六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

本町橋の夏の夜、黒い集団が渡って往った。

2008-07-30 01:59:11 | 想い出を掘り起こす
 名古屋市は中区の本町橋です。
 名古屋城の大手門から南へ出た道は、この地点で外堀を渡ります。そのまま真っ直ぐ南に行くと、いわゆる本町筋から大須観音を経由し熱田神宮、宮の渡しへと至ります。かつてはこの南北のルートが名古屋のメインストリートでした。しかし、東海道線の開通以来、名古屋駅から東西に延びる道路がメインストリートになってしまったのです。
 
 さて、本町橋ですが、この橋の下はいつ頃からか空堀で、1976年(昭51)まではこのお堀の中を名古屋鉄道の瀬戸線(通称・瀬戸電)が走ったいました。その折の瀬戸線のターミナルは、ここから少し西へ行った堀川駅で、文字通りこの駅は堀川(運河)に接していました。

 この瀬戸線は、輸出陶器が運ばれたルートでもありました。瀬戸ー(貨物電車)ー堀川ー堀川運河ー(船便)ー名古屋港、そして諸外国へというのがその道筋だったのです。

 

 このお堀のなかを走る珍しい電車の路線も、そのカーブを曲がる技術がスピード時代に追いつかなくなったり、名古屋そのものの都市交通の変化などもあって、先に述べたように76年、土居下駅から地下を経由して都心部の栄への乗り入れが実現するとともに廃止されました。時を追って78年には、輸出陶器を運んだ貨物電車もなくなりました。

 さて、前振りが長くなりましたが、この本町橋には幼年期と青年期の二つの時代でのかなり強烈な思い出があります。
 
 幼年期のそれは、1944年(昭19)にまでさかのぼります。
 当時名古屋城の中には、旧陸軍の6連隊があり、私の父は同年の春、赤紙一枚でここへと招集されていたのです。そして、性急な訓練の後、夏にはいきなり旧満州国のハルビンへと派遣させられることになったのです。もちろん、こんなことは軍事機密に属しますから、私たち家族は知るよしもありませんでした。

    
        橋から東方の堀跡、ここを電車が走っていた


 ところがです、この6連隊の幹部将校に母の従兄に当たる人がいて、その人が極秘に、「今、会っておかないと、もう会えなくなるかも知れない」と知らせてきたのです。
 母と、父の父(つまり私の祖父)と私の三人が岐阜から慌てて駆けつけました。私たちは、その母の従兄に面会しました。その将校は、私たちが訪れた自分の部屋へ上官命令で父を呼び出すという方法をとったのです。

 その夜に名古屋駅から出発するという部隊の隊員である父に、もはや正規の面会が許されるはずはありません。その将校はそれをカバーするためにそうした便宜を図ってくれたのでした。上官の急のお呼びということで何ごとかとやってきた父は、そこに私たちの姿を見て驚いていました。

 短い面会でした。何を話したのかも覚えていません。
 その将校がサービスに出してくれた砂糖水が、おいしかったことだけを覚えています。砂糖はもう貴重品でしたから、その心地よい甘さが幼い舌にジンワリと滲みわたり、父との別離よりも強い印象を残したのでしょう。

    

 名古屋駅に向け、夜の何時頃にどのルートで兵舎を出発するかを聞き出すことができました。どこでどうして時間を潰したのかは全く思い出せませんが、夜更けの道筋に私たちは立ちつくしていました。
 その場所こそ、この本町橋の上だったのです。
 
 街灯などというものはむろん点いてはおらず、それどころか灯火管制で街なかとは思えない怖いくらいの暗闇が支配していました。
 しかし、回りにかすかに人々の気配がします。闇を透かして見ると、私たち以外に何家族かが立ちつくしています。軍規が厳しい中でしたが、私たちと同様、何らかの形で情報を得た人たちが戦地への旅立つ兵士を見送りに来ていたのです。

 何時間待ったでしょう。やがて、ザッツ、ザッツ、ザッツと地を踏む音がして、黒々とした人影の集団が現れました。彼らがいかに規則正しく行進しているかは、地を踏む音と、黒い陰の固まりが一定のリズムをもって揺れながら闇を押し退けて進む様で分かりました。
 幼い私にとってはそれは黒い巨大な固まりでした。行進の音に混じって時折聞こえる金属の擦れ合うような音は、彼らが携帯している武器などによるものだったのでしょう。

