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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

中国は黄土高原へと旅します。

2011-10-30 01:37:03 | よしなしごと
  写真はすべて、現地在住のNさん撮影のものを借用しました。

 突然ですが(といってももうしばらく前から準備していたのですが)、明日31日から中国へ一週間程でかけます。
 
 都会地ではありません。国内航空に乗り換えのため北京空港へは立ち寄りますが、目的地は山西省の省都・太原からさらに車で数時間、黄河沿いの黄土高原、賀家湾村です。
 そこから数百キロ北上するともう内モンゴルという中国内陸部の農村地帯です。
 そこをベースにして近隣のを回ります。

       
               黄土高原地帯の段々畑

 私の目的は以下のようです。
1)今なお、農業文明的な色彩が強く、人々がヤオトンという洞窟に暮らしている村落共同体を見てくることです。
 ここでの特産品はナツメの実だといいます。
 これらの共同体にも、中国の高度成長のもたらす影響は色濃く、日本が昭和30年代の高度成長期にそうした農村共同体を破壊しつくしたように、これらの村落のいくつかも、あと何年かで(その消滅も含めた)劇的な変化を余儀なくされることでしょう。
 そこに残る風俗習慣や、出来れば伝統文化などを、この目とカメラに焼き付けてきたいと思います。

       
               洞窟式住居・ヤオトン

2)今一つは、この地はすぐる日中戦争で、日本軍が三光作戦(奪い尽くす、焼き尽くす、殺し尽くす)の対象となったところだということです。
 それもあってか、今回ガイド役を努めてくれる私の友人(女性)がひょんなバスの事故が原因で数年前ここへやって来るまでの戦後60年間、一人の日本人も足を踏み入れたことがなかったところなのです。
 そんなことを知らずにこの地へやってきた彼女ですが、日本人だとわかった途端、村人たちは「鬼が来た!」といって逃げ出したそうです。
 いろいろあって彼女は今そこに住んでいます。
 その彼女の手引きで、日中戦争時の経験者たち(私と同年輩を下限として全て年上の人達です)と面談し、その体験を聞きたいとも思います。
 それらの皆さんはも老齢ですから(私もそうですが)、いま会っておかねばという気持ちがあります。

       
             廃校になったヤオトン式小学校

3)これは外国人の私が立ち入る領域ではないのですが、今、これらの村落はそのすぐ下を掘り進む石炭の坑道のため物理的な崩壊の危機にあります。
 ご承知のように中国の石炭は日本と違ってごく浅いところで採れます。しかも伸び盛りの中国経済にとっては、日本ではすでに終わったと思われている石炭もまた重要なエネルギー源なのです。
 これもまた工業化のなせる問題なのですが、炭鉱と農民との間にもちろん鋭い対立があります。その実情の一端だけでも見ることができたらと思います。

 ほかにもいろいろ要因はあるのですが、とりあえずはこれらがメインです。

       
               ナツメの実を収穫する人
 
 日本の都市をも凌駕する北京や上海も現在の中国を象徴するのでしょうが、私の行く農村文明を色濃くもつ村落とその変貌への胎動もまた中国現代史の一側面だと思い、老眼をしょぼつかせながらもしっかり見てきたいと思います。

 ジョブズが私に残してくれた愛機、MacBook Air は持参します。ネット王国の中国では田舎のホテルでも繋がるらしいのですが、果たして私の技術でそれを駆使出来るかどうか・・・。
 もし繋がったら現地からレポートします。
 一夜のみ農村の民宿に宿泊するのですが、その折には繋がりません。

 あ、帰りには太原から北京まで例の新幹線に乗ります。
 中国の新幹線、乗車券を買うために身分証明が要るのですね。
 パスポートのコピーを送ってやっと買えました。

 黄土高原、寒いだろうなぁ。天候も微妙とのこと。
 でも自分に言い聞かせて行きます。
 「加油!」

行く先の概略の場所は、以下の地図をご参照ください。なお、地図は固定されていませんので、適当に縮小、拡大をしてご覧ください。

http://maps.google.co.jp/maps?q=%E5%B1%B1%E8%A5%BF%E7%9C%81%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%B9%BE%E6%9D%91&hl=ja&ie=UTF8&ll=38.134557,
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道草・UFO・ロマン・私が私である「奇跡」

