六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

戦禍から蘇った岐阜駅の思い出など

2012-10-29 02:09:27 | インポート
 名古屋へいったある日、行きと帰りに撮った岐阜駅近辺の写真です。
 最後の写真は1945年7月9日、岐阜大空襲の翌日のものです。

     
          軒下のデコレーション・フラッグ なぜかうさぎが首を吊って(?)いた

 この空襲からしばらくして鉄道が回復してから、疎開先の大垣から家のあった岐阜の様子を見に母親と訪れました。
 鉄筋コンクリートの旧丸物百貨店などのほかは、木と紙と土で出来た建物は全て焼かれ、いまでは絶対に見えない2km離れた長良川の堤防まで見通すことができました。
 灰燼に帰すとはまさにこのことでしょう。

 
          遠足の子らの賑やかなさえずり 週末のイベントの準備も進んでいた

 その折りに比べると岐阜駅は本当に立派になりました。
 何年かかけた改修が終わり心地よい環境になったといえます。

 
            バス・ターミナルにて 迫力ある織田信長のイラストも

 私よりも年上で、イケイケドンドンで近隣諸国との戦火も厭わないという人がいます。
 その人が、混迷する政局の中で、いわゆる第三極の要になることを目指し、東京五輪も何百億の赤字にあえぐ東京都銀も放り投げて国政に乗り出すといっています。

 
          気分はもう年末 大階段のイルミネーション 通行人はその両側を通る

 率直に言って怖いと思います。
 あれから70年近く、近代兵器はより一層残虐になっています。核兵器もあります。
 イケイケドンドンが実現して、生涯で二度目の戦争を経験したくはありません。

 
           爆撃後の岐阜駅 車両も燃えている 焼け野原となった中心街

 岐阜駅が再び、かつてのように多くの兵士を送り出す場となりませんよう、また攻撃対象として私の好きな鉄道や施設がずたずたに破壊されたりしませんよう願っています。
 そしてそこが地方都市の顔として平和な佇まいのままでいられますよう、遠足の子どもたちの嬌声が響く場で在り続けますよう、市民のためのさまざまな催しの場であり続けますよう祈るばかりです。

   

 

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「高原の歌」・・・どれだけ知っていますか?

2012-10-27 17:40:22 | よしなしごと
 私のように平地に這いつくばって生きていると、高原というのはなにがしかの憧憬やロマンとともに思い起こされる言葉です。
 そこには特別な空気が佇み、特別は時間が流れ、そして特別な人たちがいる・・・、この歳になってもふとそんな感じを抱いてしまうのです。

 しかし、どうもそれは私ばかりではなく、主に都会住まいの人たちにも共通した思いがあるようで、いわゆる歌謡曲の中でも、雨や霧や北というほどの頻度ではないにしろ高原と名のつくものがいくつか出てきます。
 ざっと検索して以下のようなものを見つけました。

 

 しかし、しかしです。以下は新しい順に並べてみたのですが、その最新のものが1955年(昭和30年)とは・・・・、やはり高原への憧憬は私のような古い人間にみられる年代的な現象なのかも知れません。
 そしてこの4っつの歌、はじめの3っつについては、つっかえながらでもカラオケで歌えてしまうのです。
 さすがに最後の戦前の歌(「高原の旅愁」1940年)は歌えるところまで行きませんが、その唄があったことは知っていますし、そして聴いてみるとやはり聴き覚えがあるのです。

 4曲のうち、3っつはどこか悲恋や哀愁を思わせるのですが「高原列車は行く」(1954年)は底抜けに明るい歌です。そしてこの唄は、その後数年してはやり始めた歌声喫茶のお決まりのレパートリーでもありました。
 サヨク気取りの若い男女が、ロシア民謡などとともにこれらの「健全な」歌を歌ったのです。
 やがてそれらも、迫り来る60年安保の荒波の中でいろいろな曲折を経ることになるのですが・・・。

 写真はそうした古~いお話とは関係なく、21世紀の、今年の高原風景です。

 

?高原の宿
作詞:高橋掬太郎、作曲・唄:林 伊佐緒
 1955年(昭和30年)

1 都おもえば日暮の星も?  胸にしみるよ眼にしみる?  ああ高原の旅に来て?  
  一人しみじみ 一人しみじみ?  君呼ぶこころ
2 風にもだえて夜露に濡れて?  丘のりんどう何なげく?  ああ高原の宿にみる?  
  夢ははるかよ 夢ははるかよ?  おもかげ恋し
3 昏(く)れる山脈(やまなみ)哀しく遠く?  涙うかぶよ旅の身は?  
  ああ高原の 夜となれば ?  
  ともすランプも ともすランプも?  せつないこころ
 
