六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の履歴書(八)父との絆だった軍事郵便を公開します。

2013-02-27 18:05:40 | 想い出を掘り起こす
 以下は、1944(昭和19)年の夏に始まり、翌年の敗戦直前まで続いた父と私の文通(と言っても一方的に父からのものばかりですが)の痕跡です。
 当時、父は37歳で招集されるや否や満州へと派兵されました。
 母とともに残された私は就学前の満5歳。その私に対してくれた父からの軍事郵便なのです。
 私も一生懸命書いたのですが、それはもちろん残ってはいません。
 最後のものは、母の記したメモによれば八月上旬の到着となっています。敗戦のわずか2週間ほど前です。
 すでに沖縄も米軍の手に落ち、制空権や制海権も失っていたなかでよく届いたものだと思います。いったい何日かかって届いたのかはよくわかりません。

        

 軍事郵便には検閲がありました。写真でご覧のようにどれにも検閲印が押してあります。私宛のものは、たわいがないものでしたから引っかかった箇所はありませんでしたが、母宛のものには時折墨が塗られたものがありました。
 どうやら、日付や地名、それに天候が入った箇所、さらには固有名詞などは全てアウトだったようです。

 涙が出そうな箇所などいろいろありますが、あえて多くは語りません。
 ひとつの資料=史料としてお読み下さい。
 なお、仮名遣いなど「オヤ」と思われる箇所があるかもしれませんが、私のタイピング・ミスではありません。当時の旧仮名使いによるものです。

 最後のものが着いて以降、父は消息不明となりましたが、おかげさまで1948(昭和23)年春に帰還いたしました。
 その後、天職のように愛していた木材の仕事に戻り、85歳にて天命を全ういたしました。

       ============================= 

*1944(昭和19)年 10月末

 寛君 ゲンキデ君子サン*ト中ヨクアソベルソウデヨロコンデ居マス
 十五日ノ日曜日ニハ松タケ山ニミンナトタノシク一日中遊ンダコトト思ヒマス
 ナガラ川デアソンダソウデ石ガタクサンヒロヘタコトト思ヒマス
 アソブトキハヨクアソビマナブトキハヨクマナビ學校ヘ行クヤウニナッタラ一バンニナリナサイ
 サムクナルカラカラダヲキヲツケテ母サンノイヒツケヲマモリナサイ
 マツタケ山ノコトヲキカセテクダサイ 義雄モゲンキデス  サヨナラ


*君子さんは正確には私のおばで、当時、同居していたが年齢が五歳しか違わなかったので遊び相手でもあった。

        


*1944(昭和19)年 11月はじめ(絵葉書)

 寛君 ゲンキデスカ
 マイ日オトモダチト中ヨクアソビマスカ 
 オトナシクシテゲンキデ タメニナルモノヨイモノナラナンデモカッテイタダキナサイ
 サムクナッタラカンプマサツヲシナサイ 



*1944(昭和19)年 11月中頃(絵葉書)

 寛君 オテガミ下サイマシテアリガトウ
 ゲンキデイヒツケヲヨクマモルソウデヨロコンデイマス
 サムクナルカラカラダニキヲツケテゲンキヨクアソビナサイ
 コチラモゲンキデガンバリマス
 マタテガミヲダシマス  サヨナラ


*1944(昭和19)年 12月中頃(絵葉書)

 寛君 オテガミノヘンジガオソクナッテスミマセン
 モミヂノオチバヲ下サイマシテアリガタウ
 犬山デアソンデタイヘンオモシロカッタソウデスネ
 オ正月モチカヅキ八ツニナッタラ*ガッコウへユケルカラシッカリマナビナサイ
 サムクナルカラキヲツケナサイ


 *昔は数え年でいったので八つで国民学校へ入学。今の満六歳。

                                私のお気に入りの絵葉書 「鐵帽 柳圃筆」とある

*1945(昭和20)年 1月はじめ

 寛君 おてがみありがたう。お正月がきたので寛君も八つになりいよいよがっかうへ行けるときがちかづきました。一しょうけんめいべんきゃうして一ばんになるとかいてありましたから大へんうれしくおもいました。今日はおまへりしてからいもんぶんをかいてくれましたか。まって居ます。
 さむくても風をひかないようにし下さい。
 お正月にはおもちをいくつたべましたか。こちらでもたくさんいただゐてゐますからおくらないで、みんなでたのしくたべて下さい。
 そして寛君も早く大きくなって下さい。
 君子さんと中よくしなさい。
 おもしろいことやたのしいことがあったらしらせて下さい。 さよなら

(注)これともう一通はひらがな。当時は、一年生のはじめはカタカナでついでひらがなを習った。私は幼稚園というものには行ったことがないが、母が教えてくれたのと、父に手紙を出したい一心で、就学前にカタカナとひらがな、それに簡単な漢字は読み書きできるようになっていた。


