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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

野いちごの実る道  母の逝った日に

2009-08-29 02:37:31 | ひとを弔う
 

 1945年の敗戦後、母とは近隣のいろいろなところへ行きました。
 そのほとんどが、敗戦時、ハルビンにいてソ連軍に抑留され、シベリア方面へ連れて行かれたという父の安全と早い帰還を祈願する参拝の道行きでした。
 父に関する情報は全く不確かなもので、その生死も明らかではありませんでした。ただ、その所属する部隊がイルクーツクはバイカル湖の近くに連れて行かれたらしいという程度の情報です。

 そうした頼りない情報にすがりながら、母はひたすら近隣の神仏への願いを欠かしませんでした。冒頭に書いたようにいろいろなところへ行きましたが、私が鮮明に覚えているのは、疎開していた大垣の郊外からでも片道6キロ余の不破郡垂井町にある南宮大社への参拝です。
 当時のことですからもちろん徒歩での往復です。あわや戦争未亡人という母と、この間まで天皇のためにその命を捧げると誓っていた国民学校一年生の親子の道行きです。

 行方不明の父に関する参拝の道行きというと、何やら重いものを感じそうですが、決してそうばかりではありませんでした。むしろ、疎開者として肩身の狭い親子にとっては、そのしがらみから解き放たれた格好のリクリエーションでありピクニックでもありました。
 主要な街道である旧中山道からも外れた田舎道は、自然の宝庫でした。傍らの小川には魚が群れ、道の脇にはちょっぴり酸っぱい野いちごがルビーのような実を付けていました。私はその実をつまみながら、「早くこんとおいてくよ」という母の声にせかされて、また歩を進めるのでした。
 
 もちろん私たちの他には誰もいません。時折野良仕事の人と出会うのみです。その田舎道を、私たち親子は歌を唱ったり、しりとりをしたりして歩きました。この日のための丹誠を込めた弁当も食べました。紅ショウガとシソをみじん切りにしたものをおにぎりにしただけのものでしたが、澄んだ空気のもとで食べるそれは最高のご馳走でした。

 南宮大社は、鍛冶や鉄器の神様です。転じて戦時中には武運長久の神様として崇められました。戦争に敗けて父を捕虜にとられた身としては、武運長久などはおかしいのですが、母にしてみれば戦争の続きなのだから父が健康でいられるための参拝だったのだろうと思うのです。

 今もなお、その状景を思い出します。私にとってそれが楽しいものであったように、例え戦争未亡人になりかかっていたとしても、母にとっても楽しい道行きであったと思うのです。
 あの澄み切った青空の下、母と共に歩いた西濃の田舎道を私は忘れることが出来ません。
 もちろん、私は全面的に母にその生を負っていました。ただあの瞬間には、私の存在が母にとって何らかの支えになったのではないかと思うのです。

 そうした祈願のせいあってか、父は1948年春、新聞紙に包んだ乾燥芋を後生大事に携えて帰還しました。
 養子である私にとってこの父母はなさぬ仲です。しかし、実子同様に、否、それ以上に私を愛してくれた父母でした。父が先に逝き、母が逝った今、私はこの人たちに何が出来たのだろうかと自責の念にかられるのですが、母に関していえば、あの日の道行きはまさに私と母の楽しくも解き放たれた瞬間だったように思います。あの時の母の若々しい表情が、私にとっては忘れられないのです。
 私が6歳。母が30歳の秋でした。

 その母が8月28日みまかりました。シズ、享年95歳でした。

写真は季節外れの桜ですが、母は百人一首の歌留多が好きで、とりわけ、「久方の光のどけき春のひに静こころなく花の散るらむ」は、自分の名があるといって誰にも取らせませんでした。
 もって、献花とします。


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語られた歴史と語られない歴史 オーラル・ヒストリーを巡って

2009-08-27 03:02:54 | 歴史を考える
 最近、オーラル・ヒストリー(語られる歴史)やそれをまとめたものに興味を持っています。
 なぜなら、そこには確実にそこで生きた生活者の体験が表現されているからです。とりあえずそれを原-事実といってもいいと思います。
 それは各種の記録や統計からも漏れてしまった人々の営み、あるいはそれに伴う喜怒哀楽の各相です。それらが純粋無垢なものとはいいません。それを体験し語る人々のある種のバイアスがかかるのは不可避だからです。もちろん、これはあらゆる史料に関していえることで、むしろ公式にまとめられ方向性をもたされてしまった「歴史」に比べれば、まだしもナイーヴといえます。

