六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

今年最後の名古屋 二本の映画と久々のバー

2019-12-27 16:14:24 | 映画評論

 今年最後の名古屋行きは表題の通り、映画二本としばらく顔を出していなかったバーへ。
 
 最初の映画は、ケン・ローチの『家族を想うとき』。
 イギリスの普通の四人家族の物語だ。彼らは何も法外なものを望んだわけではない。いまよりの少しばかり余分に働いて、子供の教育を含めて家族を維持し、余裕ができたら自分たちの家をもちたいと思っただけだ。

              
 父はそのために、フリーのドライバーとなり、配達業者とフランチャイズ契約を結ぶ。むろんそれらは彼の能力内で、じゅうぶんこなせるはずだった。
 しかしそれは想像以上に過酷だったのだ。時間との熾烈な競争、そして契約上の些末な条項が彼をがんじがらめに縛っていることが次第に明らかになる。

          
 なにかの拍子に休みが必要なら代理を見つけねばならないし、それができなければ罰金。フランチャイズ契約であくまでも本人は事業者だから、実際にはこき使われているにもかかわらず、そのマイナスや予想外の経費、事故の補填などなどは何も保証されておらず、全ては自己責任だ。

          
 彼の連れ合いの派遣介護職も似たりよったりだ。ゆく先々の被介護者は彼女の思惑通りには従ってくれない。過重な負担が不可避であり、しかも、次の訪問予定が控え時間に追われている。
 最初に書いたように、彼らの望みはささやかなものに過ぎない。しかし、それらがどんどんマイナスのスパイラルを描いて、蟻地獄に落ちたかのように彼らは追い詰められてゆく。

          
 そう、これは私たちの国で最近問題化しているコンビニ経営にも似た問題であり、非正規労働全体の問題でもある。
 あれもこれも自己責任。「あなたの身に起こったことはあなたの責任でしょ」とすべてが突き放される。これが、働く者たちをいつでも置き換え可能なモノに貶め、人間の尊厳を徹底的に奪う新自由主義経済の局地なのだ。

          
 このケン・ローチの映画は、問題の解決を語ろうとはしない。この現実をただただそれ自体として提示するのみだ。ここには、前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』で示された状況への登場人物による告発すらも、もはやない。もっとも、彼の映像そのものが何よりも強力な告発なのだが。
 繰り返すが、彼ら家族はなにか分不相応なものを望んだのではない。しかしそれは、無明の闇に飲み込まれてゆくようにみえる。
 
 二本目は名古屋シネマテーク主宰の試写会での『つつんで、ひらいて』(監督・編集・撮影 広瀬奈々子)で、これまで1万5千冊の書籍をデザインしてきた装幀者・菊地信義氏をめぐり、その作業を中心とし、本造りに携わる人たちのドキュメンタリーである。
 
 本の装幀は私たちにとってはその書物との最初の出会いである。同時に作る側からすれば、菊池氏がいうように、そこに書かれた言葉の塊が、モノとして形を与えられる瞬間でもある。映画はその過程をつぶさに見せてくれる。

              
 装幀なんて、所詮は本を売るためのパッケージだろうと思いがちである。たしかにそれもある。しかし一方、心ある装幀者たちは、そのテキストの内容に立ち入り、それをより適切に表現するための努力を惜しまない。
 紙質、色合い、その組み合わせ、フォントとその大きさ、そして配置、表紙も裏表紙も背も、カバーはもちろん、いわゆる帯などの外観の一切、そして見返しや扉、地、小口やスピン(しおりの紐)に至るまで、まさにテキストがモノとして姿を表すすべてが彼ら、装幀者の手になる。

          
 それらの過程、筆者や編集者を混じえたディスカッションによってそれらが生み出される過程、その結果などなどを観てくると、やはり私たちがその書に向かう姿勢が、それによって少なからず影響されていることに気づく。
 それらは軽やかさであったり、重みであったり、エポックメーキングであったりさまざまなのだが、私たちはそれを、その書が形をなす最終段階で、それをモノとして完成させる装幀者の表現に寄り添いながら、その書と向かい合っているのだと思う。

          
 これまでさまざまな書のお世話になってきた。しかし、意識してきたのはせいぜいその作者、出版社の性格などに限られていたのだが、装幀という契機を決して無視し得ないこと、したがって今後は装幀をも意識しながら書と向かい合おうと思わされた映画であった。

