六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【泣き言】絶不調!

2007-03-29 00:50:29 | よしなしごと
 なんだかくだらないことに振り回されている。

  部屋の天井直づけの蛍光灯が壊れた。
  構造を調べたら、自分でも充分取り付けできそうなので、電気屋へ買いに行く。
 
  電気屋曰く。「そのタイプのものはもうありません」
 築40年、その折りの設置だから無理ないかと思い、それに似たタイプをと探す。
 あることはあったが取り寄せに一週間かかるとのこと。

  しばらく、スタンド2個を交互に付けて夜の生活。

  
 
  洗濯機の排水が逆流する。
 ホースを突っ込んで圧力をかけてやれば開通することは間違いない。
 しかしである。その排水口の蓋の上に、乾燥機の土台が乗っていて排水口の蓋を開けることが出来ない。

  なんと無茶な設置をと腹立たしい。
 購入した電気屋を呼んで、慎重に機械を動かす。
 やっと排水口の蓋が開く位置まで動かし、ホースを突っ込んで水圧をかけたらものの10秒で即解決。

  ただし、電気屋と連絡を取ったり、来たりするのを待ったりでほとんど一日が無駄。
 前日の蛍光灯の故障と合わせて、2日ほどがまったく中途半端に終わる。

  ちょっとした締め切りを抱えてやらねばならぬことが沢山あるのだ。図書館へ返す本も、あと2日しかないのに、まだ一冊半は読めないで残っている。
 なのに、「いざ」と取りかかる決断が出来ず愚図々々している。
 まったく無為に時間が過ぎる。
 この歳からいっても残り少ない時間なのに・・。

  そして最大の問題は、そのこと自身についておのれを激しく責めている自分がいることだ。自分がどうしようもない駄目人間に思えてしまう。誰かが、「事実そうではないか」と突っ込んでも、今の私には反論する元気はない。

  どこか知らない土地へ旅したい。
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水仙三様と六の時事川柳 07.3.25

2007-03-25 13:47:14 | 川柳日記
 今年は花が早いので、例年ならこれからというラッパ水仙がもう終わりにさしかかっている(普通の水仙はとっくに終わってしまった)。

 わが家のラッパ水仙は、僅か一平米にも満たないところに群生しているのだが、よく観ると、形状は同じでも三種類の花が咲いている。

 ひとつは、外側の花びらはほぼ白色で、中央部が黄色いものである。
 これが一番多い。

 
 
 次いで、花びらの外側も中央部も、黄色いものである。
 中央部がやや色濃いかもしれない。

 
 さらには、花びらの外側は黄色で、中央部は濃い橙色のものがある。
 これは毎年、やや遅く花を付けるような気がする。

 
 以上である。
 この三色を組み合わせると、他の配分も考えられそうである。例えば、花びらの外側は橙色で、中央部は白いといったものである。
 それらの組み合わせ全てが咲くと、さぞかし楽しいだろうと思う。

 しかし、この花たちは、私のそうした小賢しい思いとは関係なく、いわば「なぜなしに」咲く。
 私は、一瞬、彼らの咲く様を支配しようとしたおのれの思いを恥じながら、素直に彼らの咲く様に身をゆだねる。

 すると、「美しい国・日本」よりいっそう美しい私がそこにいる。
 そう、相手が水仙だけに、ナルシシズムは必然なのだ。

<今週の川柳もどき> 07.3.25

 天下りにもひとつ道を開くだけ
  (人材バンクという規制法案)

 議会などどこ吹く風の保安官
  (下院イラク撤退決議を無視の大統領)

 アメリカの譲歩何やら気味悪い
  (北への対応)

 人買いがすぐに止められない事情
  (プロ野球、すでに唾を付けてある)

 これもまたオペラ歌舞伎のボンジュール
  (パリオペラ座で初公演)

 氷上の華も元気な名古屋っ子
  (安藤、浅田、中野、みな名古屋)




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桜三様と散り際の美学

2007-03-21 21:36:26 | よしなしごと
 お彼岸、父の墓前に詣でる。
 なさぬ仲の私を、こんなに立派に(自分でいうなっ!)育ててくれた命の恩人。
 老母の家による。こちらは健在。風邪を引いたといったら、「もう歳だから気を付けろ」といわれた。90歳越えたお袋にいわれたのでは立つ瀬がない。

