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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【速報】おせち料理が完成しました!

2009-12-31 17:25:17 | よしなしごと
 午後五時、予定したものをすべて作り終えました。
 どうぞお召し上がり下さい。

 

 

 

 みなさん、いいお年を!
 来年もよろしく!
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石垣・重文・黒猫・篠笛・赤ワイン・7度目の寅年

2009-12-29 03:10:54 | よしなしごと
 12月27日、今年最後の名古屋行き。
 若い人たちとの勉強会。ハンナ・アーレントの『人間の条件』を読む。
 私がレポーター。
 あれもこれもと参照したい文献がドンドン出てきて、結局は中途半端。
 でも何とか格好を付けることが出来た。



 会合に先立ち、会場近くの名古屋城に立ち寄る。
 懐かしいところだ。
 ここで三年間を過ごした。青春まっただ中であった。
 さらに遡れば、まだここが六連隊であった戦前、前線へ送られる前夜の父に面会に来たこともある。

 城内を散策をするほどの時間もないので、ここからは有料という箇所までの石垣を見て歩く。
 あの頃(といってのもう半世紀前だが)はこんな風に石垣を見たことはなかった。毎日、全く無頓着にここを通っていたのだ。
 いや、最初の日ぐらいはなにがしか感動し、目を見張ったかも知れない。
 いずれにしても、こんな立派なものの傍らを毎日、通っていたのだと思うと改めて感慨が湧く。

     

 ここからは有料という箇所に辿り着いた。
 天守閣や東南の隅櫓ぐらいは写真に収めようとして境界ぎりぎりのカメラアングルのいい場所を探す。
 すると警備員がやってきて、「済みません。ご入場でしたら入場券をお求め下さい」という。
 「あ、すみません。今日は時間がないのでまたゆっくり来ます。ところで、ここから写真だけ撮らせていただきたいのですが・・・」
 私の丁重なもの言いと、百万ドルの笑顔が効を奏して、警備員は快く諒解してくれた。
 撮り終わって、「ありがとうございました」と礼をいうと、「今度はぜひゆっくりいらして下さいね」とこぼれるような笑み。
 私の百万ドルの笑み(ちょっと、しつっこい)が効を発揮するはずだ。この警備員さんは女性(女性だと「さん」がつくのか?)だった。

 

 慌てて会場である名古屋市の市政資料館へ向かう。
 案ずることはなかった。私が最初であった。おまけに、1時からとなっていたのだが、会場清掃などの都合で1時15分からだという。
 そうするうちに三々五々集まり始めた。最初についた私と次に来た人(三ヶ日の人)はともに県外の人間。田舎者は律儀なのだ。

 
         かつての裁判所 現名古屋市政資料館(重要文化財)
 
          内部も建築当時を保持 ここで会合や結婚式も出来る   
 
          各部屋には裁判所当時の部屋の名前が残されている

 前回はドンピシャリ私の母の葬儀の日で欠席したため、久しぶりの顔合わせだが、もう何回も同じテキストを読み合ってきた同士で、疎遠な感じもしない。
 かなり分厚いレポートを用意したのだが、4時間弱の制限内ということで、途中、ちょっとした休憩をはさんで一気呵成に報告をする。
 というとかっこいいのだが、自分でもどうまとめたか分からない箇所もあって時折つっかえる。つっかえた点を思い返すと、やはりアーレントの原テキストで、解釈に手こずった箇所であった。まことにもって、「明瞭に思考する者は、明瞭に語る」である。
 それでも何とか簡単な質疑応答を含めて時間内に終了することが出来た。

 さて、おきまりの忘年会である。
 会場は名古屋駅近く、予約した時間までには一時間ほどある。歩こうということになった。おそらく4キロほどはあろう。
 さほど寒くはない。しゃべりながら歩けば暖かいほどだ。

