六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

梅雨の晴れ間の「川柳もどき」

2011-05-31 00:55:02 | インポート
 早い梅雨入りでしたが昨日の午後から今日の午前中ぐらいまでは晴れ間が
見られるとのことです。
 というわけで(どういうわけ?)「川柳もどき」です。
 毎度のことながら写真は直接関係ありません。


     一月
      再起動して一月の勇み足
      一月を破って捨てた日記帳

       

     
      脅迫の匂いも秘めた千羽鶴
      鶴一羽折ってけじめの句読点

     

     追う
      追う人の肩は険しく尖っている
      追うそぶりだけがうまくて生き延びる

     

     
      溶けるにはちょうど手頃な春霞
      春宵はなまめきながら蟻地獄

     

     厚い
      一行の恋人に逢う厚い本
      厚く切るチーズ嫉妬があるみたい

     

     
      口笛が銀色に鳴る月の夜
      ポッカリと慰めがある昼の月

     

     こぼれる
      目こぼしに愛というルビ振ってみる
      こぼれると決めて真っ直ぐ逢いにゆく

     

     浅蜊
      ガラガラポン浅蜊洗って待ってます
      塩出しの責めに耐え抜き浅利逝く
 
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旅に出るということ

2011-05-29 03:53:28 | ポエムのようなもの
      旅 

  旅  

  地図と版画が好きな少年にとって
  世界は格好の好奇心の的だ
  ランプの光の中では大きく見え
  記憶の目には小さく見える

  ある朝我らは船出する 頭をほてらせ
  心中には憤怒と 苦い欲望を抱きながら
  波の脈動にまたがって我らは進む
  有限な海の上で無限の思いを揺らめかせつつ

  ある者は忌まわしい故郷を捨てることを喜び
  ある者は恐ろしい親から逃れることを喜ぶ
  またある者は星占いをしながら女の目の前で溺れ
  外の者は危険な匂いを立てるキルケを演ずる

  豚に変えられてしまわないように みな
  空間と光と燃えさかる大気の中に飛び出す
  氷にかじられ 太陽に焼かれ
  接吻のあとも次第に消える

  だが本当の旅人とは旅のために旅する人
  心も軽く 風船のように
  旅の行き先などとんと無頓着で
  わけもなくただいうのだ 進んでいこうと

  欲望をむき出しにして 移ろいやすく
  不確かだがすさまじい快楽を夢見る
  まるで戒律を書き集めるかのように
  そんな人間を何と呼んだらいいか 誰も知らない  

 
 これはご存知ボードレールの唯一の詩集『悪の華』の最後を飾る詩です。
 そしてこの詩を最後に彼は旅に出ました。
 ボードレールほどの人ですから、幾多の訳詩があります。
 まったく無責任で申し訳がないのですが、ネットからの引用で上の訳詩者がだれのものかは知りません。
 そのなかでも最後から二番目が私の好きなフレーズなのですが、下に記した訳詩のほうが私にはぴったりするのです。
 その私のお気に入りがだれの訳詩かもわかりません。
 私の古~い手帳にこのフレーズのみが記されていたのです。
 手帳を処分しようとして偶然見つけました。
 
   だが、真の旅人はただ出発するために出発する人々だけだ
   心は軽く、気球にも似てその宿命の手から離れることはついになく
   なぜとも知らずにいつもいうのだ
   ”行こう”と

  
 そしてその詩の横には、フランス語でこんな文句も書き連ねてありました。

   Qu'est-ce que l'il ya?

 私はその時、何を考えていたのでしょうね。

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【速報】山本太郎さん、干される!!

2011-05-27 02:05:44 | 社会評論
                  
             文科省前のデモに母親たちと参加する山本さん

 俳優の山本太郎さんは、かねてよりそのブログで反原発を主張し、最近は文科省の子どもの被曝基準をめぐる措置に反対するデモにお母さんたちと一緒に参加したりしています。
 その山本太郎さん、7~9月に出演予定でその準備を進めていたTVドラマから突然の降板を言い渡されました。その理由は明らかにされないままだそうです。
 本人も、事務所も、圧力の存在をほのめかしていますが、他のスタッフに迷惑がかかるからと、今のところどの局の、どういうドラマかは明らかにしていません。