 公式の歴史には、そこで生きた人たちの具体的諸相を再現することはその量的質的な記述の問題として不可能です。それはたかだか、そこで生きた人々の諸条件の近似値を提起し得るのみです。しかし、この近似値を示しうるということは大したことなのであって、そうではなく逆に、そこで固定された歴史が、あるいはその叙述が逆に人々を抑圧することすらあるのです。

    
              情報、またはエネルギー

 例えば、ある種の歴史観は「歴史の法則性」なるものを主張します。その法則性なるものが、人々の営みの具体的な軌跡から事後的に見出された「傾向の束」に過ぎないという自覚をもち、ただ、今後の経験のための参照項にしようという謙虚さにとどまるならばそれは許されるかもしれません。
 しかしそれらの法則性がが民族や国家、あるいはそれらの止揚という最終目標(テロス)に向かうことを強調し、尊大にも、その法則性こそが歴史を動かしているダイナモであるかのように錯覚し、それを強要することが多いのです。

 そうなると、歴史の主人公はもはやその法則性や最終目的であって、人々の営みは、その法則や目的が貫徹してゆく上での単なる例証や過渡期のエピソードの地位に貶められます。
 「ほら、君たちが貧しかったり不幸であるのはこれら法則性や最終目的のの中途の段階の問題なのだから、すべからくこの法則を押し進め、最終目的を実現すべきなんだよ」・・・ということになります。そして、その途次での生き様は単なる雑事であるばかりか本来性から逸脱した疎外された虚偽であるとすらされます。

 
                  岐阜市の歴史

 そのように現実に生きている人たちが等閑視されるだけならまだいいのですが、上の立場がさらに原理的に進むと、その法則性や最終目的にそぐわない人々を排除し、抑圧し、犠牲にしたりします。
 スターリン、毛沢東、ポルポト、スターリンに追随した指導者、新左翼の一部、などなどがそうでした。私はこれらを総称して広義の「スターリニズム」と捉えます。
 ナチズムもむろんそうでした。優生学という「法則」と、ユダヤ諸悪の根源論という「法則」を振りかざし、無辜の人々に襲いかかりました。
 八紘一宇、大東和共栄圏、万世一系の大日本帝国、という最終目標のもと、国内での抑圧と弾圧の体制を築き上げ、さらには近隣諸国への侵略と殺戮をもたらしたのも、そうした本来性の歴史観によるものでした。

 いずれにしても、その歴史観や法則性のみが主体なのであって、具体的な生活者はそれに拝跪するか、あるいはそれに逆らって殺されるかの選択しかありませんでした。
 
 冒頭に述べたオーラル・ヒストリーは、そうした法則性主体の、あるいは、公の歴史には登場しない具体的な時間と空間のなかで、現実的な営みや行為をした人々の痕跡を示します。そしてそれらは、公式の歴史や、ましてや法則のみが主体であるとする歴史が一体何であったのかを逆照射するのです。それは、そこで現実に生きた人々の諸相を明らかにし、もって観念的な法則や最終目的といった歴史観による現実への抑圧を断罪する契機にすらなるのです。

 しかし、それらがオーラルであることの限界があります。それらはともすれば人々の記憶の中に埋もれていて、それを収集し記録する人たちがいないところではたちまち風化し、あるいは、その記憶の持ち主の老化や寿命によって人知れず消滅してしまうのです。
 記憶の記録こそがそれらを繋ぎ止める必須条件です。

 
                  家族の歴史?

 最近、そうしたオーラル・ヒストリー、ないしはそれに類似した優れた書に出会う機会がありました。
 ひとつは、かつての戦争で、日本軍の三光作戦(奪い尽くす、焼き尽くす、殺し尽くす)の現場であった黄土高原に住みつき、自分自身、異文化とのめくるめく様な交流をしながら、その三光作戦を経験した古老たちの体験を聞き取り、記録することに従事している畏友・大野のり子の著作『記憶にであう』(未来社)です。
 彼女の仕事が今、とても重要なのは、歴史終生主義が頬被りをしようとしている日本軍の大陸侵攻の実態を示しているということもさることながら、中国自体の異様な発展の途上で、それらが見失われて行きそうであること、そしてさらには、それらの記憶の語り手の老化が著しいということです。
 
