六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

夏休みの宿題提出 思い出の絵日記から

2024-08-31 16:48:52 | 写真とおしゃべり
 居座った台風のなか、夏が終わろうとしています。
 夏休みの宿題提出ですが、今年の夏のいちばんの思い出は10日間にわたるヨーロッパ(ベルリン・ライプチヒ・ワルシャワ)への旅です。
 その折撮った何百枚かの写真の中から、自薦の何枚かを掲載してこの夏の絵日記といたします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
これのみ説明を入れます。自転車が差し掛かったのはかつて東西ベルリンを隔てていた壁の跡です。三十数年前なら、銃撃されていたかもしれません。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
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やったぜ!逆転大勝利!

2024-08-27 16:00:20 | よしなしごと
 
 大谷のことではない。私のことだ。
 朝目覚め、空を見る。どんよりした曇り空。
 ネットでこの地方の一時間天気をチェック。
 午前はずーっと雨マーク。午後に少しだけ曇り。
 洗濯物を乾すには絶望的な情報ばかり。
 しかし、私には予感があった。いける、いってみせる。
 なんのことはない、重い洗濯物をぶら下げて近くのコインランドリーの乾燥機にぶち込みにゆくのが嫌なだけだ。
 予報に逆らい、いつものように自宅で乾す。
 しばらくしたら小雨が。う~ん、やはり逆張りの敗北か?
 しかし、これぐらいの雨なんてと負け惜しみでそのままに。
 やがて雨は上がって曇り空に。なんとそればかりか午後には夏の日差しが!
 いつもより時間は要したが、何もかも、パリッとするぐらい乾いた。
 老いの一徹、強気の逆転大勝利だ!
 わお~!ヴィヴァ!わが人生!(ってはしゃぎすぎだよね)
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ここのところ、書いてこなかった言い訳のようなもの

2024-08-25 17:35:10 | よしなしごと

 ヨーロッパ一人旅の旅日記のようなものをダラダラと書いてきたが、それ以降一週間ほどなにも書いてこなかった。単調な生活に戻って書くべきことがあまりないこと、参加している同人誌の締切が迫っていてそれに没頭していることなどなどが重なったせいもあるが、いちばん大きな理由は、最近、あまり写真を撮っていないことにあるように思う。

 どういうことかというと、私のブログ記事はほとんど絵日記のように写真が先行し、それに説明をつけるように書かれてきたものが多いからだ。
 写真を撮っていないのは、冒頭に述べた理由と、続いた酷暑のせいでもある。ヨーロッパの涼しさに一〇日間ほど馴染んだ体には、この間の四〇度近い日々には恐怖すらおぼえた。

 かつては(私の「かつて」はずいぶん前だが)、夏の甲子園が終わると急に秋めいたものだ。しかも、今のように暑さ対策もなかったせいで、大会の日程はトントン拍子で進み、敗戦記念日の前後にはもう決勝戦を迎えていた。

 今年の場合は、決勝戦は23日で、それ以後、雨のせいもあってやや暑さが和らいだから、「甲子園が終わると夏の終わりの気配が」という私の固定観念は結果的には変わらなかった。しかし、その終了が一週間ほど遅くなっているのだから、その差異が温暖化の進行を現しているともいえる。

 日本は「春夏秋冬」のけじめがはっきりついているから素晴らしいという人がいるが、それがいくぶん怪しくなっている。温暖化の拡張は、夏への入りを早くし、その終わりを遅くしているから、寒暖のグラデーションの期間、ようするに春と秋が短くなっているようにも思われる。

 ただし、春夏秋冬がはっきりしていて素晴らしというのは、それに合わせた生活様式、風俗習慣が出来あがっていて、そのなかで生活してきた立場からの言い分であって、赤道直下や南北極に近い地では、それに合わせた生活様式があリ、その様式からすればその地に住む人びとには、その気候こそもっともフィットしたものだといえる。

 その土地の生産性が云々とか、資源が云々とかいった経済的指標はともかく、生活者にとってみれば、いずこも「住めば都」なのであろう。

 知らない土地をまわり、まさに人の多様性、複数性に触れてきたいま、自分の生活やそこから生じた考えなど、まさに地球の片隅の取るに足りないものではないかとも思っている。

 そんな謙虚な?というか自信喪失的なものもあって、ここへの記事も滞っているのかもしれない。

 やっぱり写真がないと、話が具体的なものに結びついてゆかない。おそらくこれが始めての写真なしの記事だろう。

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最後のアクシデントはこう収拾した 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-20 13:57:39 | 旅行
 ヘルシンキ在住の親切な女性に案内されてフィンエアー(フィンランド航空)の事務所に着くことができた。
 そこにいた女性二人はどうやら私を待っていたようだが、それにしてもその連携は悪く、私に新たなチケットを渡したスタッフもただ渡したのみでそれを言わなかった。付き合ってくれたあの親切なヘルシンキの女性がいなかったら、ここへはたどり着けなかったはずだ。

