六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

生前退位について思うこと

2016-07-15 15:08:26 | インポート
                  

 過日、自動車免許取得に関する高齢者講習にいった折、天皇の免許はどうなっているのかを調べてここに書いたその当日に、生前退位の話が出てきて驚いた。別に、私が書いたものを読んでそう思ったわけではなく、すでに数年前から検討していたようだ。
 昨年12月の誕生日を迎えた談話にも、「年齢を意識すること」、「それによって式典の手順など間違えることがあること」などを率直に語っている。
 
 宮内庁やら政府筋が何やらごちゃごちゃいっているが、常識で考えたら、直ちにそれを実現する方向で考えるべきだろう。
 昨年の天皇のいわゆる公務を見ると、270回に及び、そのうち、国内外の出張は75回にもなるという。今時、82歳になってこんなに働いているひとはいない。私も含めて、60歳や65歳でリタイヤーしているのが多く(年金のみでは食えないで働いている人もいるではあろうが)、多少忙しがっていても仕事が趣味だったりしている人もいて、公務として押し付けられたものではない。

 摂政でもなんでもいいから、とにかく公務から開放するのが先決だろう。法的な措置として、皇室典範を改正しなければならないそうだが、どうせいろいろ怪しげな「見識者」がごちゃごちゃいうのだろうから、何年もかかりそうだ。そんなものは事後的にやればいことだ。

 後継者の皇太子について聞くに堪えない悪口雑言を言っている連中もいる。例えば、デヴィとかいう女性。なんかの拍子にそのブログを覗いて驚いた。皇太子一家の悪口に専念しているようで、よくもまあ、あんなにあることないことを並べてることができるものだ。そして、それに同調している連中もかなりいるのも驚きである。その質は、ヘイトスピーチとほとんど変わりない。
 皇太子一家を擁護するかどうかはともかく(これだけ書かれると、一つの家族として弁護してやりたくもなる)、こうした連中にはある種の危険性を感じる。

 彼らは、概して皇室に対して過剰な期待をもっている。たとえば、それはリーダーシップのようなものであったり、古風な家族関係などの価値観への期待であったりするのだが、いずれも余分なことである。
 それらは、いってみれば憲法に定める象徴の域を超えた期待であり、彼らの天皇解釋は明らかに政治的な偏向を示している。ようするに、自分たちの価値観のために天皇を利用しようとするものといっていい。

 ついでながら、天皇家を平和の守り手であるかのようにいう向きも問題があるように思う。確かにそう感じられる点もあるが、それは現政権が憲法を捻じ曲げてまで著しく平和主義を脅かしていることから、本来、ニュートラルな天皇家の言動がそうみえるのであって、平和を守るのは天皇家ではなく、私たちなのだ。

 何はともあれ、同じ老人としての私の感想は、早く楽にしてやるべきだということだ。私よりも5歳も上なのだから。
 天皇であれ誰であれ、老いたるひとを縛り付け徹底的に利用しようとすることは許されるものではない。



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メンデルスゾーンをめぐる歴史について

2014-03-05 01:18:32 | インポート
 前回の続きで、とても大回りをしましたが、やっとメンデルスゾーンにたどり着きました。
 彼は、銀行家として著名なユダヤ人の家系に属していました。この一家は、西洋社会に馴染むべく、改宗するなどをして同化をはかったのですが、それでも差別の渦から抜け出ることができませんでした(この辺りは前回述べたアーレントの指摘が正鵠を射ていると思います)。

           
           13歳のメンデルスゾーン、女の子みたいで可愛い

 音楽家のフェリックス・メンデルスゾーンも生前においてすでに差別的な扱いを受けてきたようです。
 ワーグナーは当初は匿名で(後には実名で)「音楽におけるユダヤ主義」という文章を音楽雑誌に載せ、以下のようにメンデルスゾーンを批判しているようです(私自身は未読)。
 いわく、「ユダヤ人は創造するのではなく模倣しかしない」「彼らの容貌はとうてい美術の対象にはなりえない代物だ」「ユダヤ人が歌うと、彼らの喋り方の嫌なところ がそのまま歌の中にあらわれて、即刻、退散したくなる」「メンデルスゾーンはヨアヒムだのダヴィッドだのをつれてきて、ライプツィヒをユダヤ音楽の町にし てしまった」「メンデルスゾーンは才能や教養はあったが、人に感動を与える音楽は作れなかった」などなど(ドイツ文学、西洋文化史専攻 中野京子氏のブログより)。

 ナチスドイツのもとにあっては1936年以降、メンデルスゾーンの曲はすべて演奏禁止になりました。「メンデルスゾーンの名前は教科書から消され、ゲヴァントハウスの前に建っていた彼の銅像は破壊され、彼の作品の出版は禁止されました」(この項も中野京子氏の情報による)。一方、ワーグナーの方はドイツを代表する音楽家として顕彰され、この時期、ワーグナーの本拠地バイロイトは大いに賑わったようです。

           
            聖トーマス教会とメンデルスゾーンの銅像
 
 それでは、ナチスの支配が終わった戦後、メンデルスゾーンの音楽はドイツにおいて復活したのかというとそうばかりもいえないようなのです。

 メンデルスゾーンがもっとも活躍した都市はライプツィヒです。ここの、ゲヴァントハウス管弦楽団は1743年、王侯貴族や教会とは独立し、世界に先駆けて創立された市民階級のオーケストラでした。このオケの質的な向上に貢献し、合わせて、ベートーヴェン・シューベルト・メンデルスゾーン・シューマン・ブラームス・ブルックナーをはじめ、多くの作曲家の作品を世に紹介してきたのがメンデルスゾーンが楽長時代のことなのです。