 
               外堀の石垣

 怖かったのです。幼い私にはその不気味な黒い集団がこの空間を圧倒しきっているようで怖かったのです。
 そこには、私が絵本で見ていた、軍艦の舳先で手旗信号を送る水兵さんの輝く顔つきや、背筋をぴんと伸ばして騎乗する陸軍将校の凛々しさとは全く違う「たたかふ兵隊」の汗のにおいがする厳しさ、おどろおどろしさがありました。

 必死で父を捜しました。しかし、灯りひとつないところでそれは不可能でした。
 母や祖父もそうだったのでしょう。そこで祖父が、タバコ用のマッチをとりだし、それに火を点じると、私たちの顔の前にかざしました。
 いいアイディアでした。自分の息子が見つからないなら、せめて自分たちの顔を見せてやろうとする必死の思いつきだったと思います。

 しかし、しかしです。
 「誰だっ!灯りなどともしたやつは!」
 という大音声の叱責とともに、たぶん、隊列の横を歩いていた指揮官の一人と思われる人影ががとんできたのです。

 祖父は慌ててマッチを落とし、踏んづけました。
 指揮官らしい男は、私たちの方を凝視しているようでしたが、やがて隊列に戻ってゆき、事なきを得ました。
 これらは全て闇の中の一瞬の出来事でしたが、祖父が手放したマッチの落下がなぜかゆっくりだったような気がするのです。

    
     この橋が明治44年(1911)年に架けられたことを示している

 こうして黒い集団は通り過ぎました。その数が何人だったのかもよく分かりません。
 「後を追ってはならない」と厳しく言われていましたので、私たちは岐阜へ帰るべく別の道筋を通って名古屋駅に着きました。
 しかし、一縷の期待にもかかわらず、名古屋駅には兵士たちの姿はありませんでした。
 きっと、どこか別の通路からホームにあがり、専用列車でどこかの軍港へ向かったのでしょう。

 ところで、私たちが岐阜へ帰る列車はとっくにありませんでした。駅構内での夜明かしです。私たち以外にも、いろいろな事情で構内で夜明かしをする人たちが結構いたように思います。
 今のような明るいコンコースではありません。やはり灯火管制のせいで、黒いカバーの電球が必要な箇所にのみ点いている暗~い駅構内でした。

 田舎出の祖父は誰とでもすぐ仲良くなるのが特技で、隣り合わせた人と話しながらタバコのやりとりなどしていました。後年、母が、「おじいさんたら、ルンペンみたいな人と仲良くなってしまって・・」とこぼしていたのを聞いたことがあります。

    
     当時もこの角灯はあったかも知れないが灯りは入っていなかった

 その祖父も今生きていれば120歳を超えているはずですが、85歳で生涯を終えました。
 
 父は敗戦時、ハルビン郊外でソ連軍の捕虜になり、バイカル湖の近くの収容所で、冬にはマイナス40℃にもなろうかという劣悪な状況下で強制労働に従事した後、昭和24年春に還ってきました。
 さすがにマイナス40℃では作業は中止されたそうですが、マイナス30℃ぐらいまでは、「今日は暖かいから」と作業をさせられたそうです。
 
 帰還したとき、大事そうに抱えた紙袋から、「これが土産だ」と乾燥芋をとりだしてくれましたが、さすがの私も戦後4年を経た時点では、乾燥芋は食べ飽きていたというかうんざりしていました。
 生きていればちょうど100歳の父も、祖父同様85歳で生を全うしました。
 
 母は今、95歳で生死の瀬戸際にいます。
 意識が奈辺にあるかは定かではないのですが、私は彼女がまだ30歳で、あの本町橋の上で、私の肩を抱きながら、黒い集団に向かって必死に目を凝らしていたのを覚えています。
 生死不明の父を待ちながら、私と二人で過ごした戦後の日々も覚えています。

 
         橋から西の堀 昼なお鬱蒼とした感がある

 1990年のことです。黒澤 明監督の当時の新作『夢』という映画を観ていたときです。
 やはり大家になると晩年には説教くさくなるのかなぁ、などと生意気な感想をもって観ていたときでした。そのオムニバス映画の第4話にいたって、私の全身を電流か駆け抜けるようなシーンと遭遇したのでした。

