近くのクリニックへ薬を貰いに行った帰途、例年のごとくマイお花見ロードを散策した。
三月というのにもう散り始めているし、小さな花筏もできている。まさに「三日見ぬ間の桜」である。
以下の動画は、その折のひとコマ。いやふたコマかな。
かなりの風で花の枝が揺れている。あとのものでは、鐘の音が聞こえる。午後5時の鐘である。
https:/
https://www.youtube.com/watch?v=IUvzxSfOlcw
その他の写真もその折のもの。スミレと、ダイコンの花。
東海道線稲沢にて あまり見られなくなったディーゼル機関車がたくさん
ここんところ、身の回り10キロ以上は行かないような半蟄居状態を続けていたが、3月に入って啓蟄の虫よろしく、少しは這いずり回るようになった。
名古屋駅構内にて 改札口とその付近のバウムクーヘン屋さん
「飛翔」と名付けられた駅前のモニュメント 近々解体されて移設とのこと
三月は3度名古屋へ出かけた。
一度目は横尾忠則の美術展。
二度めは映画(「地球で最も安全な場所を探して」)と今月末(正確には27日、土曜日)に閉店の今池の馴染みの居酒屋さんへ。
栄交差点付近と栄地下街
そして三度目のこの土曜日は同人誌の編集会議と映画(「ノマドランド」)、そしてもう一度この日でへ閉店という居酒屋さんへ。
栄から映画館がある伏見まで歩く 街の風景
長い間の今池という街との関連で、岐阜へ引っ込んでからも、この店が仲立ちになって今池で出会った人々との繋がりが保たれていたが、おのれの年齢から考えても、これでもう会えなくなるひとも多いだろうと思うと幾分感傷的になる。
今年になって、この街へ来るとよく寄った寿司屋の大将もなくなってしまったし・・・・。
今池の夜・謎の映像 名古屋駅・これから帰る岐阜方面を臨む
三度めに名古屋へ行ったこの27日に撮した写真を時系列で載せてみた。
前にちらっと書いたが、蔵書のかなりの部分を手放した。名古屋の人文系の古書店にまとめて引き取ってもらったのだ。
すわ、終活かと思われそうだが、そんな意識はあまりない。生まれてきたのも偶然ひょっこりとであるから、その終焉もそんなに計画的にする必要もあるまいと思っている。遺族への忖度もあまりない。自分が死んだらああしろ、こうしろとは要求しないし、葬式やその他面倒な儀式はしてもらわなくてもいいから、あとの整理も勝手にしてくれというのが本音だ。
著者別、ジャンル別に整理して古書店を待つ書たち
とはいえ、蔵書についてはある種の思い入れがある。
私の蔵書はわが家の遺族たちにとっては紙くず同然だろうが、私自身の自己形成には少なからず貢献してくれた。それが死後、ゴミとして処分されるのはやはり心残りである。できるならば、これを必要とするひとによって読み継がれることが望ましい。さいわい、私は書を汚さないで読む方だからその面での状態は悪くない。
蔵書のほとんどは人文系のしかも思想書の系統に属するものだ。地元岐阜では市場も狭いだろうと、名古屋の古書店に来てもらった。
今回、引き取ってもらったのは、1980年代以降の、いわゆる「現代思想」系を中心としたものである。しかし、近年のものは少ない。最近はもっぱら図書館の利用を中心としているからだ。
今どき価値があるかどうか 林芙美子のサイン入り 戦前のものだから右から左へ
それでも、売り物になりそうなものをジャンルや著者別に仕分け整理したら数百冊になった。もちろんこれで全部整理できたわけではない。私の青年時代、1950年代から60年代、そして80年代に至る書のほとんどはもはや売り物にはならない。書の内容もだが、書籍そのものがマテリアルに劣化していて市場価値がないのである。
それらも含めて、およそ千冊あまりが手元に残ったことになる。まあ、これらはゴミとして風化するに任せるほかあるまい。
上記の書の奥付 昭和12(1937)年 私が生まれる前年の書
しかし、書というものは不思議なものだ。紙に文字という記号によって印字されたものを私が目にする。書き手も、読み手の私も、その記号のコードを共有している限りにおいて、何がしかが伝達されると思っている。しかしそれらはそれほど単純な過程ではない。伝わるべきものが伝わらなかったり、伝えるつもりではないものが伝わったり、書き手の側からも読み手の側からも、全く予想外のものがそこに形成されたりする。
しかし、何も伝わらないということはけっしてない。遅配や誤配を含みながら、というかそれを常態にしながら、何ものかが伝わる。
