うちの玄関脇の桜桃がなる桜(佐藤錦ではない)が開花した。
例年なら、三月五日頃に開花をみて、一〇日ぐらいには満開になるのだが、どうも一週間ぐらい早いようだ。
開花してから二ヶ月ぐらい後、つまり5月一〇日ぐらいには実をつける。佐藤錦ほど大粒ではないが、完熟すると甘くて桜特有の香りを味わうことができる。
今年は花の付きも良さそうだから、豊作が期待できる。
実が色つき始める頃になると、ムクドリやヒヨドリがついばみにやってくる。それを防御するために、鳥よけ用のネットを張ったこともあるが、枝に絡んで厄介なのと、何よりも収穫がしにくい。
そこで最近は、要らなくなったCDを何枚もぶら下げることにしている。それでも、勇敢(?)なやつがやってきてついばむ。
腹立たしいのは、ああ、きれいで立派な実だなと採ってみたら、裏側が無残に食われているときだ。多少はくれてやるから、ちゃんと目立つように食え!
採れた実の多少は私のワインのつまみになったりするが、大部分は娘が務める学童保育のおやつに提供される。
水やりに気を使い、害虫を駆除し、鳥の襲撃を躱し、ブッシュに潜り込んで収穫するのも、全て、学童の子どもたちの喜ぶ顔を思い描くからである。
あと何年こんなことが続けられるだろうか。私亡き後にこの木を管理する人間は今のところいない。
そうすれば、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」状態になるであろう。そして私は、あの世から、「あるじなしとて春な忘れそ」とエールを送ることとなるだろう。
【お知らせ】明日から一週間、PCが入院することとなりました。ほとんどすべて、スマホと連動させてありますので、皆様からの発信を受信することができますが、スマホでこちょこちょと文字入力をすることが苦手で、とりわけ長い文章は著しく疲れます。
従いまして、皆様への応答ができなかったり、ぞんざいになったりする可能性が大いにあります。
この段、予めご了解頂ますようよろしくお願いいたします。
(ようするにややっこしい話や込み入った話は、一週間か一〇日後にしてくれということです。)
ラジオで落語を聴き始めたのは小学校の高学年の頃からだろうか。今から70年も前のことだ。
5代目古今亭志ん生、8代目林家正蔵、6代目春風亭柳橋、6代目三遊亭圓生などを記憶している。みんな明治時代の生まれだ。
そんななかに3代目三遊亭金馬がいた。やはり明治の生まれだ。とても歯切れのいい噺家で、それもそのはず講釈師の流れを汲んでいた。志ん生の朦朧体のような柔軟さはなく、そのせいで落語にしては堅いといわれたりもしたが、その端正な噺は好きだった。
「孝行糖、孝行糖の本来は、チャンチキチ、スチャラカチャン・・・・」と彼の語った『孝行糖』の一節はいまもふとした折に脳裏に浮かぶことがある。
と、前置きは長くなったが、ここで述べようとするのはその金馬のことではなく金歯の方についてである。
今はあまり見かけないので廃れた風習かと思ったが、そうでもないらしい。
「金歯は、金属アレルギーが起きにくく、歯との密着性が高いために、虫歯の再発を防いでくれるというメリットがあります。 また、柔らかいので加工もしやすく、噛み合わせの良さはとても優れていると言えるでしょう。」と、歯科医のHPにあった。
と同時に、富の象徴であったかもしれない。さすがに最近はあまり見かけないが、かつては前歯をピカピカに光らせた人がいたものだ。
そうした富裕層とは関わりのない私だが、一度だけ、金の被せものをしたことがある。もう40年以上も前、名古屋は今池で居酒屋をやっていた頃のことである。
奥歯がズキズキ痛み始め、虫歯であることは素人判断でも明らか。ちょうど、私の入居していた雑居ビルの2階にかなり大きな歯科医があり、そこで治療をした。
通うのに便利なのと、そこには歯科技工士を含め10近いスタッフがいて、そのうちの誰か彼かが、時には全員が来店してくれて、いわば常連の大得意さんだったのだ。
治療は懇切丁寧であった。傷んだところを削り、いよいよ詰め物をする段階になった。私はそれまで通り、保険の適用が効くアマルガム*で済まそうと思っていた。そんな折、常連中の常連でほとんど毎日カウンターに来てくれる女性の看護師さんが、私の耳許で囁いた。
「金歯がいいですよ。長持ちしますし、それだけの価値はあります」
