六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「名もない花」・環境・平和 Ⅱ

2017-04-29 11:53:43 | よしなしごと
  写真は目に止まった植物のある光景

 前回は、「名もない」とか「雑草」、「雑木」といわれるものたちが、たまたま私たちがその名を知らないだけであるということ、また名を知らないということの背景のひとつに、それらが商品として重用されていないからではないかなどと考えてみました。
 今回はその続きです。


          

 こうしてみてくると、私たちが目にする花景色を始めとする自然の風景は、そうした商品化を経由したもので、もはや純然たる自然ではないことに気づかざるをえない。
 私たちが愛でている桜は、その大半がソメイヨシノのクローンで、150年ほど前にヒットした商品の全国的な流通の痕跡であるし、それ以前の桜の古木なども淡墨桜のように生き延びることによって付加価値がつき、観光資源になったものということになる。

          

 私たちがこよなく愛する里山の風景にしても、針葉樹の林は木材生産の畑のようなものであるし、竹林もまた竹材や筍の採取場である。そのもとに広がる畑や水田はいうまでもなく食品産出の場として人為的に開墾されたものである。無垢の自然などというものはもはや観念の世界のものでしかない。
 こんなことを書いたからといって、花や草木、自然を愛する人たちにイチャモンを付けているわけではない。
 私たちが美しく好ましいと思う花や草木、そして景観は、長い歴史を経由するなかで、自然と人為の絶妙のバランスの上に成り立っているのだという事実を述べているに過ぎない。自然を愛おしむということはそういうことであり、私もまた、そのようなものとして周辺の自然と親しんでいる。

          

 しかし、過度の商品化やそれに付随する効率化の推進は、いまやそれすらも危うくしつつあるようだ。
 例えば、田んぼと道路の境界にあるいわゆる法面(のりめん)はもともと人工的に作られた斜面ではあるが、私の周辺では、それ自身がコンクリートの垂直な壁面に取って代わられつつある。
 おそらくそれによって田に張る水の管理を効率的にし、併せて斜面を垂直にすることにより、道路幅を広げるということであろう。

 それによって失われるものは、そこに棲息していたタンポポ、スミレ、ノアザミ、ハルジオン、カタバミ、スカンポ、ヘビイチゴ、ツクシ、ノビルなどの植物群と、それと共生していた昆虫などの小動物たちであろう。
 商品価値の低いものは、より高位の価値や効率のためにどんどん失われてゆく。

          

 これらの大きな連鎖は、今は地球規模で行われつつある。
 だから、究極のエコロジーは人類が滅亡することだという極論もあるようだが、それは違うだろう。その欲望のために自然環境を改変してやまない人間の動向を、どのように理性的に制御しうるかがエコロジーの課題だからだ。
 同様の論理は平和論にも相当する。永遠平和のためには最終戦争で人類が滅亡すればいいのだが、そのときには平和をそれと確認し、それを享受する主体そのものもいなくなる。

          

 人間は、他の生物の自然的「欲求」を超えた無限に発展し続ける過剰な「欲望」をもったばかりに、環境や平和にとっては究極の鬼子として存在している。
 この鬼子が、危険な綱渡りをしながら、どのようなバランスを、自然や世界のために、そして自らが生き延びるために実現しうるか、それが21世紀の見ものであろう。そのためには、20世紀に人類が何をしてきたのかを参照すべきなのだが、歴史修正主義者にはその意思も能力もない。したがって彼らに任せれば、人類は綱から転落する他はない。
 いずれの結論に至るにせよ、残念ながら、私はこのドラマの大展開をあとしばらくしか見届け得ないであろう。

          

 大いなる目で眺めたら、金正恩もトランプも、そして私たちも、同じ綱の上でそれぞれのバランスをとるべく懸命に踏ん張っている。しかし、その踏ん張り方に教則はないから、それぞれが思い思いに踏ん張り、それが綱の揺れを大きくしたり相対的に平穏にしたりしている。
 その意味では他者への配慮やその間での対話が今ほど必要なときはないのだが、相変わらず各自がそれぞれ自分の恣意に従って綱の上で踊っているため、その揺れは危険領域に達しているともいわれる。
 
