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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

写真を観て歌や句を詠む会・・・名古屋鶴舞公園にて

2021-06-27 02:05:10 | 写真とおしゃべり

              

 こんな美しい文字での招待をもらったのはまだ春浅い頃であったろうか。内容は、写真家・河合隆當氏の四季の写真を観て、句や歌を読むという企画で、予めその写真が同封されていて、参加者は作品(三句、または三首)を持ち寄り、出席者の互選によって優劣を決めようという「写真を詠む会」というものだ。

          

 私についていえば、この歳になるまで俳句も短歌もまったく経験がない初心者であるが、呼びかけ人の書道家・佐治墨拙氏が、現在所属している同人誌の、その前の同人誌の、さらにその前、私も所属していた雑誌の編集長であったことから、その当時の仲間にひさびさに(ということは十数年ぶりに)逢えるということで、参加を決意した。

          

          

 当初は、このコロナ禍のなか、6月26日の開催も危ぶまれたが、幸い、20日に、愛知県の非常事態宣言も解除され、岐阜からの移動もさほど遠慮しなくても済む状況になった。会場は名古屋一の公園、鶴舞公園内の一画にある1928(昭和3)年に建てられた茶席会場風の木造建築、鶴々亭で、密を避けるため10人の出席者で行われた。ここに、和風の建築物があることは知ってはいたが、中に入るのは初めてである。

          

             

 そういえば、名古屋へ出るのは三月末の同人誌の編集会議以来だから三ヶ月ぶりとなる。鶴舞公園へは三年ぶりぐらいだろうか。会場に入る前、少し早めに着いたので、広い公園のほんの一部だけだが散策してみた。やはり、緑の木立はいい。近くのグランドが賑々しいので寄ってみたら、小さなサッカー選手たちが出番を待っていた。その喧騒をよそにのんびり新聞を読んでいる人もいる。

           

          

          

 会場に入る。なかなか趣のある建物だ。呼びかけ人の佐治さんを始め、知っている人は半分ぐらい。一〇人のうち女性は四人だった。

          

 以下に課題となっていた写真家・河合氏の四季の写真を載せるが、もともと、彼の写真を普通紙にプリントしたものが配られていて、さらにそれをスキャンしたので、これをもって氏の写真と決めつけないでほしい。

          

 私は、この、夏と秋、冬の写真にそれぞれ短歌を付けたが、やはり、あまり高い評価はもらえなかった。むろん、初心者のデビュー作のようなものだから致し方ないだろう。しかし、相互の作品評、作者の解説などなどは面白く、いろいろ勉強させて頂いた。

            

            

 途中、弁当が出て、飲み物は各自持参ということで、缶ビールやワインをもってきた人もいたが、私は和風の催しに合わせ、岐阜は飛騨古川の渡辺酒造、「蓬莱」の300ml を保冷剤とともに持参した。

 その弁当であるが、これはたぶん、出席者で私の旧知の仲、高野史枝さん(放送作家やエッセイストであり、映画評論に造詣が深かったが、それが高じて自分が監督の映画を作ってしまった。かつての雑誌で、「女と男の散歩道」というエッセイ欄を私と一緒に担当していた)のお連れ合いの作だと思うが、これがとても美味しかった。会費からみて、それほどの値を支払っていないと思うので、これはというような素材は使われていないのだが、にもかかわらず、その一品一品が、どれも品位のある味付けで、私の舌や食感に充分フィットし、満足させるものであった。

 最後に、あまり評価されなかった愚作を載せておこう。やっぱりまだまだだなぁ。

夏の写真に
  幸求めカール・ブッセの越えし山想いとどむる白雲の峰
        カール・ブッセの「山のあなたの空遠く・・・・」を下敷きに
秋の写真に
  巣ごもりに備ふかそけき獣(けもの)らの気配漂う錦秋の森

冬の写真に
   ひと椀の末期(まつご)の淡雪所望するトシと賢治の「永訣の朝」
    宮沢賢治の妹トシの最期「あめゆじゅ とてちて けんじゃ」を連想して

 短歌に一家言ある方、どうか手直し、添削、その他評価などお願いいたします。

 

 

 

 

 

 

 