 電力、官僚、メディアの連携プレイですね。
 対抗策とし、電力会社のコマーシャルを一切禁止すべきでしょうね。
 
     http://www.cinematoday.jp/page/N0032608
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悲劇を『ロミオとジュリエット』に終わらせてはいけない。

2011-05-25 02:53:03 | 映画評論
 聞くところによれば、フィンランドという国は結構映画を沢山作っているのですが、日本での公開は少ないのだとのことです。その理由は、ハリウッド様式の豪華絢爛なものがなく、低予算のこじんまりしたものが多いからだそうです。

 そういえば私も、アキ・カウリスマキ監督の作品を数本観たぐらいです。また最近では、クラウス・ハロ監督の『ヤコブへの手紙』という佳作が来たようですが、ちょうど色々バタバタしている折で見過ごしてしまいました。

               

 で、この『4月の涙』ですが冒頭からグイグイ惹き込まれます。
 舞台は1918年、ロシア革命の影響でロシア帝国から独立を勝ちとったものの、その後の主権を争う白衛軍と赤衛軍の激しい内戦の末期です。始めは優勢であった赤衛軍は、市民の寄せ集めの軍事組織の弱点を持っていて、正規軍を主体にした白衛軍に次第に追い詰められてゆきます。 

 この映画も冒頭はそんなある日、赤衛軍の女性部隊が白衛軍に追い詰められ、銃撃戦の結果全員降伏という場面から始まります。
 しかし、彼女たちを待っていたのは捕虜としての扱いや、法に基づく裁判などではなく、何人にも及ぶ兵士たちからの凄まじい陵辱の末、見せかけの解放に従った女性兵士全員の殺戮でした。

 彼女たちの死を見届けるべく残された若い准士官アーロと、奇跡的に助かった女性軍リーダーのミーナの出会い、ミーナに公正な裁判を受けさせるべく公正な判事のいる場所まで連行するアーロ、途中無人島へ漂着しそこで何日かを過ごす二人、そしてそこで芽生えた感情…と書いてくると戦場を舞台とした『ロミオとジュリエット』のバリエーションになってしまいますね。

                

 しかし、この物語にさらに厚みを加えるのは、無人島から脱出でき、やっとたどり着いた裁判所のアーロの尊敬する「公正な」判事、エーミルが一筋縄では行かない屈折した存在であったことです。
 ここで私たちは、それまでの赤衛軍と白衛軍という二項対立の図式とは異質な緊張感の中におかれます。

 それによってこのドラマは、どちらが正しいのかとか、結局はヒューマニズムこそが重要なのだといったベタな結論を越えた重みを持つようになります。ちょっときざっぽくいうと、「実存」だとか「ニヒリズム」の分野がこの「純愛物語」を侵食してくるのです。

                

 この映画がベタにならない点は他にもあります。女性兵士ミーナは、自分への陵辱を逆手にとって、いやそれを武器にして男に迫ります。まったくもって極限状況でのたくましさです。
 一方、アーロは純粋で正義を保とうとする青年です。しかし、聖人君子ではありません。誘惑に対してはぎりぎりまで抵抗するものの、やはり折れる点があります。だから、ホッとします。

 途中でも絡んでいた子どもが最後に出てきます。この子は映画を見ていただけば分かりますが、アーロともミーナとも直接の縁はありません。にもかかわらず、やはりこの二人の子どもなのです。
 子供たちは新しく生まれただけ、新しい生を選ぶ余地を持ちます。
 新しく生まれることのみがこの世界を更新する可能性であり、それが歴史であろうと思います。

                

 私たちは、赤衛軍も白衛軍もとっくに相対化されてしまった歴史の末裔です。しかし、そうした事実があったことは記憶すべきでしょうし、相対化されたと思われるそれが、再び回帰する可能性は常にあるのです。
 もちろん問題は、どちらかを選べばいいということではありません。

 最後に、フィンランドの森を始めとする各シーンの絵が、とてもきれいであったことをいい添えます。しばしば用いられる逆光の樹木の映像は、私がまた好んで撮す樹々の表情でした。
 フィンランドの映画はもっと来てもいいですね。


