六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

至るところ靑山?中国山西省賀家湾村での葬儀と埋葬

2023-06-27 01:35:53 | 写真とおしゃべり

 前回、土葬や火葬に付いて触れたが、そういえば一番最近みた土葬は12年前だったことを思い出した。
 ときは2011年秋、当時中国山西省の賀家湾村に住んでいたOさんを訪れた折のことであった。省都太原市から直線距離で200キロ、実際には途中から山道をくねくね登るから、かなりの距離だった。
 初めて見るヤオトン(横穴式住居)の集落は全戸数20ほどのまったくの山村であった。
 
 やっと村へ着いた私たちはにぎやかな楽隊の演奏によって迎えられた・・・・のではなく、たまたま村で死者が出て、その葬儀の前触れのための楽隊を先頭とした行列を目撃したのだった。葬送の行列といっても、その音楽はまったくしめやかではなく、トランペットやシンバル、銅鑼などによって賑やかに演奏されるものだった。

      

 村を一周した楽隊と行列は、死者の家近くのちょっとした広場で、引き続き賑やかな演奏を展開し、遺族が近くに立つなか、村中の人たちがそれを取り囲んで見物するという時間が延々と続いた。どうもそれ自体が供養のセレモニーらしい。
 葬儀は翌日であり、それも覗いたが、前日の楽隊ほど賑やかではないにしても、日本の葬儀に比べれば遥かに賑々しく、交わされる言葉も高音でよく響いた。

      

 葬儀から離れた私たちは、山の畑の方へ登っていったのだが、そこで偶然、長方形の穴をほっている人を見かけた。葬儀後の埋葬のためだとは思ったが、不思議なのはそこはどうみても墓地ではなく、畑の中だったことだ。そうか、遺体は自分の畑に埋めるのかと思ったがそれも間違いで、もともと決まった墓地や墓所というものはなく、風水師が死者が出る都度、占いを立て、その埋葬場所を決めるのだそうだ。

           
 
 詳しく聞いて驚いたが、それは、私が思ったように自分の土地ではなく、たとえ他人の畑や土地でも、風水師がここと決めたらその土地の所有者もそれに従うのだという。突然、自分の土地に、他者が埋葬されるわけだ。

           

 ところで、写真で見るように、ゆうに2m以上はある穴をたった一人で掘るのは大変だろうと思われる。しかしだ、ここは黄土高原地帯、そう、あの日本へ襲来する黄砂発祥の地なのである。
 ようするにここは、黄河が運んだ黄砂の堆積した山で、樹木などはなく、従って木の根っこなどは全くなく、サクサク掘れてしまう土地なのだ。そうした土質もあって、麓から山頂までびっしり段々畑に覆われているが、できる作物はとうもろこし、大豆などの限られたものである。「水は天からもらい水」で干ばつの被害も時折襲うようだ。

           

 さてそうして風水師によって畑の所々にある墓であるが、やや大きめの土饅頭のような形で、その天辺に墓標の代わりに石などを乗せただけのものである。
 写真のものはどのくらい年月が経ったものかわからないが、一見、全体が岩のように見えるものの、土饅頭が風化したのみで、やがてもっと砕け、平になってゆく。
 もっと前の100年以上前ものもみたが、そう言われればやや膨らんでいるかなぁといったぐらいで、もはや墓としての痕跡はない。

           

 ようするに、墓自体が自然の風化に任せてやがてなくなってしまうのである。
 周辺の山々に設えられた畑を見回しながら、果たしてこの範囲に何人の人たちが眠っているのかを考えてしまった。

       

 「人間至るところに靑山(死に場所)あり」は禅の教えらしいが、ついそれを思い起こしたのであった。
 もっともこの地は、黄土高原の真っ只中、「黄山」でしかないのであるが・・・・。
  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間は死後どうなるのか?