*1945(昭和20)年 3月末

 寛君オテガミアリガタウ
 大ソウ上手ニカイテアリマスカラウレシク思モッテ居マス
 寛君はヨイ本ヲカッテイタダイタトノコトデスガソノ本ニカイテアルノト少シモカワリナイノデス
 義雄モ毎日元気デスカラアンシンシテ下サイ
 寛君ノ學校ヘ行クノモイヨイヨチカヅキマシタ
 先生ノオシエヲヨク守リリッパナ人ニナッテ下サイ
 カラダモキヲツケテヨクマナビヨクアソビナサイ
 學校ヘ行ク道ハキヲツケテケガヲセヌヤウニナサイ
 君子サン*ガイナクナッタラオ友ダチト中ヨクシナサイ
 又オテガミダシマスカラ寛君モ又オテガミ下サイ
 犬山ヘ行ッタラ元氣デアソビナサイ      サヨナラ


*最初の手紙に出てきた叔母だが、彼女たちは父方の福井の山奥に疎開することになった。

           

*1945(昭和20)年 4月末

 寛君 オ手ガミアリガタウ
 荒尾*ニ居ルコトヲ聞テヨロコンデ居マス
 寛君モ學校ヘ行クヤウニナッテカラ二週間トスコシニナリマシタ
 オ友ダチモ大ゼイアルソウデ毎日ヨクアソベルコトトオモヒマス
 先生ニオハナシハヨクマモリナサイ
 ドンナニナンギヲシテモコノセンソウニカチヌクマデハガマンシテ寛君ハ一生ケンメイベンキョウシテリッパナ人ニナラナケレバイケマセン
 寛君ノコトハ一生ケンメイ神サマニオイノリシテ居マス
 今ゴロハ荒尾ノタマ池*ノアタリモニギヤカニナッタコロトオモヒマス
 コチラモゲンキデ居マスカラアンシンシテ下サイ
 寛君ハオ母サンノイヒツケヲヨクマモリナサイ
 ソシテカラダヲ大セツニシナサイ  サヨナラ

*荒尾 大垣郊外の疎開地
*玉池 疎開家の近くにあった大きな農業用水池
    この池に焼夷弾が落ちて水面がメラメラと燃えていた


*1945(昭和20)年 5月中頃

 寛君 オテガミアリガタウ
 毎日元氣ヨク學校ヘカヨッテ居ルコトヲキイテヨロコンデ居マス
 ベンキャウシテ五ジュウマルヲイタダキキュウチャウニナレタソウデスネ
 センセイニオシエテイタダクコトガ寛君ガシッテ居ルコトデモヨクキイテオシエヲマモリナサイ*
 義雄モ元氣デスカラアンシンシテ下サイ
 寛君モカラダヲ大セツニシテ一生ケンメイベンキョウシナサイ
 大ソウヨイオ家*ガデキタコトモキイテウレシクオモイマス
 又オテガミヲダシマス
 皆サンノオハナシヲヨクキキナサイ サヨナラ


*母の事前の家庭教育のせいで先生のいうことがわかっていてしまっていて、先取りをして答えをいってしまうので困った子どもだったようだ。教師からも愚痴がはいり、母が報告したらしく、それを父が諫めている。最後の「皆サンノオハナシヲ」もその流れ。教師から見たら、イヤなガキだったんだろうなぁ。

*大ソウヨイオ家  何もかも含めて八畳一間っきりのトタン葺きの掘っ立て小屋。当初は母と二人だったが、そのうちにもう一家族が同居することとなる。当時の事情からして、雨露がしのげるだけで贅沢は言えなかった。

 
          検閲印が押されている 部隊は満州第2603部隊 


*1945(昭和20)年 5月中頃 (絵葉書)

 寛君 毎日元氣で學校へゆきますか
 和子さんや節子さん幸子さん*と仲よくして下さい
 お母さんの御話や先生の御話はよく守りなさい
 義雄も元氣ですから安心して下さい 
 又御手紙出します    さよなら


*それぞれ、母屋の年上の従姉妹
 わたしのことを「もらわれ子」だと学校で話したようだが、それも特に悪意ではなく、普段は仲よくしてもらった。
 なお、この葉書はひらがな。

*1945(昭和20)年 8月初旬

 寛君 タビタビオテガミアリガタウ
 寛君ハ元氣デ毎日學校へ行キコノゴロハキンロウサギョウデ大ソウイソガシイソウデスネ
 又寛君ハ小サナウサギヲカワイガッテソダテテイルソウデスネ
 今二大キクナルト又子ドモヲウミタクサンニナリマスカライソガシクナリマス
 暑イトキニハ病ニカカリヤスクナリマスカラ寛君モカラダニキヲツケナサイ
 ドンナ事ガアッテモヨワイキモチデハイケマセン
 ツヨクナッテ大東亜ノセンソウニカチヌクマデハゲンキデガンバリナサイ
 義雄モ毎日元氣デ今日マデ一度モ病氣ニナッタコトハアリマセン
 オテガミノヘンジガオソクナッタスミマセン
 又オテガミ出シマス