<photo src="42430250:635094912:l">
 
 途中のエピソード (1)
 途中テレビ塔の辺りで、悠然と構えている黒猫に出合う。野良のようなのだが人気の多いところに暮らしているだけに、人との間合いのはかり方が実に巧妙だ。かなり近づき、しかもフラッシュを焚いて写真を撮っても身じろぎもしないし、そわそわする様子もない。
 しかしこれ以上はという距離ではサッと身を翻す。といって遠くに立ち去るわけではない。また一定の距離を保った位置にいる。
 考えてみれば、野良の身ではあれ、やたら人をおそれていてはおまんまにありつけないのだ。同情をした人間がちゃんとおまんまを施してくれる距離、しかもその人間が危害を加えることが出来ない距離、それがその猫が身に付けた人間という生き物との距離感なのだ。
 生き物が状況の中へと差し出され、そこで生きて行く知恵というのは凄い。そうでなければ淘汰されてしまうような地点での知恵、果たしてひとはそんな知恵を持っているのだろうか。


    
 
 途中のエピソード (2)
 別に何かを求めてうつむいて歩いているわけではない。もともとうつむき加減の人生なのだ(と気取ってみる)。
 私の前を歩いている仲間が気付かず、私のみが気付いたのはやはり私がうつむいていたからであろう。ようするに、拾いものをしてしまったのである。何か細長いものが落ちていて、拾い上げると布の袋に収められた筒状のものである。袋の上から触ってみると、何か筒にくぼみがついている。もしやと思って袋から出してみると、やはり予想どうり、横笛というか篠笛というか和楽器であった。
 よく使い込まれてはいるもののさほど高価ではなさそうだが、この種のものには使い勝手や思い入れなど、持ち主にとっては金額に換算されない価値があるものである。
 で、交番に届けることにした。ところがその交番が見あたらない。大きな交差点ならあるだろうぐらいに高をくくっていたのだがないのだ。とうとう、忘年会の会場まで持参することとなった。
 そこでその店のフロントにいたマネージャーとおぼしき男性に最寄りの交番をたずねて、そこへ届け出た。
 時効時の払い下げや謝礼の請求など、あらゆる権利請求を放棄して、「ちゃんと遺失物届けが出された場合、その人のもとへ返るようにしてやって下さいね」といって交番を離れた。


 
        人物が特定できないようトリミングしたら酒瓶ばかりになった(笑)

 で、やっと忘年会の席に着いたわけであるが、若い人とのお喋りは結構楽しかった。
 和食のコースであったが、飲み物は赤ワインで通した。
 最近このパターンが多いが、光り物の刺身など以外ではほとんど問題ない。光り物だって、同時に口にしなければいいだけだ。
 気がつけば、6時半に飲み始めて11時近くまで、よく飲みよくしゃべった。
 多分今年は、もう家族以外と話す機会はないのだから、「まっ、いいか」である。

 親子以上に年齢が離れているのに、それを感じることなく応答できるのはいい。もっとも、そう思っているのは私だけで、彼らにとっては年寄りの面倒を見ていてくれるということかも知れない。
 帰宅してからも意外と目が冴えてすぐには寝なかったが、寝付いたら最後、目覚ましを止めてさらに寝た。
 思えば4キロの歩行、加えて交番までの急ぎ足の1キロ弱、これが老骨に響いたようだ。しかし、無理が出来るうちは無理をしていたいと思う。

 ということで、今年の対外的な活動はすべて終わった。
 以下は年内のスケジュール。 

 
 12月28日
 自分の居住範囲の大掃除のつもりが中掃除、いや小掃除かなに留まった。しかし、昨日までよりは快適。
 29日
 正月の食い物、とりわけ野菜に関して農協の売り場への最後のアタック。
 30日
 おせちの下ごしらえと、日持ちのするものの製作。
 31日
 おせち完成。息子夫妻を迎えての年越しの宴。

 来年は私の年。
 生まれたときから数えると7回目の寅年。
 ほんとうに遠くへ来たものだ。



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「帰郷者」の帰り着く先は? シュリンクとポール・ド・マン

