六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

85歳の一人旅 ベルリン・ライプチッヒ・ワルシャワ

2024-07-07 01:04:10 | 旅行

 突然ですが、この8日から18日の間、ベルリン、ライプチヒ、ワルシャワへと旅に出ます。

 ドイツ語で知っているのは、「ダンケ」と「ビッテ」と「ハイル・ヒトラー」ぐらいですがなんとかなるでしょう。

 ポーランド語は、「アンジェ・ワイダ」「ワレサ」「フレデリック・ショパン」という固有名詞しか知りません。

 でもまあ、地球は丸いから、変な飛行物体に乗らない限りその外へ出てしまうことはないでしょう。

 野垂れ死にの可能性はありますが望むところ。曰く、「人間(じんかん)到る処青山有り」です。

          

 などと粋がっていますが、内心は不安で一杯です。なにせこの歳で言葉もわからないま初めてのところへ行くのですから。
 ただし、ドイツ国内については安心しています。なぜなら、今回の旅の一つの目的は、ライプチッヒ在住の旧友に逢いにゆく旅だからです。

 もちろん、彼とはあらかじめ連絡が取れていて、LINEでの通話も可能ですから心強い限りです。もちろん頼りっきりではなく、自分でも努力をしていますよ。旅行社がとってくれたホテルを地図で確認し、周りの様子も確認し、迷子にならないようにしています。

 例えば、ベルリンのホテルの近くの飲食店もチェックしました。市の中心部ではないのですが、驚いたのはホテルから徒歩で行ける範囲に寿司屋が2軒もあります。そのうち、一軒は高級、一軒は手頃とありますが、いずれにしてもドイツへ行ってわざわざ寿司はないでしょう。

 その他はトルコ料理一軒、イタメシ屋一軒、ドイツ料理一軒でいずれもお手頃とあります。やはり郷に入ればでドイツ料理でしょうが、それが駄目だったらイタメシ屋でワインとパスタで済ますつもりです。

 さっぱりわからないのがワルシャワ。ホテルは中央駅近くの一等地ですが、周りの状況がよくわかりません。でもいいのです。ここは旧市街近く、トラムか地下鉄で出かけてこの目で確かめて入店すればいいのです。

 ホテルの近くである必要は全くありません。なんと、ポーランドは、列車も地下鉄もトラムもすべて七〇歳以上は無料なのです。外国人でもパスポートさえ見せればOKです。あ

 ですから、ワルシャワは行きあたりばったりを楽しんできます。絵葉書で見たような景色を確かめに行っても面白くないでしょう。交通費無料はとてもいいのです。間違えてとんでもないところへ行っても、そこの景色を楽しんでまた帰ってくればいいだけなのですから。

 ということで行ってまいります。私の技量で現地からレポートできれば致します。

 
 

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清流長良川の鮎についての物語

2024-07-06 00:59:31 | 社会評論

先日見たTVの釣り番組で長良川鮎釣りをやっていた。ここの鮎は湖産ではなく海産だからいいと言っていた。
どういうことかというと、琵琶湖産の稚鮎を放流したものではなく、中流域などでの産卵によって生まれ稚魚が、一旦海に下り、遡上してきた純天然鮎だというのだ。
これは地元民にとっては嬉しい話だが、その実情を私は知っている!最上流部にまでダムのない長良川ではたしかにその可能性はあり、一部、海産のものもいるだろう。
しかしである、それを阻むグロテスクな産物がデンとして存在するのだ。曰く、長良川河口堰!長良川河口付近でその流れを完全に止めてる。

    

ここで遡上魚のほとんどが阻止される。当局は遡上魚のための魚道をその脇に設置しているというが、幅660mの堰の端に設けられた何mかの魚道に遡上魚が来る確率は極めて低い。
私はその魚道をガラス越しに観察できる箇所で遡上して行く魚をかなりの時間見つめていたが、その数は惨めなほどに少なく、かえってこの河口堰が魚類の遡上をほぼシャットアウトしていることが確認された次第だ。
では、これほどの犠牲を払って、愛知・岐阜・三重の東海3県へ水資源を供給するというその目的は達成されたのだろうか。高度成長の右上がりの図式を単純に延長するという目論見は完全に崩れ、今や、水余りでそれを押し付け合っているのが現状なのだ。
鮎の話に戻ろう。こうした河口堰の存在のもと、長良川全体での稚鮎の放流量は約12t強、その8割は琵琶湖産稚魚、そして2割が県漁協産の人工孵化だそうだ。こうしてみると、本当に海産鮎に行き当たった人は、とても稀だということになる。
なお、長良川の自然を愛する人たちは、この河口堰の一時開門を要求しているが、当局は頑なにこれを拒否している。
最後に、この河口堰付近はかつてはヤマトシジミの絶好の漁場であったが、堰完成後に、それは絶滅し、シジミ漁は廃業を余儀なくされたことを付け加えておこう。