2011-10-28 00:56:03 | よしなしごと
 郵便局と銀行へ行きました。
 もちろん帰りは道草です。

          

 鶏頭は夏のものと思っていましたがまだまだ絢爛豪華に咲いていました。

 草っぱらに星を散りばめたよう花々。
 ヒメツルソバの花です。

       
 
 もっと近づいてみるとこんな感じです。
 (ハレーションを起こしていますね)

       

 なんでこれがソバじゃとお思いかもしれません。
 しかし同じタデ科で、開花前のソバの花に似ていなくもありません。

       
 
 この田にはUFOが着陸したに違いありません。
 私の家から100メートルぐらいのところです。
 きっと私に会いに来たのでしょう。
 でも、来なかったところをみると私の家がわからなかったのでしょうか。

 この広大な宇宙には、やはり人間のような生物が棲息する星があるというのもひとつのロマンかも知れませんが、私はそれにはくみしません。

 むしろ、この宇宙の誕生が奇跡であり、そこに地球という独特の環境を待った星ができたということが奇跡であり、その地球で生物が発生したということが奇跡であり、そして、その中から自ら動く動物というものが発生してきたことが奇跡であり、さらにはその動物の進化や変異の中から記号を操り、思考をし、脱=ダーウィン的な文化を築きあげる人間という種族が生み出されたということが奇跡であり、この幾重もの奇跡、その奇跡の連鎖に繋がるものとして自分があるというそのことのうちにこそ、壮大なロマンを感じているのです。

       

 そして、この奇跡の連鎖のまっただ中に私が生まれてきたこと、そしてやがて去ってゆくこと、これはまさに私一身が受け止めるべきロマンだと思っています。
 それに比べたら宇宙人なんて・・・(あ、宇宙人の方、これを読んでいたらごめんなさいネ)。

 まあ、いずれにしても年寄りの道草とはあまり関係のない話ですね。
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道草名人の誕生日

2011-10-26 01:07:17 | よしなしごと
 道草名人である。
 5分で済む用件に一時間を要する。
 あとの55分は道草である。
 だから叱られる。
 でも仕方ない。
 メインの用件より道草のほうが豊かな場合が多いのだから。
 考えてみれば私の人生は道草そのものだ。
 ここからの結論は明快である。
 もう少し認知症が進んだら、間違いなく徘徊老人になるということだ。

 いずれにしても誕生日にはふさわしくない日記かも知れない。

 私の生まれた年を起点に、今の年齢分を逆に反転すると、なんと江戸時代になる。
 
 以下は、昨日の道草の成果(?)
  
 途中で見つけたキノコ 食べるのはやめた      女郎蜘蛛 何たる自然の造形
  
        カラスウリ                  枇杷の花
   
       茗荷の花               途中で拾ってきたどんぐり
  


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ラビアンローズ(La Vie en rose)とはゆかないけれど・・・

2011-10-24 02:31:57 | よしなしごと
 散歩道で秋咲きの大輪のバラを見つけた。
 春から春の終わりに咲くバラは絢爛豪華であでやかである。
 そしてどこか饒舌であるともいえる。
 その点、秋のバラは密やかだが貫禄があるように思う。
 別の見方をすれば、春のバラよりもその一輪一輪に自己主張があるのかも知れない。

       
 
 しばらく観察をしていたら一センチにも満たない小さな蜂が花芯目指してまっしぐらにやってきた。そのままそこでお食事を決めこんでいて、カメラを(といっても携帯だが)15センチぐらいに近づけても逃げようとはしない。

       

 「バラ色の天国」という言葉もあれば、「地獄への道はバラの花によって敷きつめられている」という言葉もある。
 「綺麗なバラには棘がある」はもはや当たり前で、綺麗でなくても棘があり、なかにはバラでもないのに棘があるものもある。

       

 そうした棘にいくども刺されて齢を重ねてきた。
 しかし、それらの棘は私の人生を彩ってきた貴重な刺激ともいえる。
 まだまだこれからもそうした棘に刺されたいと思う。
 それらの棘の痛みを感じなくなるまでは。

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【読書の窓】『丸山真男の時代』おぼえがき

2011-10-22 02:33:28 | 現代思想
 本書とよく似た書名の『丸山眞男とその時代 』(福田 歓一 2000年 岩波ブックレット)という本があるがそれとは違う。
 こちらの方は『丸山真男の時代』(竹内 洋 2005年 中公新書)である。
 この書名の差は微妙であるが、後者は丸山真男という現象を通じて見た「時代」の方にウエイトがかかっているといっていいかも知れない。