 またまた、草木の話が大脱線してしまった。これも、いたずらに21世紀まで生き延びてしまったせいだとしておこう。
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「名もない花」・環境・平和

2017-04-27 11:10:42 | よしなしごと
  写真はいま、私のうちで咲いている植物たちです。

 「名もない花」などといったりすることがある。
 「雑草」とか「雑木」で済ますこともある。
 しかし、名もない花などはない。「雑」という草や木もない。
 あるとすれば、それはまだ人間に知られていないか、そう表現する人たちがその名を知らないことによる。

          

 あらゆるものに名がある、というか、人はあらゆるものに名を付ける。
 名付けることはそれを人が支配するということだ。これまで知られていなかったものが発見された途端に人はそれに名をつける。発見されるということは名付けられることであり、その逆も真で、名付けられることが発見されるということなのだ。

 人はそれを名付け、分類の系統樹の中に位置を与える。こうしてそれは人間の支配下に繰り入れられる。これによってこれまで「得体のしれなかった不気味なもの」は、人知の在庫に加えられ、人に安堵を与える。

             

 だから、私がそれを知っているかどうかにかかわらず、ものにはすべからく名前があるということである。
 各分野にわたって、人がどの程度それらの名を知っているかにはもちろん個人差があり、それはその人が過ごしてきた諸体験によるのだろう。

          

 その分野の専門家やマニアはまずそれらの名を広く知っている。花好きの人は花の名前をたくさん知っている。
 植物学者は道をゆく場合にも殆どの草木の名前を知っているだろう。彼らにとっては雑木や雑草はないといってもいい。

             
 
 そうした学者やマニアではなくとも、各分野にわたってある程度のものの名は一般的に知られている。
 樹木でいったら、松、杉、檜、桜、梅、楓、公孫樹などは知られている方であろう。はじめの三つは建材の原料として、その他は主として観賞用として。
 桜や梅は果実としても知られていて、その仲間には林檎や柿、柑橘類などもある。

 こうした比較的知られているものは、私たちの生活との接点が多いということなのだが、もう一歩突っ込んでみると、そのそれぞれが商品価値をもっているということであろう。それらは、私たちの生活の中に商品として登場することでとみにその名を知られるところとなったといえよう。

          

 花についても同様のことがいえよう。
 私達が比較的よくその名を知っている花は商品価値があるものが多く、花屋や植木屋の店頭に並ぶものが多い。
 ただしこれにも歴史的変遷があって、最近、花屋の店頭に並ぶそれは、私の子供の頃と比べて全く様相を異にする。いわゆる外来種の増加である。
 もはや私にはとんと分からないが、現役の花好きの人たちはそれらも含めて実によく知っている。それらを知ることなくして賢い消費者にはなりえないからであろう。
                 
                    (この続きは明後日・土曜日に掲載)
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新葉・63年来の友人・老境などなど

2017-04-23 15:49:35 | よしなしごと
 今年は桜が遅いなどとぼやいていたのもつかの間、気づけばもう新緑の季節。
 とはいえ、日本列島は長い。青森の桜の名所、弘前ではそろそろ見頃を迎え、満開は25日とのことだ。

          

 私の部屋の眼前はいまや柾と桑の新葉で緑一色だ。
 それぞれの木には、小さな花が付いていて、とりわけ桑のそれは、このまま赤くなり、紫になり、そして黒くなって食べごろまでの形状をすでに備えていておもしろい。

          

 柾の方は細かくで地味だが、やがて密やかな白い花をつける。小さな花だが、それでもそれらが散ると、樹下に白い粉を撒いたように痕跡を残す。この木の、ややメタリックな葉の色合いも好きだ。

          

 ここしばらく、雑用に紛れていて、読むべき書が溜まっている。しかもそれらは、図書館の返済日、8月のとある集会での発表のための勉強、同人誌の次号原稿のための勉強と、それぞれの期限に間に合うように読まねばならないとあって、けっこう集中が要求される。
 しかし一方では、あれもしたい、これもしたい、ちょっとした小旅行にも行きたいなどど、浮ついた気持ちも捨てきれず、結局は中途半端に終わる予感もある。