 彼女たちの説明は概略こうだ。
 1)あなたの荷物は明日の成田行の便の方にもう回っているから今夜はない。
 2)あなたのホテルは空港内で確保されていてもちろん無償。
 3)夕食がまだならそれも無償で提供するが、ただしホテルの食堂はもう閉まっているので、残り物からの選択になる。
 4)お詫びとして、17ユーロの金券を出すのでこれを出発までに空港内のキオスクで使ってほしい。
 5)明日の成田行きの2時間前にフィンエアーのカウンターに来てほしい。そこでジャパニーズ・スピーカー(日本語が話せる者)を配置しておくので、詳細をその者に聞いてほしい。

          
              フィンエアーのホテルへ

 そのうえで、空港入り口付近の同社経営のホテルへ二人で案内してくれた。チェックインを済ませ、さて食事だが、この中から選んでくれと見せられたのは、これまでコンビニで見てきた料理の詰め合わせのようなもの。すごくでかくて食い切れなさそうなものもあるなか、サンドイッチに毛の生えたようなものを選ぶ。

 別途、料金は払ってもいいからワインかビールがほしいと頼むと、この時間はもうアルコール類は出せないとのこと。しかし、キオスクにならまだあるかも知れないという。
 さっそく空港内のキオスクに取って返す。地方のスーパーほどあるキオスクは24時間営業らしい。さっそく酒類のケースに。あった!ワインも並んでいる。しかしである、しかしそれらのケースには南京錠のような鍵がかかっている。

 従業員(ほとんどが北欧以外の外国人)に尋ねる。やはりこの時間はもうアルコール類は販売しないのだという。酒類のケースに取って返し隣を見ると缶ビールがずらりと並んでいる。ノンアルのものだ。それでいいかと思ってみていたら、2.5%の500ml のものがあったのでそれを選ぶ。ついでにチョコレート菓子などの詰め合わせを土産用に買ってほぼ17ユーロを使い切る。

          
              翌朝見たホテルの中庭

 ホテルへ取って返し、真夜中の夕餉だ。概略は掌握できた。ようするに一日遅れでの帰国ということだ。あとは明日、ジャパニーズ・スピーカーに会って、ディティールを確認するばかりだ。

 飲食が終わり、寝る段になって着替えも、パジャマも、洗面具もすべて成田行きの荷物の中だということに気づく。しかしなんともならないままに寝るほかなかった。

 翌日、ヘルシンキ空港の周りを散歩して、昨夜の最後の約束にあった、ジャパニーズ・スピーカーと会ってディティールの打ち合わせをするということでフィンエアーのカウンターに出かける。正面にいた係員に、「昨夜、あなたの会社から言われたジャパニーズ・スピーカーに逢うために来た」と告げる。

      
                ヘルシンキ空港
 
 なんか怪訝そうな顔をした彼女は、私をあるコーナーへ案内し、ここで待てという。そこには車椅子に乗った老婦人の先行者がいて、会釈を交わす。ひたすら待つ。30分ぐらいして案内専門と思われる女性が現れる。そして私に、「あなたの要求はなにか?車椅子が必要なのか?」と尋ねてくる。どうやら私は、先程の女性から特別な要求をもつ乗客扱いされ、そのコーナーへ案内されたのだ。

 そこで私は今一度、「ジャパニーズ・スピーカー」に逢うように言われてきたのだと説明する。すると彼女は、ちょうど私の死角になっていた辺りに視線をやり、何やら合図をしている。そこにはまさに東洋人の顔つきの女性がいて微笑んでいる。案内係が彼女のところへ連れて行ってくれる。
 その登用人はれっきとした日本人で、私は搭乗券を示し、昨夜以来の話を繰り返す。

 彼女はそれらを確認し、改めてそこに書いてあることを説明してくれたが、それは私にもほぼ分かっていたことだ。ただ、彼女の話で貴重だったのは、「あなたの海外旅行は成田で終了する。だから、そこで必ず預けてある荷物を一度引き取ってください。そして、あらためてJALに預けてください」ということだった。

 当初のフィンエアーでセントレアということなら荷物はセントレアで受け取ればよかったので、この説明を聞かなかったら、私は成田へ荷物を置いたままセントレア行きに乗っていたかも知れない。
 やはり、日本語での確認は必要であった。