?高原列車は行く
【作詞】丘 灯至夫【作曲】古関 裕而 【唄】岡本敦郎
  1954年(昭和29年) 
 
1.汽車の窓からハンケチ振れば?  牧場の乙女が花束なげる?  明るい青空 白樺林?   山越え谷越え はるばると?  ララ・・ ララ・・・・・・・?  
  高原列車は ララ・・・ 行くよ??
2.みどりの谷間に山百合ゆれて?  歌声ひびくよ観光バスよ?  君らの泊まりも 
  いで湯の宿か?  山越え谷越え はるばると?  ララ・・ ララ・・・・・・・? 
  高原列車は ララ・・・ 行くよ??
3.峠を越えれば夢みるような?  五色のみずうみ飛び交う小鳥?  汽笛も二人の 
  幸せうたう?  山越え谷越え はるばると?  ララ・・ ララ・・・・・・・? 
  高原列車は ララ・・・ 行くよ

 

?高原の駅よさようなら
作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一、唄:小畑 実
 1951年(昭和26年)

1 しばし別れの夜汽車の窓よ?  云わず語らずに心とこころ?  
  またの逢う日を目と目で誓い?  涙見せずにさようなら
2 旅のおひとと恨までおくれ?  二人抱(いだ)いて眺めた月を?  
  離れはなれて相呼ぶ夜は?  男涙でくもらせる
3 わかりましたわ わかってくれた?  あとは云うまい聞かずにおくれ?  
  想い切なく手に手をとれば?  笛がひびくよ 高原の駅

 

?高原の旅愁
作詞:関沢潤一郎、作曲:八洲秀章、唄:伊藤久男
 1940年(昭和15年)

1 むかしの夢の 懐かしく?  訪ね来たりし 信濃路の?  
  山よ小川よ また森よ?  姿むかしの ままなれど?  
  なぜにかの君 影もなし??
2 乙女の胸に 忍び寄る?  啼(な)いて淋しき 閑古鳥(かんこどり)? 
  君の声かと 立ち寄れば?  消えて冷たく 岩蔭に?  
  清水ほろほろ 湧くばかり??
3 過ぎにし夢と 思いつつ?  山路下れば さやさやと?  
  峠吹き来る 山の風?  胸に優しく 懐かしく?  
  明日の希望を 囁(ささや)くよ

   http://www.youtube.com/watch?v=LNA6tsK9JmI&feature=related




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中国山西省での日本軍

2012-10-23 15:19:38 | 歴史を考える
      

 以下は中国に在住している私の友人の記事につけたコメントですが、若い人たちにも読んでいただきたいため、ここに転載します。
 コメントという性質上、前後関係はわかりにくいと思いますが、大意はご了承いただけると思います。

            ==========================

 1938年!私が生まれた年です。
 その前年、1937年頃、確かに大陸での戦いが激しくなり、日本人の戦死者も急増しています。15年戦争全体での日本軍兵士の戦死者は230万人に及びますが、その内75万人が中国での戦死です。

 それらが1937年頃に急増したひとつの傍証は、川柳界の小林多喜二と言われ、やはり29歳で獄中死した鶴彬という川柳作家の作品にあります。
 彼は、農村の人身売買、女工哀史、労働者への弾圧など幅広い題材を川柳に詠み、もちろん戦争についても詠むわけですが、それが1937年にいたって急速に戦争に触れた作品が多くなるのです。
 この折はまだ真珠湾攻撃以前ですから、戦争といえばまず中国大陸のそれです。


 出征のあとに食へない老夫婦
 武装のアゴヒモは葬列のやうに歌がない
 ざん壕で読む妹を売る手紙
 タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
 稼ぎ手を殺してならぬ千人針
 高梁(コーリャン)の実りへ戦車と靴の鋲
 屍のゐないニュース映画で勇ましい
 出征の門標があってがらんどうの小店
 万歳とあげて行った手を大陸において来た
 手と足をもいだ丸太にしてかへし
 胎内の動きを知るころ骨がつき

 これらが彼が戦争を題材とした句なのですが、このうちの「タマ除けを・・・」以下の句が37年のものです。
 そして、「手と足を・・・」の句が治安維持法に違反するとして検挙され、翌38年に獄中死をしています。