 したがって、このライプツィヒにおいてこそメンデルスゾーンは名誉回復を果たし、ふたたび陽の目を見るべきでしたが、そうすんなりとことは運びませんでした。「イージーリスニング的な軽薄な音楽」という一度貼られたレッテルを浄化するにはある程度時間がかかったのと、上に述べた彼の主たる活躍の場、ライプツィヒが不幸にして東ドイツに属することになったからです。

              
                 メンデルスゾーンの像


 もちろん、ナチス時代のような抑圧はありませんでしたが、それでもなお、メンデルスゾーンの出自が大ブルジョアとあって、「労働者階級の国」にそぐわないという抑制が働いたようなのです。上に述べたナチスの時代に撤去された彼の銅像が、復元されたのは、なんと、つい数年前の2008年だといいます。
 なお、この銅像の場所は、彼が発掘したバッハの最高傑作「マタイ受難曲」が作曲された聖トーマス教会の前だと言われています(Googleの地図と航空写真でそれらしいものを見つけました)。
 
 なお、バッハといえば、上記の「マタイ受難曲」のほか、「ゴルトベルク変奏曲」、「音楽の捧げもの」などもこの地で作曲し、1850年に亡くなるまで、この聖トーマス教会の楽長を務め、その墓もこの教会内にあります。またその銅像も教会の敷地内にあるようです。
 あ、この教会についてはもうひとつエピソードがあって、1789年、この地を訪れたモーツァルトがバッハが愛用していたオルガンで即興演奏を披露したという記録があります。

           
                  こちらはバッハの像
 
 話が逸れました。 
 メンデルスゾーンは「メンコン」の名で親しまれている「バイオリン協奏曲」や、広くは「結婚行進曲」でも知られていますが(世に広く知られている結婚行進曲が、このメンデルスゾーンのものとワーグナーのものだというのは皮肉ですね)、室内楽やピアノ曲にもいいものがたくさんあります。
 いずれにしても、たぐいまれなメロディメーカーであることは間違いないように思います。

 メンデルスゾーンの抑圧の歴史をみてきましたが、総じていって、音楽は音楽の範疇で語られるべきで、余分な尾ひれをつけての話がいかに変なところへ行き着くかは、先ごろの佐村河内守氏を巡る騒動がよく示しています。

           
               ゲヴァントハウスは今年来日         
 
 ということで、今日聴いたCDは以下のものです。

今日のCD

作曲者 メンデルスゾーン
 曲1:ピアノ協奏曲第一番 ト短調 Op.25
 曲2:ピアノ協奏曲第二番 ニ短調 Op.40

 曲3:華麗なカプリッチョ ロ短調 Op.22
 曲4:華麗なロンド   変ホ長調 Op.29
  
いずれも 
  ・ピアノ ベンジャミン・フリス
  ・スロヴァキア国立コッシェ・フィルハーモニー管弦楽団
  ・指揮者 ロベルト・スタンコフスキー
   
曲1 第一楽章6分ほどのところにベートーヴェンの「月光」のクライマックスに似たメロディが出てきます。また、7分ほどのところにベートーヴェン「レオノーレ第三番」8分ほどのところとよく似たファンファレーが出てきますが、このメロディはヨーロッパにおいてはけっこう普遍的だったようで、ハイドンの交響曲第100番「軍隊」の第二楽章にも似たものが出てきます。




上記の記事に対し、当ブログの熱烈な読者、「九条護。」さんから、マタイ受難曲の演奏などについて事実誤認があるのではとのご指摘があり、あらためて確認しましたところ、ご指摘のように初演と復活上演の混乱がありましたので、以下のように整理しなおしました。

   ・バッハによる初演 1727年4月11日 聖トーマス教会にて
   ・メンデルスゾーンによる復活上演 1829年3月11日 ベルリン・ジングアカデミーにて


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田母神票の年代分布と「戦後レジーム」について

2014-02-19 02:36:55 | インポート
 もはやいささか旧聞に属するのですが、都知事選での田母神陣営の票の伸びが予想以上で気になったので、その投票者の年代別分布を調べてみました。
 若年層に支持者が多いとは聞いていましたが、実際に数字に当たるとまさにその通りで、他の有力候補者との違いがくっきり見えてきますし、それ以上に見えてくるものもあるようです。

           

 上位4人の候補の年代別投票比率をみてみましょう。
 それぞれ、氏名 20代 30代 40代とその合計 そしてそれ以上年代の比率です。

  舛添氏    3.5% 10.9%  15.4% =29.8%   70.2%
  宇都宮氏   3.8% 13.5% 16.1%  =33.4%   66.6%
  細川氏    2.4% 13.0% 15.5%  =30.9%   69.1%
  田母神氏   10.5% 20.7% 27.5%  =58.7%   41.3%

 その差異は歴然としていますね。田母神氏が20代から得た得票比率は他の候補者の3倍以上になります。
 そして30代、40代も他の候補者のダブルスコアに近い比率で、結果として20、30、40代からの得票についていえば、他の候補が30%近くなのに対し、田母神氏は実に60%近くを占めています。