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「リニア・鉄道館」(名古屋市港区金城埠頭)にて

2011-05-23 10:59:44 | 写真とおしゃべり
 一日、「リニア・鉄道館」に遊ぶ。
 「ゆる鉄」の私には詳しいことは分からない。
 ただ、見ているだけで少年のように胸が躍る。
 少年の頃、岐阜駅のすぐ南に住んでいた。
 まだ、東海道線の浜松以西が蒸気機関車だった頃である。
 夜汽車の汽笛が切なかった。
 いつか、あれに乗って旅立つのだと思った。
 あれから六〇年、さして遠くないところでうごめいている。

 *「ゆる鉄」 私の造語。あまりハード・コアではない鉄道ファン。


     「リニア・鉄道館」から伊勢湾岸自動車道を臨む

 
   300X 全国に2編成のみ現存               700系 


        引退した初代新幹線     0系

  
      C62運転席付近                 C57

 
       C57蒸気ドーム             C57釜焚口

 
      機関室つき三等車           同内部 前方が機関室

 
        揃い踏み・1              揃い踏み・2

 
 これは千種区の旧国鉄学校にあったもの           その側面

 
       豆ファンのポーズ               熱心なファン
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藤の仇をざる蕎麦定食で

2011-05-20 22:25:22 | よしなしごと
 過日、縁あって津島という街にはじめて足を踏み入れました。
 もう何十年も前、確か車で通ったことはあるのですが、どこをどう通ったのやらすべては忘却の彼方です。

 駅前から天王川公園へ向かいました。
 大きな通りを歩いてもつまらないので、ジグザグになり遠回りになっても、古い家並みの小路を行きました。
 人の話し声、煮炊きするものの匂い、不意に猫が横切り、犬に吠えられる、これぞ人々の生活する空間です。

 

 天王川公園は思ったより大きな公園でした。
 この時期の売り物は延々と続く藤棚の景観なのですが、今年の「藤まつり」は4月の23日から5月5日までで、ちょうど私の自宅軟禁とそれに続く謹慎期間に相当したのでした。

 

 そんな事で5月の中旬に訪れた私を迎えたのはもうすっかり散ってしまった藤棚と、池のあちこちでバシャバシャと戯れるでっかい鯉たち、そして、ノホホ~ンと日を浴びる亀たちでした。

 それでも訪れた人たちは名残惜しげに藤棚の下を散策し、市民たちは池の周りでウォーキングや読書、そして昼寝などと思い思いに過ごしているのでした。

 少し歩いて小腹が空いたので、駅の近辺でやや遅いランチをと思ったのですが、どこで何をたべたものかさっぱりわかりません。
 こういう時は土地の人に聴くに限ると、通りかかった中年のおばさんに尋ねました。

   
    緑陰の親子たち 絵を描いている子を見守っているお母さん 背中の赤ちゃんが…

 教えてもらったのは食堂というより喫茶店です。でも中は広くゆったりしています。
 おすすめランチのざる蕎麦定食を頼みました。
 専門店ではないからとタカをくくっていた蕎麦はけっこう腰があって美味しく、専門店の盛り付けよりやや多めなのは蕎麦好きにとっては嬉しいところです。
 この定食、コロッケが一個、野菜を下にした小皿で付いてきます。
 メニューにコロッケ定食というのもありますから、それとの兼用でしょう。

 それだけではありません。コンビニのそれより一回り大きいおにぎり(鮭入り)が一個付いてくるのです。それも握りたてでご飯は暖かく糊もパリパリしています。
 握り方もコンビニのそれより柔らかく、これは人の手によるものだと思いました。

 
         すっかり枯れ果てた藤棚 それでも満開時の華やかさを偲ばせる

 これで、780円ですからお値打ちでしょう?
 と思っていたら、「お飲み物はなににしましょう」とのこと。
 聞けばお好みのドリンクが一杯付いてその値段だとのこと。
 ホット・コーヒーを頼みました。
 もとより喫茶店ですから、ちゃんとしたものを出します。

 恐るべし、名古屋、及びその周辺の喫茶店文化!
 表へ出て、さっきのおばさんにお礼をと思いましたがその姿は見えませんでした。

   