まだ残っている書たち
手放す書についての感傷や思い入れはない。ありそうなものは手元においたままということもあるが、書そのものへの物神崇拝的な思いはもともと希薄なのだ。
とはいえ、たとえ劣化しているとはいえ、半世紀前の青春時代、私の関心を満たしてくれた古い書物をゴミとして捨てるにはいささか忍びないものある。
もう一度読み返してみようかとも考えている。
*なお、購入して未読のもの、いま同人誌に書いている連載ものに必要な資料、愛蔵の画集、古典の一部、辞書類などは手元に残してある。
2月24日、25日のNHK朝ドラに、特高警察に追われる女優(高城百合子=井川遥)と演出家(小暮真治=若葉竜也)が当時のソ連に亡命するエピソードが描かれていたが、このモデルは岡田嘉子と杉本良吉で、亡命そのものは実話である。
ただし、「おちょやん」のモデル、浪花千栄子との間に、朝ドラのような関わりがあったかどうかはわからない。ドラマではおちょやんと岡田嘉子が知り合いであったことになっているが、事実は逆で、おちょやんこと浪花千栄子の亭主のモデル、二代目渋谷天外と杉本良吉が知り合いの仲であって、その関連で、二人の逃避行を援助したかもしれないといったぐらいだろう。
ところで、この亡命した二人組のその後がどうなったかについて、私が同人誌に書いた文章があるので、以下に引用しておきたい。
予め言っておくと、この結末はとんでもない悲劇に終わっているので、朝ドラの演出もそれを知っていて、BGMに松井須磨子の「カチューシャの唄」を流すなどしんみりした場面に仕上げていた。
それでは以下、20年10月に発行した同人誌の私の文章から。
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私は、一九三八(昭和一三)年にこの世に生を受けたと述べた。それはどんな年だったのだろうか。予め結論をいってしまえば、決していい年ではなかった。もっとも、この前後でいい年などはほとんどなかったといっていいのだが。
一月三日、当時の人気女優・岡田嘉子が演出家で共産党員だった恋人の杉本良吉と手に手をとって樺太からソ連側に亡命した。国境の向こうは憧れの社会主義国、そしてそこには、世紀の舞台芸術家メイエルホリドがいる。恋と革命と芸術のための逃避行、なんとロマンティク、前途はバラの花によって敷き詰められていた。そのはずであった。しかし、バラの花が敷き詰められているのはしばしば地獄への道でもある。
そのとんでもない真相の詳細が判明したのは戦後もしばらくしてからだった。
まずは自由な天地で恋人同士が・・・・という夢が切り裂かれた。国境を越えるやいなや、ソ連当局に逮捕された二人は、生涯再び逢うことはなかったという。ついで、革命の祖国という幻想が打ち破られた。彼らはそれぞれソ連に送り込まれたスパイとして熾烈な拷問にさらされる。岡田は墜ち、恋人である杉本がスパイであると証言する。さらに杉本も、自らがスパイであることを、さらには、自分に先行してソ連にやってきて既に帰国していたやはり演劇人の土方与志や佐野硯もスパイであったと供述する。
ところでこの土方も佐野もそして杉本本人も、当時ソ連演劇界で世界的名声を博していた演出家メイエルホリドを慕ってソ連を訪れたのであった。そして、彼らがすべてスパイであったということは・・・・。かくしてメイエルホリドの包囲網は完成し、ついには本人が逮捕され、激しい拷問のなか、スパイであったとして四〇年に処刑されている。
岡田・杉本の恋と革命と新しい演劇を求めての逃避行は、じつは、三〇年代の後半、ソ連で荒れ狂っていた粛清の嵐の真っ只中への登場であり、世界的に影響力をもってたメイエルホリドを葬り去るため、スターリンが用意したジグソーパズルに対し、岡田と杉本はその最後のピースを提供したというわけだ。
杉本は死刑、岡田は有期刑で生き延び、七二年に帰国したが、八六年に再びソ連に戻り、九二年に八九歳で没するまで、再び日本の地を踏むことはなかった。
イデオロギーによる絶えざる運動のなか、その敵を見出してはテロルによってそれを排除し、もってその運動の地盤を固める、これが全体主義国家の常道である。革命以後二〇年、国内に共産党に対抗する勢力はすでになく、党内反対派で目の上の瘤のトロツキーを国外追放した後は、もはや敵らしい敵はどこにもいなかった。敵がいなければ作るしかない。秘密警察による探索とその結果の針小棒大な解釈による敵の発見と製造、密告の奨励による新たな敵の発掘と創作。