 舛添、宇都宮、細川の各氏がその保革や立ち位置の違いにもかかわらず共通した世代的な支持分布をもっているのに対し、田母神氏が著しく異なるということなのですが、ここにひとつの日本戦後史の亀裂のようなものがあるように思えるのです。
 その亀裂とは何でしょうか。

 安倍首相はその目指すところとして、よく、「戦後レジームからの脱却」を強調します。そしてこの「戦後レジーム」とは、現行憲法を枠組みとした主権在民、平和主義に基づく行政、外交、教育などなどを指すことは明らかで、したがって安倍氏も、「憲法改正」をもって「戦後レジームからの脱却」のひとつの目安としています。
 突然、安倍氏を引き合いに出したのは、実はこの「戦後レジームからの脱却」は氏の主観的な努力目標であると同時に、すでに始まりつつある客観的な出来事ではないかと思ったからです。

 私やそれより少し上の人たち、逆に少し下の団塊の世代を含んだ年齢層を仮に戦後第一次世代としましょう。ようするに、現行憲法が新たなルールとして確定した時代に自己形成をしてきた人たちです。政治的出来事としては60年安保や70年安保を担った世代です。ただし、ここでいおうとするのは、当時の左翼とか、安保反対を叫んだ人とかというのみではなく、安保改定に賛成した人や当時から憲法改正に傾いていた人たちをも含んだこれら世代全体のことです。

           

 この人たちには、保革さまざまな違いはあっても、もっと大きな範囲での社会的合意(コンセンサス)のうちにあったように思うのです。例えば戦争に対する忌避の感度の問題、あるいは、他者に対するある程度ヒューマンな眼差し(というか人権上の配慮)などがあったように思うのです。後者については異論もあるでしょうからいい添えますが、「他者への思いやり」とか「差異の承認」とかは現在のほうが言葉としてはいわれる機会が多いかもしれません。しかしそれらは、自分の仲間内での「絆」にすぎなく、その同じ口が仲間以外に対しては「死ね」とか「殺せ」を言い立てることがあるのです。
 したがって、最近のように「みんな違っていいんだよ」という社会の成り立ちとしては当たり前のことが、なにか特別の発見であるかのようにあえて言われなければならないことこそが異常だともいえるのです。

 いいたいことは、戦後一次世代にあったおおまかなコンセンサスが、その後の過程のなかで成立しなくなってきたのではということです。その後の過程というのは、戦後の第二次世代が自己形成をした1980年から90年、そしてそれ以降についてです。
 1980年代、日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と自他共に誇るほどの経済成長を遂げます。日本の資本がアメリカの企業を買収したり、不動産を買い取ったりし、アメリカでは貿易摩擦を始めとする反日運動すらが起こったのもこの頃です。
 
 世界情勢も大きく変わりました。社会主義圏の崩壊です。
 いわゆる冷戦体制もまた、保革両陣営ともに抱いていた戦後レジームの背景でした。
 それにつれて、国内のいわゆる55年体制=自・社を両極としたせめぎあいという、これまた保革ともに前提としていたレジームが崩壊します。
 この時期、私の記憶にあるのは、東大、京大でともに政党支持率の一位が自民党になったというニュースでした。

           

 繰り返しますが、戦後の第二次世代というのはこうしたなかで自己形成をしてきた人たちです。
 ですから、そこで形成されたものは、第一次世代が漠然とではあっても保革ともにもっていたある種のコンセンサスとは異なるものではないかと思うのです。あるいはそれを、極めてドライな新自由主義的世界観の増進といってもいいかもしれません。その意味では、最近の自民党そのものがもはやかつての「保守政党」ではないともいえるように思います。

 安倍氏が憲法改正でもってひとつの目安としようという「戦後レジームからの脱却」は、現実に着々と進行しつつあるのではというのがこの論考の出発点でした。そして、そうした新しいレジームが行き着いた先のひとつが田母神氏の得票とその年代別得票率の著しい特徴ではないでしょうか。
 
 ところで、「戦後レジームからの脱却」というのは安倍氏(や田母神氏)の背負ったイデオロギーや展望はともかく、すでにみたように、戦後第二次世代にとってはもはやそうした「戦後レジーム」そのものが無効になっているとしたら、私のような戦後第一次世代など、「戦後レジーム」に一定の価値を見出してきた人たちはそれにどう対応すべきなのでしょうか。
 もちろん私がそれに対する回答を持ち合わせているわけではないのですが、安倍氏などのいう「戦後レジームからの脱却」が彼らのこれからの課題というより、すでに着々と進行しつつある事態を踏まえた制度的な完成(その頂点としての改憲)を目指すものであるとしたら、その方向に危険性を感じる人たちはやはり新たな布陣を迫られているのではないでしょうか。

 思えば、民主党政権の成立とその崩壊は、すでに内実は壊れてしまっていた戦後レジームの最後の徒花だったのかもしれません。そして、その政権が瓦解して以来、そうした見せ掛けのレジームすら残る余地がなくなり、そのポスト・レジームがその全貌を見せ始めたのだといえます。 

           

