六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

梅林の親子と「梅飾り」のこと

2011-12-31 14:01:12 | よしなしごと
 昨日からおせちの下ごしらえをしていて足りないものに気づいた。
 お酢とレモンが必要だ。
 午前中、近くのスーパーへ徒歩で出かける。

 通りかかった鎮守様はもうすっかり初詣の受け入れ準備が整っていた。
 といっても昔のように甘酒が振舞われるといったこともなく、しめやかな初詣風景となるであろう。

       

 スーパーの帰途、ちょっとした梅林があってその剪定をしていた。
 かなり高齢の車椅子の老人が見守るなか、その息子さんとおぼしき人が枝を伐り払っている。
 そうした作業を見るのが好きなのでしばらくつっ立っていたら、老人がなにかいった。聞き取りにくかったので「え?何ですか?」と問い返したら、息子さんのほうが「どうか構わんでください」と遠慮がちにいった。老人に認知症の気配があるのだろうか。

 しかし、その老人の目にはなにか訴えたげでしかも私への好意のようなものが見受けられたので、さらに近寄って聞いてみたら、伐り払われた枝の方を見やって、「よろしかったらどうぞ」と言っているのがわかった。
 で、息子さんの方を見て「本当に頂いて行っていいんですか?」と訊いたら、「あ、どうぞどうぞ」とのこと。
 家にある花器のことなど考えてあまり大きくない枝を2本ほど選び「じゃあ、これをいただきます」というと、その息子さん、わざわざ脚立から降りてきて、「花がついていますかねぇ」と私の手にした枝を点検し、「大丈夫そうですね」といってくれた。

          

 私には花だか芽だか区別はつかないのだが、小さなポチポチが枝についていて、花が咲くといいなぁと思った。まあ、たとえ芽だけでも若い新緑が出てくればいいと思った。
 お礼と「良いお年を」と挨拶をしたら老人の方の顔もほころんだ。

 うちに帰って一番大きな花瓶を引っ張り出したがガラス製で様にならない。
 そこで、生け花用の竹かごにその花器を入れてみたら何とか落ち着いた。
 梅の枝のみでは寂しいので、万両を切って添えた。
 それでも寂しいので周りに南天の葉だけをあしらってみた。
 なんとか様になった。
 松飾りならぬ梅飾りである。

          

 ちょっと幸せな気分になった。
 午後からはおせちを作る。
 昨日、かなりの下ごしらえをしておいたのできっとスムーズに行くだろう。
 今年は合わせて10品目にチャレンジする。
 レッツ・ゴーだ。

 おっとっとっと。
 皆さん、いいお年をお迎えください。
 来年もよろしくね。 バ~イ。

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さようなら2011 私の重大ニュース

2011-12-30 02:15:56 | よしなしごと
今年の【重大ニュース】と感想など

       

東北大震災について
 自然の力は偉大であり、つねに想定外だということ。
 自然のみならず、社会現象も含め、全ての事態を必然性のうちに取り込むことはできないということ。

原発事故について
 今なお不確かな技術をその危険性を指摘していた良心的学者の警告も振り切って経済効率のみからして推し進めてきた全くの「人災」であること。
 結果として将来何十年にわたって人の住めない地域を生み出すなど、経済的にも破綻した技術であることが証明されたこと。
 科学は慎重にも慎重な実験と検証の結果を経てはじめて技術として適応さるべきで、原発のようにその廃棄物処理の方法すらなく、ひとたび事故が起これば取り返しのつかないものを安易に現実化すべきではないこと。
 自動車だって交通事故を起こすではないかという問題とは全く次元を異にする問題であること。

民主党政権について
 「官僚主導の小役人内閣」といって閣僚を辞したひとがいるが言い得て妙であること。
 多くの人がこの政権に期待したものは、官僚主導の政治からそれを国民に取り戻すことであったが、しかし結果は見るも無残でしかないこと。
 かといって財界とべったりの自民復帰もいやだということ。
 