 正直言って、私は丸山真男とあまりちゃんと向かい合ったことはない。いわゆる「丸山世代」というのは私よりもさらに年長の人々といってよい。そんな私でももちろん、彼が雑誌『世界』などを舞台としたいわゆる戦後知識人であり、岩波文化人であることは知っていてそれらの論文を読んだことはある。

 さてこの書であるが、丸山真男の思想を手っ取り早く吸収しようとするむきにはいささか当てが外れるであろう。既に少し触れたように、この書は丸山真男という現象、出来事がなんであったかを解き明かすことにウエイトをおいているからである。
 ちなみに著者はその対象である丸山と政治学やその思想を追求する分野で共通するものはなく、社会学者である。しかし、そのことによってこの書は、丸山という鏡に映し出された事象をその「表裏」から考察し、もって丸山を逆照射し、従来の丸山像を越えたそれを紡ぎだす。
 そして同時に、丸山に代表されるいわゆる知識人の功罪を、とりわけその後期にいたっての凋落を明らかにする。

            

 先に鏡の表裏と書いたが、その表面が戦後のオピニオン・リーダーの丸山だとしたら、裏面は若き学徒の時代(戦前)に吹き荒れた蓑田胸喜らによるファナスティックな帝大追放=インテリ追放の運動への、トラウマのようなものに捉われた丸山ともいえる。
 実際のところ、皇国史観などにもとるとして蓑田らの運動により、大学を追放された研究者はかなりの数にのぼる。

 それが途絶えた、敗戦の日八月一五日をもって、丸山に日本の「革命」といわしめた要因であったとも思われる。実際のところ、この日を境に日本の言論界は様々なタブーから解き放たれたのであり、知識人が大衆に語りかける自由を得たのであった。

 もう一つの鏡の表裏は、そうして解放された丸山ら知識人の活動の高揚と凋落の歴史である。
 そうした知識人たちは、例えばいわゆる六〇年安保で大きな力を発揮する。六〇年安保の高揚は、日本共産党の一元支配を離脱した全学連の街頭闘争と丸山たち知識人の連携によってもたらされたといっても過言ではない。

 しかし、六〇年安保以降のいわゆる高度成長期においては、丸山たち知識人の提言を受け止める層がもはや劇的に変化していた。
 運動そのものは武装闘争も含めて先鋭化する一方、かたや経済成長の成果を消費者として謳歌する「ノンポリ」という膨大な大衆を生み出しつつあった。
 そこではもはや知識人の出幕はなかったといってよい。
 丸山は当時の先鋭化した学生によって吊し上げに遭い、研究室を襲撃されたりもしている。

 ただし、例外的に鶴見俊輔などのべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)が無党派層の受け皿として機能したことは特記すべきであろう。ただしこれとて、呼びかけ人の知識人による説得への呼応いう一面的な運動ではなかったように思う。

 この間の事情をこの書は社会学者らしく実証的に明らかにする。この書に挿入された多くの統計やグラフは、事態がどのようであったかの状況を具体的に示し、また、知識人の自負にもかかわらず事態がそれを裏切りつつあった過程をも示す。
 それらを含めてこの書が、丸山という鏡に写った表裏の事情を指し示しているという所以である。

       

 ところで、丸山の残したものはこれでもって途切れてしまったのであろうか。そうは思わない。
 別の書『自由について 七つの問答』(鶴見俊輔などの丸山真男への聞きがたり 2005年 編集グループSURE)でも丸山が強調するように、いわゆるプロの政治家(出家した僧)に対して、それぞれがほかに仕事を持ちながらパートで政治に参加する「在家仏教的政治参加」がものをいう時代は興味深い。

 それは丸山流ではベ平連の継承なのだろうが、それらはネット社会を経由することにより、そうした範疇をも超えてジャスミン革命であったり、一高校生の呼びかけに呼応する脱=原発デモであったりするかたちで実現しつつある。
 既存の政党や労働組合が「動員」をかけるのではない、「在家」の市民たちがそれぞれの課題に呼応して集まる、そして、そうした政治行動が事態を変える、それは丸山の夢であったのかも知れない。