 私はどんな映画でも、割合、冷静に観る方です。しかし、このときは、「あっ、それって、あのときの」と思わず叫びそうになったのです。
 既視感(デジャヴ)が強烈に私を襲ったのです。
 私はしばし、それをどこで観たのかを思い出せませんでした。
 しかしわかったのです。
 1944(昭19)年、夏の夜、本町橋の上で、私は経験したのです。

 映画の第4話は、「トンネル」と題され、復員兵がトンネルにさしかかると、戦死した兵士たちが隊列を組み、まさにザッツ、ザッツと軍靴の音を響かせて立ち現れるのです。
 これこそ、幼い私が本町橋の上で「経験した」光景でした。敢えて「見た」とは言いません。なぜなら、本町橋はもっと暗く、話を交わすいとまなどもなく、ただ黒い固まりが動いていったのみですから。にもかかわらず、兵士たちはあのように、本町橋の上を進んでいったのです。
 
 祖父が点したマッチの光に一瞬浮かび上がった本町橋の黒い影の行進こそ、私のデジャヴなのです。


ある会合が近くであり、その時間の余裕を見て写真を撮ってきたのが発端です。
 本町橋には、幼年期と青年期に印象深い思い出があります。それらを写真を見ながらまとめてみようと思ったのです。
 もっと短く書くつもりでした。しかし、書き始めたら、忘却の淵に沈んでいた細やかなショットが吹き上げるように次々と現れ、おまけに、それらを除いたら現実性が損なわれるような強迫観念にも襲われ、ついつい長くなってしまいました。
 
 ですから、青年期の思い出についてはまたの機会に回したいと思います。
 

 









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【油蝉】この豊かな色彩を持った虫。

2008-07-28 01:20:58 | フォトエッセイ
 アブラゼミです。
 夕方帰宅したら、玄関先に横たわっていました。
 死んでいるのかと思って手にしたら突然、手足をばたばたし始めたのです。
 う~ん、この色合いからすれば、殻を抜けて成虫になったところかなと思い、とりあえずは植木の幹にとまらせました。そして絶好のチャンスとばかり至近距離から撮影。

    

 パソにとりこんだその映像を見て驚きました。
 子供のころからもっともポピュラーなセミで、よく捕らえて手にもしましたが、その色彩がこんなに豊かであると思ったことはありませんでした。

 ジィ~イ、 ジィ~イ、と泣く様が揚げ物をしているようだからアブラゼミというのは本当でしょうか。それはともかく、その色彩がほんとうに豊かなんです。

    

 よくTVの番組などで、普段私たちが見慣れているものをお題として出し、それを描かせるというものがあります。
 それが結構違うのですね。色や形、それぞれの部分の大きさのバランスなどがいろいろ違ってきて、そうした違いの総和として現物とは似ても似つかなかったり、あるいは一見似ているようで微妙に違ったものになります。

 これらは、記憶力の問題や、表現能力の問題にも関連するのでしょうが、それ以上に当初の観察がちゃんとなされていないことによるのでしょう。
 今回、新たに観察する機会が与えられ、改めて、「へ~、アブラゼミってこんな色してたんだ」と再認識した次第です。
 
 同時に、単に虫の色合いにとどまらず、私の中には観察不十分による雑然とした思い込みがいっぱい詰まっているのではと自戒することしきりなのです。

    
 
 変に屈折してきましたが、いいたかったことはアブラゼミは実に美しいということであり、子供のころから何百回も手にしてきた私が、改めてそれに気づいたということです。

 夜半、夕刻にあのセミをとまらせた植木を見に行きました。
 彼or彼女はそこにはいませんでした。
 残された生の短い期間に向かって飛び立ったのでしょうか。
 
 アブラゼミは夜半に時折、一声だけ、「ジィーッ」と鳴くことがあります。
 先ほどそれを聞きました。
 しかし、その声が彼or彼女のものかどうかは分かりません。
 

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【発見】なんと!日本にも地上絵が・・。

2008-07-26 13:39:31 | よしなしごと
 地上絵はペルーのナスカばかりではありません。

    
            これはナスカのもの
  
 私は最近、日本での地上絵を発見しました。
 母の病室は五階です。
 病室から離れて、ふと下の光景を見たとき、私はそれを発見したのです。
 そうです、立派な地上絵です。

