名古屋市は中区の本町橋です。
名古屋城の大手門から南へ出た道は、この地点で外堀を渡ります。そのまま真っ直ぐ南に行くと、いわゆる本町筋から大須観音を経由し熱田神宮、宮の渡しへと至ります。かつてはこの南北のルートが名古屋のメインストリートでした。しかし、東海道線の開通以来、名古屋駅から東西に延びる道路がメインストリートになってしまったのです。
さて、本町橋ですが、この橋の下はいつ頃からか空堀で、1976年(昭51)まではこのお堀の中を名古屋鉄道の瀬戸線(通称・瀬戸電)が走ったいました。その折の瀬戸線のターミナルは、ここから少し西へ行った堀川駅で、文字通りこの駅は堀川(運河)に接していました。
この瀬戸線は、輸出陶器が運ばれたルートでもありました。瀬戸ー(貨物電車)ー堀川ー堀川運河ー(船便)ー名古屋港、そして諸外国へというのがその道筋だったのです。
このお堀のなかを走る珍しい電車の路線も、そのカーブを曲がる技術がスピード時代に追いつかなくなったり、名古屋そのものの都市交通の変化などもあって、先に述べたように76年、土居下駅から地下を経由して都心部の栄への乗り入れが実現するとともに廃止されました。時を追って78年には、輸出陶器を運んだ貨物電車もなくなりました。
さて、前振りが長くなりましたが、この本町橋には幼年期と青年期の二つの時代でのかなり強烈な思い出があります。
幼年期のそれは、1944年(昭19)にまでさかのぼります。
当時名古屋城の中には、旧陸軍の6連隊があり、私の父は同年の春、赤紙一枚でここへと招集されていたのです。そして、性急な訓練の後、夏にはいきなり旧満州国のハルビンへと派遣させられることになったのです。もちろん、こんなことは軍事機密に属しますから、私たち家族は知るよしもありませんでした。
橋から東方の堀跡、ここを電車が走っていた
ところがです、この6連隊の幹部将校に母の従兄に当たる人がいて、その人が極秘に、「今、会っておかないと、もう会えなくなるかも知れない」と知らせてきたのです。
母と、父の父(つまり私の祖父)と私の三人が岐阜から慌てて駆けつけました。私たちは、その母の従兄に面会しました。その将校は、私たちが訪れた自分の部屋へ上官命令で父を呼び出すという方法をとったのです。
その夜に名古屋駅から出発するという部隊の隊員である父に、もはや正規の面会が許されるはずはありません。その将校はそれをカバーするためにそうした便宜を図ってくれたのでした。上官の急のお呼びということで何ごとかとやってきた父は、そこに私たちの姿を見て驚いていました。
短い面会でした。何を話したのかも覚えていません。
その将校がサービスに出してくれた砂糖水が、おいしかったことだけを覚えています。砂糖はもう貴重品でしたから、その心地よい甘さが幼い舌にジンワリと滲みわたり、父との別離よりも強い印象を残したのでしょう。
名古屋駅に向け、夜の何時頃にどのルートで兵舎を出発するかを聞き出すことができました。どこでどうして時間を潰したのかは全く思い出せませんが、夜更けの道筋に私たちは立ちつくしていました。
その場所こそ、この本町橋の上だったのです。
街灯などというものはむろん点いてはおらず、それどころか灯火管制で街なかとは思えない怖いくらいの暗闇が支配していました。
しかし、回りにかすかに人々の気配がします。闇を透かして見ると、私たち以外に何家族かが立ちつくしています。軍規が厳しい中でしたが、私たちと同様、何らかの形で情報を得た人たちが戦地への旅立つ兵士を見送りに来ていたのです。
何時間待ったでしょう。やがて、ザッツ、ザッツ、ザッツと地を踏む音がして、黒々とした人影の集団が現れました。彼らがいかに規則正しく行進しているかは、地を踏む音と、黒い陰の固まりが一定のリズムをもって揺れながら闇を押し退けて進む様で分かりました。