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尾張瀬戸へ行く・最終回 ん〜、飲めなかった!

2024-07-03 17:40:56 | 写真とおしゃべり

 瀬戸についていろいろ書いてきましたが、肝心の街そのものについてはほとんど触れて来ませんでした。
 瀬戸と言えば陶磁器類一般が「瀬戸物」と言われるほど、いわゆる陶器の街として著名ですが、最近それを凌ぐ勢いで瀬戸の街の名前を広めたのに、この町出身の藤井聡太棋士の快挙があります。 私が出かけたのは彼がそのタイトルのひとつを失う前でまだ八冠を保持していましたので、街のあちこちにはそれを誇らしげに告げるポスターや展示がありましたそれらは街角と言わず商店街と言わず公の場所といわず、あちこちで目にしました。

                

        
 瀬戸蔵ミュージアムを出て、あらかじめ調べておいたアーケード付の2つの商店街を回ってみました。ひとつは末広町商店街と言うところで緩やかにカーブをしたその両側の店は、ああ、お定まりのシャッター街で、 平日の午後ではありましたが、私以外に歩いている人はいませんでした。したがって見るべきところもほとんどありません。
 ただひとつかすかな希望を持ったのは写真で見るように、明らかに店舗改装、ないしは新し 店づくりをしているところが一軒見つかったことです。

         

         

 商店街そのものは途中で諦めましたが、そこからややそれたところに面白いものがありました。それはでっかい涅槃像なのですが(涅槃図というのはご承知のようにお釈迦様が亡くなられるた際、その高弟や一般の人々あるいは絵によっては様々な動物たちが横たわるお釈迦様の取り囲んで嘆き悲しむ図)、それがお釈迦様の涅槃像に模した陶器製の 大きな猫によって作られているのです。
 そこに至って初めて私以外の親子連れと出会いました。その軽装ぶりからして地元の人ではないだろうかと思いました。

          

     
 またその涅槃像の置かれた広場の端には 福猫バスと命名されたボンネット型のバスが展示されていましたが、ナンバープレートなども現存のもので、まだ公道上を走ることがあるのではないかと思います。

     
 
          
   本町商店街近くの神社の鳥居 コンクリート製だが根元あたりは陶器 サスガ

 末広町商店街を離れてもう一つの頃は尾張瀬戸駅直結するもう一つのアーケード商店街 本町通りと向かいました。
こちらの商店街は駅と直結するという利点もあってか回転中の店舗数はいささか多いような気がしましたが、しかしここも閉まっている店の方が圧倒的に多い有様です。
 藤井棋士の対局の折など、よくその故郷瀬戸からの中継と言うことで行われる商店街のシャッターにそれを大きな将棋盤に模して行われている対局の場も見ました。しかし、その周りにやはり人影はありません。
 私の他に1人ないしは2人を見かけたでしょうか。そのうちの1人はおそらくキョロキョロとあたりを見回しているその挙動から推察して外部からやってきた観光客だと思われます。

         
     
 そうこうしているうちに夕刻に近づきました。当初の私のブランでは、駅の近くにあるできるだけ瀬戸らしい雰囲気の居酒屋にでも入って、その風情を楽しんでから電車に乗って帰ろうと言うことでした。
 したがって本町商店街をはじめ。それらしい 居酒屋を見つけるための探索でもありました。にもかかわらずそれらしい店がないのです。カフェ風の店は二、三ありましたが、私のようなジジイがはストローで何かを突っついているいう様は頭に描くだけで御免被りたいものです。
 