 中国戦線が国共の抵抗にあって思ったように進まぬ軍部のいらだちを、鶴の川柳がズバリ突いたので怒り狂ったのでしょうね。

 なおこれらの資料を確認している過程で、敗戦時、関東軍と国民党軍が取引をし、数千名の日本軍兵士を国民党軍に編入して(八路軍と戦わせるために)残留させた結果、これらの兵士が帰国しても「勝手な戦線離脱」とされて軍人恩給の対象外とされたいわゆる「蟻の兵隊」事件の舞台が山西省であることを改めて知りました。
 それら日本人残留兵士の痕跡については何かお聞きになったことはありますか。
 やはりそこは、八路軍と対峙していただけに最前線だったのですね。

 長くなりましたが、文革や天安門事件は中国の人にとって、なかなか語りづらいものがあるようですね。
 私の店にバイトでいた聡明な中国人留学生も、私の立ち位置をある程度了解していたものの、その双方については多くを語りたがらないようでした。
 同胞相討つですから近代以降、内戦を経験したことのない日本人にはわからない重さがあるのだと思います。

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【どうでもいいこと】淋しい掲示板

2012-10-21 23:03:23 | インポート
      

 ご覧のように、なんの掲示もありません。
 いつもはこんなことではないと思うのですが、いくぶん気になります。

 設置してある場所があまり人通りがないところなのです。
 地域の鎮守様の前なのですが、通りかかるのは一日、ン百人、たぶん3百人以下だと思います。

 前には、近くのお寺の報恩講のお知らせなどが貼ってあって、政教分離から観てどうなのかなと思ったこともあります。まあ、地域のことですからいちいち目くじらを立てることはないのですが、自治体によっては、「政治的・宗教的な内容のものや営業、営利的なものなどについては使用できません」という項目を設けているところもあるようです。

 それはともかく、管理維持などはどうなっているのでしょう。
 たぶん税金で賄われているのでしょうね。

 もし何かが貼られているとしても、回覧板といっしょについてくる「広報ぎふ」という冊子とほぼ重複しているようなので、必要性があるかどうかも問題になるでしょうね。
 一方、都市郊外の片田舎とはいえ、アパートやマンションが増え、自治会に入っていない人には回覧板などが行かないとも聞きますから、こうした設備も必要かもしれません。
 しかし、そうした人たちが昼なお淋しげなここまで、わざわざそれを見に来るでしょうか。

 などと、どうでもいいことを考えてしまうのは年寄りの悪い癖ですね。
 ちなみに、岐阜市のHPで広報板を検索したところ、広報板設置助成事業にかかわる平成20年度の所属長の評価は以下のようになっていました。
 
◆有効性(政策、施策への貢献度)
  大いに貢献している
  地域の広報板として地域コミュニティ、行政の広報の一役を担っている。
◆達成度(成果及び事業効果)
  十分に上がっている
  地域の広報板として地域コミュニティ、行政の広報の一役を担っている。
◆妥当性(実施方法等の妥当性)
  妥当である
  地域の広報板として地域コミュニティ、行政の広報の一役を担っている。
◆総合評価
  現状で継続する
  地域の広報板として地域コミュニティ、行政の広報の一役を担っている。


 
 4項目の評価内容の文章が一言一句同じなのはやはりお役所の作文だなぁという気がします。
 今後も前を通りかかった折には、広報板ウオッチングをしてみようと思います。

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イヌワシの伊吹山、長浜、大垣、そして沖縄

2012-10-20 01:18:57 | よしなしごと
 ちょうどこの辺りかなと思う箇所に差しかかると、山の稜線の切れ目のようなところからドライアイスの煙を吹き付けるようにして白い塊が降りてきた。
 「あっ、ガスだ」と、これまでプラス思考でつないできた望みが萎えそうになる。
 しかしそう簡単に諦めるわけにはゆかない。

 伊吹山ドライブウエイ入り口ゲートの人が親切に教えてくれるには、山頂付近はガスがかかっているがイヌワシの棲息地付近(それがどの付近かも教えてくれた)はひょっとしたら大丈夫かもしれない、しかし山の天気は変わりやすいから、とのことだった。そして先行しているバーダーがいるからその人から情報をもらったらと親切にアドヴァイスしてくれた。
 
