六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

久しぶりの名古屋駅西口と「駅裏」時代の思い出

2024-10-24 00:17:24 | 想い出を掘り起こす

 久しぶりの名古屋駅西口である。久しぶりといっても何年ぶりかというほどではない。こちらにある映画館、名古屋シネマスコーレには毎年何回かは来ているからだ。しかし、最近では映画を見る機会が減ったこともあり、一年近く来ていなかったかもしれない。

 それにかつては、わたしたちの同人誌をわざわざ店においてくれるママさんがやっていた飲み屋があって、映画を見ないときでも岐阜への帰りに時間の余裕がある折にはよく寄ったのだが、その店も閉店してもうかなりになる。
 今回は映画を観るためではなく、月イチで参加している読書会の会場がたまたまこの西口側になったからだ。

 西口近辺は今、工事箇所がやたらに目立つ。ほとんどが私の生きているうちは運行しないであろうリニア新幹線の関連工事だ。
 それらを尻目に、読書会の会場へ歩を進める。

      

 私が初めてこの地域に足を踏み込んだのは六十数年前に岐阜から名古屋の大学へ進学した折であった。その頃この地域は「駅裏」と呼ばれていた。そして先輩たちは口を揃えて言った。「駅裏の飲み屋は安いが物騒だから行かないほうがいい」と。

 この地区が「駅裏」から西口、あるいは太閤口と呼ばれるようになったのは20世紀の終わりごろだろう。その時期は、日本海側を「裏日本」と呼ばなくなった頃とほぼ同一と思われる。
 ただし、こうした呼称は全国的なもので、JR岐阜駅でも、もっぱら私が利用する南口はかつては「駅裏」と呼ばれていた。その駅裏近くの実家で育った私の記憶では、亡父への年賀状が「岐阜市駅裏 ◯◯◯◯様」で届いたこともある。

 名古屋駅の西口に話を戻そう。「駅裏=西口へ行くな」という先輩たちの戒めには根拠がないわけでもなかった。「駅裏」は当時、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎(今の西成あいりん地区)と並んで日本の三大スラム街の一角を占め、治外法権の場所といわれていたからだ。

 実際のところ、駅の表側=東側=桜通口と比べるとその環境の差はとても大きかった。東口も現在のように高層ビルが立ち並ぶほどではなかったが、そこそこ、大都市の玄関口をなしていたのに比べ、「駅裏」はほとんどがいまだ未舗装で、じっとりした路地に闇市とドヤ街が広がり、夜ともなるとバラックのような店や屋台に赤ちょうちんが灯り、客を誘っていた。

 ちなみに当時(1960年前後)はどこの街でも屋台は健在で、名古屋でも今池界隈の屋台街、栄から柳橋近くまで続く屋台街は隆盛を極めていた。それはまた、バイト代が入ったときにやっと飲める私の世代にとって、その価格帯からいっても不可欠な存在だった。
 それらを、64年の東京五輪を契機にして、お馬鹿な政府が「諸外国に恥ずかしいいから」という理由で全国一律に禁止してしまったのだ。

      

 それはさておき、そうした屋台でやっと飲める私たちにとって、さらに救いは駅裏の飲み屋の安価さであった。「駅裏の店で使ってる肉は犬や猫だから安いのだ」という悪口も耳にしたが、安価で口に入るものがありそれを肴に飲めるというだけでもうじゅうぶんありがたかったのだ。
 なお、今のアメリカの大統領選で、トランプが移民たちは犬や猫を捕らえて食べていると演説したというのを聞いて、吹き出しそうになった。

 しかし、やはり「駅裏」はなんとなく怖かった。だから、飲み屋にしてもあまり駅から離れたところまでは行かず、何かあったらすぐ駅へ逃げることが出来るように身構えていた。その意味では当時の私は「駅裏」への偏見から自由ではなかったともいえる。

 写真はその駅裏改め西口から見た名古屋駅の現在の姿である。
 明るい方は読書会へ出かける行きがけの撮影であり、暗い方は読書会とその後の懇親会終えてからのものだからその時差は五時間ほどである。

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親孝行な子どもたちによって実現した夕餉と渓流釣りの話

2024-09-30 01:48:55 | 想い出を掘り起こす
 私の20代後半から50代前半ぐらいの趣味は渓流釣りだった。エサ釣り、ルアー、フライと一通り全部やった。
 
 この時代は、私の居酒屋経営時代とも重なるのだが、顧客のK君は顧客であると同時に、釣り仲間でもあった。彼は、釣りためたイワナを冷凍保存しておき、年末の最終営業日に私の店にもってきて、それを私が焼き、土鍋の酒に浸して岩魚の骨酒をカウンターを取り巻く常連客で回し飲むのが恒例の行事だった。

 その元気印の彼が、今年、自分の部屋で孤独死してしまった。それを知って、今一度、渓流に立ちたいという思いが募った。しかし、イワナやアマゴを求めて渓流を遡行する釣りは、沢登りにも等しく、腰痛持ちの85歳の私には、はなっから不可能だった。