金歯は保険適用外だ。ウッと一瞬の戸惑いもあったが、次の瞬間、「ア、そうですか。じゃ、それでお願いします」と答えていた。彼女の魅力もさることながら、その歯科医全体の常連度合いから考え、ここは先行投資だと計算したのだった。
かくして、生まれてはじめての金の詰め物が私の口腔に収まることとなった。
計算通り、歯科医はその後も私の店の常連であり続けた。当時の価格で3万5千円ほどの出費だったが、それはじゅうぶん回収できたと思う。
ここでその金馬、いや金歯のその後の運命について語らねばなるまい。
タコを食べていたあるとき、口腔中に違和感を覚えた。ン?なんだかおかしい。舌先であちこちを探索する。ナイッ、ないのだ、あの金歯が!そうあの金歯はタコと一緒に胃袋へと収まってしまったのだった。
こうなれば出口から回収する以外にない。それも真剣に考えた。しかし、回収するにしてもそんなに容易ではない。また、運良く回収しえても、それを洗浄して再び戻すのもなんだかいじましい気がした。
一切れ、3万5千円のタコを食ったと思って諦めた。
それからだいぶ経った頃、その歯科医は院長の実家である岐阜の東濃地方へ移転した。どうやら先代が引退して地元の医院を継ぐことになったようだ。
歯科医が去った二階の空間は、同じ頃潰れたかなんかして空き家になった隣の不動産屋共々、ガランとした空間をなしていた。
大家はいろいろ手を回したようだがなかなか埋まらなかった。あるとき、その大家が私相手に、どこかいいとこないですかねと呟いた。
私には、実現にはいろいろ困難がありそうだがひとつのアイディアがあった。ダメ元でそれをぶつけてみた。
私の念頭にあったのは、当時、やはり私の店へよく来てくれた名画の巡回上映をしている名古屋シネアストというグループのことであった。いわゆる商業映画に妥協することなく、映画愛好家のためにセレクトされた映画を志向する彼らの活動は、経済的にはまったく恵まれず、代表者の倉本氏の別の場所での稼ぎによってかろうじて支えられている状況だった。
あるとき、その倉本氏に、そこまでして活動を続けるエネルギーは何かを尋ねた。彼は即座に、「常設の館をもちたいのだ」と答えた。彼らの夢に感動したが、私が手を貸せることはあるまいと自分の非力を思った。
そんな折、上記のように大家からの話があったのだ。
シネアストの話をし、彼らは金はないよ、ある時払いの催促なしでいいなら入れてほしい、彼らの誠実さは保証すると切り出した。
私の切り札は、私の入っていたそのビル、今池スタービルが、かつての今池スター劇場という映画館であり、大家はその他にも映画館を経営していて、いわば映画で財を成した人だったということだ。
私の殺し文句。
「あなたも映画で財を成したのなら、このビルの一角に映画の匂いがする空間があるのも象徴的でいいのでは・・・・」
大家はそれを受けてくれた。
こうして、1982年、名古屋での名画座系ミニシアターの草分けともいえる名古屋シネマテークが誕生した。
たまたま二つの要求の接点にいたための実現したことだが、私にとっても幸運であった。
この映画館のおかげで、映画を観る機会が増えた。夜の仕事だったから昼間に観て、終わったら駆け下りて仕事をするような日もかなりあった。
居酒屋をやめてから随分になるが、その後もシネマテークにはお世話になっている。昨年からのコロナ禍で思うに任せないが、落ち着いたらまた行きたいと思っている。
さて、これで金馬とは繋がらないものの、金歯の方とは話が繋がったのではないだろうか。
*なお、アマルガムによる治療は、逆に2016年4月の歯科診療報酬改定で保険治療から外されたという。アマルガムに含まれる水銀が人体に悪影響を及ぼす可能性があることが認められたためらしい。
しかし、これは私自身の無知であった。オーストラリアは建国以来、英連邦の習いとして「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」が国歌であり、子供の頃からそれを聞き慣れて来たので、いまもそうだと思っていたのだが、実は1984年に、今の「アドバンス・オーストラリア・フェア(進め!麗しのオーストラリア)」に変更されたのだという。
その方法も、国民投票で、「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」も含めた複数候補の中から、半数近い得票で決められたのだそうだ。