 映画の後、四十数年前、私が居酒屋を開業した折、それを手伝ってくれた人が、いまは東新町でバーを営んでいるので、そこを訪れ、ひとしきり昔話で盛り上がった。錫のデキャンターでしばらく置かれた赤ワインは、風味が増すようで美味しかった。
 
 約半世紀前に過ごした今池の街について、こんな風にフランクに話し合える人はもうほとんどいなくなった。私の生活基盤は今や岐阜にあるが、精神的な交流の地はやはり名古屋である。いつまで名古屋へ行くことができるかわからないが、可能な限り行きたいものだ。
 そこでは、あるときは笑みを浮かべ、あるときは呻吟しながら、学生時代から私が歩んできた60年以上の足跡や痕跡が、かすかではあるが残っていて、それらが土地の匂いや手触りのようなものとして確かに感じられるのだ。

 最後に今年最後の名古屋の街角風景

              

              

              

                   

 

 

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音楽の年越しそば・第九 & 長良川慕情 

2019-12-24 00:34:10 | 音楽を聴く

 岐阜県には、公益法人の岐阜県交響楽団があり、学校めぐり他、定期公演などでクラシックの普及に努めている。

 そしてその他に、県下唯一のプロのオーケストラとして、ウィーン岐阜管弦楽団がある(1991年創立)。経済的にも文化的にも、名古屋の衛星都市化している岐阜の地で、プロのオケを維持してゆく大変さは想像に余りあるものがある。
 このオケの姉妹組織にウィーン岐阜合唱団がある(1998年創立)。こちらはアマチュアの合唱団で、老若男女メンバーはいろいろである。

         

 この2つの組織を統括しているのは、作曲家にして指揮者の平光 保氏で、サンクトペテルブルクで国立エルミタージュ管弦楽団を指揮したり、ブタペストのバルトークホールでスタンディングオベーションで迎えられた経歴をもつが、なんといっても氏の功績はこの岐阜の地にクラシックを根付かせるような活動を長年続けてきたことだと思う。

 そんなこともあって、彼の指揮するコンサートをこれまで10回近く聴いているが、いちばんの思い出は、十数年前、岐阜交響楽団を率いてベートーヴェンの7番を演奏し、第4楽章のクライマックスにさしかかった折、その飛んだり跳ねたりの指揮ぶりの結果、脚に痙攣を起こし、最後はびっこを引いて演奏を続けたことだろう。
 彼のこうした音楽魂に、満場の客からは感嘆の拍手が寄せられたのであった。

          

 その彼が、ウィーン岐阜管弦楽団と、ウィーン岐阜合唱団による第九を振るというので、それを今年のコンサートじまいとすることにした。
 この取り合わせによる第九は、合唱団員をを飛騨地方や福井県からの参加者も含めて膨らませ、一週間前に「高山千人の第九」を成功させたばかりである。

 岐阜での会場は、長良川国際会議場の大ホール「さらさ~ら」で、キャパは1,600人と岐阜県下最大のホールである。
 ほぼ満席であった。楽団や合唱団のメンバーが、その縁故をも最大限に利用して集客に涙ぐましい努力をした成果であろう。地方楽団の存続にはそうした努力が欠かせない。そしてまたそれが、クラシックファンの裾野を広めることにもつながる。

          

 プログラムの詳細は述べないが、前半はチャイコフスキーの幻想的序曲「ロメオとジュリエット」に始まり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の第一楽章のみ(ピアノ:山口湖苗美)。
 後半は、混声合唱が入って、歌劇「ナブッコ」(ヴェルディ)より「行けわが思いを、金色の翼にのって」、佐藤眞「大地讃頌」、そして第九(第四楽章のみ)。

 こうした楽章をちょん切ったようなプログラムは、その曲に込めた作曲家の表現全体をじっくり聴こうとする向きにとっては邪道と思われるかもしれない。
 しかし、こうした聴き方、聴かせ方にも一理はあるのだ。
 ひとつは、地方楽団のコンサートとして、この年末にこそ、そのもてるレパートリーの幅や表現力をすべて羅列した集大成にしたいということはよく分かる。
 さらにいうなら、こうしてちょん切られた楽章は、それのみでも十分に鑑賞に耐えられる、あるいは、ちょん切ってでも聴きたい、聴かせたいと力をもっているともいえる。

              

