六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

拝啓 安倍内閣総理大臣殿

2007-07-31 01:16:58 | ラブレター
 私は今、この内閣総理大臣というあなたの肩書きを、いつまで使用できるかという不安におののきながらこれを書いています。
 というのは、私はあなたの続投を強く望むものだからです。
 
 しかし、選挙後の会見において、この大敗にもかかわらず政権を続投なさるとの力強いご意志をお伺いし、いささかの安堵を致しております。
 なぜ私が、その続投を望むかと言えば、あなたのなされようとする政治は、私ども国民にとって、とても分かりやすいからです

    
 
 あなたは、戦後レジームからの脱却というフレーズで、あなたのお祖父様(岸さんとおっしゃいましたか、A級戦犯でしたね)が商工大臣としてご活躍された戦前への回帰、すなわち戦前レジームへの回帰を示唆されました。
 
 その具体的内容が、私たちが愛国・忠臣の民として、戦争が出来る普通の国になることであり、そのためには憲法の変更が必要であり、その前提としての教育基本法の改悪が必要であったことはいうまでもありません。

 あなたのおっしゃる「美しい国・日本チャチャチャ」が、日本人の300万人が犠牲になり、近隣諸国の1,000万人が犠牲になったあの戦争の時代・昭和初期への回帰であるように思えて致し方ないのです。
 そのためには、戦前の忌まわしい事実は、みんな隠さねばなりません。従軍慰安婦も、強制連行も、軍による集団自決命令も・・。

    
 
 あなたのご出世を支えた拉致の一枚看板が、なぜ現実味を持たないか、周辺諸国からさえ無視されるのかお分かりですか?なぜ、「拉致の解決なくして進展なし」として臨んでいらっしゃる六ヶ国協議においても、その立場が完全に浮き、会議のお荷物にすらなり、ひいては、東アジアにおける外交でその影を完全に薄くしているかお分かりですか?

 「権利を主張するためには、義務を果たせ」というのはあなた方が、私たち若者(?)によくおっしゃることですが、これは国際間においても一緒なのです。
 「ぼくチャン、悪くないもんね。悪いのみんなあいつらだもんね」という駄々っ子のような言い分はいくらボンボンだからといって通用しないのです。

 拉致の問題を放棄せよと言っているのではありません。むしろ、その現実的な解決のためには、「拉致、拉致」とわめき立てるだけでは駄目だということです。いわんや、拉致問題を盾にして、その背後に不都合なことを押し隠そうとするような態度は、この問題の単なる政治的利用であり、被害家族の期待を裏切るものといわねばなりません。

 

 私個人の恨みもあります。
 地方税と所得税の比率変更は、国民が払う税の絶対値は変わらないとのお題目にもかかわらず、年金生活の老人層を直撃しました。
 年金以外、もともと収入がなく、基礎控除などでほとんど所得税がなかった層に、いきなり、地方税が襲いかかったのです。所得税の減税効果など全くなく、ただただ地方税が増えただけなのです
 これを、実質上の増税といわずしてなんと言うべきでしょう。
 老人たちは既に前年、老齢者控除がなくなり、実質、年間5万円の増税に晒されているところへこの追い討ちなのです。

    

 政治と金の問題もそうです。総理が任命した閣僚やそれに準ずる人たちは、税金でまかなわれる宿舎にクラブのママを囲っていちゃついたり(私もしてみたい!)、あるいは、なんとか還元水に巨額を投じ、それが説明できないままに議員宿舎で首を吊ったり(よそで死になさい!)、その後釜がさらに非道い誤魔化しをしていたりしている事実があるにもかかわらず、あなたはそれを黙認し、許容し、弁護すらしてきました。
 
 ア、そうそう、「原爆は落とされても仕方なかった」とおっしゃった大臣もいらっしゃいましたね。
 この方のご発言には、原爆を落とされ死んでいった人たちのことは全く眼中になく、ただそれが、リアルポリティックスの中でどう有効であったという視点しかありません。つまり、原爆を落とす側の立場から考えていらっしゃるのです。

 年金の問題もそうです。公正に言って、これはあなた個人の責任ではなく、あなた方自民党の歴代政権が積み上げてきた悪弊に他ならないのですが、その、5,000万件の処理を一年でお済ませになるというとんでもトンデモ青い空のような嘘をおっしゃってはいけません。
 それと年金問題は、不明になったそれについてのみではなく、納入実績など含め、その制度そのものが揺らいでいるのです。ようするに、国そのものへの不信なのです。