 急いだ。といっても上りの山岳道路、そんなに飛ばすことは出来ない。
 その結果が冒頭のシーンだ。
 先行するバーダーはたしかにいた。
 もう何度もここに足を運んでいるという人で、やはり今日は難しそうだという。
 車のナンバーを見ると「愛 ****」(「愛」は愛知)となっていてもう何十年か前の車を大事にして乗っているいい意味でのマニアックな人のようだ。


     ここも目撃地点のひとつ 上がぼけているのは降下しつつあるガスのせい

 本当ならあのあたりに巣があって飛び立つはずだがと指さして教えてくれた場所も、どんどんガスの中で薄れてゆく。ガスに追われるようにさらに下のポイントへ移動するその人のあとを私たちも追った。
 そしてその人が教えてくれる過去の目撃情報などを頼りにじっと目を凝らしたがそれらしいものは見えない。
 こうして三箇所ほどのポイントでしばらく様子を見たがいずれも成果はない。
 そうするうちにもどんどんガスが降りてきてそれとともに気温が急降下する。
 ほとんど冬仕立てのような厚手の服装をしていても、山の冷気が身にしみる。

 やはり諦めざるをえないようだ。
 私は案内役でしかもこうして場所がわかった以上今後ということもあるが、同行した彼女はわざわざ沖縄からの来訪(正確にはイギリス、福島経由)で、再訪の機会は少ないだろうからさぞかし残念だろうと思う。
 この日程の設定が9月初めで、極めて漠然とした中で行ったとはいえ、彼女にはまことに申し訳ないことをした。もう一日前に設定しておけば快晴でイヌワシに出会える可能性はうんと高かったのにと悔やまれる。


         風雨にさざめく琵琶湖の湖面と長浜の郷土料理・のっぺいうどん

 麓へ降り、琵琶湖を見に長浜方面に向かう。
 折からの悪天候で、琵琶湖の水面もいつもとは表情が違い、まるで海面のように騒がしくなっていた。
 そんななか、トレッキングのグループ二組に遭う。いずれも中高年で女性が多い。みんな元気だ。

 長浜の街に入る。いつも感心するのだが、小奇麗な商店街が今なお生きている。
 昼食時をやや過ぎていたので、この地方の郷土料理「のっぺいうどん」を食べる。
 基本としてはあんかけうどんにおろしショウガを添えたもので、具は北陸に近いせいか真ん中に穴が開いた車麩とかまぼこ、それに厚手の戻しシイタケ、さらにインゲンや湯葉などがあしらわれていた。
 山で寒い目に遭い、そぼ降る雨の中を歩いてきた身には暖かさが何よりもごちそうで、あんかけと生姜という最強のコンビは身も心も温めてくれた。

 街を散策する。街並み規制をしているのだろうが、昔ながらの佇まいが訪れる者を柔らかく迎えてくれる。街を流れる疎水もどこか琵琶湖の臭いがするようだ。


          左は琵琶湖に通じる長浜の疎水 右は大垣市船町の川港

 大垣へ移動する。
 奥の細道むすびの地を訪れる。
 いまとなっては珍しくなった川燈台・住吉燈台のあたりに「奥の細道終章の碑」があり、結びの文章に「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」の句が添えられている。
 あいにくの雨水で川面に濁りはあったが、和船が一艘繋留されているのはなかなかの風情であった。
 芭蕉がこの地を去ったのが旧暦の長月六日というから、新暦にすればちょうど今頃、タイミングのいい訪問ではあった。

    
           川燈台の住吉燈台と「奥の細道」終章を記した石碑

 岐阜へ戻り夕食を共にする。
 話題としてはやはりオスプレイやこの間に起きた強姦事件を避けるわけにはゆかない。
 政府や公筋は、そして国民のある部分も含んでだが、「まことに遺憾」を繰り返しながらも沖縄の基地の現状を改めようとは決してしない。そればかりか、心ない連中の「そんなこといったって、オメエら基地で食ってるんだろう」という悪口雑言もあるようだ。

 彼女はいう。それをいうのだったらそれ以前に、自分の娘、自分の恋人、自分の家族がそんな目に遭った時、安全保障のためにはやむをえないと言い切れるかどうかを考えて欲しいと。
 一日の締めの夕餉にはふさわしくない話題かもしれないが、それもほんの一部、あとは酒肴を満喫しながら談笑し、名古屋に宿をとっている彼女と雨の岐阜駅で別れた。