          

 それでも、時間を見つけて書に向うが、寄る年波で読むスピードも遅く、理解力もなかなかついて行けないとあってすぐに疲れる。そんなとき、ふと目を上げると緑が視界いっぱいに広がっているのはいいものだ。
 ぼんやり見ているのもいいが、時折はベランダに出て近くで観察する。

          

 2、3日前、高校時代の友人4人とともに、末期がんで入院中のもう一人の友人を見舞った。この5人は、高校時代、新聞や歴研、文学、演劇など文系のサークルを牛耳っていた猛者たちだ。
 卒業後も付かず離れず付き合いは続いて、何年か前までは時折勉強会ももっていた。その後も付き合いは続いたが、それぞれが故障や家の事情を抱えていて、こうして5人が揃うのも、おそらくこれが最後だろうとこもごも語り合ったものだ。
 末期がんの友人はもちろんやばいが、私も含め、それ以外の誰が先に行ってもおかしくない年齢だ。
 別れ際の握手にもつい力がこもる。63年間の友人とあってそれもむべなるかなだ。

          
          白南天の新葉 右上のテラスの奥に私は棲息している

 新緑の話からいささかずれてしまったが、周期的に繰り返す自然の変化が、歳とともに愛おしく感じられるのは、それが当たり前だった頃に比べ、もうこれが最後かもしれないという一回性の現象に格上げされたからだろうか。
 つい先ごろまで、老いても花鳥風月に感傷を求めるようなことはするものかつっぱっていたにも関わらずである。 

 

 
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【なにいってんだか】百田尚樹とケント・ギルバートそして本居宣長

2017-04-15 18:00:54 | 社会評論
 百田尚樹が、「中国文化は日本人に合わぬ。漢文の授業廃止を」などといっているというので見に行ったら、ほんとうに「真面目に」そう主張している。
 しかし、その根拠はまったくでたらめだ。ようするに彼の嫌韓・嫌中の思想のバイアスがかかった日中文化論で、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の範疇を越えるものではない。

 現代人が、漢文の教育を受けることによって「中国への憧れ」をもっているという指摘そのものが裏付けのない憶測にすぎない、というかまったくちがうと思う。現代の日本人は、彼が心配するほど漢文の素養などはないし、それを介して中国に憧憬をもつ者などはほとんどいないだろう。そんな人がいたらお目にかかりたいものだ。
 むしろ、漢文の素養をエリート意識としてもっていたのは、百田が好きな幕末の志士から明治維新後の知識階級、そして戦前のイデオローグたちが圧倒的に多いのだ。

    

 そして、それが示す歴史的事実は、にもかかわらずこれら戦前のイデオローグたちは中国への憧憬などもたなかったし、彼らのもつ漢文の素養は、彼らのリーダーシップによって、大日本帝国が中国大陸を侵略し蹂躙するのになんの妨げにならなかったということなのだ。
 ようするに、現代人よりも遥かに漢文の素養のある人々によって中国への侵略、中国の国土の一部占領は実行されたのだ。
 この百田の思考能力の出鱈目さはどこか痛々しいものがある。

 さらに、これはネットでも指摘されているが、百田が稼いでいる文筆の場で日本語表記のために使われている文字は、漢字はもとより、ひらがなやカタカナも、すべて中国の文字をなぞったものである。
 文字のみならず、表面的には日本語に見えることばのうちで、かなりのものが中国語の転用である。例えば、「うめ」や「うま」などがそれだ。

 だから百田が、自分の主張を実践しようとするなら、その著作を漢字、ひらがな、カタカナを使用しないで書かなければならない。更には、日本語に根強く混在している中国伝来のことばをことごとく除外して書かねばならない。
 いってみれば、百田の言いがかりは、フランス語や、イタリア語、スペイン語を使う人々に、ラテン語由来のものを使ってはならないというようなものなのである。

  