      
       
                                       いよいよ搭乗 そして機内 以後は熟睡

 あとは順調だった。成田行きの便では疲れ切っていたためひたすら睡眠。気がつけば19日の夕刻の成田。荷物を受け取り、さらにJALのカウンターへ。この哀れな老人のたらい回しを知ってか、とりわけ丁重な応対で、無事夕刻の離陸を果たすに至った。
 
      
      
          
            いずれも成田にて 到着 夕焼け 離陸
 
 そして19時半近く、富士の上空に差し掛かるので写真を撮る。セントレアに着いた頃はすっかり暗くなっていた。

           

 外貨の両替をする。紙幣しか受け付けてくれない。しかし小銭の方は階下のファミリーマートに両替機があって、前は日本円と替えてくれたが、今は電子マネーか各種ギフト券に限定されている。アマゾンのギフト券に変えたら970円分ぐらいになった。文庫本が一冊買えそうだ。

 それらを済ませ、名鉄電車で岐阜へ着いたのは10時過ぎ、腹も減っているが重い荷物を引きずって飲食店へ入る元気もない。タクシーで自宅へ直行。
 出かける際、冷蔵庫をキレイにしていったので食品は何もない。乾麺はあるのでそれを湯がいて、薬味もないまま胡麻ぐらいで誤摩(胡麻)化してかき込む。左手には赤ワイン。なんとも妙な取り合わせだが、これが自分食の良いところ。

 最後に思わぬアクシデントがあったが、こうして無事に帰ることができた今、自分の幸運に祝杯だ。おっと、一方ならぬ世話になったK氏への感謝も込めてだが。

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危機は突然最後にやってくる! 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-19 16:13:33 | 旅行
 10日間、私のヨーロッパ一人旅は、事前のリサーチの不十分や語学力のなさ、年齢ゆえの行動力不足などで、決して効率の良いものとはいえなかったが、なんとか当初観るべき対象と設定したものにはたどり着くことができた。
 これには、ライプチヒ在住のK氏の事前の、そして旅行中のLINEを通じての懇切な指示が欠かせないものであったのだが。

 だから、ワルシャワの最終日の夕刻、駅近くのテラスでいつものようにOne beer onlyでくつろぎながら、マアマアだったなと自分の旅に合格点を与えることができた。
     
     

 翌日、ホテルをあとにし、中央駅から20ほどのフレデリック・ショパン空港へと余裕をもって向かう。出発ゲートも確認し、駅ピアノの近くに席を確保し、くつろぎながら帰路の確認。
 近くのピアノから「エリーゼのために」が・・・・。どうしてここでベートヴェンなの?ショパンでは?とも思うが、その後も入れ替わり弾き手が現れるがついにショパンはなかった。
 
      
           
           
      
 最後は入れ墨の父の膝の上の子どもの演奏 NHKの「空港ピアノ」ならカットでは?

 予定ではここからフィンエアーでヘルシンキへ飛び、そこでセントレア(中部国際空港)行きに乗り換えることになっている。

 搭乗時間が近づき、ゲート付近に搭乗客が集まり始める。そこで何かざわめきが起こっている。掲示を見ると搭乗開始時間がなんか大幅に遅れている。周りの客にカタコトの英語で尋ねたりした結果判明したのは、何かのトラブルで離陸が2時間半遅れるというのだ。

 ガ~ン! 2時間半? ヘルシンキでの乗り換え時間は2時間しかない。そこへ2時間半の遅れ?私の帰路はどうなるのだ? フィンエアーのメンバーに訊くがまだ詳細はわからないという。ジリジリした気分で2時間半を待ち続け、やっと搭乗する。
     
             これはポーランド航空の飛行機
 
 通りかかった搭乗員にワルシャワ→ヘルシンキ・ヘルシンキ→セントレアのチケットを示し、これはどうなると尋ねる。どうも彼女にもわからないようだ。「Wait ! 」といったまましばらく帰ってこない。いろいろ調べてはくれているのだろうが、詳細がわかるまで焦燥が押し寄せてきて不安が募る。

      

 ジタバタしても仕方がないと分かっていても気が急く。やがて彼女が戻ってきた。私の示したチケットに、「H's OK. They will WAIT! 」のカードが貼り付けられている。どうも、「大丈夫です、フィンエアーのスタッフがヘルシンキで待機している」ということらしい。

      

 見捨てられてはいないということだから、それに身を任せることにする。ヘルシンキ空港に着くと、降りる私に乗員が新たなチケット2枚を手渡した。
 見ると、明日の成田行フィンエアーのチケットと、成田からセントレアへのJAL のチケットだった。これでひとまず日本へ帰ることができることは保証されたわけだ。

 しかし、まだわからないことがある。私の荷物はどこへ行ったのか?これから明日の成田行まで私はどこでどう過ごせばいいのか?
 