 翌日、台風の影響でフライトへの影響が懸念されたが、無事、帰沖出来たとのメールが入った。
 イヌワシを見ることは出来なかったのはまことに申し訳なかったが、それなりに親交を温めることが出来たと思う。



【追記】ネットには左翼と思しき人の沖縄強姦事件への言及があり、世界情勢から説き起こして自説が延々と述べられていた。オイオイ、あんたもこの事件を「政治的に利用」しているだけではないのかいと思ってしまう。やはり、「自分の娘、自分の恋人、自分の家族がそんな目に遭う」かも知れぬというところから出発しない限り、沖縄で起こりつつあることは政治的エピソードに解消されてしまうのではないだろうか。

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稲刈るころの感傷

2012-10-18 16:56:24 | 写真とおしゃべり
  

 私の近くでは、先週末ぐらいでほとんどの田の収穫が終わった。
 ただし、昨日通りかかった大垣を中心とした西濃付近では、まだ刈り入れをしていない田の方が多いようであった。おそらく今週末ぐらいから一斉に始まるのだろう。

  

 この間も書いたが、稲を刈ったばかりの田には独特の芳香が漂う。その香の説明は私の筆の能力に余るが、早苗を田に差し込む時のあの匂いとも、青田を渡る風の匂いとも、そしてまた、新米として食卓にのぼる折の匂いとも違う独特の芳香である。強いていうなら、稲という草が大地から切断される際に放つ残り香というほかはない。
 だからその香はとてもはかない。刈った瞬間としばらくの間は強く鼻孔を刺激するが、翌日にはもうその香の大半は失せてしまっている。

  

 こうして田は、約半年の休養に入る。
 来春、再び田が早苗で賑わう頃が待ち遠しいが、反面、これっきりで田としての機能を終えるところもまた出てくるだろう。
 律令以来と云われるこの地の田が、目の前で消滅してゆくのは淋しい。
 これはどこか、商店街がシャッター通りになるのを目撃することに通じるのかもしれない。

  

 田から稲の匂いが消えるのを追っかけるように、金木犀の匂いが漂いはじめた。
 

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【読書】水村美苗『日本語が亡びるとき』

2012-10-15 03:05:26 | 書評
       

 サブタイトルに「英語の世紀の中で」とあるのでインターネットの時代、英語が「普遍語」となり、「日本語は滅んでしまうぞよ」と受け取られかねないが、そうした時代背景を強烈に意識しているとはいえ、決してそうした主旨ではない。
 ましてや、「これからは英語を学びましょう」といったことでもない。
 むしろその真逆で、「読まれるべき言葉」としての日本語を慈しみ、いまあらためてそれを選びなおすべきだというのがその主張である。

 これは私自身の反省であるが、言葉というものが単に指示対象を指し示す道具のようなものではないこと、あるいはソシュール流にいうと「否定的な差異の体系」でしかないことは知っていたし、また、ヴィトゲンシュタイン流に「言葉とはその使用」であるということも一応知ってはいたが、そうした言語論一般の範囲にとどまっていて、日本語そのものについて内在的に考えて見ることはあまりしたことがない。

 水村が文中で、「まもなく死んでゆく老人にとっては日本語の将来など・・・」といった意味のことをいっていたが、さしずめ私なんかもその部類かもしれないとはいえ、反面、「オイオイ、そんなに簡単に切り捨てないでくれ」という気持ちもある。
 考えてみれば、平均的日本人のなかでは、いろいろなところに日本語を書き散らしてきた方だといえる。
 それだけに、「あとは野となれ山となれ」では済まない面もある。

 さて、本書に戻ろう。
 古くは中国語という東アジアを席巻した「普遍語」の傍らにあり、しかもその文字を漢字から借り受けた日本語が、にも関わらずその独自性を保ち、「漢字かな混じり」という独自の表記を生み出し「日本語」として存続し続けたこと、しかもそれを駆使して「文学」、とりわけ「日本近代文学」という豊かさを生み出したことを彼女は「奇跡」として高く評価する。

 しかし、それらはすんなりと今日に至ったのではなく、すでに述べた中国語との関係、そして明治維新の開国に伴う共通語の模索、さらには第二次世界大戦敗戦時の日本語見直し論などの過程で様々に揺れ動いたことを彼女は克明に追跡する。
 そのなかには、島崎藤村の「フランス語」への移行という今から考えるとトンデモ主張でしかないもの(藤村自身がフランス語を解しなかったというからよけいおかしい)から、表記をすべてローマ字にするというもの、あるいは漢字をすべて廃止するという動きなどさまざまな動揺があったようだ。