付言すれば本書の中身は結構濃い。丸山をめぐる戦前戦後の歴史描写はそれ自身がとても面白い。
 

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メディアが言わない当たり前のこと 私も釣られそうに・・・

2011-10-21 00:47:24 | 社会評論
 原子力安全委員会は20日、従来、原発から半径10キロに設定されてきた避難などの防護対策を求める範囲を半径30キロ圏に拡大するなどとした指針案を固めたようです。
 
           
 
 これは福島第1原発事故の実態からみて何を今更寝ぼけたことをというようなことではありますが、まあ、前進ではあるわけでしょう。
 しかし、それに伴う問題も大変なようです。
 ということは、その圏内の市町村は現行の44から137に増え、人口も6倍程度(数十万人から200万人ほど)に増えることとなるからです。
 それにより、例えば水戸市のようにその全域がそれに相当したり、離島の全域がその範囲内だったりするところもあるようです。

               
 
 そういう所では、病院や老人保護施設などをどうするか、学校をどうするか、日常の放射能の監視体制をどうするか、などの問題に直面し大変なようです。
 それにもまして、いざ危険な事態になった場合の住民の避難体制、避難経路、避難場所の確保などなどの大問題がほとんど解決不能のように立ち塞がっています。
 例えば、水戸市民全員に避難の指示を徹底し、予想される大渋滞を回避して避難経路を指示し、そのうえ、それらの人々の避難場所を確保することはまったく不可能ともいえますし、事実、それらの自治体の困惑ぶりも伝えられていました。

        
 
 このニュースを見ながら、ほんとうに大変だなぁと考えていたのですが、やがて、ある意味で私の考えはまったくの杞憂であることに気づきました。
 なぜなら、これらの問題はすべて「原発を今のままで維持したら」という前提の上に成り立っているのです。
 したがって、原発をなくせば200万人の人間が日々生活に脅かされ、逃げ惑う準備をする必要など全くなくなるのです。

 ようするにこのニュースは、原発を維持するとしたらこんな不可能事に耐えねばならないという事実を伝えていて、したがってそこからは原発はなくすべきだという結論がまったく素直に出てくるのですが、それをいわないところが原子力安全委員会であり、またそれを素直に伝えないところがマスメディアなのだといえます。

 

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【映画を観る】『百合子、ダスヴィダーニヤ』

2011-10-19 03:29:26 | 映画評論
 『百合子、ダスヴィダーニヤ』は沢部ひとみの『百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春』という書を浜野佐知が映画化したものである。
 この「百合子」は、かの宮本百合子がまだ宮本になる前の中條百合子のことで、最初の結婚相手(二度目の相手は宮本顕治)である荒木茂との葛藤と並行しながらも進む湯浅芳子との同性愛の物語である。
 映画は全体としてやや硬い印象があるが、大正ロマンから昭和のモダニズムの雰囲気はよく出ている。
 幾分曖昧な百合子(その曖昧さも無視出来ない要因なのだが)よりも、私としては湯浅芳子の方にシンパシーを覚える。
 映画はその二人の愛の成就と、そしてその破局への予兆を示して終わる。

             
 
 なお、「ダスヴィダーニヤ」はロシア語で「さようなら」を意味しているが、この「さようなら」は湯浅芳子とそれにシンパシーを持つ私からの百合子に対するものではないかと思ってしまう。しかし、それは短絡で、もっと深い愛の軋轢やそれに干渉してやまない時代や歴史そのものをも含んだものなのだろう。

 湯浅芳子についてのこの原作『百合子、ダスヴィダーニヤ 湯浅芳子の青春』は、著者・沢部ひとみの湯浅芳子本人への聞き取りによるもので、その読み聞かせに対して、当時老人ホームにいた湯浅が「ほんま、よう書けたなあ、まるで見てきたみたいやな」といったという。
 ほかに瀬戸内寂聴による『孤高の人 』(ちくま文庫)という湯浅芳子に関する伝記的な書もあるようだ(未読)。

             

 この映画を観ていると、日本の「プロレタリア運動」というものが、プロレタリアではなく、いささか頭でっかちな上流階級のエリートから発した感が拭えない。だからその運動は、「本物」の「労農階級」へのコンプレックスを常にもち、私の友人、山下智恵子さんが描く『幻の塔』のように、特高警察のスパイである大泉兼蔵を農民出身であるというだけで党幹部に登用し、熊沢光子という稀有な女性をその「ハウスキーパー」付けたりしたのだろうと思った。