2009-12-26 03:17:33 | 書評
 同じ作者の「朗読者」という作品は、2008年、「愛を読むひと」という邦題で映画化された。
 ドイツの作家にして大学で法律の教鞭を執るというベルンハルト・シュリンクの最新作、「帰郷者」を読んだ。
 実はこの作家の邦訳されたものはすべて読んでいる。すべてといっても、今回のものを含めて7冊だが、別に、とくに魅せられたというわけでもない。
 私は硬軟取り混ぜた「時間割」を組んで本を読むのだが、たまたま図書館で見かけたこの作家のものを読んだところ、けっこう面白かったので、その棚にあるこの作家のものを時間割に組み込んで次々に読んだという次第である。
 ちなみにこの作家のもには、行動派のミステリー仕立てのものが多い。

 
            部屋の窓辺・1 柾の赤い実
      この実を食べにヒヨドリやときにはツグミがやってくる

 今回の「帰郷者」は、文字通り帰郷する者(あるいはしない者)の話で、ホメーロスの英雄譚「オデュッセイア」でのオデュッセウスの帰郷と、その息子テーレマコスによる父を探索するための旅とが通奏低音のように響き合っている。
 ようするに、第二次大戦後の主人公の父の帰郷の謎とその探索をする主人公の話なのだが、これは上に見たオデュッセウスとテーレマコスの旅の再生であると同時に、このテーレマコスに擬された主人公自身の帰郷をめぐる話でもある。
 したがってこの小説は、オデュッセウス、主人公の父、主人公という三重の帰郷をめぐる物語といっていい。
 いかにもヨーロッパ的な道具立ての小説ではある。

 主人公は、帰郷すると同時に姿をくらました父の足跡を追い、ドイツからアメリカへと行く。
 アメリカ、この包容力のある大陸には何かのきっかけに様々な人たちが渡る。亡命者として、あるいは逃亡者として・・・。
 なかには大戦時、何らかの形でナチズムに関わり合った人たちも居る。主人公の父もその容疑の範囲内である。

 
             部屋の窓辺・2  ムクゲの実

 ここまで読んで、どうもこの話はどこかで聞いたことがあると思った。果たせるかな、末尾の解説に依れば、この小説のモデルはポール・ド・マン(1919~1983)だという。マンはベルギーの出身であるが、1946年(大戦終結の翌年)アメリカへ移住している。そしてハーバードで学位をとって以後、脱構築批評を確立したイェール学派の代表的存在として、つまり、アメリカにおけるデリダ派の巨匠として君臨していた。
 それだけなら問題ないが、その死後、ナチス・ドイツ統治期のベルギーで彼が書いたものと思われる反ユダヤ的文章が見つかりスキャンダルとなった。私の記憶では、マンの父がナチスにシンパシーを持っていて、その影響下で書かれたものということだ。
 そうした批判に対し、ヨーロッパではデリダなどがその擁護の論陣を張った。日本では、アメリカ滞在中に親交があったという柄谷行人が弁護の文章を書いている。

 古代ギリシャの叙事詩からナチズムの問題にまで対象が広がるのだから、ヨーロッパの小説は油断も隙もない。
 小説の後半の舞台設定はやや荒唐無稽的なところもあるが、作者にとってはこうした運命を辿った人物(主人公の父)の特異性を描くためには必要なシチュエーションだったのだろう。

     
          部屋の窓辺・3 ムクゲの実 この中に種子が

 日本の戦後は、一部のインテリを除いてはその思想や行動を検証されないままに終わったといっていいだろう。
 その戦争責任の追求も、戦勝国の側の一方的な断罪以外、この国の内部から立ち上がることは少なかった。
 映画「ゆきゆきて、神軍」での、奥崎謙三の幾分エキセントリックな追求の旅が私たちにもたらしたあの衝撃は、そうした背景があったがゆえだと思われる。
 ついでながら、「ボウリング・フォー・コロンバイン」以来、ドキュメンタリーの世界を席巻しているアメリカのマイケル・ムーア監督は、「ゆきゆきて、神軍」に関し、「生涯観た映画の中でも最高のドキュメンタリーだ」と語っているという。

