六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

戦争を知らない子どもたちと「大人たち」のために

2015-07-31 18:13:27 | 書評
 この本の前半は小学5年生の八木湧(わく)太郎君が、90歳のおじいちゃん、八木進さんから戦争の話を聞いたものですが、実際の夏の自由研究のスケッチ帳が元になっているため、自然体の会話がいいですね。
 以下は、湧太郎くんの「はじめに」からです。

          

 ・・・・僕が遊びに行くとおじいちゃんの声が家の中から聞こえてきます。おばあちゃんに大きな声で話しかけています。耳が遠くて大きな声を出さないと通じません。いつもみんなが言っていることが聞こえないので、「通訳しろ」とおばあちゃんに言っています。
 何事についてもうるさいおじいちゃんです。犬をかって大事にしています。
 ごはんの時は、「これも食べろ」「あれも食べろ」といわれて、どんどんぼくのお皿には、食べ物の山ができます。「そんなにいらないんだけど」、おじいちゃんに通じないので、がんばって食べます。
 いつも元気なおじいちゃんは90歳です。トヨタ自動車でずっと働いていました。車の運転が得意で今も車に乗っています。
 面白くて大好きなおじいちゃんですが、実は若いころ戦争に行っていたのです。大変なことがいっぱいあったようですが、今まで戦争の話をきちんと聞いたことがありませんでした。夏休みに遊びに行った時にお願いして話をじっくり聞きました。・・・・

        

 こうして二人の問答形式で話が進むのですが、そのうちにこの八木進さんの部隊は800人いたのですが、帰国できたのは6人だけだったことや、敗戦を知らず、11月まで戦っていたことなどが明らかになります。

 とりわけ説教めいたことは書かれていません。事実の推移が淡々と伝わってきます。

 この本の全体は2部に分かれていて、前半は二人の会話ですが、後半はそこに出てくる戦争全体の状況の説明と、「玉砕」などという難しい言葉の解説に当てられています。
 なお、文中の挿絵は、八木進さんとともに奇跡の生還を果たせた市古粛亮(いちこしゅくりょう)さんんが当時を思い出して描いたもので、食料補給を絶たれるなかで、当時の兵士が食べたものなど究極のサバイバルゲームの様相がくわしく描かれています。

       

 漢字にはルビが振ってありますから低学年から読めますが、子どもたちはもとより、子どもたちのご両親の世代にも読んでいただきたいと思います。
 安倍晋三くんにも読ませたいのですが、彼には湧太郎くんほどの理解力があるかどうかは疑問ですね。

 ご希望の方の入手方法は以下です。
 発行元 編集企画室 群 TEL 052-589-2771 FAX 052-589-2772
 また、以下のホームページからのメールでも問い合わせや注文ができます。
   http://www.pen-ginclub.com
 なお、このページにはお近くの取扱店も載っています。
 あ、定価は1,000円プラス税です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが家の蝉たちよ!その生を謳歌せよ!

2015-07-29 23:53:21 | よしなしごと
 この時期、私のうちには常時10匹近くの蝉がいて賑やかだ。
 私が数十年間育ててきた木が数本あるせいだが、ほとんどがうちで生まれた蝉だ。うちの周辺、何十メートルにはこれだけの樹木があるところはないし、うちの敷地にはセミたちの抜け殻があちこちで見つかる。成虫になってからの彼らの寿命は短いというから、ひと夏通算したらかなりの数の蝉がうちで成虫になり、その生の最後を謳歌する訳だ。

             

 蝉の声をうるさがる向きも多いが、私はそうは思わない。彼らが鳴いているほうが涼しく、鳴かない瞬間のほうが暑く思うほどだ。しかし、いつだったか私の正面の1m足らずの網戸にとまって鳴き出した折には、さすがにうるさいので、チョイと指で押してお引取り願った。

             

 今、これを書いている折(PM 5:00)も、少なくとも数匹が鳴いている。しかし、彼らが鳴き出す時と鳴き止むときのそのタイミングがよくわからない。
 一匹が鳴き出すとそれに和するように鳴き声が起こる。かと思うと、急に全部がピタリとやんで、静寂が支配する。

             

 蝉の種類はアブラゼミだ。名古屋がクマゼミのテリトリーになっったというのはもうだいぶ前に聞いたが、わが家では依然としてアブラゼミだ。ニイニイゼミもかつてはいたが、いつ頃からか姿を見せなくなった。あの一回り小さい蝉が今となっては懐かしい。