 「なんとか改革」で、人を蹴落とすだけ蹴落としておいて、「自己責任の再チャレンジ」という言いぐさも、オーソレミオのナンタルチアというほかありません。

 


 あなたの続投会見をお聞きしても、国民が何に怒っているのかをほとんどご理解されていないようです。むしろ「頭の悪い国民共が私のことを理解していない」と思っていらっしゃるむきがチラホラ致します。またしても、「ぼくチャン、悪くないもんね」なのです。

 ですから、多分、多少のお色直しはされるものの、おそらくその分かりやすい政治をお続けになるでしょう。
 その結果、私ども国民は、今までの美辞麗句、例えば「美しい国」という、それ自身は一般的、抽象的かつ無内容な言葉ではありますが、あなたが実際にイメージされていたその中味の醜さをこれまで以上に知るところとなるでしょう。

 そして、それが来たるべき衆議院選挙まで継続されるならば、さらにいっそうあなたが考えておられることどもの胡散臭さが、私たち国民に浸透するのではないでしょうか。
 そしてそれが契機となり、今一度あなたの党が惨敗するならば、あなたのお考えのレジームとは違った方向への可能性が開かれるかも知れません。
 
 会見でおっしゃっていたように、今後は「茨の道」かも知れません。
 しかし、めげずに、その醜悪で分かりやすい政治をお続けになりますよう祈念致します。
 そしてそれこそが、あなたが小泉前総理から継承された課題、「自民党をぶっ壊す」の完成ではないかと思われるのです。

<追伸> ア、それから、改造人事とやらで、赤城さんの首をすげ替えるなどと言うことはゆめゆめしないで下さいね。あの人こそ、「安倍分かりやすい内閣」の象徴的存在なのですから。

    

●おまけです。

*民主党の皆さんへ

 あなた方に寄せられた票は、ほとんど敵失によるもので、自民党への怒りをひとまずあなた方のところへ預託してみようという程度のものです。
 それを勘違いすることなく、「勝っても被っても緒を締めよ」(?)で、真摯に国民の期待に添う努力をされるならば、あなた方の党の本当の力になるかも知れません。
 もっともあなたの党にも、安倍さんのところに輪をかけた分かりやすい俗物がいますので、あまり当てにはならないのですが・・。
 とりあえずは国民の期待に応えるべく、ご尽力をされますよう。。

*公明党の皆さんへ

 まだ、自民党について行くつもりですか?
 自民党に対するお目付役を自認されているようですが、今回の選挙で誰もそうは思っていないこと、そして、やはり同じ穴の狢だと判断されたことは明らかだろうと思います。
 だから、あなた方の強固な組織力のみで、浮動票はあなた方にそっぽを向いています。
 
 だいたい、選挙協力にしたって、あなた方の党の方は従順ですから、自民党に入れろと言われればそうしますが、逆に自民党の支援者があなた方の党に投票されるケースは極端に少ないと思いますよ。

 それから歴史的教訓をひとつ。
 自民党と連立を組んだ党は、ほとんど衰退しています。日本社会党(現・社民党)などは、あっぷあっぷしている自民党を助け出したのみで、自分の方が沈んでしまいました。
 まあ、この辺りが潮時ではないでしょうか。
 それとも、政権与党にくっついていると、私たちには分からない利権のようなものがあるのでしょうか。



                      
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「お~い、雲」と六の時事川柳

2007-07-29 11:49:12 | よしなしごと
 
       リストラをされたかちぎれ雲ひとつ

 
        俺は俺孤高の中に生きて行く  

  お~い、
 
  お前は自分で生まれたんかい
  お前は自分でそん格好になったんかい
  お前は自分でここへやって来たんかい
  お前は自分でどっかへ行くんかい
  お前は自分で消えて行くんかい

  そうじゃぁないんだろう
  だったら俺とおんなじじゃぁないか

  でも、なんだかお前の方が自由そうだな

 
       寄り添ってみても所詮は雲と雲


  
   <参考> 「雲」 山村暮鳥・作
    
    おうい雲よ
    ゆうゆうと
    馬鹿にのんきそうぢやないか
    どこまでゆくんだ
    ずつと磐城平の方までゆくんか


    (磐城平=福島県いわき市・城下町)