 とくに、この最後に述べた戦後の漢字廃止論はかなり現実性を持っていたようで、「当用漢字」というのが将来の漢字全面廃止を前提にした「当面はこれだけは用いよう」という主旨で制定されたというのは目から鱗であった。
 しかし、それは実際の日本語使用者たちの実践活動の中で、役人の机上の空論に終わったのは幸せだったと彼女はいう。
 かくして日本語は、彼女にいわせれば「表音式かなづかい」という改悪(おかげで若い人達はもはや戦前の文学作品などを原文では読めなくなっている)はあったもののなんとかその形を保ったのであった。

 さて、先にみたインターネット時代の英語の「普遍語」化の中で、わが日本語も呑み込まれてゆくのではという懸念に対し、彼女の立場は明快である。
 ようするに科学技術や理論などの「叡智を求める人」たちには普遍語としての英語は必須になるだろう、それは例えば数学がほとんど各言語の干渉なしに普遍的に成立するようなものだという。
 
 しかしそうした叡智の言葉と違って、つまりテキスト・ブックによって学習するものと違って、「読まれるべき言葉」つまり日本の文学作品などは「私達の言葉」である「日本語」で読むほかはないという。
 それは厳密に言うところの文学の翻訳不可能性にもよる。たとえば、北原白秋の文語調で書かれた詩は、英語への翻訳は不可能なのだ。英語圏の人でその詩を味わう人はやはり日本語を通じてよりほかはないのだ。
 「ふらんす」「フランス」「仏蘭西」という視覚上の違い自身がしばしば意味内容の違いをも含意することもある。

 だから結論としては、英語が普遍語化する中で、「読まれるべき言葉」を読もうとする者は一層日本語に習熟しなければならないし、そのために日本語教育を充実させねばならないということになる。
 その意味では日本人は日本語を大切にしなかったという。それは皮肉にも、ほかの言語の干渉によって邪魔されることなく稀有な国語としての日本語を成立させ、維持してきた島国という環境そのものが、逆に多言語との軋轢の中で自分たちの言語を守ってゆこうとする意志を成立させなかったからだという。
 しかし、これからはそんなわけにはゆかないということである。

 以上のような論旨だが、それらが実に豊富な資料をもとに展開されている。とりわけ彼女の得意分野である漱石の『三四郎』を中心としたテキスト解釈には力がある。
 なお、彼女の言葉に強い説得力があるのは、それが「日本中心主義」的な動機から述べられているのではなく、彼女自身がバイリンガルというか日英仏のマルチリンガルであり、世界的な視野から日本語を逆照射しているところに負うところが多い。


 上記本文中、「フランス語を国語に」と主張したのを島崎藤村と書きましたが、これは誤りで、事実は志賀直哉が1946年に雑誌『改造』誌上で主張したものでした。ここに謹んで訂正いたします。
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ノーベル文学賞と映画

2012-10-12 17:04:37 | アート
 以下は私の友人のブログにコメントとしてつけたものですが、こちらへも転載させて頂きます。

           

 ノーベル文学賞は中国の莫言氏に決まりましたね。
 しかし、その略歴を読んで驚きました。なんということでしょう。このひとの原作で映画化されたものを全部観ているのです。「紅いコーリャン」、「至福のとき」はチャン・イーモウ。そして「故郷の香り」は「山の郵便配達」のフォ・ジェンチイ監督によるものでした。
 この最後の作品には香川照之がスナフキンのようなアヒル使いの役で好演していました。

 偶然といえば、昨日読んでいた水村美苗の「日本語が亡びるとき」という本の中に、アメリカのアイオワで開かれたIWPという文学学校のような催しに各国の作家が参加する話があり、そのメンバーのひとりでほとんど英語を話さない中国から来た「田舎のあんちゃん」(水村)が実はカンヌで特別賞をとった「活きる」(監督はチャン・イーモウ)の原作者と知って驚くシーンがあるのですが、それを読んだあとで上の事実を知って私も驚いたわけです。

 もちろん、この「活きる」も観ています。
 いずれも、チャン・イーモウらがハリウッド資本に絡め取られる前の中国映画の良き時代の作品ですね。


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私の休日 映画とコンサートしか能がないのか!?