こうしてある朝、突然、「人民の敵」の〇〇グループが摘発される。そこには意外な人物が。あるいは昨日、にこやかに挨拶を交わした隣人が。それは意外であればあるほど効果的だ。「人民の敵」は、かくも巧妙にあなた達のなかに潜んでいる。
人々は、疑心暗鬼のうちにバラバラに分解され、最も統治され易い集団に成り果てる。一九三〇年代の後半、ソ連はまさにそんな段階に差し掛かっていた。
わが家は田圃の埋立地の上にある。その折に埋め立てた土が、土と呼べるような代物ではなく、山のガレ場から持ってきたようないわば砕石状のものだ。埋め立てに立ち会っていたが、その中にはなんと重量何百キロという赤石が三個ほど混じっていて、埋め立てには使わず、庭石として使っている。
ようするにわが家の土壌は、土壌改良を施さない限り、草花を育てるには全く不向きだということだ。
土を買ってきてプランターという手もある。事実連れ合いが生きていた頃には、プランターにパンジーなどを植えたりしていたが、それも結構気まぐれで継続していたわけでもない。
私に関していえばもっとものぐさで、それすらも全くしていない。したがってこの季節、春の花々が咲き乱れるのだが、わが家に関してはこの時期に咲く草花は皆無である。
その代わり、木に咲く花は種類は多くはないが元気である。亡父譲りの紅梅の鉢以外は直植えだが、おそらくその根っ子の先端は、埋め立てたガレ石の下のかつての田圃の層にまで達しているため、育つのだろう。
最初に咲くのは、上に述べた紅梅。2月の10日頃に咲き始め、18日には降雪をみたため、咲いた梅が雪に覆われるという珍しい光景が実現した。満開は2月25日頃か。
3月24日現在ではすっかり葉が出ている。
そしてこの2月25日には、例年より一週間ほど早く、桜桃が実る桜が開花し、3月5日には満開に達した。しかも花の付きは例年に比べて実に旺盛で、モコモコ盛り上がるほどだった。
果たせるかな、僅かな花を残してすっかり散ってしまった3月24日現在では、たくさんの桜桃の赤ちゃんが例年以上ににぎやかにぶら下がっている。
梅と桜の退陣に伴って、いま現在の花は連翹(れんぎょう)と雪柳である。実のところ、これらも数日前が満開で、24日現在では、葉のほうが目立ち始めた。
この両者は、多分去年のほうが花の付きが良かったと思う。写真を見比べてみると、去年のほうが真っ黄色と、真っ白に全体が覆われている。
今後、これらに次ぐのがツツジだろう。赤と白の樹齢40年以上の木があるが、枝先にはもう、しっかりと蕾を宿している。4月の中頃の開花だろうか。
それから、花ではないがマサキの木が一本あって、まもなく出てくるこれの新葉が実にきれいなのだ。小さな黄緑の花も咲くのだが、これは気をつけてみないとそれとわからないほどに細かい。その代わりその新葉は光沢をもった若緑でまぶしいほどに美しい。
これらがわが家を彩る春の色彩である。草花に比べれば種類も少ないが、年々歳々、それぞれ季節の到来を告げてくれる「憂い奴」たちである。
もうあと何年みることができるかなどという辛気臭いことは考えず、花々は、ただ咲くがままに咲くという単純明快なファクトに、おのれの心情を重ね合わせ、それらを愛でたい。
『ニッケル・ボーイズ』とはアメリカの作家、コルソン・ホワイトヘッドの最新作である。いまなお、目を閉じることはできない、アメリカの暗黒面をえぐり出しているのだが、ルポ風の硬さはなく、そのストーリー展開が巧みで、ついつい読み進むこととなる。
主人公、エルウッド・カーティスは、1960年代前半、アメリカ南部に暮らすアフリカ系アメリカ人の高校生で、黒人は人間扱いされない南部の現実を目の当たりにしながらも、折からの公民権運動の広がりと高まりに期待をもっている。
そんなエルウッドにとっては、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師の演説集のレコードが聖典のようなもので、くり返しそれを聴きながら牧師の夢(演説の表題「私には夢がある」)と自分のそれを重ね合わせてゆくのだが、同時に自立した市民として生きてゆくためのモラルもそこから学んでゆく。
真面目に学ぶエルウッドの努力は報われ、地元大学の授業を体験学習できるメンバーに選ばれる。その初日、貧しい彼は交通費を節約するため、その大学のある街までヒッチハイクを試みる。しかし、ほとんどが白人のドライバーは薄汚い黒ん坊には見向きもしない。
