六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

皆様にとって今年の一文字は? 私は「喪」です。

2016-12-30 23:17:46 | ひとを弔う
     写真は本文とは関係ありません。わが家の師走の黄葉です。 

  2016年を一文字で表す漢字は「金」だそうである。例年のように、清水寺の貫主が墨黒々とそれを揮毫するのをTVで観た。
 「金」なんて、いわば毎年それに振り回されているのだからいまさらとも思うのだが、今年のそれは五輪での金メタルが含まれるのだそうだ。加えて、トランプ新大統領の金髪、ピコ太郎のキンキラキンの衣装までもカバーしているという。もっとも、「金」はこれで三回目だそうだから、やはり万事、金の世の中といえるのかもしれない。

              

 私の今年の一文字は喪うの「喪」である。
 まず、1月の終わりには階段から転落して左手の自由を喪った。みごとに骨折したのである。しかも、骨折箇所がずれてしまっていたので、その部分を切開して金具を入れて補正し、くっつくまで待ってさらに取り出す手術をし、「これで完治です」といわれたのはやっと9月になってからだった。
 その間、車も自転車も乗れないなど難儀をした時期も若干はあったが、幸い、PCの文字はすぐ打てるようになり被害は最小限に留められた。
 ただ、その後遺症か、昨今のように寒いと多少つっぱり感などの違和感を覚えることもある。まあしかし、文字通り「老骨」なのだからこれくらいはやむを得ないであろう。

 次に喪ったのは、18歳の頃に知り合い、青春時代をともにし、その後も付かず離れず付き合ってきた畏友、S氏だった。彼は第一回目の熊本地震の当日、4月14日に旅立った。
 公私共に世話になったが、とりわけ、理論的思想的な面では常に私に先行し、私の良き目標になった。あえて畏友と称する次第である。

          

 畏友といえばもう一人、S氏とはちがった意味で私に影響を与えた年下の友人、河合塾の名物講師といわれたMa氏を五月に喪った。
 はじめて知り合ったのは彼が現役の学生で、まだ詰め襟の学生服を着ていた頃だから、これもまた半世紀に及ぶ古い付き合いである。
 彼の場合には、S氏のように理論的思想的な面でのつながりというより、主として市民運動などの実践的な面においてだった。彼のエネルギッシュな行動に気圧されるように、私もまたかなりの局面でそれらに参加した。

          

 年下の友人といえば九月にはまだまだこれからという社会運動研究家で和光大学教員のMi 氏を喪った。享年四九歳というからいかにも若すぎる。彼がたまたま私が参加している同人誌の先達たちのかつてのサークル活動の聞き取り調査にきた折、知り合い、話してみて驚いた。彼は西尾市の出身で、浪人時代河合塾へいっていたのだが、その折、上記のMa氏などに連れられて、当時私がやっていた居酒屋へきたことがあり、私のことも知っているというのだ。こうして二人の距離は縮まり、彼は私のブログの良き読者として時折コメントを付けてくれた。

 同時に彼は、前述の私も参加してた同人誌のファンで、同人の一人、I 氏が一昨年亡くなった折には、その偲ぶ会にわざわざ東京から名古屋まで駆けつけてくれた。
 彼の研究も私には好ましく思えた。運動論を大上段に振りかざすのではなく、それぞれの場で地を這うように運動してきた人々のそれを、いわゆるオーラルヒストリーの手法で聞き取り、それらの実像を浮かび上がらせる手法は、公の歴史からは忘却されている裏面史のようなもの、そしてそこで実際に生きた人たちの実像を再現させるかのようであった。
 なお、彼が最後にくれたメールは5月で、一年間教職を休み、療養に専念しながら研究はまとめてゆきたいと明るく語っていた。それからわずか4ヶ月、彼が逝ったのは9月のことだった。

          

 最後に喪ったのは、55年連れ添った私の連れ合いである。11月の終わり近く、突然逝ってしまった。独身時代から数えれば60年の付き合いである。決しておしどり夫婦ではなく、私自身がいい連れ合いであったとは思わない。考え方の違いもいろいろあった。
 