 
        今まさに群を離れて行く旅路




<今週の川柳もどき> 07.7.29
  
  原発がしがみついてるナマズの背
   (活断層の上)
  大事故を小分けに出して薄める
   (依然情報は藪の中)
  爆発が起きて発表するつもり
   (それまでは隠し続ける)

  株安のほころびもまたグローバル
  NYのくしゃみに脅え売りに出す
   (世界同時株安

  日本米食べて下痢するPR
   (北京へ売り込みに行った赤城氏)

  宇宙にも要りそな飲酒検問所
   (NASA宇宙飛行士飲酒でロケットに)

  さあ今宵結果次第の酒の味
   (選挙。美酒それとも苦い酒)

  梅雨明けをことほぐような蝉時雨
  
 
       アラいつの間にやら誰もいなくなる


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日本のお米が北京で出会ったものは・・。

2007-07-27 16:38:50 | ラブレター
 拝啓 赤城農林水産大臣
 
 愚直な国民のさまざまないわれなき非難中傷に耐え、事務所費などの適切な処理を繰り返しご説明になっていらっしゃる様に、深く感銘するものであります。
 先般はまた、ご両親のご証言が一夜にして変わるという、麗しくも睦まじい親子の情愛も見せて頂きました。

 さらには、そうした情に頼るに留まらず、領収書をコピーして使い回すという創意工夫に満ちた技術も駆使されるなど、そのご活躍の幅は私ども庶民の想像を上回るものがあります。

 

 この度は北京にお出かけになりましたね。この選挙戦のお忙しい折にと思うのですが、赤城様の応援を快く思わない輩が、ご自分の党、自民党のうちにもいるということは実に嘆かわしいことであります。

 さて、北京へいらっしゃったご用件というのは、日本のお米を中国にも買ってもらおうというキャンペーンのためでした。
 この試みの前座としてご出演なさったお仲間の麻生様という外務大臣様が、「アルツハイマー云々」のご発言をなさったことは記憶に新しいところでございますし、その後だけにいろいろお気をお遣いになったことと存じます。

    

 さて、北京での赤城様ですが、絆創膏もとれた笑顔を精一杯振りまき、日本のお米をここぞとばかりにお売り込みになったご所行は立派という他ありません。
 日本のお米を実際に食べて頂くパーティや試食会も行われ、赤城様はその大役も無事、お果たしになったかのように見えました。

 しかるに、その後です!
 赤城様はご気分が悪くなり、激しい下痢に襲われたのだそうですね!

 

 普通、私達が因果関係と呼ぶものには、Aという事象が起き、そのあとにBという事象が起こった場合、Aが原因でBが起こったといわる場合が多いように存じます。

 これを上の事態に当てはめてみましょう。
 赤城様は日本のお米をお召し上がりになりました
 そして、その後、激しい下痢に襲われたとのことです。
 ということは、日本のお米を食べると・・?

 なんというご立派なキャンペーンでしょう。
 しかも、体を張ってそれを行われるなんて、まさに政治家の鏡ではありませんか。
 農林水産大臣であるからこそのご成果というべきでしょう。

    

 私め愚かにも、当初は世間の雑音に惑わされ、赤城様の辞任や、安倍様の任命責任に言及したり致しました。
 しかし、今はそれを撤回致したく存じます。
 といいますのは、赤城様のような分かりやすい方がいらっしゃった方が、私達下々の目にも、美辞麗句のもとに隠された政治の仕組みのようなものが理解しやすいのではないかと思うようになったからです。

 

 赤城様、出来ますことなら、出来るだけ長くその椅子におしがみつきになられ、私達の目の前に、政界という場所で行われているさまざまな愚行の数々をいっそう明らかにご披露頂きたく念ずる次第です。

 向暑の折から、国民の雑音などに耳を傾けられることなく、存在しない事務所のアリバイ作りや、領収書の複写などにさらにお励みになられますよう祈念致します。
 
 次なる問題の噴出を心からお待ちしています




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「違いを認めよう」というけれど・・。

2007-07-26 01:43:23 | 現代思想
 前回は、「人間みな一緒。人類は兄弟」という麗しいいい方が、容易に、「てめえらは人間じゃぁねぇ。たたっ切ってやる!」ということになることを見てきました(詳しくは昨日の日記を参照してください)。