幼い私にとってはそれは黒い巨大な固まりでした。行進の音に混じって時折聞こえる金属の擦れ合うような音は、彼らが携帯している武器などによるものだったのでしょう。
外堀の石垣
怖かったのです。幼い私にはその不気味な黒い集団がこの空間を圧倒しきっているようで怖かったのです。
そこには、私が絵本で見ていた、軍艦の舳先で手旗信号を送る水兵さんの輝く顔つきや、背筋をぴんと伸ばして騎乗する陸軍将校の凛々しさとは全く違う「たたかふ兵隊」の汗のにおいがする厳しさ、おどろおどろしさがありました。
必死で父を捜しました。しかし、灯りひとつないところでそれは不可能でした。
母や祖父もそうだったのでしょう。そこで祖父が、タバコ用のマッチをとりだし、それに火を点じると、私たちの顔の前にかざしました。
いいアイディアでした。自分の息子が見つからないなら、せめて自分たちの顔を見せてやろうとする必死の思いつきだったと思います。
しかし、しかしです。
「誰だっ!灯りなどともしたやつは!」
という大音声の叱責とともに、たぶん、隊列の横を歩いていた指揮官の一人と思われる人影ががとんできたのです。
祖父は慌ててマッチを落とし、踏んづけました。
指揮官らしい男は、私たちの方を凝視しているようでしたが、やがて隊列に戻ってゆき、事なきを得ました。
これらは全て闇の中の一瞬の出来事でしたが、祖父が手放したマッチの落下がなぜかゆっくりだったような気がするのです。
この橋が明治44年(1911)年に架けられたことを示している
こうして黒い集団は通り過ぎました。その数が何人だったのかもよく分かりません。
「後を追ってはならない」と厳しく言われていましたので、私たちは岐阜へ帰るべく別の道筋を通って名古屋駅に着きました。
しかし、一縷の期待にもかかわらず、名古屋駅には兵士たちの姿はありませんでした。
きっと、どこか別の通路からホームにあがり、専用列車でどこかの軍港へ向かったのでしょう。
ところで、私たちが岐阜へ帰る列車はとっくにありませんでした。駅構内での夜明かしです。私たち以外にも、いろいろな事情で構内で夜明かしをする人たちが結構いたように思います。
今のような明るいコンコースではありません。やはり灯火管制のせいで、黒いカバーの電球が必要な箇所にのみ点いている暗~い駅構内でした。
田舎出の祖父は誰とでもすぐ仲良くなるのが特技で、隣り合わせた人と話しながらタバコのやりとりなどしていました。後年、母が、「おじいさんたら、ルンペンみたいな人と仲良くなってしまって・・」とこぼしていたのを聞いたことがあります。
当時もこの角灯はあったかも知れないが灯りは入っていなかった
その祖父も今生きていれば120歳を超えているはずですが、85歳で生涯を終えました。
父は敗戦時、ハルビン郊外でソ連軍の捕虜になり、バイカル湖の近くの収容所で、冬にはマイナス40℃にもなろうかという劣悪な状況下で強制労働に従事した後、昭和24年春に還ってきました。
さすがにマイナス40℃では作業は中止されたそうですが、マイナス30℃ぐらいまでは、「今日は暖かいから」と作業をさせられたそうです。
帰還したとき、大事そうに抱えた紙袋から、「これが土産だ」と乾燥芋をとりだしてくれましたが、さすがの私も戦後4年を経た時点では、乾燥芋は食べ飽きていたというかうんざりしていました。
生きていればちょうど100歳の父も、祖父同様85歳で生を全うしました。
母は今、95歳で生死の瀬戸際にいます。
意識が奈辺にあるかは定かではないのですが、私は彼女がまだ30歳で、あの本町橋の上で、私の肩を抱きながら、黒い集団に向かって必死に目を凝らしていたのを覚えています。
生死不明の父を待ちながら、私と二人で過ごした戦後の日々も覚えています。