    ===============================
 
 

 これらの文面を読み返しながら、高等小学校卒業の父が少ない語彙で、したがって、同じような言葉のリフレインが多いなかで、懸命に私を案じて書いてくれているのがひしひしと伝わってきます。
 改めて父に感謝です。そして合掌です。




コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祝! アカデミー監督賞! アン・リー『ライフ・オブ・パイ』

2013-02-26 02:07:07 | 映画評論
 2月15日付の拙日記で紹介した映画、『ライフ・オブ・パイ』の監督、アン・リーがアカデミー監督賞を受賞。『ブロークバック・マウンテン』に続いて二度目。他には『ラスト・コーション』も良かった。
 自分が観た映画が受賞すると、なんだか得したような気分になるから不思議。
 該当作は一見キワモノっぽい感じで、「他者と通じる」というお決まりの「感動作」と思われやすいが、決してそうではなく、内容は極めてしっかりしていた(詳細は2月15日付拙小論をご参照ください)。
 原作は、英ブッカー賞受賞の小説だが、映画化にあたって引き受ける監督がなく、アン・リーのところに回ってきたと聞く。
 それが良かったのだろう。


          
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これぞ文化だ! 文句あっか!

2013-02-25 03:20:41 | アート
 23、24日は、私の住む岐阜郊外の小学校校下の「文化祭」でした。
 田んぼに囲まれた小さな公民館での開催です。
 校下の各サークルの発表、売店、などなどでけっこう人々が集まります。

 私はもう数年間この行事に参加しています。
 作品の出品までしているのですよ。

 

 セントラル志向の人たちからいわせるとそんなものなにが文化だといわれそうですが、人々が集う中、日頃の研鑽を見たり見られたり、しかもそこに笑顔があり、うまいものがあったら立派な文化です。

 

 文化が図書館や美術館やコンサートホールにあると思っている人たちは偏見に囚われた気の毒なひとです。それらはすでに権威付けられ、秩序に守られた文化です。
 一方、文化には既存の秩序から突出し、そこを相対化してゆく前衛的な働きも確かにあるでしょう。しかし、そんなものポシャってしまえば単なる人騒がせか悪あがきです。

 それに対して、地域の人達が集い、互いの存在を確かめ合ったり、「ほう、あの人が」と驚いたりするのも立派な文化です。
 サークルに集う人たちはその驚きを引き出すために一年間研鑽し、この文化祭を晴れの舞台として競うです。

 

 私は写真を出品しましたから、その近くにしばらくいました。
 みんなけっこう真剣に観てくれますよ。
 二人の老女たちの会話。
 「この〇〇って、※※さんちの新家の息子と違うか」
 「そやろか。あれってそんなに器用そうには見えんがなぁ」
 これもまた立派な批評です。

 

 このイベント、むかし私が名古屋の今池で関わったように、やはり地域の人達が手弁当で運営しているのがいいですね。
 そうした準備段階、そして実施の段階、さらには撤収する作業、それらも含めて立派な創造、立派な文化だと思います。人々が笑顔で集える場所を生み出すこと、それを文化といわずしてなにが文化だ。
 文句あっか!


内緒ですが、最後の写真が私の出品したものです。内緒ですよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(七)あまり衝撃的ではなかった「衝撃の事実」

2013-02-23 01:15:18 | 想い出を掘り起こす
 前に、疎開者として幾分の虐めに遭ったことを書きましたね。
 あれはやはり、当時の農山村と都市との落差や差異が現在よりもはるかに隔絶していたことにもよるものだと思います。
 今のように情報や物資が平準化してはいなかったせいで、田舎の人達から見たら、都会者は貧富にかかわりなく衣服や仕草、言葉付きなどがチャラチャラして見えたのだろうと思います。そして、都会人にはどこか田舎を見下す視線もあったと思います。「田舎者」という蔑視の言葉もまだ生きていました。
 その都会人がいまや行き場を失い、住み家を求め、食を乞うことになったのですから、そこには何がしかの軋轢があっても当然だったと思います。

 しかし、それでも子供のいいところで、学校へ行くようになり、毎日顔を合わせるうちに何人かの友だちもでき、すっかり馴染むことができるようになりました。
 ですから、もう遠慮することもなく一丁前に喧嘩などもしたりするようになりました。

      
     六の実父と実母 背後のコピーは1935(昭和10)年ごろの結婚式とその前後

 そんなある日のこと、やはり喧嘩をしました。といっても口喧嘩なのですが、最後に相手の口から「貰われ子!」という言葉がでました。どうやらそれは悪態の一種だということはわかったのですが、その意味するところがわかりません。ですから私には何の打撃にもなりませんでした。
 それでも一応、家に帰ってから、母に、こんなこといわれたけれどと報告しました。