 果たせるかな、ラフマニノフも第九も、前半、後半を締めくくるにふさわしい力演であった。
 特筆すべきは、アマチュアからなる合唱団が素晴らしかったことだ。それに参加している人たちの情熱、それを豊かな表現にまとめ上げる平光氏の総括者としての力量を讃えるべきだろう。
 演奏後にはブラボーの声が飛び交う熱演ぶりであった。

              

 会場の熱気に火照ったまま外に出る。千数百の聴衆がバス停に殺到するのだから混むのは必定と、そこは諦めて別の路線のバスに乗るべく、長良川河畔に沿って数百mを歩く。


 折からの冬至、まさに暮れなぞむ長良橋周辺は鵜飼シーズンの夏とはうって変わって静謐な佇まい。
 川面へ映り込む金華山と岐阜城、その水面を滑るかのように静かに下る川船が一艘、そしてシーズン中に活躍した遊覧船などが静かに憩う船溜まり。それらが、第九の最終楽章のアップテンポな部分の合唱とオーバーラップして、遠い日のデジャヴをなぞるような少しばかりの感傷をはらんだ懐かしい気分に満たされる。

              

 そして、心のどこかで思う。これは死ぬ瞬間に思い浮かべてもいい風景だなと。

    

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師走の散策@名古屋国際会議場&白鳥庭園

2019-12-21 17:29:43 | 写真集

 師走、といっても隠棲のような生活、取り立ててするようなことはないのになぜか気ぜわしいのは、長年染み付いてしまったこの時期の習性なのだろうか。
 ただし、同人誌の締め切りを年明けに控えて、いろいろ呻吟していることは事実だ。
 にもかかわらずだ、この12月はなぜか、近年にましてあちこちへのお出かけが多いのだ。老い先の短さの自覚が、今のうちに観ておくべきは観ておけと促すのだろうか。

          

 以下は、ひょんなことで出かけることとなった名古屋市内の国際会議場と白鳥公園である。もう20年近く前に一度訪れたことがあるはずなのだが、記憶が飛んでいるので、まあまあ新鮮な気分で観て歩くことができた。
 いろいろ説明が必要なのだろうが、上に述べたように、出かけない日は文章と格闘しているので、もう文字はあまり書きたくない。ズボラをして、写真のみを連ねておく。

          

          

          

          
        ユリカモメ なんでこの子たちはこんなふうに並ぶのだろう?

          

          

          

              

          

              

              

          

          

          

          

              

          

              

              

 

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冬の散歩道から 植物は元気だ

2019-12-18 11:00:22 | 写真とおしゃべり

*まだまだ盛んに咲いているヒメツルソバ
          

*これは何の実?
          

*山茶花
          

*白南天
              

*ヒイラギの花(小さくて撮しにくい)
              

*ヤツデの花
              

*突然、銀行のATM
              

*ヨコシマな雲 でもきれいだった

          

 

*ヒマワリの一種
              

*終焉間近のスミレの葉 これはこれできれい
          

*ある事務所
          

*サクラの老木 貫禄充分
              

*その葉の紅葉

              

 

*蔦紅葉
              

*帰路 草紅葉の道で
              

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師走 名残のバラとイルミネーション

2019-12-15 13:38:45 | 写真とおしゃべり

 14日土曜日、久々によく歩いた。約21,000歩。
 地域のサークルで、名古屋大須商店街と鶴舞公園散策。
 その間、写真ギャラリー2箇所を訪問。

 現地で別れて、映画『テルアビブ・オン・ファイア』を観る。
 パレスチナとイスラエルを舞台とした喜劇。
 クスリとした笑いが満載。
 しかし、終わってみると本当に笑えるのかという思いがジワリ。
 この閉塞した宙吊り、支配と抵抗の現実。

 所属する会の総会とその後の懇親会。
 温かい一日だった。
 JR岐阜駅でこじんまりしたイルミネーションを観る。
 あまり仰々しくないのがいい。

 以下写真を列記。

         

         

         

         

         

         

             

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穏やかな師走の一日の雑感 食い物/ニュース/ドキュメント

2019-12-13 17:25:56 | 日記

■再開発(これのみは昨日のこと)
 久々に岐阜の中心地へ。唯一のデパートに隣接しながらも、見事にシャッターっ通り化していた地域の再開発の模様。どうなるかに関心はあるが、ここが完成するまで永らえるかどうか。

         

■あんかけ焼きそば
 朝刊の料理コーナーで美味しそうに紹介されていたのと、たまたまドラッグストアで一袋8円(誤記ではありません)で買ってきた焼きそば用の麺があったので昼食につくる。味噌汁は好きなので、品はないがお椀に目一杯。

