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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【遊ぶために遊ぶ】六〇年前の「のんほい」をなぞる旅

2021-11-30 17:49:42 | 旅行
 ひょんなことから名鉄電車の切符を二枚手に入れた。名鉄沿線ならどこへでも行き、帰ってこられるということだ。
 当初、名鉄沿線に住む友人二人に連絡をとり、久しぶりに一献どうだろうかと提案した。二人ともそれを受け入れて実現のための条件を探ってくれたが、諸般の事情でそれが不可能となった。ならば一人でどこかを目指すほかはない。
 こうなったら、ひとと逢うとか何かを行うとかは決めないで遊ぶために遊んでみよう。

              
          

 生まれついての貧乏性、ただとはいえ、近くへ行くのはもったいない。岐阜からできるだけ遠くへ行きたい。となると知多半島では中部国際空港、内海、河和などが候補となる。あとは東三河で蒲郡、豊川、豊橋といったところになる。
 予定としたら、昼過ぎに現地に着いて、どこかのんびり時間を過ごせるところを散策し、旨い酒と肴でいささか早い夕餉を済ませ、そんなに遅くならない時間に岐阜へ戻りたいということで、やはり自分の歳も考え、ある程度土地勘があり、帰途も安全単純なところということで、豊橋に落ち着いた。

              

 豊橋は、1960年前後の学生運動関連で2,3度行ったのを始め、サラリーマン時代の特約店訪問などなどで結構通い慣れている。居酒屋時代の30年間はご無沙汰していたが、その後、美術館訪問や、誘われた集会での報告者として訪問したこともある。

 学生時代の訪問は、虚実をとり混ぜて短編小説にしたことのあるが、いちばん強烈に覚えているのは主に愛知大学の活動家を対象にした真剣な討議の後の二次会の模様である。自分の家の小型トラックを持ち出してきたひとがいて、これで海辺へ行こうという。豊橋は、南に走ると太平洋の大波が直接押し寄せる遠州灘である。そこでの夜の酒盛りだ。
 メンバーの一人が酒屋の娘さんで、家からトリスウイスキー数本と、日本酒数本を持ち出してきた。つまみは駄菓子屋で買ったあられやせんべい。総勢一〇人弱がトラックの荷台に乗って繰り出したのが、その遠州灘海岸。

          
          

 海岸を叩きつける波は夜目にも白々と、しかも想像以上に高い。私たちは車座になって酒を酌み交わし、論議し、語り、歌い、踊った。しかし、それらの喧騒も、波の音によってほとんどかき消されてゆくのだが、得もいわれぬ快感があった。私が選んだ道は、当時、閉塞感に満ちていた。しかしどうだ、私はこうして生きているではないか。生きているということは、こうして大自然のなか、ひとと交わり、自分の言動を開示してゆくことではないか、それが実感された時間であった。
 明け方、日の出を迎えるまでそこにいたと思うが、どのようにして帰ったかは記憶にない。運転手を含め、全員が深い酩酊のなかにあった。

              

 二度めの節目のような豊橋経験は、いろいろあった後、就職してはじめに受け取った電話であった。一応、電話での応答の仕方は教わっていたが、その電話は予想外だった。目の前のベルが鳴り、私が受ける羽目になった。「もしもし、こちら〇〇株式会社の営業部**です」との滑り出しは良かった。問題は相手の方だった。「あののんほい」が第一声、「はあ?」と私。「あののんほい」と再び相手、「はあ?」と私。それが三度ほど繰り返された後、私は「少々お待ち下さい」と電話を上司に代わってもらった。「あの~、なんか変な電話がかかってきているのですが・・・・」
 その上司は、私と代わって相手とスムーズに話を交わしている。電話が終わった後、上司は、「あれは豊橋の大切な特約店さんだ。失礼があってはならない」と私に軽い叱責をくれたのであった。

           
           

 「あの」はともかくとして、「のんほい」というのが「ねえねえ」とか「ですね」とか肯定の意を含む三河地方の方言であることをはじめて知った。
 ただし、これはいまや古い言葉で、三河地方でもほとんど死語になっているようである。しかし、私のなかでは、豊橋といえば「のんほい」というイメージが生きている。

