六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

これって何? 私は監視されている?

2012-08-30 00:53:11 | よしなしごと
 夏も終わりに近いある昼下がり、私はトボトボと歩いているのでありました。
 「上を向いて歩こう」という歌があります。
 しかしこれは危険です。
 上を向いていると足下にある障害物をそれと察知することはできません。
 私のような老齢者にとっては、何かに足を取られて転ぶということは致命的になることがあるのです。
 そのせいで足腰を痛め、そのまま寝たっきりになったという怖~いお話を幾度となく聞いているからです。

 したがって、歩行はどうしても足元に注意しながらということになります。
 これにはちょっとした副産物が生じる場合があります。
 道に落ちている小銭などを見つけたりするのです。
 先般も目の端にキラリと光るものがあったので、シメタと思い、できるだけ不自然にならないよう、かつそれと確認できたらサッと拾えるよう、幾分斜行をしながらもそちらへと歩を進めたのでした。
 ビールの栓でした。
 世の中には紛らわしいことをする人がいて困ります。
 ビールの栓は要らないのです。
 だから拾いませんでした。

                
              下方はアウトレットの靴がよく似合う私のおみ足

 つい先日、やはり足元に注意しながら歩いていると何かちょっと派手な色彩のものに出くわしました。
 2、3歩行き過ぎてからゆっくりブレーキを掛けて立ち止まりました。
 車や自転車ではないですよ。
 歩行をしていても急速に立ち止まるのは膝に負担がかかって危ないのです。
 バスケットボールやってる人って、それで膝を傷めるじゃぁないですか。
 後戻りをしてそれを改めて見ました。
 立ち止まって正解でした。
 こんなものを見逃すようでは街角ウオッチャーの名がすたります。
 はじめは極彩色の虫か何かではと思いました。

 それは歩道上で、自転車専用道と人専用道の境界を示す白いライン上に、というかそのラインからはみ出るようにしてありました。
 よく見ると、いくぶん派手な被覆をまとったコードか何かのようで、もともとはそのラインの下に埋め込まれていたものが、表面の摩耗とともに表層に姿を現したようなのです。

 ところでこれはいったい何でしょう。
 どうも亀裂の形状からしてまだ前後に伸びているようなのです。
 なぜ、こんなものがここに埋めれられているのでしょうか。
 なにか特殊なセンサーでしょうか。

                

 自己中で、おまけに陰謀論に弱い私はつい思ってしまうのです。
 これは私の行動を監視するための装置に違いないと。
 というのは、この場所は私が名古屋へ出るとき、ほとんど必ず通りかかる場所なのです。
 私がここを通りかかるとセンサーがそれをキャッチし、追跡電波が発信されて、名古屋のどこで誰に会ったのかなどが記録されるのです。
 たとえば、この前、とある居酒屋でお酒の盛りをよくしてもらいたというさもしい気持ちから、酒を注いでいるお姐さんに、「あなたって魅力的ですね」などと心にもないことをいったりしたこともちゃんと記録されてしまっているのです。

 なぜそんなにまでして、国家の存亡などには全く関わりない私の些細な情報がスクラップされているのでしょうか。
 それはわかりません。
 しかし、誰がそんなことをしているのかはわかります。
 ほら、今これを読んでいて、「チッ、バレたか。しょうがないなぁ」と顔を歪めているあなた、あなたが犯人です。
 そしてあなたは、その首にペンダントのようにかけているUSBメモリーにそっと手を触れるのです。私の行動の記録がびっしり詰まったそのUSBメモリーに。

 でも、本当にこれってなんでしょうね。
 今度行ってみて、もうその痕跡すらなかったりしたらやはり怖いですね。


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私の野菜用ザルとそのルーツたち

2012-08-28 15:01:57 | 想い出を掘り起こす
 自分が使う道具や器具を自分で作るとか、あるいは身近にそれを作る人がいるとかという時代は日本では殆ど終わったようです。ましてやそれが、手作業に依るものだとしたら、道具や日用品というよりむしろ工芸品として珍重されます。