 彼女の仕事に関しては、過去、拙ブログに以下のように紹介しています。
 http://pub.ne.jp/rokumon/?search=8068&mode_find=word&keyword=大野のり子

 もうひとつは、オーラル・ヒストリーとはやや趣を異にするかも知れないのですが、わが先達・大牧富士夫氏の以下の三部作です。

  『ぼくの家には、むささびが棲んでいたー徳山村の記録』
  『あの頃、ぼくは革命を信じていたー敗戦と高度成長のあいだ』
  『ぼくは村の先生だったー村が徳山ダムに沈むまで』  
                 いずれも「編集グループSURE」刊行

 この書たちは、岐阜県は徳山村出身の著者の自伝的な叙述によります。日本の山村の原点のような村を出た少年が兵士になり、敗戦後は岐阜の街で多感な時代を過ごし、やがて村へ帰って先生として過ごす過程が諸々のエピソードと共に語られます。そしてそれ自身、著者の感性を通じてのその折々のレポートとして興味深いものがあります。

 しかしです、私たちにとって看過できないのは、その自伝が同時に、先に述べた日本の山村の原点でもあるような村がまるまる消滅する過程でもあることです。
 著者が慈しむように描く徳山村はもはやどんな地図にもありません。満々と水を湛えた日本有数のダム、徳山ダムがすべてを飲み込んでしまったのです。
 それだけにここに描かれた在りし日の徳山村の有り様は、冒頭から述べてきたオーラル・ヒストリーにも似て、公の歴史の中では抹殺された在りし日の人々の営みを生き生きと甦らせてくれるのです。

 その徳山ダムは今、出来ることは出来たものの、その用途すら定まらないまま無用の長物として、それに固執したものたちを嘲笑するようにそびえています。
 そうなのです。徳山ダムこそ、高度成長期の人間の欲望を背景とした、公共企業という名のただただ何ものかを作るというあの虚しい営みの最たるものなのです。

    
               同じバスに乗っている

 徳山ダムについては拙ブログで何度も触れていますが、主なものは以下です。
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090607
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20090225
   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20081127

 だとするならば、この著者、大牧さんの定点観測のような村のたたずまいとその破壊の歴史は、同時に私たちの故郷喪失の歴史であり、自分の欲望の代償に売り渡してきたものの痕跡ではないかと思うのです。
 その意味でも私たちは、大牧さんが描いたこの村の変遷を、私たちがかくあることの陰画として、謙虚に読むべきだと思います。

 公の歴史はそれを描ききれません。ある事象から次の事象への変動を、因果律による不可避のものであるかのように描きます。そのとき、そのひとつひとつの事象の中で生きた私たちの営みは、まさに「法則性」貫徹の傍らでの雑事として捨象されるのです。

 どんなに不整合で、不合理でみっともなくとも、そこで生きた人間こそが実在したのであり、歴史の法則性などはおぞましいオカルティズムに過ぎないと思うのです。
 かくして、些細な「雑事」として片付けらるオーラル・ヒストリーが私を招くのです。
 

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去りゆく夏への別れの舞なのでしょうか・・・

2009-08-25 14:35:19 | よしなしごと
 甲子園が終わると秋が来ると言われています。
 昨日、今日の風の色合いはまさにそんな感じです。
 甲子園といえば、私の母校がベスト4まで進み、お隣の愛知の代表が優勝しました。この近辺の人たちは充分堪能したのではないでしょうか。
 現在の高校野球に対してはいろいろ批判的見解を持っていますが、それはそこで活躍した選手諸君には関わりないことでしょうね。勝者にも敗者にもよくやったと言ってやりたいと思います。



 夏の終わりを告げる挨拶なのでしょうか、私のうちの狭い庭に舞姫がひらひらと訪れました。一頭のアゲハチョウのお出ましです。
 この蝶、植木に水をやっている私のすぐ近くに止まり、私が接近してもいっこうに逃げようとしないのです。慌てて二階までカメラをとりに行きました。

 

 戻ってきたらもういないのではと思ったのですが、まるで私を待っているようにそこにいたのです。懸命にシャッターを押し、接写でも撮ろうとして近づきすぎたので、ついに逃げられてしまいました。
 しかしなんと、すぐまた、私を誘うように至近距離に羽を休めるのです。

 

