六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「図書館に遊ぶ」より

2020-01-28 15:13:06 | 写真とおしゃべり

 「何をして遊んでいますか」と問われて困る時がある。
 家事労働以外にとりわけ仕事といったもの、ましてや人様のためになるようなことはしていないから、いってみれば、毎日が遊びのようなものだ。
 とはいえ、目的がないわけではない。PCを立ち上げて情報を探り、それなりに学んだり、ときとしてブログやSNSに何かを書き散らしたりもする。
 また、年何回か出す同人誌に、評論まがいのものを書いていて、そのために下調べをしたり勉強したりもする。しかし、大きな枠でいってしまえば、それもまた遊びというべきかもしれない。

                                                                                               
 下調べで思い出すのだが、月一以上の回数で岐阜県図書館へ行くことだ。図書館といえば、書を探し、その場で読んだり、借りてきたりで、勉強の色合いが強いかもしれない。
 まあ、たしかにそれがメインではあるのだが、その前後は私にとって遊びのようなものである。

       

   
 かつては自転車で行くことも多かったが、天候によってはそれも無理だし、そうでなくとも、片道20分、ペダルを漕ぎ続けるのもしんどくなって、最近では車で行くことが多い。

                                     
 着いても、素直に館内には入らない。道路を一本挟んだ向こうが県美術館でもあり、この辺りは普通の市街地と違って樹木が多く、庭園風にしつらえられているのも嬉しい。図書館、美術館の間を分かつシデコブシの街路樹がある道路や、美術館の構内、図書館の中庭風の空間などなどがちょっとした散策の場となる。

    
 それにつけても、県美術館の側にあって、私が長年四季折々のウオッチングの対象にしてきたナンキンハゼの樹が、昨年、県美の改修工事に伴ってバッサリ切られてしまったのは悔やまれる。

      

                                人が渡ってゆく道路の先にその樹はあったが、今はもう・・・・
 
 春の新緑に始まり、細い藤のような若緑の房状の花、葉の緑が一段と濃くなる頃には、その葉の下に、あの花がどうしてこんなになるのだろうかと思わせるいたずら坊主のような少し扁平な丸い実が隠れている。

    
      
 紅葉が美しい。それはどれか一色に定まらず、赤、橙、黄色、それにアクセントとなるような暗紅色などがランダムに散りばめられ、多彩にきらめく。風が吹いたりすると、そのそれぞれの色がそれぞれに翻り、万華鏡の変幻を観ているようで楽しい、
 この頃、その実は濃い褐色の外皮に覆われているが、その外皮が弾かれたようになっているものもある。

 この樹の独特の容貌が現れるのは、じつはこれらの紅葉がすべて散った折である。まるで、真珠で飾り立てたかのようになるのだ。紅葉の折にはまだ実を包んでいた褐色の外皮が弾け飛び、真っ白な無数の実が枝々を飾り立てる。
 これらが初冬の夕日を浴びて、ほんのり紅色にきらめいたりしていると、思わず、しばし立ち尽くすほどだ。

   
 さらにそれらの実も全て落下し、まさに裸になった冬、そのくねりよじれた枝たちが、少し荘厳な風貌で空間を支配する様も絵になる。

 が、それももはやここでは観ることができなくなってしまった。

 図書館について書くつもりが、隣の美術館のナンキンハゼの追憶で手間取り、そのレクイエムになってしまった。
 肝心の図書館については改めて書くこととしよう。

 写真はそれぞれ、今はなき樹のものである。
 ガラケーで撮った、あまり写りの良くないものもある点はご容赦。

 

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【六文銭の飼育方法】最近の餌から

2020-01-23 11:31:10 | グルメ

 生存歴がかなり長いので、大抵の餌には順応し、特に拒否反応は示さないようですが、最近はこんなものを与えています。
 何のへんてつもないものですが、けっこう満足して食しているようです。

残り物の鶏笹身の一口カツと白菜を用いたカレーあんかけ風うどん
 この場合は、白菜の中心部、白いところにしっかり火を通して柔らかくしたほうが口当たりもよく美味しい。とろみは、カタクリ粉のみではなく、少し小麦粉を加えたほうが最後までしっかりと保たれる。
 カレー粉は好みに応じてだが、私はかなり多めに入れて、おまけにコショウや一味まで加えた。熱々、辛々で、それだけで満足々々。