 そこで、渓流釣りに近い管理釣り場でのマス釣りをと思い、息子夫妻に話したら同行してくれるというので出かけた。竿や仕掛けを借り、餌を買い、一定の養殖マスを放流してくれて釣るのだが、釣りの原則、餌を投げるポイントの選定、餌の流し方、当たりのとり方、合わせ方は普通の渓流釣りと一緒だ。
    
        釣り場の私、手前は探り尽くし、対岸を狙っている

 息子夫妻と私とで競い合ったが、やはり昔取った杵柄、数でも私が竿頭で、大きさでも残り鱒のようなひときわ大きいものをゲットした。
 その後、ちょっとした(?)トラブルもあったが、満足が行く釣行だった。


 互いに分けて持ち帰ったが、写真はそれを調理したもの。といっても、左上の刺し身と、いっしょに連れた小魚(ウグイやカジカ)の唐揚げのみだが、塩焼きまでは食べ切れないと思い、ワタやエラはとって明日に残したり、すぐには食べ切れないものは冷凍保存した。

 なお、写真の左下であまり良く写っていない小鉢は、娘が先般の北陸旅行で買ってきてくれたゴリなど北陸の佃煮である。娘は、富山の地酒、「風の盆」も買ってきてくれたが、これはまた後日飲むこととした。

   刺し身 背身と腹身は分けていないが、あいだの中骨は骨抜きでとってある

 目印がちょっと異様な動きをしたら、スナップのみで小さく合わせ、ググっときたら本格的に合わせる・・・・釣り糸や竿先を伝わって、その先にたしかに生き物がいる感触が全身を貫き、ハズレの無いようにうまく取り込む(渓流釣りの針には返しがついていない)。
 そして、手元に踊る釣果・・・・これまで釣行した幾つかの山河が記憶のなかでよみがえる。今はなき、徳山村での釣りも・・・・。そして、あの元気印だったK君のことも。
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尾張瀬戸へ行く・6 瀬戸電に乗ってやがて80年

2024-07-02 00:57:07 | 想い出を掘り起こす

 瀬戸への小旅行について書くつもりだったのですが、つい私の生まれた一族の物語になってしまいました。一族といっても、その出発点において、外部へ出された姉と私にとっては、あくまでも外部から観覧すると言う類のものでした。私たちの生活は、その一族とは離れたところで、既にそれぞれが新しい家族の中で過ごし、それなりの歴史を作り上げていたからです。
 ですから、この物語はこの辺で切り上げ、肝心の瀬戸について書くことにします。

           
      以下、5枚の写真はいずれも瀬戸蔵ミュージアムでの瀬戸電関連の写真

 足を運んだ瀬戸蔵ミュージアムについては、館内の写真などを既に何枚も載せてきましたが、ここの展示物のひとつのみものは、現在の名鉄瀬戸線、かつてのいわゆる瀬戸電についての歴史を垣間見ることができることでもあります。まずミュージアムの入り口には、瀬戸電といわれた頃の車両が展示され、しかもその車両は、現在の駅舎になる前の古い尾張瀬戸駅の駅舎の再現とともに、そこに停車しているように展示されています。これは両者ともに、私にはとても懐かしいものなのです。なぜなら、私はまさにこの車両によって、この古い駅舎へ到着していたからです。

                

 瀬戸電の歴史をひもとけば、それは、現在のような旅客運送というよりもむしろ貨物運送のために開発されたといます。では、その貨物とは何だったのでしょうか。それこそが、瀬戸の産物、いわゆる瀬戸物の運送なのでした。
 もちろん近くの大都市名古屋への運送とそれを経由して全国へということもありましたが、むしろ、海外への輸出のための運送でもありました。

 そのためには、まず名古屋まで運び、さらには名古屋港まで運ばなければならなかったのですが、しかし当時は今のようにトラック便が行き交う状況ではなかったので、名古屋から名古屋港までは堀川運河を船便で下るという手段をとっていました。
 そのため、瀬戸電の名古屋での終点は、今のように、中心部の栄町の地下駅ではなく、まさにその名の通り「堀川」と言う運河沿いの駅だったのです(その貨物も廃止され、栄町が名古屋の終着駅になったのは1978年のことです)。

     

 ですからかつての瀬戸電は、名古屋の堀川から尾張瀬戸までの経路で、私が子どもの頃、母とともに瀬戸の親戚へいったりする際には、疎開先の大垣郊外の美濃赤坂線の荒尾駅から大垣へ出て、そこから名古屋へ、そして市電で堀川、そこからが瀬戸電でした。
 いまから4分の3世紀ほど前のことですが、その頃はまだ貨物列車も健在で、黒い小型の電気機関車が、貨物を引っ張っていたのを目撃している。