だから、この1月1日に変更されたのは「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」ではなく、この「アドバンス・オーストラリア・フェア」の方である。
では、この歌のどこがどのように変更されたのかというと、一番の二行目、「We are young and free」(私たちは若くて自由だ)の部分が、「We are one and free」(私たちはひとつで自由だ)に変えられたというのだ。
なぜこの変更がなされたのかというと、「young」の部分が、オーストラリアは「若い国」を意味しているからだという。たしかに、西洋中心主義的な視点からは20世紀初頭にできたこの国はyoungな国ということになるだろう。
しかし、この国が経験し、払拭しなければならない先住民との歴史的軋轢の視点から見たらどうだろう。あとからドカドカやってきて「若い国」も何もなかろうということになるだろう。そこで採用されたのが「私たちはひとつ」なのだ。
もうひとつ、私の目からウロコは、この国歌が先住民のマオリ語でも歌われるという事実だった。先に五輪組織委員会会長を退いた人がかつて言ったように、日本は神の国で単一民族単一言語の国だという閉塞した国家観ではおそらく考えもつかないことであり、私もその影響下にあったのか、国歌が多言語で歌われるということには思いつかなかった。
確かにこの変更は合理的であるといえる。しかし、私は、ぶっちゃけた話、国歌というものにどうも馴染めないのだ。アナクロニズムの歌詞と、暗~い旋律のあの「君が代」も嫌いだし、その他の国歌も国旗の端なぞ持って、手を胸において、そのもとに忠誠を誓うかのように歌われたりすると、思わず、退いてしまう。
そこにある、露骨な同一性への忠誠の強要が嫌いなのだ。
だから。高校生以来、国歌は歌ったことがない。
20代の終わり頃、フランスの国営劇団、コメディ・フランセーズが来るというので、背伸びをしてチケットを求め、いまはなき連れ合いとともに、名古屋まで観に行ったことがある。
その冒頭、フランス国歌が歌われ、まあ、これは遠来の客への挨拶としてやむを得ないだろうと起立した。
その次が最悪だった。続いて、君が代斉唱! なんで? フランスの芝居を見るのになぜ君が代? 私も、連れ合いも立たなかった。周囲の人びとは立ち上がり、唱いはじめた。ぽっこり穴が空いたような私たちの頭上から、あの陰気な歌が雪崩込んでくるのを防ぐことはできなかった。
まるで拷問に耐えるかのような時間だった。
人びとは着席し、芝居が始まった。しかし、落ち着いてそれに没頭することはできなかった。私たちの不起立を、少なくとも周辺の人は知っていた。だから、まるで異物を見るようにチラッと送られる視線もあった。それを察知した私たちはなんとなく自分の存在がおじゃま虫であるかのように最後の緞帳が降りるまでの時間を耐えたのであった。
オーストラリアの国歌の変更から、いろんな思いが湧くのは否めない。
ただし、曲げられないのはある価値観のものに忠誠を迫るような縛りは、旗であれ、歌であれ、受け入れられないということだ。
あの君が代を国歌としていただくことは今後ともにできそうにない。
どこかで「日本から出てゆけ!」という声が聞こえるような気がする。
ただし、このアボリジニの言語は単一ではないようで、そのうちの多数を占めるもので歌われているのだろうと思われます。
■NHK FM でグリークとラヴェルの弦楽四重奏を聴く。両者ともこの形式は一曲のみ。また、二人とも叙事詩的な作品が多い中、これらは内省的な感じがする。というか弦楽四重奏という形式がそうなのだろう。
そういえばショスタコーヴィチの交響曲が小説であるとしたら、その弦楽四重奏は日記のようだと思ったことがある。
グリーク ラヴェル
■飲食などの倒産が相次ぎ、失業者が巷にあふれている折から、株価が3万円台になったという。
お前は金融資本やそのシステムに疎く無知なのだといわれればそれまでだが、やはりこれはおかしいのだ。実体経済と完全に乖離している。
ひとの不幸すら好機だとする投機的要素がなせる技だろうが、そんな人食い人種のようなシステムはやはりおかしいのだ!
株式市場はもともと、クラウドファウンディングのようなものとして始まったはずなのだが、今や人の生き血をもすする賭博師たちの暗躍の場となっている。
ウオール街も兜街も、労働や生産から乖離した魑魅魍魎共の集うカジノと化している!