         

 

■女性たちの進撃

 これも朝刊ネタ。フィンランドに34歳の女性首相が誕生。この夏行ってきて、この国に住みたいぐらい好感度が高い。大学までの教育費は無料、医療費も無料らしい。また女性議員も半数を占めていて、しかもみな若い。

 現実的にはいろいろ難題もあるようだが、頑張ってほしい。
 それにしても、こちらの国の首相の汚物にまみれた存在との対比は・・・・。
 あ、そうそう。分野は違うがJRAの藤田菜七子騎手が女性初の中央重賞レースを制したという。競馬、しばらく遠ざかっているが、ちょっと興味が出てきた。
 それはそうと、彼女とか彼という性別を固定する言い方は次第に改められつつあるという。勉強しなければ。

         

         

■歌姫の変遷の物語
 午後、BS1でドキュメンタリー(再放送)を観る。「ジェイクとシャリース~僕は歌姫だった~」。紹介は面倒なので、NHKの番組表からのものを貼り付けておく。

 フィリピンの貧しい家庭からアメリカンドリームをつかんだ少女シャリース・ペンペンコ。アジア人アーティストで初めてとなるビルボード・アルバムトップ10入りから7年後、自らの性自認が“男”であること、つまりトランスジェンダー男性だと公表。「ジェイク・ザイラス」と名前を改め、シャリースとしての名声も高い声も捨てての再出発。彼の人生と新しい挑戦を追いながら、自分の声を見つけるまでの等身大の姿を追いかける。

 なかなか感動的であった。様々な抵抗に出会いながらも、他人の視線に忖度しながら生きるよりも、自分に正直に生きる道を選んだ人間のみがもつオーラがそこにはあった。
 正直言うと、女性時代のあの圧倒的な歌唱力がなんだかもったいない気がするが、記録された音源が残っているからまあいいか。

         

         

■つまらない発見と驚き
 この2つの器、形状は違うがその容量はまったくいっしょなのに驚く。かたや和風基準、かたや洋風基準のはずなのになんでだろう。
 それもだが、なんでこの2つの器の容量を比べてみたのか自分でもわからない。自分で自分がわからない。・・・・って、認知症の為せる技?

         

■掃除
 部屋の隅のホコリがただならぬほどだということに気づいてしまった。掃除機にホコリが溜まるほどの掃除が苦手な私。仕方がないので時ならぬ掃除。時ならぬって、普通のうちでは毎日やっているのだろうに。欠陥主夫の情けなさ。
 ある程度きれいになった満足感もないではないが、この腰の痛さはなんとかならぬものか。フ〜ッ。

 

 

 

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ボヤキと半径五百メートルの散歩道で・・・・

2019-12-12 01:30:01 | 日記

 今頃はやれやれ、なんとか逃げ延びることができたと祝杯を上げている連中がいることだろう。尻に帆をかけて、早々と国会を閉会してしまったサクラ内閣の中枢部分のことだ。

          
 うちのすぐ近くの家の門扉のデコレーション 黄色いのはプチトマト 住人は近くの洋菓子店のオーナー 流石に洒落ている

 言語というのは、何ごとかを伝達するツールだとナイーヴに考えている人はおめでたいという他はない。人間は言語とともに嘘をついたり隠蔽したりするスキルを手にしたのであり、その最も露骨でいやらしい面を見せつけているのがこのサクラ内閣の連中だ。彼らは、言語のマイナス面を徹底的に使い倒し、その腐りきった汚物の山を、宝の山のように言い立てる。

          
 一見、きれいに見える田だが、今年は耕作されなかった ちゃんと管理はされているようだが、来年はどうなるのだろう


 その方法は稚拙ながら巧妙かもしれない。証拠になるもの一切を闇に押し込めて、知らぬ存ぜぬでひたすら逃げたりはぐらかしたりだ。自らの潔白も完全に証明できないが、しかし、黒とも言わせないグレーゾーンに逃げ込んで、あとは時間の経過を待つ。ひとの噂も七五日だ。モリカケもそれで乗り切った。

          
 うちよりも遥かに遅く建った鉄筋コンクリートの建物(3階建)が解体されていた このあと、なんになるのだろう
 
 行政そのものに自浄能力がなく、立法側の大多数がサクラ内閣の取り巻きであるとき、本来ならここで司法が乗り出すところなのだが、この国は、韓国ほどの司法の独立性、三権分立ももち合わせてはいない。ようするに民主主義後進国なのだ。

