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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

トランプのDEI 廃止とLGBT の危機 抑圧と排除の始まり?

2025-01-30 02:32:18 | 社会評論

 トランプが大統領に就任して以来、矢継ぎ早にさまざまな政策転換を表明し、大統領令に署名したりしていますが、そのなかにあまり目立たないせいかサラッと報道されたのみであまり問題視されていないものがあります。
 その一つが、DEI 政策を廃止するというものです。
 
 DEI とは、多様性・公平性・包括性を重んじようとするもので、多様性とは職場や公的組織のなかにさまざまなアイディンティティをもつ人たちを受け入れてゆこうとするものです。ようするに、民族やジェンダー(社会的性別)、宗教、年齢、社会階級などの相違を排除や序列の条件とすることなく受け入れてゆこうとするものです。
 
 公平性はこれまで社会的格差や歴史的格差の中で不利な立場にあった人びとにも公正で公平な立場を保証しようとすることで、また、包括性とは、こうした多様性、公平性を組織の中で具体的に実現してゆこうとする方策を指します。
 
 それらの具体例は、例えばこれまでの組織環境が男性中心だったのを女性の比率や管理職への登用を図ったり、自民族中心のものを他民族へも開かれたものにしてゆくことを示しています。
 
 これを、今日のアメリカ社会に即していえば、ズバリ、白人男性中心主義を改めようということにほかなりません。これまで、アメリカは曲がりなりにもそれを実施してきたのですが、トランプはそれをやめる、つまり、白人男性中心主義に戻すと宣言したわけです。
 
 これはまさに反動なのですが、同時に、トランプの「人間には男と女しかいない」という主張とも重なります。私は先程「ジェンダー(社会的性別)」というややぎこちない言葉を使いましたが、これは、人間の性の多様性に於いては、トランプのようにいい切ることはある種の人々には、抑圧や社会的排除として働くということです。

          

 どういうことかというと、前世紀中頃、シモーヌ・ド・ボーボワールは、その書『第二の性』において「女はこうして作られる」といい、「女」という概念そのものが、社会的・歴史的に男の「対象」として形成されたものに過ぎないといいました。
 そしてジュディス・バトラーは前世紀末、『ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱』において、生物学的性(セックス)とは異なった性の多様性、歴史的社会的構築物としてのジェンダーの意義を強調しました。
 
 このジェンダー論は、LGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)の人たちの存在を裏付けるものとして、今日でもその支柱的な役割を果たしています。

          

 
 さて、冒頭のトランプのDEI 政策の廃止というのは白人男性中心主義の多様性排除であると述べました。というのは、これまでは、そのD=ダイバーシティの中にこれらLGBTの人たちも含まれていたのですが、今後は「男と女しかいない」というトランプの決めつけによって、抑圧や排除の対象となるということです。そしてそれは、皮相な生物学主義で、性多様性を否定し、その抹殺(文字通り殺処分)を実施したナチスに通底するものなのです。
 
 なお、こうしたLGBTの人たちを極小数と決めつけるのは大きな間違いです。例えば、日本での各種調査によれば、その割合は総人口の約10%というところが妥当らしいのです。そして、この10%という数値は、総人口においての左利きの人とほぼ同じ割合なのです。
 
 なお、掲載した書物の写真は、昨年来から私が学んできた書ですが、これらはそれぞれトランスジェンダーに関するものです。そしてこれがLGBT のなかでもっとも難しい問題をはらんでいるのです。

 というのは、LGB はすでに述べたようにその人たちの性的嗜好の対象であり、客観的にわかりやすいのですが、自分の生誕時に生物学的に規定された性に違和感を覚えているトランスの人たちは、その人自身の性自認=ジェンダー・アイディンティティに依拠しているため、第三者からはわかりにくいという点があります。
 
 そんなことから、トランスジェンダーを巡る論争はフェミニストの中にもあり、しかも結構激しい対立を生むこともあるようですので、この際、あえて触れませんでした。というか、私自身がなお勉強中ということです。
 