橋から西の堀 昼なお鬱蒼とした感がある
1990年のことです。黒澤 明監督の当時の新作『夢』という映画を観ていたときです。
やはり大家になると晩年には説教くさくなるのかなぁ、などと生意気な感想をもって観ていたときでした。そのオムニバス映画の第4話にいたって、私の全身を電流か駆け抜けるようなシーンと遭遇したのでした。
私はどんな映画でも、割合、冷静に観る方です。しかし、このときは、「あっ、それって、あのときの」と思わず叫びそうになったのです。
既視感(デジャヴ)が強烈に私を襲ったのです。
私はしばし、それをどこで観たのかを思い出せませんでした。
しかしわかったのです。
1944(昭19)年、夏の夜、本町橋の上で、私は経験したのです。
映画の第4話は、「トンネル」と題され、復員兵がトンネルにさしかかると、戦死した兵士たちが隊列を組み、まさにザッツ、ザッツと軍靴の音を響かせて立ち現れるのです。
これこそ、幼い私が本町橋の上で「経験した」光景でした。敢えて「見た」とは言いません。なぜなら、本町橋はもっと暗く、話を交わすいとまなどもなく、ただ黒い固まりが動いていったのみですから。にもかかわらず、兵士たちはあのように、本町橋の上を進んでいったのです。
祖父が点したマッチの光に一瞬浮かび上がった本町橋の黒い影の行進こそ、私のデジャヴなのです。
*ある会合が近くであり、その時間の余裕を見て写真を撮ってきたのが発端です。
本町橋には、幼年期と青年期に印象深い思い出があります。それらを写真を見ながらまとめてみようと思ったのです。
もっと短く書くつもりでした。しかし、書き始めたら、忘却の淵に沈んでいた細やかなショットが吹き上げるように次々と現れ、おまけに、それらを除いたら現実性が損なわれるような強迫観念にも襲われ、ついつい長くなってしまいました。
ですから、青年期の思い出についてはまたの機会に回したいと思います。
名古屋城の大手門から南へ出た道は、この地点で外堀を渡ります。そのまま真っ直ぐ南に行くと、いわゆる本町筋から大須観音を経由し熱田神宮、宮の渡しへと至ります。かつてはこの南北のルートが名古屋のメインストリートでした。しかし、東海道線の開通以来、名古屋駅から東西に延びる道路がメインストリートになってしまったのです。
さて、本町橋ですが、この橋の下はいつ頃からか空堀で、1976年(昭51)まではこのお堀の中を名古屋鉄道の瀬戸線(通称・瀬戸電)が走ったいました。その折の瀬戸線のターミナルは、ここから少し西へ行った堀川駅で、文字通りこの駅は堀川(運河)に接していました。
この瀬戸線は、輸出陶器が運ばれたルートでもありました。瀬戸ー(貨物電車)ー堀川ー堀川運河ー(船便)ー名古屋港、そして諸外国へというのがその道筋だったのです。
このお堀のなかを走る珍しい電車の路線も、そのカーブを曲がる技術がスピード時代に追いつかなくなったり、名古屋そのものの都市交通の変化などもあって、先に述べたように76年、土居下駅から地下を経由して都心部の栄への乗り入れが実現するとともに廃止されました。時を追って78年には、輸出陶器を運んだ貨物電車もなくなりました。
さて、前振りが長くなりましたが、この本町橋には幼年期と青年期の二つの時代でのかなり強烈な思い出があります。
幼年期のそれは、1944年(昭19)にまでさかのぼります。
当時名古屋城の中には、旧陸軍の6連隊があり、私の父は同年の春、赤紙一枚でここへと招集されていたのです。そして、性急な訓練の後、夏にはいきなり旧満州国のハルビンへと派遣させられることになったのです。もちろん、こんなことは軍事機密に属しますから、私たち家族は知るよしもありませんでした。
橋から東方の堀跡、ここを電車が走っていた