『カフェ・シェヘラザード』 アーノルド・ゼイブル 菅野賢治:訳 共和国
シェヘラザードはいうまでもなく『千夜一夜物語』の語り手の王妃である。
しかし、この小説では、語り手は複数であり、聞き手がマーティンという登場人物の中ではおそらく一番若い物書きである。
カフェ・シェヘラザードは、オーストラリアのメルボルンに1958年から99年にかけて実在したカフェであり、しかも、この小説の最初と最後に登場するこのカフェの経営者、エイヴラムとマーシャ夫妻も実在し、その他の語り手であるザルマン、ヨセル、ライゼル(カフェ・シェヘラザードの常連客)なども基本的には実在するのだそうだ。
「基本的には」というのは、この書はルポルタージュではなくあくまでも小説であり、したがって、それら登場人物は彼ら自身の経験と同時に、それを類型とする同時代人の経験をさまざまに重ね合わせたものだという。
すでに述べたように、カフェ・シェヘラザードは、オーストラリアのメルボルンにある。したがって、その周辺の情景描写はでてくるものの、物語の主な舞台はポーランドやリトアニアの都市、ヴィルニュスやカウナス、それに、シベリア、舞鶴、神戸、上海と広範囲に及ぶ。
リトアニアのヴィルニュス 旧市街
なぜこんなことになるかというと、このカフェの経営者や常連には、地理的、歴史的共通点があるからだ。その共通点とは彼らが、ナチスドイツ成立後の混乱のなかで、ポーランドやリトアニアに暮らすユダヤ人だったこと、そのそれぞれが身の危険を感じて命からがらそこを脱出したり、あるいは、現地にとどまり、パルチザンとして地下闘争を展開した人たちだからである。
カフェの経営者、エイヴラムはブンド(リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)に属したパルチザンの闘士で、ナチスドイツと果敢に戦うのだが、解放後は、ボルシェビキとの路線の違いからソ連当局からの抑圧を受ける身になる。
このあたりは、東ヨーロッパユダヤ人が「前門の虎、後門の狼」(あるいは、ヒトラーとスターリン)状態にあったことをよく表している。ナチスからの解放は、スターリニストによる粛清の始まりだったのだ。
注目すべきは、混乱の東ヨーロッパ脱出してきた語り手の二人が、それぞれ、リトアニアのカウナスにいた日本領事館の杉原千畝の発行したビザによって、シベリア鉄道から船旅で舞鶴にいたり、その後、神戸でのしばらくの滞在を経験していることだ。
そのうちの一人は、神戸で上演された日本人によるオペラ、ヴェルディの『椿姫』を観たと語る。いくぶん歌舞伎調に様式化されたその演出は、それはそれで魅惑的だったという。
神戸組はその後、上海に渡り、1941年12月の日本の正式参戦後の混乱を生き抜かねばならなかった。
様々な経路をたどり、彼らが辿り着いた先がメルボルンだった。そして、エイヴラムとマーシャ夫妻のカフェ、シェヘラザードがそのたまり場となる。激動の20世紀を生き抜いた東ヨーロッパのユダヤ人たちの終の棲家ともいうべき安らぎの場である。
その語りは、悲惨を絵に書いたようなものも含め、その安らぎを保証するカフェ・シェヘラザードにおいてこそはじめて語りうるものだったろう。
なぜそのカフェのネーミングが「シェヘラザード」だったのかは章を読みすすめるうちにわかるようになっている。
私のように固定した島国でコソコソと生きている人間にとって、亡命者にして漂流者、難民を生き抜いてきた彼らの人生はまさに地球規模の壮大な物語をなしている。しかし、読み終わったいま、彼らの織りなす物語は、私が生きてきた一見凡庸な物語の裏面に確実にはりついていたものだと了解することができる。事態は、常に、既に、グローバルなのである。
作者のアーノルド・ゼイブルはニュージランド生まれだが、その両親はポーランド系ユダヤ人で、やはり亡命者である。だからこの小説は、彼にとってもそのルーツを辿るような意義をもっていたことだろう。
いまは、この小説の舞台、メルボルンで、作家として、また人権派の活動家として著名であるという。オーストリア国内では五指に余る文学賞を受賞しているということだが、その内容はわからない。
なお、日本語訳はこれが最初だという。
当時の歴史的背景が多少わかっていれば、波乱万丈で読んでいてとても面白いのだが、少々お勧めしにくいのは、その価格が3,500円と小説にしてはいくぶん高いのだ。
私のように、図書館でのご利用をお勧めする。
私たちは、自分の置かれた環境を知るためにいわゆる五感を働かせるが、視覚障害がない場合、そのもっとも力を発揮するのは視覚ではあるまいか。他の感覚が働いている場合でも、暗闇の中では私たちはその環境を認知できず大きな不安に襲われたりする。