             

 もう一種、ツクツクボウシがいる。これは少数派でいつも夏の終わり頃、甲子園大会の終盤という頃に鳴き出す。あの独特のメロディを聴くと、あゝ、今年の夏ももう終わりかと思ったりする。
 ところがである、今年は今日すでにその声を耳にしたのだ。慌てて飛び出し、その姿を探したが分からない。それどころか、それを契機に鳴きやんで、それ以降声がしない。いつもより早く出てきてしまったので戸惑っているのだろうか。
 気のせいか、ツクツクボウシもうぐいすと一緒で、デビューしたてはその鳴き声も今ひとつで、やがて立派に鳴くようになるようだ。

             

 明日はどうだろうか。
 おっと、明日は終日、うちを開けるのだった。
 ツクツクボウシよ、その間に、鳴き声を鍛錬しておけよ。

 今日は、ものを書いたり、同人誌関連の事務処理が進んだので、夕刻の蝉たちがそれをねぎらうようにいっそう賑やかに鳴き立てている。
 こんなに暑いのに元気な連中だ。



     玉音などわれ関せずと蝉しぐれ(1945・8・15)
     誰(た)が罪を責めて夜半の蝉しぐれ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【プロ市民】にみんながなろうではありませんか!

2015-07-27 13:51:18 | 日記
 これはFaceBookに載せたものの再掲です。ここでしかお目にかかれない人がいるものですから。
 また写真は、昨年、霧ヶ峰で撮したものですが、しっかりしないと「プロ政治家」のカモになるよというシャレのつもり。

           

 最近よく、ネットで「プロ市民」という言葉を見かけるようになった。主に右翼系の人が発信元で、街頭での活動など、現政権へのに批判的な言動をする人たちを指しているようである。ひどいのになると、どこかから方針とともにお金が出され、それによって動いているのだという陰謀説的なものもある。
 
 まあ、こんなのは「問題外の外」として、「プロ市民」というのは別の意味で悪くはない。私たちはできるだけプロ市民になるべきなのだと思う。もちろんどこかからお金と指令が来るような意味においてではない。市民としての権利となしうる機能に精通するという意味での「プロ」市民になろうというわけだ。
 
 政権を担う人たちは、できるだけ市民が素人で物言わないことを願っている。それどころかそうあるべく誘導しようとすらしている。自民党の若手議員の勉強会で、偏向したメディアをやっつけるという話が出たのもそれだ。市民は、「見ざる・言わざる・聞かざる」の素人であったほうが都合がいいのだ。
 
 だから、私たちは、情報のアンテナを鋭敏にし、それをもとに考え、市民の権利となしうる機能を勉強し、ちゃんとした「プロ市民」にならなければ、今や世襲の2世議員が過半数という「プロ政治家(や)」にいいように牛耳られてしまうのだ。市民たるべき権利と機能を知り尽くしたプロ市民になろう!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

踏みにじられた「双葉ばら園」 原発は文化を破壊する!

2015-07-22 23:52:08 | 日記
 今夜のNHKクローズアップ現代は、フクシマ第一から8キロの地にあった、個人経営では日本で最大(2万坪)で、かつ最も美しいといわれた「双葉ばら園」の現在を報告していた。まだ立ち入りもままならないそこは、これがバラ園であったかと思われるほどの荒れ果てようで、雑草や雑木の間に、わずかに一、二輪のバラを見るばかりであった。

          

 このバラ園の育成と維持に家族ぐるみで半世紀をかけてきた経営者の岡田さん一家は、今や家族も分散したままの避難生活を余儀なくされている。
 なんとか蘇らせたいのだが、その資金がないという。東京電力に依る損害賠償金の支払い基準はなんと、そのバラ園は単なる「雑木林」の扱いだというのだ。家族が丹精込めてきたバラ園が、その辺に放置された山林と同様にしか評価されないのだ。

          

 これこそ、あのフクシマが破壊したものが、単なる財貨にとどまらずひとつの文化であったことを象徴的に物語る証左といえる。
 
 そしてまた、原発維持派、再稼働派のイデオロギーともいえる思考が鮮やかに示されている。彼らは経済上の効率や、運用益など、マスとしての数字を並べ立ててそのメリットをいいたてる。しかし、それらがもたらした、あるいはもたらし続けるであろうリスクの具体的な質、内容について語ることはない。
 つまり彼らが語るのはつねにトータルな数字であって、具体的、個別的な質の内容には触れることはないのだ。