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今年初、岐阜県図書館へ

2025-01-23 16:46:30 | よしなしごと

 22日午後、この時期にしては温かいと思われるなか、県図書館へ。
 4冊を返し、3冊を借りる。
 
 返した4冊のうち、1冊はペラペラットめくっただけで、これはまた次の機会でいいやと読んでいない。著者に申し訳ない。ゆっくり読める時間が出来たらまた借りますから、お許しを。

 最近読書能力がどんどん低下している。読むのが遅い、少し経つと睡魔が襲う。
 ノートを取りながらはもっと面倒だ。最近、PCへの音声入力でノートを取るが、その不完全性から、後で読み返してわけのわからないこともある。難儀なもんだ。

 返却日は2月12日。さてそれまでに読み終えることができるかどうか?

      

             黄色いミニバスの向こうは県美術館

      

               県図書館正面玄関

          

      気候がいいときには散策する中庭 今は寒椿以外花がない

          

     本を選び、立ち読みも少しして外へ出たらもう夕景になっていた

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ご無沙汰しています。まだ生きていますよ。

2025-01-20 16:10:36 | よしなしごと

 このブログの更新も1月10日以来ということだからずいぶんサボったものである。

 これは用心すべきだろう。私の歳になると一體週間もご無沙汰するとあいつもとうとうくたばったのかということになりかねないからだ。

 今回、長い空白ができてしまったのは、所属している同人誌 の締め切りとその校正、さらにはそれと並行して、ちょっといたずらごとのようなことをしていたからである。いずれにしてもかつてはそうしたようなこともしながらも、まぁまぁこまめにブログを更新できたのだから、その点では年齢による私自身の能力の劣化といわれても 致し方あるまい。

           

 ただし、この間何もしてこなかったわけではない。それなりに書も読んだし勉強会などの集まりにも参加した。とりわけこの勉強会では、 フェミニズムの最近の動向とりわけ雑誌「情況」昨秋号が特集したトランスジェンダー問題などに関して、私の理解の範囲が狭いこと 思い知らされ、付け焼き刃で勉強などもしていた。

 今も、キャスリン・ストックの『マテリアルガール』を読み問題の整理をしつつある。

 その前には久々に 多和田葉子の小説『白鶴亮翅(はっかくりょうし)』を読んだ。ひところ、多和田葉子のの追っかけのようにして読み続けた時期があったが、今回は久々である。  

            

 なぜこの人に興味を持ったかと言うと彼女自身が 言語に対してとても自覚的というかそれに関するある立場をもっていて、それを小説の中でも実験的に用いたりしていたからである。で、それが小説としてどうなんだろうかということについては、 いささか見当違いかもしれないが以前にこのブログに載せたことがあるのでそれを参照されたい。

 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210310 

 あ、そうそう、今回のものは、現今の国際環境に根ざしていて、具体性があったと思う。ドイツの変遷の歴史の中で、東プロイセンやプロシアの話がでてきて、その話はドイツは無論、昨年夏、私自身がドイツとともに出かけたポーランドとも関連するので、もう少し掘り下げてほしかった。

 なお、この小説は、上記の問題と並行して、ヨガ教室で展開される技の進行、そしてそこに集う多民族の人たちのありようが柱となっている。タイトルの『白鶴亮翅』もヨガの技のひとつで、小説のラスト近く、意外な活躍を見せる。

           

      

 今年に入って、名古屋へは2回出かけた。一度は今池方面でこれはなじみの場所であるからほとんど問題なかったのだが、久々に行った名古屋駅の西側はなんだか凄いことになっていた。通行止めがいっぱいあって本来通行できた道路も柵で遮られるなど、行く先へたどり着くための道そのものがいたるところで寸断されそのうちに自分がどちらを向いて歩いているのか方向性すらわからなくなってくる。

 なんでそんなことになっているかと言いうと、いつ開通するかもわからないリニア新幹線の駅のための工事なのである。駅の桜口通り近辺にも多少の工事の現場があるが駅西も まぁそのくらいかなと思っていたらとんでもない話で、その何倍もの面積が閉ざされている。

      

 どうせ私が生きてるうちには乗ることができない、あるいは乗ることができてもあまり乗る気がしないリニア新幹線のために私の当面の通行はかくも無惨に妨げられているということが腹立たしい。

