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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

鶴見俊輔さんと「言葉のお守り」または「葵の印籠」

2013-01-31 03:50:46 | 現代思想
 最近、ある書を読んでいたら、さらっとですが鶴見俊輔さんの「言葉のお守り的使用法について」に触れている箇所に出会いました。 
 この言葉には、はじめてではなく前に何処かでお目にかかっているのですが、浅学と老害の悲しさ、どこだったかはわかりません。

 そこで調べたところ、敗戦から一年しない1946(昭和21)年5月『思想の科学』という雑誌が創刊され、その中に載せられた論文のタイトルであることが分かりました。

          
 
 ただし、私がお目にかかったのはそこでではありません。そりゃぁそうでしょう、その折私はおん歳7歳、国民学校の2年生だったからです。
 ちなみに、国民学校令が廃止され、現行の6・3・3・4制が施行されるのは翌47(昭和22)年からです。

 ですから、「言葉のお守り」という言葉に出会ったのはどこか他の所で、それはどこだったのかは特定できないままです。

 雑誌『思想の科学』の創刊メンバーは、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧の7人でしたが、この内ご存命なのは武田清子さんと鶴見俊輔さんです。
 武田さんは95歳、鶴見さんは92歳です。

              

 鶴見さんなどと馴れ馴れしく呼ぶのは大それたことかもしれませんが、4年ほど前、私が小冊子に書いた文章についての感想のはがきを、直接私にではなく、その小冊子の編集者宛に頂いたことがあるからです。
 これは内緒ですが、その文字の解読は困難を極め、その編集者と私とで、ロゼッタ・ストーンの解読もかくやとばかりの論議を重ねたのでした。
 それは私のつたない文章への好意ある評価でしたから、とても嬉しく思いました。

 さて、その「お守り言葉」ですが、鶴見さんは戦前の有無を言わさぬ権威を持った言葉と、それを所有し振りかざした態度をそう批判するのです。
 例えば「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「聖戦」「皇国日本」などなどがそれですが、戦前戦中、この言葉はその他の言説に対しては絶大な力を発揮しました。

          

 それらの言葉は、水戸黄門の葵の御紋入り印籠同様、「この紋所が目に入らぬか」とかざすだけでも絶大な力を持ったのです。しかし、この事実は、それらの言葉の使い手がそれをお守りとして振りかざすという側面と、その言葉のもとに身を寄せてそれによって守ってもらうという側面があったのではないかと私は考えています。

 何れにしても、それらの言葉が厳密に何を意味するのかはどうでも良かったのです。それらの言葉の権威が独り歩きをし、人々に力を及ぼしたのです。ようするにそれらのことば自身が物神化されることによってその権威を保っていたのでした。

 これが戦前でした。
 幼年の私も、それらの言葉をなんの意味かも理解しないまま口の端にのせていただろうと思います。
 鶴見さんはその「言葉のお守り的使用法」を糾弾します。

             
 
 しかし、鶴見さんの射程はそれにとどまっていませんでした。当時、雨後の竹の子のように這い出た戦前の左翼や、この間まで神国日本を説いていたにも関わらずマルクス主義として立ち現れた右翼から左翼への転向組に対しても「言葉のお守り」を使用するものとして批判を加えたのです。

 戦後のお守り言葉は曰く、「民主」「自由」「平和」「人権」などです。
 内容や実質を伴わないままにその「言葉のお守り」を振りかざし、あるいはその言葉に庇護を求めて身を寄せることによって世の中の主流を占めている、そうした意識に対しても厳しい批判を加えたのでした。

          

 こうした「言葉のお守り」が、その意味では戦前の「言葉のお守りの使用法」を反省することなく、振りかざす看板を変えたままで安易に使われる場合、それらは膠着化し、決してその内容が含意するものを実現することはないだろうというのがその批判の要旨でした。
 
 今日の状況は、そうした「言葉のお守り」の誤った使用法の結果というか、「言葉のお守り」に依拠して現実をネグレクトしてきた過程がもたらしたものともいえます。私達はそれらの言葉をお守りのように、あるいは葵の印籠のように振りかざしたり、あるいはその言葉の傘のもとに身を寄せるのみで、ほんとうにその言葉の内実を実現してきたでしょうか。
 
 鶴見さんは続けます。
 「お守り言葉をめぐって日本の政治が再開されるなら、国民はいつまた知らぬ間に不本意の所に連れ込まれるかわからない」
 1946年の、今から67年前のこの予言が的中しつつあるのではないかと危惧するのは私だけでしょうか。
 






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私の履歴書(その二) 本町橋は暗かった 1944年

2013-01-29 02:27:47 | 想い出を掘り起こす
 ものごころがついたのが同時に戦争のまっただ中だったのですが、そしてその時流に乗っていっぱしの軍国幼年を気取っていたのは前回書いたとおりです。しかし、正直にいって戦争はどこか遠い所で行われているという実感しかありませんでした。

 新聞はひらがなしか読めませんでしたが、ラジオの大本営発表の放送はしばしば聴きました。勇ましい行進曲風のイントロで始まるそれらの放送のほとんどは、我が帝国陸海軍の華々しい戦果を伝えるものであり、敵に与えたその損害の大きさを伝えたあと、「なお、当方の損害は軽微なり」で終わるのが常でした。?
 この常套句は子供にも覚えやすく、戦争ごっこやチャンバラごっこでやられても、「当方の損害は軽微だ」というのが流行りでした。

