六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

花の断章 そして自信喪失

2012-03-31 15:04:46 | 花便り&花をめぐって
 もう昨日のことになる。
 一日中ず~っとデスクワークだったので、目は疲れるし肩は凝る、足腰も「もういい加減こんな窮屈は嫌だ」と言い出した。ストレスも溜まりっぱなしだ。
 そこで、常用の薬が切れていることを思い出したのをさいわいと、散歩も兼ねて近くのクリニックへでかけた。

          

 ぽかぽかと春の陽気だ。
 ソメイヨシノは、陽溜まりでチラッといった感じだが、ほかの花々は咲きそろい始めた。
 「レンギョウはなんとなくだらだら咲くから珍重されない」といった言葉をエッセイか何かで読んだことがあるが、その人の主観というほかはあるまい。
 近くによってみると枝ごとにびっしりとひしめき合って、しかもそのひとつひとつが健気に四弁を広げているさまはなかなか可憐である。

        

 それにこの花には黄色一色しかないのが潔いように思う(私が知らないだけで他の色もあるのだろうか)。

 野菜類の花も美しい。
 根菜類の代表格は菜の花で、この辺りでは今を盛りと咲き誇っている。
 小さくて地味だが、見逃せないのがマメ科の花だ。
 ソラマメやインゲン、センゴクなどの花もきれいだし、オクラの花はろうたけた気品すらある。

        

 私が好きなのはエンドウ豆の花である。
 つる状に絡んだ茎や葉に囲まれて見え隠れするそれは、戯れる胡蝶のような風情である。

        

 春うららのなかでそんなものを見ていると、さすがの老体もしばしその疲れを忘れて和む。
 しかしそれもつかの間、帰宅したらまたあのしんきくさい校正の仕事が待っている。
 誤字脱字やミスタイプなどはゴマンとあり、変換間違いに気づかないままのトンチンカンもここかしこ、自分の文章ながらほとぼと嫌になる。一人、汗顔しながら、自分は果たして文章など書ける人間なのだろうかと自信喪失に陥る。
 そして、それだけにストレスが溜り、余計疲れる。

            

 あらら、またはじめに戻ってしまった。
 これではどこまでいってもエンドレスだ(これ、シャレではありません)。
 これが歳を重ねるということなのだろう、たぶん。

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予定は続く、どこまでも~ (手抜きの日記)

2012-03-30 03:23:03 | よしなしごと
        
 
 名古屋で会合。

        
                 ホテルのロビーから

 某ホテルの格安ランチで粘る。

  
        今池公園のしだれ梅          今池のパチンコ屋
 
 会合を終えて映画。『ニーチェの馬』。
 機会があれば感想をアップ。今は多忙で不可。

          

 3・30の予定表。
 ウッ、どこかで息継ぎをしなくっちゃあ。

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朗読会と日本語と私の予定

2012-03-29 00:10:04 | よしなしごと
 高校時代の後輩が二人出るという朗読の発表会に行ってきた。
 一時間半ぐらいの間に20人近くが登場ということで、一人ひとりをじっくり聞くというのは無理だが、この種の発表会では致し方あるまい。
 ただし、プログラムは古典あり、現代物あり、あるいはしんみりしたものやコミックなものがあってけっこう面白かった。

          
       会場への途次 白布に包まれた階段は芸術作品、それとも修理中?

 枕草子の冒頭部分はあらためて朗読で聞くとやはり美しく快いものがある。
 与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ」も若い頃はその意味内容にのみ即して読んでいたが、耳で味わってもとてもいい詩だ。
 私の好きな茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」が聴けたのも嬉しかった。ついでに「根府川の海」も聴きたかったがそれは叶わなかった。

 各出演者の力量はともかく、こうして声に出された表現を聴くと、日本語に内在するリズム感、母音・子音の組み合わせの明瞭さ、イントネーションなどなどはやはり美しいと思う。
 もっとも日本語しかわからない私だからそんなふうに感じるのであって、世界中の各言語がそれぞれにそれ固有の美しさを持ってることを否定するものではない。
 ただし、それがわかるためには、それを受容しうるネイティヴな耳が要るのではとも思う。

        
          わが家の桜 もう目一杯で明日ぐらいから散り始めるだろう

 その後、一緒に聴いた知り合いとお茶をし、買い物をして帰る。
 帰宅してからは明日29日の会合に準備するものの点検と、既に書いた文章の自己校正などをした。
 一息ついたところでこれを書いているが、ここまでは昨日設定した予定通りだ。

 このあともう一度、資料などに漏れがないか確認するつもりだ。
 そして29日の予定は次の通り。


          
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手抜きの断章 ごめんっ!

