六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

安倍さんが三万円をくれるらしいって話について

2015-11-29 13:59:15 | 社会評論
   写真は本文と関係ありません。名古屋初冬の模様。

 安倍さんという親切な人がいて、低所得の年金受給者に対し、1人あたり3万円の給付金を配るという方針らしい。その詳細は分からないが、私などもその対象になる可能性はある。
 
 この方針は、「新3本の矢」のひとつ、「名目GDP(国内総生産)600兆円」の実現のために実施される緊急経済対策の一環とかいうもので、ようするに、「金をやるからどんどん使いなさい」ということらしい。
 そうしたいわゆるバラマキが所定の効果をもたらすかどうかはともかく、私としてはそんなにいうならもらってやってもという気もする。

           

 しかしである、そのお金はどこから出るのだろうか。
 安倍さん個人ではないし、そのお仲間の自民党や公明党からでもない。政府が出すわけだ。ということはようするに、私たちが払った税金からの支出ということだ。

 ところでこのバラマキ、もう一つの批判にもさらされている。
 それは、来年の参議院議員選挙を睨んで、安倍さんたちが、先ごろの安保法案でいささか無理をして一部の国民から顰蹙をかっているのを和らげようとする策ではないかということである。もしこの批判が当たっているとしたら、税金を使って選挙のための買収工作をしていることになる。

           

 選挙の裏で金が動くことは常識中の常識だが、それをするなら税金を使ってではなく自分たちの資金でやってほしい。私のところへ税金からではなく、ある程度まとまったお金を持って来る候補者や政党がいたら、決して告発したりすることはなく歓迎してあげよう。ただし、そこへ一票を投じるかどうかはまた別の問題だ。

 もう一つ、この3万円のバラマキは、安倍さんたちがいうところの「一億総活躍」に繋がるというのだが、そこんところがよくわからない。
 私なんか、3万円をもらったらすぐ使い果たしてしまうだろうが、それがなぜ「活躍」になるのだろうか。
 消費というのは私たちの生命維持の過程において必要不可欠ではあるが、それ自身は「活躍」といわれるようなどんな創造性も持たず、ただ、生産と消費という無機的な過程の一要素として組み込まれるに過ぎない。

           
        この名古屋駅前のランドマーク、近々、どこかへ移転されるらしい

 これからしても、安倍さんたちの「総活躍」のイメージは、私たち一人ひとりがその個性を持って立ち現れることではなくて、ただ、生産ー消費の単調な過程でのモノ言わぬ消費者として機能しなさいということなのだということがわかる。
 極論すれば、一億が一糸乱れず、この生産ー消費の循環過程に従属しなさいということなのだ。
 ようするに「一億総活躍」は、私たちの個性や単独性を重視するというよりは、その真逆の、経済過程のひとつのコマとして機能しなさいというメッセージが込められているように思うのだ。

           

 なんやかやいってきたが、くれるという3万円を突き返すつもりはない。ありがたく頂戴する。
 ただ一つ、提言がある。安倍さんたちがそうして国民にお金をばらまくことがこの社会の活性化に繋がると本当に考えているなら、ベーシック・インカムについて真剣に検討してみてはどうだろうか。

           

 まあ、これはないものねだりだとは思うが、究極のバラマキはベーシック・インカムであり、それは現状の格差社会の解消にも繋がるものだ。
 もちろん、ベーシック・インカムが万能薬だと主張するつもりはない。しかし、もっとも考えうる次世代の分配様式の可能性として、真剣に検討すべきだろう。

 ベーシック・インカムについての概略は以下。来年からオランダで地域限定で実験的な措置が始まるようだ。

 https://www.google.co.jp/webhp?hl=ja#hl=ja&q=%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A0

 次回は、やはり安倍さんの提言に触発されて「一億◯◯◯」について考えてみたい。


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お母さん!僕のあの「青いカナリア」はどこへいったのでしょう?

2015-11-25 14:25:44 | 想い出を掘り起こす
 1950年代の中頃、私はややヒッキー気味に受験勉強をしていた。
 私に許された条件は、自宅(岐阜市)からの通学が可能な公立大ならということであった。こうなると対象は絞られてくる。
 商業高校に在校していた私にとっていちばん厳しかったのは、公立大の受験科目が多いことであった。英語、国語のほかに、数学2科目、理科2科目、社会2科目をクリアーしなければならなかった。

 商業科というのは、簿記、そろばん、商業法規、商業実践などの授業があり、当然、いわゆる普通科目は少ない。
 それだけにほぼ、独学の覚悟で望まなければならなかった。

            

 受験勉強の徒然を慰めるのはラジオであった(TV放送は開始されつつあったが、まだ普及してはいなかった)。
 チューニングの悪いそれを、マジックアイという猫の目のような指標を頼りに電波を拾い、主に音楽番組を聞いていた。そこで出会ったのがいわゆる洋楽の世界であった。

       
       https://www.youtube.com/watch?v=REPqry3tBUE

 そんなチューニングの途中、モスクワ放送や北京放送に行き当たることもあった。途切れ途切れの音声であったが、そこで「インターナショナル」のメロディも覚えた。
 それらの局からは、時折、4桁ほどの数字が無機的に読み上げられることがあった。おそらく、当時の国際共産主義組織、コミンフォルムからの司令か情報の伝達だったのだろう。
 もちろん、何のことかはさっぱりわからなかったが、どこかで乱数表を片手に、この数字を懸命にメモしている人がいるはずだった。
 5738 4691 3974 2714 ・・・・ ・・・・と延々続く数字の羅列は、とてもシュールなBGMであった。

      
      https://www.youtube.com/watch?v=O0gMQN9BXgo

 音楽に戻ろう。敗戦後10年が経過して、戦時中ははばかられていた軍歌以外の音楽がこの国へ戻ってきた。とりわけ敵性音楽として禁じられていた欧米の音楽が、ジャズやポピュラーをはじめ雪崩をうって入ってきた。
 世界にはこんなにたくさんの音楽があるのだと改めて思ったものだ。

