夏休みの宿題提出ですが、今年の夏のいちばんの思い出は10日間にわたるヨーロッパ(ベルリン・ライプチヒ・ワルシャワ)への旅です。
その折撮った何百枚かの写真の中から、自薦の何枚かを掲載してこの夏の絵日記といたします。
ヨーロッパ一人旅の旅日記のようなものをダラダラと書いてきたが、それ以降一週間ほどなにも書いてこなかった。単調な生活に戻って書くべきことがあまりないこと、参加している同人誌の締切が迫っていてそれに没頭していることなどなどが重なったせいもあるが、いちばん大きな理由は、最近、あまり写真を撮っていないことにあるように思う。
どういうことかというと、私のブログ記事はほとんど絵日記のように写真が先行し、それに説明をつけるように書かれてきたものが多いからだ。
写真を撮っていないのは、冒頭に述べた理由と、続いた酷暑のせいでもある。ヨーロッパの涼しさに一〇日間ほど馴染んだ体には、この間の四〇度近い日々には恐怖すらおぼえた。
かつては(私の「かつて」はずいぶん前だが)、夏の甲子園が終わると急に秋めいたものだ。しかも、今のように暑さ対策もなかったせいで、大会の日程はトントン拍子で進み、敗戦記念日の前後にはもう決勝戦を迎えていた。
今年の場合は、決勝戦は23日で、それ以後、雨のせいもあってやや暑さが和らいだから、「甲子園が終わると夏の終わりの気配が」という私の固定観念は結果的には変わらなかった。しかし、その終了が一週間ほど遅くなっているのだから、その差異が温暖化の進行を現しているともいえる。
日本は「春夏秋冬」のけじめがはっきりついているから素晴らしいという人がいるが、それがいくぶん怪しくなっている。温暖化の拡張は、夏への入りを早くし、その終わりを遅くしているから、寒暖のグラデーションの期間、ようするに春と秋が短くなっているようにも思われる。
ただし、春夏秋冬がはっきりしていて素晴らしというのは、それに合わせた生活様式、風俗習慣が出来あがっていて、そのなかで生活してきた立場からの言い分であって、赤道直下や南北極に近い地では、それに合わせた生活様式があリ、その様式からすればその地に住む人びとには、その気候こそもっともフィットしたものだといえる。
その土地の生産性が云々とか、資源が云々とかいった経済的指標はともかく、生活者にとってみれば、いずこも「住めば都」なのであろう。
知らない土地をまわり、まさに人の多様性、複数性に触れてきたいま、自分の生活やそこから生じた考えなど、まさに地球の片隅の取るに足りないものではないかとも思っている。
そんな謙虚な?というか自信喪失的なものもあって、ここへの記事も滞っているのかもしれない。
やっぱり写真がないと、話が具体的なものに結びついてゆかない。おそらくこれが始めての写真なしの記事だろう。
ワルシャワ蜂起の痕跡を見ること・・・・これが今回のワルシャワ訪問のひとつの目的であった。この事件は、国際的にはともかく、ワルシャワ市民にとっては忘れ難いもので、今も八月一日の同時刻にはサイレンや鐘が鳴り、市民は黙祷に伏すという。
ワルシャワ蜂起記念碑会館 右側の大きな塑像は残念ながら修理中
1944年7月31日、敗走するドイツ軍を追ってきたソ連軍は、ワルシャワ中心地区のすぐ東を流れるヴィスワ東岸に到達してた。そして、そのソ連軍とワルシャワ市内のレジスタンスの間で、翌8月1日を期してソ連軍はワルシャワ市内に進行し、それに合わせて、ワルシャワのレジスタンスがドイツ軍に対しいっせいに蜂起するという約定が交わされた。
左側の塑像にて 残念ながら写っている女性は私とは関係のない人
手前兵士は地下へ潜るようなポーズ アンジェ・ワイダの『地下水道』を思わせる
それに従い、ワルシャワ市内で訳5万人の市民が蜂起した。とはいえ、武器を持つものは数人に一人であり、ドイツ軍の兵庫を急襲するなどして武装率を高めていった。こうしてレジスタンスはその急襲により優位に立つかに見えた。
ワルシャワ蜂起の説明ボードなど
しかしである、わずか数百mのヴィスワ川東岸のソ連軍は約定に反し、補給の不十分などを理由に全く動かなかったのだ。これをみたドイツ軍は、レジスタンス撃滅作戦に専念することができた。
ソ連軍の動きがないまま、レジスタンスは果敢に戦った。それでも2ヶ月後の10月はじめには、ドイツ正規軍には歯が立たないまま、降伏を余儀なくされた。
記念碑館前の庭園にて