 なお、百合子最初の夫・荒木茂は、この映画ではやや三枚目的に描かれているが(大杉 漣が熱演)、家父長制が当たり前の時代にあってはある程度開けていた男性ではなかったろうかと思う。百合子とどこかソリが合わなかったのは不幸であったというほかない。
 付言すれば、学者としては極めて有能で、日本の古代イラン学の先駆者的存在としてその遺構や資料集は「荒木文庫」として今なお東大に所蔵されているという(1932年百合子と離婚後8年で死去)。
 『風の如くに 荒木茂の生涯』(大野延胤・近代文芸社・1995年)という伝記的な書もあるようだ(未読)。

             
  
 ここまで書いてきて気づいたことがある。
 もちろんこれは私が思いつくままに書いてきた無責任な文章ではあるが、ここに固有名詞で出てくる人たちはほとんどすべて(一番身近な山下智恵子さんも含めて)何らかの形で歴史的・通時的に、そしてまた共時的につながりのある人たちだといえる。
 
 これはまた、いわく言いがたいことではあるまいか。
 客観的な歴史のなせる技ということではない。
 それを踏まえながら(翻弄されながら?)、それを記述し続けた人たちの営みのことである。

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【現代の魔法】消える五円玉、しかも42枚が・・・。

2011-10-18 01:41:48 | よしなしごと
 百円玉2個+五〇円玉1個(250円)=五円玉×50個(250円)

 小学校以来そのように心得ていました。
 しかし、歳は取るものですねぇ、この等式が成立しない異次元に遭遇してしまったのです。
 そこではその等式は以下のようにアレンジされます。

 百円玉2個+五〇円玉1個(250円)=五円玉×8個(40円)

 私は時々嘘を付くことがありますが、これは嘘ではありません。
 現実の体験なのです。

 ある事情で、五円玉が複数必要になりました。
 私はかつて自分の店を持っていましたので、つり銭の両替はほとんど日課で銀行へ行っていました。
 しかしこの間、事情は変わったようなのです。
 ATMの端末で一万円札を千円札に替えるのは時々していますが、硬貨への両替はできないようです。
 そこでカウンターへいって250円を出し、「すみません、これを五円玉に替えてください」と頼みました。

       

 かつてならそれで、五円玉が50個包装された筒っぽが出て来たものでした。
 ところがカウンターのおねえさんは少しためらうようにして、「あのう、手数料がかかりますがいいでしょうか」とおっしゃいます。
 へえ、そんな手数料が要るようになったのだと思いながら相手は五円玉、大したことはないだろうと思って、「で、いくらですか」と尋ねたのです。

 するとおねえさん、少しいいにくそうに「210円です」とおっしゃったのです。
 え、え、え???
 すると、250円を出して、返って来るのは五円玉8個、つまり40円ということ?さすが商業高校出身の私にはその暗算がすぐにできたのでした(誰でもできるっちゅうに)。
 ようするに、百円玉2個+五〇円玉1個(250円)=五円玉×8個(40円)という等式がここでは成立しているのです。

 いつの間にこんな世の中になってしまったのだろう(大げさだって)と思いながら私は「それなら結構です」と答えたのでした。
 こうなったら、道を行くときも下を向いて歩み、執念で5円玉をン十枚拾ってやるぞと固く決心をしたのでした。

 カウンターを離れようとする私に、そのおねえさんはなおも声をかけます。
 「どうしても50枚が必要ですか」との質問です。
 「別に50枚揃わなくとも、それに近い枚数なら・・・」と私。
 するとおねえさん曰く、「49枚まででしたら手数料は要りません」。
 またしても、え、え、え?です。

 でも、その言葉は私には地獄に仏でした。明日から自販機の周りや人様が小銭を落としそうなところをチェックして歩く生活を覚悟していたのですから。
 それでは、というので私は小銭入れの中にあった245円を出し、これで五円玉49枚にしてくださいと叫びました。

       

 す、するとおねえさんは、私の出した五円玉をその白魚のような指でツーと返してよこし言ったのです。
 「これはもう五円玉ですから必要ありませんね」
 あっ、あっ、あっ、そうなんだ、と思いながら私は年甲斐もなく少し耳が赤くなったように思いました。
 49枚に意地っ張りのようにこだわって五円玉の両替に五円玉を出した私、なんか可愛いではありませんか。
 え?可愛くなんぞない、単なるアホですか?まあ、そうでしょうね。
 