 瀬戸電の堀川からの経路はいささかスリリングでした。路線はやがて、名古屋城の外堀の中を走るのですが、当初は 名古屋城の正面を通り抜けるようにして東へ進み、やがて東外堀の辺で お堀の直角のカーブを北へと回ります。ほぼ直角に近いカーブ、線路の軋み、あえぐような電車の進行、ここがかつての瀬戸電の最大の見所だったのではないでしょうか。

            

 曲がり切るとやがて土居下に差し掛かります。ここはかつて、尾張藩の忍者集団、土居下衆が住んでいたところで、名古屋城が陥ちるような危機の折、城内よりここまでの秘密のトンネルで脱出してきた藩主を土居下衆が守護し、いまの黒川沿いに北上し、尾張藩家老の居城だった犬山城まで落ち延びてゆくといわれたものです。

      

 話が逸れました。瀬戸蔵ミュージアムの瀬戸電の展示に戻りましょう。
 駅舎の外部、内部の展示は私の記憶にあるものです。展示されている車両はモ700形で1962年からのものだといいますから、私の子どもの頃乗ったのはもっと古い車両だったことになります。
 そこで検索してみたら、1925年から60年ぐらいまではホ101形という車両が走っていたとありました。私が記憶してる瀬戸行きは1940年代中頃から後半ですから、このホ101形のお世話になっていたことになります。

          

        瀬戸電を走っていたホ101形電車 パンタグラフがポール方式

 これらの写真を見ると、いまはもうどこへいってもみられないポール状のパンタグラフです。
 この時代の瀬戸電は私にとって忘れがたいものですが、それとともに疎開先から帰った岐阜の市街電車(これも名鉄)もくっきりと記憶に残っています。
 この少年時代の私の記憶に深く残る電車の共通点は、ともにポール状のパンタグラフを備えたものでした。
 このポール状のパンタグラフ、終着駅で方向転換をするとき、運転手がロープ状のもので、パンタグラフの角度を進行方向の背後の方角へと変えていました。

      

  これは東京都電のものだが、同じタイプのものが岐阜市街電車としても走っていた

 古い鉄道は郷愁をそそります。それは、かつての人たちは自分の住居を離れて旅する機会が少なかったことによるでしょう。
 したがって、自分たちが身近で利用した鉄道、そして一定地点への移動として乗っていたある鉄道、さらにはたまたま行くために、あるいは行った先で乗った鉄道が強いインパクトをもって記憶に残るからでしょう。

 そんなこともあってか、私にとっては「名古屋鉄道瀬戸線」というより「瀬戸電」が心に残るのです。

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尾張瀬戸へ行く・3 「家」は守られたのか・・・・

2024-06-23 00:38:19 | 想い出を掘り起こす

 姉と私は、その実母を亡くし、家系を守るため実父が実母の妹、つまり私たちの叔母と再婚するに当たり、そのための余計者としてそれぞれ養子に出されたことは述べてきました。それらの舞台が瀬戸と大きな関わりをもっていたことも述べました。
 ではその、三河武士の末裔というささやかな誇りをもった家系は、姉と私を排除してリセットし、あの戦中戦後の混乱の中で守られたのでしょうか。

     

 写真はすべて瀬戸蔵ミュージアムでのもの。ここでは陶磁器の製造工程と瀬戸での土器以降の陶磁器生産の歴史を、出土したものや現代の製品を網羅して展示している。

 家系などという概念に全く関心をもっていない方も多いでしょう。私もそうなのです。しかし、時代もあるでしょう、私の幼かった戦前には、まだ家系の維持というのは没落した士族などを中心に生きていたのです。
 家系の今日的意義は、国会議員の二世、三世、四世・・・・や企業の創業者の系譜の中にこそその特権的利害を伴って重要視されているのかもしれません。

     

 実父が叔母と結婚し、リセットされた「家」のその後をみてみましょう。
 新しい家には、新しく一男一女が授かりました。私の義弟と義妹です。これで新しい家は守られたかのようでした。
 しかし、時代は戦争の真っ只中です。実父もまた赤紙一枚で戦地へとられました。しかも、出征先がよくありませんでした。ビルマ、いまのミャンマーです。ここは詳細は述べませんが、もっとも愚昧な作戦といわれたインパール作戦の舞台で、いたずらに数万を超える死者を排出したのですが、その死者の一員が私の実父でした。

     

 新しい家構想は、こうして戦争のためにあっけなく崩れたのですが、さらにその後があります。二人の子どもをかかえて戦争未亡人になってしまった叔母ですが、戦時中は「英霊の妻」として何らかの支えがあったようなのです。しかし、いざ敗戦となった瞬間、なんの支えもないまま、混乱した巷間へ親子三人が放り出されたのでした。

 あれほど、家、家、といって叔母を後妻に導いた親戚筋も、自分のことに精一杯で、誰も支えてはくれませんでした。親子三人の生活はすべて叔母の肩にかかっていました。
 叔母は、体を売ること以外のことはほとんどしたようです。そして、最後にたどり着いたのが、亜炭鉱の鉱山労働でした。当時亜炭は、瀬戸での焼き物の火力など広い需要があったのでした。