 またまた話が逸れてしまった。
 私はいいたかったのは、このシュリンクの小説は、エンターティメントのツボを外してはいないが、同時にヨーロッパの古代叙事詩、そして現代史をカバーする時間(と空間)の幅を持っているということであった。
 そして今ひとつは、私たちはこうして命がけで帰郷しなければならないほど、その故郷のなれ合いから遠くに離れてはいないということである。
 故郷の同一性のなかにまどろんでいる者には、帰郷という行為すら選択の外なのである。



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冬至@岐阜、そして天皇誕生日

2009-12-23 15:39:02 | よしなしごと
 昨日は冬至だった。
 ここ数年前から、岐阜の長良河畔ではこの冬至の宵を飾る面白いイベントが行われる。
 その概略を「朝日新聞」の報道から見てみよう(写真も同紙から)。

  長良川に流れる過ぎ去った月日(見出し)

         

 1年で最も夜が長い冬至の22日夜、「1」から「12」までの数字などをかたどったあんどんをのせた屋形船を見て、1年を振り返る祭り「こよみのよぶね」が岐阜市の長良川であった。
 静かに流れる水面が、赤や青、黄色のあんどんの光に照らされ、あたりには幻想的な雰囲気が漂った。
 高さ2、3メートルほどのあんどんは、金華山周辺で採れた竹で編んだ骨組みに、美濃和紙をかぶせて色をつけた。約半年かけて地元のボランティアらのべ数 千人で作ったという。川岸で眺めていた岐阜市の主婦奥田りつ子さん(61)は「長良川が華やか。明かりってすごくいい」と話した。
 祭りは岐阜市出身のアーティスト日比野克彦さんの企画で2006年に始め、今年で4回目となる。(引用終わり)

 さて、この巨大な行灯(あんどん)、どんなものかお分かりだろうか。
 それらが以前、柳ヶ瀬の商店街に展示されていた折りに撮したものを以下に紹介しよう。

 

 


 明けて今日は天皇誕生日、もう20年ほど前からそうである。
 最初、この日が休日と分かった折、結構話題になったものである。
 とりわけ私もそこにいた飲食業界にとっては衝撃的だった。年末の稼ぎ時に、営業日が一日なくなるようなものだったからである。
 確かに休業せず、営業するのも勝手だったが、何しろ肝心の会社関係が休みだから忘年会などはない。
 当時はまだ景気がよく、とくに年末は営業チャンスさえあればいくらでも顧客を呼び込めた時代だったから、マイナスになったことは事実である。

 
      岐阜駅のイルミネーションを見る姉妹?友達? 昨夜撮す
 
 同業者で、けっこう天皇を崇拝している人が、「ああ、これじゃぁまるっきり一日分、損だ」と嘆くのを聞いて、「そんなことを言うと罰が当たるぞ」とからかったりしたものだ。

 もっとも、そうした世間の人々の利害得失を考えて天皇は生まれてくるわけでもないし、また、何日に生まれようがそれなりに利害得失のある人々が居るわけだから、それを問題にしても始まらないのも事実である。
 また、天皇の誕生はそうした世俗の利害得失を超越したものだと目に角立てるむきもあるだろう。

 
          今日はどんよりとした曇り空 山は雪か

 まあ、今述べたのは天皇誕生日が年末になった当初の話で、今はそれですっかり定着してしまった。逆に休日前が一日増えたということで、昨夜など街は結構賑わっていたようだ。
 今、暮れが暇なのは忘年会やクリスマスを迎える私たちの生活スタイルの変化によるものであり、それにこの不況が追い打ちをかけているというのが実情だろう。

 というわけで、あまり天皇誕生日にこだわっていると、その筋の人たちから「不敬」だなどと決めつけられそうなので、この辺で退散することとしよう。
 


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駅、そして青い金糸雀は暗い艀に乗って・・・

2009-12-21 01:38:55 | 想い出を掘り起こす
 駅が好きだ。
 駅で合う人も好きだ。
 駅で合う人と街で合う人ととくに変わりはないのだろうが、それでも駅で合う人が好きだ。

 

 私自身、駅へ行くと、ある種の高揚を感じる。
 かつては毎日駅を利用して通う生活をしていた。
 その頃はそんなことはなかった。
 毎日行き帰りに気が昂ぶっていてはおかしくなってしまう。