          

農協の野菜売り場で野菜を買ったついでに、近所の女性の手作りのタクアンを一本180円でゲット。さすがの私も、自分でタクアンを漬けるスキルも気力もない。
 人様が漬けたものだが、スーパーなどでの既製品よりは素朴で大根の味がしっかり残っていてうまい。

          

こちらは自分で着けた赤カブの酢漬け。酢と砂糖の配合に尽きるのだが、今回はうまくいった。
 亡くなった連れ合いの好物で、よくリクエストがあった。
 赤カブを入手しても、漬物にしたりすると、「私は酢漬けがいい」とクレームが入った。別に漬物に箸をつけなかったわけではないが、特にこの酢漬けが好きで、まだ浸かりきらない頃から口にして、結果として大半を彼女が食した。
 上の黒いのは細切りの昆布。他に鷹の爪と柚子。

              

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ポン・ジュノ『パラサイト』の凄まじさ 「階層」と「臭い」

2020-01-21 02:24:11 | 映画評論

 凄まじい映画である。
 監督のポン・ジュノに関しては、10年前ぐらいに観た『母なる証明』で、とても凄まじい映画を作る人だなぁと思ったのだが、今回の映画ではその凄まじさが半端なく幅広い。
 以下、できるだけネタバレにならないようにそれについての感想を述べることとしよう。

              
 

 それはホームドラマであり、シリアスな社会問題であり、コメディであり、ミステリーであり、心理サスペンスであり、ホラーであり、バイオレンスであり、ともかくそれらのすべてを含み込んで凄まじい。
 私がここでいう「凄まじい」は、衝撃的という意味である。

 背景には格差社会がある。
 近年、この格差を意識的に捉えた映画としては、『わたしは、ダニエル・ブレイク』や『家族を想うとき』のケン・ローチを思い浮かべる。
 ケン・ローチのこれらの作品は、いわば直球勝負で、問題の提示や経過もリアルで、ストレートに核心に迫ってゆく。

          

 これに対して、是枝裕和の『万引き家族』などはその背景に格差社会を意識しているとしても、その表現は変化球で、直接それとして表示はしない。加えて、是枝のものは常に「家族」への問いが背景にある。
 ただし、ケン・ローチと是枝に通底するものが外見以上に色濃いのは、昨秋、NHKの「クローズアップ現代」で放映されたこの両者の対談で明らかで、格差社会が彼らの映画作りのバックグラウンドにあることが明言されている。

          
 

 さて、ボン・ジュノの『パラサイト』であるが、どちらかというと是枝流の変化球ともいえる。事実、その状況設定での是枝との類似性を指摘する向きもあるが、とりたてて強調する点ではないだろう。

 格差社会の露出度からいったら、この映画はまさに端的にして明確である。なにしろこの両者、4人全員が失業者で、湿気臭い半地下で暮らす一家と、IT 企業で成り上がり、大邸宅に住まう一家(やはり4人家族とお手伝さん&運転手)とが直接交わり、パラサイトの関係に至るというのだから。
 ただし、このパラサイトにはもうひとつの階層というか隠し球が秘められていて、それがこの物語の終焉に大きく絡んでくることになる。

 映画の前半は、是枝のそれと似て、コミカルなシーンが続出するが、後半に至り、園子温の『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』のように、凄惨な血を見るシーンにも至る。

          
 

 この映画の二つのキーワードを挙げるとするならば、そのひとつは「階層、ないしは上下の関係性、配置」のようなものといえる。
 そしてもうひとつは、通奏低音のようにつきまとう「臭い」だろう。

 前者はこの映画の主たるシーンが、下町の半地下室と高台の大邸宅であること、さらにはその邸宅自体が地上階と通常の地下室、そのうえ、核戦争を想定して作られたという秘めたる空間としてのシェルター部分という階層をなしていて、それらが現実の社会的階層の直喩であることは指摘するまでもないだろう。

          
 

 後者の臭いは、地下特有のすえた現実の匂いであるとともに、格差社会でのその境界を示す象徴的なものでもある。ラスト近くで、父を行動に駆り立てるのは、邸宅の主の臭いについての言及であることもむべなるかなだ。
 余談ながら臭いの持つ象徴的な意味合いの強さは、子どもたちのいじめの現場においてもしばしば「臭い」が差異性を際立たせるボキャブラリーであることからもうかがい知れよう。