 ナスカのそれとの類似点は、これを描いた人は決して自分の作品の全体像を見ることはできないということです。描いた彼や彼女にはその全体像は分かりません。
 宇宙から、あるいは天空の神が見たら、このように見えるであろうと想像して描く他はありません。

 
           私が発見したもの  7月25日

 この絵もそうです。
 宇宙人にして神である私に対する敬虔なメッセージに他ならないのです。
 それが証拠に、私以外にも多くの人がそれを目にしているにもかかわらず、誰も注目していません。
 彼らは宇宙人でも神でもなく、ただ私のみが神の視座にあり、したがって、その絵は神たる私にのみ当てられた固有のメッセージなのです。

 これは、病院に隣接する幼稚園(児童館)の運動場です。
 ここに集う可憐な幼児たちが、神たる私に捧げたのがこの地上絵なのです。
 あるいは、ナスカの仮説でいわれているように、ここしばらくの高温続きの中、一雨ほしいという雨乞いの祈りかも知れません。
 いずれにしても、私はその祈りをしっかり受け止めました。

 この写真を証拠に、この地を世界遺産に申請したいと思います。
 私以外にこれを注視しているとしたら、それはNASAの地上探索衛星です。
 さあ、NASAとの競争です。
 もし、NASAがその発見を言い立てたら、私の発見の方が早かったことの証人になってください。

 
            同じ場所   6月24日


 最後の写真は、この地上絵が描かれる一月ほど前、たまたま私が撮った同じ場所のものです。

 これらの絵を描いた幼児たちの開かれた想像力に乾杯っ!
 それから、しばし私を神の気分にさせてくれたことにも感謝!
 




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このホール、カレーの匂いはしません。

2008-07-25 03:49:37 | 音楽を聴く
 一夕、初めてのホールでクラシックを楽しみました。 
 名古屋の中心栄近くに、昨年春にこけら落としをしたキャパ3~400人のこぢんまりした室内楽・声楽など向きのホールです。
 名付けて「宗次(むねつぐ)ホール」。

 

 小さいからといって馬鹿にしてはいけません。このホール、音響がすばらしくいいのです。
 ソロ楽器などの反響、残響が素敵で、ピアニッシモで終わる演奏などで通ぶって早々と「ブラボー」を叫ぶおやじなど、殺してやりたくなるほどその余韻がすばらしいのです。

        
           CoCo壱番屋のページから転載

 ところで、この「宗次」でハハ~ンと分かる人はその道のプロです。
 その道とは決してクラシックではありません。チェーン店やフランチャイズのプロだということなのです。
 というのはこのホール、全国に1000店近い店舗を擁する「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者、宗次徳二氏が、いわば企業メセナとして展開している事業の一環なのです。

 この宗次氏、いわば現代における立志伝的な人物で、1974年に脱サラし、夫婦二人で始めた喫茶店のメニューだったカレーが好評だったのに着目し、78年に一号店を出店、以来30年、先述したごとく今や1000店を数えるに至ったのです。
 この成功は本人の予想以上であったようで、これらの収益を社会へ還元するためにと、2003年イエロー・エンジェルというNPOを立ち上げ、先に述べた「宗次ホール」もその事業の一環のようです。

    

 しかし、このホールにはそうした宣伝臭は一切ありません。
 ここでクラシックを楽しんだ人でも、かなりの人はここが「カレーハウスCoCo壱番屋」の関連施設であることを知らないはずです。
 むしろ、「カレーハウスCoCo壱番屋」を日常的に利用している人の方がその事実を知っているかも知れません。

 私はやっかいな性格で、そうした急速に金儲けした人(いわゆる成金)にはついつい、厳しい目で見てしまいます。おまけに、自分の過去の仕事柄、フランチャイズやチェーン店に対し、ある種の偏った見方もあるかも知れません。
 しかし、ここへの目は緩みがちです。ここのメセナは、サントリーやその他の大メーカーが、ほんのおこぼれを恵んでくれるのとは幾分違うように思うのです。