 居酒屋・居酒屋・居酒屋・・・・ありません。ここでハードルを低くしました 。瀬戸らしい居酒屋と言う条件は諦めて、もうどんな居酒屋でも良い、全国チェーンの居酒屋でも構わない、とにかく歩きまわった疲れを癒しちょっとしたうまいものを肴に一杯やれれば良いと思って探して歩きました。
 この条件ならばどこの駅へ行ってもその駅の近辺には必ずあるはずなんです。にもかかわらず瀬戸駅の周辺にはそれらしいものが見当たらないのです。瀬戸の人たちはアフターファイブの夕べの楽しみ方を知らないのでしょうか。まるで20世紀初めのアメリカの禁酒法時代の街へ迷い込んだようで、正直いっていささか愕然としました。
     
 すっぱりと諦めて重い足取りで瀬戸駅のホームへ立ち折から発車間近の電車に飛び乗りました。結局、私がそれらにありついたのは終点の栄町駅からさほど遠くない地下街の中にある酒津屋と言う居酒屋でした。ここは時折、顔をのぞかせるのです。
  ここは栄町地下街の中でも一番庶民的で飾り気のない店だと思います。板場と若いオネェさん二人で切り回していて、早い、安いという実質本位の店なのです。

 あいにく私が行った時は満席でした。しかし疲れた足を引きずって他の店を探し回るのも億劫でしたので、オネェさんにしばらく待たせて貰っていいかと訊くと、「ウン、すぐ空くから・・・・」との答え。事実五分後には自分の席へ。
 「何にする」「お酒は『可(べし)』。冷でね。それと赤身と〆鯖」「ハ~イ」
 しばらくしてそれらが来る。お酒のグラスは二つで、一つは普通に注いで、もう一杯は半分。「どうしたのこれ?」と私。「待たせたからサービス」と笑顔のオネェさん。ああ、至福!
 あとは串カツと、土佐の「酔鯨」で幕。う~ん満足。オネェさん、ありがとう!

 瀬戸の居酒屋でこんな締めがしたかったのですがそれが叶えわなかったのは残念。

 これでもって7回の瀬戸物語の連載は終わりですが、その最終が瀬戸ではなくて名古屋であった事はちょっと残念です。まぁしかし、瀬戸の商店街のあの衰退を見、そこの人たちが懸命に励んでもでもなおかつ追いつかない状況を見るにつけ、沈んだ気分は避けられませんでした。かつて、商店街活動も経験したことがある私にはとりわけグッと迫るものがありました。
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食の余り物 ある活用物語

2024-07-02 16:20:29 | グルメ

 実質一人暮らしで食事も作っているので、食べ切れないで余る場合が多い。
 ただし、子どもの頃疎開先の祖母から、「一粒の米でも八十八の手がかかっているのだから」と、床にこぼした飯粒一つでも拾って食べるよう厳しくしつけられたこともあって、それらを無駄にしないことを心がけている。

      

 上の写真はある日の夕餉である。いんげんの煮付けに人参(薄味で煮付け少々のバター味)、キャベツ千切りの湯煎に豚バラ細切れソティを合わせた温サラダ風、そしてナス煮物(仕上げに少々の味噌風味)といった野菜中心。
 これでもかなり余った。

      

 この写真はそれらの余りものを具に、ボロニアソーセージと葱小口切りを加えた翌日の昼の冷やしうどん。具も冷蔵庫で冷やしたままだから、前日の味とはまた違った食感で、冷たい皿うどん風との相性も悪くない。

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尾張瀬戸へ行く・6 瀬戸電に乗ってやがて80年

2024-07-02 00:57:07 | 想い出を掘り起こす

 瀬戸への小旅行について書くつもりだったのですが、つい私の生まれた一族の物語になってしまいました。一族といっても、その出発点において、外部へ出された姉と私にとっては、あくまでも外部から観覧すると言う類のものでした。私たちの生活は、その一族とは離れたところで、既にそれぞれが新しい家族の中で過ごし、それなりの歴史を作り上げていたからです。
 ですから、この物語はこの辺で切り上げ、肝心の瀬戸について書くことにします。

           
      以下、5枚の写真はいずれも瀬戸蔵ミュージアムでの瀬戸電関連の写真

 足を運んだ瀬戸蔵ミュージアムについては、館内の写真などを既に何枚も載せてきましたが、ここの展示物のひとつのみものは、現在の名鉄瀬戸線、かつてのいわゆる瀬戸電についての歴史を垣間見ることができることでもあります。まずミュージアムの入り口には、瀬戸電といわれた頃の車両が展示され、しかもその車両は、現在の駅舎になる前の古い尾張瀬戸駅の駅舎の再現とともに、そこに停車しているように展示されています。これは両者ともに、私にはとても懐かしいものなのです。なぜなら、私はまさにこの車両によって、この古い駅舎へ到着していたからです。