逆に言うと、私たちは今この目で見ている情景が世界の実際の在りようなのだと思い込んでいる。それが間違いであるというわけではないが、しかし、私たちが現にこのように見えているのは目の構造によるものであろう。
こんなことを言い出すと、瞳孔があって水晶体があって角膜があって視神経が云々という見え方の問題を言ってるようだが(それにはそれで人の固有性があるのだろう)、私の言いたいことはもっと単純なことである。
ようするに、人間の目は、両眼ともに正面を向いて平面に並んでいるということである。こういう並び方は猿やネコ科の一部、それに鳥類ではフクロウなどに限定されるのではないだろうか。
昆虫など複眼のものもあるが、両眼をもつ生物をみた場合、圧倒的多数が頭部の左右に分離していて、人のように並行して前を向いてはいない。
だとするならば、当然ものの見え方も違うのではないか、つまり、犬や馬が見ている世界の像は違うのではないかと思うのだ。
なぜこんなことを言いだしたかというと、最近はスマホで写真を撮ることが多いのだが、そのうちのパノラマ機能というのをまったく使っていないことに気づき、それを使用してみた結果なのだ。
スマホのパノラマ写真は、かつてのように、違う角度の写真を何枚もつなぎ合わせたり、あるいは魚眼などの広角レンズを用いて撮るのとは違い、撮る側が、身体軸を中心に、カメラを構えて好きな角度だけ廻るのである。そうすると、回った先にある光景が連続のものとして表示されるという仕掛けになっている。
こうしてできあがった写真は、私たちが頭部を巡らすことなく見る風景よりも、明らかに横へ長い。そして、対象との距離によって大して不自然でなかったりする場合もあるが、やはり中央部が不自然に見える場合が多い。
いま、「不自然」といった。ここでこの雑文の書き出しとが結びつくのだ。
たしかに、パノラマで撮った写真は「私たちの」日常の視線から見ると不自然な見え方をしている。ここで、「私たちの」とカッコに入れたのは、私たちのように眼が平面で並行して前を向いている生物の視線にとってという意味である。
で、何がいいたいかというと、犬や馬のように頭部の両側に眼を持つ生物にとっては、私たちがパノラマ写真で見る風景が、そして、通常とはやや不自然に感じる風景が、実は通常で自然なのではなかろうかということである。
もちろん、犬や馬の目は、その構造や機能、能力が私たちの眼と異なるから、このように見えていると強弁はしにくいが、人と同じように見えているわけではないだろう。
まあ、いずれにしても、私たちの眼前に広がる風景は、人間特有の見え方によって規定されたものに過ぎないことは事実であろう。
この事実から、その人の立ち位置、経験や教育、先入観、などなどによって見えてくる世界が違ってくるのだというように一般化、普遍化したい誘惑に駆られるのだが、それはまたずさんな飛躍を含むことになってしまいそうで、やめておいたほうが良さそうだ。
*写真の題材は、お隣りの材木屋さんを撮ったものと、散歩道、神社の境内であるが、最後のものはパノラマではなく、普通に写したものをトリミングしたもの。左のバス通りから前庭の木々を経て我が家の玄関に至るもの。紅葉した南天、その隣りの早咲きの桜は、もう蕾がかなり大きくなってきた。
これらの写真は、ちょうど三年前、耕作していた人が急逝し、その後管理する人もなく放置されているかつての田圃の現状である。
広さは二反=600坪=約2000平米である。
当初は、いわゆる休耕田同様、田園跡の様相を留める空き地であった。しかし、最近では田圃の面影は次第に失われ、荒涼たる空き地へと変貌しつつある。
加えて、最近は不埒な連中が格好のゴミ捨て場として、けっこう大きなものを捨てるようになった。田圃であった頃から、空き缶やペットボトルが捨てられてはいたが、それらが次第に大型化し、今では一斗缶やポリエステル製のゴミ箱まで捨てられるようになってしまった。
これらはもはや、いわゆるポイ捨てではなく、わざわざ捨てるために運ばれてきたものといえる。昼間はバス通りでけっこう通行量も多いから、夜陰に応じての行為だろう。
これらが片付けられることなく次第に増加するのは、急逝した人の縁者が遠隔地(関西方面?)にいて、管理する人がいないせいである。
この分で行くと、やがては家電や家具などさらに大型のものが捨てられるのではないかと思う。
かつて、この田を、田起こしから田植え、稲刈りなどにわたってウオッチングしてきた私には、この荒廃ぶりはどこか耐え難いものがある。
と同時に、普段は「道徳」などという言葉になじまないのではあるが、それでもなお、人の公徳心はどうしてここまで失われたのかといぶかる気持ちが思わず湧いてくる。
そうした私のいささか感傷的な思いを嘲笑するように、捨てられるものは次第にその数を増し、そして大型化してゆくだろう。
目を覆いたい気持ちだが、覆っている間にまた増えるというのが現状である。