 すると母は、しばらくもじもじしていましたがやがて意を決したように次のように話してくれました。それを話す母の目が潤んでいて、しかも、私の反応が怖いのか妙に目をそらせていたのをいまでも覚えています。国民学校一年生の時のことです。

 その話によると、私は満州に出征している父と、この眼の前の母との実子ではないこと、私の実母は私を産んで一週間ほど後に天に召されたこと、また実父は私とふたつ上の姉を男手ひとつで育てることができず、それぞれ別のところへ里子に出したこと、その実父も昨年(1944=昭和19年)に戦死しているとのことでした。
 私の疎開先は母の縁故によるものでしたから、年上の従姉妹たちがいて、当然その子たちはそれを知っているので、学校で話したのだろうと思います。

 私にとっては青天の霹靂でしたが、かといってそれが私の生活にどう関わるのかはさっぱりわかりません。実父も実母もまったく知らない私にとっては、ここにいる母と一緒に父の帰還を待つ以外にないのです。
 もうその頃には満州へ行った父の生死すら不詳で、どうやら部隊ごとソ連軍によってシベリアに抑留されたようだというだけで、その帰還の見通しもまったくわかりませんでした。
 ですから、戦争未亡人同然の母にとっては、ただでさえ心細いところへもってきて、そんな話を打ち明けねばならなかったのはとても不安で辛かっただろうと思います。

 子供心にそれがわかりました。ですから、その後は一切それに触れず、これまで通りに振舞っていました。それに、童話などで読む「継子いじめ」に相当する事実や記憶は全くなく、逆に可愛がってくれた記憶しかありませんでしたから、いままでどおりが自然だったのです。
 学校ではその後もいわれたことがありましたが、それが私にとって何の痛みにもなっていないことがわかったのか、そのうちにいわれないようになりました。

      
      実父 1943(昭和18)年、戦地へ出動の日に これが残された最後の写真

 その後も、それを意識したことはほとんどありませんでした。
 むしろ、無理やり意識させられたのは高校生になってからです。
 私は商業高校に通っていたのですが、当時の実業高校はそこを卒業したら就職というのがほぼ通常でした。そしてその就職先のトップクラスは、商業高校では商社や銀行でした。
 しかし、一年の時、担任から、「六君、きみはいくら勉強してもそうしたところへの就職は難しいよ」といわれました。その当時は、片親や実子ではないということが就職時のハンディになることは当たり前だったのです。ですから、その教師も決して意地悪でいったのではなく、リアルで残酷な現実を教えてくれたのでした。

 私が「寄らば大樹のもと」のような思考から吹っ切れたのはそれがあったからかもしれません。そして、それは権威への疑問、権威が秘めているある種の残酷さへの目覚めでもありました。

      
          養父母と私 1944(昭和19)年夏、召集令状が来たとき 
          みんな目がつり上がっているのは写真屋の修整のたまもの


 話が飛びました。
 母と私はその後も、そんなことはなかったかのように父を待ち続けました。母はその器用さを利用して編み物の内職をしていました。編み機などというものはありませんでしたから、すべて手編みです。
 新しい毛糸の場合もありましたが、古い編み物をほどいて、今でいうリフォームもしていました。私の役割は、毛糸のカセをもって母が玉に巻くのを手伝うことでした。
 
 あれってただ両手にかけてじっとしていればいいわけではありませんよ。相手の巻くリズムに合わせてこちらも程よく手を動かし糸がスムーズに出てゆくようにしなければならないのです。その両者のタイミングが合ったとき作業は早く進みます。
 疲れた母の肩たたきもしました。そんなときは歌を唄いました。「リンゴの唄」は調子が良くて肩叩きによく合いました。「異国の丘」はややリズムが違うのですが、還らぬ父を思う二人の共通した思いがありましたからこれもよく歌いました。

 父は1948(昭和23)年春、帰還できました。
 「貰われ子」の件は私からは何もいいませんでした。おそらく母は話したのでしょうが、父もそれには触れませんでした。

      
        生家の家系図 左の余白に姉と私が入るはずだが除外されている
 

 私は二人の父のうち、一方はビルマ(現ミャンマー)のインパール作戦で失い、もう一方はソ満国境でのソ連軍の参戦で、もう一日敗戦が延びたら戦死は必至という事態を何とか切り抜け、その後、極寒のシベリアでの重労働に耐えてきたのでした。
 その意味ではともに戦争に翻弄されたといえます。
 もちろん、一方的に被害者面をしようとは思いません。
 双方ともに、たとえ命令とはいえ外地へでかけ、加害者側の一員でもあったわけですから。