 そんなわけで今回の豊橋行きは、豊橋でJR東海道線に乗り換え、一つ先の二川まで行き、そこにある「のんほいパーク」を散策することにした。
 ここは数年前に訪れ、二回目なのだが、広い園内には動物園や植物園、それに遊園地が併設されている。無理して全部回らなくとも、自分の見たいところを重点にのんびりマイペースで過ごすこととした。

           

 この前訪れた折には、アジアゾウのお母さんが臨月で大きなお腹をしていた。その一週間後、無事出産とのニュースに接し、なんだかほっこりした気になっていたのだが、どれほど経ってからだろうか、その仔象が発育不全かなんかで亡くなったと聞いて、がっかりしたことがあった。

           
           
           

 まず動物エリアから見て、時間があれば植物エリアをと歩を進める。数年前の経験で大体の土地勘はあるはずとの思いがあったが、これが大間違い。自分の記憶力がいかに劣化して曖昧になっているかを嫌というほど知らされた。

 でも象の居場所を見つけた辺りからなんとなく記憶が戻りはじめた。象の飼育スペースは、名古屋の東山動物園などより広々していて、数頭のうち二頭がいろいろなスペースを移動し、目を楽しませてくれた。ただし、今回は臨月に近いそれは見当たらなかった。

           
           
           

 こちょこちょ動き回る猿たち、逆にのったりしてしまって動いてくれないカンガルーたち、どちらも写真には撮りにくい。
 その点、シロクマとペンギンは陸上でも水中でもよく動いてくれておもしろかった。もっとも、平日とあって、それを喜んで見ているのは、八十路すぎの私めと、そのひ孫に相当する就学前の児童たちだからその落差は面白い。

 やはり、植物園を見ている時間はなくなった。閉園時間になったということではなく、私自身ができるだけ岐阜へ早く帰れるよう、その夕餉を豊橋駅近くの夕方四時からやっているお店に設定していからだ。

           
           
 豊橋に戻る。予めネットで目星をつけておいた四時からの営業で近海物の海産物があり、日本酒の在庫が豊富で価格がまあまあリーゾナブルな店ということで、「路地裏かきち」という店を選んだ。
 酒は、最近流行りの試しのみセット三種で、リストの中から三つを選んで少量のグラスにいぱいずつ。それほど舌に自信がない私でも、こうして三種類を飲み比べてみるとその違いがわかる。これが済んだあとは、父の故郷、福井の酒、黒龍を選んだ。
 お造りは近海物中心に三種で盛ってもらった。どれも鮮度はマアマアだった。メヒカリの唐揚げというのがけっこううまかった。自分でも作ってみたいが、岐阜あたりの、しかもスーパーの魚売り場には出てこないだろう。

           
           

 四時から営業といっても、その時間から客がどっと来るわけでもないので、カウンターで人当たりのいい店長=板長とゆっくり話しながら飲むことができた。コロナ禍での営業はやはり大変らしい。ただし、今日は予約が二組ほど入っているということで、その準備をしつつの私との対話であった。

           

 もう少し飲んでゆっくりしたかったが、まだこれからおよそ150kmを帰らねばならない身、カウンターから身を引き剥がすようにして店を出た。
 まだ早い時間なのだが、行き交う人もまばらで、霜月後半の夕刻はとっくに夜半の様相を呈していた。まだ、バスが運行している時間帯(わが家方面は早くなくなるのだ)に岐阜へ達することができた。

 かくして私の「のんほい」な一日は終わった。

 

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養老鉄道・揖斐線利用の小旅行(半端鉄チャンの話付き)

2021-11-25 23:45:31 | 旅行
 養老鉄道はかつての近鉄の揖斐線と養老線を近鉄から引き継いだいわゆる三セク鉄道で、JR大垣駅を起点としている。以前に紹介した樽見鉄道(この前身は国鉄=JR)もこの大垣を起点としているから、大垣では二つの三セクに接することができる。