森の本音発言に関し、新聞やTVなどで、「あの年代の人によくあるタイプで、したがって森さんだけの問題ではなくて広い視野に立って…」と問題を一般化してしまうコメントが結構ある。
しかしそれは間違いだ。
それによって森が免罪されるとしたらなおさらだ。まずはそんな考え方をもった森を引きずり下ろすことこそが肝要なのだ。
老害とすることにも問題がある。私は彼と同世代だが彼のようには考えない。それなりに学習してきたからだ。
さらにいえば、老害とするのは老人はそのように考えても仕方がないという甘やかしと同時に、老人とはそのように劣ったものだという老人蔑視の差別がある。
繰り返すが、問題は年代だとか老害だとかということではない。問題を一般化してはならないし、そうすることは結局、彼のような連中を野放しにすることを意味しているのだ。
私は不勉強で意識して触れたことはないが、「写真論」というものがあって、写真とはなにか、それは私たちにとってどんな関わりを持っているのかということは結構論じられてきたようだ。例えばベンヤミンの『複製技術時代の芸術』との関連で論じられたりもしている。
かつてのそれらは、ほとんどフィルム写真を念頭に論じられてきた。しかし、今やフィルム写真は一部の好事家を除いてはほとんど姿を消したといっていい。私などはド素人のくせに結構フィルム写真で粘っていて、気づいたら回りはほとんどデジカメになっていた。
デジタルカメラももちろん写真の大革命であったといえる。撮影は手っ取り早いし、しかもPC上の写真ソフトで誰もがトリミングから色調や鮮度の編集ができてしまう。
しかし筆者は、デジカメはまだフィルムカメラを追いかけるものであり、ほんとうの写真の革命はスマホとSNSが普及した今世紀のものだという。
スマホは今や圧倒的に多くの人が持ち、その多機能を駆使するのだが、電話機能と写真機能はほとんどの人が用いている。
かつてのフィルムカメラの時代、そしてデジカメの時代も、基本的には一家に一台で、その使用権は概して家長である男性のものであった。
しかし、今やスマホは小学生も含めて、ほぼ家族全員が所有するに至っていて、それらの各自が写真を撮る。一億総写真家の時代といっていい。
しかもその写真は、かつてはファインダーを覗いて現実の風景から対象を選別し、ベストショットを狙ったのだが、スマホの写真はそうではない。液晶パネルに映し出されたそれをタッチすることによって固定化するいわばスクリーンショットなのである。しかもiPhoneの場合は、そのショットの前後何枚かが表示されるから、それら複数のうちから選択することができる。
もうひとつの革命は自撮り機能にある。かつての写真は、撮すものと撮されるのも、撮影者と被撮影者が分離されていたが、今やそれは渾然一体となってしまった。撮される者の位置に撮す者が、撮す者の位置に撮される者がいる。
さらにそうして撮られた写真は、インスタグラムなどのSNSに投稿される。というより、投稿することが撮影の目的であり終着点なのだ。そこに掲載された写真は、「ばえる」・「ばえない」で不特定多数によって審査され、「いいね!」を多く付けられたものがいい写真ということになる。
かつては観光地へ出かけた写真などは、思い出や記念の記録として冊子としてのアルバムに収録された。今や、アルバムに写真を貼るということ自体が廃れてしまった。写真は、思い出の記録というよりは、どこそこへ来て何々を食べたというアリバイ証明になってしまった。
では、アルバムに貼られなくなった写真はどこへ行くのか。不出来な写真やすでにSNSなどに掲載し、用済みのものは削除され、ネット空間の闇のなかに姿を消す。これはと思うものはスマホやPCのなかに保存されるが、その容量の増加に従ってiCloudなどの共用のネット空間に蓄積される。そしてそれらは、不可視のAI の操作によって管理、整理され、私たちにはわからない次元で現実にフィードバックされ、私たちを方向づける作用をしているかも知れないのだ。
これらを通読して考えさせられるのは、ふつう私たちは、私たちの欲望がテクノロジーを発展させるのだと思っている。しかし、実のところは、テクノロジーの発展が、そしてそのテクノロジーの欲望が私たちを駆り立てているのではないかということだ。
これはまた、AI を駆使しての利便性の追求が、実のところ、AI による私たちの支配ヘ通じる可能性をも示唆している。
作者は、建築物や構造物を専門に撮る写真家である。その写真についての考察は的確で面白いが、同時に、小分けされた一つ一つの文章は、専門家によるエッセイを読む面白さがある。
例えば、2024年に発行予定の新五千円札の津田梅子の肖像は左右反転(フィルムカメラの時代にはこれは裏焼きといった。今は写真ソフトでそれが可能)していて、これは彼女の肖像がお札の右側にあるため、元のままだとお札の外側を向いてしまうといったことなど、なるほどと思わせる。