          

 しかしながら、私たちにとっての文化は、そうしたトータルな数字の中にではなく、極めて具体的なその差異の中にこそあるのだ。それは、「雑木林」と「バラ園」との差異であり、「整理された復興住宅」と「人びとの喜怒哀楽が行き交った町並みや村落共同体」との差異なのだ。




 彼らは、2万坪に及ぶ花の楽園を一瞬にして破壊しつくし、その周辺の共同体を蹴散らした。その代わりに、いまなお危険な汚物を排出し続ける、あの醜い4棟のガラクタを、しかもここ何年も片付けることすらできないまま、残したのだ。
 文化や文明を破壊し続ける者たちの死臭を放つモニュメントとして。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【率直な訴え】田んぼにものを捨てないで下さい!

2015-07-17 20:48:00 | よしなしごと
 私のうちの近くの田で田植えが行われたのは6月9日付の日記に載せたとおりだ。それから40日、ひょろひょろとしていた苗たちは見違えるようにたくましくなってきた。
 もっとも、その折も書いたように、この地区の田植えはかなり遅い方なので、他のところではこんなものではないことだろう。


       田植え、5日後
 
 ここは下肥を鋤きこんだりしていたことからみて、どうも有機農法を取り入れているようで、そのせいか、他の田よりもジャンボタニシ(これは通称で、正式名称はスクミリンゴガイ)が多いようだ。写真の4つ固まっているのがそれで、手前のピンク色はその卵、そして左上の2匹はその幼生ではないかと思う。

             
 
 これも前に書いたが、日本に蔓延したのは以下の様な事情である(wikiによる)。
 「南アメリカ ラプラタ川流域原産だが、日本へは食用として1981年に台湾から長崎県と和歌山県に、初めて持ち込まれた。83年には養殖場が35都道府県の500カ所にものぼった。しかし、需要が上がらず、採算が取れないため廃棄された。84年に有害動物に指定されたが、廃棄されたり養殖場から逸出したものが野生化し、分布を広げている。」
 生態系のグローバリゼーションとでもいおうか。

             

 ところで、これは生物界の葛藤の例(とはいえ、人為が絡んでいるのは見たとおり)だが、極めて卑近に見るマナーが、田を傷めているのは腹立たしい限りだ。写真で見る異物の放擲は、わずか数メートル以内のものである。車が行き交う道路端であることからして、それらは車からのものだろう。
 どういうつもりでこんなことをするのか、私にはわからない。

             

 別に、道徳家気取りでいうわけではない。子供の頃、農家で暮らした経験を持つ身には、往時の農家が、とくにこの時期、炎天下で田を這いずりまわって、いわゆ「田の草取り」といって雑草などの異物を取り除いていたのをよく知っているからだ。
 もちろん当時とは農作業もずいぶん変わった。しかし、田が、農家にとっては大切な職場であることには変わりがない。

             

 田に平気でものを投げる人たちが、米を食うのかどうかは知らない。しかし、いずれにしろ、彼がビジネスマンであったとしたら、そのオフィスに通りかかりの人からものを投げ込まれるのと変わりない所業なのだ。
 どうか田へはものを捨てないでほしい。そんな気がフトしても思いとどまってほしい。
 そうすれば、米を口にするおり、それを思い出して、その米の味が増すことだと思う。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが実家の製材所変遷記 非難を逃れて

2015-07-14 01:57:30 | 想い出を掘り起こす
 前回は、祭りばやしの練習が騒音だというクレームのためにままならぬ話から、電車内へのベビーカーの持ち込みへの苦情、幼稚園、保育園の児童の嬌声を理由に移転要請があるなどという話から、古くからの養豚場があとから押し寄せた住宅の波に埋もれ、今や新興住宅地の環境汚染の元凶にされてしまった、などという話を紹介した。

 今回はそれにまつわるわが家の歴史についてである。
 私の実家は材木商で、亡父は15歳の折、福井県は石徹白川沿いの小さな集落から柳行李ひとつを背負って、徒歩で油坂峠を岐阜県側へ越え、(今はトンネルでアッという間に過ぎる)、岐阜の材木商へと丁稚奉公に入った。
 父の苦労話は割愛する。ただ気の毒だったのはそれから20年近くをまじめに務め上げ、やっと自分の店の看板を掲げたと思ったらすぐにあの忌まわしい戦争が始まったことだ。
 まずは父が各務ケ原の航空機製造工場に徴用で取られ、営業は実質的に不可能になった。
 面会日には、母とともに徴用先の工場に面会に行き、飛行場の片隅の芝生の上で、心尽くしの弁当を食べた。