 とりあえず両親に挨拶を済ませて、自転車を駆って近場を散策しながら帰途につく。暖かい。久々に、手袋もマフラーもなしで自転車に乗ることができる。

    
 
 立ち寄った神社の境内になにやら白いものが。桜である。しかし、ソメイヨシノではない。国の天延記念物である「薄墨桜」の子供か孫に当たる木を移植したものだ。
 ちなみに本家本元の薄墨桜は、ここから30kmほど離れた根尾川沿いの山腹にあり、その標高差などからいって、あと10日か2週間先でないと開花しないはずだ。

 
 この桜、彼岸桜の一種(和名/ウバヒガンby牧野博士・ムレヒガンby三好博士)で、本家本元のものは樹齢1,500年を越え、樹高  17.2m、 幹高9.2m、枝張り 東西23.9m(いずれも昭和53年測定)という巨木であり、一度は死に瀕した樹の回復のための過程は、それに尽力した作家・宇野千代自身の文章に詳しく述べられている(『薄墨の桜』集英社・1985年)。

 
 
 また様々な伝説や伝承に彩られた樹でもある。なぜ「薄墨」というかといえば、写真のように、蕾や開花の段階では薄いピンクなのだが、開ききると、全体に薄墨を流したようにくすんだ色合いになるからである。

 この分家の花を見ながら、渓流釣りの帰りなど何度も訪れた本家の花を思い描いた。私がよく行った若い頃は、それほど観光化されず、人影もまばらであったが、今ではそれに至る道路が何キロも渋滞する。

 
 
 近くのソメイヨシノを見たが、その蕾は少しほぐれはじめたほどであろうか、早くとも後2、3日はかかりそうだ。
 一方、2月27日に開花した、わが家の桜ん坊のなる桜は。こんな具合にもう新芽を付けている。やがて、実を付けはじめると、ヒヨドリがやってきてそれをついばんでしまうので、そろそろ対策を講じなければなるまい。

 
 
 ところで、桜はぱっと咲いてぱっと散るからいいとかいって、日本人の無常観(案外空っぽな場合が多い)と相まって、散り際の美学に祭り上げられるが、あまり賛成できない。
 「咲いた花なら散るのは覚悟」とか「散る桜残る桜も散る桜」などと粋がって、やたら散ることを賛美するが、それは全くの空疎という他はない。

 生きることこそは大切なのだ。軽薄な「散る美学」や、空疎な無常観などくそ食らえだ。そんなことを言っていると、また、誰のために、なんのために散るのかも定かでないままに、おだて上げられ、散ることを強要されることになる。

 散るな。生きよ。薄墨の桜のようにしぶとく生き延びるのだ。 
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彫像三体と六の時事川柳 07.3.18

2007-03-18 16:09:17 | よしなしごと
 近頃、ビジネスの世界から距離を保てるようになったせいか、今まであまり立ち止まって見なかったものが見えるようになった
 まあ、余裕ができたというよりになったといった方が正確かもしれない。

 風景、花鳥風月などがその対象であるが、ときとしてそれが、街角などに置かれたオブジェや彫像であったりする。
 もちろん、それらを鑑賞する目をもっているわけではないので、評価などはもってのほかで、ただひたすら眺めるだけなのだが、それでも一顧だにすることなく看過するよりは作者に対して礼を尽くしているのではあるまいか。
 
    

 

 最初は、愛知芸術センター12階のロビーにあるものである。
 題名通り清楚な少女像であり、それが掌中の花とそれを見つめる視線によって強調されている。内面へと織り込まれて行くことによってかえって外部にアピールするというひとつの美のありようだろうか。

    
 

 これは同じ階にある野外庭園に置かれたもの。カリブという地名のからっとしたイメージに似つかわしい、堂々たる開けっぴろげのエネルギーを発散させている。
 まさに発散であって、この彫像で見るべきは、その像そのもののボリューム感もさることながら、像の回りにあふれ出ている余剰、力のようなものかもしれない。
 以下は少し拡大したもの。

    
 
 続いては場所もがらっと変わって、岐阜は西柳ヶ瀬の商店街果てる箇所の空き地におかれたもの。

    
   
    

 草書体でタイトルは分かりにくいが、「輝き」とある。
 こうした箇所でのそれは、アート自体と、その土地に託した建立者の祈りのようなものが重ねられているのが普通である。
 おおよそ20年前、まだこの街が最後の光芒を放っていた頃の祈りが伝わるのだが、その願いも虚しく、うらぶれたフーゾクの街と化してしまったことを知る身には、いささかこの彫像は悲愴にも思えてしまう

