二、三日前に、テレビで狼の生態を記録したものを観ました。
それはそれで感慨深いものがあったのですが、そのあるシーンに接して、かねてより感じていたことを改めて思い浮かべたのでした。
そのシーンとは、狼が遠吠えをするところです。
私はそれを、久しぶりに聞いたように思いました。
もちろん、ほんものの狼のそれではありません。私が長じた頃、既にニホンオオカミは絶滅していたのですから。
近所の日奈守神社の狛犬
わたしが聞いてきたのは、狼の子孫といわれる犬たちのそれです。
田舎にいた子供の頃や、受験勉強の頃のまちなかで、いつもそれを聞いていたように思うのです。
ある箇所でその遠吠えが始まると、それへの呼応してあちこちからそれが聞こえたものでした。それはまるで、イスラム教のお祈りの時間を知らせるアザーンのようでした。
名古屋東照宮の狛犬
しかしです、近年それらを聞いたことがほとんどないのです。
犬が寝ている時間でも起きている私がそれを聞き逃すはずがありません。
最後に聞いたのは何年前でしょうか。うちで飼っていた犬(当然雑種)が遠吠えをしたのはもう二、三〇年前でした。
近所の犬の遠吠えについて記憶を辿っても、ここ一〇年近くは聞いていないように思います。私が住んでいる地帯は郊外で、飼い犬も多く、犬が遠吠えするには絶好の環境だと思うのですが。
ここ半世紀ぐらいの間に犬の習性が変わってしまったのでしょうか。例えば、犬社会のコミュニケーションの形態の変化とか、犬語の変遷とか。
名古屋・今池高牟神社にて
そんなことを考えながら、ネットを参照していたら、飼い犬が遠吠えをして困るという相談記事を見つけました。
それへの回答は、最近の厳密に選別された交配による固有種の生産は、ほとんど遠吠えをしない犬を生み出していること、そして、もし鳴いたら、それをやめさせるように躾ることと記されていました。
それへの相談者の続報には、その犬は日本犬間の雑種であること、はじめ、あまり哀切を帯びた調子で泣くので、その犬を抱きしめてやったことなどが記されていました。
回答者の二回目のそれは、遠吠えをしたときに抱きしめてやったのに味をしめ、その犬は淋しくなると飼い主の抱擁を期待して遠吠えをするのだというものでした。
同上、高牟神社でいちばん古そうな狛犬
これは事実かも知れません。しかし、かつて日常的であった遠吠えが、今では少なくなったということはそれだけで説明しきれないように思います。
ひとつは、狼に近い犬の習性の大部分が淘汰され、愛玩用に作り替えられたこと、また、野生性を去勢すべく厳しく躾られてきた歴史をもつこと、それによってそのオリジンとは遠く隔たったものとしてのみ生存が許されていること、などなどを考えてしまいます。
琵琶湖畔で遊ぶ犬たち。彼らは遠吠えをするのだろうか?
そして、杞憂症の私は、われらが人間においてもそうではあるまいかと思ってしまうのです。
遠吠えというコミュニケーションの手段を奪われ、咆哮という直接的な訴えから遠ざけられた私たちは、躾られ、刷り込まれた方法でか細く吠えるのですが、それらは私たちが期待する誰かへと届くことなく、はかなくも虚空に吸収されてしまうのではというイメージです。
でも、私は吠え続けたいと思うのです。例え、負け犬の遠吠えといわれようが、私の遠吠えに呼応してくれるひとたちがいることを信じて、聞き耳を立てながら・・。
小難しいことはともかく、あの哀愁を帯びた遠吠えが、私は好きなのです。
ワオワオワオワオ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ン!
*以上の記事は、私の友人のブログ「サンコの日記」に触発されて書いたものです。
http://blogs.yahoo.co.jp/chieko_39/27168761.html
それはそれで感慨深いものがあったのですが、そのあるシーンに接して、かねてより感じていたことを改めて思い浮かべたのでした。
そのシーンとは、狼が遠吠えをするところです。
私はそれを、久しぶりに聞いたように思いました。
もちろん、ほんものの狼のそれではありません。私が長じた頃、既にニホンオオカミは絶滅していたのですから。
近所の日奈守神社の狛犬
わたしが聞いてきたのは、狼の子孫といわれる犬たちのそれです。
田舎にいた子供の頃や、受験勉強の頃のまちなかで、いつもそれを聞いていたように思うのです。
ある箇所でその遠吠えが始まると、それへの呼応してあちこちからそれが聞こえたものでした。それはまるで、イスラム教のお祈りの時間を知らせるアザーンのようでした。
名古屋東照宮の狛犬
しかしです、近年それらを聞いたことがほとんどないのです。
犬が寝ている時間でも起きている私がそれを聞き逃すはずがありません。
最後に聞いたのは何年前でしょうか。うちで飼っていた犬(当然雑種)が遠吠えをしたのはもう二、三〇年前でした。
近所の犬の遠吠えについて記憶を辿っても、ここ一〇年近くは聞いていないように思います。私が住んでいる地帯は郊外で、飼い犬も多く、犬が遠吠えするには絶好の環境だと思うのですが。
ここ半世紀ぐらいの間に犬の習性が変わってしまったのでしょうか。例えば、犬社会のコミュニケーションの形態の変化とか、犬語の変遷とか。
名古屋・今池高牟神社にて
そんなことを考えながら、ネットを参照していたら、飼い犬が遠吠えをして困るという相談記事を見つけました。
それへの回答は、最近の厳密に選別された交配による固有種の生産は、ほとんど遠吠えをしない犬を生み出していること、そして、もし鳴いたら、それをやめさせるように躾ることと記されていました。
それへの相談者の続報には、その犬は日本犬間の雑種であること、はじめ、あまり哀切を帯びた調子で泣くので、その犬を抱きしめてやったことなどが記されていました。
回答者の二回目のそれは、遠吠えをしたときに抱きしめてやったのに味をしめ、その犬は淋しくなると飼い主の抱擁を期待して遠吠えをするのだというものでした。
同上、高牟神社でいちばん古そうな狛犬
これは事実かも知れません。しかし、かつて日常的であった遠吠えが、今では少なくなったということはそれだけで説明しきれないように思います。
ひとつは、狼に近い犬の習性の大部分が淘汰され、愛玩用に作り替えられたこと、また、野生性を去勢すべく厳しく躾られてきた歴史をもつこと、それによってそのオリジンとは遠く隔たったものとしてのみ生存が許されていること、などなどを考えてしまいます。
琵琶湖畔で遊ぶ犬たち。彼らは遠吠えをするのだろうか?
そして、杞憂症の私は、われらが人間においてもそうではあるまいかと思ってしまうのです。
遠吠えというコミュニケーションの手段を奪われ、咆哮という直接的な訴えから遠ざけられた私たちは、躾られ、刷り込まれた方法でか細く吠えるのですが、それらは私たちが期待する誰かへと届くことなく、はかなくも虚空に吸収されてしまうのではというイメージです。
でも、私は吠え続けたいと思うのです。例え、負け犬の遠吠えといわれようが、私の遠吠えに呼応してくれるひとたちがいることを信じて、聞き耳を立てながら・・。
小難しいことはともかく、あの哀愁を帯びた遠吠えが、私は好きなのです。
ワオワオワオワオ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ン!
*以上の記事は、私の友人のブログ「サンコの日記」に触発されて書いたものです。
http://blogs.yahoo.co.jp/chieko_39/27168761.html