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「祈り・・・・命どぅ宝」と沖縄慰霊祭に思うこと

2021-06-23 01:38:54 | 歴史を考える

 今日、6月23日は沖縄慰霊祭だなと思っていたら、一昨年秋、沖縄へ行った際の三日間、私の希望に沿って、ヤンバルの森、辺野古埋め立て現場、チビチリガマ、平和祈念公園(今日慰霊祭が行われる広大な慰霊公園)などを案内してくれたおりざさんが、自分がリリースしたCDを携え、宜野湾のFM局に出演した際(昨22日)の映像がYouTubeにオンされているのを見た。

 https://youtu.be/1D4VvTFUfhU

 まずはこの歌を聴いてみてほしい。歌詞は彼女自身の詩によるもので、歌はもちろん彼女によるものである。

 タイトルの「祈り・・・・命どぅ宝」はあの沖縄戦で、県民の四分の一が死亡した悲惨な状況の中から産み出されたともいえる。切々と迫るものがある。

         

        

 沖縄戦があれほど悲惨な結果に終わったのは、端から負け戦とわかっていながら、投降を許さず、最後の一兵まで戦い、もって本土への接近を一日でも遅らそうとする本土の側のエゴイズムによる。そしてその、本土のエゴがなんの反省もなく今日も繰り返されていることは周知の事実である。

         

        

 何度も示された沖縄の民意は、一顧だにされることなく、本土の都合によって踏みにじられ続けている。ここに載せた美ら海の写真は、私が撮ってきた辺野古の海である。今ここでは、かつての激戦地で、そこで死亡した人の遺骨が混じっている可能性がある本島南部の土がその埋め立てに用いられ、コバルトだったサンゴ礁を茶褐色に染め上げつつある。

 今から60年ほど前、沖縄からの留学生(当時はまだアメリカの占領下にあったため)と知り合った。彼は沖縄独立論者で、本土でも沖縄でも叫ばれていた「日本への復帰」ではなく、「沖縄の独立」を主張していた。彼はなんとかそれを訴えようとしていたが、しかし、政治活動を行ったことが知れると沖縄へ強制送還されてしまうので、それがままならなかった。そこで私と有志が、彼の主張を取りまとめ、チラシを作り、それを撒く活動をしたことがある。

        

 もちろん、沖縄独立論には、現実的立場からのさまざまな批判があるだろう。しかし、沖縄が置かれた現状、さらには一昨年の訪沖時に見た巨大な基地群を思う時、日本への復帰もまた、沖縄蹂躙の継続に過ぎなかったのではないかと思われるのだ。

 沖縄に対する本土のエゴイズムと書いた。本土とは誰なのか。これを書いている私、読んでいるあなたを含め、沖縄の人々以外のすべての人々のことなのだ。

        

挿入した写真は、一昨年、私が撮ってきたもので、辺野古や平和祈念公園のものが多いが、千羽鶴のものは、チビチリガマという場所のもので、そこには周辺の住民139人が戦火を避けて立て籠もっていた。米軍が上陸し、投降を呼びかけたにもかかわらず、当時の皇民教育(虜囚の辱めを受けるくらいなら死ね)のせいもあって、それに応ぜず、抵抗したり、自決したりして、結局80人以上の犠牲者を出すに至った。

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どこでどう違ったの?『日本とドイツ ふたつの「戦後」』を読む

2021-06-19 14:40:41 | 書評

 『日本とドイツ ふたつの「戦後」』 熊谷徹 集英社新書

 現代の世界を見るに、アメリカ、中国、それにEUを中心としたヨーロッパの三極にその動因をみることができるようだ。ロシアは相対的にその影響力を低下させているし、かつて、ジャパン・アズ・ナンバーワンと浮かれていたこの国などは、もはや先進国という区分けも恥ずかしいくらいだ。現今のコロナ禍のなか、その対策を誤り、しかもそのワクチン供給状況においては、まったくの後進国であることが露呈してしまった。
 もっとも、はしゃいでいた80~90年代にかけても、単に成り上がり者然として登場したのみで、いかなる意味でもリーダーシップをとったとは言い難いものであった。

             

 日本とドイツは、ともに第二次世界大戦の敗戦国であり、その戦後復興の歩みなどいろいろ比較対照されてきたが、ここに来て歴然たる差異が明確になったように思われる。
 ドイツはいまやEUにあって、押しも押されぬ中心的、かつリーダー的存在であり、上に見た世界の三極の一つのピークともいわれる位置にある。
 一方、日本という国は世界的レベルでもその地位を低下させているのだが、地元の東アジアにおいては、いまや単なる嫌われ者扱いである。
 ネット上でのレイシストたちの嫌韓嫌中の罵詈雑言は相変わらずだが、それはまた、自分たちがこの地域で受け入れられていないことの鏡像的反応でもあろう。