2023-06-24 11:50:28 | よしなしごと

 別にちょっとした病にひっかかっているからといって考えたことではない。
 また、「六道輪廻」とか「最後の審判」とかいった形而上学的問いに答えようとするわけではない。
 話は魂や精神といった目に見えないものについてではなく、その肉体の処理に関してである。

 なぜそんなことを考えたかというと、最近、65年間付き合いのあった女性の葬儀に出たからである。彼女の頬は冷たかった。基本、家族葬だったから火葬場まで行って失礼したが、炉のなかで高温に燃え盛る炎に焼かれる彼女の姿が思い浮かび、振り返ったが、別に煙のようなものは見えなかった。

 小津の『東京物語』では、平吉の妻の葬儀の後、火葬場の煙突から出る煙を撮したシーンがあったあったと思うが、その頃に比べて、焼く技術も格段の進歩をしてるのだろう。
 ただし、最初にその映画を観た時、「へ~、尾道は火葬なんだ」と思ったことを覚えている。

 というのは、私が戦時の縁故疎開で1944~50年まで過ごした大垣郊外の母方の実家では、土葬だったからである。母方の親族、祖父や祖母などの葬儀は自宅で行われ、その後、その遺骸は御勝山という海抜100mに満たない山の中腹にある墓地に埋められた。

 この御勝山というのは、かの関ヶ原の合戦において、徳川家康がその本陣をここに敷き、もって勝利を挙げたことによって名付けられた山である。この山より以南は、西濃の田園地帯が広がる眺望のいい場所にその墓地はあった。
 一家族あたりの墓地の面積は決まっているから、代々、そこに埋めてゆくと、どういうことが起こるかというと、先人たちの遺骨が出てくるのである。掘るのは集落の人たちだから、先代などの事情も知っていて、「ああ、これは〇〇さんのお骨だ」と納得し、それらに対しては酒などをかけ、別途追悼の経が挙げられ、また埋め戻されたりした。

 では父方の実家ではどうであったろうか。
 福井県は九頭竜川の九頭竜ダムの下へ流れ込む支流、石徹白川沿いにある全部で20戸足らずの集落のそれは、やはり自宅での葬儀の後、火葬に付された。ただし、火葬といっても、墓地の一角にあるそれほど高くないレンガ積みの方形の場所に、棺桶を置き、周りに薪を積み上げて火を放つというなんとも原始的な野焼きのスタイルであった。
 ただし、私が目撃したのは昭和の御代であったから、補助手段として燃えやすいようにガソリンなど振りまいていたが、遡れば薪のみで時間をかけての焼き上げであったと思われる。

 ガソリンを補助にしても、現在の火葬場でのように短時間では済まない。その燃える間、会葬者たちは死者の家に引き上げ、酒盛りが始まる。焼かれる段階まで来たらもう大往生ということらしい。
 ところで、父の実家はその墓地の、そして焼き場のすぐ近くだったから、酒を酌み交わしている窓からその焼き場の炎がよく見え、その熱まで伝わってきそうであった。
 その炎のもとで今まさに灰になりつつある祖父を思いながら、複雑な気持ちで盃を乾していたが、今考えると、今様の流れ作業の味気ない火葬場よりも故人を偲ぶためにもかえってそのほうが趣があったともいえる。

 現在は、大垣でも、福井の山奥でも、今様の火葬場で焼かれるようになった。とくに大垣の火葬場は、その近辺の金生山が大理石の産地とあって、それをふんだんに使った豪華な造りである。
 それが出来たばかりの頃、大垣の親戚の葬儀に父と一緒に行ったことがあって、その火葬場を見るなり父が、「俺もこんなところで焼かれたい」というので、「オイオイ、縁起でもないこというなよ」とたしなめたのだが、おそらくその時、父の頭には、実家でのあの野焼きの風景が浮かんでいたことと思う。
 その父は、岐阜の火葬場で、普通に焼かれた

    

 そんなこともあって、現在は火葬が一般的になって、もはや土葬は圧倒的に少数だろうと思ったが、その実情を調べてみて驚いた。いまや、土葬が可能なのは、北海道、宮城県、栃木県、高知県、山梨県の5地方と、離島など伝統的なそれが認められているところに限定されているのである。
 これでみるとわかるように、北陸、東海、関西、中国、九州地方では土葬が不可能なのである。

 まあ、それはそれでいいではないかということかもしれないが、実は一部の人にとっては大問題なのである。というのは、遺体をどう遇するかは、その死生観、宗教的教義が深く関わっているからだ。
 例えば、イスラム教やユダヤ教においては死後復活の教義をもち、聖地メッカに頭を向けて土葬すると厳格に定められているという。日本にもそれらの人たちが増えつつあるなか、これは大変な問題だが、地方自治体などで近年、特別措置がとられつつあるようだ。