 
   当日のステージ。フラッシュを炊かなかったのでややピンぼけ

 私自身は外で飲むことはあっても食事のみをすることはまれですから、「カレーハウスCoCo壱番屋」とはあまり縁がないと思います。
 しかし、全国の皆さん、カレーを食べるなら「カレーハウスCoCo壱番屋」にしましょう。
 
 え? 夏場は暑いって? 何をおっしゃるウサギさん! 夏こそカレーでスタミナじゃないですか。
 だったら、お前が行けって? 私は行きませんよ。しかし、私の息子がどうやらときどき行っているようで、今度会ったら、もっと行くように言っておきます。

 あ、ちなみに私が聴いたコンサートは、スイスを拠点に活動しているチェリストの林 峰男のリサイタルで、曲目は以下。
 ・ベートーヴェン  チェロソナタ第2番 ト短調
 ・レーガー     無伴奏チェロ組曲第2番 ニ短調
 ・ファリャ/マレシャル編曲  スペイン民謡組曲
 ・ドビュッシー   チェロソナタ  ニ短調


    
           当日のプログラム   
 
 私の好みとしてはドビュッシー。
 お互いに楽譜通り弾いていては醸し出せない、その場での呼吸会わせによるアンサンブルが、臨場感の高い演奏を実現していたように思います。
 なお、ピアノは島田彩乃。華奢で美形だが力演でした。
 二人の奏者の出た打ち上げに私も出ましたが、末席で話ができなかったので、ワインをがぶ飲みして帰ってきました。

 転んでもただではおかないという貧乏人の処世術がしみこんだ私なのです。




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私の世界・または私の檻

2008-07-23 04:17:55 | よしなしごと
 風景というものが、歴史的に作られてきたものだということは今日、常識となっています。
 それは、その風景そのものが変わってきたというだけではなく、それを受け止める私たち自身の感じ方そのものが変わってきたことをも意味しています。
 端的に言って、100年前の風景、1000年前の風景が今とは全く違うように、それを見る私たちのまなざしも全く違うものになっているということです。

 
      私の部屋の南側の窓から 左はムクゲ 右はクワ

 これは時間軸に沿った変化ですが、それは同時に、空間的な広がりにおいてもいえそうです。
 つまり、どこでどんな風景と接してるかは、私たちのまなざしや、ひいてはものの考え方をも支配しているかも知れません。
 事実、これをふくらませて『風土論』という膨大な書をものにした、和辻哲郎という哲学者がいます。

 
           窓の北側 手前は休耕田

 しかしここでは、そんな小難しいことを論じようというのではありません。
 もっと身近な問題として、私が毎日見て暮らしている風景が、私の偏狭なものの見方や、にもかかわらず、この愛すべき性格(自分でいうな!)とどう関連しているかを皆さんに診断していただこうということです。

 見ていただいてお分かりのように、街中でもなく、かといって全くの田舎でもなく、私の表現に依れば、街が次第に田園地帯を浸食して来たのだが、高度成長の終焉によりその勢いが鈍ったままに留まった「斑(まだら)な地帯」ということになります。

 
      北側をやや東に振ってバス停付近を示したもの
 
 これは、Googleのマップで、特にその航空写真で見るとよく分かります。
 岐阜市の南部へとスクロールしてくると、私の家の辺りから急に市街地の様相が希薄になるのです。
 主要な道路沿いには人家などがありますが、その後ろはもう、畑や田圃です。
 まさにそれらが斑模様をなしているのです。

 
         別の日に撮した篠突く雨に佇む女性
        思わずそこへ行って抱きしめたくなった


 従ってここからきわめて安直に結論するなら、私の思考や性格の中途半端さはこの都市とも田園ともつかぬ斑ゆえともいえます。
 しかしながらこの斑は、マージナルがゆえに都市と田園の双方に向かって開かれていて、それだけ私の規定されざる(別の視点からいえば曖昧な)思考を可能にしているともいえます。

 え?そうではなくて、その斑さこそ、お前の「斑ボケ」を可能にしているですって?
 ほっといてください!