 これは私への別れの舞なのだと直感しました。
 そういえばその明け方、滅多に見ないような夢を見ました。かねてよりとても好感を抱いていたのですが、セクシャルな対象ではないと思っていた女性と同衾している夢なのです。しかもそれは、そうした出会いにもかかわらず、別れを予感させる切なさに溢れていたのです。
 このアゲハが、その女性とオーバーラップして私の前に現れたのです。

 やはり、夏は(そして私の夏も)確実に終わりを迎えているようです。

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ものみな実る季節にあって、私たちは・・・

2009-08-24 15:06:19 | 写真とおしゃべり
 昨日、残暑の話を書いたばかりなのに、なんと無節操な私は今日はもう秋の話を書くのであります。
 以下の写真は、マイ・ヘイバリット・プレイスである岐阜県立図書館の庭にある植物の実たちです。いずれも、8月23日に撮影しました。


 太平洋高気圧がどれほど夏を主張しようが、季節は秋へとそのシフトを変えつつあります。
 人間がそれを感じるはるか前に、動植物はそれに感応しているのです。
 もちろん人間も、ある種の記号として与えられた季節の変動には反応します。

 
     まずは南京ハゼの実 外皮が褐色になると白い実が顔を出します

 しかし、動植物に与えられるその記号は人間が感応するものより、より微細で緻密であり、それによって人間が五感でそれを感じるより遙かに先行してそれらに反応しています。
 それが証拠に、人間がタンクトップの短パンで往来しているときに、植物たちは確実に秋の実りを用意しているのです。時間の推移を不連続に迎える私たちは、あるとき、「え?もうこんななの」と気づくのですが、植物たちは遙か前から微細な兆候を見逃すことなく、確実に季節の推移を読み込んでいるのです。

 
      モクレンの実です あの白い花からこんな実が出来るなんて

 そうなのです。この間まで花だった植物たちは、それを実や種へと文字通り結実しているのです。
 これは、毎年行われる反復でありながら、年々歳々変化があり、それが植物たちの歴史を彩ります。

 
       エゴノキの実 花はスズランのような白い可愛いものです

 人間様は、こうした季節感という自然性のようなものを次第に失ってしまっているかのようです。冷暖房などの装備によりそれを越えることが出来るという尊大さがそうさせているのかもしれません。
 そのかわり、日々移りゆく社会情勢の変化やそれに伴う損益や得失に反応します。ようするに、自然的な欲求の変化ではなく、日々拡大し続ける欲望の動向に反応するのです。経済的情勢やそれに左右される利害得失への反応は人間の世界に複雑怪奇な様相を醸し出します。

    
     色づきはじめたハナミズキの実 秋が深まると鮮やかな真紅に
 
 しかし、それらは、人間が自然を克服し、それと関わりなく生存できることを決して意味してはいません。今のところ人間の生き様は、自分たちの欲望の発露が自分たちの生存条件を脅かしている(戦争、経済破綻、自然破壊etc)のに対し、それらを修復しながら新しいあり方を模索しているというのが実情ではないでしょうか。
 もっとも中には、戦争や環境破壊をも自分たちの欲望のための手段としているような輩も存在してはいるのですが・・・。

 
             夏ツバキ、別名沙羅双樹の実です

 植物は、次代へと受け渡すべきものを確実に用意しているのですが、私たち人間は次代に何を残すのでしょうか。難儀な人間の難儀な生き様は、おのれ自信に問いかけながらそれを決めて行くしかないのでしょうね。
 
 たかが植物の実、されどそれは、私たちに反省を促す確実な反復と、にもかかわらず、長いスパーンでの植物の歴史に開かれてあるようです。



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カナダかスイスのはずが残暑の名古屋に

2009-08-23 01:01:25 | 写真とおしゃべり
 先日、名古屋へ出かけました。
 朝夕は幾分過ごしやすくなったとはいえ、昼はまだまだ暑いですね。
 こんななか、インフルエンザが増えつつあるのは信じられないですね。マスメディアとのいたちごっこのようで、彼らが大騒ぎをしている頃はさしたる被害も出さず、もはや日常化して騒がなくなった頃に被害を及ぼしはじめるというのは皮肉ですね。

 

 駅近くの人工庭園で、暑さにへばったサラリーマン風の人が一息入れていました。ネクタイに黒っぽい背広(さすがに着てはいませんでしたが)となかなか大変ですね。
 国会議員などは「クールビズ」といってヤクザまがいの格好で赤絨毯を闊歩していたのですが、民間はなかなかそうは行かないようですね。
 このサラリーマンさんたちの最近の服装については考えるところがあり、また、秋風が吹き、ちゃんとみんなが上着を着る頃にそれに触れたいと思います。