 次回は、今では珍しい軍事郵便の写真なども載せてみたいと思います。


《追記》ほかへ里子に出された姉とは、私が40歳を過ぎた頃、向こうが探しだしてくれて再会することができました。姉のほうが私よりつらい思いをしたようですが、それでも、私がいうのは変ですが、いい女性になっていました。
 私の養父や養母は、私の姉であるということでまるで自分の娘であるかのようにいろいろ可愛がってくれました。その二人が亡くなって以降、地理的に遠くにいることもあってやや疎遠になってはいますが、手紙や電話、盆・暮れのやり取りは続いています。
 上に掲載した実父や実母の写真は、その再会時、姉が呉れたり、あるいは見せてくれたものをコピーをしたものです。


 
 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【不良老人の旅】温泉・酒・古寺・ダベリング

2013-02-21 10:29:27 | よしなしごと
 1月に比べ、2月はお出かけが多いのです。
 高校時代の同級生数人と、一泊の予定でうすずみ温泉(淡墨の桜の近く)へ行きました。途中の道路状況はどうかな、雪はどうかななどと思案をしながらの道中。「スリップ で車転落。老人数名が死傷」というニュースがあったら私たちのことと覚悟を決め、「死」の方に入るか「傷」の方に入るかも運次第と開き直ったのが良かったのか、道はスイスイ。

         

 しかし、北上するにつれ次第に雪景色に。目的地のうすずみ温泉は雪山に囲まれていました。
 でも着いてしまえばこっちのもの、いざ、温泉三昧、酒三昧、話三昧の世界へと突撃。
 夕食で飲んで、部屋へ帰ってまた飲んで、持ち込みの日本酒も焼酎もスッカラカン。廊下の自販機でビールを追加という始末。
 酒も弾めば話も弾む、政治、経済、歴史に文化、音楽、絵画に色恋沙汰、すべてが肴で冬の宿はシンシンと更けゆくといった次第。

        

 翌20日は帰途、横蔵寺の即身成仏のミイラを拝観。このミイラ、若い頃から もう数回会っていてすっかり顔見知りで、私を見てにっこり笑っていました。
 さらには西国三十三番満願霊場の谷汲山華厳寺へ。平日なのに意外と多い人出に驚いていると、巡礼一行の先達の女性が朗々と法螺貝を吹き鳴らしていました。
 すっかり見とれていて写真を撮るのも忘れていました。

         />

 いずれも深山の雰囲気を持った古寺、その放つエナジーはわれら不信心者をも戒めるかのようです。
 負けてはならじと俗世間へと戻り、まずは食欲を満たすことに。谷汲山参道近くのしいたけ園ですき焼きセットを食べました。
 すき焼きといってもここでは牛肉は脇役、主役は肉厚のしいたけ。そして野菜の数々。玉ねぎ、もやし、白菜、ネギと地の野菜が牛と椎茸のだしで程よく煮えるという次第。

         

 醤油とザラメ砂糖だけのシンプルな味付けのセルフ調理、その素朴さがこの山里に合っていて「美味楽しい」(私の造語)のです。
 旅はまだ続きます。
 最後はもう一度温泉。
 谷汲温泉。ここの設備は大したことはないのですがお湯がいいのです。入ってしばらくするとジンワ~リと温泉の成分が体の隅々から侵入してくるのがわかるのです。

         

 食って、飲んで、喋って、温泉。なんという強欲なジジイたちでしょう。それが深山古寺をもうろついたというお話でした。
 岐阜の中心部の男がひとり、郊外の男がひとり(私です)、各務原から来た男がひとり、そして岡崎から来た男がひとり、それぞれ10代なかばからの付き合いですからなんと60年の付き合いなんですね。
 それで、誰が一番先に逝くかが当然問題。
 最後に残った奴がいちばんたくさん香典を払わねばならないことに。
 私は、貰うのと払うのとが釣り合う真ん中ぐらいに逝こうと考えています。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の履歴書(六)奇妙な空白 八月一五日

2013-02-19 02:57:18 | 想い出を掘り起こす
 8月15日は抜けるような好天でした。
 学校はもう、7月29日の大垣空襲で焼けてなくなっていましたから、おそらく宿題なんてものもろくすっぽなかったと思います。
 空襲の翌日でしたか、燃えた学校を友達と見にゆきました。
 木造平屋建てのの校舎はぺっちゃんこの消し炭になって燻っていました。校庭にあった栴檀の大木のみが人間の愚行を嘲笑するようにそびえていました。この樹以外は全て平面でしたから、否が応でも目立ちました。
 この樹は、敗戦後半世紀以上経過した際に呼ばれた同窓会に行った折も健在でした。

        

  さて、1945(昭和20)年8月15日にいわゆる玉音放送があるわけですが、裸同然で飛び回っていた私たちも、陛下様に失礼があってはと真っ白いシャツに着替えさせられ、母屋のラジオの前に集められました。
 母屋の十人、私たちのような疎開者、それに近所でラジオがない人など総勢20人ほどがチューニングの悪い受像機の前にかしこまって正座していました。