2012-03-28 03:13:42 | よしなしごと
 いろいろ立て込んできてゆっくりブログを更新していられない。
 そこで手抜きの断章を。

          

 物忘れ対策として、前夜に明日すべきことをメモし、テーブルカレンダーの枠を利用して掲げることにした。数字は優先順位である。書いたからといってその通り出来るわけではない。「予定は未定にして決定にあらず」といったのは、故吉田茂であったと思う。
<結果>ほぼ予定通り。

          

 3月27日の予定 赤い数字は優先順位 まずは食料の確保 「腹が減っては戦はできぬ」 別に戦をするつもりはないけれど…
<結果>3は今書いてるものでごまかす。
    4はスルー。


おまけ
 25日、近くでの会合があったので鶴舞公園による。

        

        
 
 懐かしい市の公会堂。ここにいくつかの青春を置いてきた。

        

 桜はこの程度だった。



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花の誘惑と在原業平

2012-03-25 03:25:32 | 花便り&花をめぐって
        

 わが家に咲く花に癒されているというより魅せられている。
 いや、もっと強い吸引力を持って誘惑されている。
 ジェンダーの人には叱られるかも知れないが、男性の私にとって花は女性だ。
 そして花は私を誘惑する。
 必ずしもその清楚さにおいてではない。
 まさにエロティシズムの極地において官能的にである。
 これらの花に取り囲まれて、私はひとときドン・ファンになる。

        

   世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
  (世の中に桜などというものがなければもっとのんびり春を過ごせるものを)

 は『伊勢物語』の中の在原業平の歌であるが、稀代の色事師の歌とあって、これを単に桜の成り行きに心騒ぐ歌とするのはナイーヴすぎるあろう。

        

 なお、『伊勢物語』第六段「芥川」には、業平とおぼしき男が二條の后をさらって逃げる場面があるが、その情景を江戸の古川柳は

     やわやわと重みがかかる芥川

 と詠んでいる。
 業平が二條の后を背負って逃げた際、その背に柔らかい女体の感触があったろうといううがった句で、古典を題材としながらエロティシズムを表現する川柳独自の境地を示していて私の好きな句である。

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少し遅い春と忘れてはならないこと

2012-03-23 02:14:22 | 花便り&花をめぐって
 わが家にも少し遅い春が訪れました。
 日本水仙は前から咲いていましたが、ラッパ水仙が開花しました。
 それから、桜ん坊のなる桜がほぼ8分咲きほどになりました。
 それぞれ、やはり昨年から10日ほど遅れています。

         

 昨年、3月11日、咲いている桜を眺め、写真などに収めてから部屋に帰った折、あの地震を体感しました。
 そして悪夢のように海が膨れ上がりすべてを飲みつくすあのおぞましい瞬間の映像を観ました。これがこの、のどやかな春の日に、同じ国で起こっていることとはにわかには信じがたい光景でした。

 それもあって、昨年のそれ以降の日記(3月11日はその日の午前中に載せているので当り障りのない事を書いていますが)は、毎回それについて触れ、赤い文字やイタリック体を使って書いています。
 ようするに、ゆっくり春をめでる気分がすっ飛んでしまったということです。

    

 それに比べると、今年は幾分落ち着いています。
 しかし、連日報じられるように東北ままだまだ過酷な条件下にあります。
 ガレキの90%以上はそのままです。
 放射能は今なお垂れ流しの状況です。
 除染といっても、市街地などはともかく、水源を含む山野などは事実上不可能な有様です。だいたいが「除染」といっても単に「移染」にしか過ぎないことは明らかです。
 かくして、被災地全般、とりわけ重ねて原発災害を受けて人びとの生活や経済は破壊されたままです。