 そのうちに、日本の兵力が逼迫してきたのか、35歳を過ぎた民間人でありながら、いきなり赤紙が来て、名古屋の6連隊へ入営したかと思うと、一月も経ずして満州の前線へ送られてしまった。
 そして敗戦。直ちにシベリア送りに。木材に関する父の見識がシベリア開発に役立ったせいもあって、3年以上みっちり働いての帰国であった。それでも帰ってこられただけ幸運だったとも言える。

 父が準備万端整えて、自分の店を再開したのはいろいろ経緯があってからだが、最初の場所は岐阜駅南口から徒歩10分ほどの住宅街や小商店の入り混じった地域であった。並びも別の材木商であった。

          
 
 ところで、材木商が今日、なぜクレームの対象になるかというと、製材機が木を切る際に発する騒音のせいである。
 出来合いのものを取り売りするところもあったが、原木の段階で仕入れ(その折すでに中の木目が読めなければならないという)、それをどの方向のどの角度から鋸を入れ、どんな柱や板を生み出すことはできるか、しかも、その原木の隅々まで無駄なく使えるようにするのか、それが材木商の目利きや技術であり、それによって出来上がった木材の負荷価値は天と地ほど違うという。したがって、製材機は、そうした技術を売りにする材木商にとっては欠かせない設備なのだが、問題はその騒音なのである。

 当初はほとんど問題はなかった。岐阜は木材の集産地で、いわば木の町だったからあちこちから製材の音が聞こえたもので、町の人びとにとってはごく当たり前のことだったのだ。
 しかし、いつまでもそうはいっていられない気配を悟った父は、郊外への移転を決意した。手に入れた土地は、全くの農村地帯で、周辺100mほど(方角によってはもっと)には全く人家のない箇所であった。
 こうして土地は入手したものの、事務所や製材設備、倉庫などを整えるにはさらに資金を要する。
 その準備を進めていた期間がちょうど高度成長期のまっただ中であった。

          
 
 地方都市は、アッという間に膨れ上がり、移転するはずの土地のすぐ南には一階が商店、2階が住まいという3軒続きの家屋が建ち、製材を予定していた辺りには隣接してアパートが建てられた。その他、周りには様々な建物が点在しはじめた。
 こうなると、そこへあとから製材所を持ち込むのは全く不利である。
 ついに父は、そこも諦め、さらに郊外に土地を求めざるを得なかった。

 最終的にはそこへと落ち着いたのだが、そこは周りにあるのも工場だったり倉庫だったりで、人家はほとんどない状態が今なお続いているので事なきを得ている。
 「孟母三遷の教え」ではないが、先手先手と事を進めた父は賢明であったと思う。

 ところで、今日、岐阜の町を往来しても、もはや絶えて製材のあの、聞きようによっては胸のすくような音はしない。これはたしかに環境の問題もあるが、材木商そのものが激減しているのだ。
 家業を継がなかったとはいえ、不肖材木屋の息子、町のどこにどんな材木屋があったかは覚えているが、それらはもはや製材所はおろか店舗そのものも綺麗に消えてしまった。

          

 今どき、地方の分限者ででもない限り、純木造の家を建てるようなひとはいない。普通に見られる日本家屋と思われるものも、材木を使っている箇所はごく限られ、それも輸入材の規格品が多い。現今の家屋の建築は、工場で出来たパーツの組立であり、そこに材木商が関与する余地はない。だから、ある日、気がついたら忽然と新しい家屋が姿を現すということがありうるのだ。

 で私の実家だが、取引対象は社寺仏閣など文化財の修復を行う宮大工さん、仏壇屋さん(これも減少)や仏像の木彫師、などなど伝統的なもので、いわゆる銘木専用ということになる。