やっときた黒人のドライバーに彼は拾われる。さあ、希望の大学への道へとまっしぐらだ。
しかしである、彼らを乗せたその車はやがて警察のパトロールにひっかかり、逮捕されてしまう。なんとその車は盗難車で、エルウッドもまたその共犯として逮捕されてしまうのだ。いくら無実をいいたてても哀れな黒人少年の言葉に耳を貸すものはいない。
貧しく、差別されながらも、一途な夢をもって進んできた彼の人生は一挙に暗転し、少年院、ニッケル校に収容されることとなる。
小説は、このニッケル校を主な舞台にするが、タイトルの『NICKEL BOYS ニッケル・ボーイズ』はここで暮らす少年たちの総称である。
小説の大部分はこのニッケルのありようの描写にある。
そこは学校とは名ばかりで、あらゆる収容所の機能を備えている。そう、スターリンの、そしてヒトラーの拷問室と強制収容所のほとんどの機能をもっているのだ。もちろん、虐殺の機能も。
物語は、主人公とそこで知り合った少しシニカルな友人、ターナーとの関係、そしてその二人の脱出行へと至る。エピローグに至ってエッと驚くようなどんでん返しが用意されているが、物語の基調が変わるようなことはない。
私が驚愕したのは、この話がフィクションではなく、今世紀になってやっと明るみに出た事実に基づくものであり、タイトルにもなっているニッケル校のモデルはちゃんと実在したということである。というより、その事実による衝撃こそが作者にこれを書かしめたということである。
ニッケル校のモデルとなったフロリダ州の少年院ドジアー男子校
例えば、ホワイトハウスと呼ばれる拷問室や処罰室は実際に存在したし、少なからぬ生徒が、管理者に呼ばれたまま居室に再び帰らなかった事実があり、それら少年の遺骨とみられる複数のものが、正規の墓地以外の、校内にある沼地から発見されている。この小説の中でも、それらしく「消された」少年の話が出てくる。
もうひとつの驚きは、この野蛮な出来ごとに登場する少年たちは私より数歳年少であり、既に述べたようにこの物語は、私がすでに成人した1960年代の中頃から後半に至るものだということだ。
周知のように1945年、アメリカは占領軍として日本へやってきて、基本的人権や民主主義を説いた。しかし、その20年後に至っても、黒人を人間扱いしない制度が機能していたのだ。
彼らが説いた基本的人権、民主主義は、実は「白人の白人による白人のための民主主義」に過ぎなかったのだ。
そんなことに今更驚くのはナイーヴすぎるかもしれない。近年のBML(ブラック・ライヴズ・マター)を始め、昨今のアジア系を狙ったテロルにおいても、白人中心主義は根強く生き残っているからだ。
さらに私たちは知っている。そのくすぶっている火種を、トランプが引っ掻き回し、その復権を促したことも。バイデン政権が、そうしたアメリカ社会に内在する深い亀裂を、どのように繕うのか、今のところ不明である。
そうした時代背景をある程度知っておく必要はあるが、この小説はエンタメとしても一級品である。
エピローグで明かされる主人公・エルウッドのその後は、あまりにも切なく哀しい。
私たちが当然のように享受している諸権利は、特定の時代の特定の場所での産物にしか過ぎず、いまなおそれが付与されていない場所やシチュエーションがこの国をも含めた世界中に遍在していることを知るべきであろう。
キング牧師の夢は、いまなお人びとの夢であり続け、それが一応実現したかに見える箇所においても、それは不断の努力においてのみかろうじて保たれているのだという事実を肝に命ずべきだろう。
ほら、耳をすませば聞こえるではないか。女性は、貧しき者は、障害をもつ者は、在日は、「わきまえる」ことによってのみその生存が許されるのだぞという通奏低音のように響き続けているあの囁きが・・・・。
*『ニッケル・ボーイズ』 コルソン・ホワイトヘッド 藤井光:訳 早川書房
なお、ホワイトヘッドはこの書で自身二度目のピュリッツァー章を受賞している。
世界中の原発から出るいわゆる「核廃棄物」の処分場、ようするに原発に欠落してると言われる「トイレ」を探す諸問題についてのドキュメンタリー映画だ。
この種の映画は、頭っから反原発を掲げてのものが多いが、この映画ではそうではない。そして、それがこの問題をめぐるリアルな現実とその困難さをかえって浮き彫りにしている。