 日独のこの差異はどこでどのように生じてきたのだろうか。
 著者は、それに関して多くの書を書いているが、NHK時代のワシントン支局在任中にベルリンの壁崩壊を経験し、米ソ首脳会談などを取材した後、1990年ドイツ再統一前後から、フリージャーナリストとしてドイツ・ミュンヘン市に在住している。この経歴が示すように、30年余の在独でドイツを内在的に実体験し、それをもとに書かれたこの書はそれなりの説得力をもつ。

         

 同じように「戦後」を始めながら、なぜこのような差異を産むに至ったのかに興味があってこの書を手にしたのだが、結論をいうならば、私が想定していたものとさほど違うものではない。
 しかし、具体的局面での事実や諸データなど、新たに接する情報も多く、とりわけ、いま私が関心を持っている、この国、日本の戦後が抱えていた問題を映し出す鏡の役割を担うように思えた。

 ドイツの戦後は、600万人といわれたユダヤ人の虐殺、500万人といわれる各種障害者や同性愛者、ロマなどの少数民族の抹殺という加害者としての自身を出発点にしながら、それへの自己否定とそれら被害者への徹底した謝罪、そして具体的な補償から始まった。
 それらは、経済的な賠償を伴うとともに、再びそうした罪過を犯すことが不可能な体制づくりに集中した、いわば倫理的な大手術の展開でもあった。

 一方、日本の戦後においては、戦争に対する 否定的な観念は一般的にあったとはいえ、それらは日本人が戦死をしたり、家が焼かれたり、原爆を落とされたりしたということに対する被害者意識に根ざすものであり、その一方では、戦前、戦中の国体の維持=天皇制の継続をひたすら祈念する守旧的なものでもあった。
 そこには、加害者意識のかけらもなかった。戦時中、軍国幼年であった私の意識のなかにも、加害者としての思いはまったくなく、それが生じたのは戦後10年以上経過した後、かつてこの国がなしたことどもを具体的に知る過程を通じてであった。 
 ようするに、日本の戦後は、戦争を始めたこと、その前後に関わるこの国自体のありように関する自己点検的な検討とは無縁のところで迎えられたということである。

 この国は、加害者としての事実を突きつけられるに従い、渋々それらを認めるのだが、その値引き措置に余念がない。例えば、南京虐殺の人数に対しての異論から、それがなかったとの見解すら導き出すのである。
 こうした人数の確認という点では、ナチスの被害者、ユダヤ人600万人、その他500万人というのも確定されたものではない。しかしドイツは、その確認は然るべき部門の作業に任せるとして、その過大かもしれない数字にこだわることなく、まずはそれへの責任を果たそうとする。

 しかし、日本の立場はまったく違う。姑息な数字の解釈によって、その加害の事実を無化しようとすらしている。
 18日の朝刊が報じるところによれば、文科省は、教科書検定に当たり、従来の「従軍慰安婦」から「従軍」を削り、「慰安婦」とのみ記述することを求めるという。ようするに、国家や軍が関わったことはなく、勝手に体を売る女性たちが集まってきたというストーリーをゴリ押しするつもりなのだ。

 ここに透けてみえるのは、嫌韓嫌中のレイシストたちの見解が日本会議などを媒介として自民公明の現与党と完全に通じ合っているということである。
 日本は、いまだに自分たちが加害者であったことを認めてはいない。ただ、経済や交易のプラグマティックな要請に応じて、部分的に妥協してきたに過ぎない。

         

 ここに欠如しているものはなにか。単純にいって倫理的な意識の絶対的な欠如である。
 ドイツは、敗戦時、自らの罪過を認め、それを償うこと、再びその罪過を犯す道を塞ぐこと、それによってしか未来はないと考え、いまに至るまでそれを実行している。
 それに対しこの国は、加害者たる意識をいまだに明確にはもたず、被害国からの指摘に対し、なんで今さらとか、逆に自分たちが被害を被ろうとしているかの態度をとり続けている。

 やはりこの国の戦後の受け止め方、戦後民主主義というもののいびつさ、それが生み出した理念も倫理も欠いた政治体制、それこそが問題なのだろう。

 ドイツやメルケルを手放しで礼賛するつもりはない。しかし、そこにはこの国にないものがあることは事実である。
 この書はそれをわかりやすく記している。
 後半で展開されるその経済政策、環境対策、とりわけ、原発容認派だったメルケルが2011年のフクシマの事例を受け止め、直ちにその全廃を決意するに至った過程も面白い。
 フクシマの事故は、その深刻な放射能汚染によって東日本はほとんど居住不可能になるという事態から紙一重のところにあった。それを免れたのはまさに僥倖というほかはないことをメルケルは正確にキャッチしたのだ。
 その当事国は今、40年を過ぎた原発は稼働しないという当初の方針を改変してまで老後の原発を再稼働させようとしている。