 養老鉄道に戻ろう。この鉄道は養老線と揖斐線の二つからなるが、起点の大垣ではそれぞれが一つのホームから出発する。一番線は養老方面の三重県の桑名行、二番線が同じ岐阜県内の揖斐行である。
 この電車たち、ここですれ違うのではなく、それぞれ同じ西方面へ1kmほど並走し、そこで桑名方面は南へ、揖斐方面は北へ進路を取るべく分離する。
 


 そこでどういう現象が起きるかというと、もし、同時刻に大垣を発車した二方向行きの電車があったとしたら、そしてそれを分岐点で目撃できたら、同じ方向から並走してきた電車が左右に分かれてゆく珍しい光景を目にできるということだ。


 
 では、大垣を同時刻に発車する電車があるかというと、それがあるのだ。私が現行の時刻表で調べた限りでは、17時7分発、21時9分発、21時53分発の3本だ。これは発車時間だから、分岐点へはその一分後ぐらいに差し掛かることとなる。
 残念ながらこの時期、全てが日が落ちてからの時刻で、夜汽車になってしまうが、日の長い時期なら17時7分発なら昼間の写真となるだろう。



 ただし、これを写真に収めたものを例の鉄道写真家中井精也氏のもので見たことがあるが、説明がないと、上下の列車がすれ違っただけに見えてしまうので、動画のほうが迫力があるかもしれない。

 半端な鉄チャンなので、つい余分な話をしてしまったが、本題に戻ろう。
 近所のサークルの人たちとともに、この養老鉄道の揖斐線の旅をしたのだ。ちょうど土曜日だったので、土日限定1,000円で乗り放題を利用しての旅だ。
 この沿線、観光地や見どころがないわけではないのだが、そのほとんどが駅から歩くにはちょっと距離があり、結果としてそれぞれ降車した駅付近の風景を観るにとどまった。
 
 まず降り立ったのは東赤坂。ここは旧中山道赤坂宿の文字通り東なのだが、そこまでは遠く、駅近くの神社や近くの集落を回ったのみだった。















 続いて降り立ったのは池野駅。ここは池田町の中心で、かつては中山道から分岐し、西国三三ヶ所巡りの納札所の谷汲山華厳寺に至る谷汲街道の要所としてして栄えたところである。街中の旧街道沿いを歩くと、なんとなくその名残りは感じられるが、残念ながら幾分さびれた街並みというほかはない。
 西方にそびえる池田山、そこから飛び立ち浮遊しているハングライダーの数々が時代の変遷を物語る。私のカメラではそれらのハングライダーをはっきり捉えることはできない。







  中央上部の白いのは飛んでいるハングライダー
 




 終点、揖斐へと至る。
 この頃から、腰痛が激しくなる。一行はさらに歩き続けるが、私は駅から一〇分ぐらいの粕川(揖斐川の支流)辺りでダウン。
 この粕川、かつてはアマゴやイワナ釣りによく訪れた川だ。とても懐かしい。ただし、竿を落としたのはこの辺ではない。さらに上流(西方)へどんどん進み、もう滋賀県に近い源流域まで行ったものだ。
 はじめの頃はよく釣れたが、情報誌に書かれるに及んで釣り人が殺到し、釣果は期待できなくなった。





 そんな想い出を反芻しながら揖斐駅へと戻る。そこで一行の帰りを待ち、大垣経由で岐阜へ帰った。
 後半の腰痛によるダウンは口惜しいが、それがいまの私の現状だから致し方あるまい。それでも歩行数は1万5千を超えていた。

 どこかへ行って歩き回る、それが可能な時期をできる限り引き伸ばしたいと真剣に考えているが、83歳の老人にはもう手遅れなのだろうか。

 

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戦後のスタートを象徴する「リンゴの唄」とは何だったのか?その正体は?