         

 他にも、IT 社会から隔離された人間の通信手段が、モールス信号であるという対比の面白さ、風水を示唆する石の登場など、この映画にはさまざまな面白いファクターが詰め込まれているようだ。

 映画は、思わぬ惨劇を伴って終盤を迎えるのだが、そのアナーキなドタバタともいえる惨劇シーンは、もはや加害者と被害者の識別すら困難なカオスを産み出すだろう。言ってみれば、それに立ち会う私たちは、通常の活劇シーンとは異なり、もはや誰を応援し、誰が助かるべきかもわからないままに立ち尽くすほかはないのだ。

          
 

 ダラダラとした感想を締めねばなるまい。
 映画の終章であるが、これが、たとえ貧しくとも心豊かに互いに支え合って生きればということで終わるとするならば、ひとつの起承転結として安定した結語にはなるのであろうが、それならば凡百の映画に堕するというべきであろう。
 ポン・ジュノはそんなふうには終わらせない。
 怪我から復帰した息子は、もう一度、格差の出発点である学歴社会に挑み、のし上がることを決意し、さらには、あの大邸宅を手に入れることを夢見る。

 映画はいささかの戯画化を含むとはいえ、法における平等という擬制民主主義のもとに隠蔽され、自己責任として不問に付される格差の現実を、まさにドラスティックに垣間見させてくれる。

 

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今年初の名古屋行 インタビューを受ける予定

2020-01-17 11:06:05 | よしなしごと

 中日新聞の記者から合って話が聞きたいといてきたので、今日午後名古屋へでかける。 

 60年安保の60周年記念記事らしい。事実のディティールは忘れていることが多いから、むしろその意義についての話になればいいと思っている。

 あれが何だったのかは私の生涯背負ったものだから、できるだけ誤解や短絡が起きないように話せれば良のだが。語ったものと記事になったものが相違することはしばしばだが、それもやむを得ないだろう。その落差が小さいことを祈るのみだ。 

 掲載は19日らしい。

 今年はじめての名古屋行き。
 風邪の治癒率は91.3%。

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【最後の晩餐】珍味中の珍味・渓流小魚の熟れ寿司が届く

2020-01-16 01:25:52 | グルメ

 

 私の父の故郷は福井県で、九頭竜川の支流、石徹白川沿いにある。
 この地域では、毎年夏になると川の一部をせき止め、その一箇所に水が落ちるようにし、そこに網や水のみを通す箱を仕掛ける「登り落ち漁」を行う。これはせき止められると、その壁に沿って下流に行ける場所を探す魚の習性に沿った漁法で、これにかかるのは、ギバチの仲間のギギやカジカ、渓流にのみ住むアジメドジョウなどの渓流の小魚である。

 それで穫れた小魚を、熟れ寿司にしたのが上の写真である。秋口に漬け込んで、正月前後が食べごろという珍味である。
 もちろん、民間漁法に依る原材料を民間の調理に従って行うものだから、同じ熟れ寿司でも、琵琶湖の鮒ずしのように市場に出回ることはほとんどない。
 その流通範囲は、私が今回そうであったような親戚関係とか、親しい知己の範囲を越えることはないと思う。

 とはいえ、その私にとっても今回は久々で、全く僥倖という他はないのだ。
 というのは、かの地でも各戸でそういう漁をすることがうんと少なくなり、したがってこうした熟れ寿司を作る家もどんどん減少していること、加えて、父が亡くなってからもう4半世紀経ち、先方でもその世代が全て亡くなり、それどころか、私の世代自身がどんどん亡くなっている状況の中で、親戚といえどもその関係がどんどん希薄になっているなかでの今回なのである。

 私自身、もう何年も口にしていないし、殆ど諦めていたところ、ひょんなことでそれが届けられたのだ。
 懐かしくも美味い味だ。漬けられた小魚たちは、骨や皮や身の識別は不可能なほど一体となって馴染んでいる。発酵による程よい酸味と香りが口腔に広がる。
 熟れ寿司には、漬け込んだご飯の部分をこそげて、そこへ漬けた素材の部分のみ食べるものもあるが、この熟れ寿司は、そのご飯の部分がじつに美味しい。小魚とご飯の部分を一緒に食べるとなおなお美味しい。