 昨年末、私などの感覚からいえば完全な右翼団体である「勝兵塾」というところの月例会の記録を読みました。例の田母神氏を始め「真の近現代史観」という論文(いわゆる歴史修正主義です)を書いている慶応大学の教授やその教え子と思しき慶応の女学生などが講師として威勢のいい花火を揚げているのですが、その塾長にして最高顧問の元谷外志雄氏の締めの挨拶が象徴的でした。
 
 「左翼は戦後68年かけて様々なところに食い込んで、いつの間にかこういう国になった。5年前に田母神論文騒動がなければ、日本はどうなっていたかと感じ る。日本は良い国だったという論文を書いたら政府見解に反するとして航空幕僚長を解任されるなどということは、世界中を見渡しても今の日本以外ではあり得 ないことだ。世界78カ国を訪れその国の有力者とディベートをすれば、日本は今も昔も素晴らしいと賞賛される。それが日本の中にいると日本が悪い国だった と思ってしまう。本当のことを知れば保守になる。私は右も左も関係なく、『本当はどうなのか』を求めていく会として『勝兵塾』を開催している。田母神論文 をきっかけに日本は覚醒した。教育やメディアの改革も大事であるが、左翼が68年かけて今の日本を創ってきたのだから、これを変えていくのには時間がかか るだろう。だから『Apple Town』や勝兵塾、懸賞論文、夕刊フジの連載などと通じてより多くの人に広げていくことで大きな流れを起こしていきたいと考えている。ある程度の線を超 えると一気に加速していくだろう。この5年間でも世の中が大きく変わったと感じている。

 ここには、その賛否はともかく、事実が含まれているように思います。
 当初は、「トンデモ文書」だと思われた田母神論文が次第にその波紋を広げ、結果として都知事選であれほどの票数を、しかも、冒頭に述べたような若い年齢層を中心に獲得したということにそれは如実に示されています。
 「トンデモ文書」がそれなりの地位を得、かつてなら泡沫であった候補があれだけの票を獲得するという事実は、政治的な平衡点も大きく右へと移りつつあることを示しています。だから、一昔前なら極右に近い元谷氏も上に引用したもののなかで「私は右も左も関係なく」としれっとしていえるのです。
 そうした右寄りのシフトチェンジは、政権党の自民党がもはや「保守政党」ですらないこと、労働組合の集合体である「連合」が完全に支配機構の一端であることを舛添支持で改めて明らかにしたこと、などなどにもみられます。

           

 こうした状況に対し、「左翼」やそれへの抵抗を主張する人たちは相変わらず「正義」や「真理」を主張し、政治的に敗れてもそれを主張し得たことに自己満足を覚えているかのようです。しかも、そうした空疎な「正義」や「真理」がまさに戦後レジームの病巣として受け止められていることにはほとんど無自覚です。

 ネット選挙の時代だといわれています。しかし、それをもっとも有効に活用したのが田母神陣営でした。彼らはまさに蜘蛛の巣のネットのごとくその支持者をつなぎ組織してゆきました。田母神陣営がマスメディアの予測や世論調査を上回って票を重ねたのはそうしたせいだと思います。

 何がいいたいかというと、「戦後レジーム」の解体はすでにして着々と進行しつつあるということです。
 それに抵抗する人たちは、安倍氏のその提言を虚妄なものだとして冷笑でもって扱うのですが、上にみたようにそれらは現実に進行しつつある事態なのです。

 かといって私は、「戦後レジーム」を改めて掲げろというわけではありません。むしろ、それからの脱却を安倍氏や田母神氏とは違ったベクトルで考えるべきだろうと思うのです。
 「戦後レジーム」を批判する安倍氏や田母神氏などは、それが桎梏となって日本の国威が発揚されなかったといいます。
 私は逆に、「戦後レジーム」への無批判的な安住こそが今日を招いたのだと思います。
 その意味では、加藤典洋氏などの認識と共通する部分があるかとも思います。

 もちろん私には、具体的な指針を示すことなどはできません。
 ただ、私が自己形成をしてきた「戦後」という時代を、そしてそこで生きた私自身を批判的に振り返りながら、安倍氏や田母神氏とは違ったイメージでそのレジームを葬る方策を考えるしかないと思っています。


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NHKはどこへ行こうとしているのか?その「公共性」を巡って。

2014-01-27 17:39:58 | インポート
 写真は内容とは関係ありません。

 NHKの新会長に 籾井勝人という何やらきな臭いひとが就任し、右寄りのイデオロギー満載の記者会見を行って物議をかもしている。かてて加えて、同様に、新しく経営委員に任命された百田尚樹氏が都知事選では田母神氏支持とあって、さながらネット右翼にも似た人びとがNHKを占拠したかのようである。
 かねてより、NHKの支配を狙っていた安倍首相の念願がかなったといっていいかもしれない。

           

 それに応えて籾井勝人新会長は、「政府が右というものを左とはいえない」と早速エールを送っているから、かつて大本営発表をそのまま流していたような体制の下地が整ったわけだ。ようするに、NHKの「政府広報機関化」といえるかもしれない。
 だとしたら、NHKはもはや視聴料をとってはいけない。どこの地方自治体でも、広報誌などを住民に有料で売りつけたりはしない。政府の広報機関に徹するのなら、まさに国営放送として国が運営し、視聴者に経費を分担させることは許されないだろう。

           