                
 集落にある地蔵堂 頭がちょん切れてしまったが、立派な鬼瓦をもった瓦屋葺きの屋根だ
 
 ここしばらく、検察は政治の領域に踏み込んだことはない。モリカケのような国家資産をお友達に呉れてやるようなあからさまな犯罪もスルーだ。ようするに、法の番人としての誇りももはやもたない彼らは完全に舐められているということだ。

              
 集落を走るU字型コンクリートの水路 かつては農業用水として田に水を送っていたのだが、耕作されている田がめっきり減ったいまも機能しているのだろうか
 
 しかしである、これほど明白な犯罪行為を犯すサクラ内閣の支持率は、ほとんど動かず、昨日のNHKの世論調査の結果では、なおかつ45%の支持が寄せられ、不支持を引き離している。それこそ気味が悪いではないか。
 街をゆく二人に一人ぐらいの人が、あの腐敗しきった犯罪集団と縁続きのような連中、サクラ内閣を良しとしているのだ。オイオイ、もういい加減に支持するのをやめようよ、やつは裸の王様なんだぜ、と話しかけたくなる。

          

 この車、気づいてからでももう10年以上前からここにある 四輪ともに空気はないし、おそらくエンジンも掛からないだろう これだけ長い間、ここにあるということは、この土地の地主のものか、あるいはその了解のもとにあるのだろう どんな事情があるのかそれがわからない もひとつ不思議なのは、こうして放置されている車の場合、大抵はナンバープレートがないのだが、これはちゃんとついている ということは自動車税は払っているのだろうか わからんなぁ 

 なんてことをぼやきながら、ここ2、3日というもの家から一歩もでていないことに気づき、ポストへハガキを出しに行くついでに少しだけ大回りをしてご近所を散歩。

          

 ここは、私が長年田んぼウオッチングをしてきた田 オーナーが急死(孤独死)して今年は耕作されなかった 見えている稲は、昨年の刈跡からヒコバエのように生えてきたもの 真ん中の赤いのは、どこかから飛んできたケイトウの種が立派に育ち、折から傾き始めた陽に照らされて赤く映えているところ このコントラストがよけい哀れを誘う

 しばらく、出歩かないうちにご近所でもいろいろな変化が起きているようだ。変わらないのはあのサクラ内閣の凡庸な悪事のみか・・・・と、またまたそこへ帰ってしまう。
 ヤダヤダ、うちへ帰ったら、今夜は温かいおでん風の煮込みでも作ろう。

 

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八事山興正寺で岐阜から移築された旧日下部邸を観る

2019-12-05 00:59:09 | 写真とおしゃべり

 岐阜県には日下部邸と名のつく建築物が二つあった。
 ひとつは、重文に指定されていて、飛騨の民芸資料館にもなっている高山のそれで、いまもなお、連日、観光客で賑わっている。

          

                  かつて岐阜にあった頃の旧日下部邸

 
 もうひとつのそれは、岐阜市にあったもので、半分洋風、半分和風の取り合わせで、桑名の六華苑とやや似ているが、多少違って道路に面して、左半分は洋風、右半分は和風とはっきり別れていた。それだけにそれは容易に分離でき、もう10年以上前にその和風部分が取り壊され移築されることとなった。
 この双方とも、築100年近く、岐阜市の重要景観物指定建造物となっていて、和風部分は大正時代に建て替えられたものの、それ以前は徳川幕府時代の岐阜本陣の跡地であることから市民の愛着もあり、保存運動も起こったが、移築が決定されてしまった。
 その日下部邸の前は何度も通ったことがあるが、いずれも車で、そこへ立ち寄ったことはなかった。そして、結局それがどこへどう移築されたかも確かめないままで過ぎてきたのだった。

          
                  参道の柳の豊かな風情がいい

          

 それが、名古屋は八事の興正寺の境内にあると聞いたのはつい最近のことで、近場の紅葉狩りも兼ねて、じゃぁ行こうかと岐阜の友人とともに訪れたのは11月の終わりであった。
 ところで、この八事山興正寺といえば、私の盟友にして同人誌などでご一緒しているYさんの縄張りうちである。彼女の小説の最新作、『サダと二人の女』の冒頭シーンは、この八事興正寺である。
 断りもなくその縄張りうちに出向いたりしたら、「おんどれ、ひとの縄張りうちで、なに大きな顔してけつかるネン!」とヤキを入れられそうだが、そこんとこは事後の了承をいただくとして、まずは山門をくぐる。