 なんだか、「藤の仇をざる蕎麦定食で」といった話になってしまいましたが、それでも、体を馴らすにはいい機会でした。
 次は藤の花がある間にと思いましたが、その時期だったらこんなにのんびり歩けませんよといわれて、さもありなんと納得した次第。

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音楽と女性たち ナンネル、ファニー、クララ&アルマ

2011-05-15 15:17:37 | 音楽を聴く
 前回は芝居の話を書きましたが、今回はその後に観た映画についてです。
 「ナンネル・モーツアルト 哀しみの旅路」(監督・脚本ルネ・フェレ)がそれです。
 ナンネルというのは通称で、本名はマリア・アンナ・モーツアルトで、かのアマディウス・モーツアルトのお姉さんです。

              
 
 映画そのものは、演出がやや散漫かなという気もしますが、天才の誉れ高い幼い弟とその姉を引き連れ、モーツアルト一家がヨーロッパ中を演奏旅行して歩く様子が良く描かれています。
 しかし、ここでは映画についての評論をしようとするのではありません。
 ナンネルに象徴される女性の音楽家について考えてみたいのです。

 ナンネルに演奏家としての才能があり、当時のヨーロッパ各地では彼女と弟の二人の演奏がうけたことは間違いないところで、それは映画の中でも描かれていますが、加えて、作曲家としての才能もあったことが描かれています。さらには、幼少児の弟が書いたという作曲ノートの曲が、実はナンネルのものであったことすら示唆されています。

            

 その当否はともかく、この映画で注目すべき点は彼女の淡い恋心はともかく、父・レオポルト・モーツアルトにより彼女の音楽活動がクラヴィーア(鍵盤楽器)の演奏に限定され、作曲はおろかヴァイオリンに触ることすら許されなかったところにあります。

 歴史上の事実としても、彼女が音楽に携わった記録は弟と一緒の演奏旅行以後はほとんど途絶えていて、その後、親の決めた相手と結婚し、弟に比べ七〇歳代まで生き延びたのものの、晩年には失明を味わうなどしています。
 ようするに、当時の社会通念として、「女性は音楽の、とりわけ創造的なそれに携わるべきではない」という不文律があったのです。

            

 同じように姉弟で才能を分かち合った音楽家にメンデルスゾーンがいます。
 今日、私たちが知っているメンデルスゾーンは、弟のフェリックスの方です。姉のファニーはナンネル同様、ピアニストとして、作曲家として才能豊かな人でした。
 しかしその彼女も、父の「お前は弟の天才が理解できるのだからそれで満足しなさい」という言葉で公の活動を絶たれてしまいした。

 ただし、ナンネルと違う点は、結婚した相手の画家ヴィルヘルム・ヘンゼルが彼女の才能に理解を示し、その作品を後世に残したこと、また、弟と交わされたおびただしい往復書簡を通じ、弟の作品に少なからず影響を与えたことです。

            
 
 19世紀において、例外的にヨーロッパを股にかけてピアニストとして、また作曲家として活躍したのがロベルト・シューマンの相方、クララ・シューマンです。彼女の場合、父が当時のドイツ音楽界の権威であったこと、ロベルト・シューマン(最初の音楽評論家と言われる)がそれに対し寛容であったこと、ロベルトの死後、ブラームスが公私にわたって支援を惜しまなかったことなどが幸いしたものと思われます。
 それにしても、八人の子をなし、かつ音楽活動を継続したことは特筆すべきでしょう。

 なお、ここでトリビアですが、貨幣がユーロに統一される前のドイツの100マルク札にはこのクララの肖像が使われていました。

              
 
 しかし、残念ながらこれで女性の音楽家の地位が向上したわけではありません。
 19世紀末から20世紀初めにかけて作曲家とし、指揮者として活躍したグスタフ・マーラーは、作曲の才能を持っていた妻アルマに、その音楽活動を禁じ、彼への献身だけを求めました。
 「自分の人生を生きていない」と感じたアルマは、長女を病気で亡くしたのを境に、奔放な生活に転じます。酒と男性遍歴は当時のヨーロッパに於いてその名を轟かせたとあり、マーラーはアルマの才能を無視したばかりに、途轍も無いしっぺ返しを受けることになるのです。