                

 瀬戸電の歴史をひもとけば、それは、現在のような旅客運送というよりもむしろ貨物運送のために開発されたといます。では、その貨物とは何だったのでしょうか。それこそが、瀬戸の産物、いわゆる瀬戸物の運送なのでした。
 もちろん近くの大都市名古屋への運送とそれを経由して全国へということもありましたが、むしろ、海外への輸出のための運送でもありました。

 そのためには、まず名古屋まで運び、さらには名古屋港まで運ばなければならなかったのですが、しかし当時は今のようにトラック便が行き交う状況ではなかったので、名古屋から名古屋港までは堀川運河を船便で下るという手段をとっていました。
 そのため、瀬戸電の名古屋での終点は、今のように、中心部の栄町の地下駅ではなく、まさにその名の通り「堀川」と言う運河沿いの駅だったのです(その貨物も廃止され、栄町が名古屋の終着駅になったのは1978年のことです)。

     

 ですからかつての瀬戸電は、名古屋の堀川から尾張瀬戸までの経路で、私が子どもの頃、母とともに瀬戸の親戚へいったりする際には、疎開先の大垣郊外の美濃赤坂線の荒尾駅から大垣へ出て、そこから名古屋へ、そして市電で堀川、そこからが瀬戸電でした。
 いまから4分の3世紀ほど前のことですが、その頃はまだ貨物列車も健在で、黒い小型の電気機関車が、貨物を引っ張っていたのを目撃している。

 瀬戸電の堀川からの経路はいささかスリリングでした。路線はやがて、名古屋城の外堀の中を走るのですが、当初は 名古屋城の正面を通り抜けるようにして東へ進み、やがて東外堀の辺で お堀の直角のカーブを北へと回ります。ほぼ直角に近いカーブ、線路の軋み、あえぐような電車の進行、ここがかつての瀬戸電の最大の見所だったのではないでしょうか。

            

 曲がり切るとやがて土居下に差し掛かります。ここはかつて、尾張藩の忍者集団、土居下衆が住んでいたところで、名古屋城が陥ちるような危機の折、城内よりここまでの秘密のトンネルで脱出してきた藩主を土居下衆が守護し、いまの黒川沿いに北上し、尾張藩家老の居城だった犬山城まで落ち延びてゆくといわれたものです。

      

 話が逸れました。瀬戸蔵ミュージアムの瀬戸電の展示に戻りましょう。
 駅舎の外部、内部の展示は私の記憶にあるものです。展示されている車両はモ700形で1962年からのものだといいますから、私の子どもの頃乗ったのはもっと古い車両だったことになります。
 そこで検索してみたら、1925年から60年ぐらいまではホ101形という車両が走っていたとありました。私が記憶してる瀬戸行きは1940年代中頃から後半ですから、このホ101形のお世話になっていたことになります。

          

        瀬戸電を走っていたホ101形電車 パンタグラフがポール方式

 これらの写真を見ると、いまはもうどこへいってもみられないポール状のパンタグラフです。
 この時代の瀬戸電は私にとって忘れがたいものですが、それとともに疎開先から帰った岐阜の市街電車(これも名鉄)もくっきりと記憶に残っています。
 この少年時代の私の記憶に深く残る電車の共通点は、ともにポール状のパンタグラフを備えたものでした。
 このポール状のパンタグラフ、終着駅で方向転換をするとき、運転手がロープ状のもので、パンタグラフの角度を進行方向の背後の方角へと変えていました。

      

  これは東京都電のものだが、同じタイプのものが岐阜市街電車としても走っていた

 古い鉄道は郷愁をそそります。それは、かつての人たちは自分の住居を離れて旅する機会が少なかったことによるでしょう。
 したがって、自分たちが身近で利用した鉄道、そして一定地点への移動として乗っていたある鉄道、さらにはたまたま行くために、あるいは行った先で乗った鉄道が強いインパクトをもって記憶に残るからでしょう。

 そんなこともあってか、私にとっては「名古屋鉄道瀬戸線」というより「瀬戸電」が心に残るのです。

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