         

 叔母は、亜炭鉱の炭住長屋に住まいし、男並みの労働で子どもを養い続けたのですが、男女の体力差、出来高制のような賃金体制の中では苦戦の連続でした。
 そんななか、何やかやと叔母を支えてくれる同じ炭住の男性労働者が現れました。叔母は彼とのしばらくの付き合いの後、再婚を決意します。彼は独身にも関わらず、二人の子持ちの叔母との結婚に同意してくれたからです。

     

 これらの経緯を知ったのは40歳過ぎに姉と再会し、その姉を通じて叔母と合った折のことでした。その折、叔母はもちろんその男性の妻であり、その男性との間に別途、男の子をなしていました。
 私にいわせれば、それは「めでたしめでたし」なのですが、「家を守る」に固執していた親戚筋には「極めて重大な問題孕みの事態」であったようで、そんな叔母の決断への隠然たる非難や陰口が絶えず、叔母の一家は一族の中からはいささか異質な存在とされてしまったのです。
 なぜでしょうか。それは次回に譲ります。

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NHKのドキュメンタリーと唐牛健太郎

2024-06-04 01:10:22 | 想い出を掘り起こす
NHKで「映像の世紀 バタフライエフェクト 安保闘争 燃え盛った政治の季節」を観た。
最近、私が所属する同人誌に2回にわたって連載し書いた時代とほぼ一致するもので感慨深かった。
NHKの描写はこの番組特有の淡々とした事実の積み重ねだが、かえってそれが今様の忖度を廃して、当時の様相をかなり忠実に伝えていたように思う。
映像はもちろん東京中心だが、愛知の地で同時刻、同様の状況に身を置いていた自分の青春が改めて偲ばれた。

             

特に懐かしかったのは、60年安保当時の全学連委員長だった唐牛健太郎の映像だ。
お互い多忙な身、交流の機会は少なかったが、秋葉原の高架下で地方大学の出身者のみ4人で飲み明かした日、宿を取りそびれて彼の下宿へ泊めて貰ったことなどが思い出される。
これらの機会に彼が主張していたのは、反中央、反東大、反権威であった。それが、あれほど著名であった彼が、その後の人生を、高度成長にもおもねることなく、無頼ともいえる生活を選択して生きた要因だと思う。
この番組でも、漁師生活を送っていた頃のものが出てくる。
私が最後に出会ったのは、彼が亡くなる半年ほど前、徳洲会病院のオルガナイザーとして名古屋へ来た折だった。居酒屋の店主だった私に、入口を入る早々、「よおっ、元気そうだな」と明るく声をかけてきた映像が、いまでも焼き付いている。
唐牛は自分の生き様を自由に選択し、47歳でその生涯を終えた。それ以後、40年近く、私は無様なまま生き延びている。

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はじめての遠隔青春デイトの地 六十数年ぶりの再訪

2023-07-02 14:37:45 | 想い出を掘り起こす

 知多半島を日帰りで旅したこと、その西側、中部国際空港についてはすでに述べた。
 午後はその東側、河和口にした。なぜ午前に西にし、午後に東にしたかは、写真を撮る際の順光と逆光を考えたからである。そして、なぜ河和口にしたかは、病み上がりの身、ここが駅から海までの距離が一番近かったからだ。



 しかし、それだけではない。ここは自分史的に思い出の地であるからだ。そう、何度目かの初恋の折、ふたりとも学生であった私たちは、それまでのキャンパスやその所在地、名古屋を離れ、はじめての遠隔(というほどでもないか)デイトを敢行したのがこの地であったのだ。
 六十数年前、ここは海水浴場として結構人気の地であった。まだ、高度成長期の前で、日本の河川は従前からの白砂青松の面影を残していた。




 それが、60年代初頭から始まった高度成長期には、日本の河川や海は、大工場の垂れ流す汚水の排水、廃棄されるさまざまな物質であれよあれよという間に昔日の自然美を破壊され尽くした。とりわけ、そこに含まれた有毒物質は、水俣病、新潟水俣病、四日市ぜんそく、富山神通川沿いのイタイイタイ病のいわゆる四大公害病をはじめ、各地で人びとを死を含む深刻な病へと蝕んでいった。



 それらに対する政府や行政の動きは鈍く、ある局面では加害者である大企業を弁護し、その対策をネグレクトした。そうした各地での汚染が、なんとか今日のような程度に落ち着いたのは、各地の被害者たちの粘り強い闘いの結果にほかならない。




 ただ、目に見えた公害ではないにしても、大都市周辺では、工業地帯として大幅に埋め立てが進み、白砂青松の海岸は姿を消した。名古屋周辺の三河湾、知多半島周辺、伊勢湾、などもそうであった。ちなみに、随分前のデータであるが、東京から神戸までの東海道線沿線で、昔ながらの自然海岸は10%を切りそうだとあった。いまはもう切っているのかもしれない。