 しかし、歴史を紐解いてみると、こうした女性の音楽家にとっての隘路はあったものの、それをすり抜けて活躍したたくさんの人たちがいたことも事実です。また近年、女性の作曲者もかなり活躍しています。
 ショスタコーヴィチに激励されたというソフィア・グバイドゥーリナは私より少しお姉さんですが、なかなかいい曲を書いています。

 ナンネルもまた、弟をめぐるエピソードとしての一人物ではなく、彼女自身、その後の女性たちの活躍のひとつの契機になった、独立した音楽家であったことを信じたいと思います。
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『泰山木の木の下で』と女優・山田 昌さん

2011-05-13 23:23:49 | アート
 体調がほぼ戻ったと勝手に解釈し、久々に名古屋に出かけました。ほぼ一ヶ月ぶりです。

 演劇と映画を見ました。
 映画を2本とか、時として3本という経験はありますが、演劇と映画という取り合わせははじめてです。
 昼食を昔の仲間達ととったあとの観劇でした。

     
          泰山木の花 一昨年、養老公園にて撮す

 『泰山木の木の下で』が演目で、名古屋を代表する演劇集団「劇座」の公演です。一説によると、主演の山田昌さんはこれをもって最後の主演作品にしたいとのことですが、演技を見た限りではまだまだお元気、今後も期待したいものです。

 脚本(1962年)は、数々の問題作をものにしてきた小山祐士によるもので、彼自身の故郷である広島の瀬戸内に繰り広げられる人間模様が展開されるのですが、その背後には、いずれも原爆の後遺があらわに、あるいは密やかにこびりついていて、それがなお、現在進行形の問題として描かれています。

 もはや喉元を過ぎたように日本人が忘れ去ってきた情景がそこにはあるのですが、一方、現実にはフクシマがなおも恐怖をまき散らしていて私たちに今一度原子力というものの脅威を突きつけている中、このお芝居はとてもタイムリーでした。しかしこれはこの現状に合わせて企画されたものでは全くなく、この稽古中に3・11を迎えたのだそうです。
 作品の選択は山田昌さんによるものだとのことです。

            
 
 芝居はことさら主題を声高に言い立てることを避け、ただ現実に起きてしまったこと、そして今なお進行し続けていることを提示してゆきます。原爆は外からもたらされたものというより、すでにして人々が抱え込んでしまったものとして描かれます。

 それは、人が恣意的に払いのけたり、逃亡したり出来ないものとして登場人物の中に刻み込まれてしまっていて、彼らはそれを生き続けるほかはないのです。ですからそこでは表層の糾弾が叫ばれることはありません。ただ起こってしまったことが突き付けられるのみです。

 ではどうしたらいいのでしょう?
 それは私たち一人ひとりに突き付けられた宿題ともいえます。
 そしてその応用問題がいま、フクシマという形で問われています。

 愛知県芸術劇場小ホールにて上演中。5月14日(土) 15日(日)14:00開演
 次回はその後見た映画のと関連し、音楽家の話を書きたいと思います。

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街に犬がいなくなった時代

2011-05-10 18:05:02 | 想い出を掘り起こす
 先ごろ、街を歩いていたら、実に何十年ぶりかで犬に出会った。
 などというと驚かれるかも知れないが、それが実感であった。

 もちろん、この間、犬という動物を見かけなかったわけではない。
 しかし、私が見かける犬たちはたいてい家の塀の中にいて人が通りかかると吠えかかるか、あるいは、飼い主の持つ紐や鎖、リード線でつながれたままで散歩をする犬たちなのである。

 先般出会った犬はそうではなかった。
 首輪が付いていることからして飼い犬なのだが(野良猫はともかく、都市部で野良犬が棲息できる環境はもはやない)、鎖やリード線はなく、まったく自由に歩いていた。
 狭い路地で私とすれ違ったのだが、思わず歩を止めた私を見上げていたその犬はかなり老齢で、多分、飼い主が扉をあけたままにしておいたのを幸い、散歩と洒落こんだのであろう。