この間、ワルシャワ市民の死者は18~25万人、街から追放された市民約70万人に達した。前回述べた旧市街が跡形もなく破壊されたのもこの時期であった。
なお、ソ連軍がヴィスワ川を渡り、ワルシャワを「解放」したのは翌45年の1月であった。
王宮裏の庭園 向こうの赤い橋がヴィスワ川にかかるもの
『灰とダイアモンド』の映画監督・アンジェ・ワイダのもう一本の映画『地下水道』は、ソ連軍の援助のないなか、地下水道を拠点に戦い続けるワルシャワ・レジスタンスを描いたもので、私は日本公開当時(1958年)に観ている。
その映画のシーンにも、地下水道のヴィスワ川に面した鉄格子越しに、対岸に来ているはずのソ連軍を待望する映像があったような気がする。
この向こう側にいながら蜂起軍を見捨てたソ連軍
今回のワルシャワ旅行ではその記念碑を訪れたほか、「ソ連軍はここまで来ていながらなぜ蜂起軍に呼応しなかったのか」というヴィスワ川を確認した。前回書いた、徹底して破壊された旧市街からはほんの何百mの距離であり、ワルシャワ市民の無念さが改めて理解できる気がした。
さらに南方で撮したヴィスワ川に掛かる橋
ポーランド=ワルシャワは、かねてより、西はドイツ、東はロシアという強国に挟まれてその運命を左右されてきた。しかし、それにもめげず、またそれに全面的に屈することなく、したたかに自己主張をしてきた。
それがあの誇り高き44年の蜂起であり、その折の全面破壊を完全に復興した「新」旧市街の実現であるように思った。
厳密にいえばワルシャワに旧市街はない。なぜならここのかつての街は第二次世界大戦の激戦によって徹底的に破壊されつくされて、そんなものが残る余地がなかったからである。
最初に掲げた写真は、2002年公開の映画、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』のラストに近いスチール写真である。これだけ破壊し尽くされた街のどこに旧市街が残る余地があったろう。
にもかかわらず、旧市街は存在する。それはワルシャワの市民たちが、瓦一枚欠けることなくかつての街を復旧させようとしたからである。そうして出来上がったのが現在の旧市街である。
ワルシャワはもちろん初めての地、しかもいままでのようにK氏の案内は期待できない。しかし、いい点もある。ポーランド国内は、インターシティなどの鉄道を除き、近郊鉄道、地下鉄、トラム、市内バスなどが70歳以上は無料なのだ。外国人も含めてだ。
最初に会いに行ったのはショパン。ショパン博物館である。彼はポーランドの英雄である。紙幣にもなっているし、私が帰途利用したワルシャワ空港はフレデリック・ショパン空港と名付けられれている。もちろんこれは彼がポーランドの出身だったからだが、彼が名を成し、活躍したのはフランスなどの他国においてだった。
にもかかわらず、彼自身の中にはポーランドへの愛着は強く、数ある名曲のなか、「ポロネーズ」を18曲作っている。ポロネーズとは文字通り「ポーランド風」ということである。
私自身の経験で言えば、若き頃観たアンジェ・ワイダの映画『灰とダイヤモンド』のラストで流れる「英雄ポロネーズ」がいまも忘れがたく耳に残っている。
少し迷ったが、無事到着。そこで私は今回の旅で始めて私以外の日本人と出会った。やはり単独行の若い男性で、これは頼もしい、今後のワルシャワ散策の参考になるかも知れないと密かに期待した。
ともに入場した。しかし彼は、どの展示場でもさっと目を通すのみでどんどん歩を進め、あれよあれよという間に出口付近に達してしまった。
どうやら彼は、ショパンや音楽には関心がなく、ワルシャワへ来た以上ここにはという案内に従ってやってきたのみで、まるでアリバイ作りのような行動なのだ。
これはたまらないと、「私はもう一度観ますから」と出てゆく彼と出口付近で別れ、最初の展示へと取って返す。
もう一度、各展示を見回る。経歴や楽譜、楽器などが並ぶ。ライプチヒでのバッハのオルガンは経年のため、バッハ当時のものとしてはその基体しか残っていなかったが、ショパンのそれはアップライトもグランドピアノもそのまま残っていた。ただし、パリ時代のもののようだ。
その後、最上階にある彼がしばらくともに暮らしたジョルジュ・サンドのエッチングなど眺めて、この館とおさらばした。先の男性と行動をともにしなくてよかった。