 しかし、この大本営発表が全くの虚偽であり、とくに敗戦直前のそれらは、勝敗そのものが全く逆であったことは敗戦後になってから詳らかにされました。そんな報道しかありませんでしたから、私たち子供は当然として、大人たちさえも日本が勝ち続けていると思っていた人たちがほとんどで、敗戦の玉音放送を聴いても、にわかには信じがたいものがあったのです。
 
 報道が、国家権力の一元的支配を受けて、検閲や統制の中で都合のいい報道しかしないといって北朝鮮や中国を嘲笑する人たちがいますが、それと同じ事が戦時中の日本でも行われていたのです。
 もちろんこうした統制は報道にかぎらず、思想統制などによるイデオロギー支配にも及ぶもので、戦時中に流布された大東亜共栄圏や八紘一宇の忌まわしいイデオロギーを再び拾い上げて今日の現状に適応しようというのがいわゆる歴史修正主義といわれるものなのです。
 彼らによれば、戦時中にあった禍々しい出来事はなかったことにされたり、日本民族の優秀性を示すものとして美化されたりさえするのです。

       
            本町橋 ここで大陸へ征く父を見送った       

 ちょっと話が抽象的になりました。
 どこか遠いところで行われていて、しかも連戦連勝であったはずの戦争が、ダイレクトに私の家族を直撃したのは1944(昭和19)年のことでした。
 私は6歳、父は36歳だったのですが、その父のところへ召集令状(いわゆる赤紙)が来たのです。プロ野球の選手ではありませんが、30代も後半にさしかかればもうそんなものはこないだろういうのが一般的だったにもかかわらず、それが来たのです。
 大本営発表の華やかさの影で、無謀な作戦と、死して虜囚の辱めを受けるなかれ(捕虜になるくらいなら死ね)で多くの若者を死地に追いやってしまった結果、絶対的な兵員数が枯渇してきたのでしょう。
 そういえばその頃、あちこちで「名誉の戦死」で遺骨が帰ってきたという話を聞くようになりました。

 父は、尋常高等小学校を卒業した15歳の折に、柳行李ひとつを背負い、雪深い福井県の山村から油坂峠を越えて、岐阜の材木屋に丁稚奉公に入ったひとです。そこをまじめに勤めあげて、独立を許され、借家借地ながら土場付きの材木商を開店した途端の戦争でした。
 もう商売どころではありません。
 赤紙でとられる前に、すでに徴用で各務ヶ原の飛行機工場にとられていました。そんなことの詳細を知らない私は、徴用先の面会日に、母となけなしの材料で作った弁当を持って面会に行くのが嬉しくてたまらなかったのでした。
  
      
                 明治44年の建造

 父は名古屋の六連隊に入営しました。
 また面会にゆけばいいやぐらいに思っていたところにとんでもない知らせが、しかも極秘で入りました。実はこの六連隊には母の従兄弟が将校でいたのですが、彼から、父はすぐに満州に送られるからすぐに面会に来ないともう逢えなくなるかもしれないといってきたのです。
 母と私と父の父、つまり祖父との三人で、とるものもとりあえず駆けつけました。
 そして、その従兄弟の将校の計らいで特別の部屋で面会が許されました。

 夏の暑い日でしたが、将校の客ということで冷たい砂糖水が出されました。
 もう砂糖はめったにお目にかかれない貴重品でしたから、父とはもう逢えなくなるかもしれないという瀬戸際にもかかわらず、「世の中にこんなうまいものがあったのか」と私は貪り飲んだのでした。

 六連隊は名古屋城址うちにあったのですが、出発はその日の夜半で、そこから名古屋駅まで行進して征くというので、私達はそれを見送ることとしました。行進は、六連隊のある旧二の丸を出て江戸時代の名古屋のメインストリート(名古屋城と熱田神宮を結ぶ)本町通りを進むため、名古屋城の外堀に架かる本町橋を通るとのことで、そこに陣取ることとしました。

 街灯などというものはむろん点いてはおらず、それどころか灯火管制で街なかとはとても思えない怖いくらいの暗闇が支配していました。?しかし、回りにかすかに人々の気配がします。闇を透かして見ると、私たち以外に何家族かが立ちつくしています。軍規が厳しい中でしたが、私たちと同様、何らかの形で情報を得た人たちが戦地へ旅立つ兵士を見送りに来ていたのです。
     
 何時間待ったでしょうか。やがて、ザッツ、ザッツ、ザッツと地を踏む音がして、黒々とした人影の集団が現れました。彼らがいかに規則正しく行進しているかは、地を踏む音と、黒い陰の固まりが一定のリズムをもって揺れながら闇を押し退けて進む様子で分かりました。?幼い私にとってはそれは黒い巨大な固まりでした。行進の音に混じって時折聞こえる金属の擦れ合うような音は、彼らが携帯している武器などによるものだったのでしょう。
 ?        
        