 籾井新会長の危険性は、NHKを政府の広報部門にし、あまつさえ、自らの信仰するイデオロギーを押し付けようとする点にもあるが、そのもっとも危険な点は「公共性」という言葉についての徹頭徹尾の無理解にある。

 いっておくが、「公共性」ということは「中立性」ということではない。「中立性」ということであれば、この籾井というひともその会見の中で一応は語っているし、自分では本当にそう思っているのであろう。左右いずれのイデオローグであれ、自分が偏向しているなどとは思ってはいないはずだ。まさに自分こそが真性の中立だと思っているし、それがまたイデオロギーというものの特質でもある。

           

 では公共性とはどういうことか。上に述べた「不偏不党、中立性」という含意も多少はあるが、政治的見解やある種の利害関係を含む問題についていうならば、モノサシで測ったようにその中間点などを見出すことなどはできない。せいぜい極論を慎むといった消極的なものにとどまる。
 公共性とは、そうした中間点を求めるのではなく、それも含めてある特定の固定化した着地点そのものを示さないことである。ようするに、人びとの多様性、複数性に応じて開かれてあることこそが肝要なのである。

           

 したがって、籾井新会長の特定のイデオロギー(本人はそれを中立だと思っているが)への偏向それ自体もだが、むしろ、政府見解を柱とした一定の着地点へとその姿勢を固定しようとすることにこそ問題はある。そこにおいては、人びとの多様な見解、複数の利害などが、NHKの考える中立性(=政府見解)へと収斂されることによって無視や抑圧が生じることとなる。
 したがって問題は「中立性」ではなく、そうした多様性、複数性の存在が許容される「公共性」の維持にこそあるといわねばならない。

 極論すれば、新会長が極右であろうが極左であろうが構わない。その役職上、NHKの経営に関しての責任のみをまっとうすればいいのであって、報道や番組に関してはその着地点を示唆するようなことを一切せず、そのスタッフと視聴者の双方向の意見交換の中で生み出されるものに任せればいいのだと思う。そしてそれが公共性のあるべき姿だと思う。

           

 テレビなどの媒体は今、双方向の機能を備えつつあるが、それらは、クイズ番組などの回答など、ちまちまとしたところでしか用いられていない。多数の見解を持った人たちが参加し、番組そのものを制作するところまでゆかないと「双方向性」自体が視聴者支配の小道具になりかねない。

 上に述べたのは「公共性」への原則的な立場であり、それを踏まえながらも、現実に進行しつつある、安倍―籾井ラインによるNHK支配から目が離せないことはいうまでもない。 

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半径300メートルの紅葉とあの少年の日

2013-12-02 15:53:50 | インポート
   
    貸したCDに添えられていた紅葉         私の窓辺の桑

 今年の秋口、いきなり急性気管支炎を患い高熱を出して入院する破目になったので、いくぶん臆病になったせいか遠出をして紅葉を見に出かけることなく秋が終わってしまった。
 今年の紅葉は綺麗だったという評価を聞くとやや残念な気もする。

 

 そこでいくぶん遅いが、郊外に住む利点を活かし、半径300メートル以内で目にした紅葉を列挙してみることとする。
 場所は自宅と春に桜を楽しませてくれるところ(通称、マイお花見ロード)、そして近所の鎮守の森である。

 
 
 都市近郊だからどうしても遠望がない。やはり、山腹のダイナミックな紅葉、広範囲に展開される紅葉のランドスケープには叶わないが、それでも結構目を楽しませてくれる。

   

 あまりにものどかな小春日和の中で、紅葉を見上げながら歩いていると、不意に視界をよぎり、キキーッと鋭い警戒の鳴き声を上げて飛翔するヒヨドリに、なにか不安な思いを掻き立てられる。

      
 
 もう何十年も前、少年の日、ひとりで歩いていた折、ふとこうして不安を覚えたことがあったような気がする。
 それがいつどこで、何に起因するものであったのかは忘却の彼方だ。
 ひょっとして少年の日の終わりを告げるものであったのかもしれない。

 
 
 のどかな中にも少し揺れ動くものを抱きながら、かくて私の秋は終わろうとしている。
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まるで新しい恋でもはじめたかのように・・・

2013-08-28 18:02:26 | インポート
 とにかく気になってしかたがないのです。集中しなければならないことをしていても、それが頭に浮かぶともうダメです。それが一日に何度もなのです。そしてその都度、確認せざるをえないのです。
 家にいるときにもそうですから、外出中などは余計です。留守の間に何かが起こらなければと祈るような気になってしまうのです。

 問題は私の家の柾の枝にかけたキジバトの巣なのです。
 縄張り宣言とおぼしき雄の鳴き声が早朝から聞こえたのはどれほど前だったでしょうか。
 気付いたら私の二階の部屋の窓の下に新しい巣をかけていました。
 よく注意しないと、上からも下からもわかりにくいところです。
 巣は出来上がったのですが肝心のキジバトが来ません。
 今年は空振りかなと半ば諦めていました。

         

 それがです、真夏日が続くようになったこの8月の初めから、どうも抱卵が始まったようなのです。40℃近くになろうとする暑さのなか、身じろぎもせず巣にこもり続けています。
 卵を温めるというより、暑い日差しから守っているといったほうがいいかもしれません。
 ちょっと巣から離れた間に、木の葉越しに覗きこむようにしてみたら、白い卵が2個、ちゃんと鎮座していました。
 それが私の懸想の始まりでした。
 この炎天下、卵は無事に孵るでしょうか。