 

 それでは、「人はそれぞれ違っているし、それを認めよう」といういい方はどうでしょう。
 ここには二つの問題があります。
 ひとつは、前回見たように、その違いが「兄弟内部での違いではない」、要するに人類の外であると判断された時には、決して容認されないということです。
 その辺は前回見ましたから、もうひとつの問題を見てみましょう。

 


 それは、もし、「このそれぞれの違いがみんな等しく認められる」とすると、私達は判断不能に陥るということです。
 いろいろな違いが等しく認められるということは麗しいことであるかのようですが、そうすると、私達は、現実に当面している問題を解決不能なままうち捨てることになってしまうのです。

 というのは、どんな社会でも、それぞれの問題を抱えています。そしてその問題を形作っている主要な違い、あるいは矛盾というものがあります。それらの違いをその他もろもろの違い同様放置するとしたら、私達はあらゆる問題を解決する糸口を失うこととなってしまうのです。

 

 確かに、中には取るに足りなかったり、どうでもよかったり、あるいは重要度が低い違いもあるでしょう。あるいは、お互い譲り合ってでも承認しなければならない違いもあるでしょう。

 しかし、今、私達の国で問題になっている格差や、ワーキングプアーの問題、あるいは憲法をどうするのかといった問題を、さまざまな違い一般に解消してしまうなら、それらの問題に対する判断は不能になり、その解決はうち捨てられることになるでしょう。

 どんな社会、どんな時代にあっても、その折々の主要な問題があるはずです。むろん、どの問題が主要であるかの判定自身に関し、それぞれ判断が違うことはあるでしょう。

 例えばそれを、人間の悲惨さを少しでも減少するという点に置くとしましょう。それらは、飢え、貧困、健康、人権、戦争などの問題と関連するでしょう。
 そしてそのそれぞれには、その解決のために取り上げねばならない主要な違いや矛盾があるはずです。

 
 
 いってみれば、「違いがあってもいいんだね」で通り過ぎることのできない問題、その違いを克服することなく、人間の悲惨を解消できない問題があるはずなのです。むろんこれは、あらゆる違いを認めない全体主義とは違い、その折りの主要な問題の解決に限定される違いの解消のための行為です。
 
 こうして、「人間はみんな違うし、それがあってもいいんだね」は、反面、本当に解決しなければならない問題がはらむ違いを放置し、その解決を棚上げすることになりかねない場合があるのです。

 
 

 二回にわたって見てきた美しい言葉、「人類は兄弟」、「違いがあってもいいんだね」は、確かに否定しがたいように見えます。
 しかし、ほとんどの人がそれを肯定するにもかかわらず、人は殺し合い、違いはある限度までしか認められず、あるいは、本当に問題にしなければならない違いは、もろもろの違いの中に隠されてしまうということが現に起こっています。

 これらの言葉を安易に用いることがはらむ問題と、それをお題目として唱えることの無効性を考えてみる必要があるように思うのです。







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「人類は兄弟」でしょうか?

2007-07-25 03:30:18 | 現代思想
 「人間みな一緒。人類は兄弟」といいますね。
 で、一方では「人間はみなそれぞれ違う。それでいいのだ」ともいいますね。

 この一見論理的に矛盾しているようなことは、日常的に並行してよく言われます。しかし、それが矛盾している、などと目に角立てようというのではありません。

 
 問題は、この、誰でも頷くようなことが、そして事実、誰でも頷いているにもかかわらず、実際には、人間はみな同じに扱われることなく、場合によっては、戦争などで殺し合ったりもしていることです。また、その宗教や政治体制、風俗習慣の違いなど「それぞれの違い」が認められることなく、やはり、殺し合いになったりしています。
 
 要するに一見、誰もが、面と向かっては否定しがたいこうしたもの言いが、じつは全く無効であるということです。なぜなんでしょうか。

 

 まず「人間みな一緒、人類は兄弟」といういい方ですが、ここにはある亀裂が隠されています
 「人類=兄弟」を逆にしてみるとよく分かります。
 「兄弟=人類」、つまり、兄弟は人類だが、兄弟ではないものは人類ではないのです。
 これは言葉の遊びではありません。