 さて、こうして、環境や営業対象の変遷と戦ったきた父であるが、その「三遷」のおかげを被っているのは私である。私が住んでいる場所は、父が最初の移転地と決めたその一角で、その土地は結局倉庫として使うことになったのだが、その留守番というか見張り役というかで、臨時の住まいだったものを買い受けて終の棲家にしてしまったわけである。
 だから、この辺りは今なお、田園と市街地がまだらに入り混じる場所で、まあ、ど田舎でもないが小うるさい街なかでもないという、中途半端な私にとては適した棲家となっているとうわけだ。

 始めの書き出しとは遠くはなれてしまったようだ。

 
最後の写真、わが実家の倉庫のものですが、「青ヒバ 能面用」とあるでしょう。青ヒバというのは木材の名前です。能面用というのは文字通り、お能の面を作るための用材なのです。どういう需要に対応して生き延びているのかがお分かりいただけると思います。







コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人びとが一緒に暮らすということを考える 祭囃子は公害?

2015-07-12 01:37:58 | よしなしごと
 またかと思う。
 祭りばやしの練習を騒音としてクレームを付ける人たちがいるので、練習場所や練習時間が限定され、伝統的な祭りの継承もままならないというニュースに接してである。
 これは、乳幼児を載せたベビーカーを電車内に持ち込むなとか、近所の幼稚園、保育園の児童の嬌声がうるさいから移転しろとかいうクレームと同質のものだと思う。

 とはいえ、こうしたクレーマーを一方的に責めようとは思わない。一般的にいって、より快適な生活を求める権利は誰にもあるし、ある種の音質や音量に対してとても敏感に反応する人たちの存在は否定できないからだ。
 しかし、複数の人たちが複数の事情を抱え、複数の行為を余儀なくされる現代社会にあっては、それらの間の然るべき調整は不可避であり、どちらか一方の要請のみで事態が解決することはまずない。少なくとも、相手に迷惑を及ぼすと考えられる行動が不可避な場合は、それに対する礼を尽くすべきだし、そうしなければならない自己の立場を釈明する態度をもつべきだし、また、できうる限りの対策を考慮すべきであろう。

 一方、自分が犠牲者であると思い込む人たちも、世の中は複数の要請が錯綜する場であることをわきまえて、我慢の限界を見据えながら譲るべき点は譲るべきであろう。とりわけ、こうしたクレームが持ち込まれるのは、自治体などの公共機関であろうが、それらを私的な利害の衝突ぐらいに軽く考えるのではなく、積極的に仲介の労をとり、その落ち着く点を見出すべく努力すべきだろう。騒音などが原因で殺人事件にまで至った例もひとつやふたつではない。

         
最近この花をよく見かける。ゲンペイカズラによく似た色調だが、サルビア・ミクロフィラ 'ホット・リップス'という花らしい。世の中で起こっていることはこの花のように赤白をはっきり確定できない事態が多い。

 かつて、ある養豚業者に関する記事を読んだことがある。彼はその養豚場を設置する際、臭気などを配慮して集落とは遥か離れた場所を選んだ。
 しかし、その後の高度成長期の影響で、その街は周辺へとどんどん拡張し、ついには彼の養豚所は住宅街に取り囲まれることとなった。そしてその結果は、臭い、不衛生だ、地価が下がるなどの非難の対象となってしまった。彼はいつの間にか、新興住宅地に居座る環境破壊の元凶にされてしまったのだ。
 彼の談話が印象的だった。
 「私はあなたたちがやってくる何十年も前からここにいたのだ。あなた達は豚カツを食べたことはないのか、ラーメンのチャーシューは豚肉であることを知らないのか」

 この談話に類して、冒頭の事例を述べるならば、以下のようになるだろう。
 「あなたたちは、自分が子供の頃、乳母車やベビーカーで公共の場所に出かけたことはないのか。子供の頃、嬌声を発したことは一切ないのか。祭りばやしをBGに夜店の喧騒に心をときめかしたことはないのか」
 しかし、これをいったところで無駄かもしれない。多くの人はそうした記憶は失っているか、それはそれ、これはこれと応えるだろうから。

 私はこの養豚業者の記事をひとごとならぬわが家族の歴史として読んだ。
 そして、この業者の悲憤を手に取るように理解した。
 それについて語るには、もうじゅうぶん長くなったので、この続きは次回にしようと思う。


コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

納豆の日・7月10日 新聞拾い読み 「朝日新聞」朝刊から

2015-07-11 01:22:59 | 日記
 7月10日は語呂合わせで「納豆の日」だそうだ。ならば8月10日は「ヤット-」で「剣道の日」かと思って調べたがそうではないみたい。
 それはともかく、朝刊の拾い読みから・・・。