 ここで私を助けてくれた女性がいる。彼女はヘルシンキへの機中で私の近くにいてその経緯を知っていて、ヘルシンキへ着いてからも、私に付き添ってくれた。荷物の到着場へも一緒に行ってくれて、自分の荷物を受け取ってからも、私のそれを待ってくれた。
 そしてついに私のものが現れないことを確認してから、フィンエアーの事務所のようなところへ連れて行ってくれた。

 そこではフィンエアーのスタッフの女性二人がいて私を待っていたかのようで、そこから先は下へも置かぬ扱いであった。しかし、フィンエアーも連携が悪い。付き添ってくれた女性がいなかったら、私はここへたどり着けず、夜半が迫り、無人になった広い空港内に放り出されていたろう。

 このヘルシンキ住まいという女性に丁重に礼を言って別れた。彼女は私のためにおそらく30分以上の時間を割いて、私を助けてくれた。せめて彼女のメールアドレスでもきいておけばといまも悔やんでいる。その背中に何度も頭を下げたぐらいでは済まない恩義を感じているからだ。

 ここでスタッフに会えたことで見通しが立ったのだが、まだまだ問題は残っていた。
 私の荷物は?私はどこで寝るの?もう一〇時間ほど何も食べていないのだが。
 じゅうぶん長くなってしまったので、この続きは次回に譲ろう。 

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【報告】旅の食事について 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-18 16:50:38 | グルメ
 一〇日余の旅、さぞかしその土地々々のうまいものをレストランでとお思いかも知れないが、日頃必要に迫られて自炊はしているものの、いわゆる旅の味を満喫するグルマンではない。

 あちこち歩き回る旅にとっては、栄養源の確保は不可欠である。
 その意味で、ホテルのバイキング方式の朝食はありがたい。家にいればろくすっぽ取らないような朝食を、ホテルではしっかり食べた。ヨーロッパはチーズやハム・ソーセージが豊富である。パンは比較的小ぶりなものにして、野菜を多く摂り、海産物が少ないので、サーモンのあるところではそれを狙った。卵はスクランブルエッグ。
 それらを日頃、ほとんど飲まない牛乳とともに摂る。牛乳も3,4種類置いてあるが、あんまりネットリしたものではなくサラッとしたものにする。

      
        
      
                                               各地のホテルの朝食から

 昼はあまり食べない。目的地をいろいろ回って時間が惜しく、わからないメニューでもたもたしている暇もない。だから水分の補給を兼ねて、前に書いたように「One beer only , OK?」で休憩方々ビールを味わいながら周囲をゆっくり眺めたりする程度だ。
         

 では、夜のほうだが、正直に告白すると、自分で選んでレストランに入ったのは一度しかない。ベルリン初日は、出迎え方々来てくれたK氏と、ホテル近くの小公園に面した藤棚のレストランで、前菜の盛り合わせとペペロンチーノを食した。ペペロンチーノの辛さがけっこうきつかったが話が弾みいい夕食だった。

      

 さて、単独行動の二日目、ホテル周辺の飲食店を検索したら、遠からぬところにやはりイタメシ屋があり、通りがクロスする角とあってロケーションも良く、しかも価格はお手頃とあったので、これだと決めて出かけた。
 メニューの概略は観たが、あれこれ検討するのも煩わしいので、野菜サラダとカルボナーラを頼み、それでグラスワイン(赤)二杯を飲んだ。やはりロケーションが良くて、通りを行き交う車や人々をじっくり観察しながら食は進んだ。味もボリュームもじゅうぶん満足できるものであった。

      

 で、勘定。日本円にしてチップ込みで8,000円ほど。私の予想をかなり上回った。もっとも、サイゼリアだったら1,000円ちょっとぐらいだから、それと比較するつもりはない。
 比較したのは自分の懐勘定とだ。もともとツアーに比べたら格安の一人旅、毎日夕食にこれほどを掛けるわけには・・・・という思案だ。

 結局、レストランを利用したのは、上記のほかはライプチヒ初日のK氏との夕餉、さらには二日目のK氏とその知己、Zさん、Hさんとの宴に留まった。

      
          