 しかし、60年の間に培われたその関係の現実は重い。一ヶ月以上経ったいま、それをどう受け止めて今後の生活を築いてゆくのかはまだ現実的なイメージとしてはない。
 この喪失の現実に慣れる生活のなかからそれらはみえてくるのかもしれない。いずれにしてもそれらは年が改まってからのことだろう。いまはただ、しなければならないことを淡々とこなしてゆくのみだ。

              

 私の今年の一文字はこうして「喪」だが、ほんとうの「喪」は、周りからさまざまなものや人が喪われるということにあるのではなく、そうした状況に私が否応なく差し掛かったということのなかにあるのだろう。
 ほんとうに喪われつつあるのは私自身の生命のリアリティ、ないしはそれを支えてきた自分史のようなものであり、それによって明らかになったものは、私の生涯そのものが終焉にさしかかったという否めない現実だということだ。

 これは諦観ではないし、悟りでもない。そうした現実にも関わらず、私はたぶん、命ある限り悪あがきを続けるだろうから。


【ご挨拶】今年もいろいろお付き合い頂きありがとうございました。皆様にとってきたるべき年がいいものであることを祈ります。まかり間違っても、私のように「喪」ではなく、「得」でありますように。
 なお、新年の寿ぎは失礼致しますのであしからず。






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はがきをめぐる幾つかのことども 付:軍事郵便

2016-12-27 17:47:42 | 想い出を掘り起こす
  来年6月からはがきが62円に値上げされることをめぐって、あるSNS で、「はがきがいくらの時から知っているか」というテーマの交流があった。歳がバレる話ではある。
 ちなみに私は、1944(昭和19)年の「三銭」、45(昭20)年の「五銭」の頃から知っいる。

 同時にちょうどその頃、料金が全く書かれていないはがきが存在したことはもはや知る人も少ないだろう。
 それは当時、戦地と残された家族とをつなぐ唯一の絆、軍事郵便に用いられたはがきであり、これらは軍から兵士に支給されたものだという。

              
 ここに載せたのはいずれも満州に派遣されていた亡父が、当時5歳だった私宛にくれたものだが、よく見ると、切手に相当する部分に「軍事郵便」とだけそっけなく書かれたものと、鉄兜の上に白鳩が止まっているのと2種類あることがわかる。いずれも料金は書かれていない。

              
 ところで、この2つのデザインの違いが何を示しているかおわかりであろうか。観察眼に優れた方はお見通しだろうが、そっけなく書かれた方は絵葉書であり、鉄兜の方は普通はがきなのだ。
 この2番目に載せた絵葉書の裏面が3番目の写真の桜に鉄兜という絵柄で、3枚ほど残っている絵葉書の内、当時の私が一番気に入って大切にしていたものである。
 なお、これを書いた父は、その一年後にはソ連軍によって抑留され、ラーゲリでの労働に従事していたことになる。

           
 これらの軍事郵便、ほかにも歴史を物語る要素がある。
 カタカナで書かれているが、当時の学校教育はまずカタカナを習うことから始まったせいだ。もっとも、私はまだ就学前だったが、カタカナはもちろん、簡単な漢字も読むことができた。
 就学といえば、文中に、「八ツニナッタラガッコウヘ」とあるが、当時は人の歳を数え年でいうのが一般だったからである。

 さて、軍事郵便を離れるが、つい最近、はがきをめぐる別の歴史と対面することになった。
 亡くなった連れ合いが遺した日記などを読んでいたら、まだ知り合ったばかりの1958(昭33)年頃、デートなどの打ち合わせのために使ったのがもっぱらはがきだったという事実が出てきた。今なら、LINE か何かで連絡するところだが、当時は、もちろん携帯もスマホもなかったし、固定電話すらない家がいっぱいあった。だから、時間がかかってもはがきが一番かんたんで確実な連絡手段だった。
 そういえば、いつもはがきを持ち歩いて、駅の待合室や学食など、所を選ばずはがきを書いた記憶がある。
 ちなみにキューピットの役割を果たした当時のはがき代は5円だった。

 軍事郵便は70年以上前、連れ合いとのやり取りは60年近く前の話である。
 思えば遠くへ来たものだ。

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天皇誕生日と月命日とグローバリゼーション

2016-12-23 11:23:13 | よしなしごと
       写真は本文と関係ありません。


           
 世の中はクリスマスだ正月だと喧騒に満ちているが、今年のわが家にはあまり縁がなさそうだ。今年のみならず、もともと年末には、おせち料理をやや張り切って作るぐらいで大したことはしていなかった。そのおせちも、主夫たる私の松の内の家事労働を最低限にという手抜きのようなものだった。
 今年はあまり種類は作らず、日持ちがするもののみを若干作って、正月中の酒のあてにでもしようと思う。
          
 今日は天皇誕生日だが、わが家では彼女の月命日だ。世の中、生まれる人もいれば死ぬ人もいるということだ。
 いささか飛躍するが、その生死のバランスが他の動物たちのように自然環境の変動に左右されるのではなく、自らが生み出した文明の形によって左右されるところが人間社会の面白いところだ。
          
 つい何年か前まで、人口爆発が懸念されたが、今やその逆転現象が起きているようだ。先進国ではその資本力、生産手段を過剰に抱え込むなか、それらに息吹を与える労働力が不足している。ちなみに、日本人の出生数は、明治以来、ついに100万人を割ったという。
 それらが、いわゆるグローバリゼーションとも関連し、資本の海外進出や、外国人労働者の雇用となっているわけだ。そしてそのなかで勝ち組と負け組の格差が拡がることが今や大きな問題になっているが、一方、こうしたグローバルな規模での共労や協同が避けられないということは、いってみれば、国家や私有を超えた世界中の人々の労働や生産においてのシェアリングが必要な時代に至っているということでもあろう。
          
 それが円滑に進み、格差を生み出さないようにするためには、現今のように、力ある者たちがそうではない地域や人々を差別し抑圧しながら、その資源や労働力のみを一方的に搾取するというのではなく、他地域に住み、風俗や習慣、宗教を異にする人たちと生産から配分に至る真に平等な立場での協同関係を結び直すことが必要なのだろうと思われる。
 もちろん、それは言うほど容易ではない。世界革命に匹敵するような地球規模でのシステムの考案であり、文明史的な課題といっていい。
          
 私の生きている間は無理としても、現今の黎明期グローバリゼーションの弊害を徹底的に総括し、すべての人々が自由で平等な関係で取り結ぶ、世界シェアリングとでもいうべき状況がまさに地球規模で生み出されたらいいと思う。
 そのとき、『永遠平和のために』を祈念したカントの志は実現され、彼の肖像が世界通貨を飾ることになるだろう。

 なんか新春雑感のようになってしまった。










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【質問】みなさんは自分以外の他者になった夢をごらんになりますか?

2016-12-17 00:22:25 | 書評
 この間、いろいろあって読書が進まない。読書意欲が湧かないのと、たとえ読もうと思っても落ち着いて読み進める時間がない。
 それでも全く読んでいないわけではない。彼女が逝く前に、すでに半分ほど読んでいたものを、図書館へ返却する必要上、慌てて読了したものがある。
 『夢の現象学・入門』 (講談社選書メチエ)で渡辺恒夫というひとのものだ。あのナベツネではない。あのじいさんは「雄」の方だ。
 
 この書が面白いのは、夢そのものをフロイトの夢判断などとは異なり、まさに現象学的アプローチで分析してみせるとともに、現象学への手引を試みている点にある。それが書名の「・」に表されているし、事実この書では様々な夢の分析の間に、ところどころ三箇所ほど、現象学への入門の章が挿入されている。
 現象学について、ぼんやりしたイメージしか持ち合わせていない私には、それらを整理する上で勉強にはなったがここに書きたいことはそれではない。
              
 ここで述べられている夢の特質などは結構面白い。まず夢には時制がない。現実世界では過去は想起の対象であり、現在は知覚の対象であり、なおかつ未来は展望の対象になる。過去を想起するとき、私たちはその過去と想起しているいまの自分とを二重のものとして意識している。また、未来を展望するとき、その未来と展望しているいまの自分とを二重のものとして意識している。

 しかし、夢になるとこの二重性がすっ飛んでしまって、過去がいきなりいまとして現れ、また未来もいまとして現れる。夢の中の自分はいきなり過去に生きているし、また未来に生きている。つまり夢の中では時制というものがなく、すべてが現在形に一元化されてしまうのだ。そういわれれば確かにそうだ。
           
 しかし、私にとっての問題はそれではない。
 この書の中でいくつも出てくる著者自身の、あるいは彼の学生たち(著者は大学の先生)の夢そのもの、分析の対象となる夢の例題の内容に関してなのだ。正直いって私はそこである種の違和感を禁じ得なかったのだ。
 
 それはどの点であるかというと、それらの夢がしばしば、自分がそれらの夢の中では他者になると語られていることについてである。
 彼らは夢の中で、誰かわからぬ不特定の他者、あるいは現存する特定の**という他者、さらには歴史上の特定の他者、おまけに、フィクションの主人公(金田一耕助やハリー・ポッター)、そしてカラスやキツネなどの動物、もちろん異性にもなりうるのだ。
 そのうえ、この書には、「なぜ夢の中では他者になることができるのか」という一章も設けられている。
              
 なぜそれが問題であったり私に違和感をもたらすかというと、私自身は夢の中で他者になったことは記憶する限り一度もないのだ。それが実在の人物であれ、架空の人物であれ、あるいは異性であったり、ましてや動物などになったことは一度もないのだ。夢の中の私は常に私なのだ。もちろん半世紀前の昔がまざまざと蘇ることもあるが、その場合でも私は私なのだ。
 なぜなのだろう。繰り返すが、私が読んだ上記の書ではそうした他者になる事例が多く登場する。にも関わらず私にはそうしたことはない。
           
 これを考えるに、私においては自我に固執する力が強すぎる、あるいは自己同一性というかA=Aという固定観念が強力で他者の入り込む隙きがないのであろうか。ということは、いままで他者を仮想的自己(私が他者でありえたかもしれず、また他者が私でありえたかもしれない)とする考察や、人間の複数性ということについてかなり考えてきたにもかかわらず、私自身はそうした面で極めて自己保身的でかつ狭量なままにとどまっているのであろうか。
 あるいは心理的、精神的にある種の欠陥を持った人間なのであろうか。
              
 そこでここまで読んでいただいた方に質問したい。
 みなさんは、実在であれ、架空であれ、自分ではない他者になった夢をご覧になりますか?
 また、他者になった夢を見たことがない私についてどう思われますか?

 一般的にいって私は、夢は私が他なるもの、つまり私自身が私はかくかくしかじかのものだと考えているようなものではないことに通じるものだと考えている。にもかかわらず、夢の中の私は常に私自身でしかないということは、私は孤立した自我の中に閉じ込められているということだろうか。
 
 不意に訪れたある種の孤独感の中で、いろいろな自己省察が渦巻く昨今ではある。

 
   
 
   
 
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師走の庭にて

2016-12-14 10:39:52 | 日記
 彼女が逝ってから20日余、この間、庭の草木に注意を払うことは全くなかった。冬の時期、水やりの必要はほとんどなかったのと、数日に一度の割合で降雨があったのとで、枯れたりしたものはなかった。
 あらためてそれら草木を見やると、落葉するものは裸になり、紅葉するものはそれなりに染まっている。
 わが家には一重咲きの黄色い菊しかないが、それらはもすっかり終わっていた。
          
 もう半世紀前に山から採ってきて植えたアケビは、最初の2年ほど実をつけたが、その後は他の木に巻き付くのみでうっとおしのでほとんど退治したが、一株だけ、新芽を切って伸びないようにし、盆栽風に育てているものがある。
 それが面白い色に紅葉していた。
           
 水仙の葉はあちこちに出ているが、山土で痩せているせいで、花をつけるものは少ない。
 一輪(といってもこの花はだいたい二輪でセットだが)咲いているのを見つけた。
 この花は、彼女の好きな花で、いつも摘んできては一輪挿しにして台所の窓際に飾っていた。
           