           
                  私の野菜用ザル・1

 ただし、私の祖父や祖母の時代の農山村では必要な道具は出来合いのものではなく自分が関与するというのが普通でした。
 例えば、私の祖父の使っていた鍬や鎌は、その金属部分は村の鍛冶屋が作ったものでしたが、その柄の長さや太さは自分で作ったり、アレンジしたりしたものでした。

           
                   私の野菜用ザル・2
 
 したがって祖父の鍬は、どこにでもあるそれのうちの一本ではなく、まぎれもなく祖父のものであり、それを介して祖父と大地とが交感するものでした。
 もともと、道具は人間の手足の延長ですから、人びとは自分の手足に個性を見出しそれを大事にするように、道具を大切にしたものでした。

           
             中国山西省の山村にて 中央のくぼみにある
 
 現在でも、いわゆる職人と道具の関係はそうなのですが、かつては作業や労働をするひと全般がその道具との関係にそうした個別の親密性を持っていたのでした。ようするに、自分はこの道具を通じてのみ、自然やそこから得られた素材と相まみえることができるという誇りと感謝のようなものです。

 それがゆえにでしょうか、道具にまつわるタブーもありました。
 例えば、私の祖父の鍬の場合(のみではなく一般にそうだったと思いますが)、それは横たえられている時でも、その柄をまたぐことは決してしてはならなかったのです。それをまたぐとそこから折れやすくなるというのです。そればかりではありません。またいだ私のアソコが曲がるというのです。
 (それでかなぁ。ア、これは読まなかったことにしてください。え?アソコって?もちろんおヘソのことですが、それ以外にもなにかあったかなぁ。)

           
              左に立てかけてある径2mほどの年季物

 なぜこんなことを書きだしたかというと、大量生産でどこの誰が作ったものかも分からず、壊れたら買い換えるという今日の道具類とは一味違うものを貰い、それを使っているからです。

           
                 これで直径1mぐらいか 

 ここに載せた野菜カゴというかザルは、中国の山西省のおみやげで貰ったものです。
 私はこれを、根菜類など冷蔵庫に入れなくていい野菜用に使っています。これらの野菜は私が近くの農協で買ってきたものです。

 その他の写真は、昨秋、その山西省の山村を訪れた折のものです。ここには、私がそれと意識しないで撮ったにもかかわらず、大小のそれらのバリエーションが写っています。ほかにも、これに紐をつけて吊るしたものなどもいっぱいありました。
 それほどこのザルは、その地方の山の民の間では必需品として尊重されているのです。

           
           あるブログのタイトルから ナツメの収穫に使われている
 
 私はこれを実用に使っているつもりですが、しかしやはり、インテリアとしての側面が強いように思います。それは、あの「水は天からもらい水」という山の民の暮らしというアウラから切り離されてしまって私の手元にあるからでしょう。
 しかしながら、その時代のズレはあるものの、幼少時(祖父や祖母のもとに疎開していた折です)に体験した当時の農村、そしてそこでの道具のありようとの接点を持つものとして、このザルは私にとっては大きな存在感を持っています。
 そうであるがゆえにこれからも大切にしてゆくつもりです。


 

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20世紀の絵画だ! マックス・エルンストを観る!

2012-08-24 15:32:01 | アート
     写真は美術館近辺のものです。

 マックス・エルンストの「フィギア ? スケープ」と題した美術展にいって参りました。
 愛知県美術館です。
 実はこの美術展、開催してすぐに、ちょうど会場近くで少し時間が空いたので、観ようかどうか迷ったのでした。しかし、その折の時間がせいぜい40分ぐらいしかなかったので、そんな駆け足ではと思ってやめにしたのでした。

             

 それが正解でした。というのは程なくして、日頃、お世話になている方からチケットを送っていただいたからです。そして、そのお手紙には、ご自分もご覧になったのですが、やはりじっくり観たほうがと書き添えられていました。それはまったくその通りでした。実際に私がそれを観るのに要したのは、途中小休止をしながらとはいえ、ゆうに2時間を越えたのですから。

                