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笠松・木曽川・名古屋鉄道の電車 ゆるゆる鉄ちゃんの絵日記

2021-06-15 16:23:12 | 写真とおしゃべり

 学区のサークル活動、今月は地区の公民館での座学の予定であったが、岐阜市の非常事態宣言下、それもままならぬということで予定を変更し、隣の笠松町の木曽川河畔にあるみなと公園に三々五々出かけ、写真など撮影し、後日、座学が可能になった折、発表会など行うこととなった。

      

                   

 ところで、岐阜県と愛知県の県境は、その南西部はほぼ、木曽川を区切りとしている。私の住まいする岐阜市は、県の南部にあり、名古屋からJR東海道線でわずか18分、木曽川の鉄橋を渡れば数分以内に岐阜駅に着く。にも関わらず、岐阜市は県境に接してはいない。岐阜市と木曽川の間にあるのがこの笠松町なのだ。

 私の家は岐阜市の南部にあるせいもあって、車で5分も走れば笠松町で、今回のみなと公園へは信号運が良ければ10分強、ないしは15分もあれば到着する。

 

            

 この笠松町、面白い歴史を持っている。いまは木曽川の北側で完全に美濃に属しているが、かつては尾張国葉栗郡に属していたのだ。尾張国がその権勢に物言わせて木曽川を超えて支配していたわけではない。ではどうしてかというと、この笠松、かつては木曽川の南側に位置していたのだ。それがいまは北側、町が移動したわけではない。
 1586年(天正14年)の木曽川の氾濫により木曽川の位置そのものが南へと移動してしまったのだ。  

  

            

 ということは、それ以前の木曽川は、私の住まいのすぐ南を流れていたことになる。
 木曽川ばかりではない。濃尾三川の他の長良川も揖斐川も、結構な暴れ川で、岐阜県南部の輪中堤の遺構は、その折の人々の抵抗の歴史を偲ばせる。

 笠松に話を戻そう。ここにはもうひとつ、面白い歴史がある。
 笠松は、今回集合したみなと公園の名称が示すとおり、川湊と廻船問屋によって栄えた街だった。美濃の産物はここへ集約され、川湊から尾張へ、さらには伊勢湾へと運ばれた。

 

            

 そんな隆盛もあって、明治の初期、岐阜県の県庁はこの笠松町に設置された。その県庁は明治6年まで存続したが、その後、岐阜市へと移された。
 その理由については、輸送が船から陸上の鉄道などに移りつつある時代、笠松の廻船問屋が、笠松の鉄道駅設置に反対したからだと聞いたことはあるが、それが事実かどうかはわからない。
 ただ、以後に開通した東海道線は、笠松に駅を設置せず、岐阜にしたことは事実である。

 

            

 今回訪れたみなと公園はそんな背景を持った川湊の周辺の広い公園だったが、ゆるゆる鉄ちゃんの私は、木曽川や、笠松競馬場近辺を走る名鉄(名古屋鉄道)の電車を写真に収めてきた。
 鉄橋を渡る電車というのは風情があって好きだ。

 

                  

 一枚だけ、電車ではない写真は、岐阜の長良川で獲れた鮎のなれ寿司(たぶん?)を幕府への献上品として江戸まで運ぶ「鮎鮨街道」を示すもので、笠松町は当時の装束に身を固めた役人や人足が、みなと公園の川湊までそれを運ぶイベント、「鮎鮨街道inかさまつ」を開催したりしている。

 写真の左の歌碑は、この地出身の童話作家・赤座憲久の短歌
   鮎鮓の桶かつぎ受けわたし人びとは江戸への道をひたに走りき
 というちょっと字余りの歌が彫られている。

         
   

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第一回目のワクチン接種など。

2021-06-12 17:17:13 | よしなしごと

 ワクチン接種につき、やめた方がいいという見解もあるようだ。私がネットで見たものは、何やら陰謀論的な視点で書かれていて、この接種によって注入された液体を通じて、私の身体的情報が一元的に管理され、将来の私の行動すら規制されるとするもので、まあ、これにはいわゆるエビデンスはあるまいと思い、受けることとした。

         

 もちろん、ある種のリスクを伴うことは事実だろう。しかし、幸い、たいして清潔で純粋な環境で育っていないこともあって、いわゆるアレルギーはほとんどない。多少あってもなんとか乗り越えてしまう。多少の痛みには強いのだ。