 例えば、キリスト教原理主義と結びついたアメリカのネオコンなどの考え方では、パックス・アメリカーナに根ざすグローバリゼーションに反対する連中は「兄弟ではない」人類の敵であり、これは武力でもって制圧したり、殺してもかまわないということになっています。
 だから、アフガンやイラクへの侵攻が合理化されます。

 

 もともと、キリスト教は、「人類はみな兄弟であるはずだ」という立場に立ち、それを理解しない異教徒は兄弟の外として十字軍を派遣した歴史を持っていますが、キリスト教原理主義者は、この現代版といっていいでしょう(すべてのキリスト教並びに教徒が今日そうであるといっているのではありません)。

 こうした背景下、アフガンやイラクでの捕虜が、グアンタナモ基地などで、人類以下の扱いを受けていることは周知の通りです。

    

 少し歴史を遡ると、ナチズムもそうでした。
 その第三帝国の構想によれば、ユダヤ人は兄弟たり得ない人類の敵であり、これを殲滅することこそが兄弟愛に満ちた新しい帝国の実現だとしました。まさに、「人類は兄弟」という帝国を完成させるためにこそ、「人類の外」である数百万のユダヤ人は殺されたのです。

 かつての日本も例外ではありません。
 私の幼少時、「鬼畜米英」は、日常的なスローガンででした。彼等米英は人類ではなく、まさに「鬼畜」なのであり、彼等を一人でも多く殺すことが国民の使命でした。

 


 こうして、「人類=兄弟」といういい方の中には、「兄弟でないものは人類ではない」という命題が隠されています。これが、誰しも否定しないような美しいスローガンにもかかわらず、人が殺され、差別され続けている理由です。
 要するに、都合のよいときには、相手を「兄弟ではない」として「人類」の枠から外すことが出来るのです。
 「てめえらは人間じゃぁねぇ。たたっ切ってやる!」というわけです。

 では、その反対であるような、「人間はそれぞれ違っていていいのだ」といういい方はどうなのかについて、次回は考えてみます。

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「ゾッとした」けど六の時事川柳

2007-07-22 16:27:47 | 川柳日記
 今朝の「朝日新聞」一面の、地震被災後の柏崎原発の構内写真を見て、改めてゾッとしました。
 なんと一号炉と二号炉の間には、1.6メートルの段差が出来ているのです。
 あんな段差を見たのは、濃尾大震災の際に出来た根尾の断層を見て以来です。

 こんなところに原発があるなんて信じられません。
 今回は幸い大惨事一歩手前でしたが、これを見て、チェルノブイリは過去の事態でも、外国の事態でもないと改めて感じました。

 結論としては、地震列島の上に原発を作ること自体に無理があろうかと思います。
 今回の地震が、「想定外」であったように、自然は常に私達の想定外を秘めています

 
        三重県・青山高原の風力発電
          あいにくの曇り空


 直ちにすべての原発の稼働停止をといいたいところですが、エネルギー需要の点からそれは困難かもしれません。
 しかし、直ちに全原発の点検作業を、行政や電力会社のみではなく、民間の専門家を交えて行うべきでしょう(お役所や電力会社は事態を隠蔽するからです)。

 そして同時に、すべての原発を廃棄する方向で、オルタナティヴなエネルギーの開発に着手すべきでしょう。
 これは不可能ではありません。既にドイツは、2002年以来、原発の段階的廃棄を決定し、それに向かって前進しつつあります。

 
          少し晴れてきました。

 それにしても、日本政府や電力会社は、こうした大事態をなぜひたすら隠すのでしょうか。多くの人命が失われ、しかも日本海沿岸全体を巻き込んだ被害が想定される事態なのに、内部告発などによって渋々、小出しにしか事実をだしてこないなんて・・。
 
 北朝鮮すら認めた、国際原子力機関IAEAの調査をもかたくなに拒否しています。
 まだまだ、隠していることがたくさんあるからでしょう。

補足】新潟県知事など、地方自治体の強い要請があって、政府も遂に、国際原子力機関IAEAの調査を認めたようです。
 しかし、当初、「受け入れ態勢がない」という理由にならない理由でこれを拒否していたのは事実ですから、敢えてそれについての記事を訂正しませんでした。


<今週の川柳もどき> 07.7.22
 
 北でさえ認めた調査袖にする
 かたくなに隠し北にも笑われる
 (政府、国際原子力機関IAEAの
  柏崎原発調査を拒否)