2012-10-12 16:00:33 | よしなしごと
 写真は直接関係ありません。私の散歩道からです。

 定例の締め切りを済ませた一日、自分で自分にご褒美の休日を与えることにしました。自分で休日を決めるなんて宮仕えの人には決してできないことですね。
 でもその代わり、カレンダーが日曜だろうが休日だろうがやることはやっているのですよ。

 
         ざくろが真っ赤に            赤まんまそのまんま

 断っておきますがカネになるとかならないとかとはまったく関わりがありません。周りの仲間との約束、そして自分との約束です。それが果たせれば少しばかり自由な時間が出来ます。

 まずは映画。評判の良い『最強のふたり』を選びました。
 体の不自由で教養豊かな大富豪が無教養な黒人の介護士を採用し、二人の間に友情が育まれるというシチュエーションはけっこう面白く、とくに黒人のオマール・シーはかっこいいのです。私も黒人になったら、あんなふうに歩いたり行動したいと思いました。

 

 しかし、映画そのものには幾分の物足りなさを感じました。他者の交わりという映画はゴマンとあります。しかし、この映画の他者はもともと他者ではないのです。大富豪が彼を採用した時からすでにしてある種の同一性は担保されたいたのです。ですからあとは、この展開の面白さしかありません。その意味での面白さは十分ありました。

  
             矢印のとおりにゆくとイノシシの首が・・・

 この種の映画では、もう10年以上前に観た『ドライビング Miss デイジー』のほうがはるかにダイナミズムがアリました。
 当初のヘイトにも似た感情が、次第に愛情へと昇華されて行く過程はじつに感動的でした。ここにはまさに他者との出会いがありました。
 ラストシーンがまた素晴らしかったですね。

 
         もう一月半でおせちに使うクワイ畑(左)とレンコン畑(右)
 
 映画のあとはコンサートです。
 N響のコンマス、山口裕之率いる弦楽五重奏団のライブです。
 曲目はモーツァアルトの弦楽五重奏曲、第3番(K515)と第4番(K516)です。
このうち、第4番は「疾走する悲しみ」で有名ですからお聞きになった方も多いと思いますが、弦楽五重奏のライブは意外と少ないのです。

 というのは、弦楽四重奏団というのは世界中にゴマンとあるのですが、固定した五重奏団というのはほとんどないのです。ですから、五重奏を演奏する場合には四重奏団にプラスα(たいていはヴィオラ)を借りてきて演奏するのです。

 
        カラスウリの葉っぱです           小さな社の小さなしめ縄
 
 演奏は楽しかったです。K515は朝からの活動で少し疲れていたせいか眠くなるところがありましたが、好きなK516ではお目めパッチリで、各奏者の弓使いを観ていました。
 コンマスの山口裕之さんの弓使いはさすがですね。上下左右、時としては円を描くようななそれが、えもいわれぬ美しくなめらかな音色を産みだすのです。

 
        稲刈りが済んだ田            マイ・ニュー・ガールフレンズ
 
 その後は演奏者を交えての懇親会。いろいろな話が交錯してけっこう耳学問をしてきました。
 店がお開きになるまで粘って追い出されることに。
 JRでまっすぐに岐阜へ。そして愛用のチャリンコで帰宅。
 秋の夜はけっこう火照った体に気持ちいいものがありました。
 とりわけ、今日、稲を刈ったであろう田の傍らを通ると、えもいわれぬ爽やかな香りが漂っていました。
 この匂いが好きです。しかしその香り、やはりその日のうちでないと翌日にはその大半が失われてしまうのです。

 かくて私の休日は終わったのでした。


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アートでない人が読む『アート・ヒステリー』(大野左紀子)完

2012-10-08 17:04:08 | アート
     

 
 遅々として進みませんでしたが、書評ではなくこの書に触発されて自分のことをいろいろ書いてきたわけですから致し方ないですね。
 いよいよこれで終わりです。
 「第三章 アートは底が抜けた器」が一応終章となっています。
 
  この章では比較的最近のアート・シーンを題材にしながらアートの可能性と不可能性を論じる仕掛けになっているのですが、私があまり好きではないヒロ・ヤマガタについての実情や、私にいわせれば「ハレンチ学園」の延長でしかない村上隆の作品が背後にもっている意義のようなものついては「へぇ、そうだったんだ」と目から鱗のような箇所もあります(まあ、私がそれだけど素人なだけなのですが)。