 ひとは橋下や河村を批判するが、こと公約への熱意や執念においては彼らは「小役人内閣」の比ではないということ。
 彼らはある種のデーモンを内包しているかも知れないこと。
 それでも「官僚主導の小役人内閣」よりましなのではないかということ。
 そのデーモン化しそうな面への監視を怠らずどう付き合うかということ。

       

私の中国・山西省への旅
 社会主義の看板を掲げたスーパー資本主義として発展著しい中国だが、そうした動向に激しく揺さぶられながらも、かつての農業文明の歴史のうちにいまなおあるような山西省の山村へ行ってきた。
 もちろんこれらの村々にも幾多の歴史がある。
 こんなところにどうしてと思うのだが、日本兵が押し寄せ、村人273名が一挙に犠牲になったというヤオトンとそれに続く洞窟も見てきた。
 紅衛兵が押し寄せ、鴟尾などの装飾を迷信として壊して歩いた跡も見た。
 しかし、それらは長い目で見たら一過性であったのかも知れない。
 
 それらに比べ、今回の急速な資本主義化はそうした一過性のものにはとどまらず、山村を根底から変えてしまうだろう。事実、山の村にはもはやほとんど老人と子供しかいない。
 貨幣経済の荒波のなかで、半分自給自足のようなのどかな山村の暮らしがそんなにいつまでもは続くとは思えない。
 そうした山の村々とそこに暮らす人々の姿や佇まいを、このまなこと胸に刻みつけてきた。

 それにしても人間の暮らしはなんと多様性に満ちていることだろう。
 ちまちまとした自己の経験のみから「人間とは」とか「歴史とは」とか、あるいは「世の中とは」と語り、それを前提として蛸壺のようなひとつの物語を形成し、もって自己同一性の証とすることの愚かしさを自戒したいものだ。

 来年も老眼を見開いていたい。「もはや見るべきものは見つ」などといっていられないほど世界は動き続けている。

    願わくば、六道の衆生すべからくに幸あれ!
 
 

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だらだらした漬物談義

2011-12-28 03:27:05 | よしなしごと
 漬物はかつては保存食であった。
 いまでもそうだろうといわれるかも知れないが、旬の野菜や食材以外は手に入りにくい山間部などを除いては、もはやそうではない。
 それらの地区では、大根は沢庵漬けにし、蕪はじっくり漬け込み、野沢菜もまた然り、更には鰊やハタハタ、そして鰤などの魚類も麹に漬けて冬の食に供したし、いまもそうしている。
 琵琶湖周辺の鮒寿司を筆頭としたいわゆるなれ寿司もそのたぐいに属する。

 しかし、それらも含めていまではそうではない。
 だいたい、それらの食材は旬のいかんにかかわらず市場にあふれていて、わざわざ手間暇かけて保存する必要はもはやない。加えて冷凍などの技術もある。
 漬物にして保存する必要そのものがないのである。

        
            今日の漬物 赤蕪の浅漬け風と大根の糠漬け
 
 では、漬物がもはや保存食ではないとしたら、そしてにもかかわらず今も漬けられ、それらが流通するとしたらそれはどうしてだろう。
 答えは簡単である。保存食として始まった漬物が今やその食材の「調理方法」になったということである。わざわざ漬物にして保存する必要がなくとも、その食材に伝統的な技法を介在させることによって新たな旨みが引き出せるからである。
 都市の家庭でもぬか漬けを始め漬物を漬けるであろう。しかしそれはもはや保存目当てではない。調理として漬けるのである。

 わが家で保存としての漬物を賞味したのは亡母が健在で若いころ、四斗樽に漬けたたくあんが最後だったと思う。
 ただし、沢庵についていえば、亡母には申し訳ないが、その母、つまり祖母が漬けたものが最高だった。母のものが不味かったわけではない。市販のものよりはるかに美味かったと思う。
 しかし祖母のものはそれをも超えて絶品であった。干して塩と小糠は当然であるが、その他にいろいろなものを加えていた。柿を食べる際むいた皮、みかんの皮、その他いろいろなものを漬け込んでいた。それが何か詳細はわからない。たぶん、キムチが様々なものの味を含む複合的な味わいを持ち、それが各家々で違うのと似ているだろう。