登場する人物の中心は、イギリス出身でスイス在住の核物理学者にして廃棄物貯蔵問題専門家としても高名なチャールズ・マッコンビー氏。彼は、原発の是非はともかく、この60年にわたるその稼働によって蓄積された35万トンにわたる高レベル放射性廃棄物を数万年、場合によっては10万年の未来に至るまで、安全に保管できる場所を求めて、世界中を巡る。
そうした安全な保管場は今のところほとんど見つかっておらず、にも関わらずそれら核廃棄物は今日も増加し続けているのだ。
彼は、そうした「安全な」最終処分場を求めて、イギリス、ドイツ、スイス、スエーデンなどのヨーロッパ諸国やオーストラリア、アメリカ、中国、日本(青森県六ケ所村)などなどをめぐる。
処分場が実現するためには、地質学上の「絶対に安全」な地盤でなければならない。国際原子力機関 IAEA が決めた基準というのは、地震がない、地下水がない、地盤が粘土質で安定しているなどだが、実は地球上にこれらの条件を満たすところはほとんどないのだ。
それに近い場所として、オーストラリアの南部に白羽の矢が立ったことがある。しかし、オーストラリアは断った。それはそうだろう。原発をもたないこの国が、汚染のリスクを犯してまで原発の上にふんぞり返っている国々の尻拭いをしなければならない義理はないのだ。
こうして、いずれの国、いずれの箇所でも、この危険を進んで受け入れようとするところは少ない。そこで登場するのが、この施設を受け入れれば、それに伴う雇用機会が増え、助成金などで地域が豊かになるという勧誘だ。
この誘いには既視感がある。そう、原発導入に使われた懐柔手段が、その処分場の建設でも駆使されているのだ。
つまり、原発の設置も、その結果の尻拭いも、地域格差による貧困につけ込んで行われようとしているのだ。その図式のあまりのステレオタイプさに驚くほかはない。
かくして、なんとか増え続ける核のゴミを処分する場を確保したいという「善意の」努力も虚しく、「地球で最も安全な場所を探して」の試みは頓挫しているのだ。
つまり世界中の原発は、その核廃棄物の処分の見通しを欠いたまま、「そのうちなんとかなるだろう」という植木等ばりの(若い人にはわからないかも)無責任さでもって今日も運転され続けているのだ。
この問題は、まさにグローバルな問題であると同時に、とりわけこの日本にとっては実に深刻なのである。
そのひとつは、世界中の原発約400基のうち約50基がこの地震列島日本に集中しているというその密度の高さにある。世界中で出る核のゴミの8分の1はこの国によるものなのだ。
そればかりではない。それに加えてこの国は今、あのフクイチの3基の原発の廃炉作業を抱えている。これがまた、膨大な核汚染物資の処分を必要としているのだ。
それについては3月14日放送の「NHKスペシャル 廃炉への道 2021」が詳しいのでそれに沿って述べよう。
先に、現在世界で蓄積され行方の決まっていない汚染物質の総量は35万トンと述べた。では、フクイチの廃炉で出る廃棄物はどうか。核燃料やメルトダウンの結果としてのデブリ、建屋そのもの、周辺の諸施設、その地盤、などなど、「日本原子力学会」の試算によれば、その総量はなんと780万トンに達するというのだ。
ついでながら、政府は40年で廃炉を終え、40年後には更地として再利用が可能としているが、前記、原子力学会は最短で100年、最長は300年先としている。
核廃棄物の話に戻ろう。この780万トンの行き先はもちろん決まってはいない。今のところ、フクイチの施設内に蓄積される一方だ。Nスペはそれらの蓄積地拡大の模様を航空写真で如実に捉えていた。
しかし、そうして蓄積できる固形物はいい。そうではない冷却用の汚染水はまさに緊急の問題としてその解決を迫られている。現在は、その敷地内でのおびただしい貯水タンクに収められているが、その総量はキャパシティの90%をすでに超えている。
どうするのか?蒸留して大気に逃がすか、海へ放出するかどちらかだという。政府や原子力ムラの連中は、それらの水は既に浄化されており、わずかなトリウムしか残っていないから安全だといい、それに危惧する言動は風評にすぎないという。
しかし、私たちは原発は120%安全だという安全神話が覆るのを目の当たりにしてこなかったろうか。そして、今日のこれらの問題は、その安全神話を信じた結果もたらされたものではなかったのか。