 その頃、ラジオから流れてくる歌で私が好きだったのは、ダイナ・ショアが歌って一世を風靡した「青いカナリア」だった。軽快なうちにも哀愁を含んだこの歌はすっかり私のお気に入りになった。
 やがて、雪村いずみがそれをカバーしたものも流れ始め、彼女の澄んだ高音がよく合っていると思い、これも好きになった。

 時を経るに従い、それらも遠い思い出の彼方に去っていったのだが、最近、ひょんなことでそれのさらに新しいカバーに巡り合うこととなった。ほんとうに偶然で、「Blue Canary」とあったのでクリックして聴きだしてぶっとんだ。

      https://www.youtube.com/watch?v=04ps8n4Hlw4
 
 歌っているのはFRANK CHICKENSという2人の女性、よく見たら1984年とあるからもう30年以上前だが、この存在は知らなかった。コミックソングの部類で、後半の盛り上がりはカナリアというより鷹か鷲のようですらある。

 すごいものを聴いてしまった。
 まさに、「お母さん、僕の青いカナリアはどこへ行ってしまったのでしょう」だ。

      https://www.youtube.com/watch?v=p9q3-iW2DE0

 変なものをお聴かせしたついでにもう一つ、お見せしよう。こちらは口パクらしいがなかなか味がある。このグループ、私が知らないだけでけっこう世界的に有名らしい。
 このグループの紹介も貼り付けておこう。

       http://slavasnowshow.jp/

 さて、お口直しに、やはりその頃、ラジオから流れていて、私の好きだった曲、アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」も聴いてもらおうか。ご存知、ポルトガルのファドの名曲だが、どういうわけかこの雰囲気は後年好きになった浅川マキにつながってくる。音楽的には随分違うと思うのだが、私の中ではいつもくっついて連想されるのだ。

       
      https://www.youtube.com/watch?v=tRsuuebZmm4
 
 そんなわけで、浅川マキのライブに、名古屋栄のJazz inn LOVELYへ行ったのは2009年の1月17日だった。ひっきりなしに吸う彼女の煙草の煙が顔面にかかる距離でその歌を聴いた。そしてその翌年の同じ日、やはり、Jazz inn LOVELYのライブのために来ていた彼女は、ホテルで絶命しているのが発見されたのだった。
 早いもので、あれからもう5年以上、まもなく6年だ。こっちも歳をとるはずだ。

 おやおや、またまたどんどん脱線だ。
 というわけで、「青いカナリア」は私の青春の歌であるというお話。

 


 
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「バッハ・コレギウム・ジャパン」の「モーツァルト」を聴く

2015-11-23 02:25:52 | 音楽を聴く
 初体験が多い、楽しいコンサートだった。
 岐阜サラマンカホールでのバッハ・コレギウム・ジャパン(以下 BCJ と省略)のコンサートは「オール・モーツァルト」のプログラムであった。

 このBCJ は、その名の示す通り、バッハのカンタータなどを主として手がけてきて、モーツァルトに関しては「レクイエム」やミサ曲などの宗教曲は若干演奏してきたが、その交響曲はこの会場でもって本邦初演だという。

           

 それは最後のお楽しみで、まずはモーツァルトの「音楽時計のためのファンタジア K.608」と同じく「音楽時計のためのアダージョとアレグロ K.598」の演奏だ。
 これらの曲、「自動オルガンのための・・・」と表記されることもある。モーツァルトはそれらを三曲作っているが、そのうちの二曲が演奏された。

 奏者はBCJ のリーダー鈴木雅明氏とその子息の鈴木優人氏の4手によるもの。ピアノの連弾はよくあるが、オルガンの4手は始めてだ。
 どうして4手かというと、この曲、題名にあるようにもともと人間が演奏するようには作られていない。時計じかけの自動オルガンという機械に演奏させるためための曲である。オルゴールのオルガン版といったところだろう。
 で、その曲は、生身の個人がひとりで演奏することは不可能なのだ。
 ただし、私の持っているCDでは個人で演奏されているが、これは一人用にアレンジされた楽譜によるものだという。

 サラマンカホールのオルガンは、今はなき世界的なオルガン製作者辻宏氏の手になる逸品だ。岐阜県の白川町の廃校に制作現場を構えていた辻氏は、スペインのサラマンカ大聖堂のオルガン「天使の歌声」の修復を依頼されたのだが、依頼主の方の資金不足で中断されそうになったのを、自らがその修復資金を集めてこれを成し遂げたという逸話の持ち主だ。
 岐阜のこの音楽ホールが「サラマンカホール」と名付けられたのはその縁によるもので、ホール外部の2階部分は、サラマンカ大聖堂のレリーフのレプリカで飾られている。

           

 パイプオルガンは2手でも迫力があるが、4手となるとまた格別だ。真正面に陣取った私は、まるでオルガンの音の渦潮に巻き込まれたかのようだった。
 
 ついでは、「エクスルターテ・ユビラーテ K.165」だ。これは一般的には、「モテット 歌え、踊れ、幸いなる魂よ!」ともいわれる。
 この曲は、ソプラノと管弦楽の掛け合いによって進行するもので、いわば、ソプラノ協奏曲ともいうべきものだ。
 このソプラノは一人でオーケストラと対峙しながら歌うのだから、その声量でも歌の明瞭さでもかなりの力量を求められる。モーツァルトの作曲時にこれを歌ったのはカストラート(去勢され、声量のみは大きく、ソプラノの領域が歌える男性歌手)だったという。