 マックス・エルンストについては、いわゆる美術史上の位置づけのようなものは知っていましたし、その作品のどれかも観たことがあったと思います。
 しかし、その個別性のようなものをはっきり確認するほどまとめて観たことはありませんでした。
 当然のことですが、ブルトンなどと同様にシュール・リアリストと云われても、その作風にはあきらかに独自の感覚に基づく特有の表現があり、それらを観ることなく彼を語るわけにはゆきません。

             

 様々な方法を模索した人でもあります。コラージュ(貼り合わせ)、フロッタージュ(擦りだし)、グラッタージュ(削りとり)などがそれですが、これらの表現は、必然と偶然、人為的な計算とまったく恣意的なもの(それは当然シュール・リアリズムの意識と無意識の境界の追求と重なるのですが)などがさまざまにオーバーラップする境地を追求したもののように思いました。
 なぜそのような次元にあえて挑むのか、それは彼の次の言葉が指し示しているように思います。
 「外部であると同時に内部であり、自由であると同時に捕らわれている。この謎を解いてくれるのは誰だろう?」

             
 
 この言葉は、19世紀後半から始まった新しい人間観(マルクス、フロイト、ニーチェ、ソシュールなどなど)の延長上にあるものであり、思えばシュール・リアリズムそのものが、そうした人間観の美術への適応ともいえるものであったわけです。またその思想上の歩みは、例えば、ハイデガーなどの哲学的人間観を経て、いわゆるポスト構造主義にまで至るものでした。

 以上はいい古されている解説の域を出ませんが、彼の作品に戻ってその感想を述べてみます。
 あまり一般的な評論などでは見かけないもので、以下は私のきわめて主観的な感想ですから大いに的はずれだろうと思うのですが、あえて書きます。
 それは彼の作品が美しく心地よいということです。
 ダダの作家やシュール・リアリストの作品にそれをいうのはお門違いかもしれません。
 しかし、本当にそう感じたのです。
 確かに彼は意表を突くようなさまざまなフィギアを生み出します。しかしそれらのどれをとっても、グロテスクでななくすんなりと受容できるのです。

             

 とくにタブローなどでの色使いにそれを強く感じました。
 暗いものは暗いなりに、明るいものはそれなりに、どれをとってもその色使いや色彩相互の関係がとてもクリアーで心地良いのです。
 不快なものによる衝撃というのも美術のひとつの方法かもしれません。
 しかし、彼に関する限りどの作品にもそうしたものがありません。
 かといってそれが既存の枠内に収まっているわけでもありません。

 彼は、先にみた「外部であると同時に内部」という表現を、「鬼面人を驚かす」といった手法によってではなく、極めて自然に追求したのだろうと思います。
 これを退廃芸術として処分したナチは、やはりその審美眼が相当歪んでいたのだと思います。
 
 見終わってからもある種の爽快感が残りました。いいものを観ることが出来ました。
 チケットを送って下さった方に心からお礼を申し上げたいと思います。
 そして、そのご助言通り、今回は前後に(映画などの)予定を入れず、それに専念してじっくり味わうことができてよかったと思います。

 ちょうど処暑に相当する日、暑さはさほど和らいではいませんでしたが、美術館を出るともう西陽が差し、日が短くなったことを示していました。

    

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領土問題の「最終解決」 それとも・・・・・・

2012-08-21 15:07:16 | 社会評論
 中国であろうが韓国であろうが、そして日本であろうが民族主義などというのは碌なものではない。
 自民族の主張が唯一正しく、多民族はつねに誤っているというその主張は、民族の優劣にまで及ぶ。
 
 それが領土問題になると利害も絡まりいろいろ複雑になる。
 しかし、そこにも、利害にかかわりなく民族の面子のようなものを振りかざしてかえって問題をこじらす人たちがいて、事態はいっそう複雑になる。

              

 とはいえ、領土問題の「最終的な解決」という点に関しては、2chなどで猛り狂っている人たちの言い分が完全に正しい。
 どうあがいても韓国が竹島の実効支配をやめて、「はい、お返しします」というわけはないし、中国や台湾が尖閣列島への所有権主張をやめるはずはない。
 またロシアが、北方四島を「はい、どうぞ」と返してよこすはずはない。