ところがです、この6連隊の幹部将校に母の従兄に当たる人がいて、その人が極秘に、「今、会っておかないと、もう会えなくなるかも知れない」と知らせてきたのです。
母と、父の父(つまり私の祖父)と私の三人が岐阜から慌てて駆けつけました。私たちは、その母の従兄に面会しました。その将校は、私たちが訪れた自分の部屋へ上官命令で父を呼び出すという方法をとったのです。
その夜に名古屋駅から出発するという部隊の隊員である父に、もはや正規の面会が許されるはずはありません。その将校はそれをカバーするためにそうした便宜を図ってくれたのでした。上官の急のお呼びということで何ごとかとやってきた父は、そこに私たちの姿を見て驚いていました。
短い面会でした。何を話したのかも覚えていません。
その将校がサービスに出してくれた砂糖水が、おいしかったことだけを覚えています。砂糖はもう貴重品でしたから、その心地よい甘さが幼い舌にジンワリと滲みわたり、父との別離よりも強い印象を残したのでしょう。
名古屋駅に向け、夜の何時頃にどのルートで兵舎を出発するかを聞き出すことができました。どこでどうして時間を潰したのかは全く思い出せませんが、夜更けの道筋に私たちは立ちつくしていました。
その場所こそ、この本町橋の上だったのです。
街灯などというものはむろん点いてはおらず、それどころか灯火管制で街なかとは思えない怖いくらいの暗闇が支配していました。
しかし、回りにかすかに人々の気配がします。闇を透かして見ると、私たち以外に何家族かが立ちつくしています。軍規が厳しい中でしたが、私たちと同様、何らかの形で情報を得た人たちが戦地への旅立つ兵士を見送りに来ていたのです。
何時間待ったでしょう。やがて、ザッツ、ザッツ、ザッツと地を踏む音がして、黒々とした人影の集団が現れました。彼らがいかに規則正しく行進しているかは、地を踏む音と、黒い陰の固まりが一定のリズムをもって揺れながら闇を押し退けて進む様で分かりました。
幼い私にとってはそれは黒い巨大な固まりでした。行進の音に混じって時折聞こえる金属の擦れ合うような音は、彼らが携帯している武器などによるものだったのでしょう。
外堀の石垣
怖かったのです。幼い私にはその不気味な黒い集団がこの空間を圧倒しきっているようで怖かったのです。
そこには、私が絵本で見ていた、軍艦の舳先で手旗信号を送る水兵さんの輝く顔つきや、背筋をぴんと伸ばして騎乗する陸軍将校の凛々しさとは全く違う「たたかふ兵隊」の汗のにおいがする厳しさ、おどろおどろしさがありました。
必死で父を捜しました。しかし、灯りひとつないところでそれは不可能でした。
母や祖父もそうだったのでしょう。そこで祖父が、タバコ用のマッチをとりだし、それに火を点じると、私たちの顔の前にかざしました。
いいアイディアでした。自分の息子が見つからないなら、せめて自分たちの顔を見せてやろうとする必死の思いつきだったと思います。
しかし、しかしです。
「誰だっ!灯りなどともしたやつは!」
という大音声の叱責とともに、たぶん、隊列の横を歩いていた指揮官の一人と思われる人影ががとんできたのです。
祖父は慌ててマッチを落とし、踏んづけました。
指揮官らしい男は、私たちの方を凝視しているようでしたが、やがて隊列に戻ってゆき、事なきを得ました。
これらは全て闇の中の一瞬の出来事でしたが、祖父が手放したマッチの落下がなぜかゆっくりだったような気がするのです。
この橋が明治44年(1911)年に架けられたことを示している
こうして黒い集団は通り過ぎました。その数が何人だったのかもよく分かりません。
「後を追ってはならない」と厳しく言われていましたので、私たちは岐阜へ帰るべく別の道筋を通って名古屋駅に着きました。
しかし、一縷の期待にもかかわらず、名古屋駅には兵士たちの姿はありませんでした。