 
 この初日のメニューは私がリクエストしたもので、「アイスバン」という煮込み料理だった。これは事前にドイツらしい料理をと調べていたら、実際に食べた人のレビューも評価が高かったのでそれに従ったのだが、ようするに豚足を塩漬けにし、発酵させたものを塩抜きして煮込んだもので、朝鮮半島経由の豚足料理とはまた違うものだった。
 
      
    アイスバンの食べかけ 左上のボールはじゃがいもの裏ごしに味をつけたもの

 出てきたものを観て驚いた。日本で見るそれの三倍ほどはあるくらいでかいのだ。豚の種類からして違うのだろう。コラーゲンを含んだ皮の下には鮮やかな赤身が煮しめられている。味はいいのだが、塩抜きが足りないのか、もともとこうなのか、やや塩っぱいのが気になった。とても一人では食べ切れないので、K氏と分け合った。

      

 後者の、K氏、Zさん、Hさんとの宴は、話が弾んで、料理の詳細を覚えていないのは残念だが、とても自然に食が運ぶものであった。

 レストランへ行かなかった日はどうしたのかというと、ベルリンの三日目は、ホテルの近くにスーパーマーケットがあるのを見つけて、サンドウィッチをやや大ぶりにしたような食品と、赤ワインの1/4サイズに300ml ほどのビールで済ませた。

      

 ワルシャワの初日はすでに述べたようにK氏が弁当にと持たせてくれたものをすし詰めのコンパートメントでは食べづらかったので、やはりホテル近くのコンビニで買った飲み物と合わせた。これはK氏の情が凝縮された最上の夕餉であった。
          

 2,3日目はこれに味をしめて、コンビニ食品と飲み物で済ませた。日本のコンビニで弁当を売っているように、けっこう珍しい現地の食品の詰め合わせがあり、加えてオリーブの塩漬けが20個ほど入ったものなどを並べると、かなり豪華な夕餉になる。それをホテルの窓から街の夜景や、下の道路を行き交うトラムの明かりなどを眺めて味わうと、掛けた経費に倍してリッチな晩餐となるのだ。

 なお、ホテルでの夕餉とは関係ないが、よく洗濯をした。ベルリンとワルシャワでの3泊では、1泊目、2泊目は洗濯日と決め、下着などを洗った。
 
      

 食事に戻ると、機内食が3、4度ほどあったが、昔に比べればいくぶん質素になったように思った。質素になったといえばホテルもそうだ。洗面所を始め室内には余分なものは一切おいてないし、ワルシャワのように3連泊中は一度もベッドメイキングに入らないところもある。もっとも洗濯した下着を乾してあるところへあまり入られたくはないが・・・・。

 これが私の旅での食の報告である。貧乏旅行丸出しといったところだが、ツアーのお仕着せより面白いものを食べてきたかも知れないと思っている。

      
       これは帰国してから2,3日目の朝昼兼用食 左上はわさび漬け
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ユダヤ人がもっとも住みやすかった国での悲劇 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-18 00:55:40 | 旅行
 1940年代初頭、世界でのユダヤ人人口は1,000万人弱であり、そのうちの三分の一、約350万人がポーランドに住んでいたといわれる。ワルシャワのみでも約50万人を数えたという。これは中世以来、ユダヤ人への風当たりが少なく、暮らしやすかったからだといわれる。

      

  しかし現在、ポーランドはヨーロッパにおいてもっともユダヤ人が少ない国のひとつになっている。ワルシャワには約3,500人ぐらいと聞いたこともある。
 この大変な落差はドイツ占領下のホロコーストによるものであることは容易に想像がつくが、しかし、その過程にもさまざまな問題があって、一筋縄では行かないようだ。

      

 まずはナチスの方だが、ポーランド占領後、ワルシャワにはもともとユダヤ人の密度が高かった地域を中心に、38万人を収容したワルシャワ・ゲットーが設けれれ、ユダヤ人は高い有刺鉄線に囲まれたその地域からの移動を禁止された。いわば、街そのものが強制収容所とされたのである。

           
 
 さらに42年、ナチスがユダヤ人の「最終解決」を決定するに及び、ゲットーから処分場への搬送が頻繁になり、流れ作業による最終処分が進行した。搬送を免れてゲットー内に留まったユダヤ人もまた、その栄養状態や衛生状態のなか、命を落とすものが続出した。
 43年には、ゲットー内で蜂起反乱が起きるのだが、素手の反抗はドイツ軍の火器の前に血みどろの終結を余儀なくされた。

           

 これらは45年のドイツ敗北まで敗北まで続くのだが、最終的にポーランドにおいて生き残ったユダヤ人は約5万人だったといわれる。

           