 合わせる酒は、赤ワインだと生臭味が残ることがあり、白のほうがいいが、なんといっても日本酒だろう。ついで焼酎だが、これはお湯割りがいいと思う。
 こんな美味いものを今宵食しているのは、日本の中でも、いや世界の中でも、ごくごくご~く少ないのではないかとの優越感のうちにそれを食している。

 それに今ひとつ、上に述べたような事情から、そして私の年齢から、これがその最後になる可能性がとても大きいのだ。
 だからこれだけは、巨万の富を積まれても、百年の恋人にも、絶対に譲ることはできないのだ。
 だから恋人たちよ! 諦めてくれ!

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瓶に詰めて流す一〇歩の距離の風景たち

2020-01-12 16:44:48 | 写真とおしゃべり

 風邪を拾ってきて一週間、かつてならとっくに治って飛び回っているところだが、寄る年波、いまなお、スカッとは行かないままだ。
 それに、ちょっと籠もってやるべきことが大詰めなため、ほとんど監禁状態でストレスも溜まる一方。
 以下は、わが家の玄関からほんの一〇歩ほどから見えるモノたちの写真。
 こんなのを改めて載せるなんて、遭難者や監禁された者が、自分はここにいるよというS・O・Sを発信しているようなものだな。
 誰も助けてはくれないが、多分。

              

         

         

          

              

             

 

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鬼の霍乱 わが風邪ひきの記

2020-01-10 00:28:17 | よしなしごと

【発症】1月7日  

 ついに風邪につかまった。例年この頃、喉が痛む風邪に見舞われる。  クリニックで薬を出してもらって飲んでれば大禍なくやり過ごせるはずだが、なにせこちらの治癒能力が年々低下しているから油断はできない。熱燗かっくらって寝てしまえばいいのだろうが、やるべきこともある。  写真は昨日のクリニックの帰り。小さな月が。

             

【確信】1月9日  

 今日は洗濯物がよく乾く!   それにしても風邪はまだ治らない。いろんな症状が出ているが、それらが出尽くした時に治るのだろう。  ひたすら、待つ!

         


【結果】1月9日  

 予想通り、洗濯物はよく乾いた。ただし、今朝の真っ青な空とは様子が変わってきた。風邪は依然として同様。暖かくしてひたすら書などを読んでいる。

          

【一人鍋】  

 風邪で食欲もない。温かいものをと鍋に。  白菜、大根、葱、春雨、豆腐のシンプルなもの。出汁は昆布に味醂、塩、薄口醤油。  写真手前の黄色いのは柚子の千切り。これと一味でいただく。手前右の赤い小皿は辛子明太子。  こんなものだと食欲がなくともある程度食べることができる。

          

          

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お正月にいただいたお酒&飛騨市のことども

2020-01-04 11:43:01 | よしなしごと
 今年は県産酒の「蓬莱」をいただいた。
 しかし、同じ岐阜県でも、私の住まう美濃地方と違って、このお酒の産地は飛騨地方である。しかも飛騨市。

 とはいえ、この飛騨市という地名には未だに馴染めない。というのはこの市は、いわゆる平成の大合併で2004年に誕生したもので、それ以前は、古川町、神岡町、河合村、宮川村といった。

 そして、その時代にこそ、私はこの地方と渓流釣りなどを介しての接触が多かったのであった。もう、渓へ行かなくなってから久しいが、宮川、小鳥川、高原川などにアマゴやイワナを追いかけた日々のことが昨日のように瞼に浮かぶ。

 現在の市勢は、人口23,000弱だとのことだが、その広大な山地や森林の面積からいって、熊や鹿、猪のほうが数多く棲息するのではないだろうか。

              

 このうち神岡町は、かつては日本4大公害病の富山イタイイタイ病の原因となったカドミウム垂れ流しの三井金属鉱業神岡事業所の所在地として知られていたが、近年は、スーパーカミオカンデでその名を知られ、日本人がノーベル物理学賞をとったりするごとにクローズアップされる。
 
 また、2、3年前には、アニメ映画『君の名は。』のモデルではと騒がれ、聖地巡りの若者が押し寄せたこともある。

          