            

 岐阜市に住みながらその中心部での接種には恵まれず、やっと巡ってきたのは、岐阜市の東北のはずれ、車で30分ほどの場所でのそれであった。しばらくは、近くのスーパーぐらいしか行っていないので、運転の手慣らしのためにもいいだろうとそこへ出かけた。

            
 
 岐阜市立岩小学校。校庭に駐車し、体育館が会場。今日明日が集中接種とあって結構な人たちがいた。流れ作業で、各所で少しずつ待たされはしたが、接種まで30分、その後の待機時間を15分と45分間で終了。まあまあの結果だ。

         

 大変なのはスタッフだ。私のようなわけのわからないジジババが押しかけているのだから、それに手順を理解させ、必要な書類をチェックし、番号を呼んでも出てこないのを懸命に探したりとその労苦が偲ばれる。面談する各スタッフにせめてものエールをと、「ご苦労さまです」と声をかける。

            

 最後の接種証明の担当は明るい感じの若い女性。現れた私に、「ハイ、お疲れさまでした。次は6月3日で~す」と元気に声をかける。
 「エ~ト、6月でなくて7月ですね。あなた、やはり疲れているんじゃない」と笑顔で指摘する私。笑顔といってもマスク越しだが、それが通じたのか、その女性、けたたましく笑って、「ありがとうございま~す。ハーイ、7月の間違いでしたっ」。
 笑い上戸なのか、しばらく笑っていた。

         

 会場の辺りは田園地帯。帰途は別ルートで各務原市を通る。しばらく走ると各務原市役所前。近くには、晩年まで付き合いがあり、数年前に亡くなったこの市に住まっていた高校時代の友人が入院していた病院、彼を弔った葬儀場もあった。
 さらに行くと1944(昭和19)年、亡き父が、軍隊にとられる前に、徴用工として働かされていて、母とともにたまの面会日に弁当を持って逢いに来た、各務原飛行場とそれに伴う航空機製作所もあった。

         
 今日は、その後の予定もあったのでやめたが、次回、接種のあとは、それらの跡地を訪ねてみようかとも思った。
 接種後3時間近くが経ったが、何の異常もない。接種した医師に、今宵の飲酒は?と尋ねたところ、私も飲みました、との答えが。

            

 少しでも早く蟄居生活から解放されたい。このままだと心身の老化が一層進む。身体が効く限り、行きたいところも、したいこともイッパイあるのだ。残り少ない時間をかくも制限されるのはまっぴらだ。

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【読書ノート】『PACHINKO パチンコ』 必勝法ではありません。

2021-06-10 01:01:54 | 書評

 『PACHINKO パチンコ』(ミン・ジン・リー 訳:池田真紀子)文藝春秋社

 上・下巻、合わせて七〇〇ページ余の大河小説である。登場人物は四代にわたるコリアンの家族とその周辺の人々。時代背景は一九一〇年、日本が朝鮮を併合した年を起点に一九八九年に至るまで約八〇年にわたる。
 私の生まれた年、一九三八年のノーベル文学賞をとり、私が高校生の時に読んだパール・バックの『大地』を思わせる大河小説である。
 『大地』が中国大陸を舞台にしていたのに対し、『PACHINKO パチンコ』の舞台は当初、釜山・影島(プサン・ヨンド)に始まり、しばらくして日本に移る。ようするに在日コリアンの人々の物語である。

 作者は、コリアン系のアメリカ人女性で、学生時代に、在日コリアンについての特別講義を聞いて以来、それが念頭を離れず、それらをテーマにした短編などを書いていたが、彼女の連れ合いが転勤でともに日本に住むことになり、それを機会に数十人の在日コリアンから取材をし、これまでの知識の足らざる点、偏りなどを修正しつつ、この長編を仕上げたという。

         

 その内容であるが、それが実に面白い。ストーリー展開も波乱に富み、ときには読み手の意図をプイと裏切ったりして進む。寝食を惜しんでというか、つい明け方の三時過ぎまで読んでしまったこともあった。
 
 上巻を読み終えた段階で、不思議なことに気づいた。タイトルが『パチンコ』であるにも関わらず、パチンコの話がまったく出てこないのだ。私の記憶では、上巻三五〇ペジほどのうち、たった一度だけ、しかも単なる一般的な名詞として出てくるのみで、それ自身、タイトルとはなんの関わりもないのだ。
 在日コリアンの人のうち、南北を問わず、パチンコ業界と縁の深い人が多いという一般常識があるので、たぶんそれに触れた展開になるだろうという読み手の思惑は完全にはぐらかされる。