 そしてこの地区の猛暑日が十数日間続いた頃です。
 親鳥の下でなにやら動くものを見かけました。
 親鳥の姿勢も、前のようにベッタリと座り込むというのとは違うようです。
 どうやらヒナが誕生したようですがまだ詳細はわかりません。
 親鳥が立ち上がった時です。
 その動く小さなものが二つであることが確認できました。
 卵は二つとも無事孵化したのです。

         
                 苦労して捉えたヒナの写真

 孵化して2、3日後、ヒナたちの動きも次第にはっきりしてきたのですが、その日、岐阜には竜巻警報が出て、激しい雷雨も必至という状況になってきました。
 もう居ても立ってもいられません。
 「日照り続きで一雨ぐらいこないと植物が大変だよなぁ」といってたくせに、今度は、降るな、いや降ってもいいから激しくは降るなと祈るような、というよりまさに祈っていたのでした。

 実際のところ、竜巻警報は当たっていたようで、私のところから20キロほどのところで、幼稚園の屋根がひっぺがされるなど突風が吹き荒れ、数軒の家屋に甚大な被害をもたらしていたのでした。そして夜間、私のところでは雷鳴とともに結構激しい雨が振りました。
 神様、仏様、キリスト様に孔子様、アラーの神にシヴァの神です。
 親鳥よ、これに耐えて子らを守れよ。

 で夜が明けて雨も上がりました。
 無事でした。しかも雨に耐えて一回り逞しくなったのか、私の人差し指ぐらいしかない小さな頭が二つ、ピョコピョコ活発に動いているではありませんか。
 親鳥も含めて、お前たちよく頑張ったなと思わずねぎらいの言葉が口をついたのでした。

 ヒナが少し大きくなったせいか親鳥が巣を離れる時間が多くなりました。
 その間は、小さなぬいぐるみのようなヒナが寄り添うようにして眠っていたり、急に頭をもたげてあたりを見回したりする様子が木の葉越しに見えて可愛いのですが、今度はそれが心配なのです。
 このすぐ裏の田圃にはカラスがよく来ますし、それに、けっこう獰猛なヒヨドリもここへはやってくるのです。カラスの鳴き声を聞いたりするとすぐベランダに出ます。いざとなればカラスと一戦を交える覚悟です。
 70年前の幼少時、戦場に出て天皇のために一命を捧げると誓ったこの身、何でカラスごときが怖かろう、「来てみろニミッツ、マッカーサー」です。
 やがて親鳥が帰ってくるとホッとします。

         
           これは何年か前 ナンキンハゼをついばむキジバト

 昨日などは、昼ぐらいからずーっと親鳥が姿を見せません。
 けっこう陽射しが強いなか、ヒナたちは大丈夫でしょうか。
 カラスやヒヨドリが襲ってはこないでしょうか。
 この日が締め切りという仕事をしながらも、どうしても落ち着けません。
 とうとう、近くに親鳥が居ないか探しに出かけました。
 結局は見つからなかったのですが、もし見つかったとしても私は鳩語を解さないのですから、「ヒナたちが心配だからそろそろ巣へ戻ったらどうだ」と話すこともできません。
 たとえ、それを伝えることができても、相手から「私たちは自然の摂理に従って行動しているのです。ここには、あなたが干渉する余地はありません」といわれたら、返す言葉もないのです。

 結局、私ができたことは、ヒナたちがいる巣の下辺りに水を撒いてあまり暑くならないようにしてやることだけでした。
 親鳥が帰ってきたのは夕方の5時過ぎでした。
 ヒナたちは随分安心したようですが、もっと安心したのはこの私でした。
 というのは、これはひょっとしたら親鳥の育児放棄ではないかと疑っていたからです。
 疑ってごめん、だけどもうあんまり心配させるなよ。
 そして、ちゃんとヒナたちの巣立ちをともに見届けようぜ。
 (「あんたに、そんなこといわれる筋合いはない」キジバトの親)

 といった次第で私はもうメロメロなのです。
 過去、明らかにヒヨドリに突つかれて穴の空いてしまった卵、風雨で巣から落ち、弱り切っているのを見つけ慌てて巣に戻してやったけれど結局は育たず巣のなかでミイラになってしまったヒナ、それらを見ているだけに、今回はなんとかしてちゃんと巣立たせてやりたいのです。
 ネットで調べたところではヒナの巣立ちは孵化してから3週間ぐらいだそうですから、うちのヒナたちは9月10日前後には自分の翼で飛び立つはずなのです。
 それまで、私の気苦労は続きます。


  
     世の中にたえて仔鳩のなかりせば六の心はのどけからまし    在腹六平

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【なつのひのぼうけん】すうぱあへのみち

2013-08-20 15:37:48 | インポート
わたしはいまのところいきています
そればかりか もうすこしいきようとたくらんでいます
らくごの「じゅげむ」にしたがえば いきてゆくためには「くうねるところすむところ」がひつようです

いちおう「ところ」はかくほしていますが くうためにはくうものをてにいれなければなりません
じきゅうじそくはしていませんのでかいものにでかけます

むかしはさかなやさん やおやさん おとうふやさんなどなどがあったのですがもうそれらはみあたりません
ですから すうぱあという なんでもごちゃごちゃそろえているところへでかけます