 バカなことを言ってるなぁと思って新聞の書籍の広告を見ていたら、百田のお仲間のケント・ギルバートの新著が、『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』というらしい。
 ここにもまた、大陸の文化を否定しようといういう極めて浅薄にしてかつ政治的な見解が披露されているとみてまちがいない。

 ようするに、中韓がケント・ギルバートや一部の日本人にとって否定の対象とされるのは彼らが儒教に支配されているから(ほんとうだろうか?)で、日本人は決してその真似をしてはいけないと親切に諭しているようなのだ。
 これが、先にみた百田の見解とほぼ平行線であることは見やすいいところであろう。

 この二人のように浅はかなレベルではなく、日本文化の独自性の根源を突き止めようとして苦闘した思想家を私たちは知っている。
 それは何十年にわたって『古事記』の解読を試み、『万葉集』などの吟味を通じて「やまと」を差異化しようとした本居宣長の苦闘である。
 前者の『古事記』は稗田阿礼が中国伝来の漢字を用いて日本語表記を試みた記念すべきテキストであるし、後者の『万葉集』はそうした試みに加えて、漢字を崩し加工し、日本語標記に適した文字を(いわゆる万葉仮名)産み出してきた、やはり記念すべきテキストである。

      
  
 これらの研究を通じて宣長は、表層的には中国伝来の文化の中にあるこの国の独自性を見出してゆくのだが、それは一般に「もののあわれ」を介し、「漢意(からごころ)」とは異なる「古意(いにしえごころ)」の発見といわれたりする。
 しかし、この過程を見てもわかるように、宣長のそれは、百田やギルバートのような単細胞的な「あれか、これか」の選択による思いつきではなく、大陸伝来の文化を介した、あるいはその古層に埋もれた独自性の再発見なのであった。

 したがって、宣長が導き出した結論は、「もののあわれ」に示されるような「めめしさ」の称揚であり、それに対する「ををしさ」を反価値と断じるものであった。
 それは、吉川幸次郎をして「武断を少なくともたてまえの価値とする武士支配の時代にあって、宣長が〈めめしさ〉の価値を大胆に主張したのことに対して、私は大きな敬意を表する」といわしめたものであった。

 百田やギルバートが逆に「ををしさ」を叫び、具体的にはこの国の軍備の増強や、それを背景にした強硬路線=積極的「平和?」主義の推進者であることを考えるとき、そこにある「やまと」のイメージは宣長のそれとはまったく意を異にするというべきだろう。

 ここには、宣長と百田やケント・ギルバートとの方法における決定的な相違がある。宣長は中国文化との同一性と差異とを丁寧に腑分けするなかで、その相対性の相貌のうちで「やまと」の文化の特色を捉えたのであるが、百田やギルバートには相対という思考回路はない。絶対的な善、絶対的な悪とが単純に存在し、一方の絶対的な悪を言い立てることによって、他方の、ようするに「ニッポン」の絶対的な善が浮かび上がると思っている。
 だから、その論拠は論証も何もない思いつきの言いがかりのようなもので、それを聞いてる私たち自身が恥ずかしくなるほどのお粗末さだ。

 結果として彼らやそのお仲間の野蛮な国粋主義者たちが、この国を著しく汚し、野卑なものにしていることを世界の心ある人たちは知っている。
 
 百田といい、ギルバートといい、あんな浅薄な連中が大きな顔をしてくだらない論議を撒き散らすことができるのは、それが現今の政権が依拠する狭隘な愛国心と響き合っているが故であることはいうまでもない。
 あんな連中が跋扈する偏向した現状をどこかで断ち切らねばならない。

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琉球民謡のライヴと岐阜の県産酒飲み比べ

2017-04-13 02:47:08 | 写真とおしゃべり
 日曜日、久々に柳ケ瀬へでた。
 子どもの頃、休日ともなると人と肩が擦れ合うことなく歩けなかったような柳ケ瀬通りが、人もまばらに静まり返っている。
 往年を知る者にとっては泣きたくなるような光景だ。「あ~あ~あ~柳ヶ瀬の~、夜に泣いている~」は美川憲一の歌だが、いま、柳ヶ瀬は夜も昼も泣いている。