 ただし、これはあくまでも上巻のみで、下巻に入るやアレヤコレヤとするうちにすべてがパチンコ業界に飲み込まれたように事態は進む。
 にも関わらず、それは登場人物たちの活計(たずき)の道に過ぎないのだが、一方、それが在日コリアンによって選択される所以についての示唆もあるように思う。

 これら物語の展開の時代背景として、朝鮮時代の日本統治の問題、戦前の在日への特高警察の弾圧(実質の主人公、ソンジャの夫の牧師は、その仲間が神社崇拝の折、キリスト教の祈りをつぶやいていたのを咎められ、それとの連座として捕らえられ、釈放された折は、死の寸前であった)、戦後も続く制度上の差別(外国人登録証明書発行時の指紋押捺や諸権利の制限)、さらには社会全般にある日常的な差別や排斥の動きなどなどが厳然とあるのだが、しかし、著者は、それについての悲憤や慷慨をあえて述べ立てることはせず、あたかもそれらが自然的条件であるかのように物語は淡々と進む。
 
 登場人物たちも、それへの抗議や抵抗を試みるのではなく、その厄災が自分の身に降りかからないような生き方をひたすら模索して生きてゆく。その意味では、いわゆるプロパガンダ的な叙述は避け、ひたすらリアルな選択による登場人物の日常を記しているといってよい。

         

 しかし、この事実は、こうした背景に対し、作者がニュートラルであるということでは決してない。この著作の動機が、在日であることによるいじめで自死した少年のエピソードであったと語る作者の立場からは、実際にはそれは許されざる事態なのだ。

 著者の立ち位置は、その第三部のエピグラフ(題辞)としてつけた、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』からの一ページほどの長い引用に如実に示されているとみていいだろう。
 「国民の定義を次のように提案しよう。国民とは想像の政治共同体である」ではじまり、「この共属意識のゆえに、過去二世紀のあいだ、何百万、何千万という人々が、そのように限定的な想像の産物のもとで殺し合ってきた、というよりも、自らの命を捧げてきたのだ」で結ばれるその引用は、主として日本という国民国家や、単一民族としての日本人の意識を、単なる想像の産物として退けている。

 それのみか、その射程は、日本と在日、日本と朝鮮半島の歴史とあり方をさらに超えて、国民国家や民族に内在する想像=共同幻想にまで及んでいることがわかる。
 ただし、先にみたように著者は、小説のなかでそれを声高に叫ぶことはしない。
 「想像の共同体」の「共属意識」が、対外的は抑圧や排斥、差別として作用すること、それはこの小説の通奏低音として鳴っているに過ぎない。
 
 大河小説の常として登場人物は複数にわたり、そのそれぞれへの興味は尽きないが、ソンジャが亡き夫の墓に詣でるしんみりしたラストシーンに接するとき、彼女が少女時代を過ごした故郷(コヒャン)、釜山・影島(プサン・ヨンド)を離れ、一九三三年に日本に渡って以降の在日コリアンの長い歴史がそこにあったことをあらためて彼女とともに想起するのであった。

本書の構成は以下の通り。
 第一部 故郷(コヒャン)  1910年~1933年
 第二部 母国  1939年~1962年
 第三部 パチンコ  1962年~1989年

《付記》文体も奇をてらわず読みやすく、そのストーリー展開もとても面白い。うまく脚色し、映画にしたら、アカデミー賞ものだろう。

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【三題噺】遺品・紫陽花・豌豆(?)

2021-06-07 01:12:04 | 写真とおしゃべり

■姉の葬儀に行ってきたことは先般書いた。その折、姉の残したものから、彼女の手になるリボン刺繍をもらってきた。

 やはり故人となった風媒社の創業者・稲垣喜代志さんから、生前にいただいた香月泰男のリトグラフの下に飾った。

    

■うちの紫陽花、雨の降る前は淡い赤色だったが、一日、雨が降ったら色合いの赤みが増した。

 それともうひとつ、昨年は青っぽい花だったのに、今年は赤。どうしてなんだろう。そんなことだから、その花言葉が、移り気・浮気・無常などとつけられたのだろう。
 個人的にいえば、謹厳実直よりその方が魅力的だ。ノマドロジー。

           

■スーパーで98円で買った豆苗、一度食した後にまた伸びて来たので、それをプランターに植えて、百均で買ってきた添え木などしておいたら、一メートルほどに伸び、数個の花をつけた。

 果たしてちゃんと実がなるだろうか。どんな豆が付くのだろうか。そしてその味は・・・・?