 話は固くなったが、「遠隔青春デイト」に戻ることにしよう。夏の海水浴だ!石原一族の派手な湘南海岸での豪遊とは行かなくとも、海水浴は庶民にとっての夏最大のイベントであった。
 彼女の水着姿も拝める(コラッ)ということだが、ただし当時の庶民の水着は学校の水泳の授業の水着とほぼ同じであった。にも関わらず、女性の(男性もか)露出姿が日常的に氾濫するこんにちとは違い、当時はそんな水着でも結構艶っぽかった。



 信じられないかもしれないが、年配の女性は、水着ではなくシュミーズ、それも現代風のノースリーブではなく袖付きのゾロンゾロンとした下着姿で海へ入っていた。男性もそうだ。かくいう私も、中学生まではいわゆる六尺ふんどしであった。長良川まで泳ぎに行った折など、それを路面電車の窓からひらひらさせていると、終点までに乾くといったこともあった。もっとも、まだ濡れている段階でたまたま窓から顔を出したおっさんの顔にそれがピタッと張り付き、こっぴどく叱られたこともある。なお年配の男性は六尺ではなく越中ふんどしで泳ぐ人も多かった。



 ところで、その海水浴デイト、二人っきりの甘いものではなく、実はコブ付きだったのだ。相手の女性の実家が許した条件は、彼女の末妹、小学5年生を連れてゆけということだった。まあ、コブ付きデイトでも結構楽しかった。しかし大変だったのはその帰りだった。小5の妹はもともとあまり強健な方ではなかったが、時ならぬ機会をえてはしゃぎ過ぎたのか、ぐっすり寝込んだしまったのだ。

 その寝込んだ子を、私が背負って帰ることとなった。海岸から駅までは冒頭付近に書いたように近かったが、彼女の実家(愛知県知多郡東浦町緒川)は最寄りの駅からかなりあり、しかも山側へと向かう登り道であった。私自身、結構泳ぎ回って疲れいたこともあって、これは結構きつかった。

 そんな思い出の地に、六十数年ぶりに訪れたのだった。
 結論を言ってしまうと、観るべきものはなにもなかった。もはやかつての海水浴場の面影はなく、コンクリート製の堰堤から海辺へと降りる面が、階段状のスロープをなしてる点のみが海水浴場の名残りといえばいえるかもしれない。しかし、海水浴場の必須条件ともいえる砂浜がまったくないのだ。



 それでも、せっかく来たのだから、階段状の箇所に腰を下ろし、対岸の三河地区、碧南市あたりの工場や、目前を行き交う船舶など眺め続けた。それは午前に行った飛行場のひっきりなしに動きのある情景とは対照的なの~んびりした情景で、それはそれで悪くはなかった。



 まあしかし、六十数年を経れば、風景が著しく変わるのは当然だ。当時、白いシャツに黒いズボンで颯爽(?)とした学生だったこの私が、ボロボロのお爺さんになってぼんやり海を見つめているのだから。
 もっとも当日、私は青いシャツで出かけたから、ピンキーとキラーズの「恋の季節」の一節、「あ~おいシャツ着てさ~ う~みを見てたわ~」だった(引用する歌が古いよなぁ)。
 
 なお、そのときにデイトをした女性とは、その後、結婚した。そしてその彼女は、2016年、先に旅立っていった。

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いただいたバースディ・カードとトーマスさんのこと

2022-11-01 01:43:02 | 想い出を掘り起こす
 
 
 東京に住むお友だちから美しいバースディ・カードを頂いた。ケーキのフレア部分が立体的に立ち上がるようになっていて、面白い。
 
 思い返せばこういうものをいただくのはここ最近のことで、しかも全部彼女からだった。ようするに、私の文化圏には、こうしたもののやり取りがまったくなかったわけである。
 彼女とリアルにお目にかかったのは一度しかないが、そのきっかけになった事実には忘れがたいものがある。
 
 思い出すのは、はるばるフィラデルフィアから三日に一度ほどの割合で電話をくれたトーマスさん、正式にいうと、トーマス・グレゴリー・ソン(宋)さんのことだ。彼は、その名に片鱗がみられるように、朝鮮王朝の末裔として、戦中戦後を波乱のうちに生き、命からがらアメリカへたどり着き、フィラデルフィアを終の棲家とした。
 
 そのトーマスさんと最後に言葉を交わしたのが電話ではあったが私だった。彼は2014年12月3日(日本時間)、私との電話中に倒れ、そのまま還らぬ人となったからだ。享年85歳。
 その彼と、渡米中にフィラデルフィアで出会い、親交を結んでいたのが今回、バースディ・カードを贈ってくれた彼女であった。そんなこともあって、彼女の提唱でトーマスさんの葬儀に日本の有志からも献花をすることとなり、私がそれに応じることで彼女との友だちの絆が生まれた。
 