 

 もっとも、衆議院の皆さんはその折りの罰が当たって、今頃は炎天下で喉うち涸らして絶叫の日々ですが、私どもは「ざまあごらん遊ばせ」と至ってクールにその行く末を見つめるのであります。

 喉うちからして叫ぶといえば、もうだいぶ前、8月のはじめですが、いわゆるサマージャンボくじ発売の最終日、写真にある宝くじ売り場で、はっぴ姿でのぼり片手にメガホンで呼びかけている人たちがいて、そのうちのひとりが見かけたことのある人でした。
 私の切れかかった記憶の糸がかろうじて10年前に繋がりました。

 

 その人は、私が居酒屋をやっていた頃の常連さんで、それなりの地位にある人なのですが、こうした大型の宝くじの最終日には動員されて呼び込みをやるようです。
 声をかけると、向こうも覚えていてくれました。そしてなんと、10年前の閉店の日、行けなくて申し訳なかったといって詫びてくれるのです。かえって恐縮しながらも、なんかジーンと来るものがありました。
 そんなわけで、サマージャンボを買ってしまいました。

 で、当たったかですか?当たってたら今頃こんなところでこんなもん書いていませんよ。カナダかスイスに別荘を買って、カナディアン・ロッキーかユング・フラウを見ながらうまい酒でも飲んでいますよ。

  

 話をつい最近に戻します。
 そのあと、チェコアニメの試写会を観てから、例によって映画の梯子、伏見へ行って『縞模様のパジャマの少年』を観ました。
 始まったら、ドイツの将校の家族なのにみんないきなり英語をしゃべり出してビックリしましたが、あとでよく見たら、米英合作の映画で監督はマーク・ハーマンでした。車なんかはちゃんとベンツでしたよ。

 ラストが壮絶です。どういう訳か周りは女性客が多かったのですが、始まる前はお喋りをしていた人たちが、終わった途端言葉もなくシュンとしていました。まあ、予想外といえば予想外な展開でした。

 
 
 映画館を出て御園座の前を通りかかると、「招き上げ」というのでしょうか、10月吉例歌舞伎に出演の面々が掲示されていました。演目は、通し狂言『仮名手本忠臣蔵』だそうです。
 チェコアニメにナチスVSユダヤ人の映画を見たあとだけに、別世界のようで、文化の落差のようなものに目眩がしそうでした。
 あとは今池でした。

ついでですが、私の母校が甲子園でベスト4まで進みました。
 県予選ではシードさえされなかったのに出れば出るでやるもんです。


 



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延べ100,000の方々に感謝を!

2009-08-22 02:51:00 | ラブレター
 
       ハチスの蜂巣 それぞれの孔に実があるのが分かりますか

 私のブログを覗いてくれた人の延べ人数を示すカウンターが10万を越えました。
 22日の午前0時現在で100,050人の方が来ていただいたとのことです。
 むろん中にはパッと開けて、「何だ、つまらん」とすぐ立ち去った人もいらっしゃると思います。
 でもそれをも含めて、10万の人が来てくれたという事実は残ります。
 もう数年以上前でしょうか、結構専門的な記事を書いていらっしゃるの音楽関係の方のHPを覗いたら、そのカウンターが10万を示していて「わぁ、凄いなぁ」と思ったものです。まさか自分のブログがその域に達するなんて・・・。
 もっとも、世の中には「※っ※のブログ」のように、8,600万以上をカウントしているものもありますからそれに比べたらちゃちなものですね。

 2006年の5月に開設したのですが、最初の3ヶ月は月2、3回の更新でしたから当然カウンターもわずかな数字を示すのみでした。本格的に(といっても隔日がいいところですが)書き始めたのはその年の8月からで、それ以来徐々に固定した読者の方も増え、丸3年での達成ということになります。

 ただし、カウンターが伸びればいいというものでもありませんので、今後は内容を質的に充実させて行くことができればと思います。
 同時に、記事のジャンルがあまり固定しないように目配りを広く保ちたいと考えています。ということは、ようするに今まで同様、チャランポランであり続けるということです(笑)。
 寄る年波に流されそうですが、このブログを救命具代わりに頑張ります。
 