 では、キリスト教はどうかというと、やはり復活の教義をもち、伝統的には土葬なのだが、近年では火葬への抵抗も薄れつつあるという。しかし、私たちが観る欧米の映画では、圧倒的に土葬のシーンが多いのも事実である。そこで調べてみたら、火葬は、イギリスでは約70%、アメリカでは約20%だということである。
 他に、風葬、水葬、鳥葬、宇宙葬なんてのもあるようだが、きりがないので、この辺にしておく。

 さて、私はどうなるのだろうか。若い頃は、極上のウィスキーと睡眠薬を抱え込んで雪深い深山の懐で人知れず逝きたい、そして降り積もる雪の下で永久に人の目に触れたくないなどと考えたことがあるが、今はもう、それほどの覇気もない。


 写真はゴッホと彼を支えた弟テオ(テオドルス)の墓

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガ〜〜〜ン! お預け延長のショック! 付:沖縄

2023-06-23 17:51:50 | よしなしごと

 鼠径ヘルニア手術から10日目、医師の診断の日。
 予後の経過良好なら、今日でもって手術以来の諸制限のすべて、あるいはほとんどが解禁になるはずだった。
 
 重いものをもったり、しゃがんだり、自転車に乗るなどの運動の禁止(車の運転はOK)、入浴の禁止(シャワーはOK)、そして飲酒の禁止など。
 これらをこの10日間、まじめに守ってきた。

 しかし、医師の下した判断はNO !
 自分でも否定的な状況を自覚していなかったわけでない。手術痕周辺の腫れがひかないこと、当てたガーゼに時折少量だが血痕のようなものが付くこと、目視でも傷の一部が赤みがかっていること・・・・などなど。

          

 医師の判断は、手術箇所の内部での出血がみられること、傷口が完全に癒着していないことなどで完治にはまだ遠いということ。
 そしてでた判決が、上に書いたような諸制限をあと2週間、7月7日まで続けるということだった。
 
 なんでもないような制限だが、実際に実行してみるとけっこう危うい場面がある。ふと、重いものを運ぼうとして手を引っ込めたことが何度もある。しゃがむ動作も、草むしりのような作業はできないし、なにかを床に落として拾う場合にも、しゃがまないで前屈の姿勢で行わねばならない。

 飲酒についてであるが、20代で酒に馴染んで以降、たぶん最長の期間になると思う。60代前半の脳梗塞、70代後半の骨折、急性気管支炎に依る高熱(41.5度)などによる入院に際しても禁酒はしたが、せいぜい、1週間ぐらいだった。
 今回は、来月7日に解禁になるにしても一ヶ月近い禁酒期間になる。

 さいわい今のところ、手が震えたり、やたらイライラして人に噛みつくような禁断症状は出ていない。でも、どこか覇気が欠けてきているような気もする。

 沖縄慰霊の日の死者たちへの献杯が、七夕の二人の逢瀬への祝杯に変わったわけだ。
 なお、蛇足ながら沖縄は過去についての記念ではない。ヤマトンチュウによる一方的な犠牲の強要は今も続いている。辺野古の新基地強行もそうだし、近年、騒々しい敵基地先制攻撃の配備も沖縄を拠点に展開されている。
 
 いまなお、沖縄を矢面にしてはばかることないヤマトンチュウの代表、岸田のスピーチにある「平和」という言葉は、冷え冷えとして軽く、琉球処分の今日の実行者としてのそれであった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病院で(2)『源氏物語』の挫折

2023-06-19 17:26:12 | フォトエッセイ

 それにしても紛らわしいタイトルだなぁ。まるで『源氏物語』が挫折したみたいですが、挫折したのはほかならぬこの私。その経緯は以下のとおりです。

 予め入院しますと予告してあったので、親しい友人などから「こんなふうに過ごしたら」というアドバイスを頂いたりしたのですが、結局私が選んだのは、日頃、「積読」であった書を読破しようということでした。持参したのは、もうずいぶん前に入手したまま放ってあった『源氏物語』(与謝野晶子:訳 角川文庫版)なのですが、文庫本といっても馬鹿になりません。上・中・下と三巻に分かれていて、それぞれが六五〇ページ以上、合計約二千ページという大著なのです。
 