2021-11-18 11:20:20 | 想い出を掘り起こす

 今月のはじめのことだが、親しい方からリンゴ二個を頂いた。
 
 赤いのと黄色いの。それぞれ名前を教えてもらったのだが、忘れてしまった。名前は忘れたが、リンゴはおいしかった。一人で全部食べきれなかったので、八切れに切ったうち二切れほど残し、夕食時、おろし金で摺り、それに塩、粗挽き胡椒、オリーブオイルなどを加えてサラダ用のドレッシングにした。リンゴのほのかな香りがアクセントになり美味しいサラダができた。
 
           

 こうしてリンゴを味わっていて、ふと思ったことがあった。それは、戦中戦後を見直すようなものを同人誌に書いている私が最近学んだある事実についてである。
 
 ある程度の年配の方なら、「リンゴの唄」(1945年=昭和20年=敗戦の年の12月吹き込み 46年1月発売 オリジナル版は霧島昇とのデュエット)をご存知だろう。それが、敗戦後最初に流行った流行歌であり、荒みきった焼け跡に響き渡り復興の後押しをしたこと、敗戦後の不安に怯える人々にひとときの希望をもたらしたこと、あるいは戦時中の重っ苦しい雰囲気を吹き飛ばす、いってみれば戦後民主主義発進の象徴のような歌だったということも。私自身も、ず~っとそう思ってきた。

           
 
 では、私が新しく知った事実というのはなんだろう。
 作詞家のサトウハチローはこう証言している。
 「これは戦時中に作った詞で、悲壮感あふれるものばかりだったので、少し明るいものをと思って・・・・。リンゴを題材にしたのは、父が青森県は弘前の出身だったから」

 続いて作曲家の万城目正の証言を聞こう。
 「もともとは、兵士を鼓舞し、激励慰問のための映画の挿入歌として書いた曲だ」

 ようするに、戦後の発表時、前述したようにおそらく日本の歌謡曲の歴史のなか、全国民に与えた影響は他に類を見ないようなこの歌は、もともとは玉砕や特攻の悲惨のなか、敗走に次ぐ敗走というまさに泥沼の敗戦直前の状況下で、今一度戦意を新たにするためのカンフル注射のような役割を担うはずのものだったのだ。それが、発表がずれ込むことによって、まったく違う機能や効果をもたらしたのだった。

           
       https://www.youtube.com/watch?v=Gf0jDTOyF4U

 それがいけないといっているわけではない。当時、国民学校一年生だった私も、この歌を耳にして、あゝ、戦争は終わったのだ、もう警報の度に防空壕に駆け込まなくても・・・・という感慨をもったはずだ。

 ただし、この事実は、私が最近考えているように、この国は、あの敗戦を契機に、戦前と戦後にそれほど大きな断絶ををもったのではないということのひとつのエピソードではないかと考えている。ようするに、戦後民主主義の出発点を象徴するようなこの歌にも、戦前からの継承性が確固として貼り付いていたということである。

 やや抽象的にいうならば、この国の「戦後」がなかなか終わらないのは、実は「戦前・戦中」が終わってはいないからではないかとも考えている。

           

 せっかく美味しいリンゴを頂いて、それを味わいながらの感想としてはいささか無粋で、呉れた方にはまことに申し訳けないが、しかし、そうした思いが念頭に浮かぶのを抑えきることはできないのだから許してほしい。
 
 しかし、これだけは言っておこう。こんな事を考えたのは一個目だけで、二個目は雑念を振り払い、名前を忘れた赤い方のリンゴの方を存分に味あわせていただいたのだった。

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《お勧めの記事》黄土地上来了日本人(黄色い大地に日本人がやって来た)他

2021-11-15 14:56:48 | 想い出を掘り起こす

 下方に添付したものは私の半世紀近い友人、大野のり子さんの記事です。
 いまはカンボジアで旅行代理業をしていますが、コロナ禍で苦戦しています。それどころか、自身がコロナに罹ってしまいましたが、予防接種のおかげでなんとか大禍なく回復したようです。

          
                  賀家湾村遠景
          
                洞窟式の住宅・ヤオトン

 彼女は数年前まで、中国は山西省、黄土高原の山村で12年間を過ごし、過ぐる日中戦争の体験者などにインタビューをしたものが書になったり、東大に史料として保管されたりしています(ただし、写真は2011年、私が山西省賀家湾村を訪れた際、撮ってきたものです)。