 立ち寄っていただいたすべての方々に感謝いたします。
 そして、今後ともお越しいただきますよう改めてお願いいたします。
 あ、そうそう、コメントなどもいただければ嬉しく思います。
 ほんとうにありがとうございました。

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怪しいオジサンとのしばしの交流

2009-08-21 01:55:28 | よしなしごと
 お盆の休みも終わりの頃です。
 母の病院へ行った帰りに、怪しいおじさんを見かけました。
 なにやら真剣な面持ちで用水路を見つめているのです。
 麦わら帽子にタモをふたつ持ち、ズックの水槽バケツを持っています。
 どうやら、この用水路にいる水生動物を狙っているようなのです。

    

 元祖「怪しいオジサン」の私が、これを黙って見過ごすわけには行きません。
 早速、不審尋問に取りかかりました。
 「何を獲っていらっしゃるのですか」
 「ザリガニです」
 とっさに私は、ザリガニを使って海老チリソースを作るおじさんの姿をイメージしました。
 
 そのときおじさんは、ザクッと網を入れました。
 狙い違わずザリガニは網の中です。
 しかしおじさんは、「あ、これは大きすぎるなぁ」とすかさず、キャッチ&リリースです。
 エッ?エッ?エッ? エビチリにはちょうどじゃないの?

    

 そこでおそるおそる尋ねました。
 「ザ、ザリガニをどうなさるんですか」
 「あ、これですか。これはウナギ釣りの餌なんです。だからあまり大きいとだめなのです」と、おじさん。

 なあんだそうか、ということで話が弾みました。
 子供の頃、川に竹製の簀の子を仕掛け、川蟹(モクズガニ)とウナギがいっしょに入ると、ウナギが蟹を食べてしまって、蟹の甲羅とハサミしか残っていなかった話などしました。
 この場合、餌に釣られて蟹が入って、その蟹を餌にウナギが入ったということなのです。ようするにそれくらい、ウナギは甲殻類が大好きなのです。
 ですから、まずザリガニを調達するというのは、石鯛を釣るのにサザエを用意するようなものですね。

 

 その後おじさんと、U字溝化されて以来、ザリガニが減ってしまったことなどを話し合いました。ただし、おじさんが獲りに来ているこの辺りのわずかな区間だけザリガニがいるのだそうです。
 おじさんは、それはこの区間だけ両側に草が生い茂っていて、昔の小川の環境に似ているからではないかと解説してくれました。

 なるほど、そういえばそうです。ザリガニは敏感にもアスファルトとコンクリートがむき出しの地域を逃れて、適当に草陰があり、しかも餌になる有機物がありそうな地点に集中しているのです。
 こんな話を交わしながらも、おじさんは適切な大きさのザリガニを次々とゲットし、ズックのバケツへとため込んで行きました。

 

 おじさんに合ったのは午後3時半頃でしょうか、「それでいつお出かけですか」と訊くと、これから夕方にかけてだとのことです。釣りの好きな方はご承知のように、とりわけ淡水魚は、朝まずめと夕まづめに食いがいいのです。
 場所は長良川の墨俣付近とのことです。
 
 流しですかそれとも竿釣りですかと訊くと、「もちろん竿です」と、幾分胸を反らせての答。仕掛けを流しての運任せではなく、ポイントを選んで竿を打ち込み、ウナギとの知恵比べをしようというのです。これぞマニアの釣りです。

    

 天然のウナギは養殖のように腹が白くはありません。黄色に黒い斑点が混じっていたりします。
 「腹の真っ黄色なウナギが釣れるといいですね」というと、「そうですね」と白い歯の笑顔が返ってきました。怪しいおじさんは、自分の目的に向かってまっしぐらになれるおじさんでした。準備の段階からまるで少年のように、こんなに夢中になれるって羨ましいなあと思いながら別れを告げました。
 
 写真はもちろん、了承を得て撮ったものです。
 


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国民学校一年生が観た心象風景・・・短歌もどきに

2009-08-18 14:45:32 | 想い出を掘り起こす
 今を去ること64年、あの敗戦の夏、私は国民学校一年生でした。
 その国民学校一年生の戦争の記憶を中心に、短歌風に三十一文字(みそひともじ)にしてみました。
 短歌もどきにすぎませんが、ご笑覧を。


     