 祖母が生きているうちに、といっても祖母が亡くなった頃にはそうした調理への興味は皆無だったのだが、そのレシピを聞いておくべきだったといまにして思う。以来、どんな沢庵も祖母のそれを越えるものにお目にかかったためしがない。

        
             正月用白菜を干した もう漬けてしまった

 つい回顧譚になったが、いま私も漬物を漬ける。もちろん保存としてのそれではなく調理としてである。
 糠味噌は三年ほど前、雑菌のせいか異常発酵したのでそれを放棄し、新しい糠床を作った。今は冷蔵庫の中のタッパーで眠っている。きゅうりやナスなど夏野菜が主体だから冬はお休みが多いのだが、時折だいこんやセロリを漬ける。

 糠漬けと並行して夏から秋には、水菜やかぶら菜、大根葉などの浅漬を作る。
 そして今は赤蕪や白蕪を漬けている。ただし、飛騨地方の赤蕪のようにじっくり発酵させるタイプではなく浅漬け風である。柚子や昆布、唐辛子を効かせてうまく仕上がると惣菜としてもアテとしても美味い。
 
 並行して白菜も漬けている。
 今年は既に三回漬けたが、二勝一敗である。一度はすこし乾燥が足りず、そこへもってきて塩が足りなかったようだ。今日4回目を漬けた。うまくいけば正月にというタイミングである。

   

 
 

 

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昨日・今日・そして明日は? 雪に寄せて

2011-12-25 18:02:28 | インポート
 昨日は晴天、近くの田圃ではお兄さんが堆肥のようなものを運び込み、その後それを田んぼ一面に均していた。
 有機農法の準備とみた。

       

 そして今日、朝から降ったり止んだりしていた雪が、ちょっと外出をして帰ってきた夕方頃から本格的に激しくなり、見る見る辺りを白くしていった。
 早く帰ることが出来て幸いであった。
 
 下の写真は昨日とほぼ同じアングルである。田んぼが白くなってきはじめた。

       

 私の部屋の窓辺もすっかり雪景色である。
 いずれも午後4時ぐらいの写真だが、その後も降り続き、零度ほどの気温とあって、家の前のバス通りも今はついに冠雪して白くなっている。
 道行く車がスリップなどしなければいいが。

       

 明日は午後から天気が回復するとのことだが、このまま降り続くと明朝は白一面になりそうだ。

 雪が降るとなんだか楽しかったのはいつの頃までだったろうか。
 私の場合、奥手だから成人してもかなりの間、雪が楽しかった。
 こんなことを言うと豪雪地帯の人に叱られそうだ。

 しかし今は、雪はきらいではないが、つい後々のことを考えてしまう。
 車を出すための雪除けとか、あとのぬかるみとか。
 これとて雪国のそれに比べたらなんでもないことには違いない。

     いざさらば雪見にころぶ所まで

 と芭蕉が詠んだのはいくつぐらいの時だろう。
 なかなか風雅であると同時に、当時の俳諧の「諧」が生きた句ではある。

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【週刊六文銭】六文銭のずぼらな絵日記

2011-12-24 02:29:22 | 写真とおしゃべり
18日(日)
 自宅でいろいろ。今年もリュウノヒゲ(ジャノヒゲ)の実が色づいた。
 マリーンブルーの真珠のような輝きにしばし感嘆して見とれる。


19日(月)
 ここのところ月一回、名古屋市科学博物館近くへ出かける仕事がある。そこでの用件を終えて、余った時間、白川公園と科学館周辺を散策。
 休館日とあって静かだが、野外展示を柵越しに見ることはできる。
 以前に紹介した巨大パチンコ玉のプラネタリウム。その前に横たわるH-ⅡB ロケット。
 直径5メートルを越え、長さにいたっては55メートルとか。
 こんな巨大なものを宇宙空間に打ち上げる力があるのに、地上の貧困や戦争などを解決できない人間ってやはり変な動物といえるかも知れない。