  玉音とやらが始まりましたがあれは日本語ではないですね。方言よりももっと限られた範囲で、主として書き言葉として綴られるものですから、それを音読しても漢文の読み下しよりもさらに難解なのです。いってみれば権威ある者がコケオドシのために使う言語で、それ自身、これは権威であるぞよという以外の意味は一般にはわからないようにできているのです。
 アナウンサーが解説を付したようですが、それもが曖昧模糊でわかりにくく、「よーし、役場で訊いてくる」とかけ出した者もいました。

        

  どうやら負けたんだということが徐々にわかってきたのですが、私には解せませんでした。大本営発表では我が軍は勝利を続けていたはずなのです。相手を押しまくっていたのです。
 それで相手はヤケクソになって日本本土に上陸してくる、そうすると神風が吹きそれを退散させ、運よく上陸した者たちも私たちの待ち伏せにあって全滅する、そして最終的な大勝利、それが私などが大人から聞かされた情報をつなぎあわせて作ったシナリオでした。

  今から考えると、ほとんど息の根が止まっていたところでやっと降伏したのですから、上のシナリオはお笑い草も甚だしいというべきでしょう。しかし、しかしながらですよ、私達子供のみならず、大人たちの多くも上の私のシナリオとさほど違わないところにいたのですよ。
 だから、原爆に竹槍という全くマンガ的な非対称こそが敗戦時の日本の状況だったのです。
 これが不都合な情報は隠蔽され、「大勝利」のみが「なお、当方の損害は軽微なり」という決まり文句とともに伝えられた結果なのです。

        

  ついでながら、私は今、北朝鮮の人たちに同情こそすれ、それを笑うことはできません。
 あれはまさに70年前の日本の姿の相似形なのです。
 昨年、キネ旬で一位になった邦画の『かぞくのくに』は帰国事業で北へ行った兄が一時帰国で日本へ来た際の兄妹を描いた作品でしたが、北の監視員をなじる妹に、その監視員がいった、「でも私たちはそこに住んでいるのですよ」という言葉はとても重く響きました。

  いずれにしても、敗戦を境にいろいろなものがガラガラと崩れ、重しがとれた漬物の樽から這い出たような大人たちの生活が始まりました。天皇に関していえば、昨日まで、「かしこくも」と聞いただけで何をしていても放り出して「気をつけっ」をしていた大人たちが、最初はおずおずと、そして次第に大胆に、「天ちゃん」などとふざけていうようになりました。

        

  その天皇も、東京裁判では被告席はおろか証人席にも立つことなく、戦争責任は一握りの政治家と軍人(A級戦犯7人の処刑)、それにその命令で作戦を実行したばかりに罪に問われたB級、C級戦犯の兵士など(1,000名余の処刑)の責任に帰せられて終わりました。
 「一億総懺悔」などといわれましたが、一億人がちゃんと懺悔をしたわけでは決してありません。この言葉は、戦争に責任があった人も含め、誰もが責任を取らない水増しの論理を表しているに過ぎません。一億全部の責任というと聞こえがいいのですが、逆にいうと誰もが責任を取らなかったということなのです。

  日本人自体の手ですぐる戦争の責任や実態を解明することなく、結局は曖昧に終始した敗戦後の「一億総無責任体制」は、今日の歴史修正主義の源流をなしています。
 私の子供の頃は、戦争帰りが酔っ払って、「俺は支那で○○人のチャンコロの首を跳ねてやった」とか、軍から支給された通称・鉄兜(コンドーム)を手に、「突撃」を敢行すべく慰安婦の詰所に並び、「おーい、まだか、あとがつかえてるんだぞ」とおぞましい叫びを上げたとかいったという話は当たり前のように聞くことができました。
 それは決して誇張でなく、日本全国どこででも聞けた話だったのです。
 これらのほとんどが今、そんなことはなかったとか、あるいはあったとしてもそれがどうしたといわれているものです。

        

  今から考えると、敗戦後の日本の無責任体制が私にはよく分かるのですが、いささか話が一般的になりすぎましたので、またまた「私の履歴書」へと話を戻しましょう。

  あ、そうそう。大人たちは変わり身が早かったのですが、私たち子供はそうはゆきません。
 「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチル、チルチル国が散る」などという戯れ歌を敗戦後も唄っていました。すると、「そんな歌は唄っちゃいかん」と慌てて飛んでくるのは、奉安殿に最敬礼しなかったといってビンタをくれたのと同じ先生でした。


<追記>8月15日を境にして起こった一番大きな変化は、空襲がなくなり、毎晩防空壕に飛び込まなくても良くなったことです。
 にも関わらず、日本軍には16日、17日などの戦死者がいます。
 そのほとんどが、敗戦を信ずることなく、あるいはそれに敢えて抗して、兵士に無謀な出撃命令を出した前線の指揮官によって引き起こされたものです。
 やっと戦火から開放されたというのに、「天皇陛下バンザイ」と圧倒的な火器の前に、ほとんど裸でその身を晒し死んでいった兵士たち・・・・。嗚呼!