 だからその「最終解決」はそれらの諸君がいうように軍事力をもってするほかはない。
 竹島には日本海軍や空軍を派遣し、それを奪還すべきだし、尖閣諸島にはより強固な日本軍の基地を建設すべきだ。
 ロシアとも正面切って戦端を開き、出来れば4島はもちろん、樺太や千島列島をも取り戻すべきだ。
 そうしなければ領土問題の「最終的な解決」などはない。

 いくら過激に見えようが、「最終解決」を図ろうとすればはこれしかないのだ。
 事実これらの島々は、過去の戦争によってその領有権が移動してきたのだ。
 だから、「最終的解決」は戦争しかない。
 「一億火の玉総決起」、「討ちてしやまん」だ。

                   

 しかし、戦争を回避しようとすれば自ずから他の方法が検討されねばならない。
 それがリアル・ポリティックスの道である。
 何かがあれば日・中・韓・ロがお互いに「まことに遺憾」を繰り返していればいいのだ。
 それをどの程度の語調でいうかは政治家の力量の見せ所である。
 それは緻密な計算の上で口にされねばならない。
 言ってる本人がトサカにきているようなら政治家失格である。
 それはその折々の外交辞令、あるいは必要な儀式として行われるべきなのだ。

 いずれにしても、扇動的な言説は慎むべきである。
 大津のイジメ事件で、いささかネジの緩んだ大学生が2chに煽られて金槌で「テロル?」を挙行したように、やはり、リアル・ポリティックスの機微をわきまえない幾分ショートしたひとが、テロルに走ったりすることはありうるからである。

 尖閣諸島へ上陸してうっぷんを晴らすなど単なるマスタベーションにすぎない。
 それでは何も進展しない。ただ自分のお手々が汚れるだけである。
 もし上陸するなら、竹島の方へゆけばいいのだがその勇気はあるまい。
 煽っているのではない。彼らの尖閣上陸がいかに児戯に等しいかを指摘しているのだ。
 
 繰り返すが、相互に煽るのはやめた方がいい。ネットの仮想社会で慣れた連中にはリアルな事態がわからない。まるでゲームで悪をやっつけるように現実を観ている。ほとんどの連中は行動など起こしはしないが、なかには前後の見境がつかないのもいる。
 第一次世界大戦がサラエボでのオーストリアの皇太子に対するテロルから始まったことを想起すべきだ。

              

 私の言いたいことは、領土を主張するなということではない。またその回復のための外交努力を放棄しろということではない。
 その短絡的な解決を求めてはならないということである。
 機が熟すのを待ちながら、それまでは、「我が国固有の…」とか、「まことに遺憾」とか、「許しがたい」とかいう声明をお互いに交換しあっていればいいのだ。

 ちょっと心配なのは、韓国の李 明博(イ・ミョンバク)大統領が大統領選挙を控えたパフォーマンスで波風を立てたように、落ち目の民主党の野田総理や玄葉外相にもここらで何かパフォーマンスをという気負いがないかどうかである。
 その意味では森本防衛省が李大統領のパフォーマンスを「内政問題絡みだ」と評したのは全く正しい。

 冒頭に書いたことをもう一度繰り返す。
 中国であろうが韓国であろうが、そして日本であろうが民族主義などというのは碌なものではない。
 自民族の主張が唯一正しく、多民族はつねに誤っているというその主張は、民族の優劣にまで及ぶ。
 そして、そこからナチスの優生学的主張まではほんの一歩なのだ。

 

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【絵日記】日記らしい日記 かな?

2012-08-19 16:09:33 | インポート
            

 今日は絶不調。
 昨夜、パソコンの前で寝込んでしまったのがその前兆なのだろう。
 浜口京子さんの親父さんよろしく、「気合だ、気合だ!」と自分に活を入れてみたが、どうやら寄る年波と夏バテにはあまり効き目はないようだ。

 パソコンの前で倒れるというのには、苦いというか怖い経験がある。
 今から13年前、パソコンのキーボードに顔を押し付けたまま気を失ったのだ。
 自力で目覚めたが、左手が完全に麻痺していた。
 診断は脳梗塞。