             

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水無月はじめの絵日記

2021-06-05 17:50:20 | ひとを弔う

 六月は梅雨時で水に縁の深い月なのになぜ水無月なのか、それは「無」は「なし」ではなく「の」の意味で「水無月」=「水の月」だからだという。水無月を「水月」と表記することもあるようだ。
 以下は、その月始めの絵日記。

         

 午前中、返却日のため開館を待ちかねて岐阜県図書館へ。岐阜市の非常事態宣言に伴い、ご覧のように「臨時休館」。ただし、カウンター業務はやっていて、返却と予約をしたものの貸し出しのみはやっている。
 5冊を返し、3冊を借りる。

         

 慌てて帰宅し、かんたんな食事を済ませ、姉の通夜と葬儀のため着替えて出発。
 県外はおろか、市外へ出るのも今年3月以来。

         
            

 名古屋から新幹線で三島へ。名古屋の新幹線ホームは人の姿もまばら。果たせるかな、乗車した2号車自由席は私一人のみの貸切状態。
 途中でそれぞれ一人づつ乗ってきて、三島へ着いたときには三人。私が降りて二人っきりになったが、おそらく東京まで五人は乗らなかったのではないか。
 なお、好天ではあったが、富士山は、「頭を雲の上に出し」状態。

           

 三島からは伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り伊豆仁田へ。
 電車はアニメかなんかのラッピング車両だったが、それがなんだかはわからない。
 来年の大河ドラマはこの辺ゆかり北条一族、とりわけ北条政子に縁深いとあって、駅構内や沿線に幟や旗が賑々しい。

         
         
 
 駅には私の姪のそのまた子どもが迎えに来てくれた。姪の子といっても、もう立派な成人だ。

 姉の家を外部から一望し、通夜の行われた葬儀会場へ。あまり会ったことのない親戚たちと引き合わされる。
 別のところで書いたが、姉と私は、母の病死、父の戦死に伴い、幼くして別々のところへ養子に出され、それ以後、四〇歳を過ぎるまで相互に逢うことなく過ごしてきた。だから、お互い八〇余年の生涯で、交流があったのは後半の四〇年ほどにとどまる。

         

 四〇歳過ぎに、姉が私を探し出してくれての出会いはそこそこ感動的で、それを事後に聞いたTVのディレクターからその頃流行りの「再会番組」に出ないかと誘いがあったが、もう逢ってしまったのだからといって断った。
 彼は、「それでも初めてのフリで出ればまんざら嘘ではないのだから」といっていたが、それも断った。彼の言葉から察するに、この種の番組、そうしたヤラセや仕込みがやはりあったのではないだろうか。

         

 お互い、子供の頃を知らないから、姉弟喧嘩をしたことがない。もちろん、再会してからも。そして相互の青春時代も知らない。それらはホームドラマなどで想像するしかなかった。

         

 通夜のあと、飲める者たちで姉を偲んで献杯と歓談。姪のうちの一人の連れ合いは、岩手県宮古の出身で、一〇年前の津波で身内の三人を亡くしている。そのうち、彼の弟は車の修理業をしていて、高台に逃れる余裕はあったにもかかわらず、顧客から預かっている車を避難させねばと、とりに行って津波に飲まれたという。

 夜は、姉の家でまさに姉の寝ていたベッドで休んだ。
 
 翌日の葬儀もとどこおりなく終り、三島の郊外の焼き場で焼かれ、姉は真っ白な骨となった。

         
 
 伊豆半島の付け根あたりの、ぽっこりとした山々が印象的だった。

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『新対話篇 東浩紀対談集』ノートをとったまんま

2021-06-03 23:41:49 | 書評

 表題のものを読み、もう一度目を通してきちんとまとめてみようとしていたところ、姉の葬儀で二日を費やすなどして図書館への返却日が来てしまった そこで文字通り、「読書ノート」で、ノートしたままを書きとめておくこととする

            

 表紙の写真で明らかなように、以下にノートした以外の人との対談もあって、決してそれらはみるべきものがなかったというわけではないが、いま私が抱えているテーマとの関わりでノートをとったために省略されている
 また、私のノートのとり方として、読点はしるすが句点は省略するので、以下の表記もそれに倣っている

 なお、ここでの東は単にホスト役にとどまることはなく、相手によってはむしろ東の主張のほうが目立っていることもある その意味では、東の立場を知るいい機会でもあるし、彼がこの対談集に「新」の接頭語をつけた「対話」というものへの意義付けを表しているともいえる
 それでは、荒削りなノートであることを承知で読んでいただきたい