 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日間賀島でのお弔いの一部

2013-02-18 18:11:56 | よしなしごと
 
     
    港に集まった島の人々 最後は遺骨とともに降り立つ親族の方々

 知多半島の先端、日間賀島でお弔いの一部を目撃しました。
 島には火葬場はありません。
 ご遺体は知多半島で荼毘に付し、そのお骨を持ち帰ってからお葬式をするのだそうです。
 お骨が還る時間、それを出迎えに三々五々人々が集まって来ました。
 風が強く波の荒い日でしたが、海辺で生きたひとのお弔いにはふさわしいような気がしました。何はともあれ、合掌です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「梅一輪次の一輪なき寒さ」 これが梅まつり?

2013-02-17 03:52:03 | 花便り&花をめぐって
 「4600本の梅林 ひとあし早い春をみつけませんか」というキャッチフレーズにつられて、今日から梅まつりという知多市の「佐布里池梅林」へわざわざ岐阜からとある団体でバスをチャーターし観梅に行きました。

 

 今日が初日とあって、開催式があり、地元のエライさんが地域活性化が云々という挨拶をするなどのセレモニーがありました。
 で、入園しあちこち回ったのですが梅は固い蕾のままです。何処かに早咲きのものがあるはずだと探したのですがそれらしいものもありません。みんな固い蕾のままです。

 みんな岐阜から行った人で、南の知多なら咲いているかもと期待をしていっただけに怒りだすひともいました。岐阜にも結構規模の大きい梅林公園というところがあり、そこの梅は種類が多様なので、もう咲いている梅も結構あり、それを巡るだけで観梅ができるのです。
 それに比べてここの梅は、観梅ではなく「完敗」です。

 

 やはりこれは詐欺のようなものです。梅林と名をうち、外部の観光客を迎え入れるなら、当然早咲きのものも用意すべきです。
 それができないのなら、梅祭りの開催を遅らすべきです。
 入園料がないからいいものも、有料なら「料金を返せ」というところです。

 時々、風花が散る寒さの中、私たちは不平ブウブウ、早々とバスに戻ったのでした。
 幸い、私は咲いている一輪をみつけました。それが最初の写真です。
 バスに戻ってからそれをいうと、「え、咲いてた?」とみんなに羨ましがられました。

 

 「梅一輪一輪ごとの暖かさ」という服部嵐雪の句がありますが、私たちが経験したのは「梅一輪次の一輪なき寒さ」でした。
 もう岐阜の人は二度とあそこへはゆかないでしょうね。
 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

虎との対話は可能なのか? アン・リー『ライフ・オブ・パイ』を観る

2013-02-15 03:04:28 | 映画評論
 最初、新聞やTVなどで宣伝を見た時、いわゆるキワモノ映画の一種かと思いました。
 だってそうでしょう、虎と少年がひとつのボートに乗って漂流するという話ですから、なんとなく見せ所も含めて読めてしまうような気がするじゃぁありませんか。

             

 しかし、詳細を見るとどうも様子が違うようです。
 原作はカナダ人作家のヤン・マーテルが2001年に発表し、ブッカー賞(その年で最も優れた英語圏の長編小説に与えられる。日本人のカズオ・イシグロもかつて受賞)を受賞した世界的ベストセラー小説『パイの物語』だというのです。しかし、私の食指を動かしたのはそればかりではありません。
 
 監督の名前を見てこれはと思いました。かつて私が感動した映画『ブロークバック・マウンテン』や『ラスト・コーション』のアン・リー(李安)監督の映画なのです。
 折しも、ネットで知り合ったひと(一度、一緒に飲んだいい思い出があります)がこれを原語で読み、かつ翻訳で読み、そして映画も観たといっていました。しかもそれらの経緯は、このひとの淋しい思い出を伴うものでもありました。

 これだけ要件が揃えば食指どころではありません。もう観るっきゃないでしょう。
 で、観にゆきました。
 岐阜市の映画館では私の都合のつく時間帯と外れていましたので郊外まで車を飛ばしました。
 料金を払うという段で、一悶着がありました。
 もう400円よこせといいます。
 なんと私が観に行った回は3D上映で眼鏡などの追加料金が要るというのです。
 私はそんなものは要らないからといったのですが、眼鏡がないと映像がぶれて見えますよとのことで仕方なくそれを払いました。

          

 『アバター』を観たことがあるのですが、3Dが映画の将来に何をもたらすのかは今のところ私にとっては不確定です。
 家のなかの廊下の、ただかすかにカーテンが揺れるだけという小津のモノクロの場面(これはいろんな映画で多用されています)の奥行きの感覚や、ロー・アングルでの人物のまさに立体感は、人工的な虚像ではないにもかかわらずそれ自体でリアルなのです。