 しかし、この女性のきりっと引き締まった表情には、世の無常を一身に受けながらも、それを己のものとして生きて行く決意のようなものが垣間見られる。

    

 さて、主観的かつ独断流の彫像鑑賞は切り上げて、おきまりの週一へたくそ川柳の出番である。


<今週の川柳もどき> 07.3.18

 文字通り湯水となって消える税
  (農産相など水道光熱費の怪)

 泥沼へポチはとことん付き合う
  (イラク支援法2年延長)

 作業する手順で揉めている部会
  (作業部会ってなあに?)

 爆発するまではベールに包む
  (志賀原発の臨界事故隠蔽)

 見せしめは迅速にする裁判所
 同じことして日興は咎めなし
  (ホリエモン裁判異例の早期判決)

 クッキーも搬送をする救急車
  (甲府でホワイトデーの買い物に私的使用)



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回帰するものとしての『叫』

2007-03-17 05:36:19 | 映画評論
 ある重要な会議に招請された。
 しかし、それまでに時間がある。映画を観る。
 黒沢清監督『叫』

 黒沢の映画には、見終わった後、いつも澱のようなものが残る。それはいわば、起承転結のうちに収まりきれない余剰のようなものだ。
 だから黒沢映画は評価を二分する。ひとつの物語に回収しようとする向きには、この余剰は手に負えない。一方、黒沢を評価する人たちは、その余剰こそが彼の映画だと思う。

 
 
 この映画も、キャッチフレーズのホラーやミステリーを期待する向きには不満が残るものであろう。もっと恐いホラー、もっと凄い謎解きがゴマンとあるからだ。だから、私たちがこの映画で表現されたものに目をこらすとき、やはりその余剰にこそ注目すべきかも知れない。

 一連の殺戮が描かれる。誰かが誰かを殺し、かつ殺されもする。私たちは、殺したり殺されたりする存在である。しかし、この映画が示唆するものは、そんな一般的な関係ではない。
 要するに、私たちみんなが殺してきたものたち、それはもはや事件ですらなく、どちらかというと歴史に属するようなものであって、だからこそ、その記憶は失われ、ある時、ふとした出来事の断片のようにして回帰する。そして、それこそが真に恐ろしいのではあるまいか。記憶から失われた、得体の知れないものの回帰

 
 
 あの湾岸の埋め立て地、そこで滅びながらも回帰し湧き出る海水、それがキーワードのように何度も現れる。それは私たちが消費し尽くし、弔うことすらなく、放置してきたものたちの、物自体としての回帰ではないだろうか。
 それらは、現代が常に自己更新を迫られ、脱皮し脱ぎ捨ててきたものの残滓ともいえよう。
 そしてそれらが、弔われることもなく、ただうち捨てられるとしたら、亡霊となって回帰する以外はない。その叫びは、亡霊が、ただ亡霊としてホラーの世界に分類されてしまうことへの、極めて具体的な抗議に他ならない。

 映画を見終わって、街に出ると、名古屋駅前の高層ビルラッシュを追いかけるようなスパイラル様のビル建設の現場にさしかかった。基本的には方形のビルが多い中、大胆なデザインではある。

   

 それを横目に見ながら、私たちが「このようにあること」のうちで抹消してきたものたち、その「このようではない」ものたちへの思いを凝らすのであったが、それらは現実ではないのだからして、ただ亡霊のように私の想念のうちをつむじ風として旋回するほかないのであった。

*写真は最後のものの他は、イメージによるものです。


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映画館探検と『ドリームガールズ』

2007-03-14 19:46:18 | 映画評論
 前に、映画そのものではなく、魅惑的な女優さん、スカーレット・ヨハンスンを観に行って笑われたが、今回は映画館を見に行った。
 今をときめくトヨタの牙城、ミッドランド・スクエアーの一角にできたというミッドランド・スクエアー・シネマだ。

     

 最初、正面から堂々と入ってゆくと、慌てた制服がやってきた。
 「どちらへ?」
 「映画館」
 「それは向こう、商業棟の方です」
 そうなのだ、私はかの大トヨタの中枢部へズカズカ踏み込もうとして阻止されたのだ。