 
         特定できないための修正を施してあります

 駅を利用して通う生活を離れて40年になる。
 以来、駅は時折行く場所になった。
 だから駅が特別な場所になったのだろうか。
 でもその割によく行ってはいるのだが・・・。

 


 中学生の頃から10年ぐらい、駅の近くに住んでいた。
 とりわけ夜の駅、というか駅からの音には懐かしい想い出がある。
 列車の発着する音、通過する音、汽笛、アナウンス。
 そして夜を徹して行われる貨車の連結作業の音。

 

 それを聞きながら勉強をした。
 ながら族だからラジオも聴きながらである。
 アマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」に聴き浸った。
 ダイナ・ショアの「青いカナリア」に聴き惚れた。
 エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いたのもその頃だったろうか。

 

 その頃駅は、漠然とではあるがそこから私が出立して行く起点のように思われたものだ。
 結局、私はどこへも旅立つことが出来ず、今なお駅の周辺を徘徊しているのだが。

 駅は私の果たせなかった夢がまどろんでいる場所なのだろうか。
 駅で出合う人は、ひょっとして私の代わりに夢を叶える人なのかも知れない。

 

 だから駅や駅で出合う人が好きなのだろうか。
 よくは分からないが、ひとまずはそうしておこう。
 私にとって駅は、何か出来事の起きる舞台のように思えるのだ。

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「雪景色これが真夏であったなら」 馬鹿みたい!

2009-12-19 17:05:21 | よしなしごと
 昨日花の話をしたのに今日は雪の話です。なんというちゃらんぽらんな季節感を持った男でしょう。

 「雪景色これが砂糖であったなら」というのは小学生がよく作る俳句(?)だそうです。
 私の場合は、「雪景色これが真夏であったなら」です。
 雪景色は大好きなのですが寒いのは苦手なのです。
 三〇年間、暑い焼き台の傍で仕事をしてきたので暑さは平気です。今年も自分の部屋ではクーラーを使いませんでした(こういうのをエコっていうのです)。
 しかし寒いのはダメです。私を拷問にかけるなら、大型の冷凍庫に入れることです。
 二、三分も経ったら何でも白状します。

 昨夜は寝そびれて二時半ぐらいまで起きていました。
 さあ、寝ようとして窓の外(二階です)を見たら、もう、けっこう積もっていました。
 はじめの二枚の写真がそれです。

 

 
            白い点々はもちろん雪です

 慌てて床につき寝たのですが、今度は起きそびれました。
 目覚ましは鳴ったのです。しかし、それを止めてさあ起きようとして、あまり寒いので床のなかでぐずぐずしているうちにまた寝てしまったのです。まるで子供ですね。
 幸い、何も約束はなかったので不義理をすることはありませんでしたが、おかげで久々に八時間寝ることが出来ました。

 
             近くのバス停を臨む

 で、後半の三枚は起きてからの雪景色ですが、もう陽も高いため、路面の雪は消えています。
 でも、やはり寒いです。
 亡くなった父が、雪は降っているときよりも、降る前と降ってからが寒いのだといっていましたが、科学的にはいざ知らずじゅうぶん実感できます。

 
             私の家の北側の田圃です


 亡父といえば、今日この辺りで一番積雪量の多いのは郡上市の長滝辺りで一五〇センチを越えていると報じられていますが、その長滝から峠ひとつ越えたところがその亡父の出身地なのです。
 多いときには一丈を越えたといいますから、三メートルぐらいは降ったのでしょうね。
 そういえば、1963(昭和38)年の三八大雪の際には、父の故郷のは長期にわたって孤立し、自衛隊のヘリが出て食糧などを供給したことがあります。

 
               部屋の窓から
 
 繰り返します。
 「雪景色これが真夏であったなら」



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♪お~そくさ~く~花 は~やい~は~な~ え?温暖化?