          
                    農夫
          
             賀家湾村の段々畑 11月で収穫は終了

 私も、2011年に彼女の滞在している賀家湾村を訪れたことがあります。ちょうど中国の高度成長が始まった時期で、村は年寄と子供ばかりで、働き手はほとんど都市へという時期でした。
 しかしそれはまだ序の口で、あれから10年、その後の中国の変化からして、おそらくその頃からもまったく違った姿になっていると思います。

              
                険しい断崖の道を進む農婦
          ー
              登るのを待っていたら微笑んでくれた

 その意味では、彼女の調査とその記録は、私たち日本人にとって、その地で何が起こったのかの過去を知るための重要な史料であると同時に、現今の中国の人たちにとってすら、戦中戦後を記録した貴重な史料になっていることと思います。

          
         子どもたち 父母が都会へ出たまま帰ってこない例も
              
                    老人

 以下の彼女の記録の一端をぜひお読みいただきたいとお勧めいたします。

 https://note.com/natsume87/n/n313109b3f5d7
 https://note.com/natsume87/n/n6f8706d170af

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日常スケッチ 11/12 写真と動画

2021-11-12 23:23:48 | 写真とおしゃべり

まずは写真二題から

 午前、やっと家の菊が咲き始めたので、手折ってきて供花に。

           

 午後、時雨のち虹。高い弧は描かないが、これまで見たこともないくらい太い。重量感すらある。
 
 上記は観た直後に書いたのだが、夕方のニュースの気象予報士のコメントによれば、これは極めてレアな虹で、普通のものより色彩数が多いのだとのこと。
 私が感じた「重量感」は根拠があったのだと、ややドヤ顔。
 
      
 
 
続いて動画二題 
 
 買い物に行った業務店専用スーパーで遭遇したロボット。途中で警報を鳴らし止まったのは私が進路妨害をしたから。退いたらすぐ動き出した。
 彼のAI には、私は「科学技術の進展に異を唱える者」としてしっかり登録されたのではないだろうか。
 
 
 最近の火鉢の中のトリオ。一尾になってしまったので、寂しかろうと二尾を補充。結果として1:2 で対立したらというのは杞憂で、三尾仲良く泳ぎ回っている。
 彼らが、人間同様、些細な差異と同一性に依拠して群れや派閥を作りたがるのではと早合点した私の浅慮。
 
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初めての句会(苦海?)、しかも吟行・・・・で、結果は?

2021-11-09 16:16:53 | 写真とおしゃべり

 川柳は少しかじって、新聞投稿などで入選したり、ミニコミ誌の川柳欄の評者までしたことがある。もう20年ほど前だが。
 それに対し、同じ定型文でも、俳句や短歌の世界にきちんと向き合ったことはなかった。まあ、それでも読む方は好きで、「朝日」の日曜日の「朝日俳壇」や「朝日歌壇」は常連投稿者の名前も多少知っているほどに読んでいる。

                
                    鶴舞公園内 鶴々亭

 そんな私が、いきなり句会に、しかも、当日の散策から即興で詠む吟行に誘われたのだからさあ大変。しかし、八十路を回ってからの経験も、閻魔様への土産話になり、その分、地獄に落とされるのを遅延させることができるのではなかと参加することとした。ちょっと旧聞になったが11月5日のことである。

              

 場所は名古屋の鶴舞公園(つるまこうえん)で、兼題は薔薇。ようするに秋の薔薇に関した句ということだ。公園の読みをわざわざカッコで示したのは、この「鶴舞」という地名、公園は「つるま」、JR中央線の駅名は「つるまい」など、町名、図書館名、小学校名などなどよほど詳しい人でなければわからないぐらい二つの読みが混在しているのからだ。川柳ならそれだけで一句できてしまう。