 核廃しロマンを残せ佐渡情話
 (佐渡と柏崎、お光・吾作の忍び逢い)

 まだまだとガーゼ王子のぬかるみぞ
 (赤城大臣またもや事務所費の不正発覚)

 事務所費が白粉ではべる永田町
 大臣の花代嘆く縄のれん
 (故松岡氏、事務所費のうち芸者買いに500万とか)

 サッカーに勝ち祝砲で天国へ
 (バクダットで3人死亡)

 そのまんま続くだろうかこの人気
 (東国原知事、支持率92%。)
 半分でいいから欲しい人もいる
 (誰でしょう?)



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梅雨まっただ中の『春の祭典』

2007-07-20 15:54:28 | アート
 「読売日響」というオーケストラがあります。
 年に一度くらい名古屋にやってくるのでしょうか。
 ずいぶん前に一度聴いた記憶があるのですが、指揮者が誰で、どんな演奏品目だったのか記憶にありません。

 昨19日、その「名曲シリーズ名古屋公演」を聴きました。
 結論を言いますと、「読売日響」ってとてもいいオケですね。

     
         ラフマニノフ

 曲目はラフマニノフの『ピアノ協奏曲・第2番』と、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『春の祭典』
 
 ともに、歯切れのいい曲ですが、それを豪快に聴かせてくれました。

      
      パオロ・カリニーニャ
 
 特に、指揮者のパオロ・カリニーニャ、本来、指揮をする筈だったラファエル・フリューベッグ・デ・ブルゴスの体調不良で、急遽のピンチヒッターだったにも関わらず、それを感じさせない堂々とした明快な指揮ぶりで、演奏者たちもさぞかし弾きやすかったのではと思わせるものがありました。
 むろん、私達聴衆にも、その歯切れのよい端正な演奏がよく伝わってきたと思います。

       
         辻井伸行

 ラフマニノフのソリストは、全盲のピアニストとしてドキュメンタリーでも話題になった辻井伸行君。オケがよく鳴る曲なので、それとの格闘のような協奏曲ですが、よく弾ききったと思います。
 ただ、私の席がS席ではなかったせいか、特に第一楽章では、オケとの絡みの部分で、幾分ピアノが聴き取りにくいように思いました。
 しかし、まだ18、9歳という若さ、経験を積むことによりまだまだ伸びる才能だろうと思います。

    
        ストラヴィンスキー

 後半のストラヴィンスキーは、ディスクなどでは何度も聴いているのですが、生の演奏は初めてです。この曲、ビジュアル的にも充分楽しめますね。
 とくに、打楽器と管楽器が大活躍する曲ですから、音の鳴る瞬間の緊張感などが視覚からもリアルに伝わってきます。
 その点では、前の方のS席よりも、私のようなA席の方が、オケの後方が見渡せて楽しめたのではないでしょうか。

    
    『ベルリンフィルと子どもたち』から

 この『春の祭典』、なんでもない市井の子どもたちが踊り、サイモン・ラトル指揮の、ベルリンフィルと協演するというドキュメンタリー映画、『ベルリンフィルと子どもたち』(2004年・日本公開は05年)にも出てくるのですが、あの映画では、クライマックスシーンの協演部分が期待より短く、ちょっと欲求不満が残ったものでした。
 その分を取り返すほど、今回は堪能できました。

 最初の方に書いたのですが、オケを聞きわけるほどのいい耳を持ってはいませんが、この「読売日響」は私の期待値を越えていました。
 今回のプログラムは、どちらかというと歯切れのいい豪快な曲で構成されていましたが、このオケで、一度、叙情的は曲目を聴いてみたいと思いました。

コメント (2)
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【フォトエッセイ】私の世界

2007-07-17 03:33:44 | フォトエッセイ
 「私の世界」といっても、私達の住んでいる世界とは一体どんなものかを明らかにしようという大それたものではありません。
 また、私の世界観を語ろうという試みでもありません。

 まさに、ごく狭い、私の視野の先にあるものを写真で並べたに過ぎません。つまり、私の部屋から、私が日常的に眺めているものを切り取ってみたものなのです。

 そんなことになんの意味があるのかは知りません。おそらくは、ある種の自己顕示欲のバリエーションでしょう。
 しかし、ひょっとしたらこの毎日見ている光景は、気がつかないうちに、私に視野狭窄症をもたらしているのかも知れません。