          角灯は当時もあったがもちろん灯は入っていなかった

 怖かったのです。幼い私にはその不気味な黒い集団がこの空間を圧倒しきっている様子が怖かったのです。そこには、私が絵本で見ていた、軍艦の舳先で手旗信号を送る水兵さんの輝く顔つきや、背筋をぴんと伸ばして騎乗する陸軍将校の凛々しさとは全く違う「たたかふ兵隊」の汗のにおいがする厳しさ、おどろおどろしさがありました。
 必死で父を捜しました。しかし、灯りひとつないところでそれは不可能でした。?母や祖父もそうだったのでしょう。そこで祖父が、タバコ用のマッチをとりだし、それに火を点じると、私たちの顔の前にかざしました。?いいアイディアでした。父が見つからないなら、せめて自分たちの顔を見せてやろうとする必死の思いつきだったと思います。
 
 しかし、しかしです。? 
 「誰だっ!灯りなど灯したやつはっ!」? 
 という大音声の叱責とともに、たぶん、隊列の横を歩いていた指揮官の一人と思われる人影ががとんできたのです。
 祖父は慌ててマッチを落とし、踏んづけました。?指揮官らしい男は、私たちの方を凝視しているようでしたが、やがて隊列に戻ってゆき、事なきを得ました。?これらは全て闇の中の一瞬の出来事でしたが、祖父が手放したマッチの落下がなぜかゆっくりだったような気がするのです。
    ?     
 こうして黒い集団は通り過ぎました。その数が何人だったのかもよく分かりません。?「後を追ってはならない」と厳しくいわれていましたので、私たちは岐阜へ帰るべく別の道筋を通って名古屋駅に着きました。?しかし、一縷の期待にもかかわらず、名古屋駅には兵士たちの姿はありませんでした。?きっと、どこか別の通路からホームにあがり、専用列車でどこかの軍港へ向かったのでしょう。

       
            橋から西の堀 昼なお鬱蒼とした感がある
 
 それから何十年経った1990年のことです。黒澤 明監督の当時の新作『夢』という映画を観ました。?やはり大家になると晩年には説教くさくなるのかなぁ、などと生意気な感想をもって観ていたときでした。そのオムニバス映画の第4話に至って、私の全身を電流か駆け抜けるようなシーンと遭遇したのでした。
 私はどんな映画でも、割合、冷静に観る方です。しかし、このときは、「あっ、それって、あのときの」と思わず叫びそうになったのです。?既視感(デジャヴ)が強烈に私を襲いました。?1944(昭19)年のあの夏の夜、本町橋の上で、私はまちがいなくそれを経験したのです。
 
 映画の第4話は、「トンネル」と題され、復員兵がトンネルにさしかかると、戦死した兵士たちが隊列を組み、まさにザッツ、ザッツと軍靴の音を響かせて立ち現れるのです。?これこそ、幼い私が本町橋の上で「経験した」光景でした。敢えて「見た」とは言いません。なぜなら、本町橋はもっと暗く、話を交わすいとまなどもなく、ただ黒い固まりが動いていったのみですから。にもかかわらず、兵士たちはあのように、本町橋の上を進んでいったのでした。しかも、それらのうち何人かはふたたびこの国の土地を踏むことがなかったのです。? ? 

 1944年の話はまだまだあるのですが、十分に長くなりました。また後編はいつか書きましょう。
 
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解きほぐされる言葉たち 多和田葉子『ボルドーの義兄』を読む

2013-01-27 01:31:23 | 書評
 多和田葉子さんの2009年の作品『ボルドーの義兄』を読了しました。
 アフォアリズム風の短い断章を連続させ、そしてそれらの断章ごとに時空を自由に行き来しながら、全体としては一編の小説にまとめあげている実験的なものです。また、それぞれの断章は、それ自身である種の完結性を持っているともいえます。それらの断章はあるときは詩的であり、またあるときは寓話的であってさまざまな含蓄を味わえる仕組みになっています。
 
  視覚的に目を引く点は、それぞれの断章には漢字一文字のタイトルが付されているのですが、それらはいわゆる裏文字(=鏡文字)になっていて、普通はよく見慣れた文字が異化され、ある種違和感を持った他形のものとして立ち現れてくることです。

             

  これらの中にも、彼女の言葉や文体に関する常に新しい試みが現れているといえます。
 こうした漢字の用い方には、この小説の中でも述べられている「漢字をときほぐすこと」による意味やイメージの展開が実践されているようです。
 それはあたかも、私たちにとっては自明になっている日本語や、表意文字としての漢字をまさに目の前でときほぐすパフォーマンスともいえるものです。
 
  こうした方法は、彼女自身が日本語やドイツ語を駆使しながら作品を発表してゆくなかで、日本語の相対化、あるいは一度その外部に出てからの日本語の考察という経験に伴って可能になったものだと思います。

         

  この本の表紙には、写真で見ていただくとお分かりのように、「力」「企」「形」という三文字が裏文字(=鏡文字)で掲げられ、それぞれの字にはこんな言葉がルビ風に配置されています。

       言葉の不思議なチカラ。
       文字の美しいタクラミ。
       小説の見たこともないカタチ。

  これらは、多和田さんがこの小説で目指したものをよく表しているように思います。

  そういえば、芥川賞を最年長でとった黒田夏子さんの作品も、あえて横書きにするなど(水村美苗さんもその作品『私小説』で行っていました)、「言葉」のマテリアルな力を意識した実験的な作品だそうですね。いま手がけていることどもが一段落したら、じっくり読んでみるつもりです。



 

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私の黒い履歴書(その一) 1938年

2013-01-25 03:36:29 | 想い出を掘り起こす
 1938年に生まれました。
 なぜこの年に生まれたのかはもちろん自分で選択したのではないからわからりません。しかし、あとから調べて分かったのですが、私は確かに国家の要請を受けて生まれてきたのです。というのは、この年に「国家総動員法」が成立しているのです。
 ようするに、私はこの法にしたがい動員されて生まれてきたのです。戦時体制の申し子ですね。だから幼い頃は熱烈な愛国幼年にして軍国幼年でした。