「お前の個人票は2%しかない」といわれたけれど

 さる4月の統一地方選挙。愛知県の武豊町現職町議で、創価学会員で公明党の町会議員、集団的自衛権はやはり仏の教えとは異なるという信念のもと、公明党を離党し、「集団的自衛権 断固反対!」のスローガンを掲げ、無所属で立候補。
 学会や公明党から、「お前の個人票は今までの得票数の2%に過ぎない」と鼻であしらわれたという。
 蓋を開けてみると、見事当選。得票数も前回の9割以上とほぼ変わりなし。
 武豊町民は賢明な判断を示したと思う。

寂聴さんと二人の女性作家

        
 文化文芸欄は、瀬戸内寂聴さんの「残された日々」というエッセーの2回目。
 二人の女性作家とは江國香織さんと井上荒野さん。彼女たちの父は、江國滋氏と井上光晴氏。寂聴さんはこの父親たちの時代からの付き合いで、とくに井上光晴氏とは男女の仲で8年を過ごし、そのケリをつけるために出家したというのはよく知られた話。
 それを寂聴さんは、「やがて親密になりすぎた仲になった」とサラリと書いている。93歳にしてのこの表現はサラリとして生臭さはないが、しかし、一方、出家した以降も男っ気があったというから、やはりこの人ただ者ではない。

岐阜空襲の翌日というので

        
 岐阜版では、7月9日の岐阜空襲にちなんだ記事が。
 1945(昭和20)年のその日、私は疎開先の大垣の郊外からそれを見ていた。20キロほどしか離れていないので、東の空が真っ赤に染まり、何かが爆発したのだろうか、炎と一緒にものが吹き上げるような様子も手に取るように見ることができた。
 しかし、その下では大変な非惨劇が展開され、市街の中心部はほぼ全焼、死者は1,000人近くに達した。
 それから20日後、今度は大垣が焼かれた。郊外だから大丈夫と思っていたのが甘く、疎開先の掘立小屋は半焼の憂き目にあった。
 終戦後、どれほど経ったであろうか、母と岐阜の前に住んでいた家を見に行った。そこは奇跡的に、すぐ前まで燃えているにもかかわらず、焼け残っていた。疎開先で焼け出されるんてマヌケな話だが笑うことはできなかった。というのは、岐阜の死者の大半は、防空壕も火勢に押され、危うくなってそこから逃げ出す途中でやられているからだ。
 一面の焼け野原で、岐阜駅から、普段は絶対に見えない2~3キロ離れた長良川の堤防が見えた。

スポーツ欄 夫婦がベンチで敵味方に

        
 続いては高校野球ネタ。
 宮城県予選での石巻西と石巻商の試合では、石巻西の監督が夫で石巻商の部長はその夫人だったという。
 で、結果は夫人の石巻商が5x-4で勝利。試合後、二人は照れながら握手とか。
 セミ・プロ化した有名校では絶対に見られないほほえましい光景。

三船敏郎がハリウッドの映画殿堂に

        
 これまで、日本人で誰が入っているかというと、早川雪洲にマコ・岩松だという。しかし二人共アメリカ国籍をもったれっきとしたアメリカ人だから、日本人ではない。
 しかし、この二人の他に、正真正銘の日本製で殿堂入りしているのがいる。それはゴジラ。
 なお、それを伝える紙面のほかのページに、敏郎の娘さん、美佳さんの高橋ジョージ氏との離婚を巡る泥仕合を報じる女性週刊誌の広告が載っているのは皮肉な話という他はない。
 



 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週末の県図書館の周辺 夏椿とナンキンハゼ

2015-07-06 21:34:30 | 花便り&花をめぐって
 さほど広くはないがお気に入りの図書館の中庭、この時期、ここには花の気配はない。
 20日ほど前に訪れた折、咲き乱れていた夏椿(沙羅)の花は、すっかり落花(散るのではなく花ごと落ちるのはこの前書いたとおり。椿もそう)してしまっている。
 それでも近づいてみると、こんな感じになっている。一見したところ、蕾のように見えるがこれは落下後の実だ。触ってみると硬い。




 花といえば、いつも見ている隣の美術館前のナンキンハゼが花盛りだ。黄色い房状のそれが垂れ下がっているのが遠目にもわかるが、かといってさほど派手な花ではない。近づくと栗の花同様の、青臭い匂いがする。