 さいわい最も軽い部類で、10日間の入院と一ヶ月半ぐらいのリハビリで回復したが、その折の恐怖感はある。
 昨夜も目覚めた折、五体の状況を確かめたぐらいだ。

 で、今日であるが、起きているのが辛く、何もする気が起きないので、ピリン系のSG顆粒を服用し、今まで午睡をしていたら幾分回復したようなので、初めてパソの前に座った次第だ。

 相変わらず陽射しは強いが、「風のおとにも驚かれぬる」で、いい風が入ってくる。
 やがて、ツクツクボウシも訪れるだろう。
 そうすれば私の73回目の夏は終わりを告げる。

 あ、そうだ、まだ宿題が残っていたっけ。
 これをこなさないと、本当の夏は終わらない。

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夏の夜の「くゎいだん」 帰っていった母

2012-08-18 14:48:05 | よしなしごと
 ムシムシと寝苦しい折から、やっと寝付いてしばらくしたと思ったら何やら階下でゴトゴトと物音がします。うるさいなと思いながらしばらくそのままで聞いていましたが、どうもただならぬ様子なので仕方なく起き上がって階段を降りました。
 
 するとどうでしょう、玄関の戸が開けっ放しになったままなのです。何やら雑然とした感じで、物音はやはり奥の部屋から聞こえます。
 とっさに泥棒だろうと思いました。
 それで、逃げられないようにと玄関の戸に施錠して、携帯で110番しようと思いました。

              
                1945(昭20)年 国民学校一年生へ入学

 すると、奥の部屋から母の声が聞こえて、「鍵をしないでおくれ」とのことです。
 そして、母が姿を表しました。淡い色の着物姿です。
 「どうして戸を開けっ放しにしておくんだい」
 と、尋ねる私。

 「そりゃあ、これから出かけるからさ。そのあとで鍵をしておくれ」
 「出かけるってどこへさ」
 「決まってるだろう。帰るのさ」
 というと母はするすると玄関を出てゆきます。

                  
                1950年代のはじめ私がおもちゃのカメラで取ったもの

 それを見送りながら、私はハッと気づき、烈しい衝撃に襲われました。
 母は晩年、意識もない寝たきり状態で、その声など何年も聞いたことがなかったのです。
 そして息を引き取ってからもう三年以上も経つのです。
 慌てて目を凝らしたのですが、母のうしろ姿が闇に消えるところでした。

 ここで目が覚めました。
 体全体にねっとりした汗がまとわりついていました。
 8月16日の夜のことでした。


     (創作ではありません。実体験です。  念のため)
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続・続 田園まさに荒れなんとす &散歩道から

2012-08-17 15:02:01 | よしなしごと
 このシリーズは長年バス通りにはみ出すほどの稲穂をつけていた田が、今年は休耕したことから始まりました。私が40年間見てきた田で、去年の切り株からその本能に応じて稲の葉が伸びているのが哀れでした。
 ここではまた、道に座り込んで稲の穂の付き具合を調べている老女にも出合いました。

 
 
 その後、どうなったかが以下の写真です。
 埋め立てられて宅地か何かになるもようです。
 都市の郊外への侵食がひところほどの勢いはないというものの、やはりオセロゲームのようにかつての田畑はより貨幣価値を生み出す土地へとひっくり返ってゆきます。

 かつてたわわに稲穂をつけていた田、そこで生きていた老女の歴史は閉ざされました。
 もうそれを思い起こすひともいなくなるでしょう。
 感傷でいうのではありません。それはある種の必然でしょう。
 しかし、私が生きている間は、それを記憶に留めたいと思うのです。

 
 
 そこを確認したあと、すぐ近くの川の畔を歩きました。
 男系家族三代で釣りをしているのを見かけました。
 かつては魚類であふれていた川ですが、前後の接続を絶たれ、何箇所かの深みにしか魚はいません。
 対岸から観ているときに魚が釣れました。
 孫が「キャッホー」とはしゃいでいます。
 こんな光景は観ている方も幸せになります。