   つるまでもつるまいもよし薔薇は咲く

 しかし、俳句となればそんなノリではだめだろう。

                
             奏楽堂 これは復元されたものだが初代は1910年の建造

 公園内の鶴々亭という由緒ある木造建築へ集合。総員10名。ただし、そのうち一人は遅れて参加のため、選のみの参加。
 見渡したところ、女性陣4名はそれぞれこの道に造詣がありそうだが、男性陣はそれほどでもなさそうだ。まあ、私とちょぼちょぼかなという感じ。

              

 ひと通りルールなどの説明があった後、公園内の薔薇園へ。薔薇の最盛期は5月頃で、さすがにその頃ほどの隆盛さはないが、それでもさまざまな薔薇が精一杯咲いている。
 そして、感動したのは、その薔薇園のなかで何かゴソゴソしている気配を感じてよく見ると、10名近い人たちがあちこちで地を這うようにその手入れに余念がないのだ。
 そこで早速それを句に詠むことにした。

                
           この噴水塔が市公会堂の真正面に位置することに初めて気づいた

 約一時間半の散策で、乏しい詩情を絞り出してなんとか三句を揃えた。これは句会ではなく苦界ではなどとダジャレをつぶやいたりした。
 再び鶴々亭に戻り、なんとかひねり出したそれを短冊に清書して提出。
 書家のSさん(男性)がそれを一覧に書き込んで、若いのがコンビニへコピーに走る。
 参加者のうち一番俳句に詳しそうなTさん(女性)のお連れ合いがケータリングで作った弁当が届き、それを味わう。美味しい。

              
              
                 びっしり実をつけたクロガネモチとその実

 飲み物は各自持参ということで、私は持ち込んだ冷酒でおかずの方を肴に飲む。季節の味ご飯は夕餉にと持ち帰る。
 そうこうするうちにコピーが届き選評。天、地、人(これは二句)を選び提出。
 天、地、人それぞれが3点、2点、1点での集計。集計にはいろいろ手待っどったようだが、やがて結果発表。

 恥ずかしながら、私の提出した句は以下の三句。

   秋薔薇の棘心なし柔らかき
   這い回る手入れに応う秋の薔薇
   遅出しのジャンケン秋の薔薇が笑む

 最後の句なんてやはり川柳風だなぁと自分でも思う。

 で、結果の発表。
 ジャジャ~ン!
 私の句はなんと「地」に入選。しかも「天」とは一点違い。

 どの句かというと、真ん中の「這い回る・・・・」。
 句としてはけっしていい出来ではないが、一行のすべてが菊の間を這い回って手入れをしている人たちの作業を見ていたので、そういう状況そのものに(句ではなく)同意をしてくれたのだろうと思う。

 「天」は女性が詠んだ以下の句。

   秋の薔薇白きをひとつ母の手に

                
              中央線鶴舞駅 金山で東海道線に乗り換え岐阜へ

 とまあ、そんなことで初めての経験を終えたわけである。
 当日は気温といい風の具合といい、まことに爽快な日和のなか、花を見詰めて句を詠むという面白い体験をさせてもらった。
 少しだけ飲んだ昼の酒が残るなか、夜の街へ繰り出すことはやめて、薄暮の頃には岐阜のわが家にたどり着いた。

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高所からの名古屋駅界隈・曾我蕭白展・透明なブランデー

2021-11-06 16:56:33 | よしなしごと

            

 11月になって、出かける機会、人と出会う機会が多くなった。
 まだ、おっかなびっくりなところがあるとはいえ、老い先短い私にはそうした機会が与えられるkことは歓迎すべき事態である。
 そんなことで、4日、5日と二日続けて名古屋へ出ることとなった。
 今日はとりあえず4日の分。

               

 まずは名古屋駅近くで友人と昼食を共にし、情報交換など話が弾んだ。
 用件があるというその友人と別れて、「チョイ鉄」の私は、高いところからの列車の写真撮影に挑む。といっても、スマホだから大したことはない。

               
          
 ここからは、東海道線、中央線、関西線の在来線の他、東海道線新幹線、それに私鉄の名鉄、近鉄、さらには市営のあおなみ線が見渡せる。
 在来線と新幹線のコラボを撮りたかったがタイミングが合わない。
 新幹線の下りが白蛇のごとく名古屋駅に近づくのが穫れたのみだ。