 しかし、ポーランドでのユダヤ人迫害はこれにとどまらない別の側面をもっていた。41年当時、ポーランドの東部はソ連によって占領されていたが、この地域において23箇所でユダヤ人を対象としたポグロム(抑圧殺戮事件)が発生し、数百人のユダヤ人が犠牲になったというのだ。ドイツがユダヤ人の最終解決を決定する1年前のことである。
 
 その犯行グループはポーランド愛国主義者たちで、反抗理由はソ連の侵攻はユダヤ人による誘導援助によってなされたというものだった。
 もちろんこれはほとんど濡れ衣で、戦後、これに関わり合った約100人が逮捕され、27人が有罪、そのうち4名が死刑となった。

      

 日程の都合でアウシュビッツへ行けなかった私は、これらをワルシャワの「ポーランド・ユダヤ人歴史博物館」で確認するつもりで出かけた。
 
 最寄りのトラムの駅で降りた私は、青年を捕まえてどう行ったらいいかを尋ねた。しかし彼は、そんなものは知らないとそっけなく行ってしまった。すると、少し離れたところでそれを聴いていた中年の婦人が寄ってきて、それならこちらの方だと親切に教えてくれた。途中まで一緒に来て、ある角で、「ゴー、ストレート!」といって引き返していった。彼女もこちらの方に行く用件があるのだとばかり思っていた私は、その後姿に何度も「サンキュー!」を浴びせかけた。

           

 それは、ヨーロッパ特有の広い緑地帯の一角にあるとてもモダンな建物だった。それにしても人気が少ない。そこで私はハッと思い出した。そう、この博物館は火曜日が定休日なのだ。
 海外でうろちょろしていると、曜日のことなどすっかり頭から飛んでいた私は、下調べをした折、「へ~、火曜日休みとは珍しいな」と思ったことさえすっかり忘れていたのだ。

      

 気づけば、私の他にも休みと知らずに来たらしい2組ぐらいがいた。やがて、10人近くのグループがやってきて、解説者と思しき人が建物を指差しながら何やパペラペラと説明し始めたが、たぶん、ポーランド語らしく何もわからない。

      

 入場を諦めた私は、予め調べたポーランドでのユダヤ人の悲劇を念頭に、鎮魂の意を含めてこの大きな建造物の周りを二周した。
 何百万という人命が失われたあの喧騒の時代と、折からの風に応える頭上の葉擦れの音色のコントラストが、八〇年という歴史の落差を表しているようだった。

      

 しかし、あの歴史は本当に終わったのだろうか。かつて、ホロコーストの対象であったユダヤ人のなかのシオニストたちが、今度はパレスチナのガザ地区にパレスチナ人のゲットーをつくり、そこを対象に無差別殺戮を繰り返しているのではないか?
 2000年にわたり、ユダヤ人を差別し続けてきた欧米諸国は、自らの犠牲を払うことなく、ムスリムの土地をユダヤ人に与え、イスラエルという国家を作らせたばかりか、いままた、ムスリムへの攻撃を支援し続けているのではないか?

 私は、この旅から帰った翌日、疲れた体を引きずって、名古屋での「反ゴザ虐殺」のデモに参加した。

 写真はいずれもポーランド・ユダヤ人歴史博物館にて
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来なかったソ連軍=ワルシャワ蜂起の悲劇 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-16 14:57:00 | フォトエッセイ

 ワルシャワ蜂起の痕跡を見ること・・・・これが今回のワルシャワ訪問のひとつの目的であった。この事件は、国際的にはともかく、ワルシャワ市民にとっては忘れ難いもので、今も八月一日の同時刻にはサイレンや鐘が鳴り、市民は黙祷に伏すという。

       

    ワルシャワ蜂起記念碑会館 右側の大きな塑像は残念ながら修理中

 1944年7月31日、敗走するドイツ軍を追ってきたソ連軍は、ワルシャワ中心地区のすぐ東を流れるヴィスワ東岸に到達してた。そして、そのソ連軍とワルシャワ市内のレジスタンスの間で、翌8月1日を期してソ連軍はワルシャワ市内に進行し、それに合わせて、ワルシャワのレジスタンスがドイツ軍に対しいっせいに蜂起するという約定が交わされた。

     

    左側の塑像にて 残念ながら写っている女性は私とは関係のない人


     

手前兵士は地下へ潜るようなポーズ アンジェ・ワイダの『地下水道』を思わせる

 それに従い、ワルシャワ市内で訳5万人の市民が蜂起した。とはいえ、武器を持つものは数人に一人であり、ドイツ軍の兵庫を急襲するなどして武装率を高めていった。こうしてレジスタンスはその急襲により優位に立つかに見えた。

      