中沢新一と
中沢 盆踊り=生者が作る踊りの輪の中に死者たちを招き入れてともに踊るという趣旨
 死者を生者の世界に祭のイリュージョンを通して取り込むこと
 死者は、国家や靖国神社に帰るのではなく、竿灯の先に帰ってくる
 竿を立てて死者を迎える人びとはそれを通じ死者とのある種のつながりを再確認する

         


東 戦後日本では、国家が慰霊に失敗し続けている しかし大衆の無意識のレベルでは慰霊の行為は続いていて、国家の硬い層の下の、種に対する別の感性が顕在化している

 震災地や原発被害地跡に記念碑などの建立をするのではなく、(核汚染で人が離れたため発生した)放れ牛の生存なども含めた動植物の聖域(サンクチュアリ)とする
 明治神宮 元は練兵場があった殺風景な箇所を一〇〇年かけて見事な森にしてしまった 資本主義的な時間から解放された庶民のためのサンクチュアリ その方が、追悼施設や慰霊碑を建設するより、はるかに列島文化本来の慰霊に近い


加藤典洋と
東 今やリベラルの側も天皇制は尊重し天皇に対して敬意を表すのが基本 (論壇でも)若い論客もまったく天皇制そのものを疑問に思わない
その不気味さ

加藤 天皇が亡くなった時、天皇を「彼」と書いたのは私一人(?)
 共和制への道が自然 天皇は京都の御所へ帰ってもらう
 天皇で安倍を止めるという意見 内田樹などの問題
 
【六文銭の私見】天皇専政の復権が現実になるとしたら、たとえそれが安倍や菅が対象であっても、天皇の専政は拒否すべきだ 天皇が安倍や菅に対してより公正でいられるとしたら、天皇がその憲法の規定にある限り、政治的にニュートラルだからにすぎない
 ようするに、天皇は政治的な決断を迫られることはないから しかし、もし天皇が政治的決断を下すこととなれば、事態はまったく変わってくる
 安倍や菅の政治的決断が公共性を欠いたパーソナルなものであることはとことん批判すべきだが、それに代えての天皇専政はまったくのナンセンス
 
國分功一郎と
國分 日本においての憲法論議 文学者が文学的に語ってきた 憲法学者も文学的に語る人が多い これは評価すべき面もある

東 憲法そのものもいろんな思惑(GHQ 当時の日本の支配層など)が絡んだ重層的なもので、国民が政府を縛る合理的なものではない その意味で憲法そのものも文学的
 商品を開発する、映画を作るなどなど様々な行為があるが、必ず目的とはズレる何かが生じる そのズレが文学的であり哲学的な感覚の発生 私=東の言葉では「誤配」

東 ベ平連にあって現代のリベラルの運動にないもの それは非合法なものへの容認 ベ平連の実践→脱走兵への支援 スエーデンのパスポートの偽造して海外へ
 現在の運動はこれらを許容しない どう行列をさばき大衆をコントロールするか 警察に睨まれないよう終電できちんと帰りましょうまで
 

 ベ平連の時代 祝祭的な市民運動と非合法すれすれの運動はセットになっていた 鶴見俊輔自身が座り込んでごぼう抜きにされている 祝祭は実体的な権力闘争につながっていた
 いまは非合法なものは完全に排除され、残ったのは文化祭のような安全な祝祭 完全に権力のコントロール下にあるガス抜きに過ぎない


            

*國分 正義=合法性ではない 市民的不服従で徴兵・兵役に応じなければ非合法 ただしそれは正義になるかもしれない
 非合法化を恐れ、文化祭に終わっているのはジャスティス(正義)ではなくコレクトネス(正当性)にしか過ぎない

*東 コレクトネスはあくまでの現在の時間のうちであるがジャスティスは時間を超える

 闘技民主主義と熟議民主主義の統合として合意形成(アーレント的な政治概念) これが機能しないとすべてを多数決で決めるしかないことになる

柳美理&飴屋法水と
 種の論理・数の論理が内在している論理=一定数の個体は死んでも構わない 生き残りさえいれば・・・・
 その実践的適応としての戦争 あるいはある体制内の実践としての全体主義


 以上、まったく不十分なまとめだが、文中にもある「闘技民主主義と熟議民主主義の統合として合意形成」が強調されていて、これがまた「新」対話篇というべき、対談、座談に寄せる東の思い入れでもあるようだ
 

コメント (2)
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