトな演奏を聴かせる反面、しっとりとした曲やジャジィなものも作っている。

 なんたって三枚合わせて1,500円だから浪費のうちには入るまい。
 それに今日は、一週間前に首周りの手術をした抜糸の日だからその祝いだ。

 

 

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首の回らない男による桜ん坊の収穫

2012-05-14 17:18:27 | 写真とおしゃべり
 桜ん坊を採った。
 例年より数日遅い。
 去年あたりから実の付き方があまり良くない。
 樹そのものの寿命か、あるいは環境の変化か。

       

 そういえば、今日の「朝日」の「天声人語」は燕雀の減少を述べていたがたしかにその通りで、以前はこの辺でも肩にぶつかるのではと思うほどうるさく飛び回っていたツバメをとんと見かけない。
 先般、奥美濃へ出かけた折、彼らを見かけ、ああ、この季節になぜ我が家の方ではいないのかと気づいた次第なのだ。
 
 それらと関係があるのかどうか分からぬが、以前はこの桜が花をつけるとうるさいほどやってきたミツバチが申し訳程度に2、3匹しかやってこない。
 花の数の割に実の付きが悪いのもそのせいかもしれない。

       

 加えて今年は採る側にも異変があった。
 数日前、首にできた脂肪の塊の摘出手術を行い、まだ抜糸してないので首が突っ張ってよく動かないままでの収穫だった。
 無理して上ばかり向いていたせいか傷口が少し痛んだ。
 慌てて採りやすいところのみにして切り上げた。

       

 しかし、早く採らないと鳥たちにみんな食べられてしまうのだ。
 それに、娘の行っている学童保育の子供たちのおやつに季節の味を届けてやりたいし。
 今年はもう一度採れるかどうか。
 かつては一週間ほど連日、もっと大きなザルに一杯ずつ採れたのに。

 過ぎし日に思いを馳せ、今を憂う老人特有のルサンチマンなのだろうか。

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まとめて載っける横着日記 手術 絵画・写真展 映画などなど

2012-05-13 15:32:50 | よしなしごと
 5月はおでかけ続き。
 9日は外科で脂肪の塊の摘出手術。
 うずらの玉子ほどの物を取り出す。
 血みどろだ。
 手術の後、病院のすぐ近くの加納城址に立ち寄る。
 子供の頃の遊び場だった。
 いまは新緑真っ盛り。
 中高年や子連れママがお散歩。

 
    ツブラジイの見事な新「緑?」

 そこからかつての大手口の方へ出ると私が出た小学校がある。
 と言っても疎開先から帰ってきたのが5年生の三学期だから、そこに在籍したのは一年と少しだ。

   
                     こんな校章だったかな?

 10日は名古屋。
 同人誌関連の会合の後、北斎展へ。
 会場を間違えて慌てて引き返し、先ほど別れた人達と出会ってしまう。
 見つかってしまって恥ずかしかった。

 
      名古屋真ん中大噴水            北斎展を見終えて

 北斎はお馴染みの富獄系統のものもだが、その他に結構繊細なものもあって、例の『伊勢物語』の「芥川」のくだりを描いたものなど思わず欲しくなるほど優雅で美しい。
 「やわやわと重みがかかる芥川」という古川柳を思い出した。

 今池へ飛んで映画『ル・アーヴルの靴みがき』を観る。
 フィンランドの巨匠・アキ・カウリスマキの作品だ。
 彼の映画の登場人物はあまり芝居をしない。
 ただ淡々としてそこにいる。
 しかしそこには確実にドラマが紡ぎ出される。
 今回のものはやや甘いかなと思われるハッピーエンドだが、まあ、この人のものは先が見えても実に面白いからいいだろう。

 ちょっと飲んであまり遅くならないうちに帰る。

       

   

 11日は高校時代の同級生たちと会う。
 途中で金神社のナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)を観る。
 やはりこの樹は、ある程度樹齢を経ないと雪が降ったような花はつかない。
 そのうちのひとりが所属する写真クラブの発表会に出展しているのでそれを観る。
 ついでに隣で開催していたモノクロのミャンマーを取材した展示も観る。
 あとは懇談、というか飲み会。
 日立や東邦ガス出身がいて、原発問題やエネルギー政策について話が弾む。 

       
              農協のたけのこ 2本で250円

 12日は手術後の途中経過を見せに病院へ。
 農協で買い物。
 とあるスーパーで、ワインの2割引というのをやっていたので、いつも飲むクラスよりやや上のものを三本買って帰る。
 前日からいじり始めたiPod nano が楽しい。
 音楽を持ち歩くというのが実感だ。
 わずか4センチ四方のなかに、なんであんないい音が詰まるんだろう。
 今は、スメタナの弦楽四重奏曲を聴きながら書いている。
 当分この玩具で遊べそうだ。

       <photo src="v2:1637920779:l">
                   全国的に母の日

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