今年最後の名古屋行きは表題の通り、映画二本としばらく顔を出していなかったバーへ。
最初の映画は、ケン・ローチの『家族を想うとき』。
イギリスの普通の四人家族の物語だ。彼らは何も法外なものを望んだわけではない。いまよりの少しばかり余分に働いて、子供の教育を含めて家族を維持し、余裕ができたら自分たちの家をもちたいと思っただけだ。
父はそのために、フリーのドライバーとなり、配達業者とフランチャイズ契約を結ぶ。むろんそれらは彼の能力内で、じゅうぶんこなせるはずだった。
しかしそれは想像以上に過酷だったのだ。時間との熾烈な競争、そして契約上の些末な条項が彼をがんじがらめに縛っていることが次第に明らかになる。
なにかの拍子に休みが必要なら代理を見つけねばならないし、それができなければ罰金。フランチャイズ契約であくまでも本人は事業者だから、実際にはこき使われているにもかかわらず、そのマイナスや予想外の経費、事故の補填などなどは何も保証されておらず、全ては自己責任だ。
彼の連れ合いの派遣介護職も似たりよったりだ。ゆく先々の被介護者は彼女の思惑通りには従ってくれない。過重な負担が不可避であり、しかも、次の訪問予定が控え時間に追われている。
最初に書いたように、彼らの望みはささやかなものに過ぎない。しかし、それらがどんどんマイナスのスパイラルを描いて、蟻地獄に落ちたかのように彼らは追い詰められてゆく。
そう、これは私たちの国で最近問題化しているコンビニ経営にも似た問題であり、非正規労働全体の問題でもある。
あれもこれも自己責任。「あなたの身に起こったことはあなたの責任でしょ」とすべてが突き放される。これが、働く者たちをいつでも置き換え可能なモノに貶め、人間の尊厳を徹底的に奪う新自由主義経済の局地なのだ。
このケン・ローチの映画は、問題の解決を語ろうとはしない。この現実をただただそれ自体として提示するのみだ。ここには、前作『わたしは、ダニエル・ブレイク』で示された状況への登場人物による告発すらも、もはやない。もっとも、彼の映像そのものが何よりも強力な告発なのだが。
繰り返すが、彼ら家族はなにか分不相応なものを望んだのではない。しかしそれは、無明の闇に飲み込まれてゆくようにみえる。
二本目は名古屋シネマテーク主宰の試写会での『つつんで、ひらいて』(監督・編集・撮影 広瀬奈々子)で、これまで1万5千冊の書籍をデザインしてきた装幀者・菊地信義氏をめぐり、その作業を中心とし、本造りに携わる人たちのドキュメンタリーである。
本の装幀は私たちにとってはその書物との最初の出会いである。同時に作る側からすれば、菊池氏がいうように、そこに書かれた言葉の塊が、モノとして形を与えられる瞬間でもある。映画はその過程をつぶさに見せてくれる。
装幀なんて、所詮は本を売るためのパッケージだろうと思いがちである。たしかにそれもある。しかし一方、心ある装幀者たちは、そのテキストの内容に立ち入り、それをより適切に表現するための努力を惜しまない。
紙質、色合い、その組み合わせ、フォントとその大きさ、そして配置、表紙も裏表紙も背も、カバーはもちろん、いわゆる帯などの外観の一切、そして見返しや扉、地、小口やスピン(しおりの紐)に至るまで、まさにテキストがモノとして姿を表すすべてが彼ら、装幀者の手になる。
それらの過程、筆者や編集者を混じえたディスカッションによってそれらが生み出される過程、その結果などなどを観てくると、やはり私たちがその書に向かう姿勢が、それによって少なからず影響されていることに気づく。
それらは軽やかさであったり、重みであったり、エポックメーキングであったりさまざまなのだが、私たちはそれを、その書が形をなす最終段階で、それをモノとして完成させる装幀者の表現に寄り添いながら、その書と向かい合っているのだと思う。
これまでさまざまな書のお世話になってきた。しかし、意識してきたのはせいぜいその作者、出版社の性格などに限られていたのだが、装幀という契機を決して無視し得ないこと、したがって今後は装幀をも意識しながら書と向かい合おうと思わされた映画であった。
映画の後、四十数年前、私が居酒屋を開業した折、それを手伝ってくれた人が、いまは東新町でバーを営んでいるので、そこを訪れ、ひとしきり昔話で盛り上がった。錫のデキャンターでしばらく置かれた赤ワインは、風味が増すようで美味しかった。
約半世紀前に過ごした今池の街について、こんな風にフランクに話し合える人はもうほとんどいなくなった。私の生活基盤は今や岐阜にあるが、精神的な交流の地はやはり名古屋である。いつまで名古屋へ行くことができるかわからないが、可能な限り行きたいものだ。
そこでは、あるときは笑みを浮かべ、あるときは呻吟しながら、学生時代から私が歩んできた60年以上の足跡や痕跡が、かすかではあるが残っていて、それらが土地の匂いや手触りのようなものとして確かに感じられるのだ。
*最後に今年最後の名古屋の街角風景