 今回歌ったのは、イギリスのソプラノ歌手、キャロリン・サンプソンで、彼女はモーツァルトの「レクイエム」でもBCJ と共演している。
 オケはもちろん、鈴木雅明指揮のBCJ 。

 この曲、最後の楽章でヘンデルの「メサイア」同様、ハレルヤが連呼されるれっきとした宗教曲なのだが、若干16歳の彼がミラノにのり込んで書いたというだけに、青春の躍動感、艶っぽさに満ち満ちている。だから私には「エクスルターテ・ユビラーテ 」といういい方よりも「歌え、踊れ、幸いなる魂よ!」のほうがピンとくるのだ。
 これはむかし、落ち込んでいた時に聴いて、ハッと姿勢を正した思い出の曲だ。

               

 休憩を挟んで最後はかの「40番 K.550」。
 BCJ が宗教曲以外のモーツァルトの曲を演奏するのは本邦始まって以来だということははじめに述べた。
 これはあまりにも著名な曲だから何も加えることはないが、その演奏について気づいたことを。

 テンポはやや速めでメリハリが効いている。かといって固いわけではない。それは一つにはここで使われている楽器がモーツァルトの時代、ないしはさらに古い、いわゆる古楽器であるからその音色のせいもある。そしてまた、音階上の周波数をやや低めに設定しているせいもあるかもしれない。
 ヘルツがやや低く設定されていることは解説で知ったのだが、やはり、その出だしからやや低いと思った。調べたことがないからわからないが、私にも絶対音感があるのかもしれない。

 さらに演奏に戻ると、この曲は叙情性が豊かだから、指揮者やオケによっては、強弱や緩急をいろいろ変化させてさらにそれを強調する向きがある。ようするにロマン派への引き寄せである。
 その意味では、BCJ の演奏はいってみれば逆のベクトル、いわばバロックへと引き寄せた演奏といえるかもしれない。そして、そこにこそ、BCJ がこれを演奏する意味があるのだろう。

 はじめは、う~ん、いつも聴いているのとはいささか違うなと思うのだが、第2楽章、第3楽章と進むに連れて、なるほど、これがモーツァルトが呼吸していたその息遣いかなと感じさせる。
 そして終楽章、バロック音楽の指揮者は普通こんなに激しくは動かないだろうと髪振り乱した指揮のうちに、何度かの変調があり頂点に至る。その段階ではすっかり説得され尽くして、ウ~ン、やはりこれだと思ってしまうから音楽表現の力は不思議だ。

 始めに書いたように、初物尽くしで実に楽しい演奏会であった。アンコールもあったし、途中、鈴木親子のトークなどもあったから、多分かなり時間も延長しているだろうと思って終了時に時間を確認したら、2時間丁度であった。しかし、私にとってはとても充実した時間の過ごし方だった。

          

 会場出口では、全員に、コジャレた袋に入った富有柿が一個ずつプレゼントされた。聞けばこの柿、ただの柿(ただでくれたけれど)ではなく、まだ小さい「ガキ」の頃から、モーツァルトを聴かせて育てた柿だとのこと。サラマンカホールもなかなか粋なことをする。もちろん営業努力の一環であるが、地方都市にしてはプログラム編成にもなかなか努力をしていると思っている。
 
 岐阜へ比較的容易に来ることができる名古屋圏の皆さん、サラマンカホールで検索してお気に入りの出し物があったら、私がチケットを手配しますよ。サラマンカメイトに入っているので、一割引きで入手できます。
 場合によっては私もご一緒して、帰りに岐阜の街で一杯なんてのもお付き合いしますよ。午後3時、4時からの演奏会もありますから、お帰りの心配はありません。

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オダギリ ジョーの「藤田嗣治」 映画『FOUJITA』を観る

2015-11-20 16:42:47 | 日記
 小栗康平監督、オダギリ ジョー演じる『FOUJITA』を観た。
 観た動機は、今秋、岐阜県立美術館で、「小さな藤田嗣治展」を観たこと、その直後、図書館で「戦争画リターンズ──藤田嗣治とアッツ島の花々」(平山周吉・芸術新聞社)を見かけそれを読んだこと、前々から、彼の戦中の日本での「戦争画」ヘの関与に対する戦後での責任追及がいささか性急すぎて、もっと吟味さるべきではなかったかと思っていたこと、などが重なっていたからだ。

               

 で、映画であるが、何よりもまず、その映像の美しさ、面白さが魅力的であった。それぞれのシーン、カットがただただ美しい。美術や美術品を描いた作品での凡庸な映像にはしばしば落胆させられるが、これはそうではない。
 それぞれのシーンやカットを、映画全体のストーリー展開を「説明」するための単なる機能的な要素として捉えているのではなく、それ自体を絵として大切にしているからだろう。

           

 しかし、そのせいもあって、各シーンには時間的な飛躍が観られる。「そして」とか「だから」「それから」「しかし」といった接続詞的な部分が節約されるからだ。その意味では、藤田嗣治についての概略を把握しておいたほうがよりわかりやすいだろう(それなくしても楽しめるのだが)。
 私の場合は、前述の「戦争画リターンズ・・・・」を読んだばかりだったので、それぞれのシーンがいつのどんな情景を切り取ったものかがほぼ了解でき、とても興味深かった。

           

 映画全体の大きな飛躍もある。前半のシュールな芸術家たちの生態を描いた部分と、後半の戦時中、日本に帰国し、その軍事体制の真っ只中で過ごす藤田の生活との落差である。
 彼はそんななかで、陸軍美術協会の幹部(のちに理事長)として、戦争画を描くことになる。「アッツ島玉砕」や「「サイパン島同胞臣節を全うす」などがその主たる作品であるが、それらをもって戦後、美術界きっての戦争協力者として追及されるところとなり、石もて追われる如く彼を国外脱出させる要因となったものである。

 映画の中でも、彼の「アッツ島玉砕」(200号)が目玉として展示された「国民総力決戦美術展」の模様が描かれている。絵画の横には軍服姿の藤田本人が立ち、観衆にいちいち敬礼し、また、傍らには、描かれた戦死者たちを悼むために、「脱帽」の注意書きがあり、さらにその絵画の前にはお焼香台のようなものが設けられ「賽銭箱」が設けられていて、遺族と目される女性がよよと泣き崩れるさまも描かれている。

               

 いささか漫画チックなシーンでもあるが、これは実話の再現である。藤田はそうした戦争画をいささか自嘲的に「チャンバラ画」ともいっているが、反面、「自分の描いたものがあんなに人の心を揺さぶるなんて」という述懐も残している。

 映画を離れるが、私自身はこれらの絵画を直接観てはいない。しかし、グラビアやネットで見る限り、果たしてこれが「戦意高揚」なのだろうかという疑問をもってしまう。私個人の感想としては、むしろ厭戦感情すら誘うものである。
 もちろん藤田自身が厭戦を意図して描いたというわけではない。にも関わらず、その他のよりリアルな戦争画に比べ、そこには作者本人の主観的な意図を超えたなにか崇高なものを感じてしまうのだ。

           

 これは私の極めて主観的な仮説だが、おそらくその芸術家のもつ、ある種の技巧とでもいうものの介在によって、その主観を超えたものが生み出されるということがありうるのではないだろうか。
 小説や詩、音楽などでも、その思想傾向や性格からして決してお付き合いはしたくない人物が生み出した作品が実に感動的であることはしばしばである。

 映画のなかには描かれていないが、最後に日本を離れる時、藤田が残した言葉は、「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間喧嘩をしないで下さい。日本画壇は早く国際水準に到達して下さい」という、ある意味、芸術至上主義的な言葉だったという。

           

 なお、はじめに記したシーンやカットを全体のための一要素にしてしまわないという方法は、ある種の時間論を示している。それは私達が経験する各瞬間を時間の流れのなかに埋没させてしまわないでその自律性保つ、あるいは私たちの経験する個別の瞬間や時間を、歴史的目的に従属する無機的なパーツに解消してしまわないでその独自性を大切にするということでもある。歴史に飲み込まれない私たち個々の生き様の自律である。
 
 映画の中でも、モンパルナスでのどんちゃん騒ぎのあと、三番目の妻ユキと語り合う「祭りは素晴らしい。それだけで終わるから」というセリフがあるが、これもまた、なにものかに奉仕することのないその時間そのものがもつ独自性への讃歌なのかもしれない。
 そんな藤田にとっては、戦争の日々もまた、うたかたの「祭」のようなものだったのかもしれないと、ふと思う。
 むろん、多くの人命がかかった悲惨な生け贄を伴う祭ではあったのだが・・・・。

               

 映画のラストシーンは、フランスのランスにあり、彼がその晩年に関わった通称「チャペル・フジタ」のフレスコ画を舐めるように巡る。キリストの生誕からその受難までを描く壮大はフレスコ画の脇には、キリスト像を見守る聖人たちが描かれていて、そこに並ぶ二人は明らかにピカソと、そして彼本人である。
 彼の自負がここにみてとれる。

           

 なお、後半の日本編に登場する中谷美紀演じるフジタの5番目の妻・君代は、彼の最期(1968年)まで見届け、その後も、彼の作品が散逸するのを防ぎ、それを保護するのに尽力し、2009年に没した。

 何やらこ難しいことも書いてきたが、そんな講釈を抜きにしても十分楽しめる。
 エコール・ド・パリの連中のモンパルナスでの乱痴気騒ぎ、うって変わったような戦中日本の風俗、それらがいずれも美しい映像で描かれる。それらを見るだけでも価値がある。









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私の体積 体積を持ってしまったことの意味など

2015-11-18 02:26:40 | よしなしごと
 写真は本文と関係ありません。いずれも、JR岐阜駅付近で写したものです。 

 もちろんのことですが、私は霊的存在ではなく物質的な物体です。ということは、この宇宙空間において、一定の座を占める、つまり、一定の体積をもって存在しているということなのです。

 もちろん、霊的存在ではないみなさんも私同様、一定の体積をもってこの世に存在していらっしゃるわけですが、ところでみなさんは、ご自分の体積がどのくらいかご存知でしょうか。

           
         岐阜駅付近の高層ビル 岐阜には高いビルはこの二つしかない
  
 ちょっと困っていませんか。
 人間の体は、立方体や直方体、四角柱や円筒ではありませんから、数式に強い人でも計算しにくいですね。

 しかし、私は、数学にはめっぽう弱く、算数もままならないにもかかわらず、おおよその自分の体積を知っているのです。

 その秘密は自宅の浴槽にあります。
 私んちの浴槽は木製の直方体なのです。

 かけ湯で若干のお湯を使いますが、まずは浴槽に浸かります。幼児のようにあと30とか数えたりして、然るべき後、浴槽を出ます。
 その折、全身を浸かっていた折の吃水線と、出たあとのそれとの差がくっきりと残るのです。

              
            北口広場 中央上部に金の信長像 催し物が行われる

 浴槽の縦横は60cm✕70cm、そして吃水線の差は約12cmほどなのです。
 これで容易に、60cm✕70cm✕12cm=50,400c㎥ という値が出ます。

 おっと、これには頭部が含まれていません。幼児ではありませんの、ブクブクと頭まで沈めたりはしません。
 そこで頭部は別途計算をします。
 頭部の直径を20センチの球形と仮定して計算します。

            
              南口正面 ただし岐阜は北口がメイン
   
 半径10cmの三乗✕π✕三分の四がその値で、それはおおよそ4,200c㎥ ということになります。
 したがってそれに、頭部以外の体積を足した約54,600c㎥ というのが私の体積ということになります。

 一応単位が「万」ということになると、何だか自分が大きくなったような気がするのですが、この広大な宇宙空間からしたら本当に微々たるのもです。

            
                   同じく南口 

 しかし、こんな風にも考えられないでしょうか。
 たとえ微々たるものでも、この宇宙空間、地球空間に一定の体積をもって存在するということは、この空間に対してそれなりの責任があるのではないか。ましてや私というこの空間を占める存在は、他の空間を占める他者たち、ものであったり人であったりするそれらと相互関連のうちにあるとしたら、なおさらです。
 早い話が、道を歩いていて向こうから人が来た場合、どちらかが避けなければ衝突します。一定の低さや、狭さを通り抜けることができません。

 ようするに、一定の体積を占める私は、他の体積を占める物や人との接触や排除、共存の関係にあるのです。私は他者に影響を与え、他者もまた私に影響を与えるという関係はまさに私が体積をもつということによって否応なしにあるのです。

            
           南口付近道路標識 根尾は淡墨の桜があるところ
 
 だとするならば、私は、体積をもつということにおいて、否応なしに他者との倫理的な関係のうちにおかれているのだということになります。
 体積をもってしまった私は、そうしたありようを、もはや自分はあずかり知らないとはいえない関係性のうちへと組み込まれてしまっているのです。

 ただし、私が体積をもっていられるのは、ある限られた時間においてなのです。この世に生を受ける前の私には体積はありませんでした。受精卵になってからもそれらはほとんど無視しうるほどだったことでしょう。
 しかし、ひとたびこの世に生を受け、妊婦だった母の体積から分離され、自分の体積をもってしまって以降は、私が私である責任を負うことになります。

 もちろん、私の生命は永遠ではありませんから、やがて焼かれ、灰やいくつかの骨片になり、体積そのものを失うことになります。
 その段階では、もはや私は物質的な存在ではなく、私を記憶する人のうちにその残滓を留めるに過ぎません。

            
        南口から徒歩一分の醸造元のビル 酒はこの地下で造っている

 しかし、ひとたび体積をもってしまった私は、それをたんなる無常観へと委ねるわけにもゆかないと思うのです。
 人間はすべて死を免れ難いが、しかし、死ぬために生まれてきたのではない、というのはハンナ・アーレントの言葉ですが、ひとたび、体積をもったものとしてこの世に現れてしまった以上、私たちは、その時代、その場所、その立場という制約を受けながら、体積をもった存在として、そこでの自己表出を求められます。

 体積というのは私の存在のある数値にしか過ぎないのですが、私の周辺のものや人々との関係のうちで、私がしかるべく行動することによっって、私の体積にはある質的なものが付与されることになります。私は「何」ではなく、複数者のうちの単独者として「誰」になることができるのです。

 

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【ちょっとお哲学】カント先生と「東大出ても・・・・」

2015-11-14 14:24:39 | 書評
 「東大出ても馬鹿は馬鹿」というのはうちの死んだばあちゃんの遺言であるが、それに先立つ250年も前、すでにしてかのイマヌエル・カント先生が同様のことを述べている。したがってうちの死んだばあちゃんはその後塵を拝したわけであるが、かといってカント先生のものを読んだり学んだりした訳ではない。というのは、ばあちゃんがお経以外の活字を目にしているのを見たことがないからである。したがってばあちゃんは、仏の法力に導かれて、カント先生と同じ結論に到達したといえる。

 あ、ここで断っておくが、私は東大に対する何らかのコンプレックスやトラウマをもっているわけではない。したがってここでいう「東大」は、日本での最高の学府と自認し、かつ、周囲もそのように評価していることに鑑み、学識ある者たちの象徴として取り上げたにすぎない。東大出の方、ゴメンね。

             
     
 では、元祖のカント先生がどのように述べているかを以下に記してみよう。
 「愚かな、あるいは弱い頭は学習によって極めて十分に、さらには博識にさえ至るまでに強化されうる。しかしその場合においても、判断力が欠けている場合が多いから、その学問の使用において重大な欠陥を垣間見せる極めて学識がある人々に出会うのもなんら不思議なことではない」(『純粋理性批判』より)

 上記の引用で明らかなように、ここにいう馬鹿/利口は学識の有無ではない。むしろ、具体的な出来事に出会った場合のその判断の内容に関するものである。これをカント先生は「判断力」として、後年、『判断力批判』という一冊の書を著わしている。
 なおハンナ・アーレントによれば、この判断力を人間の能力として見いだしたのはカント先生が始めてであるという。

                

 判断力は一般の認識能力とは異なる人間の能力だから、演繹によっても帰納によっても到達することができない。あくまでも特殊的、個別的なものと遭遇した場合にそれを了解しうる能力である。
 カントはそれを、美的判断、趣味判断の問題として述べている。
 美しさにおける美/醜、趣味における良/否の判断はあくまでも特殊的、個別的なものといえる。したがって、「美しいものとはかくかくしかじかのものである→だからこれは美しい」とか「あれは美しい、それも美しい→だからこれは美しい」などということはできない。あくまでも、そのものの「そのもの性」についての判断なのである。

 それでは、そうした判断の基準というのはないのだろうか。そして人々は勝手気ままに、これは美しい、あれは美しくないといっているのだろうか。確かに美的判断というのは、人によって、あるいは時代や場所によって、様々なばらつきをもっている。しかし私たちは、ある特定の時代の特定の場所によっては、その判断がある程度似通った傾向を示すことを経験的に知っている。ということは、ここに何らかの基準があるということである。

   
 
 カントはそれを「構想力」または「想像力」によるとしている。
 構想力とは自分の思惑を超えて人々の間に自分を置いてみること、とりわけ自分が実際には占めていない位置から事物がいかに見えるかを想像したりする能力で、間主観的、あるいは社会的、公共的な能力といえる。これはまた別の言葉では「共通感覚」といわれたりもする。また、カントは別のところで「拡大された精神」ともいっている。

 要するに、美的判断や趣味判断がばらつきを持ちながらもある焦点のようなものをもつのはこのせいなのである。ようするに、私たちが他者の視点をも考慮に入れたとき見えてくる共通感覚のようなもの、それに依拠して判断するがゆえにそうした傾向をもちうるということだ。そしてもし、私の判断が他の人たちと大きく相違するとしても、その相違自体がそうした判断を経過した結果なのである。

               

 アーレントはカントのこの判断力が構想力という間主観的、あるいは社会的、公共的な能力によることに注目し、カントが展開しなかった全く別の方面にこれを適用しようと考えた。
 それはいわゆる政治的判断の分野であって、この判断もまた美的判断や趣味判断同様、他者と共にあるという間主観的、あるいは社会的、公共的な判断の場であるとしたのである。

                

 さてこの小論の書き出しである「東大出ても馬鹿は馬鹿」に戻ろう。
 要するに、特殊的にして具体的個別的な判断の場においては、おそらく彼や彼女が蓄積しているであろう膨大な学識や理論でもってするだけでは、それに対応できないということである。そうした特殊的個別的判断においては、上に述べたような構想力、つまり、間主観的、あるいは社会的、公共的な立場に自分を置くという能力が必要なのであって、それを欠いた場合においては、カント先生のいうごとく、「その学問の使用において重大な欠陥を垣間見せる極めて学識がある人々に出会うのもなんら不思議なことではない」のである。

 そして、そうした現象をこんにち、私たちはいわゆる官僚主義のなかに顕著に見い出すのである。あるいは、他者の存在、人間の複数性・多様性を考慮に入れない新自由主義的手法の強権政治の中にもである。
 先ごろ亡くなった鶴見俊輔さんは学者と官僚が嫌いであった。そして一方、社会的、公共的なものへの関心を終始失わなかった。いわば、判断力、構想力、拡大された精神の持ち主だったといっていい。


ちなみに私と東大との縁は、1950年代の終わりから60年代の始め、その駒場寮に2、3度泊めてもらったぐらいである(その節はお世話になりました)。

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「ゆる鉄」久々の鉄道旅 岐阜⇆伊豆仁田

2015-11-12 11:48:38 | よしなしごと
 前回、伊豆半島の付け根、三島郊外の姉の家を訪れた話はした。
 「ゆるゆる」とはいえ、一応鉄道ファンとしては乗りものやそれに触れる話をしないわけにはゆかないだろう。
 久々の長旅といったら笑われるかもしれないが、自宅を出てから目的地まで3時間半、新幹線に乗るのはおおよそ10年ぶりという老いの身にとってはやはり長旅なのだ。
 それに新幹線のない時代に旅した経験が染み込んでいるだけに、静岡県の東部というのは距離的にいってもやはり長旅になる。新幹線のない時代だったらおそらく10時間近くを要したと思われる。

            

 日曜日の「こだま」の自由席、名古屋始発とはいえ混むのではないかと覚悟していったが拍子抜けだった。私が乗った4号車禁煙車両は、名古屋を出た時点で数人の乗客しかいなかった。
 座席も昔に比べればゆったりしていて、やや大きめなキャリー・バッグを持参していたのだが、それを自分の前に置いても窮屈さを感じなかった。

            

 「こだま」は各駅停車だし、駅によっては後続の二つの列車に追い越される場合もある。それでも、名古屋から二時間弱で三島だから、天候も悪いからこれを読んでと持参した本のさほどのページも読み進まないうちに到着してしまった。

            

 三島の駅で、伊豆箱根鉄道の修善寺行に乗り換えだ。
 乗り換え地点へはひたすら下りの階段が続くのだが、下り用のエスカレーターはない。重いキャリー・バッグを抱えての階段下りには恐怖感も伴う。かといって乗り換えまでの時間は10分足らず、ゆっくりとは進めない。息切れがするがそこはど根性で乗り切る。齢を重ねてひとはわかると思うが、荷物を持っての上りはつらいが、下りはさらに恐怖感を誘うものだ。

            
 
 伊豆箱根鉄道の駿豆線は三島ー修善寺間の13駅を単線で結び、総延長も20Km以内の地方鉄道にすぎない。しかし、観光伊豆の足としてダイヤは結構緊密で、岐阜市の私の住まいの近くの市内バスよりはるかに運行本数が多い。
 この7月にユネスコによって認定された世界文化遺産の韮山の反射炉が伊豆観光に新しく加わった目玉のようで、三島駅の構内にも、この駿豆線の前面看板にも、それらが明示されている(その韮山反射炉については前回、記した)。

            

 姉の住まいするのは伊豆仁田駅の近くである。ここの正式の住所は、静岡県田方郡函南町仁田であるが、平成の大合併などで、周辺の市町村が合併し、市を名乗るようになった結果、実は田方郡にある町村はこの函南町のみである。
 それを示すかのように、駿豆線の駅でいえば、仁田の手前の大場(だいば)は三島市だし、その次の原木(ばらき)は伊豆の国市である。この伊豆の国市も10年ほど前にできた合并市だが、三島、函南、伊豆の国はほぼ市街が続いていて、どこが境界かは不分明である。なお、反射炉のある韮山は伊豆の国市韮山であるが、前回書いたとおり、仁田からは車で15分前後である。

            
 