         
              うちからまだ50めーとるほど

すこしあるかなければならないのですが うんどうをかねて えんてんかでもとほででかけます

あたまにはすうねんまえ ねっとでしりあったじょせいにあんないしてもらった「ありまつしぼりまつり」でかった しろとこんのありまつしぼりのぼうしをかぶります

ちゃんとしゃつをきて めんぱんをはきます
あしまわりは くつしたをはいてくつなどということはしません
これもすうねんまえにかった「せった」をすあしではきます
これがすずしくていいのです

        
            いぜん すうぱあだったところ

つっかけというてもあるのですが どうも あるていどのきょりのがいしゅつにつっかけはというこだわりがあるのです
それじゃぁせったならいいのかということですが そのほうがふぁっしょんせいがあるようにおもうのです

きょねんでしたか すれちがったおうべいけいのひとたちが「?」というひょうじょうをしていましたので 「じす いず じゃぱにーずさんだる」とせいとうな「きんぐだむいんぐりっしゅ」でおしえてやりました

        
             これではんぶんぐらいきたかな

さてみちのりですが いえをでると かたがわはじゅうたく かたがわはたんぼですこしいってうせつすると こんどはりょうがわがたんぼです
なつのひざしで むせかえるようなあおたのなかをゆきます
ひだりてに いぜんあったすうぱあのたてものがあるのですが これはいまは「すぽーつじむ」につかわれているようです
あたらしいすうぱあはそのばいのきょりがあります

とちゅうにちんじゅのもりがあってすずしそうなのですが たちよっているひまはありません
そこをすぎるとさいごのなんかんがあります
かなりこうつうりょうのはげしい ひろいとおりがあるのです
しかも しんごうもおうだんほどうもありません
それらはずいぶんとおくにしかないのです
ですからすきをみてわたらねばなりません
そのためになんぷんもまつこともあります
けっしていのちがけのぼうけんはしません

        
             とちゅうのちんじゅさま 

そしてやっとすうぱあにつきます
いつもまわるこーすはきまっています
やさいは 「のうきょうのやさいうりば」でげっとをしていますので ここではおもにどうぶつせいたんぱくしつなどをもとめます
さかなるいはあまりいいものがおいてありません
このへんのひとはあまりいいおさかなをたべないのでしょうか

おいてもうれない うれないからおかない という「まいなすのすぱいらる」がはたらいているようにおもいます
かえりは にしびにむかうことになります
にもつがありますからあしどりもおもくなります
そんなとき しょうがくせいなどとすれちがって「こんにちわ」とあいさつなどされると こころなしかあしどりがかるくなるのです

「ああしたてんきにな~れ」です
ただし あつさにはそろそろぴりおどをうってほしいものです




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やなぎ青める日 ツバメが銀座に飛ぶ日 (前編)

2013-06-28 02:13:23 | インポート
 部屋のすぐ下にある田んぼと休耕田に今日は多くの鳥たちがやってきた。カラス、スズメ、キジバトを始め、ムクドリ、セキレイ、ケリ、などなど。このへんにいっぱいいるヒヨドリはめったに平地に降りないので来ない。
 嬉しかったのは、昨年から姿を見せなかったツバメが、しかも複数羽、元気に旋回していたことである。ツバメが巣をかけやすい軒下がなくなったり、巣をかけても辺りが糞で汚れるからとたたき落としてしまうこともあるらしい。
 
 子供の頃住んでいた疎開先の母屋では、家の中にツバメが巣をかけていて、田舎のこととて昼間は入り口を開放してあるが、夕方や明け方にも出入りできるよう戸の上に十数センチの四角い穴が開けてあってツバメはそこを通って出入りしていた。ことほどさように、ツバメと人は共存していたのだ。
 ツバメを見ると思い出す歌がある。

  柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
  
 で始まる、敗戦の2年後、1947(昭和22)年に、サトウ・ハチロー作詞/古関裕而作曲、歌手は藤山一郎で売りだされた『夢淡き東京』という歌である。
 私は当時、小学3年生のよい子だった(今でもよい子です)。

        
                 写真は3月の柳

 この歌の冒頭にあるように、銀座と柳は縁が深そうである。
 1929(昭和4)年の『東京行進曲』(作詞西條八十、作曲中山晋平、唄佐藤千夜子)も、歌い出しは「昔恋しい銀座の柳」である。
 まだ、大正モダンの面影を濃厚に持つこの歌の詞は以下のようである。

  昔恋しい 銀座の柳
  仇な年増を 誰が知ろ
  ジャズで踊って
  リキュルで更けて
  明けりゃダンサーの 涙雨

  恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文書く 人もある
  ラッシュアワーに
  拾った薔薇を
  せめてあの娘の 思い出に

  ひろい東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄
  わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

  シネマ見ましょか
  お茶のみましょか
  いっそ小田急で
  逃げましょうか
  かわる新宿
  あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

 ついでながら、幼い頃にこの曲を聴いた折、「いっそ小田急で逃げましょうか」のくだりでいつも胸がときめいたものである。早熟だったのだろうか。

 ついで、そのものズバリの『銀座の柳』という歌があり(1937年)歌手が四家文子に変わっているのみで作詞作曲は同じである。この歌が、前者のアンサーソング的であるのは間奏部分に『東京行進曲』が用いられていることでも判る。
 こちらの歌詞は以下のようである。