 私の小さな胸を痛めたのは、いずれにしろ天皇陛下のためにこの身を捧げて死ぬのですから(そう教え諭されていました)、それではどの軍に入って戦うかでした。
 わが大日本帝国の軍隊は、陸軍と海軍にわかれていて、そのどちらかを選ばねばならなかったのです。ちなみに、空軍というのはなく、海軍航空隊と陸軍航空隊があるのみでした。

          

 絵本で見る海軍さんはカッコ良かったですね。紺碧の海原に白い制服、ほんとうに絵になっていました。しかし、海なし県の岐阜ではそれらを実際に見たことはなかったのです。
 実際に見たのは、ときおり家の前を通りかかる陸軍将校の騎乗姿で、軍刀を佩(は)いたその姿もまた素晴らしいものでした。
 ですから、幼い胸は千々に乱れたのです。
 まあ、はっきりいって、軍隊というのが殺したり殺されたりするところだということがリアルには認識できなくて観念的な対象でしかなかったのでしょうね。

 しかし、これは私の幼さばかりではありません。戦闘に伴うそうした悲惨さは、英雄譚や戦友物語として美化され、実像は報道されていませんでした。
 私の敬愛する川柳作家・鶴彬は「屍のゐないニュース映画で勇ましい」という句を作っています(1937年)。ことほどさように、兵隊や家族にまつわる悲劇は、そして日本軍の銃口の先にいる異国の人たちに関する悲劇は隠蔽され、美しい聖戦の色彩が施されていたのでした。

 上に見た鶴彬の、「手と足をもいだ丸太にしてかへし」とリアルに詠んだ句が治安維持法違反だとして検挙され、若干29歳で獄死したのがまさに私がこの世に動員された1938年のことでした。

          

 これが私の黒い履歴の始まりですが、まだ幼年期のことです。
 この続きはまた気が向いたら書きます。
 だいたい、回想記など書き始めたら先が短いと決まっているのですが、あえて書き始めた次第です。
 もちろんこれは、私が実感してきたものとは随分違う、最近の勇ましい歴史認識へのささやかな応答でもあります。


トリビア
 上に触れた鶴彬は、その5年前に特高警察の拷問により虐殺された小林多喜二と辿った道筋が似ている(両者ともに29歳で死亡)ということで、「川柳界の小林多喜二」といわれています。そして、なんと鶴彬の本名は喜多 一二(きた かつじ)なのです。
 ところで、2008年から09年にかけての『蟹工船』ブームっていったいなんだったのでしょうね。やはり、なんでもファッション、なんでも商品なんでしょうかね。


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【文体の実験「んです」調】街頭時計についてなんです

2013-01-23 16:29:37 | よしなしごと
《まえがきなんです》
 縁あって日本語の勉強をしているんですが、この言葉、一筋縄ではゆかないんです。なんとなく単一で当たり前のように使っているんですが、話し言葉だけでも、標準語から方言、女言葉から男言葉、それに社会的な階層などによってそれぞれ違ったことばを話しているんです。
 書き言葉の方もそうなんです。かつては漢文訓読体の候文や、やまと言葉の擬古文などがあったんですが、現在ではもっと平易な書き方をしているんですね。
 しかし、その現代風の書き方にも、「である」調や、「です、ます」調などがあるんですが、ここで私が試みたのは、「んです」調なんです。もちろんこれは「のです」の変形なんですが、しかし、「のです」という表現とはまた違った味わいを持っているんではないかと思うんです。


          

《ここから本文なんです》
 こんな私でも時折はこの街を出て、ほかの街へ行く機会があるんです。
 前よりウンと回数が減りましたが、それでも月に何回かはでかけることがあるんです。そんな時、雨降り以外は自転車で駅まで行くことにしてるんです。
 
 距離は2キロほどで、大したことはないんですが、今の時期、北風に逆らって行くもんですから、けっこうきつい日もあるんです。それでも、老いゆく肉体への刺激になるんではと思い、ともすれば押し戻されそうになるんですが、懸命にペダルを踏んで進むんです。

          

 前にも書いたんですが、私の家から駅までの間には、かつては5つの街頭時計があったんです。それらは、私の自転車運行のチェックポイントのような役割を果たしていたんです。
 これについては前にもここに書いたことがあったんですが、それらの時計が一つ減り、二つ減りしていったんです。そしてとうとう、今年になって、ついにひとつになってしまったんです。

 つい最近なくなったのは、銀行の側壁に取り付けられたもので、駅までの最終チェックポイントだったんですが、それがなくなってしまったんです。これだけは残るだろうと思ったんですが、その判断が誤っていたんですね。
 なぜ最終チェックポイントだったかというと、ここで、少しピッチを上げれば〇〇分の電車に間に合うんだとか、あるいはもう間に合わないから無理をしない方がいいんだなどと判断をしていたからなんです。

          

 これまでなくなったのは、建物そのものがなくなったんだとか、その営業実体がなくなったからとかだったんで、銀行だけは大丈夫だと思っていたんですが、その思惑が見事外れたんです。

 最後に残ったのは一箇所、私の家を出てから、最初の大手の酒屋さんの出荷センターのようなところのものなんですが、これも前に書いたことがあるんですが、ここの時計はいつも数分進んだ状態にあるんです。
 最初は管理不行き届きかなと思ったんですが、そうではなくて、配達業務などをする従業員さんを急かせるためにわざわざ進めてあるんだそうです。ようするに、管理不行き届きでは決してないんであって、そういう管理方式なんですね。