この映画の出発点は必ずしも原発反対ということではないと述べた。しかし、その廃棄物を処分する地を追い求めた結果から見えてくるものは、結局原発というのは人類に解決不能な難題を押し付けているいうことなのだ。これはもはや、賛成とか反対とかいうものだはなく不可能なものなのだとさえ思う。
しかし一方、増え続ける核廃棄物への、そしてフクイチ廃炉での汚染物への対応が現実に必要なのはわかる。ここは、全人類の知恵の絞りどころだろう。
とはいえ、一方では原発が稼働し続け、日々それらを排出し続けるなかでこれを解決せよというのはどうしてもおかしい。世界中の原発をできれば瞬時に、あるいは漸次(といってもできるだけ早く)、停止させることが前提での作業ではないだろうか。
*監督 エドガー・ハーゲン 後援:在日スイス大使館
【SF的発想による続編】
さて、そうして核廃棄物の処分場が見つかったとしよう。そこには10万年にわたって安全に保管されねばならないという。
ここで考えてしまうのだ。人類が文明をもち、伝達機能としての記号や文字をもつに至ったのはたかだか数千年前に過ぎない。そしてそれらの記号ないしは文字が、今日の私たちにすべて解読可能であるわけでもない。
大英博物館にあるロゼッタストーンは解読なし得た一つの記念ではあるが、解読し得ていないものもある。例えばナスカの地上絵は上空からしか見えないそれらがなんのために描かれなにを意味しているのかはいくつかの憶測はあるものの謎のままである。
なにを言いたいかというと、核廃棄物の貯蔵地が運よく見つかったとし、そこへのン万、ン百万トン単位の核廃棄物が貯蔵されるとする。もちろんこれは極めて危険であるから厳重に保管され顕わにされることはないだろう。そしてその危険性は、代々にわたって文書や記号でもって後世へと伝えられるだろう。
しかし、やがて文明は変化し、原子力そのものが過去の野蛮な遺産として放棄され、そしてついにはそんなものがあったことすら忘却されるだろう。その折の文明の姿がどのようなものかは想像すらできないが、百年、千年後はともかく、更にそれ以上が経過した時、果たして今日の記号や言語が彼らにとって解釈可能なものとして残るだろうか。否、記号や言語を介して何ごとかを伝達するということ自体が残存するだろうか。
つまり、危険物がここに集約されているいることをン万年後の人類にちゃんと伝えることができるだろうかという問題があるのだ。
広大な砂漠や岩山が連なる一帯に、何やら頑丈な建造物群や洞窟状の箇所が集中している場所が発見された。その周辺には棒状のものが一定の間隔で立ち並び、その棒状のものが横に渡したものによって連結され、それらがこれら建造物群を取り囲んでいる。その入口と思しき場所には奇っ怪な図柄のカードのようなものや、板状の平面に細かい模様が列をなしたものが立ちふさがるように立っている。
どうやら、古代人の遺跡のようなものだ。しかも人里離れたこんな場所に、こんなに厳重にしまい込まれているのは宗教とかいうものの秘儀のための場所だったのだろうか。
あるとき、大掛かりな探検隊が組織され、入り口は破砕され、中のものが古代の遺物として運び出され、大勢の人々に公開される。
何やら整然とした形状のものもあれば、不規則に歪められた形状のものもある。この大発見は人々の関心を呼び、世界中の各地で大々的に公開された。
その頃から、それに触れたり、一定の距離で見たりした人を中心にバタバタと倒れる者が続出し、そのように彼らを倒した危険な毒素は、空気や河川、大洋に媒介され、地球の隅々まで拡散され、それにつれて被害がどんどん広がって行った。
それらは、紆余曲折があってここまで生き延びてきた人類に、決定的なダメージを与えてゆくのだった。
広い意味での今池エリアの中にかつて「壺」という居酒屋があった。
私が初めて訪れたのは、サラリーマン時代の後期、1960年代の後半だった。きっかけは、今はなき同級生の須藤氏から、「少し後輩でまだ現役の学生、堀田君が面白い店でバイトをしているから行ってみよう」と誘われたからだった。
まずは、店主のママさんが個性的で面白い人だった。竹を割ったようなというかとにかく芯がすっと通ったような性格で、歯に衣を着せず、時折、客を叱り飛ばすような豪快な人だった。その「極妻」顔負けの啖呵は爽快で、その辺の三下などが萎縮するほどであった。
そんな彼女であったが、実は繊細で折れやすい一面をもっていることを知ったのは後年のことだが、これの詳細は書くまい。