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かつて家であったもの

2008-07-22 00:45:07 | フォトエッセイ
 これは近所にある一軒の廃墟である。
 この3月にも一度紹介したので記憶されている方もいるかも知れない。
 単なる小屋や納屋のようなものではなく、れっきとした住居であったことは二枚目の写真で見る通り、引き込み線があったり、TVのアンテナがついていることからも分かる。

 
 
 植物の浸食の具合が夏を迎えてさらに著しく、そのすさまじさは一段と進んで、もはや外観からはこれが住居であった痕跡は見えにくくなっている。
 こうして植物が繁茂した様を「八重葎(やえむぐら)」とういうのだそうで、「拾遺和歌集」には、恵慶(えぎょう)という人の、

    八重葎茂れる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり

 と言う歌があり、百人一首にも採られているが、この写真の様相はこの歌の情景をはるかに越えていると思われる。

 

 むしろ私は、ずいぶん前に読んだSF小説で、蔦のような大型の植物が地球上に繁茂して人や動物をも食し、人類が危機に瀕するというのを思い出してしまった。
 そしてその連想は、さらに恐ろしいことにも及ぶのだ。

 

 この家の内部はどうなっているのだろう?きっと、隙間という隙間から植物たちが侵入し、そして・・。
 怖いもの見たさとはこうしたことをいうのだろうか?

 全体に蔦のような植物で覆われているのだが、西南部にあたる一帯に、小さな花を集めたピンポン球ぐらいの球状の花がびっしりと付いているので、何の花だろうと図鑑で調べたところ旱蓮木(カレンボク)、別名・喜樹が一番近いようだ。

 

 私たちは、自分の死についてはある程度考えるが、人類が死に絶えた後をあまり想起することはない。
 この家は、まるでそのシミュレーションのような感もあるので、時折は、遠回りしてでも見に行くのである。

なお、3月に載せた折には、以下のように、少し違った観点から書いた。
     http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20080313

 



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え? 中国式「緑化」運動の導入

2008-07-20 15:10:36 | 社会評論
 これは私の家の近くを走る国道21号線の中央分離帯にあるグリーンベルトです。
 緑が鮮やかで車で走っても爽やかですね・・と思いきや、これって自然の緑ではないのです。元々あった草などを全て刈り取り、その上に緑の塗料を塗った科学繊維のシート状のものを敷き詰めたものなのです。
 もともとこうだったのならさほど問題にはしません。

 

 この場所、つい最近までは自然の草が生えていて、整然と整備はされていないまでも、季節のとりどりの花など咲いていてそれなりに人々の目を慰めていたのです。
 たぶん、季節ごとに草を刈ったりするのが面倒なのでこんなことをしたのでしょう。しかもこの辺りの中央分離帯は広くとってありますので、かなり広大な部分(テニスコートが何十面もとれる広さ)を彩色した化学繊維シートでで覆ってしまったのです。

 
 
 この工事はどうやらG8の会議中に行われたようです。むろんこれとG8とは何の関連もありませんが、そこで話し合われたという温暖化対策に真っ向から敵対する工事ではないでしょうか。
 自然の緑が贈る風が、緑色に彩色されたとはいえ、今や真っ向から照りつける夏の日差しが反射する炎熱地獄と化したのです。

 しばらく前、中国で「緑化」と称してはげ山に緑色を塗っている写真が紹介され、笑いを買ったものでした。
 しかしです、国交省のやっていることはもっとひどいのです。はげ山ではなく、もともと緑地であったところをわざわざその緑を全て刈り取り、そこを彩色した化学繊維のシートで覆ってしまっているのですから。
 中国の「緑化」は笑いを誘うものがありましたが、私が目撃した「緑化」はむしろ自然を破壊する野蛮なものを含んでいるように思います。

 

 日々、緑が失われる砂漠化地帯に住んでいる人たちがこれを見たらなんということでしょう。
 
 国交省の意見を聞く窓口を探して、そこへ苦情申し立てを行っておきました。
 何らかの返事があったら報告いたします。


<註>当初「コンクリートで固め」と書きましたが、コンクリートは使用されていないようですので、一部表現を改めました。
 ただし、かなり広大な緑地がこれで失われたことは間違いありません。

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いったい誰が?謎のプレゼント。

2008-07-19 00:56:58 | よしなしごと
 私はいろいろあって、名古屋へよく出かけます。
 その際は、自宅から約2キロの道のりを自転車に乗り、岐阜駅南口に近い実家の軒下にそれを置いてJRに乗ります。