 


 まずは、私の部屋(二階)の南側の眼下の光景です。
 これは南東部分で、折から、ムクゲが咲き始めています。

 

 続いて南西部分です。この木、何だか葉の形状からお分かりですか?
 なのです。いつの間にか生えていて、放って置いたらどんどんでかくなって、まあ、緑陰になるからいいかと思っていたのですが、近年は、大量の虫が発生するので、それとの格闘です。
 
 蚕の餌として最適であるだけあって、それに似た虫たちがわっと押しかけます。
 多分、梅雨明け頃に、戦いの火蓋が切られるはずです。

    

 今度は、反対、北側の眼下です。
 私の辺は、市街地と田園地帯がせめぎ合い、まだらになっているところですから、これは田圃です。

 真ん中あたりに区分がありますが、向こうは稲作、こちらは休耕田です。休耕田にのみレンゲの花が咲くのは前に書きました。

 

 次いで、窓の北西部にあるモルモン教会の建物です。
 自転車に乗った教徒の若者たち(大半がアメリカ人みたい)が、元気に布教に出かけます。成果の程は分かりません。

 もうすぐ、お盆になると、この教会の庭を借りて、地域の子供会などの盆踊りがおこなわれます。
 モルモン教と盆踊り、なんか面白い取り合わせですね。

 

 また南側へ戻ります。今度は遠景です。遠景といっても30メートルほどしか離れていない建物ですが、これは岐阜の南部ではまあまあの評判をとっているケーキ屋さんの上部です。

 一階部分ではケーキの販売を行っているほか、カフェもあります。
 結構、若いお客さんで流行っています。

 

 今度は、同じく南の部分の中景です。要するに、私の家の隣家です。
 隣家といっても人家ではなく、材木屋さんの倉庫のようなものです。
 この材木屋さん、もちろん私の知り合いですが、いわゆる銘木の専門店で、文化財級の社寺仏閣の建造や修理の材料、仏壇、邸宅、門札などから、華道の作品に添える木冊などに利用される木を扱っているようです。

 

 最後ですが、これのみ部屋から出て、上の材木屋さんのが在庫している木をとったものです。
 ホラ、真ん中あたりの木に、「青ヒバ 能面用」と書いてあるでしょう。
 「青ヒバ」というのは木の種類で、その用途はあの能面なのです。やはり銘木屋さんでしょう。

 こんなものを見ながら暮らしています。
 私が、清く、正しく、美しくあることが出来るのは、こうしたもののせいでしょうか。
 何だか、始めの謙虚な姿勢から変わってきましたね。

<付録> 今日の時事川柳

     グラグラが即ピカドンになる怖さ
     原発をナマズが支配する悪夢

 今回の地震は、建設時の想定震度を越えるものだといわれています。


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身近な動物と六の時事川柳 07.7.15

2007-07-15 11:24:45 | 川柳日記
 台風一過といいたいところですが、秋のそれのようにスカッとはしません。
 なんだか暑くって重い感じです。
 被害を被られた方々にお見舞いを申し上げます。

 話は変わりますが、動物を写真におさめるのは難しいものです。
 文字通り彼等が動くからです。
 それでも、家畜やペットの場合はまだいいでしょう。
 こちらが一定の距離へ近づくことを許してくれるから、いいポーズをみいだす余裕もあるからです。
 その点、野生のものは一定の距離以上にこちらを近づけてはくれません。

 もっとも、野生の動物でも、大型の野獣などは意外とこちらの接近を許容するそうです。
 知り合いの動物写真家がいっていましたが、ゾウやサイ、ライオン、そしてシロクマやヒグマなども結構接近可能だといっていました。
 きっと、一対一なら自分の方が強いことを知っているからでしょう。
 
 相手との距離は、量としての長さばかりではなく、その関係の質をも現しているようです。

 最近撮った動物たちの写真です。

 

 最初はスズメの会話。
 一見、二羽のようですが、左にもう一羽います。
 「お前もこっちへ来て涼め」なんちゃって。

 

 次は緑陰で戯れるです。
 錦鯉が一尾とあとは黒い鯉ですが、実は、真ん中のは真鯉ですが、右端のやや見にくいところにいるのは、この辺では、似鯉とか川鯉とかいう、ちょっと違った種類の鯉です。
 コイのさや当てでしょうか。