 夕方、旧知の友人(私とその読みで同姓同名)と今池で歓談。夕刊で金正日氏の死去を知る(それについては前項に掲載した)。

20日(火)
 何をしてたんだか・・・。
 ゴソゴソと整理、そしてやっと年賀状の作成の段取り。

21日(水)
 おりから松坂屋本店で開催されている「北京・故宮博物院展」に出かける。
 来年は日中国交回復40周年とかで、朝日新聞も年明け早々、東京国立博物館で「北京・故宮博物院200選」を行うそうだが、その走りのようなものだろうか。
 朝日の宣伝などを見ると展示物などかなり違うようでもある。しかし、見てきたものも素晴らしかった。
 
 西洋でもそうだが、宮廷文化が贅を尽くすというのは庶民の生活から見たらとんでもなく乖離しているのだが、それが時代の工芸や文物を後世に残すとしたら、それはそれで享受すべきかもしれない。少なくとも、かつて紅衛兵が暴れまわったように、それらを壊してしまうべきではないだろう。

 展示されたものの評価を書いていたらきりがない。ただただ感心するのみ。気づいたら普通の絵画展などよりはるかに鑑賞時間が長かった。その歴史的価値はともかくとして、美術としての絵画はいまいちであったように思う。

 観終わって会場を離れた途端、つい一ヶ月半ほど前に行ってきた中国山西省の山の民たちを思い起こした。彼らと、この華美な宮廷文化とはどう関わりがあったのだろうか。
 それらは全く違う場所でただ平行して流れていた歴史なのだろうか。
 いやいやそうではあるまいとは思うのだが、それを繋ぐチェーンが見えてこない。



 夜の名古屋を歩く。
 栄近辺で何やら楽の音が聞こえるので行ってみたら、最近ちょくちょくTVなどで見かける「名古屋おもてなし武将隊」の向こうを張った「あいち戦国姫隊」という女性グループが歌と舞を披露していた。

 名古屋駅のイルミネーションは今年は中止で、例年の賑わいはない。
 JR岐阜駅へ着いたら、こちらは例年通り、大階段を利用したイルミネーションが輝いていた。こうした手が届くようなものも暖かみがあっていいものだ。

22日(木)
 今年最後の図書館通いだ。
 正月休みを挟んで、1月17日まで借りることができるのがありがたい。すこしハードなものを4冊借りた。
 昔のように正月の間食っちゃ寝とか、あるいはやたらひとが訪れたり、あるいは出かけたりしないのでかえって勉強が進むかも知れない。

       

 図書館の庭もすっかり冬模様で、山茶花のみが赤い色を添えていた。
 かわいがっている(と思っている)南京ハゼの木も、すっかり葉や実を落とし、裸でつったっていた。
 若葉が出る頃、また写真にとってやるからそれまで頑張れと言い残して立ち去る。



 帰りにスーパーに寄ったらピンピン跳ねているイシガレイがあったので、大枚780円をはたいてゲット。五枚におろし刺身に。アラは最初高温、途中からじっくり弱火で泡が出なくなるまで揚げて骨せんべいに。
 白菜もちょうどうまく漬ったので山海の幸せな食を味わう。
 久々に日本酒。土佐は「酔鯨」の純米吟醸酒。

23日(金・祝日)
 すこし遡るが、19日にタクシーに乗って「12月になって忙しいですか」と尋ねたら「大したことないですわ」とのこと。
 「でもこれから忙しくなるでしょう」と慰め気味にいったら、「それがお客さん、23日からの三連休でしょう。この時期あがったりですわ」とのこと。そしていわく、「言っちゃぁいかんかもしれませんが、なんでこんな日に生まれたんでしょうね」。
 口にだすかどうかはともかく、年末の23日の休日は客商売にとって影響大で、そう思ってる人もずいぶん多いはずだ。