 私が歩を進めると、何事もなかったように私の横をすり抜けていった。
 「おい、車なんかに気をつけるんだぞ」と口の中でつぶやいてその犬を見送った。

       
        私が1980年代から飼っていた由緒正しい雑種。名は「寿限無」

 冒頭に何十年ぶりかに犬に出会ったと書いたが、私の子供の頃や、おそらく1960年代頃までは、こんな風景がざらだったのだ。というか、それが普通だったのだ。
 嘘だと思うならその頃のマンガ本や雑誌の挿絵を見ると良い。たいてい画面の隅に犬の一匹や二匹は出てくるはずだ。

 血統書付きの犬の場合は、よその犬と懇ろになって雑種を生んだりすると困るのである程度管理されていたのだが、庶民が飼う雑種はほとんど放し飼いであった。
 今日ではずーっと繋いでおいて、散歩に連れてゆくというのが普通であるが、当時はわざわざ散歩に連れてゆくことなどせず、犬を勝手に行動させておくのが運動だった。
 室内犬というかお座敷犬などというのはお金持ちのペットでしかなかった時代で、地方都市の下町ではそれらを見ることもなかった。

 飼い主と犬の絆は、縛り付けておくことではなく、その犬に名付けるということと、餌を与えるということ、ねぐらを提供することで、犬のほうもよくしたもので、どこで遊んでいも食事時には帰ってきた。姿が見えなくとも、大声で呼ぶとすっ飛んできた。

 だから町中を自由な犬たちが往来していた。
 ときとして喧嘩もあったし、路上でまぐわいをするカップルもいて、子供たちがはやし立てたりした。
 人を噛んだりしなかったのは、昨今のつながれた犬と違ってストレスなどがなかったからだと思う。

 おそらく犬たちは、人間に従属しているという意識などなく、世の中にしかるべく位置を占めていたと思われる。それなりに自由だったわけであり、人間もまた自由に犬と付き合っていた。

 私の子供時代、近所に高橋さんといううちがあり、雑種だけどかなり均整がとれたハンサムな犬を飼っていたのだが、それがどういうわけか私になついてしまい、私が出かけると付いてくるようになった。それで私が友だちと遊んでいると自分はそのへんをほっつき歩いていて、私が帰る段になると別に呼びもしないのに一緒に帰るようになった。

 そんなことがあって、すっかり私の家族とも打ち解け、飼い主の高橋さんのうちよりも私のうちにいるほうが多いぐらいになった。亡父などはおもしろがって、亡母が止めるのも聞かず、自分の酒の肴を与えたりした。
 高橋さんの家族もそうした事情を知っていて、出会うたびに「うちの犬がお世話になりまして」との挨拶があった。なんとものどかな時代であった。

 その犬に私は「チャメ(茶目)」と名付けた。性格がチャメっぽいのと、その瞳が茶色っぽかったからである。高橋さんの家では別の名前で呼ばれていたのだが、その名前は覚えていない。
 おそらく彼は、どちらの名前にもちゃんと反応したのだと思う。
 いわゆる二つ名のお兄さんであった。

 一匹の迷い犬から半世紀前の犬の有り様にまで思い出が遡ったわけであるが、やたら懐古的になるのはともかく、昔の犬のほうがずっと自由だったし、そうした犬が自由であった時代は、ひょっとして人間もそうであったのではないかと思ったりする。ようするに、今のペットという感じとはいくぶん違った関係のうちに犬も人もいたように思うのである。
 
 もちろん、今日の交通事情などからしてそこへの回帰は不可能だろうが、こうした飼い方の変化の中で、犬自身が大いに変わってしまったのも事実であろう。
 中学生や高校生の頃、夜半まで勉強や読書で起きていると、突然どこかで犬の遠吠えが始まり、それに連鎖するようにあちこちでそれが聞こえたものであるが、ここ何十年、もはやそれを聞くことはない。
 
 犬たちは、もはや自分の体内に流れる狼の血潮を忘れてしまったのだろうか。人間が幾多のものを忘却してしまったように。
 
 完全に管理された犬、そして同様に管理された……。
 

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十二支を6回も巡ってやっと分かったこと 薬と私

2011-05-08 11:39:50 | 想い出を掘り起こす
 寄る年波で薬が欠かせないようになった。
 情け無いが毎日お世話になっている。

 覚えている限りでの薬の初体験は、戦中戦後の疎開先で母方の祖母が飲ませてくれた漢方薬であった。
 祖母はそれに精通していて、自分で採ってきた薬草を納屋の天井から束にして吊るし、乾燥させていた。それを求めて結構遠方からやってくる人がいて、祖母は「木薬(きぐすり)屋のカギさん」と呼ばれていた。
 今でいうなら立派な薬事法違反であるが、60年以上前の農村では誰もそれを問題にすることはなく、むしろ一目おかれてさえいた。