 私がこの正月にいただいたお酒の蔵元・渡辺酒造は、旧古川町にあり、まだ合併前にそこを訪れたことがある。その折は、街づくりのディスカッションの講師としての来訪だったため、一般の蔵元探訪とは違って、社長がピッタリ張り付いての案内で、各種の酒が飲み放題だった。
 願ってもない機会とはいえ、やはりベロンベロンになるのははばかられるので、ブレーキをかけるのに苦労した。

 古川町は、1月15日、女性がその恋の成就を願う三寺参り(蝋燭の灯りに導かれて三つの寺を巡る)や4月の勇壮な「起こし大鼓」の祭りも見ものである。

 なお、この地は、女工哀史でも知られる長野県の岡谷などへの若い女性の出稼ぎの基地であり、飛騨地方一帯から集められた女性たちがこの地へ集結し、険しい野麦峠を越えて信濃側へと旅立つのだった。そして、勤めを終えて帰り着く地でもあった。その行きと帰りとの人数の違いに、当時の厳しい労働環境が示されている。

 たかが正月の酒である。老いたる酔いどれの感傷含みの思い出である。しかし、酒がその産地の歴史や伝統を反映したものであるとするならば、私がこれらの他愛もない回想とともにそれを味わったとしても、むべなるかなである。
 特定の場所のアウラをもたない大メーカーの酒にはない、地酒を嗜む特典がここにある。

          

 写真のぐい呑みは、私の友人が東濃の方の窯元で見つけたものをわざわざ届けてくれたもので、感謝を込めて、正月中はこれでお酒をいただいた。
 このぐい呑みに記された六文銭がポイントなのだが、現役引退以降約20年、もはやそれをわかってくれる人も少なくなった。
 それだけに私にとっては、ありがたい授かりものであった。

 なおこの飛騨市の「騨」は正式には「驒」の字であるが、PCやワープロによっては「驒」の文字がないものがあり、総務省の特例措置として「驒」または「騨」、どちらを使用してもいいことになっているのだそうだ。



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元日の散策から 希望や絶望から逃れて

2020-01-02 01:52:02 | 日記

 正月だ。これが契機で何かが変わるなどとは思っていないが、何かの節目にはなるだろうと、日ごろ苦手な掃除を少しばかりしてみたり、正月中の炊事をスルーするためのおせちなどを作ったりする。

          
            年末に降った雨でできた水たまりに、新年の空が映っている

 その過程で、味見だの何だのといってけっこう口に運ぶ。
 できたッ…といって一杯飲んだりする。
          

          

          
 

 大晦日の11時過ぎ、12時ちょっと前に年越しそばを作り、おとなしくそばだけ食べてればいいのに、そこでまた飲む。

               

               
 年が明ければ明けたで、さしてめでたくもないのに、めでたいと強弁し飲んでしまう。
 植木等風に言えば、「これで身体にいいはずないさ」ということで、昨年末より2キロの体重増加。

          

               


 ならば歩かねばと、元日の午後、重い尻をあげて歩いた結果がこの写真たち。
 前半は初詣だが、神仏にあまり好かれていないことを自覚しているから、少しばかりの遠慮と距離をおいての対面。

               

          
 しかし、この鎮守様の森の佇まいは好きだ。人びとが祈る空間には、寺社にしろ教会にしろ、かつてより祈られたことどもが堆積し、独特のアウラが形成されている。

               

          
 

 神社を離れてなおも散策する。
 急速に都市化しつつあるこの界隈にもまだまだ面白いスポットがある。それらは早晩、消えゆくものかもしれないが、だからこそ、この瞼に焼き付けておきたい風景でもある。

              
 冬の夕暮れは早い。いつの間にか雲が色付き始めた。さあ、早く帰って洗濯物を取り入れなければ・・・・。

              

【付録】途中、ちょっとショッキングな光景に出会った。かねてより心配をしていて、昨年夏の記事にも触れたところの畑も家も取り壊され、売地になっていたことだ。この家に何があったのだろう。私に柚子をくれた女性にどんな変化があったのだろう。
 なんか、胸キュンの風景ではある。
 それについての関連記事は以下をご覧ください。
  https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20190730

 

 

 

 

 

 

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