 おもわず吹き出しそうになったが、そこはひとまず「われわれ庶民にしろ天皇にしろ、自分の生まれる日を選べるわけじゃないんだから」と言ったら、「まあ、そりゃそうですけどねぇ」とまだ不満そうだった。

       

 天皇は78歳だという。私より五歳年上だ。
 誕生日にあたり、来し方をどのように回想しているのだろうか。
 また、そんな年になって週刊誌ネタにされているのをどう感じているのだろうか。
 すこし気の毒になった。


 
コメント (1)
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金正日氏を送ることば

2011-12-20 17:53:11 | ひとを弔う
       

 以下は、私の友人のブログにつけたコメントなのですが、改めて私の日記として掲載します。

    =====================================


 いわゆる「社会主義国家」の首領である金家の後継者として生まれたばかりに、歴史の荒波のなかでどうしようもなくあがき続け、おそらくその激務もまたその生命を縮める要因であったろう金正日さん、あなたの霊に哀悼の意を表します。
 やっとこれでその重圧から解放されましたね。

 あなたへのこれまでの評価は厳しかったし、これからの歴史的評価も厳しいことでしょう。事実、あなたが引き継ぎ育て上げたものは、現代史でのひとつの怪物のようなものとして今後ともある種の禍根を残し続けるにちがいないからです。
 何よりも、これまでさんざんが指摘されてきた民の生活の厳しさは計り知れないものがありますし、軍事優先でそれをもたらしたあなたの責任は重大というべきでしょう。
 あなたがその後継者に選んだ子息のもとでのその後の見通しも、また全く不透明といわざるを得ません。したがって私たちは、あなたが残したものへの注視を続けざるをえないのですが、しかしながら、去っていったあなたには爽やかに別れを告げたいと思います。

 金さん、やがて私がそちらへいった際には、ぜひともサシで話し合ってみたいものです。あなたがその座についている間、軍事や政治、経済、外交といった公務がふと途切れた瞬間、何を感じどんなことを考えていたかを率直にお訊きしたいのです。もちろん私も歯に衣を着せず話をさせていただくつもりです。

 こんなことをいうと、あなたに厳しい(私もそうなんですが)世間から叱られるかも知れませんが、私が行くまでの間、安らかにお眠りください。
 歴史によって作られながら、その地位ゆえに過重に歴史へとかかわらねばならなかったあなたを送る私のことばです。                合掌

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若者「論」のすべて <2>

2011-12-19 02:58:45 | 社会評論
 なぜこんなことを書き始めたかというと、「朝日新聞」12月14日の「オピニオン」欄で「若者論の不毛性」を主張する古市憲寿(ふるいちのりとし)氏の論説に出会ったからである。
 この古市氏、26歳でまさに若者まっただ中、社会学者でIT企業にも関わるマルチぶりで著作も既に2、3冊あるようだ。そこへもってきて結構イケメンなのだから思わず嫉妬してしまう(自分の年齢の三分の一近い若者に嫉妬してどうするんだ)。

 で、彼の言う「若者論の不毛性」について見てみよう。彼は若者論というのはしょせんは「居酒屋のコミュニケーションツール程度」のもので粗雑な論議にすぎないという。
 その粗雑さとはこうだ。ようするに、「若者論というのは階層差、地域差、性差を無視して世代だけに注目する乱暴な議論」だということである。
 なるほど、「今時の若者」の中からある種の特徴的な現象を抽出してあれこれ言うけれど、それに該当しない若者の多様性がそれによって見失われてしまっているというわけだ。

 それでは、そうした若者論がなぜ大人たちの間で絶えることがないのか、それについての古市氏の指摘はとても辛辣だ。
 「若者を『異質な他者』として区別しようとする若者論は大人の自分探しだと思います。」
 ようするに大人たちは、若者を論じるふりをしながら、実は自分たちを語っているというのである。
 「なあ、俺たちはあんなんじゃなかったよなあ」ということによって、自分たちのアイディンティティを確認し合い、互いの傷口を舐めあういささかルサンチマンに満ちた言説だというのである。
 彼はここまでは言っていないが、その含意するところはまさにそうなのである。
 「若者をおとしめて世の中が変わるんですか?」と彼は問いかける。

       
                  J・ポロック風に

 一方彼は、一見、若者たちにシンパシーを持ち、それを激励するかのような、「若者よ、がんばれ」、「社会を変えよう」といった呼びかけにも違和感を感じる。
 それは単に、「年配の方がやりたいことを都合よく若者にけしかけて社会を動かしたいという願望」の注入にしか過ぎないというわけだ。
 これに続く言葉は私にはズシンと応えた。
 「同じことを戦争の頃の大人たちはやっていたんですよ」
 
 そのとおりなのだ。
 あの頃、多くの若者達が「死して皇国の鬼となれ」とか「ひとたび戦場に出れば、英霊となるまで戦え」と戦場に引き摺り出され、事実あたら若い命を散らしたのであった。
 そう鼓舞した大人たちが戦後も生きながらえ、無節操にも始めっから「平和と民主主義」の徒であるかのように転向し、戦後復興経済の中でぬくぬくと財をなしたことは前回述べたとおりである。

 この件に関しての古市氏の結論は至って簡潔である。
 「むしろ、そういう人(若者を鼓舞する大人たち)が立ち上がったらいいんじゃないですか」

 参ったなあ、もう。
 サッカーの試合でいったら、5-0ぐらいの完敗である。

 でも私は諦めず、若い人達に語りかけたいと思う。
 高みに立った若者談義ではなく、同じ平面に立った年配者として、そしてすこしばかり多い歴史的経験者として、自分の経験を伝えたいし、若者からのリアクションのなかで自分の立ち位置を検証し続けたい。

 私は若者を総じてばかにすることはしないだろう。
 しかし、老いを馬鹿にする若者たちとは戦わざるをえないであろう。
 この間、映画館の入り口で私を突き飛ばした若者は許せない。
 といっても、その後ろ姿を睨みつけただけだったのだが。
 なんだかせこい話になってきた。

 世代論は難しい。
 時間の経過は、その推移のうちに身を置く私と他の世代との現象的な隔たりを増幅するからである。
 また古市氏がいうように、同一世代内部に様々な多様性があるからである。
 いずれにしても、他者の他者性を短絡したイメージで一括して論じる手つきは無効であろうと思う。
 日本人とは、中国人とは、ドイツ人とはといった単純な規定もまた同様である。



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若者「論」のすべて <1>

2011-12-18 01:42:34 | 社会評論
 ルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』という映画を観たのはもう何十年前だったろうか。詳細は忘れてしまった。
 まあいいだろう、ここではその映画の話をしようとするのではないのだから。
 ようするに「若者論」についていいたいのである。
 若者についてではない。若者を論じるその手つきについてである。

 かつてまだ若かった頃、自分が若者の段階を過ぎても「今時の若い者たちは」といういい方はすまいと思っていた。それは、私自身がそうした言い方の対象にされ口惜しい思いをしたからであった。
 もちろんそれは私だけではなかったはずだが。

       

 往時の若者の中でもあまり謙虚ではなく、ある意味では傲慢でさえあった私は、そんな折、こんな風にうそぶいていたのではあるまいか。
 「ケッ、何がいまどきの若い者はだ。こんなチンケな世の中しか作ってこなくて、しかもその中にどっぷり浸かってもはや干からびた感受性しか持っていない連中に、とやかく言われる筋合いはない」
 と、まあこんな具合にである。

 こうした言い分の背景には、戦中戦後にわたる軍事的、政治的、経済的価値転換や変動のなかで、なりふり構わず慌てふためき、適当に変身しつつ自分の居を定めてきた得手勝手な大人たちをある程度見てきた過程があり、それへの不信感があったからに他ならない。

       

 「法や秩序を守れ?」
 あんたたち法を守ってきたかい?配給の物資だけに消費を限定して飢え死にした判事を尻目に、闇物資の調達に精をだし、女子供を突き飛ばしてでも買い出し列車に乗らなかったかい?
 