            ワルシャワ蜂起の説明ボードなど

 しかしである、わずか数百mのヴィスワ川東岸のソ連軍は約定に反し、補給の不十分などを理由に全く動かなかったのだ。これをみたドイツ軍は、レジスタンス撃滅作戦に専念することができた。
 ソ連軍の動きがないまま、レジスタンスは果敢に戦った。それでも2ヶ月後の10月はじめには、ドイツ正規軍には歯が立たないまま、降伏を余儀なくされた。

       

              記念碑館前の庭園にて

 この間、ワルシャワ市民の死者は18~25万人、街から追放された市民約70万人に達した。前回述べた旧市街が跡形もなく破壊されたのもこの時期であった。
 なお、ソ連軍がヴィスワ川を渡り、ワルシャワを「解放」したのは翌45年の1月であった。

      

       王宮裏の庭園 向こうの赤い橋がヴィスワ川にかかるもの

 『灰とダイアモンド』の映画監督・アンジェ・ワイダのもう一本の映画『地下水道』は、ソ連軍の援助のないなか、地下水道を拠点に戦い続けるワルシャワ・レジスタンスを描いたもので、私は日本公開当時(1958年)に観ている。
 その映画のシーンにも、地下水道のヴィスワ川に面した鉄格子越しに、対岸に来ているはずのソ連軍を待望する映像があったような気がする。

      

         この向こう側にいながら蜂起軍を見捨てたソ連軍

 今回のワルシャワ旅行ではその記念碑を訪れたほか、「ソ連軍はここまで来ていながらなぜ蜂起軍に呼応しなかったのか」というヴィスワ川を確認した。前回書いた、徹底して破壊された旧市街からはほんの何百mの距離であり、ワルシャワ市民の無念さが改めて理解できる気がした。

      

          さらに南方で撮したヴィスワ川に掛かる橋

 ポーランド=ワルシャワは、かねてより、西はドイツ、東はロシアという強国に挟まれてその運命を左右されてきた。しかし、それにもめげず、またそれに全面的に屈することなく、したたかに自己主張をしてきた。
 それがあの誇り高き44年の蜂起であり、その折の全面破壊を完全に復興した「新」旧市街の実現であるように思った。

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「旧市街」ではないワルシャワ「旧市街」 八五歳のヨーロッパ一人旅

2024-08-15 11:34:11 | 旅行

 厳密にいえばワルシャワに旧市街はない。なぜならここのかつての街は第二次世界大戦の激戦によって徹底的に破壊されつくされて、そんなものが残る余地がなかったからである。

       

 最初に掲げた写真は、2002年公開の映画、ロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』のラストに近いスチール写真である。これだけ破壊し尽くされた街のどこに旧市街が残る余地があったろう。
 にもかかわらず、旧市街は存在する。それはワルシャワの市民たちが、瓦一枚欠けることなくかつての街を復旧させようとしたからである。そうして出来上がったのが現在の旧市街である。

          

      
 だから、いうなれば「新市街」なのだが、ワルシャワ市民はその地域に下手な近代化が侵入するのを拒んできたので、その意味ではどこの旧市街よりも旧市街的なのである。そうしてたワルシャワ市民の意を汲んで、1980年、ここは世界遺産に選定された。
         
      
 私はこの街に北側のバルバカンから入った。バルバカンというのは、赤レンガ作りの旧王城の守護砦であるが、それ自身ひとつの城郭のようにも見える。
 それ以南がいわゆる本格的な旧市街なのだが、それらが素晴らしい。広場にはいくつかのテント張りの店があり、物品販売やレストランなどがひしめいている。
 
          
      
          
 歩き疲れ、喉も乾いていたので、そのうちの暇そうなテント張りの店で退屈そうにしていた学生アルバイト風な学生に声を掛ける。「One beer only , OK?」「Yes.」と頷き、生ビールを注いでくれる。「お前は日本人か?」というので「そうだ」というと「日本のアニメが大好きだ」という。かわいそうに彼はもっともふさわしくない日本人に出会ったのだ。私はアニメのことはからっきしわからない。

           
 話題を逸らす。お互い、わかったかわからなかったかよくわからない会話を交わし、店を出る。端数をチップに置くと、それはビール1杯分のチップを超えていたので大いに感謝される。
           
          
          
 
 旧市街は面白い。権威のありそうな建物は聖ヨハネ大聖堂(手前)で、それと壁を共有するように建っているのがイエズス会の教会だ。その辺りの通りも雰囲気がある。

         
      