 この辺りは、鎌倉時代を中心として歴史の舞台になったところであるが、それは歴史マニアの方に任せよう。

 新幹線はともかく、この伊豆箱根鉄道の駿豆線にはある種の思い入れがある。
 その利用は今回で三回目で、前回は10年以上前、改築前の姉の家を訪れた時だが、
さらにその前、つまり最初の折は、新婚旅行でであった。
 事情があって学卒をも明記せず新聞広告で就職した私は、結婚式も行わないつもりだったが、父母が親戚の手前それだけはというので、来賓も友人もなし、ただ親戚への披露というだけの結婚式を挙げた(こうした結婚式は当時としては普通であった)。

            
   
 だから、新婚旅行もしないつもりで、翌日から出勤していたが、それでは可哀想だというので、亡母が一切を手配してくれて、五月の連休に有給休暇を付け足すかたちで、でかけたのが2、3泊の伊豆半島一周の旅であった。その折、乗ったのが三島→修善寺間で、多分当時はまだ木造の車両だったように思う。その他の旅程はバスが多かったが、道路も未舗装の箇所がまだまだ多かった。半世紀以上前の思い出で、それらももはやセピア色の彼方である。

 鉄道の話のつもりがとんでもない思い出話になってしまった。
 あの頃の私は、果たしてこの私と同じ人間だったのだろうか。
 その連続と不連続にいささか唖然とし、戸惑わざるを得ない。
 

 
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最新の世界遺産「韮山反射炉」を観る

2015-11-10 14:29:44 | 旅行
 様々な事情で、私が生まれて幾ばくもしないうちに別れ、約40年間離れ離れに暮らしてていた実姉と再会出来てからもすでにして40年近くが経つ。
 以来、つかず離れずの付き合いをしているが、近年は相互に老齢化が進み、伊豆半島の付け根と岐阜という距離もあり、往来の自由もままならなく、直接会う機会にも恵まれなかった。
 
 その姉が、バリアフリー化した新居を構えたというので、その祝いを兼ねて訪れることにした。
 そんな私に、姉は一族郎党を招集して私に逢わせてくれた。
 私にとってはもう一つの家族のようなものだが、初めて逢う若い人たちなども含めて、こもごも話に興ずることができた。

    
 
 そうした、「もう一つの家族の物語」については、当日見聞したことどもをまとめていずれかは書きたいと思っている。とりわけ、戦中戦後のそれは、往時の歴史を反映している側面が濃厚なので、ぜひ書き留めて置きたい。

 一日目はそんなことの話し合いで終始したが、開けて月曜日、現役の若い人たちは去り、私たち兄弟姉妹のリタイア組のみが残された。
 そこで姉の家から20分足らずで行けるという、国指定史跡で、この7月にユネスコの世界文化遺産に指定されたばかりという「韮山反射炉」を見にゆくこととした。
 姉夫妻の話では、山の麓のなんでもないところに、ポツネンと建っているだけだよとのことであった。

  

 イチゴの温室栽培のハウスの間を抜けて、到着してみて驚いた。ウィークデイだというのに、全国各地からの観光バスがひっきりなしに訪れ、加えて自家用車も群れなすという混雑ぶりで、案内してくれた姉夫妻もその変貌ぶりに驚いている様子であった。世界遺産の御札の効果はてきめんである。
 今やここは、伊豆観光の必須のアイテムとしてしっかり組み込まれてしまっているようだ。

  

 ついでながら、韓国従軍慰安婦の歴史遺産化に対し、日本政府は負担金の支払い停止をもちらつかせてクレームをつけているが、一方ではこうして、日本各地でユネスコの指定を押し頂いて、やれ経済効果がどう、観光投資がどうと大騒ぎをしているのはいささか勝手すぎる気もする。
 本当に喧嘩別れをして分担金を支払わないのなら、日本各地にあるユネスコ指定の世界遺産をすべて返上するのが筋だろう。
 現に、この反射炉の周りでも、その関連施設を建築するためのただならぬ建築ラッシュが起こっているようで、大型の建築機械が何台も投入されていた。

    

 ひとでの多さに圧倒されたが、一通り見て(眺めて?)、あとはパンフとネットで詳細を調べることにした。
 ようするにここは、金属を高熱で溶解し、鋳型にはめて製品を鋳造する場所で、その設立の動機は、幕末の黒船来航にあわてた幕府が、泥縄式に大砲などの製造を行うために建設したものらしい。炉の周辺には、ここで鋳造されたものと同型のキャノン砲や臼砲が展示されている。

  

 反射炉の「反射」についていうならば、反射するのは光ではなく熱で、焚口から発生する炎や熱を、一度天井に反射させ、金属が溶解する千数百度の熱を得るための炉のことである。
 だから、構造的に重要なのは設備の下方部分で、よく目立つ塔の部分は、ようするに煙道、つまり煙突にすぎない。しかし、この部分がないとあまり絵にはならないとは思う。

             
           異母妹・姉・義兄(逆光で少し厳しい)
 
 「なんでも見てやろう」のやじうま精神の持ち主だから、人の多さに幾分辟易した以外は結構面白い見ものではあった。それに見物料が100円と安いのもいい。ただし、建築中の関連施設が整い次第、値上げされる可能性もあり得るだろう。





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【老人の性】赤い玉がコロンと出て・・・・

2015-11-07 01:04:29 | よしなしごと
 ここしばらく前から、2、3の週刊誌が競うように「老人の性」を取り上げ、「80歳からのセックス」とか「死ぬまでセックス」とかのアジテーションを繰り返している。
 もちろん、それらの記事は読んだことはなく、電車の中吊りか新聞広告で見出しを読むのみだが、そのターゲットにされている老人の身としては、「そんなのほっといてくれ」と思いつつも、いささか関心もある。

             