 その後、私は当時所属していた同人誌にトーマスさんの小伝のような一文を書いた。いま私は、当時と違う同人誌に朝鮮について書いている。その折、頭に浮かぶのはトーマスさんのことであり、彼の波乱の生涯である。
 
 そうしたこともあって、バースディ・カードを贈ってくれた彼女は私とトーマスさんを結ぶ鎹であるが、しかし、それをも超えて、いまは得がたい友だちだと思っている。
 Nさん、ありがとう。今後とも、よろしくお願いいたします。
 なお、トーマスさんに関する拙ブログでの記述は以下です。
 
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ゴルバチョフとのモスクワ空港でのニアミス

2022-09-01 11:46:19 | 想い出を掘り起こす

 ゴルバチョフが亡くなった。その評価はいろいろあるが、彼の前世紀末の世界史的変遷で果たした役割に比べれば、先ごろ亡くなった安倍なんてのは蚤の糞ほどの重みもない軽薄なカルトの手先であったに過ぎない。(ああ、それを国葬!なんとこの国の卑小で節操の無さよ!)
 以下は、私がはじめて海外旅行に旅立ち、しかも最初に降り立った異国の飛行場・モスクワでの様子を、当時記したものだ。そして、それはゴルバチョフとのニアミスの瞬間だったのだ。
 語句の不自然な点を補正した以外は、基本的にはそのまま載せることとする。

  ===========================

 1991年8月21日、私の乗った飛行機は、モスクワ空港の滑走路の上にいた。
 モスクワ郊外の森と湖、それに農地のモザイクのような光景を眼下にしながら、ここへ降り立ったのだった。

 その機はチューリッヒ行きであったが、ここで2時間ほどトランジットがあり、空港内ではあるが降りることが出来ることになっていた。
 私にとっては始めての海外旅行で、従って始めて踏む他国の地であった。
 養父のシベリア抑留体験、若い頃からの私の社会主義とのさまざまな因縁などを含めて、その地に足跡を記すのは何か運命的にも思われた。

 しかも、折から、何かと話題の渦中にあるソ連である。
 つい先日も、クーデターがあり、黒海地方に夏期休暇に出かけたゴルバチョフが反動派に幽閉されたというニュースが世界を駆けめぐったが、エリツィンなどの工作により一応の収束を見たことまでは成田で確認済みであった。

 さあ、降りるぞ!それっ、売店だ、ウオッカだ、と私の気ははやるのだった。
 ああ、それなのに、期待は無惨にも裏切られた。
 機内アナウンスがあり、ソ連当局から、機外へでる許可が下りないので、そのまま座席にて出航をお待ち下さいとのこと。

 そういわれて、仕方なく窓の限られた視界から外に目をやると、やはり何やら不穏な空気がみなぎっているではないか。
 機関銃とおぼしきものを装備した装甲車や、完全武装した兵士たちが要所要所を固めているのだ。それらの兵士が、時折、機に接近してきて様子を窺ったりする。
 もはや気分はウオッカではない。ここはやはり、争乱のまっただ中なのだ。

 遠くに目をやると、すらりと伸びた白樺の並木が見渡せるのだが、それをバックに武装した兵士たちが行き交うのはやはり異様だ。
 機内に緊張感が漂う。みなひそひそと言葉を交わすのみだ。


 やがて機は、予定より30分早く離陸した。
 離陸と同時に緊張が緩み、ホッとしたものが感じられた。
 さっきまで、あれほどこの地に足跡をと思っていたのに、全く皮肉なものである。

 これはあとで知ったのだが、この日、黒海付近に幽閉されていたゴルバチョフが、モスクワへ帰るためこの空港へ降りるというので、空港全体が厳戒態勢のうちにあったのだ。ひょっとしたら、私たちが待機させられた瞬間にも、ゴルバチョフはここに降り立ったかも知れないのだ。

 私はその折りの自分の軽薄さと、そして、にもかかわらず、その後の天国のような10日間の旅をいささか後ろめたく思い起こす。
 そう、私は、チューリッヒで乗り換えてオーストリアへ入り、モーツアルト没後200年祭に沸くウィーンとザルツブルグで、昼は散策、夜はコンサートやオペラという至福の時間を過ごしたのだった。

 何という落差であろう。機関銃とモーツアルトは似合わない(そういえば、『セーラー服と機関銃』という映画があった)。

 私が音楽を楽しんでいる間も、ソ連の崩壊はもはや留まるところを知らず、その年の暮れには、クレムリンから赤旗が降ろされ、ソビエト連邦そのものが消滅した。

 後日、NHK・BSハイビジョンで、「エリツィンとゴルバチョフ~ソ連邦崩壊・当事者が語る激動の記録」と題した2時間のドキュメンタリーを観た。
 それを観ながら、その現場をかすめたこと、そしてその後の至福の時間を思い出し、改めて自責の念やら、訳の分からない胸キュンなどを感じたのであった。