 「フナですか」
 と、問いかける私。
 「いいえ、モロコです」
 と答える祖父らしきひと。

 
                            ワーッ、釣れたっ
 
 こんな問答に少し癒されて帰宅しました。
 少し筆が進みました。

 そうそう、アキアカネを見かけました。
 山から降りてきたばかりで、まだ、赤さは不十分なのですが、やがて文字通り茜色になってそのへんを飛び交うでしょう。

 悲しい報告をひとつ。
 たびたび書いてきましたが、こんな半田園地帯なのに、ついに今年はツバメを見かけずに終わりそうです。
 ここに移り住んで40年以上、初めての経験です。
 街なかですら見かけるというのに、なんだか不吉な感じです。

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【タイム・カプセル】軍国少年の8月15日

2012-08-15 01:47:59 | 想い出を掘り起こす
 1945(昭20)年、私は国民学校一年生の軍国少年でした。
 男の子は成人したら軍隊に入り天皇陛下のために命をなげうって戦うのが当たり前のご時世でしたが、私には大きな悩みがありました。
 それは、絵本で観る海軍さんがとても凛々しく憧れの的であったのですが、ふと街で出った陸軍将校の帯刀騎乗姿もとても雄々しくて、さて、どちらへ入ろうかと小さな胸を痛めたものでした。
 いずれにしても戦場で華々しく命を散らすものと決め込んでいました。

 しかし、現実の戦争では日本への包囲網はどんどん縮小され、その制空圏もほとんど保てない状況になり、父を戦場にとられていた私と母は、母方の田舎(大垣の郊外)へ疎開することとなりました。

               
 
 入学以来、戦前の教育はあまり覚えてはいません。
 校門の出入りで、奉安殿と忠魂碑への敬礼を怠ったといって教師からビンタを食らったことは覚えています。
 わずか6歳の子供を張り倒すのですから児童虐待そのものですが、当時の私は、皇国の学徒たることをわきまえなかった自分が悪かったと、ひたすら反省をするのでした。

 3月や5月の名古屋空襲もこの疎開地で見ました。灯火管制で明かり一つ無い闇の中、東の空が赤く赤く不気味に染まっていました。

 7月9日の岐阜空襲はより身近で、しかもこの間まで住んでいたところだけにより衝撃的でした。炎のゆらめきや時々何かが炎上する火柱、それに爆発音のようなものも聞こえました。子供ながらに、自分が遊び回っていた街並みや路地があの炎の餌食になっているかと思うと、膝頭が震えました。

            
             空爆翌日の岐阜市 上で蛇行しているのが長良川

 「次は大垣だ」と誰かが吐き捨てるように言いました。岐阜空襲からちょうど20日の後、それは的中したのでした。今度は外へ出て見る余裕などはありませんでした。防空壕にひと固まりになってひたすら攻撃が止むのを待っていました。
 B29の爆音は不気味でした。ヒュルヒュルというのは焼夷弾でしょうか。時々防空壕の中まで差し込むように明るくなるのは、爆撃目標を目指するための照明弾でした。

 さしたる街でもない大垣への空爆は執拗に続きました。この街は繊維の街で、大きな紡績工場などがたくさんあったのですが、それらが全て軍需工場になっていてそれが標的にされたのでした。
 私の疎開していたところは郊外でしたが、そこにもそうした工場が一つありそれが狙われたのでした。

 突然防空壕全体を揺さぶるような振動があり、大音響とともに天井や側面がバラバラと崩れました。それだけではありません。入口付近の土砂が崩れてほとんど生き埋め状態になってしまったのです。
 大人たちが必死で素手で泥をかき分け、やっと通路が確保できました。
 その頃にはさしもの攻撃も収まって私達は恐る恐る防空壕をでました。

              
                焼け野原の岐阜市中心部 柳ヶ瀬付近

 先ほどの轟音と振動は、防空壕から十数メートルのところに落ちたたぶん一トン爆弾か何かのせいでした。そこは畑だったのですが、直径10メートルほどの穴がえぐられ、土砂が散乱していました。
 この穴は戦後も放置され、いつの間にか水がたまり、誰かが魚を放ったのかちょっとした池になっていました。

 それは後の話で、私と母が住んでいたトタン囲いの掘っ立て小屋が大変でした。焼夷弾の飛び火でしょうか、屋根の一部がめらめらと燃えているのです。近くに水などはありません。あるのはやや大きめの肥溜めだけです。
 大人たちは躊躇することなくそれを柄杓で振り掛けました。そのせいで、なんとか半焼で済むことが出来ました。
 しかし、その後の臭いこと臭いこと・・・。「これがホントの焼け糞だ」と笑いあったのはもっと後のことだったと思います。

                   
                       広島!