        

 写真を撮っていたら、犬を連れたおばさんが通りかかって、何を撮っているのですかと訊くので、「この花です。やがて青い実になり、秋には茶色く色づいて、さらにそれがはじけて真っ白な実が出てきます」と説明すると、「へえ、そうですか。毎日通るのですが、気が付きませんでした。これからは見るようにします」とのこと。
 ついでに、「昔はその白い実から和ろうそくを作ったのですよ」とうんちくをひとくさり。

   

 もう何年も前からの私のお気に入りの木なので、関心を示してくれる人ができると味方が増えたように嬉しい。きっと彼女も、これからこの木の下を通る時、ときどきは見上げてくれることだろう。

 幾分日が短くなったような気がするが、考えてみたらもう夏至を過ぎたのだった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞拾い読み 7月5日「朝日新聞」から

2015-07-05 15:22:47 | 日記
 興味のあったものをアト・ランダムに・・・。

 

長良川河口堰(中) 3回連載
 
 無用の長物であることはもはや明らか。給水は水余りでどこも持て余し。洪水対策にもほとんど用をなさない。かえって危険性の指摘も。塩害対策も眉唾。
 デメリットは歴然。周辺のヤマトシジミはほぼ全滅。鮎のメッカ長良川も、魚苗センターを強化し人工孵化の鮎を放流しているが、漁獲量は1,000トンから300トンに。海から遡上する純天然鮎に至っては、ついに岐阜市が絶滅危惧に指定。
 加えて、河口近くのヨシ原がかつての10分の1以下に減少とか。下流域へニギスを釣りに行った際、両岸に伸びやかにそびえるヨシ原を目撃し、記憶に焼き付いているだけに、まことに残念。
 ヨシ原の減少は、それ自身のみではなく、そこを棲家とする水生動物や昆虫、鳥類をも駆逐し、生態系全般に大きな損害をもたらしているはず。
 現代の社会は、まことにもって「未来の搾取」の領域にまで土足で踏み込んでいると痛感。

          

スポーツ欄、高校野球のネタ

 各地で夏の大会(今年は百年目)の予選が始まっているが、各県などの予選参加校の数が載っていた。最激戦地は愛知で189校。東京や北海道のほうが多いのだが、こちらは南北や東西に分かれているのでこの結果。最小は鳥取県の25校。
 選挙の「一票の格差」をそのまま反映しているようだが、こちらの方は人畜無害。むしろ、最小県から出た高校が全国制覇をしたら痛快だと思う。
 ちなみに、鳥取県、夏の全国大会は、これまで5回の準決勝進出。春の大会では決勝に2度進んでいるが、優勝は果たせず。

          

文学全集の発刊が上向き 飾るから読むへ

 かつてのようにハードカバーの重々しいものではなくソフトで実用向きとのこと。しかも全巻揃えるというより好みのものをセレクトするのが主体という。
 この種の全集が一番売れたのは70年代という。しかも、建築ブームが背景にあるというから、備品としての装飾の要因が多かったようだ。
 そういえばその頃、ある人から家を新築し、応接間(書斎ではないことに注意)に全集を置きたいが、どこのものがいいか相談を受けたことがある。この場合は中身よりも装丁を重視。特に背中のデザインが重要だった。
 今回の読む全集は、出版界にとっても読書界に取っても歓迎すべきだろう。

             

「九州大学生体解剖事件」

 続いて読書ネタ。標題の本が出版された。当時の状況などを実証的に検証したものらしい。
 これがあったことはうっすらと知っていた。しかし、8体ものそれが実施されたことは知らなかった。時期は戦時中、対象は米軍捕虜。もちろん、軍部と大学側の共謀(「きょうぼう」と打ったら「凶暴」と出たがまんざら誤変換ではない)によるもの。
 日本が近隣諸国に対して加害者であったことを認める人たちも、アメリカに対してはあちらが加害国でこちらは被害国と思っている人が多い。確かに、無差別空爆や原爆投下を見るとそれは否定できないが、真珠湾奇襲から始まるこの国のやり口、そして、この生体解剖を頂点とする捕虜虐待は、こちらが被害者とは決していえないことを示している。
 この国がまた、積極的平和とか集団的自衛権とかを振りかざし、加害者になりかねない時期だけに立ち止まって考えて見る必要があるだろう。









 
 
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする