最近、ある書を読んでいたら、さらっとですが鶴見俊輔さんの「言葉のお守り的使用法について」に触れている箇所に出会いました。
この言葉には、はじめてではなく前に何処かでお目にかかっているのですが、浅学と老害の悲しさ、どこだったかはわかりません。
そこで調べたところ、敗戦から一年しない1946(昭和21)年5月『思想の科学』という雑誌が創刊され、その中に載せられた論文のタイトルであることが分かりました。
ただし、私がお目にかかったのはそこでではありません。そりゃぁそうでしょう、その折私はおん歳7歳、国民学校の2年生だったからです。
ちなみに、国民学校令が廃止され、現行の6・3・3・4制が施行されるのは翌47(昭和22)年からです。
ですから、「言葉のお守り」という言葉に出会ったのはどこか他の所で、それはどこだったのかは特定できないままです。
雑誌『思想の科学』の創刊メンバーは、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧の7人でしたが、この内ご存命なのは武田清子さんと鶴見俊輔さんです。
武田さんは95歳、鶴見さんは92歳です。
鶴見さんなどと馴れ馴れしく呼ぶのは大それたことかもしれませんが、4年ほど前、私が小冊子に書いた文章についての感想のはがきを、直接私にではなく、その小冊子の編集者宛に頂いたことがあるからです。
これは内緒ですが、その文字の解読は困難を極め、その編集者と私とで、ロゼッタ・ストーンの解読もかくやとばかりの論議を重ねたのでした。
それは私のつたない文章への好意ある評価でしたから、とても嬉しく思いました。
さて、その「お守り言葉」ですが、鶴見さんは戦前の有無を言わさぬ権威を持った言葉と、それを所有し振りかざした態度をそう批判するのです。
例えば「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「聖戦」「皇国日本」などなどがそれですが、戦前戦中、この言葉はその他の言説に対しては絶大な力を発揮しました。
それらの言葉は、水戸黄門の葵の御紋入り印籠同様、「この紋所が目に入らぬか」とかざすだけでも絶大な力を持ったのです。しかし、この事実は、それらの言葉の使い手がそれをお守りとして振りかざすという側面と、その言葉のもとに身を寄せてそれによって守ってもらうという側面があったのではないかと私は考えています。
何れにしても、それらの言葉が厳密に何を意味するのかはどうでも良かったのです。それらの言葉の権威が独り歩きをし、人々に力を及ぼしたのです。ようするにそれらのことば自身が物神化されることによってその権威を保っていたのでした。
これが戦前でした。
幼年の私も、それらの言葉をなんの意味かも理解しないまま口の端にのせていただろうと思います。
鶴見さんはその「言葉のお守り的使用法」を糾弾します。
しかし、鶴見さんの射程はそれにとどまっていませんでした。当時、雨後の竹の子のように這い出た戦前の左翼や、この間まで神国日本を説いていたにも関わらずマルクス主義として立ち現れた右翼から左翼への転向組に対しても「言葉のお守り」を使用するものとして批判を加えたのです。
戦後のお守り言葉は曰く、「民主」「自由」「平和」「人権」などです。
内容や実質を伴わないままにその「言葉のお守り」を振りかざし、あるいはその言葉に庇護を求めて身を寄せることによって世の中の主流を占めている、そうした意識に対しても厳しい批判を加えたのでした。
こうした「言葉のお守り」が、その意味では戦前の「言葉のお守りの使用法」を反省することなく、振りかざす看板を変えたままで安易に使われる場合、それらは膠着化し、決してその内容が含意するものを実現することはないだろうというのがその批判の要旨でした。
今日の状況は、そうした「言葉のお守り」の誤った使用法の結果というか、「言葉のお守り」に依拠して現実をネグレクトしてきた過程がもたらしたものともいえます。私達はそれらの言葉をお守りのように、あるいは葵の印籠のように振りかざしたり、あるいはその言葉の傘のもとに身を寄せるのみで、ほんとうにその言葉の内実を実現してきたでしょうか。
鶴見さんは続けます。
「お守り言葉をめぐって日本の政治が再開されるなら、国民はいつまた知らぬ間に不本意の所に連れ込まれるかわからない」
1946年の、今から67年前のこの予言が的中しつつあるのではないかと危惧するのは私だけでしょうか。
この言葉には、はじめてではなく前に何処かでお目にかかっているのですが、浅学と老害の悲しさ、どこだったかはわかりません。
そこで調べたところ、敗戦から一年しない1946(昭和21)年5月『思想の科学』という雑誌が創刊され、その中に載せられた論文のタイトルであることが分かりました。
ただし、私がお目にかかったのはそこでではありません。そりゃぁそうでしょう、その折私はおん歳7歳、国民学校の2年生だったからです。
ちなみに、国民学校令が廃止され、現行の6・3・3・4制が施行されるのは翌47(昭和22)年からです。
ですから、「言葉のお守り」という言葉に出会ったのはどこか他の所で、それはどこだったのかは特定できないままです。
雑誌『思想の科学』の創刊メンバーは、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山眞男、都留重人、武谷三男、武田清子、渡辺慧の7人でしたが、この内ご存命なのは武田清子さんと鶴見俊輔さんです。
武田さんは95歳、鶴見さんは92歳です。
鶴見さんなどと馴れ馴れしく呼ぶのは大それたことかもしれませんが、4年ほど前、私が小冊子に書いた文章についての感想のはがきを、直接私にではなく、その小冊子の編集者宛に頂いたことがあるからです。
これは内緒ですが、その文字の解読は困難を極め、その編集者と私とで、ロゼッタ・ストーンの解読もかくやとばかりの論議を重ねたのでした。
それは私のつたない文章への好意ある評価でしたから、とても嬉しく思いました。
さて、その「お守り言葉」ですが、鶴見さんは戦前の有無を言わさぬ権威を持った言葉と、それを所有し振りかざした態度をそう批判するのです。
例えば「八紘一宇」「大東亜共栄圏」「聖戦」「皇国日本」などなどがそれですが、戦前戦中、この言葉はその他の言説に対しては絶大な力を発揮しました。
それらの言葉は、水戸黄門の葵の御紋入り印籠同様、「この紋所が目に入らぬか」とかざすだけでも絶大な力を持ったのです。しかし、この事実は、それらの言葉の使い手がそれをお守りとして振りかざすという側面と、その言葉のもとに身を寄せてそれによって守ってもらうという側面があったのではないかと私は考えています。
何れにしても、それらの言葉が厳密に何を意味するのかはどうでも良かったのです。それらの言葉の権威が独り歩きをし、人々に力を及ぼしたのです。ようするにそれらのことば自身が物神化されることによってその権威を保っていたのでした。
これが戦前でした。
幼年の私も、それらの言葉をなんの意味かも理解しないまま口の端にのせていただろうと思います。
鶴見さんはその「言葉のお守り的使用法」を糾弾します。
しかし、鶴見さんの射程はそれにとどまっていませんでした。当時、雨後の竹の子のように這い出た戦前の左翼や、この間まで神国日本を説いていたにも関わらずマルクス主義として立ち現れた右翼から左翼への転向組に対しても「言葉のお守り」を使用するものとして批判を加えたのです。
戦後のお守り言葉は曰く、「民主」「自由」「平和」「人権」などです。
内容や実質を伴わないままにその「言葉のお守り」を振りかざし、あるいはその言葉に庇護を求めて身を寄せることによって世の中の主流を占めている、そうした意識に対しても厳しい批判を加えたのでした。
こうした「言葉のお守り」が、その意味では戦前の「言葉のお守りの使用法」を反省することなく、振りかざす看板を変えたままで安易に使われる場合、それらは膠着化し、決してその内容が含意するものを実現することはないだろうというのがその批判の要旨でした。
今日の状況は、そうした「言葉のお守り」の誤った使用法の結果というか、「言葉のお守り」に依拠して現実をネグレクトしてきた過程がもたらしたものともいえます。私達はそれらの言葉をお守りのように、あるいは葵の印籠のように振りかざしたり、あるいはその言葉の傘のもとに身を寄せるのみで、ほんとうにその言葉の内実を実現してきたでしょうか。
鶴見さんは続けます。
「お守り言葉をめぐって日本の政治が再開されるなら、国民はいつまた知らぬ間に不本意の所に連れ込まれるかわからない」
1946年の、今から67年前のこの予言が的中しつつあるのではないかと危惧するのは私だけでしょうか。