2009-12-18 15:51:06 | 社会評論
 ♪あ~かくさ~く~花 あおいは~な~
 とはのっけから古い、島倉千代子のデビュー曲(「この世の花」)ですが、花の咲き具合もいろいろあるようで、今年は水仙が早いといわれています。
 わが家のそれも10日余り前からちらほらと咲きはじめました。

 

 そんなことがあると、即、地球温暖化に結びつけられて語られるので、そうかなぁという気持ちもありますが、一方、些細なひとつひとつの事実を取り上げて、地球の気候変動を論じたりするのはいささか早とちりではという気もするのです。

 だいたい、自然の変動なんてものは、人間が勝手に思い描いている法則性などにしたがっているわけではなく、自然そのものに内在しているポテンシャル(潜在的可能性)とそれを取り巻く諸条件との葛藤のなかで刻々と変動するもので、予測は最善の場合、その近似値に留まるものだと思うのです。

       
              秋の名残の吹きだまり


 しかし、繰り返し繰り返しそれが報じられると、私たちは何か異常な事態のなかにあるかのように思い込まされてしまいます。
 そしてそこには、これらの変動そのものを投資機会と見なし、そこで稼ごうとする連中がひしめいていて、私たちに植え付けられた危機感に乗じて、様々なものを売りつけようとします。

 確かに、人間の悪業(そこには他ならぬ私たちの消費への欲望も含まれます)によって地球が痛めつけられているのは事実でしょう。
 そして、それはそれとして修復の努力が為されるべきでしょう。

 しかし、それを利用して要らないものを買わせたり、まだ使えるものを買い換えさせる商法には眉に唾を付けて応じるべきでしょう。
 「エコ、エコ、エコ、エコ、エコ」
 結構でしょう。
 しかしそれは、より多く生産し、より多く宣伝し、より多く売り、より多く消費させるということが今日の事態を招いたことに全く頬被りをしながら、相変わらず同じパターンで私たちに迫っていることに他ならないのではないでしょうか。

 
       寒風の中、健気に咲き続けるハルジオン(春紫苑)
              春や夏の花なのに・・・


 それらは、「消費が美徳」という大前提にさらなる付加価値的キャッチフレーズを重ねます。今、これを消費することこそが地球を救うのだと・・・。
 放っといてほしいものです。私は鉄腕アトムではありませんから、地球や太陽系を救う義務も能力も持ち合わせてはいないのです。

 今もし、地球が危機だとしたら、あなた方の生産と販売への無限の拡大の欲望、そしてそれに踊らされた私たちの消費の拡大が要因なのでしょう。
 さてそんな連鎖を鉄腕アトムだったらどこでどう断ち切るのでしょう。

 「この世の花」どもは、今日もなぜなしに咲いています。
 
    ♪お~そくさ~く~花 は~やい~は~な~
 




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師走の輝き@名古屋&岐阜

2009-12-16 17:45:21 | よしなしごと
 本格的に寒くなってきました。
 師走も中頃、浮世離れしたような私でも何となく気ぜわしさを感じています。
 そんななかで、ふと気持ちを和らげてくれるものに各地のイルミネーションがあります。

 年々、その華麗さを競うようで、エネルギーの無駄ではなどと貧乏人根性で思ってしまうのですが、今時のそれは発光ダイオードのせいでかつてに比べると格段に少ないエネルギーで済んでいるようですね。
 だとしたらけちな根性は捨てて楽しまねばと思うのです。

 はじめに紹介するのは名古屋駅のそれですが、今年は春夏秋冬を表しているのだそうです。
 以下ではその春夏秋冬の間に、梅雨の季節が含まれています。

 

 

 

 

 


 

 最後のものは同じイルミネーションの下、テラスの光の回廊を行く人たちです。みんな楽しげですね。

 

 一番楽しげなグループです。見ているこちらも楽しくなります。

 

 向かいにはまもなく取り壊されるという「大名古屋ビルヂング」(ちょっとピンぼけ)

 

 

 おまけは岐阜駅のそれです。
 名古屋に比べれば地味で、動きも乏しいのですが、見ているひとたちはやはり楽しそうでした。

 