              

 そんな柳ヶ瀬にどうして出かけたかというと、飲食店時代の常連の顧客で若い友人から、岐阜は柳ケ瀬のレストランで行われた琉球民謡 大城節子さんのライヴ・コンサートに誘われたからである。
 大城さんのコンサートは昨年に引き続き2回目で、昨年のコンサートでは左腕骨折のため、いいところで拍手ができず、代わりにテーブルを叩いたものである。

              

 彼女の歌声は高音が抜けるようにきれいで、それに三線はもちろん、琉球笛や二胡が加わった演奏は、同じ日本列島でありながらどこかエスニックな叙情を表現している。

 レとラを除いたド・ミ・ファ・ソ・シ・ドの5音で構成される音階いわゆる琉球音階は、それ自身が強烈に自己主張をして、ときに、それぞれの音曲の差異を曖昧にさせるが、よく聴いているとそれぞれの差異がわかるようになる。
 そして、この琉球音階、実は琉球列島全てに相当するものではなく、南西部の石垣などには一律に相当しないことも今回のライヴではじめて知った。

           

 ライヴの行われたレストランは数十人の座席がほぼ満席状態、大城さんが岐阜在住時代(現在は名古屋で、****の店主)の知己や、沖縄県人会の有志などで埋まっていた。
 お昼のライヴとあって、一流シェフの昼食セットが1,200円(三種のうちからチョイス・ドリンク付き)とチャージ1,000円とリーゾナブル。

 聞けば大城さん、19歳の折に沖縄のコザ(あの嘉手納基地があるところです)から岐阜にでてきて、初期の音楽活動として、岐阜バッハ合唱団(私の2回ほど聴いたことがある)で歌っていたこともあるという。

https://www.youtube.com/watch?v=3HgIbw6JL_M

 ノリの良い曲、スローバラードなど悲喜こもごもの何曲かが披露されて〆はやはり「ハイサイおじさん」。前回もそうだったがこの曲はウィン・フィルのニューイヤーコンサートでの「ラデツキー行進曲」といったところか。
 この曲、割りと新しいもので、1976年の喜納昌吉のデビュー曲である。歌詞は、ませた少年と近所のおじさんのとぼけた会話だが、その背後には、23万の県民が死亡したとされるあの沖縄戦の後遺症ともいえる悲惨な体験が埋め込まれているともいわれる。
 そういわれて聴くと、とぼけた味の中にどこかやはり哀愁感が漂っている。

 ただし、コンサートの終わりではひたすら明るく高揚感が溢れるままに歌われる。そしてこの瞬間を待っていたかのように、沖縄県人会の人たちや、かねてより琉球民謡に馴染んでいた人たちが席を立って踊り始める。
 会場全体に、琉球の海、サンゴ礁、巨大な基地群、そこで怯まず生きている南国の人たちの息吹きが充満する瞬間だ。

 コンサートを終えて外へ出ると、春の日差しが煌めいていた。
 やはり寂しい柳ヶ瀬を離れて、JR岐阜駅まで歩く。
 そして、岐阜駅北口 杜の架け橋および信長ゆめ広場で開催されていた「岐阜の地酒に乾杯」という催しに参加。
 この催しは年一回、「岐阜県の酒蔵の酒」が集められ、それを岐阜の人気飲食店の料理と共に楽しむというイベント。

https://sites.google.com/view/gifunojizake2017/

 午前から行われているこの催し、一人3,000円でおちょこ一つとコイン9枚をくれる。このコインを持って各ブースを回り、気に入った地酒をおちょこに注いでもらうという仕掛け。一杯あたりコイン一枚が普通だが、特別なお酒だとコイン二枚、三枚というのもある。

           

 私たちは食後だったし、四時半の終了時間まで幾ばくもない頃だったので、二人で3,000円ということで、おちょこ二つと、コインを四枚ずつもって飲み始める。
 しかしだ、呑兵衛の私たちには結局4枚のコイン=おちょこ4杯で済むはずもなく、結局はさらに追加コインを買う羽目となった。