  もちろんその「目から鱗」は、それでもってアートがわかってしまったということではなく、ますます藪の中なのですが、読み進むうちに例のフロイトの「文明とは性的欲望(リビドー?)の昇華されたものだ」というくだりに差しかかると共に、著者の結論めいたものの輪郭が見え始めます。

  フロイト自身と、フロイトを援用しようとしたアンドレ・ブルトンなどのシュール・リアリズムとの対比がその鍵を提供してくれます。
 フロイトの昇華への欲望は欠落したなにものかへの出会いを求める行為(対象a?)でありながら、しかもそれは常に「出会い損ねる」ものでしかないとされるのに対し、ブルトンらは必死にその出会いを求めるわけです。しかし、彼らもまたその出会いを果たすことができず、その失敗の痕跡こそが作品だというわけです。
 そしてその作品の傍らには相変わらずポッカリと空いた穴が埋められないままに残されます。
 著者はそれをドーナツの穴に例えますが、それはまた、この章のタイトル「底が抜けた」に通じるものでしょう。
 同時に、その穴を埋めるための連綿たるアーティストの作為は、この書のタイトル『アート・ヒステリー』に通じるものだろうとも思います。

  そこで問題は、「他者との出会い」、「他なるものとの出会い」に絞られることになります。
 そしてアートが、それへの意識的、無意識的挑戦であるとしたら、それは何もアートのヒステリックな戦線にとどまることでなくても良いのではないかというのが著者の「アート離れ?」の説明であり(「おわりに」の部分)、同時に本書の結論ともなります。

  ずいぶん頓珍漢な読解ですが、たとえ見当違いでも、多くのものを学ばせてもらったことは事実です。また、「アート」に関する自身の曖昧な概念に多少の整理がついたことも事実です。
 あくまでも全体的にはこの書を肯定しながらですが、それでも気になったことを少し述べてみようと思います。

  それはこの書が著者自身が認める如く、フロイト=ラカンの「エディプス・コンプレックス」に多くの部分を依拠している、というか全体を整理してゆく上での理論的な支柱にしているということです。
 具体的には、父の抑圧としての象徴秩序への従属、あるいは父親殺しなどが、例えば幼児の表現の定型化、「フォルト/ダー」の話、ちゃぶ台返しとしてのパラダイム・チェンジ、アウトサイダー・アートとインサイダー・アート、村上隆の「父殺し」、西洋vs東洋(オリエンタリズム)といったさまざまな例で用いられています。
 それが間違っているということではありません。ただ、それによって整合的に叙述された反面、除外された側面がありはしないかという怖れをもつのです。
 もちろん、門外漢の私がこれと具体的に指摘できるわけではありませんが、アートにはもうひとつの見方もありうるのではという漠然とした思いです。

  実用品にスノビズムが余剰を加味し(それ自身が欠落を埋める行為かもしれません)、それらが自立してアートになる過程があるわけですが、それらを評価する「共通感覚」の役割が「アート」という世界を成立せしめている要因にとって大きいのではないかと思います。
 具体的にはカントの第三批判で述べられている「趣味判断=美的判断」の問題です。周知のようにこれらは第一批判の「真」や第二批判の「善」のように公理的なものからの演繹によっては導き出せない判断です。
 では、何が判断の基準かというと複数の他者との間に成立するまさに「共通感覚」というべきものです。したがって、この共通感覚は当然のこととして「他者」ないしは「複数性」を含むものです。

  もちろんこうした共通感覚はスタティックなものではなく、通時的・共時的に動くものですし、複数の人間の活動によっても左右されるのだろうと思います。
 しかし、この共通感覚も、著者が随所で触れるように市場原理によって覆い尽くされ、「資本主義的」かつ「民主主義的」なものとしてしか機能していないことも事実です。ようするに、自由な人間の共同体における共通感覚の、いわば「疎外態」として現状はあると思うのです。

  だとするならば、「自由な複数者」の「活動」こそが希求されているのであって、もちろんそれはアートであっても、そうではなくとも、あるいは政治であってもいいわけだと思うのです。
 「政治」もまた自由な複数の人間による「美的判断」に近いものたるべきだと考えています。

  なんだかすっかり脱線してしまいましたが、この書で多くのことを学ばせてもらいました。
 もちろんそれは「アート」プロパーの問題をも越えてです。
 さて、もし次に美術館へ足を運ぶとしたら、どんな表情で出かけるべきでしょうか。

  最後にもう一度書名などを。
   大野左紀子 『アート・ヒステリー』(河出書房新社 9月30日初版)











コメント (1)
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