 初日は手術前の検査などで、その空き時間や夜など、順調に進むことができました。しかし、手術日の午後以降は、手術時間、その後の麻酔とそれが切れた後の痛みなどなどがあってなかなか読み進めません。その翌日は、多少読み進むことが出来ました。結論をいいますと、結局読み終えたのは約三〇〇ページ、全体の七分の一ほどでしょうか。
 ようするに、これを全部読み終えるのには、もっと重い病に罹り、長期の入院が必要であることがわかりました。

      

 これだけしか読んでいないので、あれこれいう資格はまったくないのですが、美貌と才能(?)をかさにきた源氏の女性漁りはかなりしつっこく強引で、時には家宅侵入や未成年誘拐、強姦まがいのものもあり、歌など贈って相手の気を引くという優雅さばかりではないことがわかります。
 その言動にも、ルッキズムはもちろんミソジニー(女性蔑視)的なところもあり、訳文では「恋」や「愛」などが頻繁にでてきますが、まあ、現代のそれではないようです。
 
 私自身、戦前のモラルを多少引きずっていたり、あるいはそれを時代のせいにするにはいささか卑劣な自分自身のだらしなさもあって、その潔白を前提とした源氏への倫理的批判などは正直いってこそばゆいところがあるのですが、これを書いた自身女性である紫式部が、どのような思いで筆を進めたのかも興味のあるところです。
 
 まあ、いずれにしても千年前の話ですから、今どきの倫理観を振りかざすのも野暮というものでしょう。それに、この物語自体、源氏が散々放蕩をし尽くした末、結局それらを無常に感じてその態度を転じてゆくということらしいのですから、たかが七分の一を読んだぐらいでとやかくいうべきでもないのでしょうね。それにしても、無常を感じるまでに褥をともにした女性の数が多すぎるのではとも思ってしまいます。
 その点、私なんかはたかだか・・・・(以下自粛)。

 さて、残りの『源氏』はどうしましょう。娑婆へ帰ってくると、もっとリアルなものの読書にも迫られますから、これに集中するわけにも行きません。まあ、いろんな書の間に、挟んで少しずづ読み進めるか、ほんとうにもっと大きな病での長期入院の際になるのかもしれません。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病院で(1)自分の屍体の脚に触る

2023-06-18 11:39:26 | よしなしごと
 退院して三日目を迎えようとしています。
 退院にあたっての医師の注意事項(行動の制限、入浴の禁止、飲酒の禁止)などを順守していることもあって、徐々に回復しつつあると信じています。
 短い入院期間でしたが、そこで経験した事共を少々、書いておきます。

新しいい経験・・・・自分の屍体の足に触る
 手術が終わり、下半身の麻酔が醒めないまま病室に戻された折の経験です。下半身の感覚は全くありません。ただし、手は動きます。そこで、その手を伸ばして自分の下半身、太ももの外側に触れてみたのです。何やら少し冷たい「物体」があります。「ん、これが私の脚か」と納得するまでに少し時間がかかりました。なぜなら、通常、自分の体に触るという感覚とは全く違ったからです。
 
 これは、フランスの哲学者、メルロー=ポンティという人が知覚を通じての身体と精神を論じたところにも書いていたと思うのですが、普通、自分の身体に触れた場合、触る方の部分(たとえば手)と触られる部分(例えば脚)との間には、互換性=互感性があり、手の方が触っていると同時に、逆転して脚の方が触っているともいえるわけです。
 ようするに、触る側と触られる側が混然一体となって、どっちも触っている側で、またどっちも触られている側なのです。わかりやすいいイメージでいうと、両手で拍手をする場合、どちらが打ち、どちらが打たれている方かわからなくなるということです。

       
 
 もちろんこれが他人との間ですと、「触っている」と「触られている」は上のように混然とすることはありません。私が他人の足に触る場合、「触る」という感覚はありますが、「触られている」という感覚はありません。それは他人の方が感じるわけです。
 
 つまり私の場合は、麻酔で感覚が遮断されているせいで、まるで他人に触っているような、つまり手の方には「触る」という感覚があったにも関わらず、脚の方には「触られている」という感覚は全くなかったのです。先にみた、自分の体同士では起こる感覚の互換性=互感性はまったくなかったわけです。そればかりか、冷たく感じられたので、生きているそれではなく、結局「自分の屍体の脚に触っている」ような経験をしたのでした。