 時の流れは速い。それから十数年ほど経った頃、機会があってハンガリーへ行ったのだが、社会主義の「社」の字も見あたらず、若い人達は1956年の対ソ動乱や、当時の指導者、イムレ・ナジについても知るところはなかった。

 1991年8月21日は、私が世界史をかすめた日である。それとも、世界史が・・。

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イヌワシ・沖縄・ソーキそばとOさん

2022-08-03 11:19:46 | 想い出を掘り起こす
 SNSで20年近く前からお付き合いがあるOさんが、旅の途次、名古屋で一泊されるとのことで、「逢いませんか」とのお誘いが。他ならぬOさんと逢えるのなら、親の葬式以外なら是非と思った。ということは、両親の葬式をとっくに済ませ、あとは自分の葬式だけという私にとっては絶対に外せないということだ。

 もう20年近いお付き合いの中で、彼女と逢うのはこれで三度目だ。
 一度目はもう10年ほど前、今回のような複数の目的地をもった旅の途次、伊吹山でしばしば目撃されるイヌワシを観たいとのことで、岐阜駅で待ち合わせて一路伊吹山へ向かった時だ。
 その折は天候は良かったが、次第に下り坂へ。伊吹山ドライブウェイに差し掛かった折には、下から迫る私たちと、上から迫る雲海とのせめぎあいに。う~ん、残念。イヌワシのビューポイントに到着した折にはすでに雲の波が。
 
 しばらく粘ったが、諦めて滋賀県側の長浜の古い町並みを散策し、もうその頃にはすっかり荒れ模様の琵琶湖を眺めて終わった。

        その折の伊吹山でのOさん 「熊出没」の物騒な警告も

 二度めは、コロナ禍前の2019年秋、三重県のやはりSNS上で20年以上の知り合いのご夫妻共々、沖縄を訪問した折だ 。 
 その折Oさんは、私たちの滞在期間三日間を通じて、アッシー君の役割を果たしてくれ、それまで沖縄観光旅行を拒み続けてきた私の、「行くなら、贖罪を含めた旅に」の要請を組み入れた極めて適切なコースを案内してくれた。もちろん、観光を否定したわけだはなく、それはそれでじゅうぶん楽しんだ。

        19年秋 国頭(くにがみ)村 安田(あだ)での朝の散策

 そして今回の三回目、名古屋にしては珍しく、気温は高いが湿度は低く、しかも適度な風が吹く快適な夏日和の夕刻、彼女と落ち合い、名古屋の中心部を案内した。とはいえ、刻々と変わりゆくこの街自体が私には疎遠であって、適切に案内できたかどうかはまったく自信がない。
 
 この旅の途次、彼女が出会った私以外のマイミクさんたちの歓待ぶりは相当豪華だったはずで、それと張り合おうとしたら私は、「月と兎」の話よろしく、燃え盛る炎のなかにわが身を投じるほかはなく、まあ、あれはあれで世間知らずの老人の精一杯のはからいであったとご容赦願いたい。
 とはいえ、彼女と過ごしたひとときは楽しかった。

 彼女と逢う前日、沖縄から荷物が届いた。彼女の手土産代わりのソーキそばなどの入った荷物だった。冷房嫌いの私は、この時期でもその使用は最小限にし、昼はもっぱら冷たい麺類で済ませているのだが、ソーキそばはそうは行かない。その日は、冷房をギンギンに効かせて、暖かいソーキそばを作った。
 美味しかった。沖縄の味がした。麺に、レトルトにされた豚肉の部位に、沖縄の味があった。

         Oさんからいただき私が再現したソーキそば  
 
 19年の秋の沖縄訪問時、確か、どこかから辺野古への移動の途中だったと思うが、街道筋のぽつんとした一軒家風のソーキそば店におりざさんが案内してくれたことを思い出した。小さな店で、きれいでもなんでもないありふれた田舎のそば屋といった風情だったが、そこの蕎麦が抜群にうまかった。
 今回、送ってもらったそれを私は必死になって再現したのだが、正直いうと、あの折のあのそば屋のものには及ばなかった。これは致し方ないだろう。その地、その地の食い物には、その地でしか味合えない地霊の味のようなものが染み付いているのだから。

 でも、ソーキそばを味わったおかげで、岐阜のムシムシする夏にいながら、沖縄のあのサンゴ礁の鮮やかな海を思い起こすことができた。
 そして、19年秋、沖縄を旅した折の風景や各種戦跡が走馬灯のように巡るのだった。
 Oさん、ありがとう。

 

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名古屋駅付近の「どえらけにゃぁ」変貌と思い出

2022-03-29 23:08:27 | 想い出を掘り起こす

               

  これのみ岐阜 JR岐阜駅バスターミナルの中が楕円の小公園になっていて岐阜県内の名桜の子どもや孫の                      木が植えれれている。写真はその一本。荘川桜か。ソメイヨシノではなく、エドヒガン。