 やがて、おねえさんはジャラジャラと五円玉をトレイに乗せて現れました。
 そしてそれを袋に移しながら、「ごめんなさいね、細かいことを申し上げて。でもこれ、そういう決まりなんで」といってくれました。
 「手数料は210円です」といった時のおねえさんはまさに夜叉のように思えたのですが、最後には優しい如菩薩に変じていたのでした。

 ところで、今の小売商の方々は両替の度に210円の手数料を払っていらっしゃるのでしょうか。それとも私のように49枚の両替にとどめているのでしょうか。
 50枚で筒っぽになったのは運搬も容易ですが、49枚がジャラジャラというのはなんだかうっとうしいですね。

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秋たけなわをつまみ食い

2011-10-17 01:48:27 | 写真とおしゃべり
       
                もう実はちゃんととられていた

 明日(もう今日になってしまったが)、大切な集まりがあるので、それに備えて自転車を駆って床屋へ出かけた。
 その床屋では通算20回をクリヤーしたとかで、次回は無料のチケットをくれた。
 ルンルン気分で(何たる単純さ!)帰途についたが真っ直ぐ帰るような玉ではない。
 あちこちふらふらと自然が残っていそうな道へ逸れながら、深まる秋の気配をつまみ食いしながら帰ってきた。
 家へ着くと、私の部屋から見える田で稲刈りが始まっていた。


  
         柿の葉の紅葉                中央の黒いのはカマキリの卵

  
        廃屋を包む植物の花               その側面にある柿の木

  
          稲刈り風景               獲れた米をバス通り脇に積み上げて
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小さきものたちへのすこし観念的なオマージュ

2011-10-12 00:35:28 | ポエムのようなもの
 誕生したばかりの小さなものたちにこそ可能性の開けを見出すことができます。

 一方、死こそ人間にとって不可避で必然だから、その死に「先駆けて」おのれの「本来性」を生きよなどと説く人もいます。
 確かに死は必ずやって来るでしょう。
 しかし、その死が、いつ、どこで、どのようにやって来るのかは不確定でむしろ偶然に属します。

 ですからそんな不確定な死に先駆けて「本来性」を生きよということが、死の必然への服従として、かえって「不」自由であるかも知れないのです。
 むしろ、「生まれる」こと、「生成」することへの「複数」の可能性、そしてそれがはらむ「偶然性」のなかにこそ生きるという意味が、そしてその「自由」の根拠があるのではないでしょうか。

       
          昨年は花の付きが悪かった小菊 今年は確実に蕾が

 私は、私がいなかったこの世界へと生まれ来て、そしてやがてそこを去ってゆくのですが、まずもってこの世へと生まれたこと、そしてそこで第二、第三の誕生を繰り返すなかで、この世界を舞台として何ものかとなってゆくことが生きるということの意味だと思うのです。

 「なるほど、人間は死ななければならない。だが、人間が生まれてきたのは死ぬためにではない。その逆である。つまり、新しい何かを始めるためである」

 これは「死に先駆けること」を説いた人の教え子でもあった女性の思想家の言葉です。
 師の言葉とは視点がまるで逆だといえます。
 私はこの女性思想家の言葉に深く共感します。

       
        もう水仙の芽が そんな時期なのかそれとも気候異変のせい?

 小さきものたちへ心奪われるのはそのせいでしょうか。
 このものたちがどのような結果を私たちにもたらすのか、その大筋はともかく、いつどのようにしてどうなるのかのディティールは未定です。
 それは決して昨年のそれをそのままなぞるわけではありません。
 だから私たちは、この小さきものたちがはらむ偶然のドラマを、期待をもって見つめることができるのです。

 これは安易なロマンティシズムとは違うかたちで「無常」を受け止めることではないかとも思います。
 無常は死にゆくという必然性のなかにではなく、生きるという出来事の偶然性のうちにこそあるのだと思います。
 それはまた、自由と無が隣接しているということを意味しています。
 
 私の生は、様々な必然の罠を潜り抜け、自分の誕生をどのように彩るかの創作でもあります。
 だからこそ私の生には、ある種の責任が常につきまとうのです。

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