           

 その後、以前の同人誌時代から大変お世話になっている I さんから頂いたチケットで愛知県美術館の曾我蕭白展を観にゆく。蕭白は紙媒体やTVなどで観て奇想天外な画風の絵師だという概略は知ってはいたが、直接その作品を見るのは初めてだ。

            

 確かに奇想天外な構図などの作品はある。ただし、「富士・三保松原図屏風」を始めとする山水風のものは、どれも丹精で緻密な描写で「おとなしく」描かれている。同じ山水風でも老境になるとタッチが変わったりするが奇想という感はない。

            

では「奇想な」ものはどんなものかというと、ほとんどが人物や動物が描かれたもので、その表現がまことに個性的なのだ。賢人高士を描いていても、その表情や視線の行方は独特であり、まさに奇なるものがある。動物の表情や肢体のありようにも独自性がある。
 まるで、生命体の在りようとは「奇想」そのものだと主張しているかのようである。

              
 
 もう一つの発見は、蕭白は三重県との関わりが強く、幾度も滞在していて、とりわけ、滞在先の多気永島家のために描いた作品が数多く残され、それらのうち重要文化財指定の7点は三重県立美術館が所蔵しているというのだ。
 多気といえば、この前、樽見鉄道の旅にご一緒したSご夫妻がその多気のお住い、機会があったらその永島家などについてなにかご存知かお聞きしたいものだ。

           

 ひとり気ままに会場の中を行き来して鑑賞していたので、結構時間をとり、美術館を出た頃にはもうすっかり秋夕のとばりが街々を包み込んでいた。
 今池へと足を向ける。先般訪れた飲み屋さん、安西コーブンドーさんへの再訪だ。まだ準備中であったが店主の好意で飲ませていただけることに。
 
 懐かしい高岡の酒、「勝駒」などを頂いたが、目の前に真水のようにサラッとした透明な液体があるので、これは何かと尋ねると「ブランデー」だという。
 ブランデーというと、琥珀色で少しネットリした感覚のものしか知らないので、詳しく聞くと、蒸留酒に取り憑かれ、本まで出した男性が開発したものだという。

              

 若い頃はウィスキーなどのハードスピリッツを「ストレートでダブル」などと気取って飲んだこともあるが、アルコールの度数などとの関連もあって、ここ近年はほとんど口にしていない。
 そんな話をしていたら、店主が「酔わないようにブレンドしたものを作りますよ」とのことで、それに任せて一杯飲んでみた。
 トニック風のブレンドでかっこいいブランディグラスの酒は、それなりにダンディな生活をしてきた老人には似合うかもしれないが、片田舎の野暮ったいジジィにはそぐわないかもなどと、コンプレックスを肴に口にしたのだが、これがなかなかうまいのだ。
 口当たりもいいし、サラッとした後味もいい。

 酒量も時間もここらあたりと切り上げ、千種駅までを心地よい夜風に身を任せて歩く。
 やはり、ひとと面と向かって話ができ、刺激的な絵画を鑑賞し、仕上げは美酒と来て、なんだか幾分若返った気分になることが出来た。
 第六波など来ることなくこのまま収まってくれたら、残された日々をそれなりに豊かに過ごせるのにとほんとうに思っている。

 末尾になってしまったが、蕭白展のチケットをお送りいただいた I さんに感謝々々である。

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岐阜県図書館の周辺で秋を見る マイ・フェイバリット・プレイス

2021-11-04 01:29:29 | 写真集
 昨日は所用が四つほど重なり、午後から岐阜市南部を東西に駆け回った。
 
 写真は三番めの岐阜県図書館の周辺。
 いつも来慣れているが、ゆっくり散策するのは久しぶりだ。
 新着図書に気になるものがなかったので、借りていた三冊を返し、予め借りる予定の三冊を借りただけなので、時間に余裕ができたのだ。
 
 以下、図書館そのもの、図書館の中庭など周辺で撮ったものをアトランダムに載せる。

   
   
   
    
   
   

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