      見はるかす街ことごとく焼け落ちてあのひと夏の山は近くあり

      広島に特殊爆弾落つを聞き焼夷弾の何倍かと問う

      野に遊ぶを白きシャツなど着せられて正座させられ聞きし玉音

      玉音の背後で囃す蝉時雨 堪え難きを堪え堪え難きを堪え

      ミャンマーに実父は死してシベリアに養父囚われ戦終わりぬ

      教科書に塗る墨跡はのたうちて幼年の日々踏みにじりゆく

      乾燥芋後生大事に携えて抑留解かれ父は帰還す (1948年)

      焼け跡に耐えて残りし唯一のビル取り壊されて戦後終わりぬ

  
      疎開せし地に田園の影はなし昭和を埋めて家立ち並ぶ

      抑留の父に「異国の丘」重ね ともに歌いし母は病床
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海を渡る動植物と核武装と将軍様

2009-08-17 01:57:35 | 社会評論
 16日付「朝日」は、動植物の外来種についてその一、二面を割いています。
 といっても、この外来種は、日本から渡っていった外来種で、つまり侵入された諸外国にとっての外来種なのです。
 かねてより日本では、背高泡立草や金鶏菊、ブラックバスやブルーギル、そして最近では物騒なピラニアや噛みつき亀なども話題になっています。そんなに派手ではないのですが、日本の在来種をほとんど駆逐してしまって、それが主流になっている外来種すらあります。

 
           すべての戦争の犠牲者への献花です

  それらが報じられるたびに、日本からよその国へ行ったものはないのだろうかという疑問が頭をかすめたことがあります。日本は島国だから・・・とはいうものの、それならば入ってくるときも同じなので、これだけいろいろ来ているのなら、こちらから行ったものもあるのではないかというのがその疑問でした。
 果たせるかな、それらが確実にあり、しかもある地域では従来の生態系を破壊するばかりか、直接の害をもたらしているというのです。例えばイタドリ、クズ(葛)、マメコガネ(虫)、ヒトスジシマカ(蚊)、それにワカメなどもそれに当たるのだそうです。
 
  イタドリは子供の頃、おやつ代わりに塩を付けて食べました。今でも山菜料理に用います。 
 葛は、その根からくず粉を採り、葛饅頭や葛切りの原料にします。もっとも、本物のくず粉を使用しているのは高級料亭などに限られ、普通は単にデンプン質で代用されているようです。
 ワカメは少し驚きますね。あんな美味いものが・・・と思うのですが、それはこちらでの食習慣、あちらではその辺の岩礁や潮だまりの生態系を侵し、固有の魚介類に影響を与えているのだそうです。

 

  ところで話は180度ほど変わり、時期的に敗戦記念日に関するものになるわけですが、沖縄、広島、長崎ををはじめ国内各所で、そして海外で無念の死を迎えた兵士や在外邦人についての慰霊がこのときとばかり行われます。私たちはその被害者であったり、その末裔であったりするのです。
 原爆をはじめとするアメリカの無差別爆撃は悲惨でした。
 戦地の兵士たちも圧倒的な軍事力の差のもとで敢えない死を強要されました。
 どうしてこんなことになったのかはここでは敢えて言いますまい。

  8月15日に行われた全国戦没者慰霊祭では、麻生総理はその挨拶の一節で次のように述べました。
 「我が国は、多くの国々、とりわけアジアの諸国に対して、多大の損害と苦痛を与えました。国民を代表して深い反省ととともに、犠牲になられた方々に謹んで哀悼の意を表します」
 ようするに、私たちが被害者としてのみではなく、加害者であったことを率直に認めた一文です。
 おそらく麻生総理にとっては、公の場で総理として挨拶するのはこれが最後でしょう。その挨拶を彼は無難に(読み違えることもなく)やってのけました。ご苦労様と率直に言いたいと思います。

  話は再び180度ほど変わるのですが、従来より、外来種が日本に入ってきて困るといっていたわけですが、よく調べると、日本からも諸国へとかなりのものが進出しているのが現実なのです。その事実と、日本の敗戦の受け止め方にある瑕疵のようなものがオーバーラップするのです。
 麻生総理の言うごとく、私たちはあの戦争の被害者であったばかりではなく、他国の人にとっては圧倒的に加害者であったわけです。私たちは、総理共々それを深く肝に銘じるべきだと思います。