 指示に従って商業棟とやらへ行くと、私と同じお上りさんが沢山いて、混雑している。
 長い行列ができているので、何ですかと聞くと、上層階や屋上展望台へ行くエレベーターを待つ行列だとか。
 戦争前後の配給物資の行列以来、行列拒否症のある私は、高いところは煙と何とかに任せ、エスカレータで映画館のある箇所を目指す。

 

 四階まではふきぬきで、商店や飲食が並んでいるのだが、どうも私の懐とは釣り合いそうにない箇所が多いのでそれらはスルーしてひたすら目的へ。
     
 

 五階、七スクリーンをもったスクエアー・シネマがあるのだが、ここも結構混雑している。
 チケット売り場は、航空会社のカウンターよろしく、そこでチケットの売買と同時に席が決められる。

 
         チケット売り場    

 ロビーは軽飲食やスナック菓子の匂いが立ちこめている。若い人達には、それが映画へのイントロになるのだろうが、私にはちょっと・・。

 十分前に入場。館の造りとしては、名古屋パルコのセンチュリーに似ているように思った。スクリーンに向かって席の段差が大きいので、前に頭でっかちが座っても、スクリーン枠に引っかかることはない。

 
          ロビー風景・1
 
 革張りの席というのが売りで、確かに坐り心地はいいが、映画に熱中し出すと椅子の材質感などどうでもよくなるのではとも思う。
 それよりも、もう気持ち、前後の間隔を空けて欲しかった。というのは、映画を観ていて、足を組み替えたいときなど、前の背もたれに足がつかえはしないかと、幾分心配なのだ(とくに私のように足が長いとその悩みは大きい)。

    
           ロビー風景・2

 実際のところ、映画のいい箇所で、後ろの観客が足の組み替えを行い、それが背中にこつんと伝わったりするのはいやなもので、折角の熱中から引き戻されてしまう。

 
         いよいよエントランスへ
 
 むろん映画も観た。ただし、今回は館そのものの探検であり、その後の病院行きが控えていたので、時間的に合うものとして『ドリームガールズ』を観た。

     
       この右手に7つのスクリーンが

 これがなかなかのもので、音楽と映画というのは相性がいい。
 60年代、女性のボーカリストからなるトリオが、どうスターダムへとのし上がるかの物語だが、それは、ラスベガスのショーへの出演に関し、司会者が、
 「今日は黒人の芸人だ。ちょうどいい。後で掃除をさせることができる
 といった時代なのである。

 マルティン・アーサー・キングも、面白いジョークの中で登場する。

 だが、売れるにつれ、メッセージ性を持った歌詞が敬遠されたりもする。この辺りは、日本のフォークゲリラが、メジャーになるにつれそのメッセージを放棄してゆくのと似ている。

 アカペラで始まる歌が、次第に熱唱に昇華するのは、ミュージカルにはおなじみの手法なのだろうが、それが、オペラのレシタティヴォのようで面白かった。

 歌唱力では主役のエフィー(ジェニファー・ハドソン)が圧倒していた。彼女の声は、怒鳴ったり叫んだりしても、それが強靱な声帯を経由するためか、ちゃんと楽音として快く響き渡る

 この種の映画では04年の『Ray/レイ』を観たことがあるが、その映画では音楽がすばらしかったにもかかわらず、アメリカ流の軽薄な精神分析がしゃしゃり出て、彼のトラウマを押しつけるのが邪魔だったが、この映画にはそんな余分なものはない。
 すかっとしたエンターティメントとは、こうでなくっちゃぁ。 
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白いタンポポと六の時事川柳

2007-03-11 16:04:46 | 川柳日記
 今年はやはりタンポポも早いようだ。
 去年写真を撮った群生地へはまだ行ってないが、あちこちで咲き誇っている。

  

 そんな中で、近くの路傍で白いタンポポを見つけた。昔はよく見かけたが、最近では珍しい。しかしこの白いタンポポ、地域によっては、かつてはこれが主流で、セイヨウタンポポなどの帰化種が侵入するまでは、タンポポといえばシロバナタンポポを指していたところもあるという。

  

 黄色いタンポポも負けじと咲いているが、これには、在来種と、外来の西洋タンポポがあり、次第に西洋タンポポが優勢になりつつあり、また、両者の交雑もあるようだ。
 その見分け方であるが、Wikipediaによれば以下のようだ。

「花期に総苞片が反り返っているのが外来種(写真左)で、反り返ってないのが在来種(写真右)。在来種は総苞の大きさや形で区別できる。しかし交雑の結果、単純に外見から判断できない個体が存在することが確認されている。」