客層も私などより一世代若い、いわば全共闘時代の人たちが多く、私のような六〇年の敗残組に新たな刺激を与えてくれるような活気があった。
その中には数年前に他界した予備校K塾の名物講師、牧野氏(ああ、彼はその折、頭髪も黒々とし、学生服に身を包んだ現役の学生だった)などもいた。彼を始め、私より一世代若い友人たちとの交流は、この店の存在に負うことが多い。
やがて、私自身がサラリーマンからも脱落し、今池の街で居酒屋をもつことになって、いわば同業になったのだが、交流は続いた。客のうちのどれほどかは、両方の店を行き来してくれるようになった。私の店が午前二時まで営業していた事もあって、ママをはじめ、飲み足りない客の面々がきてくれた。
かと思うと、ママから電話がかかってきて、「立派な鯛の頭をもらったがどう調理していいかわからん。お前、ちょっときて手伝え」などといってきたりした。板場にあらましのレクチャーをもらい、出刃包丁を持って駆けつけ、もっていった大根共々、なんとかそれらしいあら炊きを作って、主客混合で飲んだりもした。
その豪快なママが、癌に倒れたのは八〇年代の終わりだったろうか。野外の寺の境内で行われたその葬儀にも出て、上記に書いたK塾の牧野氏が弔事を読むのを聴きながら、何処からともなく金木犀の香りが漂ってくるのを感じ、しばし忘我の境地になったことは覚えているから10月のことだと思う。それなのに、その年が何年だったか想起できないのは私の記憶能力の劣化のせいだろう。
ママが倒れてからも店は続いた。というのは常連たちが、このまま自分たちの居場所を失うのは辛い、なんとかみなで協力しあって店を維持したいということになったからだ。牧野氏はもちろんその中心だったが、これには前記の須藤氏や私も一枚噛んでいた。
その息女や常連だった若い女性とママ候補はいて、実際にそのもとで営業を始めたりしたのだが、どうもスッキリしない。
しばらくガタついていたが、やがて、開店以来の常連で、私よりやや年上のお姉さん、小芦さんが引き受けることとなって落ち着いた。私もこの小芦さんが適任だと思った。
小芦さんとは、半世紀以上前の壺で、カウンターで肩を並べて飲んでいた仲である。
これはあくまでも男性目線だが、前のママが「おっかぁ」という感じだったのに対し、小芦さんは「かあさん」というイメージだと思う。もちろん、二人とも、芯は一本通っていた。
そうしてバトンタッチされた店だったが、既にその折ある程度の年令に達していた彼女のことも考え、土曜日一日のみの開店という変則的な運営になった。しかし、この方式は成功したようで、土曜日にそこへゆけば誰か彼か懐かしい顔ぶれに逢えるというある種の定点の役割を果たしたのだった。
小芦さんはそうした人々をつなぐ貴重な役割を果たしてくれた。
その後、火事騒ぎがあったりし(火元はこの店ではない)、大家の改築等の方針に、この建屋そのものを撤収することになってすぐ近くに引っ越すのだが、それを機会に「壺」を改め「芦」を名乗るようになった。小芦さんの一文字からである。
これは無理からぬことで、かつてのママ時代からすでにして小芦さんの時代のほうがはるかに長くなっていた。
そのうちに、私は自分の店を畳み、岐阜へと引っ込むことになった。しかし、学生時代や店で培った人脈は名古屋のほうが遥かに多く、月の内数回は名古屋に出るような生活の中、土曜日に当たる日は、この芦に立ち寄り、古くからの友人(といってもほとんど私より若い人たちだが)との旧交を温める機会としていた。
その芦が、この三月末でいよいよ閉めることとなり、13日、久々に名古屋シネマテークで映画を観たあと、立ち寄ることにした。シネマテークを出る折に声をかけられたのだが、それがこの館の責任者、倉本氏で、じゃあ、一緒に行こうということなった。
入り口で、C大学を定年した松林氏と出会い、中へ入るとやはり常連で一昨年、レコードやCDの音楽媒体の店「ピーカンファッジ」を閉店した元店主の張氏がいて、つい先般亡くなった共通の友人満福寿司の田中氏を惜しむ挨拶を交わした。
やがて、名大工学部教授の黒田氏やかつてのロックの聖地、ライブハウス「ハックフィン」の元経営者、晶子さん夫妻が登場し、さらには、仕事を終えて駆けつけたウニタ書房の林氏とも逢うことができた。
こうした人たちと同席していると、私もまた現役今池人に戻った気がするから不思議だ。
後ろ髪を引かれる思いだったが、自分の年齢と、これから岐阜まで帰らねばならないということを思い合わせ、芦をあとにした。