         

 次々と出来度が生起するなか、ともすれば私たちは書類を積み重ねるように新しい出来事を上へ上へと積み重ねてゆきます。
 そして下敷きにされた出来事は忘却されたり風化したりしてそのリアルさを次第に失ってゆきます。
 「絆」とか「がんばろう」とかいう言葉の内実が空疎化し、あの日以来の様々な出来事が単なるエピソードや美談として流通しています。

   

 こうして本質的な問題から視線をそらすなかで、本来あってはならないことが日常のなかに組み込まれてしまっています。放射能が飛び交うなか、難民さながらの逃避行や収容所のような仮設住まいという異常事態が日常化しつつあります。
 そして一方では、官僚に操られた民主党政権が、原発再稼働をめざしてあからさまな動きを示しています。

 私たちやや離れたところにいる者たちは、今年は春を謳歌するかもしません。しかし一方、それを複雑な心境で迎えている人たちがまだまだ大勢いることを忘れないでいたいし、それへの公の対応をちゃんとチェックし続けてゆきたいと思うのです。

 例によって、写真と文章がちぐはぐですね。





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白川公園科学館界隈とメリル・ストリープ

2012-03-21 02:12:08 | よしなしごと
        
                 向こうは名古屋市美術館

 もう一昨日になってしまった。
 月一回の名古屋での会合に出かけた。
 この会合、少なくとも今期は最終回。
 遅刻しないように心がけて出かけたらかえって早く着きすぎてしまった。
 で、会場近くの白川公園近辺をぶらつく。

        
            近未来の風景のなかマスクの兄ちゃんがチャリンコで

 朝夕はまだまだ寒いのだが、昼間の日差しはやはり春のそれだ。
 そんなこともあって思ったより人出があった。
 公園のベンチで本を読んだり、ものを食べたりしている人もいる。
 こうした空間では、人はやはりのんびりするのだろう。
 私もそうしたかったが、会合の時間が迫ってきたのでそこを後にした。

        
               見上げればド迫力のプラネタリウム館

 会合を終えたのが3時ちょっと過ぎ、急ぎ足で名古屋駅前に取って返す。
 メリル・ストリープに逢いにゆくためである。
 逢うといっても映画の中であるから、正確には、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』を観にゆくというべきだろうが、ハリウッド映画にもサッチャーにも思い入れがない私としては、やはり、メリル・ストリープに逢いに行くといったほうがふさわしいのだ。

        
              近くで咲いていたヒイラギナンテンの花

 とはいえ、彼女との出会いはそれほど古くはないし、熱烈なファンというのともちょって違うだろう。
 ヴァージニア・ウルフの小説を映画化した『めぐりあう時間たち』を観て、えらく存在感がある人だなと思ったのが始めだが、あとで調べてみると、あの『ディア・ハンター』の清楚な女優さんも彼女だったのだ。

 この映画で、もう一人の女優さんにも逢った。
 ニコール・キッドマンである。
 だいたい女優さんの顔もよくわからずに映画を見るほうだから、印象に残ったというのは彼女たちの存在感がなせるところだろう。

             

 さて、メリル・ストリープに話を戻そう。
 映画そのものもそれほど悪くはなかった。
 サッチャーを過度に持ち上げるでもなく、いくぶん突き放していることが良かったのだと思う。それは、老いてしまった現在の彼女からのとぎれとぎれの回想として描いた方法が成功したのだと思う。

 幻覚のなか、亡夫デニスと「シャル・ウィ・ダンス」を踊るところで、若き日の二人のダンスがオーバーラップするシーンがなかなか素敵だった。
 こうした方法はどこかで観たなあと思ったら、先ごろ亡くなったテオ・アンゲロプロスがしばしば用いたものだと気づいた。

                