 まだ一輪のみなので、もう少し咲いたら、やはり一輪挿しにしてやろうと思っている。

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ナンキンハゼに逢った。

2016-12-12 21:51:11 | 日記
 久々に県図書館へ行った。
 道ひとつ隔てた県美術館南門前のナンキンハゼの樹に逢った。
 20年近く四季折々にウオッチングしてきた樹だから「私のナンキンハゼ」とでもいうべき樹だ。
               
 この前きたときはまだ緑色の果皮に包まれていた実が、すっかり弾けて、真珠のような白い球状になって枝々にびっしりとついている。
 あいにく到着したのが4時過ぎだったので、白い真珠の群れは撮れなかったが、枝につく球状のものはご覧いただけると思う。
            
 ひとしきり眺めてから、目的の図書館へ。
 ここのところのショックとゴタゴタで読書意欲はまだない。それでも来たのは、返済期限が来たものがあったからだ。当面読めそうもないものは未読のまま返却する。
 三割がた読んだ500ページの専門書は借り継ぐことにした。これはなんとか読み切って、1月末の締切りの小論を書くのにに間に合わせたいからだ。
 新しい本は借りなかった。記憶する限り、図書館へ来て新しい本を借りなかったのはこれがはじめてだと思う。
               
 図書館を出たら、すっかり暮れきっていた。
 ナンキンハゼの樹は、もう夕闇のなかに溶け込んでいて、枝の間から夕月を臨むことができた。
 
 今年の初め頃だったろうか、ここへ彼女を乗せてきて、このナンキンハゼと引き合わせたのは。その折、とくに彼女から感想を聞くことはなかった。 
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写真とおしゃべり センチメンタルな5・7・5風に

2016-12-10 10:37:34 | 日記

           
                 先立たれ白さ目に滲む枯尾花

           
                 独り身になりて師走の乱れ雲

           
                 戸惑うて冬の樹影は捩れけり
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遺された詩

2016-12-08 14:21:59 | 想い出を掘り起こす
           
  

  部屋* 

  その部屋の扉をあけてみて下さい
   部屋の真ん中にはカーテンのしまった窓しかありません

  次の部屋は
   ニスのはげた机が一つ忘れ去られてありました
   緑色のベルベットの椅子はどこへいったのでしょう

  向かいの部屋には
   壊れた本箱がゆがんで立っています
   歯のように並んでいた本もだいぶぬけました

  最後の部屋に
   誰かいませんか

   ただ黄色くなった写真の中で
   知らない少女が微笑っていました


 

 彼女の残した日記のなかの一ページにあった詩です。1970年のものです。私がいうのもおかしいのですが、なかなかのものだと思います。
 才能とはいわないまでも、こうした志向があったのなら、もっと書くように勧めてやったのにと思います。しかしこれを書いていたことも知らなかったのです。

 何よりも内容に思い当たるのです。
 60年前後の、ちょっと気障ないい方をすると、「恋と革命に生きた」時代が終焉し、私自身が全く生きる方向をもたないまま精神的に彷徨ないしは徘徊していた頃なのです。荒廃していたといっていいでしょう。
 そんな私を彼女は不安の眼差しで見つめ、しかも私自身が自分を整理できないまま心を閉ざしていたこともあって、彼女自身の居場所もわからない状況にあったと思います。

 そうした不安感、喪失感が上の詩にはよく現れているような気がします。
 二連目の、「ニスのはげた机」は彼女自身のようですし、「緑色のベルベットの椅子」は、私、ないしは私と歩調を合わせて歩んでいると確信がもてた頃の状態を表しているように思えます。

 彼女の詩は、少なくとも深く胸をえぐられる思いの読者を一人もちました。それは私です。私はいま、自責の念にかられながらこの詩と向かい合っています。


  題名は私がつけました。
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古い写真のなかの私たちの青春

2016-12-06 15:44:37 | 想い出を掘り起こす
 古くからの友人が、古い古い写真を数枚送ってくれた。
 どれぐらい古いかというと、ちょうど60年前、私が18歳の頃のものだ。
 写っているのは私とほぼ同年配、というか同期に入学し、同じサークルに所属した人たちを中心に延べ10人ほど。