           

 ちなみに私の飲んだのは以下の銘柄(順不同)。
 日本泉 恵那山 元文 初緑 天領 山車 〆で 三千盛

           

 あとで出品酒蔵を見て、あれも飲んでおけばよかったという酒蔵もあったが、なにせ下調べも不足し、どの酒蔵がどのへんに出店しているかもわからず、おまけに終了時間(4時30分)も迫っているととあって、手近なところで手当たり次第となってしまったということ。

    

 どこが旨かったかですか?それぞれ個性があってよかったが、吟醸系など割合味や風味の強いものを飲んだせいで、ありきたりだが最後の三千盛がやはり端麗で美味しかった。
 ただし、これを最初に飲んだらやや物足りないと感じたかもしれない。

    

 なお、朝一で来て閉幕まで粘っていた日本酒オタクのあんちゃんと知り合い、いろいろなうんちくを聞かせてもらったが、さほど深くはないが、よく知っている。ちなみに彼は、20杯以上飲んでいるといっていたが、ちゃんと酔い醒まし用の水などを用意し、適当にインターバルを置いて飲んでいたのは流石だと思った。

 さほど酔うこともなく、駅構内の食料品スーパーで、3日分の食材を買って帰宅。
 天候がよく、洗濯物がよく乾いていて気持ちよかった。

 


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今年の田んぼは私の視界に残るのか?

2017-04-09 11:02:52 | 写真とおしゃべり
 この家に移り住んでから、もう半世紀以上になる。
 その当時は、駅や市の中心部にゆくバス通りには面していたものの、周囲はすべて田んぼで、一番近い人家までは100mほどの距離があった。
 しかし、ときあたかも高度成長期とあって、私のうちがその嚆矢となったように周辺の田んぼが埋め立てられて住宅や店舗になっていった。まず南の田がなくなり、ついで西の田が視界から消えた。

            

 バス通りを挟んだ東側の田は、一部が駐車場になったものの、その両側が田のままに残っていたが、ついに昨年、そこをも埋め立ててドラッグストアーができるに及んで、記憶の底へと沈むこととなった。
 かくて、残るは北側の田のみとなったが、そこももはや消えようとしている。

            

 北側には、私の家に隣接し、わりあい早い時期に休耕田になった一反(300坪≒990㎡)とその向こうに二反(600坪≒1980㎡)の現役の田んぼがある。
 この現役の田んぼをウオッチングするのがここしばらくの私の習性のようなもので、田植えに始まり、若い稲をなびかせて渡る風のプロムナード、ツバメたちの乱舞、激しい嵐が残した稲の倒壊という厳しい痕跡、それらに耐えてたわわに実った稲を刈り取るときの躍動感に溢れるときめきのような情景、それらを何年も何年も見続けてきた。

            

 加えて、写真を添えたSNSへの私の情景報告に、農機具メーカーに勤める友人が、その農機具の解説をしてくれるなどのおまけも付いた。それによれば、この田の持ち主が使っている田植え機やバインダーなどは、メーカーサイドからみて、「ん? 未だそれが動いている!」というほどの年代物だということだ。

            

 そうしたウオッチングが終焉に近づいたことを知らされたのは昨年の秋のことで、その現役の田んぼとの間にある休耕田が売れて、そこが埋め立てられ、4軒の住宅が建つというのだ。どうやら現役の田んぼは耕作を続けるようだが、その間に4軒の家が建ったのでは、居ながらにしてのそのウオッチングは不可能になる。
 現役の田んぼの稲刈りが終わった昨秋、さっそく埋立工事が始まり、昨年中にそれも終了し、もはや私の田んぼウオッチングもこれまでと諦めたのだが、年が改まっても一向に住宅が建つ気配がないまま4月まで来てしまった。

            

 ならば今年もと思っていた矢先、先ごろ、埋立地の方から何やら奇妙な唸り声が聞こえる。ん?と思って覗いてみると、装束をまとった神主を先頭に、一団の家族と思しき連中がうやうやしく頭を垂れている。
 唸り声は神主の祝詞で、これは地鎮祭なのだ。その場所からして、まず売れたのは一番奥らしい。その翌日からさっそく工事が始まった。