 じつはここは、やはり前は通ったことは何度かあるものの、境内にまで入るのは実に半世紀ぶりぐらいなのだ。
 山門を入って驚いた。な、何だこれは。重文に指定されている五重の塔の前に、でんと大仏が鎮座しているではないか!こんなものは確かなかったはずだと近寄って確かめると、「平成大仏」とある。なぜ、この場所に大仏なのかがよくわからない。均整がとれた五重の塔の景観が損なわれているような気がするのだ。
 だいたい、名古屋の新しい大仏というのはキッチュでいけない。本山の桃巌寺にある緑の大仏も、なんかグロテスクでありがたみがまったく感じられない。つい先だって、湖北方面で、集落の檀家衆に護られた年代物の仏像を見てきただけに、余計それが気になる。

              
              
                       これは本山桃巌寺の緑の大仏

 勝手にやってきてぶつくさ言うのはよそうと思い、境内を回る。所々に今を盛りと燃え上がる紅葉が目につく。以前ともう一つの大きな違いは、境内左手の墓所などに向かう斜面の階段横に、昇降用のエスカレーターがついたことである。これは景観的にはいまいちといえるが、こうした場所を訪れる善男善女は、私のような高齢者が圧倒的に多いことからして、心配りの範囲内であろう。

          
          
            本堂内部を隙間から 良い子の皆さんは真似をしないでね

               

                

               

           

 ツワブキやドウダンツツジの庭園があり、ところどころに燃えるようなモミジが映え、奥へ進むほど都市の寺院とは思えない静寂が訪れる。あの、キッチュな大仏で動揺した気分が序々に癒やされる。

              

          

          

          

 さらに進むと、凛とした竹林に囲まれた一角があり、それがどうやら日下部邸らしいのだが、表示には「竹翠亭」とあり、いまいち確信がもてない。
 するとなかから、和服姿の女性が現れ、「お抹茶など一服いかがですか」と誘う。確認すると、まさにこれが日下部邸を移築したものであり、お抹茶とお菓子付500円でその内部や付帯するお庭などを散策できるという。

          
          
          
 
 渡りに船、願ったり叶ったりで入れていただく。旧日下部邸の各部屋は、無駄な装飾がなく、一見簡素だが、柱や欄間、建具の取り合わせがじつに気品ある調和を保っている。雪見障子風に、上下は磨りガラスで中央のみ透明な窓から、程よく色づいた紅葉を見ながらのお茶はまた格別であった。添えられたお菓子は名前は忘れたが、霜の降りた野をイメージした重ね菓子で、まさに霜月の風情を満喫できるものだった。

          

          

 その後、各部屋とお庭、渡り廊下などを散策したが、それらは旧日下部邸とこの寺を結ぶ後からの増築とはわかっていても、全体の調和を壊さずにいて素敵だった。
 折から、早い秋の夕べの訪れで、傾きかけた陽のなか、ここかしこで烏の鳴き声が聞こえるのだが、日ごろ不吉に感じるそれが、この雰囲気の中では、まさに秋の夕べにふさわしい野趣あふれるものに感じられるのだから、人間の感覚も身勝手なものだ。

          

          

 思いがけなく見どころが多く、長居をした旧日下部邸であったが、その趣を十分満喫できた。この邸宅が、岐阜を離れる際、いささか寂しい思いがしたものだが、いまやここで、それを愛おしむ見学者たちの視線のなか、その余生を送るのはいいことだったのではと思ったりもした。

 キッチュな大仏と旧日下部邸の落ち着いた風格、その両極に私の八事山興正寺への印象は引き裂かれたのだった。

 

 

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戒律 再び階段から転落しないために・・・・

2019-12-03 01:04:18 | よしなしごと

 
 私は基本的に二階の住人で、一日に何度か階段を利用する。
 自宅で階段を踏み外して転落し、左手一本で全体重を支えた結果、グキッと嫌な音がして、見事に骨折をしたことがある。4年近く前の1月末のことである。救急車で病院に担ぎ込まれ、応急手当のあと、2月はじめに第一回目の手術。手首を数センチ切開し、ずれていた骨を金具を入れて矯正し固定。
 金具を取り出すための2度目の手術が9月はじめ。そしてその傷口がふさがり全治するまでになんと八ヶ月を要した。
 その折の恐怖感からか、いまも左手をかばいがちで、あまり重いものを持たないようにしている。