 当時は、銀塩カメラしかなく、しかもオート・フォーカスもない時代だから、絞りもピントも手動だったが、それにしてもよく写っている。簡単に撮れてしまうデジカメ時代のいまより、昔の人のほうが写真の技術をものにしていたと思われる。

 それはともかく、写ってる若者たちの表情がそれぞれみな良い。「希望に満ちた」などというと薄っぺらになる。それぞれがみな相応の知性の持ち主だったから、自分たちの未来が前途洋々であると手放しで楽観していたわけではない。
 さまざまな抵抗や不安などがその行く手にあることは重々承知していた。ただし、それらにちゃんと対応してゆけば、自らの道を自らの手で切り開くことができるのではないかという期待はあったし、それに対応した身構えはみなもっていた。

 時代はまさに戦後の混乱期が一応の収束をみせるなか、今後の戦後を自ら生み出してゆくのだという自負は広く若者のなかにあった。
 だから、それぞれがいうべきところでちゃんと発言するなど、状況から目を逸らすことはなかった。

 数々の逸脱や誤りもあった。しかしそれらも、状況との切り結びの中でのものであり、ちゃんとした総括や検証の対象ではあるとしても、そのアンガージュマンそのものはまさに私たちの青春であり実存そのものであった。
 だからそれ自身を悔やもうとは思わない。

 写真の青年たちのうちにいる私もまた、はつらつと時代を謳歌している。このあと、私は、シュトルム・ウント・ドランクへと飛び込んでゆくのであったが、その折はもうこんな穏やかな表情はしていなかったと思う。
              
 送ってくれた友人も指摘していたが、この延べ10人ほどの若者たちのうち、数名がすでに不帰の人である。現在の平均年齢からしたらいくぶん高い死者数かもしれない。
 そのうちの一人は、つい最近まで一緒に過ごしてきた私のつれあいである。
 もちろん彼女も、写真のなかでは爽やかに笑っている。








 
 
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彼女の過去たちとそれが示すその「誰」性について

2016-12-04 11:30:27 | ひとを弔う
             
         私がネットに載せるはじめての家族写真 45年ほど前のもの

 彼女の過去たちを整理しなければならない。
 彼女の過去たちはいま、彼女の残したモノたちのなかに、あるいは加入や取引といった関係性のなかにその残滓をとどめている。

 モノたちに関しては廃棄されるもの、継承さるべきものがあるが、おそらく多くのモノたちが破棄されるであろう。その破棄は、結果として彼女の意に反することもあろうが、いまとなってはゴメンというほかはない。
 むしろ、継承さるべきものがしかるべき人たちにしっかりと維持される方に力を注ぎたい。

 破棄されそうなこの時期からのジャケットで、ひとつ気になったものがあったのでほとんど戯れに袖を通してみたら、なんと私にピッタシなのだ。即座に、これは私が着ると宣言してゲット、これが私への形見分けになった。

 関係性の方は複雑多岐にわたる。彼女自身が仕事をし、収入があったので、それらを蓄えてきた。それらは、セキュリティという名のもとにしっかりガードされていて、その有無を、あるいは残高を確認するだけで並大抵ではない書類を要求される。
 それが各機関によってまちまちなのだ。その煩雑さは、すでに済ませた役所関係より遥かに凄まじく、「官僚的」といえる。

 彼女が去って幾ばくもしない間に、こんな実務的なことで飛び回りたくはない。しかし、彼女がどんな思いでそれを蓄えたかを思うと、彼女の過去たちを整理し、然るべき継承者(主として子どもたち)に手渡すためには不可欠な作業なのだ。

 残されたモノや関係性の残滓には、私からみて不可解なものや理解し難いものもある。しかし、それらが、彼女が「何」ではなく、「誰」であった証なのだと思う。
 どんなに合理的に生きていると思っても、さまざまなズレや逸脱、過剰や欠落があるものだ。そしてそれが「誰」の中味を作り出している。

 彼女の過去たちを整理する作業は、そうした彼女の「誰」性を再確認することでもある。
 こうして彼女の「誰」性は私たちのなかに生き続ける。

 寂寞感のなかで、そんなこを思い巡らしている。
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