 なんのためにいま、そんなキャンペーンなのだろう。高齢化社会に対応して老人を読者に取り込もうという魂胆もあるだろう。バイアグラなどの強壮剤やサプリメントとの提携もあるかもしれない。あるいは、ソープランドなどのセックス産業との提携か。
 あ、そうだ、安倍内閣が推進するという「一億総活動」の一環かもしれないななどとも考える。

 もう20年ほど前、行きつけの喫茶店で『黄昏流星群』という『ビッグコミックオリジナル』に連載している弘兼憲史の劇画を観ていたが、こちらの方は老人の性をサラッと描いていた。これを書くために調べてみたら、今なお連載中で、単行本の巻数は50冊もあるというから驚いた。
 週刊誌のそれは、これをもっとどぎつく、性行為にのみ限定した記事のように思える。

             

 老人の性については、女性の場合、大岡越前が母に女性のそうしたことへの関心はいつまでと尋ねたところ、その母は黙って火鉢の灰をかき回したという逸話がある。この話のオチは「灰になるまで」だということらしい。

 それに相当する男性篇についてはこんな話を聞いたことがある。男性の場合、その射精の最後に、小さな赤い玉がコロンと出てきて、それで「ハイ、打ち止め」になるというのだ。もっともらしいがもちろん何の根拠もない。



                     


 この話を、ちょっと小悪魔風の女性にしてやったら、「へえ~、面白い。その赤い玉を見てみたいっ!」とのたまうので、「じゃあ、その赤い玉が出るまで私と付き合うかい」と誘ったら、「やだ~、もう」と笑い転げていた。
 こちらには多少その気があったのに、「一億総活動」の機会をのがしてしまったのは残念だ。
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きみはアドルフに出会ったか?!

2015-11-04 17:55:20 | 歴史を考える
 アドルフ・ヒトラーといえば20世紀の前半、ヨーロッパの近隣諸国を侵略し、600万に及ぶユダヤ人を殺戮した稀代の大悪党ということでその評価は終わりになることが多い。

                

 もちろん、なぜ彼のような存在が現実に一国の独裁者として成り上がり、上記のような大変なことをしでかしたのかということについての研究などはかなりある。
 例えばハンナ・アーレンとは、その著『全体主義の起源』でナチズムが現れた要素を歴史的な経緯やそれを準備した思想的な背景とともに詳しく分析している。と同時に、この書で彼女は、スターリン統治下のソビエトロシアもまた全体主義のひとつの形態であるとして摘発している。
 私たちはそれらの否定的な研究吟味を通じてナチズムやスターリニズムの全体主義について追体験的に学習することができるし、私もまたそのようにしてある程度学んできたつもりだ。

               
 
 しかし一方、その全体主義の渦中にあった主要人物の主張や見解をその人物の言葉として学ぶ機会は意外と少ない。
 私自身の経験で言えば、若いころ(あゝ、もう60年ほど前のことだ)スターリンの著作、例えば『弁証法的唯物論と史的唯物論』などという往時の左翼にとっては必読的な聖典ともいうべき書に接したことはある。チャート的にまとめられたそれは、わかりやすく箇条的に暗記すらできるものであったが、それだけに薄っぺらなもので、それ自身、形而上学的教条主義の典型のようなものであった。ついでながら、毛沢東の『矛盾論・実践論』もその手に属するものだ。
 
 もう一方のヒトラーのそれに対しては、私はほとんどというかまったく接したことはない。その主著といわれ、往年のナチズムの聖典ともいわれた『わが闘争』についても未見である。
 この稀代の人物が自分の思想形成並びにその思想内容について語ったこの書はやはり一度は目を通す必要があるのではないかと思い、このたびそれを入手した。要するに彼の思想を内在的に検討してみようということである。

            
 
 ただし年内は読むべき書が山積しているし、その他にも課題を抱えているので、この書と本格的に向かい合うのは来年ということになろう。
 その折、もし、この書に書かれた事柄に対してちゃんと批判的に対応しきれない場合には私はヒトラーの軍門に下り、ネオ・ナチズムの日本における担い手になるかもしれない。来年、出会った折に、ナチス式敬礼をするようだったら、そうなったと思ってほしい。
 
 鬼がでるか蛇が出るかそれは読んでのお楽しみである。
 そして、こうして公言する以上、ちゃんと来年まで生き延びる必要がある。ただし、こうして宿題をドンドン溜めながら、それらをきちんと捌くこともなく、だらだらと生き延びてきたのだから、実際にはどうなるかわからない。
 この歳にしてアドルフ・ヒトラーと正面から出会うことは多少わくわくすることではある。
 来年のいつ頃になるか分からないが、読了した折にはまたその報告したいと思う。


なお、同書は、ドイツにおいては2014年に学術研究用に出版された以外、一般には出版は事実上禁止されている。



【おまけ】
 Macに音声入力があるというので、それを使ってみた。些細な件ではかなりミスがあるなそれらをこまめに直せばある程度使えると思う。
 これも実はその音声入力で部分的に書いている、書いているというよりも喋っているといったほうがいいかもしれない。
 もちろん通常の入力のように改行や句読点を入れることもできる。なんとも便利な方法があるものだ。
 ただし、これに話しかける場合には明瞭に発音する必要がある。ありがたいことには声の美醜、要するに良し悪しはほとんど関係ないないようで、私のこの悪声でも十分に入力が可能である。
 もちろん私の雨だれのようなポチポチとしたタイピングよりもこのほうがはるかに速い。
 漢字ヘの変換も同時にやってくれて、しかも特別面倒な単語でない限り、ほぼ正しい変換が行われることだ。

          

 ただし、やはり入力は日常言語の短いものに限るようだ。専門的用語などは随分怪しげなものになってしまい、ほとんど事後的に入力しなおさなければならない。しばらくはその使用のメリット・デメリットを確かめながら様子を見たい。

 
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