  さらにいうならば、私たちは好むと好まざるとに関わらず国際的な諸関係の中で行為しています。ということはそれらの判断や行為は国際的な評価やリアクションに当然曝されるわけで、国内的な基準のみで物事を考えることは出来ないのです。

 
 
  やはり15日夜、NHKは日本の核武装の是非を問う番組を放送しました。あんなに核武装論者がいるというのは驚きで、NHKが議論を組み立てるために多めに集めたのではないかと疑われるのですが、ここで問題にしたいのは核武装論者の国際感覚の欠如とノーテンキぶりです。

  百万歩ほど譲って、日本の核武装を是としましょう。彼ら核武装論者はそう決意さえすればそれが可能であるかのように幻想しています。
 朝鮮人民民主主義共和国の核武装に対して、国連をはじめ周辺諸国が、とりわけ日本がどれだけの抵抗を示しているかは周知の通りです。それに反して、日本の核武装化は世界や周辺諸国から歓迎されるでしょうか。そんなことは決してありません。
 
  日本に関しては(ドイツ同様)侵略の前科がありますから、それに倍する抵抗は必至です。日本経済の生命線である輸出入は全面的に止まるでしょう。当然、石油や天然ガスの供給も停止され、国内のインフラ自体の存続が危機に瀕します。
 かくして、核を保有しようとすること自体がこの国を国際的に孤立せしめ、外交、経済などあらゆる面で計り知れない混乱と不安をもたらすのです。
 ようするに、日本を今日の朝鮮人民民主主義共和国の状況に追いやることなく、核を保持することなど不可能なのです。

  この一事をもってしても、核を保有することによる平和(?)よりも、周辺諸国との友好関係の維持進展による平和という選択肢の方がはるかに現実的なことは明らかなのです。将軍様を嫌悪し、それへの対抗措置として核武装を叫ぶ人たちが、将軍様と同様、国際社会からの孤立への道をやみくもに走ろうとしているのは皮肉というほかありません。
 ようするに、より強力な武器と軍備による体制の保持を叫ぶことは、対外的な孤立(日本の核武装を支持する国があるとは思えません)と、対内的には戦前の治安維持法下の抑圧社会や、将軍様支配下の貧困と独裁の体制へと行き着くのです。

 

  動植物の往来は、その是非はともかく、地球がひとつの連帯のもとにあることを如実に示しています。しかも、その移動そのものが一方通行ではなく双方向的で主客が渾然一体化しているのと同様、国際的な諸関係においても、どこかがどこかを一方的に支配する、ましてやそれを武力でもってすることが次第に非現実的であるようになろうとしていますし、その趨勢はますます進むことでしょう。
 もちろんこれは楽観的すぎるかも知れません。しかし、その楽観に賭け、それを実現して行く以外に人類の将来はないのです。





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鵜飼いの準備と午前様

2009-08-15 18:07:59 | 写真集
 一夕、長良川に遊びました。
 といっても鵜飼い見物ではありません。
 久々に合う旧知の仲間との会合だったのです。
 
 
             緑滴る金華山 水清冽の長良川

 
              ゴムボートで遊ぶ人

 河合塾の牧野剛氏、先般、光文社から『「女」が邪魔をする』を出版したばかりの大野左紀子さん、かつて今池のロックの牙城「ハックフィン」のオーナーだった昌子さん、その他、内藤医師父子、設計士、女性の大工さんなどなど多士済々で話は尽きるところはありませんでした。

 
                出番を待つ鵜船
 
 
             この弓状のところにかがり火が吊される

 以下は、準備や打ち合わせをするスタッフたち 
 
 
 
 
 

 おかげで川沿いの鵜飼いが見える座敷に陣取っていたにもかかわらず、ほとんど鵜飼いを見ることはありませんでした。
 話の後は柳ヶ瀬近くへ繰り出しての二次会。そこでも話が弾んで、年甲斐もなく午前様、しかも中途半端ではない時間。とても正確な時間は書けません。

    
               鵜の真似をするカラス

 
              屋形船に料理を運ぶ人

    
               「篝火丸」は準備完了

 鵜飼いは見なかったといいましたが、会場のお店に行く道すがらその準備の過程は(といっても、屋形船のそれですが)しっかり目撃し写真に収めました。
 湿度は低かったせいもあって、川面を渡る風が心地よく、幼なじみの金華山と長良川が爽やかに出迎えてくれました。

 
                集まりがあったお店です

 この日、私の出身校が甲子園で一勝を挙げました。
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