       


<今週の川柳もどき> 07.3.11

 美しき友情麗しの日本
 再チャレンジまずは助けるお友達
  (お友達衛藤氏復党)

 五百万かけ水飲むも黒い腹
 わが年収越え浄化する黒い水
 五百万あればよりを飲む
  (松岡農水相、それはないでしょう)

 春闘があるのは恵まれた企業
  (それもほとんどなれ合い)

 政財官スポーツもまた金まみれ
  (西武の青田刈り)

 イエローモンキーの狙撃なぜ悪い
  (沖縄で米少年の狙撃

 新名所談合なくてできた橋
  (エッ、すご~い!) 
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頭痛と図書館と花と

2007-03-10 13:33:58 | よしなしごと
 朝から頭痛がする。左後頭部が痛い。
 これはピンチなのだ。
 私には、脳梗塞の前歴がある。

 その折りは幸い軽症で、左腕の麻痺があったものの、10日間ぐらいの入院と、その後のリハビリでほぼ完治した。
 しかし、退院の際、今度はドカ~ンと来る可能性がありますよと脅された。

 でも図書館に行かねばならぬ。返済期限のものがあるし、調べものがあるし、これから読むものも借りねばならぬ。
 市販の頭痛薬を飲んで出かける。

 
        咲き始めたサンシュウの花

 図書館に着いてからも頭痛は治まらない。調べものを途中で切り上げ、中庭の花たちを写真に撮る。少し気が紛れるが、頭痛は治まらない。
 もし、MIXIでの私の書き込みが突然終わったら、どれだけの人が私の訃報を知るだろうなどとつまらないことを考える。

 図書室に戻り、6冊の本を借りる。うち2冊は読み流せるが、4冊はノートをとって読まねばならないだろう。借りた本の詳細は述べないが、この間興味を持った、ジョルジョ・アガンベンのものが一冊あったことだけは言っておこう。

 帰宅して、夕餉を用意する。家人の買ってきた活けカレイを薄造りにし、それに加えて、昨日仕込んでおいた〆鯖、これがメインディッシュ。それに、菜の花と揚げのあっさり煮山芋の短冊、数日前に漬けたカブラの漬け物

 
              これは柊南天の花
 
 ワインは国産のサントネージュ「やまのうえ」(シャルドネ)を合わせてみる。安いテーブルワインだが、サッパリしていて和食に合う。
 
 豪勢な夕食に見えるが、ワインも含めて、3,000円を切る

 ところで、頑固な頭痛の方だが、ア~ラ不思議、お立ち会い。
 飲むほどに、酔うほどに、薄紙が剥がれるようにそれが消滅して行くではあ~りませんか。酒は百薬の長なのでしょうか?

        
                もう、新緑でしょうか。
 
 てなことで、調子に乗っていても、ドカ~ンと来る可能性はあるのだ。
 急に、MIXIから消えた際にはいえない「さようなら」を今からいっておいた方がいいのだろうか。
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花と鳥と少年の日々に・・。

2007-03-07 15:42:24 | よしなしごと
<6日の日記から>
 
 少しうきうきする日である。
 年二回、高校時代の友人たち六人で、勉強会のようなことをしている。
 いい年をして何を今さらといわれそうだが、それでも楽しい。

 今回のテーマは、まさにその「今さら学んだりものを考えたりすること」自身がテーマだった。
 題して、「21世紀と私たち」
 例によって話はあっちへ飛んだりこっちへ戻ったりする。
 司会役のU氏が適度にテーマに話題を戻すのだが、またまた外れる。
 でも、それはそれでいいし、それがまた楽しい

 
       出発前に自宅で撮ったラッパ水仙

 全員、半世紀以上の付き合いである。キャリアは千差万別で、学問などちゃんとやった奴はひとりもいない
 でも、みんな、なにがしかを考え、語る。
 これで六回目を迎えるのだが、次第に話題が広がり、皆が饒舌になってきた。
 半世紀の時間は、各自にいろいろなものをもたらし、それなりに変化はあったのだが、その語り口に、それぞれ若き日の色合いがちゃんと保たれているのがおかしい