 

 物心ついてから名古屋へ行った経験を思いおこす。
 1944年、父が招集され、都市部への空襲が始まるにつれ、母方の実家大垣市の郊外へ疎開するのだが、敗戦以前の名古屋体験は、父が入営していた名古屋六連隊兵舎に、まさに父が満州へ派遣されるその日に、そこで将校だった母の従兄弟のはからいで面会できた折であった。
 
 その連隊は名古屋城内にあり、その頃はまだ、翌年5月には空襲で焼失する建築当時のままで国宝に指定されていた天守閣がすぐ近くにそびえていたはずなのだが、自分の記憶をどうまさぐっても、そのイメージを呼び出すことはできない。残念だ。
 父はそのまま、満州での敗戦時、ソ連に囚われ、1948年まで帰ってこなかった。

              

 その後、敗戦後の小学生時代、幾度か名古屋へは出たが、いずれも通過地に過ぎなかった。名古屋駅で降りて、市電で堀川まで行き、そこから瀬戸電のターミナル駅であった堀川駅(いまは栄地下が始発点であるが、当時は堀川駅がそうだった。これは瀬戸電が、もともと瀬戸の陶器を堀川駅まで貨物電車で運び、そこからは堀川運河を艀で名古屋港へ運ぶために開発された路線だからであった)へ行き、瀬戸電で終点の瀬戸まで行くのが常だった。

 瀬戸には、母の姉妹三人が嫁いでいて、いずれも陶器業に従事していた。もっぱらそこへ行き、そして帰るの繰り返しで、名古屋の中心部へ出たり、駅前近くで何かを食べたりをした記憶はまったくない。父が帰還前の母子家庭同然にとっては、きっぷの手配が精一杯で、ほかへ注意を向ける余裕さえなかったのだろう。

              

 中学生の頃、まだ中区の御幸本町通りにあった(いまは中区三の丸)『中日新聞』本社へ社会見学で行ったことがある。もう70年前の話だから詳細はほとんど記憶にないが、巨大な(と思った)輪転機と、あとは屋上に飼われていた伝書鳩(これが当時の遠隔地との通信手段だったのだ)の群れを覚えている。
 まだ、テレビ塔もなく、名古屋城も再建されていなかった。

 一人で名古屋へ出たのは、大学受験の折だった。商業高校からの受験で、当時は実業高校からというのは殆どなかったので、願書の提出から受験会場の下見まで全部一人でやらねばならず、大変だった。私の志望した大学は当時、蛸の足大学といわれ、瑞穂区の滝子(いまは名市大になっている)や本部があった名古屋城内(上に書いた六連隊跡)など、足を運ぶ箇所も複雑だった。

              

 しかし、それをきっかけに名古屋との縁が結ばれ、学生時代、サラリーマン時代、居酒屋時代を名古屋で過ごし、岐阜に家はあるものの、それらの時代に築いた人脈を中心とした同人誌への参加や勉強会などの交流、それに映画館、美術館、コンサートホールなどの諸施設の利用などなど、今も多くそして濃厚な関係をもっている。

          

 このコロナ禍のなか、ここ2,3年は制限されてはいるものの、それが緩んだ隙に勉強会などにひょこひょこでかけてはいる。いちばん最近は27日(日)の読書会だったが、この会場はJR名古屋駅近く(徒歩10分ほど)で、会場へ向かい、二次会を経て帰るまで、その間の往復しかしなかった。

              

 写真はその際撮ったものだが、駅周辺だけでも、様々な思いが交差する。とりわけその変貌の激しさは、ただただ驚嘆に尽きる。

 もちろん先代の名古屋駅は慣れ親しんで来たが、その思い出も次第に薄れつつある。
 「大名古屋ビルヂング」はこれで二代目だが、その初代ができる前を知っている。この一角は、ズラッと安い定食屋が並んでいた。今のように新幹線がない時代、大垣始発の夜行列車でゆっくり出かけるとちょうど朝方に東京に着くことができる。東京で用を済ませてやはり夜行の鈍行で帰ってくる。名古屋へ着く頃は朝だ。東京でろくな食事をとっていないので腹が減っている。そこでその安い定食屋の一軒に駆け込む。温かい味噌汁がついた朝定食が、確か40円だったと思う。そう…完全に戦後の食糧次事情の延長にあった食生活の場であった。

              
               
               駅近くの駐車場の脇に咲いていたハクモクレン

 高層ビル街そのものが、ニューヨークのそれを映像で見ながらも、これは遠い未来のSF的イメージのように思っていた。
 それが今、かつて「偉大なる田舎」と形容された街の玄関口となっているのである。

河村某とかいうふざけた市長をみていると「偉大な田舎」という形容は当たらぬではないが、この場合の「偉大な」は、「どえらけにゃぁ」と訳すべきだろう。

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