 先般もそうして出かけたのですが、帰りに自転車の前籠に何か包みが入っているのを見つけました。
 母が入院以来、私の姪が留守番をしているのですが、さすがに夜も遅かったので、それをあえて問うこともなく帰宅しました。
 というのもそれまでも、私宛の郵便物などがあった場合には、そうして自転車の前籠に入れられてあることがしばしばあったからです。

 

 ところでその包みですが、帰宅してよく見ると、包装紙に包んだ細長い箱です。
 よく注意してみましたが、メッセージや送り主の名前もありません。慎重に包みを空けると、それは靴下の入った箱でした。そしてそこにも何のメッセージもありません。
 店の名前は分かりません。薔薇の花に、「Thank you very much」と書かれたごく一般的な包装紙です。

 誰かが私にってもってきたものを、姪が自転車の前籠に入れておいてくれたんでしょう。まあ、明日になれば分かることだとそのままにしておきました。
 しかし、謎が深まったのは一夜明けてからです。
 姪に問い合わせた結果、だれからも受け取ってはいない、気がついたときにはそこにあったから、当然、おじさん(私のことです)が知っているものとしてのままにしておいたというのです。

 

 だれが入れたのでしょう?
 自転車が何台も並んでいる自転車置き場ではありません。だから間違えて入れたとか、隣の自転車の人が荷物を整理している折にふと置いたまま忘れたとかいうものではありません。
 道路に面しているとはいえ、一応、軒下に置いてある自転車ですから、その前籠にものを入れるというのは間違いやミスではなく、まさにそこへと置いたのだと思われるのです。

 だれが入れたのでしょう?
 姪は、「おじさん、誰かに親切にして、そのお礼ではないの?」といいますが、私は人類全てにすべからく親切にしていますから、もしそうだとしたら、今頃私の家は靴下に埋もれているはずです。

 あと、考えられるのは、私に密かに慕情を抱いている人です。
 これも特定は困難なのです。何度も日記に書いている通り、街を歩けば、「郷ひろみの甥御さんですか」とか、「木村拓哉さんの弟さんですか?」とか、「<冬のアナタ>っていう韓国ドラマに出ていませんでした?」とか訊かれるのは日常茶飯事ですから、そのうちの誰かが、特に、私が多少穴の開いた靴下も履いていることを知っている誰かが、私に靴下をプレゼントしてくれることは大いにあり得ることなのです。
 
 
 
 ひょっとしてこれを読んでいる貴女、もし貴女でしたら、メールやメッセージでその旨をお知らせください。
 私も一応妻帯者ですが、そのへんんところはお互いに知恵を絞れば何とかなるかも知れません。

 それまでは、靴下は履かないでおきます。
 貴女の愛の証を足に履くなんて、私はそれほどデリカシーを欠いた男ではありません。かといって、頭に被って踊り歩いたら変態扱いです。
 いずれにしても困ったものです。

 本当にだれなんだろうなぁ。
 吉永小百合が私の自転車の場所を知ってるはずはないんだがなあ。
 ひょっとして、スカーレット・ヨハンソンかしら・・。


一生懸命記憶の糸を手繰って探り出したエピソードがひとつだけありました。一度日記に書いたかも知れませんがもう2、3年前、そこへ自転車を置いていたら、30代ぐらいの男が寄ってきて、「おじさん、飯食う金がないんだけど350円くれないか」と悪びれもなく頼みます。

 見たところ身なりもあまり崩れておらず、表情にもへつらいや卑しさがありません。
 そこで小銭入れを探ったところ適当な金額がなかったので、千円札を渡しました。

 彼は「ありがとう」といって何事もなかったように去ってゆきました。その一連の挙動があまりにも自然でさっぱりしていたため、なんだか爽やかにすら感じました。
 反面、私の嫌らしい猜疑心は、あんな風にたかりなれているのかなとも思いました。
 しかし、何か自然な感じの方が強かったのは事実です。