私にとって衝撃だったのは、よく見慣れ、最近も同人誌でそれに触れた有名な「焼き場に立つ少年」(1945年長崎にてジョー・オダネル撮影)が、実は裏焼きで左右反転していることが2019年に判明したという事実である。もちろんそれによって写真の評価は変わらないのだが。
見慣れた左の写真は実は裏焼きで右のものがオリジナルらしい
ついでながら、鏡に写ったものを撮ると左右反転するが、自撮りの場合、液晶に表示されるものは鏡同様左右反転しているが、写真に撮るとそうではなくなる。
著者の目の付け所はここでは書ききれないほどに多彩で広く、そのそれぞれに説得力がある。デジカメや、特にスマホで写真を撮りまくり、それをネットに載せている人たちへのお勧めの書である。
*写真は書や著者、「焼き場に立つ少年」以外は筆者による建築物や構造物の写真。
コロナ禍をけっして対岸の火事だと思っていたわけではない。ただ、私やその周辺、知己のもとへはそう簡単に及ばないだろうと漠然と考えていた。
しかしそれは突然、思いがけぬ結果を伴ってやってきた。
私がリタイアーした後、参加させてもらった会や、そこから派生した同人誌で、同郷岐阜県の先達として親しくしていただいていた大牧冨士夫さん(1928-2021)に襲いかかり、その命を奪ってしまったのだ。
在りし日の大牧さん 先に逝った同人のお別れの会で
大牧さんとのお付き合いは20年弱とさほど長くはない。しかし、ある程度濃密な関係をもたせていただいた。
最初の出会いは、名古屋での月一、最終木曜日の会合、「もくの会」であった。二人とも毎回の十数人の出席者の一員ではあったが、岐阜からの参加は大牧さんと私のみということで、その往復にご一緒することから接触の機会が多かった。
その後、その会は解散したのだが、そのうちの有志で同人誌を発刊しようということになった。大牧さんも私のそのメンバーで、やはり月一の名古屋での編集会議に岐阜から参加した。
当時、私は年間70本ほどの映画を観ていて、名古屋へ出た帰りはそのチャンスであった。大牧さんはよく、「今日はどんな映画を?」とお訊きになり、私の概説に興をもたれると一緒に行くとおっしゃったりした。
そんな関係が、その同人誌が存続した8年間にわたって続いた。
同人誌が最終刊を迎えたあとも、私のブログなどを通じてのお付き合いがつづき、何かとコメントを頂いたりした。
最後の頃の接触は、なんかの拍子に、大牧さんからクラシック音楽についてのご質問があり、それにお答えしたりするうちに、その概論などをレクチャーせよということになり、広く浅い知識しかもち合わせてはいないものの、大牧さんのご要望ならと、ビッグネームの著名な作品や、私の好みのCDを持参して2,3度ご自宅を訪れたりした。
昨年は、一度もお目にかかれなかった。コロナ禍のせいである。それが落ち着き、暖かくなったらまたCDを持参して・・・・などと考えていた矢先の訃報だった。
手元に、大牧さんから頂いた年賀状がある。
それには、大牧さんのご出身地であり、徳山ダムで水没するまでそこにお住まいがあった徳山村の懐かしい行事の模様を記録した写真が載っている。
そして手書きで添えられているのは、「同人だったみな様はお元気なのでしょうか」とかつての同人仲間を気遣う文字が・・・・。
大牧さんの故郷徳山村はこの湖底に眠っている
大牧さんが語ったり、その自伝的三部作で知りえた ことどもを以下にまとめて、私自身の記憶にとどめようと思う。
■大牧さんは今では全村がダムの湖底という徳山村で生まれ育った。その模様は『ぼくの家には、むささびが棲んでいた―徳山村の記録』(編集グループSURE 以下の書も同じ)に生き生きと書かれている。
今はなき山村の貴重な記録である。またそれを語る大牧さんの目の付け所、語り口も独特で面白い。この冊子は、大牧さんが1944年、16歳の折、最後の少年兵として村を出るところで終わっている。
■大牧さんは少年通信兵として新潟で敗戦を迎える。国内でしかも通信兵ということで前線からは無縁で安全だったかというとそうではない。
戦争末期、軍は一人でも兵員を前線に送り出したかった。そのせいで、大牧さんの一期上の通信兵たちは総員300余名、フィリッピン戦線へと送られることになった。ところが、その途上、米軍の潜水艦により輸送船が撃沈され、100余名が虚しく散ることとなった。もう少し、戦争が長引けば、大牧さんの命も保証されなかったろう。
この辺のくだりは、『あのころ、ぼくは革命を信じていた―敗戦と高度成長のあいだ』の前半に詳しい。
敗戦後、大牧さんは通信兵の技術と関連する郵便局員となる。そこで出会ったのが労働運動である。郵便局員の組合は今はなき全逓(全逓信従業員組合)で、総評(日本労働組合総評議会)傘下でなかなか強い組合であった。