         

 転落の原因は単純で、夜更けの階段を降りる際、勝手知ったる自分の家と横着をして、暗がりのまま階段を降りたことによる。その折、知らぬ間に斜行をしていて、踏み出した足の下になにもないまま、もんどおりうって転落した。写真の向かって左側へである。

 
 それ以降、注意をしているが、時折あわやという怖い思いをすることもある。
 そこで、二度三度の転落事故を防ぐたため、以下のような戒律を作りそれを守ろうとしている。

1)暗くなったら、必ず照明を点けて階段を使用する。
2)寒いからといって、ポケットに手を突っ込んだまま階段を昇降しない。
3)必要最低限の場合以外、両手にものを持って階段を利用しない。
4)ボ~ッと考え事をしながら階段を昇降しない(これが比較的多い)。
5)階段の途中で、「アッ、あれを忘れた」と急に回れ右をしない。

 以上であるが、最近、新たに体験し、肝に銘じているのが最後の5)である。「ア、あれを忘れた」、「ア、照明を消し忘れた」などなど、上り下りに限らず、階段の途中で急に向きを変えるのは極めて危険なのである。
 最近、二回ほど、このために危うくバランスを崩すところだった。

 最近は、途中で何かを思い出したら、そこで一旦、完全に静止し、方向転換が必要な場合は慎重に手すりにつかまってするようにしている。

 だいたい、「ア、あれを忘れた」ということなど、自分の肉体を傷つけてまで急いですべきことではないのが普通なのだ。
 

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湖北の秋を行く 観音の里&余呉湖など

2019-12-01 00:28:45 | 日記

 もう10日も経つだろうか、滋賀県は湖北地方に行く機会があった。以下はその記事であるが、遅れたのは、沖縄シリーズが長引いたためである。

 まずは石道寺から鶏足寺の周辺。近づくに連れ嫌な予感が。平日だというのに車は渋滞し、ぞろぞろと歩行者の列が続く。
 ついに警備員から駐車場は満杯、こちらへ進めとの指示が。で、その通り行くと、どんどん遠ざかり、またもとの渋滞の列のシンガリにつくことになりそう。

 そうなのだ、この石道寺から鶏足寺は、全国級の紅葉の名所として、遠くからの観光客も押しかけるのだ。ましてやこの時期、他県ナンバーの観光バスが次々と列をなしていた。

          
 ここは潔く諦め、次へ向かう。
 訪れたのは、雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)庵。
 雨森芳洲は1668(寛文8)年~1755(宝暦5)年、江戸中期の儒学者として知られるが、とりわけ、朝鮮語、中国語に通じ、幕府が唯一行き来をしていた朝鮮との交流に努め、二度にわたって朝鮮通信使に随行したほか、両国の間にある対馬藩に仕え、朝鮮との友好関係の維持に尽力した。

          

          

 また晩年には、和歌に親しみ、「古今和歌集」を千回読破し、自分もまた万余の歌を残したという。
 この庵は、その功績をたたえ、彼の生家跡に建てられたもので、別名「東アジア交流ハウス」ともいわれ、韓国から訪れる人も多く、各展示品の説明にもハングルが添えられたり、音声の説明にも韓国語が交じる。

          

          
 

 一見、古風な記念館だが、東アジアの情勢が揺れている現在だけに、およそ三百年前に、その友好に生涯を捧げた芳洲の足跡を改めて偲ぶことは必要ではあるまいか。

          

              
 
 続いて向かったのは、国宝の十一面観音を安置する渡岸寺。
 かつて本堂に安置されていたそれは、今や本堂脇にしつらえられた宝物殿に移されている。

          

          


 今から1250年ほど前、悪疫が流行ったのを鎮めるため聖武天皇の命で作られたものという。

 かつては、金箔が貼られていたというが、450年ほど前の、織田と浅井の間のいわゆる姉川の合戦に際し、その戦火を免れるため、地中に埋めたため本来の面影は失われたという。
 なお、この姉川の合戦を恐れて仏像を埋めたり川に隠したという言い伝えは、この辺の寺ではけっこう多かったようで、他でも同様の話を聞いた。

          
 