 今回の件がそれと関連があるかどうかはまったく分かりません。
 






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【頑張るおっさん】わらび餅と焼き芋

2008-07-17 02:36:33 | 写真とおしゃべり
 私がほぼ毎日行っている病院の前に陣取って石焼き芋とわらび餅を売っているおっさんがいる。こんな炎天下でも、欠かさず毎日出ている。
 4年前、やはり私の母がここへ入院していた折も、ここで営業していた。後で訊いたがキャリアは長く、とても4、5年どころではない。

 

 無断で写真を撮るのもはばかられるので、断られてもダメ元で、写真を撮らせてほしいと頼んだら、快く承諾してくれた。
 「何に使うンや」
 と、尋ねるので、正直にネットに載せたいと答えた。
 「ネットってのはパソコンのことか」
 というので、
 「そうですよ」
 というと、何か怪訝そうな顔つきだったが、それ以上は追求しなかった。

 後で考えるに、自分よりはるかに年上の私が、「ネット云々」などというので、「じじいのくせにハイカラなことをいう奴だ」ぐらいに思ったのではないだろうか。

 

 さて、撮ろうとすると、
 「わしがおったのでは邪魔やろう」
 といってそこを離れようとする。
 私は慌てて、
 「いやそのまま、そこにいてください」
 と頼み込む。

 写真をご覧になってお感じになるであろうが、このおっさんがいてこそ味があろうというものだ。
 写真を撮りながら、
 「ここはもう長いんですか」
 と訊くと、
 「この病院ができて以来や」
 との返事。
 この病院はずいぶん古いので、たぶん、この新しいところへ建て替えて以来だろうが、それでもたぶん20年ほどになるのではないだろうか。

 

 ついでながら、撮影しながらモデルに話しかけ、自然な表情やポーズを狙うなんて、まるでプロのカメラマンみたいだと自画自賛(笑)。

 「儲かりますか」
 と訊こうかとも思ったがあまり立ち入ってもと思い止めた。
 外科などで食事制限のない入院患者や、見舞客、特に子連れの見舞客などが買っているのを目撃したことがあるから、そこそこは売れるのだろう。

 しかし、このおっさんの動じない持続力には感心する。
 40℃近い暑さにもめげず、タオルと団扇で汗をとり、車の横に陣取ってひたすら客を待つ。病院との協定でもあるのか通りかかる人たちに声をかけるでもなく、ただじっと待つ。

 

 たぶん、それなりのテキ屋としてベテランなのであろうが、こういう人ってどこか好きなんだなぁ。
 写真を撮った後も、なんだか楽しい気分で帰途につくことができた。
 
 明日は、これらの写真を別途プリント・アウトして持って行ってやろうと思うのだが、どんな顔をするだろう。



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ひ~ら ひ~ら ひだりて

2008-07-15 04:08:49 | ポエムのようなもの
 
 
 よくはみえないが
 なにかがゆれている
 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら
 なんだ これは?

 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら
 ん? わたしのひだりて?
 ゆれているのはひだりて?

 だったら みぎては?
 そしてわたしのからだは?

 ん? ない なにもない
 あるようににはおもえない
 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら
 ひだりてがあるのみ

 あ そのてをつかまれた
 もう ひ~ら ひ~らできない
 どうしたのだ?

 あ なにかがめのまえに
 なに? このぼんやりしたもの
 かお? どうもそうらしい

 ひだりてをつかんだのも
 こいつらしい
 かおのしたのほう
 そう くちというあたり
 そこがうごいてる

 でも わたしにはきこえない
 きこえたところで
 なにをいってるのか
 たぶん もうわからない

 このかおのまわりに
 なにかがただよっている
 かなしみ? あわれみ? 
 それとも とまどい?

 どっちにしても
 わたしにはいらない
 だからじゃけんに
 ふりはらってやった

 かおがおどろいたように
 ためらい ひっこんだ
 くうきがすこしゆれたのは
 そのかおのためいき

 でも もういらないの
 ほんとうにいらないの

 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら
 ひだりてがゆれる

 だれ? だれなの?
 わたしのひだりてを
 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら
 うごかしているのは?

 ん? いのちだって?
 わたしをこえた
 わたしではない
 いのち?

 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら
 ゆれているのは もう
 わたしのものでもない
 いのち? だったら・・

 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら
 ひ~ら ひ~ら
 ひらひら



 
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