 そんな私たちだが、結構真面目に勉強してきたつもりだ。過去五回の足跡を示そう。
 
 1)夏目漱石の『こころ』を読んだ。
 2)「沖縄」へ行った人が、その実状などを述べた。
 3)「世界的規模の森林破壊」の状況を学んだ。
 4)「地域社会の実状」について話し合った。
 5)「言葉とは何だろうか」について学んだ。
 6)そして今回

 
   途中の川畔で見かけたアオサギ。この鳥、かなり接近しても
    逃げようとはしない。その点シラサギはすぐ逃げる。


 今回の結論。
 私たちが、現状に縛られることなく、来るべきものに開かれてあるとしたら、21世紀どころか、「永遠の今」を生きることができる。
 どんなに若く、かつ最先端に位置しようが、それらが単に現状の追認にしか過ぎないならば、それは「たんなる今」を生きているに過ぎない。

 というようなことで、その「永遠の今」を確かめるべく、酒宴に
 そこではさらに自由なトーク。だが、勉強会の延長で話が弾む。
 イヤ~、楽しかった
 集まった皆から、エネルギーをたっぷりもらうことができた。
 
 合計六時間近い集まりを終えて外へ出ると、寒のぶり返しで吹く風が冷たい夜であったが、半世紀前の少年の日に戻った私たちには、春風のように暖かであった
 友よ、また秋に!
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映画祭と花々と六の時事川柳

2007-03-05 00:16:36 | 川柳日記
 三日、「愛知平和映画祭」へ行く。三作品上映だが、『紙屋悦子の青春』『蟻の兵隊』はすでに観ているので、是枝裕和監督の『花よりもなほ』に焦点を絞る。
 彼の作品については、これまで『DISTANCE』(2001)、『誰も知らない』(2004)を観ているが、この映画はまた、それらとはまったく違った時代劇。


     会場となった名古屋市芸術創造センター


      その前には緋寒桜が咲いていた

 武士の本分や大義といった抑圧的な概念から解放されて行く1人の若者の物語だが、これが実に面白い。武士という名にがんじがらめの赤穂浪士との対比のストーリー展開も抜群だが、その舞台となったオンボロ長屋が素晴らしい。

 要するに、彼が解き放たれて行くのも、こうした番外地のような空間、あらゆる法や掟の外部であるような場所においてであって、ときとして、この長屋そのものが主人公ではと思わせるものがある。

 古典落語の長屋をも上回るそのパワー、その住人たちのかもし出す風情と台詞、しばしば会場は笑いに包まれる。
 群像劇のようなところがあり、その交通整理に幾分不十分なところがあるといえ、是枝監督の多彩な才能が遺憾なく発揮された映画であった。


      会場前の緋寒桜を接近して撮る

 映画に先立って、広島大学の講師で、1971年の名古屋を舞台にした「ピンポン外交」の記録映画を観て、日本への印象を改めたという袁 葉(えんよう)さんという女性の「銀幕が結ぶ日本と中国」というテーマの講演を聴いた。

 彼女自身の映画体験を踏まえたそれはとても面白かった。
 表面、似ている東洋の二つの国だが、例えばそこにある死生観、ないしは生死観(中国では後者、ATOKでは前者はそのまま出てくるが、後者は分解してでなければ出てこない)などでかなりの相違があること、しかしそれらの違いが映画などの評価のやりとりの中で、相互理解に至ることを述べていて興味深かった。

 彼女が題材として取り上げた『山の郵便配達』(当初は日本での方が評価が高かった)は、二度観ていたので、いちいち頷けるところがあって一層共感できた。

 休憩時間に外に出てみると、会場から東へ延びる並木はコブシのそれで、もうすっかり咲きそろっていた。
 


 以下は、そのコブシの狂想曲。








 <今週の川柳もどき> 07.3.4

 臭いものにはまず蓋し予算案
  (政治とカネ問題は門前払いで強行採決)
 
 拉致追求で慰安婦は頬被り
 盟友のアメリカからも叱られる
  (認めるべきは認め追求すべきは追求)
 
 地下鉄の闇に談合とぐろ巻く
  (名古屋、ほとんどの地下鉄で)

 戦場へ狩り出し後は知らんぷり
 負傷兵を自己責任と放り出す
  (扱い不適切で米陸軍長官更迭)

 まだまだとブッシュが積んだ死屍の山
  (イラクで連日)

 子らの尻淋しげ滑り台がない
  (金属盗、滑り台まで)

 大リーグの後に報ずるプロ野球
  (完全逆転、日本はマイナーリーグ?
 
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