            

 いつ頃できるかは未定だが、いまの住宅は、昔のようにまず土台を作り、それから柱や梁を組み立て、瓦を乗せて(昔はこの段階で建舞=上棟式 所によっては餅撒きなどもした)、壁を塗り、内装へと取り掛かるといった段取りではなく、工場生産で作ったパーツをもってきてあっという間に出来上がってしまうから、意外と早い出来上がりだろう。

            

 一番奥に住宅が建っても、私の田んぼウオッチングの視界は遮られない。しかし、これが呼び水になって次々に建つことは間違いない。バス停まで1分以内、岐阜駅まで10分以内とあって、価格にもよるが売れないわけがない。
 早晩、私の視界は完全に遮られ、田んぼウオッチングは終了せざるを得ないだろう。
 でも、この段取りからいったら、今年の田植え(この辺は6月中頃)は見ることができるかも知れない。

            

 確かに片田舎と思っていたこの場所はとても便利になった。向かいにできたドラッグストアーはミニスーパーのようなものだから、調理の途中で火を止めて不足している調味料を手に入れることもできる。
 しかし、その代償は、季節感溢れる自然の営みとの断絶であるという当たり前の事実を、改めて思い知っている昨今ではある。

 これでもって、私の家の四囲を取り巻いていた田んぼがすべて視界から消えるのかと思うといささかの感傷を憶えざるを得ないのは、時代を越えて生き残ってしまった者の無為な嘆きなのだろうとは思う。
 
   最後の2枚は、昨年の田植えと稲刈りの模様
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1980年代の映画 『ゴンドラ』を観る

2017-04-04 01:41:34 | 映画評論
 30年前のまぼろしの映画『ゴンドラ』を観た。
 観た動機は二つある。
 ある映画評のページでは☆一つと、五つに分かれていたりして、俄然、食指をそそられたからである。よし、俺が見極めてやろうという不遜な動機ともいえよう。
 
 今一つはこの映画が30年近く埋もれていて今回がリバイバル上映だということで、しかもこれを撮った監督は、これが処女作で、けっこう評判が良かったにも関わらず、その後劇映画は作らず、もっぱらAVを撮り続け、その数は1,500本にも及ぶという。AV界の黒澤明ともいわれているらしい。

              

 こんなこともあって、ネットで紹介されていた予告編など観るに及び、「ん、これはぜひ観たい」と思うようになった次第なのだ。

 映像がいい。ある種実験的とも思えるオーバーラップや歪み・乱れなどが特に前半に集中して出て来るが、それらは決して奇をてらった方法のための方法ではなく、登場人物たちの主観やシチュエーションに根ざす必然的なものなのだ。
 
 それらは、ある意味、映画は映像で見せるというアタリマエのことを実践しているのだということがわかる。だから、後半のある種落ち着いた状況の展開においては、周辺の自然とともにリアルな映像へと落ち着くかのようである。

         

 映画は明快でわかりやすい。登場人物も限定されている。
 主人公は孤独な少女(小学5年生)と下北半島出身の窓ガラス拭きを職業とする朴訥な青年の交流なのだが、先にみた映像の変化とともに、前半と後半の演出の差異を見ることができる。
 例えば、前半はほとんど棒読みのようであった少女のセリフが、青年との交流の深化につれ、生きた人間の言葉になってゆく。もっとも、映画全般を通じてセリフ自体が少なく、映像に語らせているのはすでに述べたとおりだ。

 前半の都会と後半の地方という対比、登場人物の不安定と安定、それらによって演出が異なることも述べたが、その集大成としてのラストシーンは気恥ずかしくなるほどのメルヘンチックなものとして展開される。

         

 この映画が作られたのは1980年代の後半である。
 この時期、「戦後」から脱却し、高度成長を成し遂げ、しかもまだバブルは弾けておらず、リーマンショックも経験していない時期で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本人が傲慢に居直り始めた時期である。この頃、東大でも京大でも政党支持率の第一位が自民党になった。ちなみに、私が学生だった60年前後には、自民党支持などという大学生はまともな知性の持ち主として扱ってはもらえなかった。