 まぁそれはそれとして、勉強会の帰りに二次会で初めてインド料理店に入った。勉強会にはイスラム系の人が2人いていわゆるハラルフードの店ということでここになったようだ。 田舎料理と和食しか知らない私にとってははじめての体験であった。あのでかい雑巾のようなナンというものをスパイスに浸して食べるというのは初めてのことであった。

           

 イスラム系の首都はともかく、私のような新校舎 夕食にはアルコールを伴う悪癖があってしかしその店には当然のこととしてアルコールは置いてない。インド人らしい店主は「アルコールは隣のコンビニで自由に買ってきて持ち込んでも結構です」ということなの 私もその言葉に甘えてなんとインド料理に日本酒を持ち込むという奇天烈な関係が成立した。

      

 ところでその店はとても親切で、そうした持ち込みを許すばかりか、持ち込んだ酒のために十分に冷やしたグラスを提供してくれるのである。いずれにしても食事そのものそしてその食べ方を含め、はじめての体験なのでとても面白かったやはり長生きはしたほうがいいのかもしれない。 

 この文章はあちこち変なのは口述で記入をしそれを手直ししたためである。まぁそのせいばかりではなく、文章を構成する私自身の論理的な能力の欠如は口述筆記にも出てしまっているというのが実情であろう。

 久々のブログであまり写真はない。書籍以外の写真は岐阜から名古屋に出かけた際に気まぐれ撮ったものである。

  今日はこんなところでお茶を濁してしまうがいつもこのブログを覗いてくれる方にはご無沙汰をお詫びし、今後は短いものでももう少しこまめに載せることをお約束いたします。ゴメンナサイ。

 

 

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【初冠雪】

2025-01-10 16:48:56 | フォトエッセイ
目覚めたら一面の銀世界。10センチほどの積雪か。豪雪地帯なら降った中に入らないかも。
農協の朝市へ行くつもりだったが、路面も関節しているし、まだどんどん降っているので急遽中止。
私のポンコツ軽ではとても歯が立たない。野菜のために命を賭ける必要もあるまい。
      
          
      
          
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【止まらない連戦連勝】

2025-01-09 16:00:58 | よしなしごと
大谷くんや藤井くんの話ではありません。私のことです。
わが家の洗濯機、古いので乾燥機能があまり良くなく、すごく時間がかかる割に乾かないのです。
ですから、天気の悪い日には近くのコインランドリーで乾燥のみをしてきます。
洗濯物の量からして一日おきにしてるのですが、今年は今日で5回目。
この間、けっこう寒く、小雨模様の日もあったのですが、それがどうでしょう、洗濯物の乾燥については連戦連勝なのです。
なぜか?ですか。そんなもの決まってるでしょう。ひとえに私の心がけがいいからです。
      
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平穏な三が日とシューベルトのピアノ曲

2025-01-04 16:37:30 | 音楽を聴く

 とりわけこれといったこともない平穏な三が日であった。
 ほぼ書き上がった原稿をチェックしながら久々にシューベルトのピアノ曲を聴いている。
 弾き手は昨年亡くなったマウリツィオ・ポリーノ。私より4歳若いのに。

 曲は作品番号D760(op.15)の「さすらい人幻想曲」とD845(op.42)のピアノソナタ16番。両曲ともに、ある種の激しさと優しさが交互に現れてくる。それらが後期ロマン派のように滑らかに融合しているというより、まさに交互に表現される。

 彼をロマン派に数えるのが普通だが、その意味ではやはり、ベートーヴェン直後の移行期にある作曲家とみたほうがいいかもしれない。
 もって回った表現よりこうした直裁的なものが性に合っているせいか肌に染みるように聴くことが出来た。ただし、優しい部分はあくまで優しく、ポリーニの演奏はその辺の対比を明確に表現していて好ましい。
 聴いたのは1974年、ポリーニ32歳の演奏。

 写真は元日のわが家を正面から。
 二枚目は蕾を付け始めた鉢植えの紅梅。

     

         
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お年賀です。

2025-01-01 00:44:01 | フォトエッセイ

         

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