
だいたい、思ったように仕上がり、頭からボリボリ食べることが出来る。

それにチクワと胡瓜の射込みとキハダ(300円)の山かけ、水菜のおひたし、これが夕餉。合わせるのはやはり冷の日本酒でしょ。

キス15本のうち6本は残す。これは翌日、わかめと一緒にうどんに乗せた。天ぷらうどんならぬ唐揚げうどん。出汁が淡白なキスに沁みて結構美味しい。
でもこういう魚の売り方って最近少ないんだよなあ。
過日の不快な体験である。インターフォンが鳴る音で玄関へ。
「どちら様ですか?」と私。
「ちょっと新聞についての調査です」と若い男の声。
最近の新聞の衰退には関心もあるので、出てみた。
男はまず「これは調査に協力していただく謝礼です」とティッシュの包を2つほど渡す。会社や組織名はなく白い包装のままのティッシュ。
「今現在、新聞はお取りですか?」との質問に、「ハイ、とっています」と応えると、「偉いですね、私ども新聞業界にとっては全くありがたい方です。これもどうぞ」とまたラップの箱を渡す。「で、どこの新聞を?」との問いに「A紙です」と答えると、「ああ、やはり全国紙ですね。ますます感心するなぁ」とおだてあげる調子。
おそらく、C紙や県紙ともいえるG紙を指しての発言だろうが、私はそれらを軽んじているわけではない。A紙とG紙をともにとっていた時期もあるのだ。あえてそれは言わない。
この辺で私は相手の正体に気づいていたからだ。昨年か一昨年にもほとんど同じやり取りを経験していた既視感があった。
「お父さんすごいですね」といつの間にかいっそう砕けた調子。「こんなヘラヘラした男の父親になったおぼえはない」というのは私の心の声。
「新聞ってやはり全国紙ですよね。この辺の人は新聞とっていなかったり、地方紙が多いんですよ。感心だなぁ。さ、さ、これも受け取ってください」と今度は洗剤の容器やラップの包みを私の腕に押し付けてくる。私の両腕のなかは、それらのグッズでいっぱいになる。
「いや、こんなもの要りませんから」と私。
「実はですね、私この春、Y新聞に入社して記者志望なんですが、最初は現場を回って一定数の読者をとらねばならないんですよ。いえ、お父さんにA紙をやめてうちに移れというんじゃありません。そのままで結構ですから、一応うちをとるという印だけ頂いて、すぐにやめていただけば結構ですから。ほらこれはそこでもらった契約ですが、ここに『すぐやめる』となっているでしょう。これで結構なんですよ。それで私が記者に出世できたら、いい記事を書いて、今度は正面からお父さんにお願いに来ますから。今回は『すぐやめる』という条件付きで一応契約にサインだけしてくださいよ」
と、立て板に水でかなり強引にサインを迫ってくる。こんなのに長々と付き合ってる暇もないので、「いいや、そんな契約はしません。お帰りください」と私。
それでも、2,3回、「そうおっしゃらずに、お父さん」と粘ったが、「なんとおっしゃられても要らぬものは要りませんから」と私。
「あ、そうですか」と、今まで見せなかったふてぶてしい態度で踵を返して立ち去ったのだが、その帰り際が鮮やかで、私の腕いっぱいに押し付けたティッシュ何袋かと洗剤やラップなど、何一つ残さず、あっという間に取り上げて行ったのだ。別にほしいとは思わなかったがその豹変ぶりとグッズ回収のスピードたるや見事であった。
契約を一定数とったら記者にというのは作り話だろう。いくらY紙でも、あれを記者にはしないだろう。多分、勧誘専門のプロだと思う。
しかし、「調査」だといい、抱えきれない景品を勝手に押し付け、「すぐやめる」条件付きの契約を迫るなんて、なんかオレオレや還付金詐欺と似たりよったりだとも思った。
*これを書いたあと、ネットで調べたら、「新聞はインテリが作ってヤクザが売る」とあった。ヤクザが売るといっても新聞販売店のことではない。「新聞拡張員」という別途の職業集団があって、その人たちが顧客を勧誘し、まとまった契約を販売店に買ってもらうのだという。
しかし、その勧誘の仕方の評判はあまりよくない。それら勧誘のパターンを四つに分類している元勧誘員の述懐によれば以下のようになる。
1)喝勧 これは文字通り恐喝を含むもので、「これだけ頼んでもだめですか?こっちにも覚悟がありますよ。あなたの名前も住まいもわかっているんですから」と凄んだりする。もちろんこれ自身が犯罪行為である。
2)置き勧 これは安物のラップや洗剤などを無理やり置いてきて、申込書にはコンビニで買った三文判を押して契約とするもの。新聞が配達されはじめて気づくが、そのときには置いていったものに手を付けていて、諦めたりする場合もあるという。もちろんこれも契約ではない。
3)泣き勧 自分の身の上や家族の病気、障害などを訴え、同情を誘うもの。
4)引っかけ勧 自分の身分などを誤魔化し、「新聞店の経営者だが、この度、〇〇新聞があまりにもひどいので、✕✕新聞に変わったのでよろしく」などと虚偽の情報で契約させるもの。
私のところへ来たのは、玄関を開けさせるのに4)を用い、やたらものをくれるのに3)を用い、さらに「自分が正社員になるために」と2)及び4)を用いている。あからさまな1)はなかったといってよい。