           
 やがて王宮と王宮前広場に至る。広場の中心には高い円柱の上にジグムント三世の像が。この王様、17世紀には東奔西走と活躍し、ついにはモスクワのロシア王朝をも支配下に置いたことがあるとのことだ。

       
 広場の南の堂々たる建物は、カソリック教会の聖堂という。ヨーロッパでのキリスト教の力は大きいのは常識だが、70年にわたるスターリニズム支配下をくぐり抜けてもその勢力はいささかも変わらなかったようだ。
       
 王宮前広場から見える風景のひとつに、ワルシャワのサッカー場がある。カメラのレンズの関係ですぐ近くに見えるが、実はこのサッカー場はワルシャワ市の東を流れるヴィスワ川の向こう岸(東側)に位置する。
 このヴィスワ川を巡って、ワルシャワ市民には忘れ難い悲劇がある。
 1944年のその悲劇については次回書きたい。
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70歳以上交通費無料のワルシャワでショパンに逢う 八五歳ヨーロッパ一人旅

2024-08-14 00:40:01 | 旅行

 ワルシャワはもちろん初めての地、しかもいままでのようにK氏の案内は期待できない。しかし、いい点もある。ポーランド国内は、インターシティなどの鉄道を除き、近郊鉄道、地下鉄、トラム、市内バスなどが70歳以上は無料なのだ。外国人も含めてだ。

      

      
 よく利用した。地下へ潜るとわかりにくいので、トラムとバスをふんだんに利用した。けっこう検札に来るのだが、顔を見ただけで切符などの提示は求めなかった。東洋人でも歳は歳だと識別できるようだ。
 無料はありがたい。間違えたら引き返せばいい。見えている近くでも疲れていたら乗ればいい。

          


 最初に会いに行ったのはショパン。ショパン博物館である。彼はポーランドの英雄である。紙幣にもなっているし、私が帰途利用したワルシャワ空港はフレデリック・ショパン空港と名付けられれている。もちろんこれは彼がポーランドの出身だったからだが、彼が名を成し、活躍したのはフランスなどの他国においてだった。
 
 にもかかわらず、彼自身の中にはポーランドへの愛着は強く、数ある名曲のなか、「ポロネーズ」を18曲作っている。ポロネーズとは文字通り「ポーランド風」ということである。
 私自身の経験で言えば、若き頃観たアンジェ・ワイダの映画『灰とダイヤモンド』のラストで流れる「英雄ポロネーズ」がいまも忘れがたく耳に残っている。

      

 少し迷ったが、無事到着。そこで私は今回の旅で始めて私以外の日本人と出会った。やはり単独行の若い男性で、これは頼もしい、今後のワルシャワ散策の参考になるかも知れないと密かに期待した。
 
ともに入場した。しかし彼は、どの展示場でもさっと目を通すのみでどんどん歩を進め、あれよあれよという間に出口付近に達してしまった。
 どうやら彼は、ショパンや音楽には関心がなく、ワルシャワへ来た以上ここにはという案内に従ってやってきたのみで、まるでアリバイ作りのような行動なのだ。
 これはたまらないと、「私はもう一度観ますから」と出てゆく彼と出口付近で別れ、最初の展示へと取って返す。

 もう一度、各展示を見回る。経歴や楽譜、楽器などが並ぶ。ライプチヒでのバッハのオルガンは経年のため、バッハ当時のものとしてはその基体しか残っていなかったが、ショパンのそれはアップライトもグランドピアノもそのまま残っていた。ただし、パリ時代のもののようだ。

      

          
 その他、譜面台にショパン作品の楽譜を置くと、それを自動演奏するピアノなど、けっこう展示にアイディアを凝らしている。
 少し歩き疲れたので、試聴室に座り、専用のヘッドフォンで彼の曲を聴く。当代一流の塩素者によるそれは、私が日常用いているヘッドフォンよりも遥かに高性能のものを通じ、耳に心地よい。

      
      
 
 それを通じて、まさにポロネーズを数曲聴いた。彼は、ピアノの詩人と言われているが、ポロネーズに関しては詩というよりテーマを定めた掌編小説の趣がある。
 
        


 その後、最上階にある彼がしばらくともに暮らしたジョルジュ・サンドのエッチングなど眺めて、この館とおさらばした。先の男性と行動をともにしなくてよかった。

      
      
 なお、これは後刻だったが、旧王宮近くのショパンのピアノ曲のみの専用コンサートホールを探し当てたのでその写真を載せておく。入口に貼られたチラシによれば、その日の18:30からのコンサートは、マオリシオ・シルヴァという人で、知らないひとだったのでググッてみたら、若手だが、オケとの共演などもある売出し中のピアニストということだった。
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