帰り際に、小芦さんとがっちり握手をして、今度はまた半世紀前のように、カウンターのこちら側で肩を並べて飲みましょうと別れた。
そして若い人たちに、この店がなくなっても、ここへ行けばこのメンバーたちに逢えるようないい店を見つけてくれと懇願したのだった。
店を訪れたのは春宵といってよかったが、外へ出ると、一層闇が深く、ブルブルッと身震いをして、急ぎ足で駅へと向かった。
そして、自分が店を閉めた夜のことを思った。
*以下は、「壺」時代、牧野剛氏との思い出を記したブログです。
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多和田葉子さんの小説はかなり読んできた。
端的にいって面白かったし、それに、言語について極めて意識的な作家として見るべきものがあると思っていたからだ。
事実彼女は、ドイツに在住し、ドイツ語でも表現活動を行い、1996年にはドイツ語を母語としないにも関わらずドイツ語で文学活動を行っている作家が選考の対象とされるシャミッソー文学賞を受賞している。
小説ではなく言語への立場を述べた彼女の書には『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(岩波書店2003年 のち岩波現代文庫)、『言葉と歩く日記』岩波新書、2013年などがある。
最近読んだのは、『星に仄めかされて』(2020年)で、これは前作、『地球にちりばめられて』(2018年)の続編をなしている。
ざっくり言ってしまえば、もはや「NIPPON」という国もその列島も消滅してしまったと思われる未来社会において、失われた言語(日本語?)とそれを話す同胞を求めてヨーロッパを旅するHIRUKOが、それらしい人物SUSANOOに出会うという物語で、その周りにはまた、トランスナショナルな人物たちが配置されている。
こう書いただけで明らかなように、やはりこれも言語をめぐる物語といえる。
しかし、部分的に面白い点があるものの、トータルとしてはあまり印象に残らないのだ。私はなにを読んだのだろうと自問したとき、これと浮かぶような印象が希薄なのだ。
なぜだろうと考える。それはどうも彼女の興味の対象の、ある種の閉塞性にあるのではないだろうか。彼女は、言語に対して意識的であると書いた。しかし、逆にその強度がまさって、メタ小説、あるいはメタ言語的な小説を目指しているのではあるまいか。その試みを全面的に否定しようとは思わないが、それによって犠牲にされているものがあるのではないかと危惧するのだ。
確かに言語論的な意識は彼女の特異点かもしれない。とくにシニフィアン(表現される言葉や記号そのもの 例えば「花」)とシニフィエ(それによって指示される内容 例えば「花」と言われて思い浮かぶイメージなど)を峻別し、そのうちのシニフィアンのもつマテリアルな質量感とその戯れを描くのは彼女の文章の特徴ともいえる。
しかしである、それに基づく小説となると、ある実験的な意味合いはあるとしても、それが面白いのかというと、それは別問題のようにも思われる。
やはり、小説にはグローバルであれ、極小化された私的なものであれ、状況との切り結びのようなものが必須に思われる。
多和田さんの近作にそれがないとはいわないが、言語論的意識高い系が目立って、そうした状況との関係が希薄になっているのではないかと思ってしまうのだ。
そしてそれが、読み終わっても何かもの足らない印象しか残らない要因ではあるまいかと思うのだ。
『献灯使』までは面白かった。たしかにここでも、ダジャレに似たシニフィアンの戯れのような表現は多くでてくるが、そこで描かれる緩やかなディストピアのイメージは、あの3・11後を示唆する近未来を思わせ、それへの応答としてのリアルさを失ってはいなかった。
しかし、近作の『地球にちりばめられて』や『星に仄めかされて』には、何かそうしたリアルな芯のようなものが感じられないのだ。したがって、次ページを繰る際のあのドキドキ感も以前のようではない。
むろんこれは、私の読みの浅さにのみ起因する一方的な感想であるかもしれない。
読者である私が求めているのは、言語論的洞察そのものではなくて、その上に立ってどのような小説が可能かである。多和田さんもそうした点でいろいろ模索をしているのかもしれない。
かなり否定的なことを書いたが、もう少し、この作家に寄り添って読んでみたいとは思っている。