 この映画は、そうした時代状況へのアンチテーゼとして意識的に作られたものではないだろう。しかし、少なくともあの時代の日本人の傲慢さを知っている私からみれば、この映画はそうではない人間の交流を描いている。
 それは同時に、この時代を境に、この国から急速に失われてしまったものでもあるだろう。だからそれはメルヘンなのだ。

              

 これは私見であるが、ヨーロッパなどに先駆けてこの国で実現している極右政権は、この1980年台に自己形成をした連中によって担われているようだ。

 話が逸れた。映画に戻ろう。
 この映画は、監督・脚本の伊藤智生がまだ20代の頃のもので、これが処女作でその後の作品がないということはすでに述べた。その後はTOHJIROという名で1,500本余のAVを撮っているという。これだけのものを撮りながら、彼をそちらへ走らせたものは何か、それがよくわからない。
 しかし、物好きな私は、彼のAV作品の片鱗をネットで検索してみたが、それらの映像はかなり凄惨なもので、女性はよがり声というより悲鳴を上げているものが多かった。

              

 ついでに、この映画の主人公の少女(かがり:上村佳子)と青年(良:界健太)を検索してみたが、二人ともこれ以後は映画に出演しておらず、会社員とのこと。それぞれ、雰囲気をもった人だったと思うので少し惜しい気がする。

 なお、監督の伊藤智生は、『ゴンドラ』のリバイバルに刺激を受けて、第二作目を撮るといっている。期待に反して駄作になるか、それともAVで培った経験を活かした傑作になるか、観てみたいものである。


『ゴンドラ』に関しては以下に詳しい。
   http://gondola-movie.com/
   http://cinefil.tokyo/_ct/17024382




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花と空蝉

2017-04-03 11:00:55 | 花便り&花をめぐって
 この辺の桜はいまどんな具合だろう。午後に歯医者へ行かなければならないので、すこし遠回りをして確かめてみよう。

                

 今年はいつまでも寒いと思ったのは、こちらの加齢のせいだと思っていたが、そうばかりではないようだ。実際の各地の桜前線も軒並み一週間ほど遅れているとのこと。私の日記を見ても、去年の3月31日には、ほぼ満開の写真を載せている。

                

 そんななか、東京がいち早く開花宣言をし、今はもう満開だという。
 これはいささか奇異な感じがする。これはたぶん、地理的な条件やそれによる気候の推移のせいではなく、ヒートアイランド現象によるものではないか。
 東京はやはり、日本においての地球温暖化のメッカなのだ。

                

 桜はともかく、うちの花の話をしよう。
 紅梅は終わり、桜ん坊のなる早咲きの桜も終わり、今咲いているのはユキヤナギとレンギョウである。
 これらの花の特徴は、一輪々々が自己主張をするのではなく、ひとつの纏まった集団としてアピールする点にある。

              

 朝のことである。それらの花々をひとわたり見回して、洗濯物を干しにいった。その折、何やら足もとで飴色に光るものを見つけた。
 洗濯物を干し終わってとって返してそれを観察した。なんと、セミの抜け殻なのだ。昨年の7月か8月以来、誰にも気付かれずここにとまっていたのだ。

              

 うちには3種類のセミがやってくる。一番多いのはアブラゼミ、それとニイニイゼミ、そしてツクツクボウシだ。名古屋などはもう圧倒的にクマゼミのテリトリー(これも温暖化で北上中)らしいが、うちにも、この辺にもこない。
 愛知県との県境にある木曽川がその北進を阻止しているのだろうか。あの川幅は、よほど根性のあるクマゼミでないと越えることはできまい。

                  

 しかし、この抜け殻、よく頑張ったものだ。
 それを愛でて川柳など。空蝉は夏の季語だが、川柳には季語はないからいいだろう。

                  

     ・越年の 空蝉空(くう)の貌(かお)残す
     ・去年(こぞ)の空 (くう)卯月 空蝉 憂き世倦む



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