若い大牧さんは、労働組合運動に留まるのみではなく、革命運動にまで突き進む。共産党に入党し、ソ連からの引揚者の出迎えなど戦後特有の活動に従事するうちに、なんと、1949年には郵便局を退職し、岐阜市の共産党組織の専従者になってしまうのだ。
大牧さんが愛し、しばしば雅号に使っていた徳山村と福井県鏡の冠山
しかし、現実は甘くはない。給与が出ないのだ。貯金も使い果たし、食うものも食わずの生活で健康を損なうこととなり、その年の終わりには故郷の徳山村へ帰ることとなった。
事件はその後に起こった。岐阜市の党組織から岐阜県の党組織へ上納されるはずの金額が入金されていないことが発覚したのだ。当然、大牧さんが疑われた。
やがて真相が明らかになった。大牧さんが毎月、その上納金を渡していた共産党の岐阜県委員会の県委員が、その金を自分のぽっぽに入れていて、ついにはまとまった金を持って失踪してしまったのだ。
戦後しばらくの共産党は、そんな不祥事が絶えなかった。党費で芸者をあげて豪遊したなどということもあったようだ。戦後のどさくさ紛れに、「さあこれからは革命だ」と先物買い的で理念もなにもない山っ気のある連中が大きな顔をしていた。そんな奴ほど、「ソ連と言ってはならない。ソ同盟と言え」とか、「恐れ多くも『ソ同盟史』という書籍の上に何かを置くとは何ごとか」などと威張り散らし、天皇とスターリンを置き換えただけといった有様だった。
そんななか、大牧さんは失われた学問の機会を取り戻すべく、大学への入学を果たし、さらには就職先にも恵まれ、文学運動に情熱を傾けることとなる。『岐阜文学』や『新日本文学』がその活動の舞台であった。自身の作品もあるが、後年には、中野重治とその妹・鈴子に関する研究の第一人者となる。
なお、この頃の読書会に、当時の民社党系列の全繊同盟という反動的で会社の労務管理の下請けのような組合の監視の目をくぐり抜けて参加していた女性・フサエさんと結ばれることにより、二人は終生の連れ合いとなった。
お連れ合い、フサエさんの著書
そして1963年春、大牧夫妻はこれまでの活躍の場・岐阜を去って、教員不足に悩まされていた故郷徳山村の小学校教諭として帰郷することとなる。
■徳山村での暮らしは、もともとここで生まれ育った大牧さんにはともかく、都会育ちのフサエさんにはいろいろ大変だったようだ。しかし、二人が力を合わせてそれを乗り切る様子は、『ぼくは村の先生だった―村が徳山ダムに沈むまで』に詳しい。
波乱の戦後を経て、故郷へ落ち着いた大牧さんだったが、その故郷は以前とは違う様相を見せ始めていた。
戦後の高度成長から取り残された山の村は、次第に過疎化し始めていた。その衰弱を見透かすように、全村水没という例を見ないようなダム建設の話が急ピッチで進みはじめた。そして1985年、大牧夫妻の徳山での20年余の生活は、与えられた代替え地(岐阜県本巣郡北方町)への移転という形で終止符をうつことになる。
私がお付き合いいただくようになったのはその後のことである。穏やかな大牧さんの風貌のもとに、波乱万丈の物語があったことを知ったのもお付き合いをはじめた後であった。大牧さんはそうした出来事をうまくご自身の栄養にされたと思う。
一見、淡々と語るその口ぶりや文章のなかに、ハッと衝かれるものが散見できるのも、修羅場ともいえる場面をもふくめたその場数のせいであろう。
今となっては、もっともっといろいろ聞いておけばよかったと悔やまれるが、晩年、フサエさんを交えてご自宅の縁側でクラシックに耳を傾けた記憶、それから、これはまだお互いが知り合う前だが、私もまた、水没前に数度にわたって徳山村に足を運び(渓流釣りのためだが)、大牧夫妻が見ていたであろう同じ風景を見たという自負とが大牧さんの記憶を親しいものにしている。
ただし、悲しい思い出もある。
ダムが完成し、貯水しはじめた折も2,3度行ったことがあるが、大牧さんの職場だった村の高台の小学校にその水が迫り、ついにはその姿を完全に覆ってしまったことである。
徳山村は大牧さんが生涯抱き続けた原風景であり原点でもあった。その愛した故郷は今も湖の下で静かに眠っている。少々冷たいけれど、大牧さんはそこへと帰っていったのだろうか。
そういえば、大牧さんのPCの大型ディスプレイの待ち受け画面は、在りし日の徳山村漆原(しつはら)の写真であった。大牧さんとフサエさんが、ここにはなになにがあり、この道をこちらへ行くと何があってと、二人で競い合うように、目を輝かせて説明してくれたのはつい一昨年のことだったのに・・・・。
*Wiki による大牧さんの紹介は以下の通り。
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