 で、結論としては、家を出てすぐのところで、しかもその時計がいつも進められていたんでは、チェックポイントの役割を果たせないということなんです。

          

 銀行は大丈夫だと思っていたんですが、そこの時計も撤去されたんで、街頭時計の減少は私が思っていたように、その設置する企業や建造物の問題ではないんだということに思い当たったんです。
 ようするに、かつてはとても便利だったんですが、今や車には時計がつき、歩行者は携帯を持つようになったんで、それらのサービス機能はもはや殆ど顧みられなくなったんですね。

 しかし、しかしです。私のような自転車ドライバーに取っては少々事情が違うんです。
 自転車を運行しながら、携帯などを見ることはとても危険なことなんです。
 もっとも、自転車を漕ぎながら携帯を見ている不届き者もいて、かつて歩行していた私にぶつかってきたやつもいるんです。
 幸い、私が身をかわしあやうく横倒しになるところをこらえたんで、軽い接触だけで大事には至らなかったんですが、さすがの私も腹に据えかねたんで、「おまえなぁ、片目で携帯を見てもう一方で前を見ることなんかできないんだから、そんな危ない運転をしてはいけないんだ」といってやったんです。

          

 話が横道にそれたんですが、ようするに、駅までの行程でこれまで5箇所にあった街頭時計が一箇所になってしまったということなんです。
 ならば致し方ないということなんで、私なりの対策も立てたんです。
 それはというと、前の列車に乗れるんだとか後のになるんだとかということなど全く考えないで、向かい風の状況、信号のタイミングなどのあるがままに身を任せ、小賢しく自己管理などしないということなんです。

 それによって所定の時間に遅れたってなんの大したこともないんです。
 私自身の生き様が、もう世間の標準からはすっかり遅れてしまっているんですから、いまさらジタバタしてもどうってことはないんです。
 こういうのって悟りっていうんでしょうか、それとも居直りっていうんでしょうか。
 私にとってはどっちでもいいんですが。


以上の文章の中で「んです」、ないしはそれに類する表記を70箇所以上入れてみました。
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映画『最初の人間』とアルジェリア

2013-01-21 14:26:11 | 映画評論
 1960年、ひとりの作家が交通事故で他界した。
 その3年前、44歳でノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミユである。
 その遺作として、未完に終わった自伝的小説『最初の人間』が残された。

              

 映画『最初の人間』はそれによるものである。したがってその主人公、ジャック・コルムリはほとんどカミユその人といってよい。
 時代は錯綜しているが、ひとつは彼が自出の場であり、母の暮らすアルジェリアを訪れる1957年である。そしてもうひとつの時代は、そのアルジェリア訪問によって思い起こされる彼の少年時、1920年代の日々である。

 フランス人の父が第一次世界大戦で戦死したため、1920年代の彼はアルジェリア人の母方の実家でその祖母や叔父などと暮らしている。
 この20年代と57年の間にはもちろん連続性がある。
 それらは、彼が自分の過去の痕跡を訪ね歩くことによって次第に明らかになってゆく。

 少年の彼の才能を見出し、その進学を家族に説得してくれた恩師、やんちゃだったが誇り高かったアルジェリア人の少年とその息子、彼にタバコの吸い方からさまざまなことを教えてくれた明るい性格の叔父、などなどが決して過去への単なる回想ではなく、50年代半ばから始まったアルジェリアの独立戦争との継続のなかで、その不穏な空気をバックに辿られてゆく。

        

 そこで彼が見出したものがなんであったのかは、ネタバレになるので控えるが、その、1957年のあの不穏な時代背景は、1962年のアルジェリア独立と同時に完全に終焉したのではなく、この現在とのつながりを持ってもいることを悲惨な事実としてつきつけたのが今回のイスラム武装勢力の攻撃であるといえる。

 私がこの映画を観たのはもう数日前なのだが、ちょうどその頃に今回の事態が勃発したので、その趨勢を見るため、これまでは書くのを控えていた。どうやらそれは、多くの犠牲者を出す最悪の悲劇に終わったようだ。

 発端はマリ共和国の内戦状態に関するかつての宗主国、フランスの軍事介入とそれへのイスラム勢力の反発である。とくにアルジェリアが、フランス軍の通行に便を図ったことにより、舞台がアルジェリアに移されたといわれているが、ただ、それだけではあるまい。

        

 アフリカの地図を見る者はだれでも気づくのだが、旧植民地であり現在は独立した国々の国境線は定規で仕切ったように真っ直ぐである部分が多い。紛争地マリとアルジェリア、そしてマリと西隣のモーリタニアもそうである。
 これは旧宗主国同士が、お互いの覇権が及ぶ地域を線引によって確定したことによる。
 したがってそこには、民族や風習、言語について同一性をもった人々に対する暴力的分断の歴史がある。幸いにも日本の都道府県はそうではないが、人間は人為的に引かれた直線にそって生活しているわけではない。

 したがって、そうした線引とはかかわりなく人々の行き来はあるし、現実にその線をまたいで人々は生活している。マリとアルジェリアの間でも、むろん然りである。
 もうひとついうならば、今回の日本人の犠牲はあながち「無辜であったにもかかわらず」ということはできない。なぜなら、日本政府はフランスの進攻を支持するという公式声明を出している以上、イスラム武装勢力にとっては「敵」の一部なのだ。

 もちろん、この事実の指摘はイスラム武装勢力の作戦を擁護するものではないし、その犠牲になった人々を突き放したりすることではない。
 こんなことはあってはならないことは自明であることを確認した上での事実の指摘である。

        

 日本が「平和ボケ」という指摘はある意味では当たっている。
 世界の五分の一は何がしかの意味で戦場だといい、いう人にいわせれば、三分の一は潜在的戦場であるとしたら、企業進出にしろ、観光にしろそれをわきまえる必要があるということだろう。
 そしてまた、グローバリズムの中で均質化されるのに抵抗する勢力がいるという事実に関していうならば、そのグローバリズムを享受している私たちは、決して外部の第三者ではいられないのだ。

 映画から少なからず離れたが、その舞台を1957年とするこの映画は、欧州による過去の植民地支配とそれから脱する前夜の様相(それは、ほぼ世界同時的であったことを言い添えるべきだろう)を如実に示しているばかりか、それらの地域においてのその後の過程の中でも、なおかつ収まり切らなかった後遺症としての現代の諸問題を照射している点で、やはり観ておいたほうがいいだろう。

              

 映画の出来栄えや登場人物の演技に触れることはなかったが、それらもまたなかなかのもので、その映像も美しく、いい映画に仕上がっていると思った。
 文字の読み書きができない主人公の母が、こっそりと新聞を写してそれを学び、息子の作品を読もうと試みるシーンはジーンとくる。
 このアルジェリア人の母の存在感は際立ち、要所要所で画面を締めているように思った。

 蛇足ではあるが、アルジェリア出身で他に思い出すのは、哲学者のジャック・デリダ、デザイナーのイヴ・サンローラン、サッカーのジネディーヌ・ジダン、などである。
 いささか、トレビアっぽいところでは、女優・沢尻エリカの母親は、やはりアルジェリアの出身だという。
 




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冬木立と今年最初の「川柳もどき」

2013-01-19 02:44:01 | 川柳日記
  

 【タッチ】
    小賢しいタッチ別れの曲が鳴る
    改札のタッチのように過ぎたひと

  

  【ホテル】
    温度差が違うホテルの窓灯り
    ホテルには出前のような月が出る

  

  【引く】
    アドレス帳ピリオドは線一本で
    ひくものがもうなくなってさようなら

  

  【きのこ】
    このこかげきのこどこのここのこのこ
    しがみついてもいしずちはすてられる

  

  【そっと】
    そっとすり抜けて時代の裏に出る
    そっと出てそっと帰ってそっと寝る

  

  【似る】
    咳払いのみが似てきて親の歳
    占いに似てきてしまうオイディプス

  

  【茶】
    遅すぎた茶柱もう寝ていいんだよ
    終わったなもうこれまでと茶を煽る

 

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「ゆとり教育」、「ゆとり世代」への「無批判的」批判について

2013-01-16 02:52:50 | よしなしごと
 以下は、あるSNSで友人と交わしたメッセージに若干の加筆、編集をしたものです。
 テーマは、「ゆとり教育」、「ゆとり世代」への批判的風潮に関してです。

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 ゆとり教育というのが何であるのか、いったい、いつからいつまでをいうのかもあまりはっきりしていませんね。そして、それがもたらした影響も。
 それらがはっきりしないままになんとなく「ゆとり教育」批判が一般化し、さらには、「ゆとり世代」というように曖昧に一般化されることによって余計それへの批判も漠然としているのが現状のようです。
 それらが、いつの時代にでもある「今時の若い連中は」という世代批判とオーバーラップしているのは明らかですね。

        
 
 とはいえ、後述するようにゆとり教育はやはりその目指すところという意味では失敗だったのではとも思っています。

 ゆとり教育の発端は70年代後半から80年代のはじめ、当時の文部省と教職員組合が珍しく合意してはじめられたものですが、それらがカリキュラムに反映されたのは1900年代末ぐらいからで、その批判が公になり、見直しがいわれはじめたのが今の前の第一次安倍内閣の2008年頃のことです。したがって、その見直し作業は文科省などで行われているものの、実はまだ、そのカリキュラムなどは基本的にはいまも続行中なのだそうです(このへんは不詳です)。

        

 なぜゆとり教育がいわれ始めたのかは、高度成長期の詰め込み教育がいびつな人格を生み出してきたのではないか(公害への無反省、無関心など)という指摘と、教職現場の負担軽減の問題、それに加えて、当時の中曽根内閣が進めてきた民営化路線(国鉄→JR 電電公社→NTTなど)の一環としての公教育の民営化構想などが複雑に絡んでいたといわれています。

 ゆとり教育の積極的な面は、詰め込みから脱して「自分で考える」教育ということでした。しかし、結論からいって、既に述べたように、これはうまくゆかなかったと思います。
 確かに土曜休校など生徒にはゆとりが与えられたのですが、「考える教育」を実践する教師の方にはそれを実践するだけの「ゆとり」が与えられなかったといわれています。結局のところ、「ゆとり」が空白に終わり、その間隙を「学習塾」が埋めたのでした。

        

 よくゆとり教育が学力の低下を招いたといいますが、それを詳しく見ると、ちょっと様相が違ってきます。
 その基準としていわれる国際的な学力テスト(PISA)での順位の低下ですが、これを詳しく見ると、いわゆる暗記科目など(数学的リテラシー、科学的リテラシー)ではさほど低下していないのですが、どこで低下しているかというと、「読解力」を含む記述問題において著しいのです(それぞれ2009年には若干の回復傾向がみられます)。
 ようするに習ったことを復唱はできるが、それをベースに応用問題を解読し、それに対する適切な記述をすることができないのです。日本の生徒の場合、記述内容が間違っていたり、さらには無回答が相当数あるといわれています。

 この読解・記述問題で他の国々との差が著しいということは、いってみれば与えられた問題を自分で考えることができない、したがって書けないということです。ようするに、「ゆとり教育」の目指すところ、「考える教育」が実現できていないわけです。
 これらの結果を詳しくみないで、いわゆる文教族といわれる国会議員などから「読み書きソロバン」の強化がいわれたりしますが、これは明らかに逆効果と思われます。

        

 一方でとり上げられているのは、「ゆとり世代」と呼称される人たちの学力というより生活態度のような問題だと思われますが、それらは、「ゆとり教育」とはほとんど関係がないと思います。
 それらについては、親の世代の影響、社会全体の変化の影響といった「教室外」での問題のほうがはるかに大きいと思います。

 上に述べた国際的な学力テストで、日本を激しく追い上げ、ある部門では凌駕さえしているインド、その近代化や高度産業社会への参入などが爆発的に進むこのインドで、女性に対する性的凶悪犯罪が激増していると伝えられるのも、学力の「詰め込み」か「ゆとり」かではない別の要因、いってみればその地域独自の社会的な諸関係によって決定されるものではないかと思われます。

        

 ゆとり教育は、「自分で考える」という目標では失敗しましたが、それを詰め込みに直したら、あるいは極端にいって大阪の市立高校のように体罰をもって「調教」したらいいものではないと思います。
 教育も含めた広い意味での情報の供給とその受容の問題として考えるべきでしょう。
 もちろんそのための具体的方策を持っているわけではありません。
 ただ、「今の若い子は」という批判はできるだけギリギリまでいうことなく、むしろそういう状況を作ってきた私たち先行する世代の問題として考えてゆきたいとは思います。
 しかし、世代間の問題、その間のさまざまな面での継承と反発という問題というのは難しいですね。
 

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私の作った蕗味噌と東京オリンピック

2013-01-14 03:19:43 | よしなしごと
 二、三日前、スーパーへ行ったら小指の先ほどの蕗の薹が十数個入ったものが二百ウン十円で売っていた。
 もう少し暖かくなったら、そのへんにいっぱい出てくるものをなんでそんなに大枚をはたいて買わなきゃならんのだと横目で睨んで通り過ぎた。

 帰途、よく考えてみれば「そのへんにいっぱい出て」いたのはもう随分前の話で、最近はあまり見かけないことに気づいた。農道の整理やその他の環境の変化のせいだろう。
 かつて、愛犬「寿限無」の散歩のついでに、ポケットというポケットにいっぱい摘んで帰ったことなど思い出したが、それももう二〇年以上前かもしれない。
 ならば買っても良かったかなとやや悔やんだが、もう遅い。
 それに、あれではいかにも小さすぎる。まるで児童虐待ではないか。

 で、昨日のことである。同じスーパーへ出かけたら、やはりあの蕗の薹は売れなかったのか、なんと一パック六〇円になっているではないか。
 これなら買いだと、二パックをゲットした。
 筆の穂先のように小さいものが、えんじ色の外皮にくるまれているので掃除にはけっこう手間どる。根元を切って外皮を取ると、やっと鮮やかな黄緑色が姿を現す。

 一パックはお決まりで天ぷらにした。
 う~ん、このほろ苦さがなんともたまらない。
 もう一パックは蕗味噌にした。
 レシピは以下だ。

掃除したものを五ミリぐらいに刻んですぐ水に落とす(そうしないとアクが出て見る見る黒くなる)。
切り終わったら、水に晒したそれを熱湯で三〇秒ほど湯がき、再び水でさらす。
よく絞ってから少量のサラダオイルで軽く炒める。
それを予め、味噌、みりん、砂糖を練り合わせておいたものに加え、双方が馴染むまで混ぜながら火を通す。

 これが絵に描いたようにうまくいって実に美味いのだ。
 ちびちび舐めれば酒肴になる。
 炊きたての飯に乗せれば、また一段と香りが立ち上る。
 パンにだって合ってしまうのだ。

 話は突然変わるが、ツイッターで私がフォローしている猪瀬くんが、なん日か前にこんなことをつぶやいているのをリアルタイムで見た。

「東京五輪がいやならどうぞ、引きこもっていてください。復興への使命感がある人、世界のアスリートから生きる意味を学びたい人、日本の選手の活躍を眼の前で見つめたい人、やりたい人でやりますから。」

 物書きのくせに随分デリカシーのない言い方をするなあと思っていたら、それに反発する人たちが押し寄せて、彼のブログは炎上中とのことだ。
 公人の表立った発言だからやはり反発は必至だろう。

 「復興への使命感」があるならその金を直接東北へ持っていった方がいいんじゃぁないかい。聞くところによると、これまでの宣伝工作費だけで既に何百億をつぎ込んでいるはずだ。
 「世界のアスリートから」学べって、どれだけの人が直接それを見ることができるんだい。北海道から沖縄までのすべての人に見せる工夫でもあるんかい。
 どこでやろうとTVの方がはるかにわかりやすいし、はるかに学ぶところがある。

 「引きこもっていてください」ってなんていう言い草だい。
 ようするに、オリンピック誘致に関心のないやつはヒッキーになれということかい。
 それって、差別を含んだ言いがかりだろう。
 仮にも公人が言うべき言葉じゃないよな。