 しかし、トーキーやカラーが映画の様々な可能性を広げてきたように、3Dがそうならないとはいえないでしょうね。現実に、蝶々や鳥が、私の顔の前まで飛んでくるのは楽しいものです。
 この件については保留です。
 もし、まだ生きていたら30年後ぐらいにその正否について書きましょう。

          

 で、映画ですが、CMなどで報じられているように、船が難破し、少年と虎とが同じボートで漂流する物語です。
 それが227日に及ぶというのですから驚異というか、もともとフィクションであるとしたらなぜこの日数か、ちょっと長すぎないかという気もしますがそれはまあいいでしょう。
 この映画の核心はコミュニケーションの可能性と不可能性ではないかと思いました。
 何をまた小賢しい理屈をくっつけているのかと言われるかもしれませんが、主人公の少年そのものが、「どうやってコミュニケーションをとればいいのだ」と映画のなかで現実にいっているのです。

 私たちは虎との間に共通するコードをもっていません。したがって、虎と会話をすることはできないのです。
 動物学者は、虎の鳴き声や仕草を解析し、これこれの場合はこう訴えているというかもしれません。しかし、彼らは虎の檻のなかで虎と会話などできないのです。

          

 少年は虎とのコミュニケーションに成功したのでしょうか。
 ある種の棲み分けが可能になったのは事実でしょう。しかし、一番大きいのは喰うか喰われるかの関係から共に喰うという連帯が生じたことかも知れません。
 映画では明示されてはいませんが、彼以外の者はすべてこの虎に喰われています。したがってこの、ともに喰うという関係も双方向ではなく、彼が虎の食い物を必死で調達することによって成立しているといわざるを得ません。

 この虎(リチャード・パーカーという名前です)がどこまでその関係がわかっていたかということは、私たちにも、そしてその少年にもわかりません。
 この映画が、一般的な臭い「愛情物語」に終わっていないのは、このわからなさをそのまま保持しているからではないでしょうか。少年そのものが、リチャード・パーカーとの間にある種の幻想を持っています。ですから、別れの時、リチャードが彼の方を振り向いてくれることを期待するのです。
 しかし、結果は彼の期待を裏切ります。そしてそれが真実なのです。それはまさに、私たちが安易に使う「他者の他者性」のリアルなありようなのです。

          

 では、言語やその他の共通するコードがあればコミュニケーションは可能になるのでしょうか。
 それは、船舶事故に関わる日本の保険会社の調査員(二人)が少年に証言を求める場面で明確になります。
 少年も調査員も、堪能に英語を操るという意味で共通のコードを持っています。
 しかし、日本の調査員たちは少年の語るリチャードとの漂流を全く理解できないのです。
 ようするに、外在的な共通コードを持っていても、コミュニケーションは不全に陥ることがあるのです。

          

 そうすると私たちは、少年とリチャードとの、通じたか通じなかったかが定かではない関係でのコミュニケーションへと引き戻されます。
 そしてそれでいいのです。
 リチャードが振り向かなかったところにこの映画の強度が凝縮されていて、コミュニケーションの可能性と不可能性とがまさに具体的に提示されているのです。
 繰り返しますが、それが真実なのです。
 そしてそれが、この映画を「冒険と愛情の物語」という薄っぺらさから救っているのだと思いました。

 私一流の屁理屈はともかく、面白かったですよ。
 お勧めです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東條由布子さんの死

2013-02-15 02:36:23 | ひとを弔う
       

 一昨日、東条英機の孫、東條由布子さん(1939年5月20日~)が亡くなられたそうです。
 実際には東條姓ではないにもかかわらず、祖父を敬愛するあまりその姓を名乗り続け、祖父の業績を正当化するために修正史観を広めるイデオローグとして機能し続けました。
 そのありようは、彼女の父であり、英機の子息であった英隆氏が、その父に対してきわめて批判的であったのとは対照的でした。

 しかし、彼女にも哀しい側面があり、小学生の頃、英機の孫であるというのみで黒板の前に立たされ、教師や同級生たちからいわれなき罵倒を受けたことがあったそうです。
 もともと個別であるひとを、ある範疇へと還元し(例えば、右翼、左翼などなど)、これをいっぱひとからげに規定し、その上に立って抑圧や差別を加えるという日本人の習性が、幼い彼女をどれほど理不尽に傷つけたかと思うと不憫でなりません。

 長じて彼女が喧伝して歩いた修正史観や旧体制賛美のイデオロギーには全くもって賛成はできませんでしたが、あの東条英機の孫に生まれ合わせたばかりに歴史の波間に揉まれ、戦後の激動期を(私などと)共に生きてきたひとりの人間として、彼女の死を悼みたいと思います。    合掌


<付記>私は国民学校一年生の折、「何になりたいか」という問いに「東条英機のような偉い大将になりたい」というと大人たちが「お前は偉い」と褒めてくれたことを覚えています。もちろん、敗戦前です。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする