秋晴れの一日、といっても夕方から雨に降られたのですが、若い人たちとの哲学の勉強会に出かけました。テキストは、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』です。
老い先短い身がいまさら勉強してどうするんだ、何ら世のため人のためにならないだろうというご指摘はよく分かります。
しかし、私には私の事情があるのです。
もし私があの世とやらに旅立つとしたら、その経費は心配ありません。なにせ、三途の川の渡し賃が私のハンドル・ネーム=六文錢だからです。
問題はその後の閻魔との論争です。
私の生前の行いからしたら、確実に地獄行きです。
でも、ここで閻魔との論争に勝利したら・・・、そこに私は光明を見いだすのです。
会場に向かう途中で見かけた曼珠沙華
ですから勉強します。
閻魔のレトリックにひるまないレトリックを獲得するために。
「語り得ぬものについては、人は沈黙せねばならない」
と、閻魔に言ってやったらどうでしょう。
あ、これはダメですね。
閻魔が、「俺は人ではない」と言ったらもうアウトですものね。
ホラ、ちゃんと勉強しているでしょう
勉強会はまさにここを巡って論争になりました。
ヴィトゲンシュタインはその言語批判により、語りうるものとして論理的言語や科学的命題を限定しましたが、それらは沈黙すべきものを内側から限定づけたに過ぎず、本当に重要なものは明晰に語りうることがらにではなく、沈黙をしなければならないことの方にあるとしたのでした(フイッカーへの手紙)。
ここが『論考』の押さえどころでしょうが、ここは難しいですね。
休憩時間です
まあその詳細はともかく、そうした問題を例えば現役の院生などとともに語り合うことには楽しいものがあります。
「生涯勉強」という言葉があります。
私はこの言葉が余り好きではありません。
何か、勉強をしてスキルを身につけないとダメだぞと言う強迫観念めいた響きがあるからです。
会場の窓から ここはどこでしょう
私も生涯、勉強をしたいとは思っています。
しかし、何かのスキルを身につけて、世渡りを上手くこなそうとは思っていません。
ホラ、最初に述べたでしょう。
閻魔との対峙に備えているのです。
閻魔に勝利して、「酒はうまいし、ねえちゃんはきれい」という桃源郷へ行くことを目指してです。
老い先短い身がいまさら勉強してどうするんだ、何ら世のため人のためにならないだろうというご指摘はよく分かります。
しかし、私には私の事情があるのです。
もし私があの世とやらに旅立つとしたら、その経費は心配ありません。なにせ、三途の川の渡し賃が私のハンドル・ネーム=六文錢だからです。
問題はその後の閻魔との論争です。
私の生前の行いからしたら、確実に地獄行きです。
でも、ここで閻魔との論争に勝利したら・・・、そこに私は光明を見いだすのです。
会場に向かう途中で見かけた曼珠沙華
ですから勉強します。
閻魔のレトリックにひるまないレトリックを獲得するために。
「語り得ぬものについては、人は沈黙せねばならない」
と、閻魔に言ってやったらどうでしょう。
あ、これはダメですね。
閻魔が、「俺は人ではない」と言ったらもうアウトですものね。
ホラ、ちゃんと勉強しているでしょう
勉強会はまさにここを巡って論争になりました。
ヴィトゲンシュタインはその言語批判により、語りうるものとして論理的言語や科学的命題を限定しましたが、それらは沈黙すべきものを内側から限定づけたに過ぎず、本当に重要なものは明晰に語りうることがらにではなく、沈黙をしなければならないことの方にあるとしたのでした(フイッカーへの手紙)。
ここが『論考』の押さえどころでしょうが、ここは難しいですね。
休憩時間です
まあその詳細はともかく、そうした問題を例えば現役の院生などとともに語り合うことには楽しいものがあります。
「生涯勉強」という言葉があります。
私はこの言葉が余り好きではありません。
何か、勉強をしてスキルを身につけないとダメだぞと言う強迫観念めいた響きがあるからです。
会場の窓から ここはどこでしょう
私も生涯、勉強をしたいとは思っています。
しかし、何かのスキルを身につけて、世渡りを上手くこなそうとは思っていません。
ホラ、最初に述べたでしょう。
閻魔との対峙に備えているのです。
閻魔に勝利して、「酒はうまいし、ねえちゃんはきれい」という桃源郷へ行くことを目指してです。