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冬の日本海と三方五湖

2009-12-14 02:35:33 | 写真集
 12日、土曜日のことです。
 大人のクラブ活動で北陸の海と三方五湖を訪れました。
 終始どんよりとした雲に覆われ、時折北陸特有の雨がぱらぱらと降りかかるコンディションで、とてもきれいな写真は撮れませんでしたが、一応絵日記のつもりでアルバムを以下に載せてみました。
 お暇でしたらご笑覧ください。


 

 
 
 

 

 
 
 

 

 

 

 
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「日本の自画像」と私のお宝(?)写真

2009-12-11 01:31:41 | 想い出を掘り起こす
 知人の I さんから、愛知県美術館で開催中の「日本の自画像 写真が描く戦後 1945-1964」という企画展のチケットを頂きました。
 戦後を代表するそうそうたる写真家たちがとらえた時代の断片とその集積の中で歴史の推移が浮かび上がるという仕掛けの企画です。
 この年代は、私が国民学校に入学し、青年期を過ごした時期に相当します。したがって、これを見逃してはと、I さんに感謝しつつ出かけました。

 とても懐かしく感じました。もちろん、これらの写真の情景は私が直接目撃したものでもありませんし、地理的に離れたところのものもたくさんありました。しかし、例えそうであっても、私は間違いなくそこで生きていましたし、その時代の空気を吸っていたのでした。
 それは例えば、焼け跡に佇むひとの溜息が私の耳朶をかすめるようなものでしたし、遠い九州で舞い上がった炭塵が私の鼻孔に届くようなものでした。

 この時期は私の成長期であったと同時に、日本が敗戦のどん底から這い上がってくる時代でもありました。そして、そこにはいくつかの節目があり、重大な選択の時期がありました。私にも、日本にもです。
 その折々の判断や選択が今日にまで至っていることは間違いないところです。私にとっても、日本にとっても。

          
            土門 拳 紙芝居  1953
             都会の子は坊ちゃん刈り


 観ていて、改めて感じたことが結構あるのですが、その内の2、3点のみ・・・。
 普段着としての女性の和服姿が、私が思ってたよりも長く、60年代でも結構多かったことに改めて気付かされました。
 もちろん、今のおしゃれ着としての和服ではなくて普段着としてのそれのことです。

 もうひとつ、私と同年代の少年たちのことです。
 食い入るように紙芝居を見つめる子供たちの中に確かに私はいましたし、大人たちの挙動を見つめる群衆の中にも私はいました。
 しかし、なぜか違和感を禁じ得ないものがあったのです。
 そのうちにその正体が分かりました。敗戦後それほど経っていないのに、都会の子たちはほとんど坊ちゃん刈りなのです。それに対して、地方の子供や、貧しい子供たちはみんな丸刈りなのでした。ちなみに私の丸刈りは大学入学まで続きました。

 こうしてみると、戦後の時代は、当然のこととしてコンクリートの電信柱のように均質に伸びてきたのではないことが分かります。その成長の中に、様々な差異を含み、それらの差異が相互に絡み合ってきたことが見て取れるのです。
 今の格差に繋がるような貧富の差、都市と田舎、本土と離島、今では死語となっていますが厳然としてあった表日本と裏日本のちがい、それらをこの国はない混ぜにしながら今日に至っているのです。

      

 さて、突然ですが、上のものは1945(昭和20)年、敗戦前の4月、国民学校入学に際して撮った私の写真です。
 となりは今年8月、95歳で他界した私の母で、当時30歳でした。
 これは戦地の父に送るために撮ったものですが、ちなみにこの写真を撮って以来、1950(昭和25)年にいたるまでの5年間、私の写真は一枚もありません。戦後のどさくさ、しかも疎開先の片田舎にあって、写真を撮ったり撮られたりする習慣がまったく途絶えていたのです。

 自分でいうのもなんですが、それにしてもりりしい坊やですね。この坊やのなれの果てが今の私であるとはわれながら信じ難いものがあります。
 時間というのは凄いことをしでかすものですね。

私の姿勢について
 これは正統なキヲツケの姿勢です。かつては就学前の児童にまでこの姿勢が徹底してたたき込まれました。
 前にこのブログで触れた、あの「焼き場の少年」もまた、きわめて正しいキヲツケの姿勢をしていたのでした。


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