 それから、これもメルロー=ポンティが触れていることですが、戦争や事故などで手脚のどれかを失った人が、ないはずの部分、例えば右脚を失った人がそのつま先や、あるいはもっと具体的に、親指が痒いとか痛いとか感じることがあるのだそうです。
 私も、それに近い経験をしました。下半身麻酔が効いたまま病室に寝ていた私は、自分の下半身の姿勢が、両脚を揃え、膝を立てて寝ているとばかり思っていました。感覚がないのですからその根拠はないのですが、何故か自分の意識ではそういう姿勢だと思っていました。
 そんなこともあって、巡回に来た看護師さんに、「麻酔が醒めても今夜はこうして膝を立てたままのほうがいいのですか」と尋ねました。看護師さんは一瞬、怪訝そうな顔をして、「いいえ、あなたは足を伸ばして寝ていらっしゃいますよ。今夜はそのまま動かないようにしておやすみください」と答えてくれました。私は、なお信じられない感じ(意識の上では膝を立てていた)でしたが、やがて麻酔が醒めてくるに従い、私のその感覚のほうが幻覚であったことを知ったのでした。

 自分の身体というのは、客観的には他人の身体同様一つの物質です。しかし、自分で自分に触るという経験は、少なくとも意識の上では身体が単なる物質ではないと感じられることを知ることができます。
 そこに、身体と意識の不思議な関連があるのですが、私も不勉強で、「だからどうなのさ」と尋ねられてもよくわかりません。
 ですから、私の経験を記すにとどめます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

退院の報告です。

2023-06-16 00:13:05 | よしなしごと
退院して来ました。
早足で歩かない、重いものを持たない、しゃがんだりしない、などなどの制限がつくため、自宅療養に不安があればもう1,2日いてもということでしたが、病院生活に退屈したのと、自宅でしなければならないことも多少あるので、帰宅することにしました。
機敏に動けないので、自宅前の片側一車線の道路を横断するのに一苦労。両車線とも、絶対安全距離を確保するのが困難なのです。
家の中でも、何事も安全第一とノロノロと動いています。
 
       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病院からと岐阜県不破郡垂井町の子ども歌舞伎

2023-06-14 17:42:52 | 催しへのお誘い
 鼠蹊ヘルニアの治療で入院したのが12日、手術が13日午後。
 手術自体は下半身麻酔で半ば夢の中。
 終了後、下半身の麻痺が何時間も続き、それが切れると傷口の痛みが。日常用いている睡眠薬の使用も禁止され、睡眠もままならず、五体を拘束された安静とやらが続く。
 翌13日完全な睡眠不足と傷口の膨らみなどで38度以上の発熱。
 医師の診察。「あ、これは血が溜まっているので出しましょう」とのことで、傷口の周りを押して血を押し出す。
 麻酔なしだから、これまで経験したことのない痛みが続き、気を失いそうになる。
 あらゆる神様、仏様、旧統一教会の文鮮明様も動員してのご加護を頼めど、これまでの悪業が祟ってか効き目もなし。夕刻になって痛みも発熱も治まってやっとPCに向かう気力が。
 
 なんて病苦の話は辛気臭くなるばかりだから、話題をガラリと変えて、この5月3日、岐阜県不破郡垂井町で行われた祭礼に伴う「子ども歌舞伎」の情景を撮した写真を未編集のままズラリと紹介しよう。
 あらすじとしては、役者の披露とその練り歩き(パレード)、そして三台の豪勢な山車(だし)を連ねての舞台での演技の模様である。
 ああ、文章を書くのもつらい。 
 では写真の羅列を。



 
 
 
 
 
 
 
 
 


 
 



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

















 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遅い田植えが終わった 入院前の屋外の記録

2023-06-11 17:23:17 | 写真とおしゃべり

 明日から入院。
 あまり野外に出られなくなるから、そのへんで少々。

 豆苗の食べ残しで育てた絹さやエンドウ、今年は豊作だった。数本分の実だったが、スーパーで買う分の3~4回分は穫れた。しかも、豆の香が強く感じられる美味であった。
 そのエンドウもついに終幕を迎えた。私の入院に合わせて終わるなんてなんと憂いやつであることよ。

          

 この辺の田植えがやっと始まった。県産米「ハツシモ」が主で、その名のように霜が降りる頃収穫という遅場米である。各米粒は大きく、あまり粘りはないサラッとした炊きあがりである。
 ある寿司屋の親父が、これは寿司にピッタリの米だと絶賛していた。
 地産地消、私もこれを食している。