県図書案の新着の棚にあったので手に取ったのがこの重信房子の『はたちの時代 60年代と私』(2023 太田出版)だ。
著者は60年代の後半から共産主義者同盟赤軍派の幹部で、パレスチナへ出国し、その地でパレスチナ解放の闘争を進めていたが、密かに日本に帰国していたところを逮捕され、20年の刑を受けて22年に出所している。
その彼女が、まさにタイトル通り20歳ほどで社会的な実践活動に参加し始め、それがどんどん進行し、ついには共産主義者同盟赤軍派として、現在イスラエルによる虐殺行為で問題になっているパレスチナにおもむき、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)との連携のもと、さまざまな活動を展開するのだが、この書ではパレスチナでの闘争に行き着くところまでが書かれている。
なお赤軍派というと、あのあさま山荘事件や山岳アジトでの仲間殺しの連合赤軍を思い起こすが、彼女はこの連赤派ができる前に出国しており、また連赤の責任者であった森恒夫に対して一貫して批判的であったことからして関係はなかったとしていいだろう。本書の中でもそれは述べられている。
私はこの書を読むまでは、彼女が展開したその後の激烈な諸闘争からして、若くして革命についての諸文献に接触し、先鋭な理論や実践の方式を身につけたのだと思っていたのだが、それはとんでもない間違いであった。
商業高校を卒業し(ここは私と同じ)、キッコーマンに就職した彼女の20歳の頃の婚約者は、地域の自民党の実力者の息子だったのであり、当時、それについて彼女自身はなんの抵抗も感じることなく、ごく自然に受け止めていたとうことである。
上のこの書の表紙のイラストのもととなった20歳の頃の写真
そんな彼女が変貌をみせ始めるのは、教師になるため入学した明治大学の第二部(夜間)でのことであった。入学早々の彼女を襲ったのは、当時、各私大で吹き荒れていた授業料値上げに反対する闘争であった。彼女は一般学生として授業料値上げには反対し、自分が参加していた文系サークルの人たちや反対闘争での仲間との連帯感などなどで一気にいわゆる「左傾化」してゆくことになる。そして、ここからの彼女は、パレスチナ戦線への加入まで、ほぼ一直線にみえてしまう。
ここで私は、彼女より7歳年長で1950年代後半からいわゆる六〇年安保闘争、そしてその終焉後までを過ごしたほぼ無名の活動家であった私の軌跡との比較検討をしてしまう。彼女に比べ、私はその党派の選択から闘争スタイルや戦術に関し、大いに迷い、つまずき続けた。そんななか、党派闘争がいわゆる「内ゲバ」になり、殺し合いになる寸前でいたたまれなくなり挫折したのだった。
こうした過程を、彼女はスルッと経過している。おそらくそれは、7年という時差がもたらしたニューレフト内での「常識」の変化によるものだろう。私の頃には素手の押し合いへし合いに過ぎなかった機動隊や敵対党派との攻防戦が、ゲバ棒をはじめとする武器による闘いへと発展し、対権力、対他党派との闘いは生死を賭けたものであることが常識化していたのであろう。
党派の選択やその戦略戦術を巡って彼女が悩んだ痕跡はほとんどみられない。彼女の変遷は、その周辺の人間関係、その折々の情勢の変化などにより、彼女内部の葛藤がほとんどないままに進んでいるのだ。
だからこれを読んでいると、情勢の変化や自分の立ち位置について、いちいち内面での葛藤を経由してきた自分がやはり旧型の教養人気質なのだなぁなどと思ってしまうのだ。
中東ベイルートへ渡航する頃の写真
しかし、おそらくそれらは時代のせいなのだろうと思う。ニューレフトが突出した存在ではなくなり、また行動様式もゲバルト(物理的力の行使)が日常的になっていたからだろう。
それにしても、いわゆるゲバルトから銃や爆薬を用いての軍事作戦への転換に際しては、どのような理論的・思想的経過を経て自分をそこへと投入できたのか、その経過は知りたいと思った。
そうした軍事作戦を展開した赤軍派の実際の行動で印象に残るの出来事は三つある。
ひとつは、当時の北朝鮮を「オルグして」反スタ戦線に取り込むと豪語したよど号のハイジャック組である。彼らの後日談は、オルグするどころか北側の監視下に置かれ、金王朝の手先としていいように利用されたに尽きるようだ。
もう一つは、京浜安保共闘革命左派と提携し、いわゆる連合赤軍の名のもと、国内での軍事訓練や銃撃戦を挙行した森恒夫らの行動である。
彼らは、例のあさま山荘銃撃事件で軍事的にも終焉を迎えたのだが、その過程での山岳アジトで、12人の仲間を「総括」と称するリンチで殺害に及んでいたことが判明した。そしてこの殺された者のなかには、明治大学に入学以来の重信の親友、遠山美枝子が含まれていた。
その最後が、重信たちのアラブへ飛んだグループである。彼女らはそこで、先に見たようにパレスチナ解放人民戦線(PFLP)との連携のもと、さまざまな闘争を展開する。その是非の判断もあろうが、今日のイスラエルのパレスチナへの虐殺行為をみるにつけ、パレスチナとの連携は大きな意味があったと思う。
その点で、森恒夫などときっぱり手を切った(これについても具体的な経過、理論的、思想的際などが具体的の述べられていないのは残念だが)のは正解だったとはいえる。