 木造校舎は跡形もなくペロリと焼けてしまいました。もう夏休み中でしたが、翌日に見にゆきました。消防団の人たちが焼け跡を捜索していました。金属類を探し出し、献納をして兵器にするつもりだったのでしょう。

 その後、広島や長崎に「特殊爆弾」が落とされたことも聞きました。

 さて、8月15日のことです。暑い日でした。朝から裸同然で遊び回っていた私を母が呼びに来ました。これから陛下様のありがたい玉音放送があるからとのことで、白いシャツとズボンを穿かされました。

           
                    玉音放送を聴く
 
 母屋へゆくと、母の実家の人たち、私のような疎開者、それに近所でラジオがないうちの人たちなど、約20人ほどが集まっていました。
 いつもは棚の上にあるラジオが床の間を背にした机の上に置かれ、叔父がかしこまった顔をして盛んにチューニングをしていました。
 みんな、そちらへ向かって正座をしました。

 なんの放送だろう、たぶんいよいよ本土決戦に備えよということだろうか、などと囁いている人もいました。 
 やがて放送が始まりました。チューニングが悪く雑音の多い中で、まるで人間離れをした(現人神だったからだろうか)声がとぎれとぎれに聞こえてきました。それが当時の日本人の、99.9%の人が初めて聞く天皇の声でした。
 またそれは、私が初めて聞くたぐいの日本語で、内容については片言隻語も理解することはできませんでした。

                  
                      敗戦の詔書   
 
 でもそれは私ばかりではありませんでした。周りの大人達もほとんど分からなかったようなのです。
 そのうちに少しばかり学の有りそうなのが恐る恐る、「戦争に負けたんではないだろうか」と言い出しました。恐る恐るには訳があります。当時、負けるなどと口走るのは禁句で、官憲に知れようものなら憲兵隊へ連行され拷問されそうな時代だったのです。
 「よし、そんなら役場へいって聞いてくる」といってひとりが駆け出しました。

             

 暑い日差しと蝉しぐれ、これが私の8月15日でした。
 
 

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続・田園まさに荒れなんとす

2012-08-11 15:19:42 | よしなしごと
 けたたましかったオリンピックもやっと終わろうとしています、などと批判がましいことを書きながらちょくちょく観ていたことも事実です。
 
 その間に消費税の値上げは決まってしまうし、「近い将来」と「近いうちに」の蒟蒻問答のような騒ぎはあるし、なんだかなぁといったところですが、しかし暑いですね。
 うっかり暑中お見舞いなどといいそうですが、でも気がつけばもう立秋過ぎ、そこでみなさんに「残暑お見舞い」を申し上げます。

            

 あ、そうそう、上に述べた蒟蒻問答の回答はどうやら以下のようですね。
 「近い将来」プラス「何らかのサゼッション、あるいは密約」イコール「近いうち」。
 いずれにしても「同じ」与党内の出来事のように思えますね。
 むしろ、「《民主党》と《自民党》の相違を明確に述べよ」という方が難問になって来ましたね。

 まあ、岡目八目の政治談義はこのくらいにして、私の近くで目撃した事実をひとつ。
 いろいろ用件があって郵便局へたびたび出かけます。
 徒歩か自転車でゆくのですが、そのルートには順列組み合わせでいろいろあって、その折の気分に準じてコースを変えています。

            

 先般、久しぶりにあるコースを通ったのですが、そのコースの中ほどにあるお楽しみポイントの光景が一変していたのに驚きました。
 そこはいわゆる貸し農園で、100坪前後の土地が何区画かに分割されて、それぞれが思い思いの作物を作っていたのです。
 そこで私は、野菜の花や、野菜の赤ちゃん、立派に実ったもの、収穫されずに残った巨大大根などなど、十分眼を楽しませてもらい、かつまた、それらをカメラに収めてきました。