 で、メリル・ストリープだが、やはり素敵であった。
 最初のシーンからこちらを鷲づかみにしてストーリーのなかに引き込んでゆく。
 眼というか、瞳のほんの僅かな動きで、不安や安堵、絶望や希望を表現できる人はそんなに多くはいないだろう。

        
               これは名古屋駅ビルのツインタワー

 映画館を出ると、もう薄暮が迫っていた。
 今池まで行き、馴染みの店で飲んで帰った。
 大垣や米原まで乗り過ごすことなく、無事に岐阜へ降り立った。
 自宅まで自転車をこぐなか、久しぶりに聴いた「シャル・ウィ・ダンス」のメロディが頭の中を駆け巡っていた。

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花めでる閑を惜しんでゆく弥生(俳句なら季重ねか)

2012-03-17 01:42:33 | よしなしごと
        

 ここんところ多忙である。
 多忙といっても私の場合、あちこち駆けまわるのではなく、逆にデスク(パソの前)に釘付けということなので肉体的消耗は少ないのだが、やはり疲労がないわけではなく、肩は凝るし目は疲れるし、座りっぱなしの腰も辛くなる。
 そして、何よりもストレスが貯まる。

 このブログをお読みいただいている方はご存知のように、だいたいが普段からじっと落ち着いていることが苦手であちこち出張って歩く方だから、ここ数日というものいわば軟禁状態といってよい。
 ちょっとサボっていると「お前そんなことをしていていいのか」と内なる声が牽制する。外からの指図にはそこそこ抵抗しても内なる声には弱い。「ハハーッ」と平伏するほかはない。
 
 今回のように複数の仕事が重なると、私のような単細胞人間はすぐパニック状態になる。単数の仕事なら、ひたすら愚鈍にそれを進めればいいのだが複数だとそうは行かない。
 そこで当面しなければならないものを書き出したら、5項目に及んだ。日常的な作業は除いてである。
 それに優先順位をつけた。
 そのうちの二つ半をやっとこなした。
 だからこの日記を書くことができたわけだ。

 しかしホッと一息ついたのもつかの間、ここから月末にかけて怒涛の2週間が始まる。しかもそれは、5回の外出を含むものとなる。
 ここを乗り切った頃にはもう花の季節であろう。

 こんなことを書くと嘆き節に聞こえるかも知れないが、必ずしもそうではない。
 この歳になって、いろいろお呼びがあることが私と世界との関わりの証なのだ。
 だから老骨に鞭打つのだが、それは必ずしも苦行ではない。

 もう昨日になるが、気晴らしを兼ねて農協へ野菜の買い出しに出かけた。
 季はずれのものがないのがここの特徴、もう大根や白菜はない。
 菜の花と、もう塔が立って先端に可愛い花がついたチンゲンサイを一束買ってきた。
 後者は、葉はむしって使い、先端の花も使えるし、茎の部分は根元の固いところを切り捨てたのを斜に薄く切ると十分使える。
 手元にあった練り物と合わせてさっと煮て、カタクリでとろみをつけたらけっこううまかった。

 スーパーには絶対でない野菜をゲットし、しかも、満足する出来栄えだったので、座りっぱなしのストレスが大幅に解消できた。どうやら、好奇心と食い意地は似た者同士であるらしい。作曲をやめたロッシーニがパリに出てグルマンとして自ら調理をし、まるまる太ったのもこうした心境だろうか。

 写真は農協の花売り場にあったもので、最初、アネモネかなと思ったのだが、何やらややっこしい洋風の名前がついていた。覚えて帰ったつもりだがもう思い出せない。
 老化の進行の証なのだが、それをよそに、そんなことはどうでもいいのだと居直っている自分がいる。

 

 

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日記らしい日記  探春と雪

2012-03-13 03:16:14 | 写真とおしゃべり
 買い物に出たついでに車で10分ほどの境川(どこにでもある名前ですね)の河川敷にまだ浅い春のきざしを探しにゆきました。
 陽あたりの良い河川敷の畑は、おりからの陽光にきらめいていました。

        

 菜の花です。渥美半島の菜の花便りを聞いたのはもう2ヶ月ほど前でしょうか。この辺はこれからなのでしょう。

        