  (一)植えてうれしい 銀座の柳
    江戸の名残りの うすみどり
    吹けよ春風 紅傘日傘
    今日もくるくる 人通り

  (二)巴里のマロニエ 銀座の柳
    西と東の 恋の宿
    誰を待つやら あの子の肩を
    撫でてやさしい 糸柳

    (東京行進曲の間奏)

  (三)恋はくれない 柳は緑
    染める都の 春模様
    銀座うれしや 柳が招く
    招く昭和の 人通り


 この歌は一見、『東京行進曲』の雰囲気を踏襲しているようだが、いささか違うように感じられる。
 わずか8年間で時代は変わり、日本が完全に戦時体制に突入した年であった。3月には、日本の傀儡国家満州帝国建国が宣言され、7月には盧溝橋事件を発端として中華民国と間に日中戦争が勃発し、そ戦線は中国各地に拡大していった。そしてその暮れには、いわゆる南京大虐殺が発生している。
 そのせいか、歌詞はもちろん、その曲の軽快さやリズム感でも『東京行進曲』からはかなり後退しているように聞こえる。

 いささか長くなった。次回は銀座と柳の歴史などにスポットを当てながら述べてみたい。

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水無月中旬日常茶飯事的身辺雑記

2013-06-18 01:21:12 | インポート
        

日曜日、名古屋へ出て中部フィルのコンサート。昨日、中山道の宿場町などを歩いて疲れているので、居眠りしないかが心配。とくに今回のプログラムはフラン スものが主体だから(演目は参考のために後述)、そんなに激しくはないだろう。指揮は、今年三月に大阪フィルの岐阜定期演奏会で聴いた秋山和慶氏。

        

考えてみれば今月になって初めての名古屋だ。ここ連日の暑さで若い娘さんたちはみなショートパンツかミニスカ。白い太ももが眩しい。老いたりといえども、自分が肉食系であることを改めて自覚。

            

さて、そのコンサートであるがとても良かった。お気に入りはラヴェルの狂詩曲『ツィガーヌ』。ヴァイオリンの長い独奏から始まりチャルダッシュ風のロマのスタイルがときに激 しく、ときに優雅に流れる。ソリストの島田真千子さんはヴァイオリンの豊かな音色を自在に引き出していた。秋山さんもまた、中部フィルの力量をあますところなく引き出して いたように思う。

         

ところでコンサートで珍しい人に出会った。いまから半世紀ほど前、私がサラリーマンだった折に同僚だった人だ。聞けば、中部フィルの支援会員で、私がチケットを買ったYさんともお住まいが近くで懇意だという。
 まさに縁は異なもので、終演後、一献傾ける場を持った。

 最初に出会ったのは半世紀前、お互い20台前半だが、私がサラリーマン社会から脱落して居酒屋をしている折にも利用してくれていたから、十数年ぶりということになる。これを機にまた再会することを約した。

            

息子たち夫妻が父の日にワインを送ってくれた。ニュージーランドVilla Maria ピノ・ノワール2011。いつか私が、赤の中でもピノ・ノワールが好きだといったのを覚えていてくれたものだと思う(と書いたら、嫁さんから正直に偶然だとのメッセ。たぶん、ワインの神様のお引き合わせだろう)。いずれにしても 感謝、感謝だ。昨日は外食だったので、今晩呑むことにしよう。

         

というわけで、いつもはフルボトルを3回ぐらいに分けて呑むのだが、今宵は半分を空けてしまって、かなり酩酊している。
 そのせいで、これを書きながら、読んでくれている人たちはみんないい人なのだと何の根拠もなく思ってしまっている。
 え?ほんとにい人たちなの?これはまた失礼しました。


 中部フィルハーモニー交響楽団
  第6回名古屋定期演奏会 ~フランス音楽への扉~
 
 ラヴェル:バレエ音楽『マ・メール・ロア』
  ただし、バレエ組曲『マ・メール・ロア』に変更 曲順などが微妙に違う

 ラヴェル:狂詩曲『ツィガーヌ』
      Vn 島田真千子

 ショーソン:詩曲 Op.25
       Vn 島田真千子

 ビゼー:交響曲ハ短調 ビゼー17歳の折の作品。いささか単調だが後の才能を思わせる。

  <アンコール> ビゼー:『アルルの女』第二組曲から「ファランドール」



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【なぞなぞ】これを言ったのは誰でしょう?

2013-05-31 11:05:52 | インポート
 あるところでこんな記録を見つけました。
 さて、これを言った人はだれでしょう?


         

 「近代の生んだ毒......。それはすなわち『国民国家』であり、『自民族中心主義』という意味に規定される『ナショナリズム』でした。この2つは、地図に黒々と、太い国境を引く思想でした。また時として、その国境を 外へ外へ、無理やりにでも広げていくのをよしとする考えでした。(中略) 他人(ひと)のことは言いますまい。日本人は一度、国民国家とナショナリズムという、強い酒をしたたかにあおった経験があります。皆さんこれからのアジア は、国民国家の枠、ナショナリズムの罠に絡め取られるようではいけません」


【回答】
 2006年5月26日、アジア各国の政府首脳や経済界リーダーを招いた国際交流会議「アジアの未来」に於いての現副総理兼財務大臣・A太郎さんの言葉です。
 評論は特にありません。

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