 ここに載せた写真は、変わり果てたその農園の現在の姿です。
 ほとんどのところで耕作が放棄されているのです。
 残っている作物も、まだ耕作されているのか、それとも自然に残留しているのかよくわかりません。

            

 ここを通りかかったのは何年も前ということではありません。
 たしか、この春通りかかった時にはこんなふうではなかったと思います。
 肥料などが施されていますから、雑草の成長も早いのでしょうね。

 当初は、菜園ブームが去って契約者が減少したのかと思いました。
 しかし、それにしては変化が急激すぎます。
 おそらくは、貸し農園を閉鎖するのだろうと思いますが、結論はもう少し見てみないとわかりません。
 また報告しますね。

            

 都会の人から田舎を見たら、「やはり、自然っていいなぁ」と思われるその自然の風景は、ほとんどが人の手が入ったものです。
 山林もそうです。水田の風景もそうです。
 しかしいま、その「自然」の風景が急速に荒廃しつつあります。
 第一次産業が成り立たちにくくなっているようなのです。
 
 かつて、イワナ釣りに入った林道は崩れたまま修復されません。
 修復費用に見合った生産性が見込めないからです。
 棚田など、観光地化されたところはいいとしても、そうでないところは草木に覆われてもはやそこに田があった痕跡すらありません。
 そうでなくとも前回書いたように休耕田は増える一方です。

            

 それらについての私なりの思案があるわけではありません。
 ですから事実を述べるにとどめます。
 でも、寂しい思いはあります。
 単なるノスタルジーでしょうか。
 

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100万人の命が救えたかも  長崎忌に寄せて

2012-08-09 01:59:13 | 歴史を考える
 今日は長崎忌です。
 原爆投下により、当時の長崎市民(約24万人)の半数以上が亡くなりました。

 これはよく知られた事実ですが、最初の投下予定地は小倉市(現・北九州市)でした。
 ところが、天候の不順や米軍内の連携の不備で、小倉市上空の一時間弱の旋回にもかかわらず、投下を果たすことはできず、第二の目的地・長崎に向かったのでした。

          

 しかも、ここでも天候は悪く、投下目標を目視することはできませんでした。
 このままでは、命令にない無線投下を行うか、あるいは帰途、太平洋上に投棄するしかない状況となりました。

 その時です。雲の切れ目から一瞬、長崎の市街が見えたのです。
 爆撃手・ビーハンは大声で叫びました。
 「街が見える! 雲の切れ間に第2目標発見!」
 それが長崎の運命を決したのでした。

 もちろん、小倉に落ちれば良かったということではありません。
 米軍にとってはどこであろうが、大勢の人が死にさえすればよかったのですから。

          

 国民学校一年生だった私は、敵は卑劣にも特殊爆弾を使い始めたと聞かされました。
 「どうもその特殊爆弾は光線爆弾らしい、だから防空壕へ逃げるときは白いものをはおった方がいい」
 これが大人たちの一方の言い分でした。
 「いいや、そんな白いものを身につけたら、敵の標的になるようなものだ」
 これがもう一方の言い分です。

 核兵器を前に、なんという幼稚な論争かと笑う人もいるでしょうね。
 でもこれは、当時の人間にとっては、まさに命がけの論争だったのです。

          

 日本という国が、すでに敗戦必至の状況であった1945(昭20)年のはじめに降伏を申し出ていたら、その後の沖縄、広島、長崎、そして国内の主要都市の爆撃、あるいは海外戦闘地点での玉砕などを含めて、100万人に近い人間の命を失うことなく済んだのにというのが、率直な感想です。

             

 以下は、今年の8月4日に行われた第59回長崎原爆忌平和祈念俳句大会の優秀句です。
 
   一般の部
     浦上のどこ曲っても八月九日     長崎市 木村宜子(70歳)
   高校の部
     水道の蛇口上向く長崎忌       松山高校1年 右崎愛梨沙  
   高校生以下の部
     ひいばあちゃん今も苦しむ夏の傷   寺田壮志(13歳)
 

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