 「やりたい人がやりますから」って居直るなら「どうぞ」というほかないね。
 その代わり、税金をびた一文も使わないで、すべてあんたたちのポケットマネーでやってね。
 土建屋さんから寄付を集めたっていいよ。
 どうせそこへゴッソリ金がいって、その一部が政治資金としてあなたたちの懐へ還流する仕掛けになっているんだから。

 だいたい日本の誘致賛成派はやっと五〇%台だろ。
 だったら、ほかでやらせればいいじゃないか。
 もっとも、あなたのそうした狭小な発言がさらに支持率を下げたと思うんだがどんなもんだろう。

 東京オリンピックなんて、私の作った蕗味噌ほどの価値もない。


今回は写真はありません。味噌の写真なんてどう撮っても見映えがしないもんね。調理する前の蕗の薹を撮しておけばよかった。

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新しい表札と歌留多の思い出

2013-01-12 04:03:28 | 想い出を掘り起こす
 今年、改まってしたことは玄関の表札を換えたことだろう。
 実はこの表札、もう10年以上前から私の机の引き出しのなかで、包装紙にくるまれたまま眠っていたものである。
 それをあえて今年、掛け替えたのは前のものが古びてきて見えにくくなったせいだけではない。

 実はこの表札、3年半ほど前になくなった母が、それに先立つ何年も前に遺言を残し、自分が住んでいる家を私に譲る、ついては新しい表札がいるだろうといってわざわざ誂えてくれたものである。
 はしょっていうならば、結局、私はその家を相続しなかった。
 「きょうだい」のためにあえていうが、遺産を巡る係争があって私が敗れたわけではない。
 むしろ、私のわがままで母の遺志に背いたのは申し訳なかったと思っている。

 そんなわけでその表札が手元に残ったのだが、しまっておいてもしょうがないので、三周忌があけた新年、今の住まいに取り付けることにした。
 包装を解くと、今なお新しい木の香りが匂い立った。
 材木屋の息子だから、木の匂いには敏感なのだ。
 取り替えると、何でもないあばら屋のそこのみが少し輝いていて、それを見上げる私もなんだか面はゆい気分になった。

            

 前回の記事では、アウトドアの凧揚げのことを書いたが、私の子供の頃の室内での遊びはカルタ取りだった。カルタといってもいろはカルタではない。百人一首だった。
 若い人にはわからないかもしれないが、三十一文字を読み手が読み上げるのに従って、ひらがなで書かれた下の句の札をとるのである。
 読み手のメロディはというと、宮中でまもなく行われるであろう歌会初めのそれとほぼ同様だった。ただし、あんなに悠長にノンベンダラリンとではゲームとしての興がそがれるので、もっとアップテンポだった。

 子供のくせにというなかれだ。確かに最初はほとんど意味もわからずにただ札をとっていたのだが、その段では、私の父母のようなれっきとした平民の大人たちも、さほど意味がわかっていたわけではなかったのだからフィフティ・フィフティだった。
 それに意味がわかったからといって早くとれるわけではない。

 ただし、暗記力は要求された。
 「秋の田の」と読み手が読んだだけで、「わがころもでは」をとらなければならなかったからだ。
 落とし穴もあった。
 いろはカルタと違って、100枚のとり札のそれぞれの最初の文字が違っているわけではなかった。
 上に見た、「わがころもで」にも二通りあって、「春の野に」も、取り札の方は「わがころもでに」で始まるのだ。
 前者は、「わがころもではつゆにぬれつつ」であるのに対し、後者は「わがころもでにゆきはふりつつ」なのだから紛らわしい。
 間違えると、お手つきという罰則があった。

 ついでながら、「わが」で始まる取り札はほかにもこんなにあった。
    わが身世にふるながめせしまに
    わが身ひとつの秋にはあらねど
    わが立つ杣にすみ染の袖
 「わが」ではないが、「わ」で始まるのにはこんな札もあった。
    われても末に逢はむとぞ思ふ

 なんだか話が逸れたようだが、ここから母の思い出につながる。
 これは前にも書いたが、こうしたカルタ取りの際、母が絶対ほかの人にはとらせない札があった。
 それは「久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ 」(紀友則)で、その理由は単純であった。この取り札の冒頭の「しづ」が自分の名前だったからである(戸籍上はシズ)。
 これをひとにとられたりすると、身をよじらんばかりに悔しがった。

 父が読み手になる場合が多かったが、この歌を読む前に「エヘン」と咳払いをするので、母は読み始めと同時にもう札をとっていた。麗しい(?)夫婦愛であった。
 正月には必ず実家に顔を出したが、いつの間にかカルタをとる風習はなくなってしまった。
 父母が老齢化したからであろうか、それともその遊びそのものが古びてしまったからだろうか。
 たぶんその両方であろう。

 今読んでいる本(『『国語』という思想』)には日本においての《母性概念》は《故郷》のそれとともに「想像の共同体」を支えるものだったと書いてある。
 確かに、万世一系の父性概念が表側だとすれば、それに張り付くように共同体への包摂概念としての「母性」が作用してきた。「軍国の母」や「岸壁の母」はそのように機能してきた。
 その名残りなのか、近年の国語教科書においても登場回数が圧倒的に多いのは父ではなくて母だと石原千秋も指摘している。(『国語教科書の思想』『国語教科書の中の「日本」』)

 私は十分それを自覚しながらもやはり母を偲びたいと思う。
 新しい表札に母が込めてくれた思いを遺産として受け止めながら。


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