 旧体制での地位を利用し、旧軍の隠匿物資をネコババし、それを戦後「復興」経済の資金源として財をなしたのではなかったかい?
 隣の半島で何十万何百万の人たちが血を流し命を失っている朝鮮戦争を尻目に、特需景気で濡れ手に粟の大儲けをし、小躍りしながらこの戦争がいつまでも続きますようにと願ったのではなかったかい?

 アメリカとの一方的な不平等軍事同盟を結び、そのツケを、すぐる大戦で唯一住民を巻き込んだ地上戦が展開され、最も被害が大きかった沖縄に、またしても押し付けはしなかったかい?

 そのほか言いたいことは山ほどあった。
 「平和と民主主義」 ほんとかい?
 「主権在民」    ほんとかい?

       
           ン十年前の市バスの復刻版 前にも見かけた

 そうした問いには決して答えようとはしない大人たちが、若者を糾弾した。
 ようするに、戦後体制を利用してしこたま儲け、新しいエスタブリッシュメントとしてのし上がった連中が政治経済を支配し、モラルの面では戦前とさして変わらない「忠孝」の押し付けでもって私たちを抑圧したのであった。

 そうした旧態然たるモラルは、いわゆる左翼の中でも生きていた。
 前衛党を名乗るある政党は、党中央の方針に疑問を呈する若者に対し、「君たちは自分が太陽だと思っているが、太陽は党中央であって、君たちはその周りを回っている衛星に他ならない」という論文を党の機関誌に恥ずかしげもなく公表し、絶対王政とほとんど変わらぬシステム(それは民主集中制と名付けられていた)を誇示したのであった。

 とはいえ、私たちが一方的に正しかったと強弁するつもりはない。
 いま考えれば、赤面するような、いや赤面では許されないような誤りも内包していた。
 しかし、当時の大人たちから「今時の若いものは」とは言われたくなかった。

       

 これまで書いてきたことは、前振りにすぎない。
 ようするに、なぜ私は「今時の若いものは」という言い方はすまいと思ったかについて述べたに過ぎない。
 本論はこれからで、そうした私がつい「今時の若いものは」といってしまうということや、そうした私のような物言いについての「今どきの若い人」からの反論について述べたかったのであるが、もはや充分に紙数を費やした。
 この続きは次回に譲りたい。
 


 写真は師走の名古屋の街 本文との関係? ありません。
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前回への自己コメント アーレント「世界への愛」

2011-12-16 15:39:53 | よしなしごと
以下は、前日の記事に対していただいたコメントに対する返答の形をとった自己コメントです。

       

>◯◯◯◯さん
 とても刺激的なコメント有難うございます。
 私の表現の問題もあってある種の相対主義と見なされる側面もあるかもしれませんが、私としては既成の観念やその折の共同体が強要する「善」、もしくは歴史的検証を経ない独善的な「善」に安易に寄りかかってその拡散をなそうとする危険性について述べたかったわけです。
 したがって「良きこと」というカッコを付けて使いました。

 いわゆる価値相対主義もニヒリズムなのでしょうが、既成の価値からの逸脱を嘆く疎外論やルサンチマン(本来性からの逸脱)も、自ら選びとった実存的な価値を踏まえないという意味である種のニヒリズムといっていいと思います。
 それらがいわゆるスターリニズムやナチズムの背後にあることもいまさら言うまでもないでしょう。

 アーレントの「世界への愛」は、そうした既成性などの桎梏を越えた自由な人間の「活動」の構造並びにその展開の場で世界に対峙する実存の有り様として語られているように思います。
 