    

 亀です。最近外来種の亀が多い中で、これは在来種の泥亀のようです。
 泥亀というやや不本意な呼ばれ方ですが、外来種の、首のあたりに赤色などあるケバイものに比べると、こちらの方が何となく品があるように思われます。
 (とはいえ、私は国粋主義者ではありません。念のため)

 

 次はカモです。
 上はつがい、下は子連れです。
 見て頂くとお分かりのように、先を行くリーダーの視線は明らかに違います。その目線は、カメラを構える変なおっちゃん(私です)にピタリと据えられています。
 それに続くものは、ひたすらリーダーを信頼し、そのもとに従います。

 

 ところで春先からこの時期まで、よくカモを見かけるのですが、一度、アヒルと喧嘩をしていたのに出くわしたとき以外、彼等の鳴き声を聞いたことはありません。
 カモって、以外と寡黙なのかも(ここんとこ苦労したのだから分かってネ)。 



<今週の川柳もどき>  07.7.15

 この一票恨みつらみを込め放つ
 さあ選挙驕れるものへ紙つぶて

 「成長の実感」倒産増えている
  (上半期倒産昨年比で16%増

 五千万まず分かったのが一五件
  (年金不明本当に一年で解消?)

 拒むほどますます暗い赤城山
 名月が似合う忠治と赤城山
  (農産相の暗部)

 提灯が仲良く並ぶ九段坂
  (安倍、小沢両氏が奉納)

 奉納のつもりが組の資金源
  (浅草三社祭、組関係が仕切る)

 段ボールそれもあったというホープ
  (中国の食事情)






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今池とベンツとハーレー

2007-07-12 17:51:19 | よしなしごと
 トッチャン坊や大臣のへんてこりんな説明は、サッパリ分かりません。小学校の児童会以下の論理のようにも思えます。

 まあ、当のトッチャン坊やはただいま海外逃亡中ですからここで騒いでいてもしょうがないので街を散歩してみましょう。

    
 
 今池の街です。
 ベンツを見かけました。
 一人乗りです。
 始めは本当かしらと思ったのですが、ちゃんと前後にマークが入っています。

    

 前に、よれよれの軽自動車にマークだけベンツというのを見たことがありますが、あれは明らかにおふざけでした。
 でもあんなことをしても良いのでしょうか。

    
 
 まあ、ミンチにいろんなものを放り込んだり、学力テストで、出来の悪い子の答案を抜いたり、監視員たる教師が正解を教えたり、あるいは答案を改ざんしたりといった偽装工作に比べたら、可愛い悪戯でしょうね。

 ついでながら、このインチキ学力テストに、唯一、参加しなかった自治体、愛知県犬山市の教育長は私の同級生。学生時代とほとんど変わらぬ顔つきでインタビューを受けていた彼に、エールを送ったものでした。

 

 話が脱線しました。
 続いては、やはり今池の街角に落ちていたハーレーダビットソンです。
 下の写真の辺りに落ちていましたから、この辺りに持ち主のヒントがあるのでしょう。

 


 実は、私、探訪記事のお仕事でここを訪れたことがあり、出来上がった記事を事前に見せたところ、唯一、この点をなおして欲しいとの訂正の申し入れがありました。

 私の文。「この店の店主はハーレーダビットソンのライダーでもあり・・」。
 訂正の申し入れ。「ライダー」ではなく「バイカー」にしてくれ。

 そんなん、どっちだっていいじゃないか、などと面倒がらずにちゃんと訂正するところがライダーならぬライターとしての私のいいところ。
 その後ですが、この店主とはあるSNSでのお友達になりました。

 この一見こわもてのする店主、気は優しくて力持ちで、九月の今池祭りの街頭レスリングでは、その企画を担当すると共に、自らリング(マット?・・また書き直しか?)に上がります。

 今日はなんだか変な日記になりました。
 明日あたりには、あのトッチャン坊やが帰ってきそうです。
 どんな顔をして帰ってくるのでしょう。
 自分の親にまで嘘を付かせるなんて親不孝なことですね。
 まあ、前任者のように、自ら寿命を縮めるようなことだけはしないでくださいね。

 あ、それから、みんなで台風に「シッ、シッ」といいましょう。




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