きっと、どこか別の通路からホームにあがり、専用列車でどこかの軍港へ向かったのでしょう。
ところで、私たちが岐阜へ帰る列車はとっくにありませんでした。駅構内での夜明かしです。私たち以外にも、いろいろな事情で構内で夜明かしをする人たちが結構いたように思います。
今のような明るいコンコースではありません。やはり灯火管制のせいで、黒いカバーの電球が必要な箇所にのみ点いている暗~い駅構内でした。
田舎出の祖父は誰とでもすぐ仲良くなるのが特技で、隣り合わせた人と話しながらタバコのやりとりなどしていました。後年、母が、「おじいさんたら、ルンペンみたいな人と仲良くなってしまって・・」とこぼしていたのを聞いたことがあります。
当時もこの角灯はあったかも知れないが灯りは入っていなかった
その祖父も今生きていれば120歳を超えているはずですが、85歳で生涯を終えました。
父は敗戦時、ハルビン郊外でソ連軍の捕虜になり、バイカル湖の近くの収容所で、冬にはマイナス40℃にもなろうかという劣悪な状況下で強制労働に従事した後、昭和24年春に還ってきました。
さすがにマイナス40℃では作業は中止されたそうですが、マイナス30℃ぐらいまでは、「今日は暖かいから」と作業をさせられたそうです。
帰還したとき、大事そうに抱えた紙袋から、「これが土産だ」と乾燥芋をとりだしてくれましたが、さすがの私も戦後4年を経た時点では、乾燥芋は食べ飽きていたというかうんざりしていました。
生きていればちょうど100歳の父も、祖父同様85歳で生を全うしました。
母は今、95歳で生死の瀬戸際にいます。
意識が奈辺にあるかは定かではないのですが、私は彼女がまだ30歳で、あの本町橋の上で、私の肩を抱きながら、黒い集団に向かって必死に目を凝らしていたのを覚えています。
生死不明の父を待ちながら、私と二人で過ごした戦後の日々も覚えています。
橋から西の堀 昼なお鬱蒼とした感がある
1990年のことです。黒澤 明監督の当時の新作『夢』という映画を観ていたときです。
やはり大家になると晩年には説教くさくなるのかなぁ、などと生意気な感想をもって観ていたときでした。そのオムニバス映画の第4話にいたって、私の全身を電流か駆け抜けるようなシーンと遭遇したのでした。
私はどんな映画でも、割合、冷静に観る方です。しかし、このときは、「あっ、それって、あのときの」と思わず叫びそうになったのです。
既視感(デジャヴ)が強烈に私を襲ったのです。
私はしばし、それをどこで観たのかを思い出せませんでした。
しかしわかったのです。
1944(昭19)年、夏の夜、本町橋の上で、私は経験したのです。
映画の第4話は、「トンネル」と題され、復員兵がトンネルにさしかかると、戦死した兵士たちが隊列を組み、まさにザッツ、ザッツと軍靴の音を響かせて立ち現れるのです。
これこそ、幼い私が本町橋の上で「経験した」光景でした。敢えて「見た」とは言いません。なぜなら、本町橋はもっと暗く、話を交わすいとまなどもなく、ただ黒い固まりが動いていったのみですから。にもかかわらず、兵士たちはあのように、本町橋の上を進んでいったのです。
祖父が点したマッチの光に一瞬浮かび上がった本町橋の黒い影の行進こそ、私のデジャヴなのです。
*ある会合が近くであり、その時間の余裕を見て写真を撮ってきたのが発端です。
本町橋には、幼年期と青年期に印象深い思い出があります。それらを写真を見ながらまとめてみようと思ったのです。
もっと短く書くつもりでした。しかし、書き始めたら、忘却の淵に沈んでいた細やかなショットが吹き上げるように次々と現れ、おまけに、それらを除いたら現実性が損なわれるような強迫観念にも襲われ、ついつい長くなってしまいました。
ですから、青年期の思い出についてはまたの機会に回したいと思います。