 宝物殿の展示にされた利点は、普通は見られないその背面も含め、360度からの鑑賞が可能になったことで、ちょっと腰を捻ったようなエロティックな姿勢、右足をやや踏み出した様子、装束のヒダなどの線やディティールがよくわかることである。
 美術品の鑑賞としてはこれでいいのだろうが、お堂や厨子に収まった宗教上のシンボルとしてのアウラは失われているといってよい。
 これは、西洋で教会に飾られた絵画が、美術館に展示されるのと同様のことであろう。

          
 
 せっかくのアウトドア、寺や記念館ばかりではと、ちょっと車を走らせ、琵琶湖の北にある余呉湖を訪れる。

          
 

 琵琶湖から直線距離にして1キロほどしか離れていないのだが、水面の標高は50mほど高い.。周囲は6キロ余だから、周回道路の曲折を考えても車で10分もすれば一周できる。歩いているハイカーも見かけた。

          
 

 湖面は穏やかで、別名「鏡湖」といわれるのもよく分かる。周辺の景色の映り込みもきれいだ。この時期、渡ってきた水鳥たちも三々五々遊んでいる。

          
 

 一周したところで余呉湖漁協の棟続きの「舟戸」というひなびた食堂で昼食。1,000円のおまかせランチは、素朴な味付けだが、ワカサギの天ぷらを中心に、琵琶湖産の雑魚の佃煮や山菜など、リーゾナブルで美味しかった。
 なお、この湖はこれから、ワカサギ釣りのシーズンを迎える。

          
 

 午後は、予め到着時間を知らせておかないと拝観できない寺を訪問。なぜかというと、常駐する僧などがいなくて、集落の檀家の代表何人かが交代で訪れる人をもてなし説明するというシステムをとっているからだ。

          
 

 まず訪れたのは赤後寺(しゃくごじ)。ここも観音像である。風格がある像だが、手や足の先がない。聞けばやはり、姉川の合戦の折、避難させた際に失われたという。
 この像は別名「転利観音」と呼ばれ、「厄を転じて利となす」という意味だが、この「転利」の音がコロリに近いというので、苦痛なく死を迎えることができるという意味で信仰の対象になっているという。

          

          
 

 山の中腹にあるこの寺のロケーションがいい。下手な洋風建築がない眼下の集落の屋根瓦が、美しく輝いていた。

          
 

 続いては薬師如来と十一面観音を擁する西野薬師堂で、ここも同様に集落の檀家代表によって管理されている。
 この2体の像は、共に重文であるが、午前に観た国宝に遜色ないほど均整が取れた美しい仏像であった。
 この二体の仏像は併置され、その両脇にはわずかに残った十二神将のうちの二体が配置されている。
 聞けばそれぞれ、この近くにあったかつての大伽藍にあったもので、その伽藍そのものが応仁の乱以来の歴史の中で荒廃し消滅する中、かろうじて救い出されたものという。

          
 

 これまでの仏像はすべて撮影禁止であったし、ここもそうだったのだが、案内してくれた人の好意で、特別に撮影を許可してもらった。
 ただし、お堂の外からだったので、私の技術ではあまり鮮明に撮れなかったのは残念だ。

          
 

 最後は、この薬師堂と境内を同じくする正妙寺の観音堂で、ここには全国で唯一という千手千足観音があった。これまでの像と違って、全体に金箔が施され、江戸時代のものという。

          

             
                    この写真はネットから 

 たしかに珍しいが、そのお顔がなんだか怖い形相のうえ、手足もとっちらかった感じで、あまりありがたみは感じられない。でもまあ、丁重に見せてくださった集落の方に感謝せねばなるまい。

          
 

 お堂を出ると、すぐ西に伊吹山がそびえていた。子どもの頃から見慣れた山ではあるが、実は私がいつも見ているのは岐阜県側(東)から。
 それを比較すると、同じ山がどうしてこれほど違う容貌を持つのかというほど違う。滋賀県側からのそれは緩やかな曲線の優しい弧を描く山なのに、岐阜県側からみるそれはもっと角張っていて凛としているのだ。

          
 帰途は、近くの「浅井三姉妹の里」という道の駅で、地元の野菜を仕入れて帰る。値段は、いつも行く近くの農協と変わらないが、やはり土地の違い、この辺でしかないような日野菜や大きめのクレソンの束などがあり、それらをゲット。

 伊吹山と琵琶湖に挟まれた一帯は、なんとなく独自の土地柄が感じられるような気がする。

 

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