 幼年期から少年期の私は、風邪や腹痛などの折、よく飲まされた。センブリやゲンノショウコは子供の口には合わず、飲むのがつらかった。
 普段はやさしい祖母が、そんな折にはつきっきりでそばにいて、ちゃんと飲めと強要するのであった。風邪にはゲンノショウコで、それをアツアツに煎じたものを丼に一杯程飲まされた。そしてすぐに寝るのだが、びっしょりかいた汗をネルの寝間着が吸いとってくれ、翌朝にはケロッと治っていた。
 ゲンノショウコが「現の証拠」という漢方の万能薬であることを知ったのは後年のことである。

       

 街中へ帰ってからはもっぱら西洋医学に依る薬を用いたが、一部、家庭薬として用いたものには丸薬があり、それらは漢方の流れをくむものであったと思う。まだ、越中富山の薬売りが来た頃である。
 あとは粉薬が多かった。それらは独特の包み方で包装されていて、薬を飲んだあとそれを広げると正方形の紙になり、それを折り紙などに使った。まだ紙が貴重だった頃である。
 未だに使えそうな包装紙などを捨てられずにとっておいて、結局じゃまになるのはその頃の名残だろうか。

 錠剤は少なかった。ある種の錠剤は甘みのあるものでコーティングされたいわゆる糖衣錠で、その糖衣が溶けてしまわないうちに飲まねばならないのに、飴玉のようにしゃぶっていると急に苦くなったりした。子どもにとっては甘味もまだ貴重な頃だった。
 カプセル入りというのは、さらにその後出てきたように思う。

 さて昨今であるが、医師が処方をして調剤薬局で出してくれるものは、私の場合ほとんどは錠剤と粉あるいは果粒状のものである。錠剤には糖衣はしてないし、粉や果粒はかつてのあの独特の包み方ではなく、分包といって半透明の四角い袋に収められ、それが繋がっているものが多い。

       

 で、ここからが表題に関連するのだが、意を決して告白するが(というほど大げさなものではない)、私は粉薬や果粒の分包のものを飲むのが実に下手なのである。おもいっきり口を開けてサッと放り込むのだが、必ずといっていいほど袋に残ってしまう。ひどい時には半分ぐらいがまだ袋の中である。

 こうしていつも自分のぶきっちょさを呪っていたのだが、つい最近、あるヒラメキを得て、それ以降は百発百中、一挙に飲むことができるようになった。
 その極意を披露しよう。

 これまで、几帳面な(?)私は袋を破くとき、手紙の封筒を開封するように、袋の上方を開けて飲んでいたのである。ひらめきというのはこうだ。これでは薬が口に達するまでに袋の内側の抵抗が多く、それで残ってしまうのではないかという極めて合理的にして天才的な着眼である。
 それで、試しに袋の半分ぐらいのところを破くようにした。難なく一挙に飲める。さらにはもっと下で破いてみた。サラッと入るではないか。

 これは私にとっては、十二支を6回巡ったところで会得した革命的なテクニックである。かくして私は、日々新たな発見のうちに生き続けている。

 え? そんなことは誰でも知っている? あ、そうですか。
 でも、でもですよ、それを知らずに死ぬより知ってから死んだほうが・・・。
 お前がどんな死に方をしようが知ったことじゃないって、あ~た、そりゃあ冷たいってものでしょう。

ここでトレビア
 写真でご覧のように、大抵の錠剤は10錠でワンシートとなっています。そして、二錠ごとに切り離せるように横方向に折り目が入っています。
 しかし、この折り目、しばらく前までは縦にも入っていて、つまり、一錠ごとに切り離せるようになていたのです。
 それがかえって退化したかのように、二錠ごとにしか切り離せなくなった理由がわかりますか。

 それはです・・・・一錠ごとに切り離せると、悲しいことに私のような老人がその包装ごと飲んでしまう事故が続発したからだそうです。







 
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