 これは畑仕事の道具や器具を置くための小屋でしょう。
 こんなものを見るとたまらなくなってシャッターを押すのです。

        

 こんなものも好きです。
 ましてやなかに水が溜まっているなんて…。

        

 その少し上流で薄紅の花を見つけました。緋寒桜よりも色が淡いのですが、やはり河津桜の仲間でしょうか。

        

 夜、かなり冷え込んできたなと思ったら雪でした。

        

 降りしきる雪のなかで煌々と輝く月はとても幻想的でした。

        

 朝起きたら、せっかく咲きそろった水仙が雪の重みで倒れていました。
 それらを切り取って台所の窓辺に飾りました。
 最近、台所に立つ機会が多い私を慰めてくれることでしょう。

 

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小さくとも多彩な節分草 あえてこの日に・・・・

2012-03-11 03:00:50 | 花便り&花をめぐって
 今日は地震や津波、それに原発事故について書くべきかも知れません。おそらく各メディアはこぞってそれを言い立てるでしょう。
 となるとへそ曲がりなこの偏屈ジジィ、誰がそんな大合唱に加わるものかとほかのことを書いてしまうのです。理由はそればかりではありません。以下に書くのは昨日(10日)のことです。早く書かないと忘れてしまうのです。

         
           節分草を地域ぐるみで保護している奥伊吹・大久保地区

 場所は岐阜から一般道をゆっくり走って一時間半ほど、その辺り一帯は奥伊吹といわれているのですが、日本海から来る北風が伊吹山あたって雪を降らせるとあって、かなりの積雪量です。
 初めは木々の間に残雪が残っているぐらいに見えたのですが、次第に白い部分が増し、目的地へ着いた頃は一面の銀世界でした。

         

 ついでながらこの北風のルートは、この辺では伊吹おろしといいます。岐阜の市民団体がつい先日、福井県の海岸から風船を飛ばす実験をしたところ、それらの殆どは2時間以内に、岐阜県の西濃、中濃、東濃、そして愛知県の一部にまで至ることが判明しました。

         

 ということは、全国54基の原発のうち、実に13基を抱える福井県において原発事故が発生した場合、数時間を経ずして岐阜県の美濃地方や愛知県、三重県などへも放射性物質が飛散するとうことです。したがって、もし福井県の原発再稼働のアセスメントを求める際には、福井県民のみならず、隣接する滋賀県はもちろん、岐阜県をはじめ東海地方をも対象にすべきだと思います。

      
 
 あ、原発については書かないといってたくせに書いてしまいました。
 そうそう、節分草についてですね。
 この花、身の丈数センチ、花の大きさは一センチ強と、なかなか写真に収まりにくいのですが、よく見ると5枚の花びらの中央にある花芯の部分が実に多彩で、黄色、青、コバルト、紫、赤紫などと賑やかなのです。

         

 しかもこの花、自生の群落はここを含めて全国で数箇所しかない希少種で絶滅危惧種(いわゆるレッドリスト)に近いのだそうです。
 写真を撮っていると、地域の人がやってきていろいろ説明をしてくれました。それによると、地域ぐるみでその保護活動を行なっているようで、その群落地には不届き者が踏み込まないように綱を張ったりしてありました。ただし、この辺りに出没する鹿や猪にはこの綱も通用しないと嘆いていました。

         

 このところぐずついた天候が多いなか、次第に晴れ上がってきたのはひとえに私の心がけの良さという他はありません。しかし、晴天で陽射しがあってもシンシンと寒さを感じました。標高はある程度あるし、それに雪の天然冷蔵庫の中みたいなものですから致し方ありませんね。

         
               伊吹山 これは帰途、関ヶ原側から

 末尾ですが、私の撮ってきた節分草の拙い写真を、昨年の今日、あの地震と津波でお亡くなりになった全ての方々への供花にしたいと思います。
 (何やかや言いながら、地震、津波、原発、みんな触れたじゃないか・・・・でも、この時期、これに触れないで何かが書ける?)

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