 私達の「活動≒投企」はその結果の予測の付かなさにもかかわらず、あるいはそうであるがゆえに「約束」として提示されます。
 しかし、それらは人間の「複数性」という事態のなかでしばしば予測を裏切ります。
 こうした、「起きてしまった出来事の取り返しのつかなさ」に対応するのが「赦し」であり、この赦しによって新しい「活動」への開始がリセットされます。
 この「約束」と「赦し」の反復こそ「活動」の構造であり、それが人間の「複数性≒偶然性」という端的な条件に支えられたものであることは既に述べたとおりです。

 「世界への愛」は、「生誕」という始まりによってこの世界へと参入し、やがて去ってゆく私たちが、複数性という状況のなかで、なおかつ「活動」というかたちでそこへ参画してゆくことだと解釈しています。

 私が舌足らずであった点への適切なご指摘ありがとうございました。
 お陰で、今一度問題を整理できました。

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「悪しきこと」と「良きこと」が似てしまうということ

2011-12-15 02:05:20 | よしなしごと
 悪事というものはやはり一度手を染めて、しかもそれがある意味で成功裏に終わった場合、次第にエスカレートする傾向にあるようです。
 大王製紙の三代目のカジノ三昧に伴う詐欺まがいの借金の累積も、その金銭感覚もさることながら、当初はそれほどのものになるとは本人も思わなかっただろうと思われます。第三者によるチェック機能がなかったことをよい事に次第に野放図になってあれほどまでに膨らんでしまったのでしょう。

 万引きや窃盗、それに傷害、殺人などの犯罪も、その経済的要因や心理状況はともかく、次第にエスカレートするのではないでしょうか。当初の「出来心」が次第にその域を脱してゆくことによる連続性、拡大性があるようです。
 いわゆる連続殺人事件などというのもそれに相当するのかも知れません。

       

 では、「良きこと」の場合はどうでしょう。
 客観的にはいざしらず、本人が主観的に「良きこと」と思っている場合の問題です。
 この場合にもある種のエスカレート現象が見られます。
 小は良きことの押し付けやおせっかいから、大は「良きことのための戦争」(大義のための戦い、聖戦)にまで至ります。

 最近の朝ドラにも出てくる、戦時中の「大日本婦人会」による私生活の監視と各種抑圧が次第に拡大してゆくさまもそうですし、ナチスドイツにおいても、旧ソ連圏においても、民間でのそうした監視体制があり、それらは「良きことをしている」という自負のもと、次第にその活動をエスカレートしてゆき、最后にはその摘発対象そのものをでっち上げるに至ったといわれています。

 中国の文革時代もそうでした。紅衛兵は次第にその「良きこと」の範囲を拡大し、ついには家々の鴟尾(神社仏閣や城郭の屋根の両端にある装飾、一般の家では鬼瓦)を迷信に関わるとして破壊して歩いたのだそうです。私も中国で、それがもぎ取られた不自然な家々を見ました。

 これらはいわば「良きこと」のインフレーションともいえます。

       

 日本でのそれは、幾分カリカチャライズされてはいましたが、連合赤軍やオウム真理教でも見られました。
 前者は、追い詰められ孤立した条件のなかで、「良きこと」が暴走し、仲間殺しを含む凄惨な様相を呈しました。
 後者は、やはり閉塞した状況のなかで、自らが信じる「良きこと」のために、多くの人々を犠牲にしました。

 ようするに、世の中には唯一無二の真理や正義があり、その実現のためには人を殺すことも(あるいは自分が死ぬことも)厭わないという考えが招いた殺戮のドラマだったともいえます。

       

 これは、上にみた「良きこと」のための活動全てに共通することです。
 そして、それがゆえにそれらはエスカレートする定めにあるともいえます。
 悪事のエスカレートはもちろん怖いのですが、「良きこと」のエスカレートも同様に怖いものがあります。
 
 「小人閑居して不善をなす」などといわれますが、上にみたような例は、「善人切磋琢磨して不善に至る」にもなります。
 古人曰く、「善悪はあざなえる縄のごとし」と。
 また、別の古人曰く、「善悪の彼岸」へ。
 
 

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