          

 ところでこの辺の田、埋め立てが進み、住宅やビルに囲まれて可哀想なくらい狭っ苦しい感がある。かつてはのびのびとし他田園風景だったのに、いまや、田の方が押され気味である。

 そんなふうだから、田へやる水もかつてのよう自然な流水、ようするに田を囲む小川ではない。それらはすべてコンクリート製のU字溝に取って代わられ、しかももう自然の流水はないから一年のうち半分以上は干上がっていて、必要なときのみ大型のポンプで地下水を汲み上げて給水する仕組みだ。

 結果として、小型の魚類や水生昆虫は見事に絶滅した。私がここへ来た頃、田植えを終えた田に、群れていた小ブナやメダカ、ドジョウなどは姿を消して久しい。ミズスマシやゲンゴロウ、アメンボ、タガメも絶滅した。比較的遅くまで粘ってたアメリカザリガニも姿を消した。ついでながら、イナゴももういない。

       

 かつて田は、そうした他の生物群との共生のなかにあった。いまや純粋栽培されている稲の朋輩は農薬だけであろう。
 勢いよく吹き出すポンプの水は、そうした今様の稲作を象徴するかに思われる。

 おまけの写真は、今日作った余り物を集めた冷やし中華。

       

 では、手術と入院、行ってまいります。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頑固者のマイナカード論 

2023-06-10 00:46:22 | フォトエッセイ

 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20230602

 さる2日の以下の記事につき、さるところで、なぜそんなにマイナカードに反対するのかとの質問を受けたので、それに答えたものを編集加筆して、以下に述べます。

            

 いろいろなご見解、参考にさせていただきました。
 私の見解は単純なのです。
 国家は様々な行政や立法、時としては司法の情報も隠蔽改ざんし、ブラックボックス化したなかで私たちを支配しています。
 その反面、あらゆる管理のシステムを動員し、国民全員の情報をあらいあざらい収集し、それを一元的支配のもとに置こうとします。その先端がマイナカードなのです。
 
 そのように私たちの情報が「知られてしまっている」という状況は、翻って、私たち自身の行動そのものを「自主規制」する要因となります。ようするにシステムを意識的、無意識的に下敷きにした生き方の選択です。
 
 これが、ミシェル・フーコーいうところのパノプティコン(集中管理型獄舎)効果であり、「みられている」を前提にした「規律の内面化」なのです。
 
 私たちは、色々な事柄を自分が決断していると錯誤しがちですが、じつは「見られている」を内面化した他者の視線の元、誰のものでもない生を生来ている可能性が多分にあります。
 
 精神分析の用語で言えば「超自我」を生きるということでしょうか。これは、「自我とは他者」であるという言葉もあるように、言語という象徴秩序を生きる人間には多かれ少なかれ避けがたいところでもあります。
 
 しかしながら、現今のマイナカードのような国家という人為的恣意的かつ狭量な組織からの監視支配のもとには生きたくないのです。
 ようするに、ジョージ・オーウェルの『1984年』にわざわざ自分を紐づけしたくはないのです。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨日と今日の間 老愁に揉まれる4日と5日

2023-06-05 14:52:10 | よしなしごと

 (6/4)84歳にもなっていうのも何だが、わが老境も終盤に差し掛かっている。ちょっとした疲労は翌日に持ち越すし、それを理由に気力をなくし、一日中つまらないことで時間を過ごしてしまう。激しい自己嫌悪が後を追う!

 

 気を取り直して夕餉の支度を。左上から沖縄産生もずく、蒟蒻炒り煮、きゅうり塩もみ、下は葉付きで買った小さめ大根の葉の部分の煮付け、甘塩鮭(二切れで150円の安売り)。

 あまり食欲はなかったが、作っている間にやや持ち直し、食べる頃にはほぼ回復。単純な老愁だったのか。
 ちなみに一番美味かったのは生もずく。
 
 
 
 (6/5)午前、亡父譲りの紅梅の鉢植えになった小梅の収穫。ほんのり色ついたものが15粒。
 ツンツン穴を開け、少なめの砂糖と一緒に安物のウィスキーに漬け込む洋風梅酒にする予定。
 これは私の独創。3,4年前に作ったものがあるが、これを氷と水で割るととても美味しい。
 普通の小梅でもできると思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする