六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

氷なしの三日間と冷蔵庫の思い出

2014-07-31 17:26:24 | 日記
 この猛暑のなか、氷のない三日間を強いられている。
 
 今日の午前中から、冷蔵庫の文字表示部分に何やら赤い文字が点滅している。
 サポートセンターに電話して、「あれはなんぞなし?」と尋ねたら、「製氷装置の異常を示すものです」とのこと。
 そしてひとまず、その赤い文字のチカチカを消す方法は教えてくれたが、しばらく様子を見て氷ができてこないようだったらメンテナンスの方へ電話するようにとのことだった。

   

 祈るような気持ちで待ったが新しい氷は出来てこない。
 それでメンテナンスの方へ電話。
 この暑さで冷蔵庫部門は忙しそうだから今日は無理かな、明日なら大丈夫だろうという思惑は大あまチャン。

 「ハイ、最速で8月3日ですね」とモノが冷蔵庫だけに冷たい返事。
 「はあっ、ふえっ」と声にもならない返事をしたが、来られないというのだから待つしかないのだ。
 8月3日といえば足掛け(この言葉最近あまり使われなくなった)2ヶ月ではないか。

 それまでに直れば儲けものと製氷室の引き出しを外して氷が落ちてくる仕組みを手さぐりしてみたがよくわからない。もっと手ひどく壊してしまっては修理代が怖くなるので適当に諦めた。

          

 冷蔵や冷凍の機能は無事なようで、さいわい今夜の水割り用の氷は私専用のタッパーに入れて冷凍室にある。ほかにも手頃なタッパーを動員して水を入れ冷凍庫に入れた。

 私のような古い人間になると、大昔の上段に氷を置いて、その下に食品などを置いた原始的なスタイルの冷蔵庫を知っているが、それは一部の金持ちか高級飲食店にしかなかった。定期的に氷を供給しなければならないから、さぞかしランニングコストがかかっただろうと思う。

          

 わが家に冷蔵庫が来たのはいつ頃だったろう。昭和30年代の終わりだろうか。
 もちろん、冷凍庫もなかったし製氷装置もなかった。
 家庭用の冷凍食品という概念もなかったのではないだろうか。
 
 次に来たのが小さな冷凍室付きでそれには製氷装置(というより製氷室)もついていた。とはいえ、それは今様の自動製氷ではなく、さいの目に仕切られた製氷ボックスに水を入れてそこに置くだけというものだった。そして、できたらそれを取り出しそ、水をかけて氷片を得るという単純なもので、したがって今回の様な故障を起こす余地もなかった。
 考えてみれば、私が応急措置でした冷凍庫へ水入りタッパーを置くのと同じことだったわけだ。

           

 まあ、シンプル・イズ・ベストの時代ではあった。
 なまじっか自動などにするからその部分がブラックボックス化されて素人には触れなくなってしまう。
 銀行のATMがぶっ壊れて預金の出し入れができなくなるのと一緒だ。
 そういえば私たちの時代のように、銀行の入社試験にそろばんが必須ということはもうないだろうな。
 
【オマケの思い出】私ゃ、商業高校だからそろばんと簿記ならなんとかなるのだが、当時の教師から「君は両親が違うから銀行には入れないよ」といわれた。
 彼に差別意識があったわけではない。そういう時代だったのだ。
 でもそのお陰で他の道が開けた。


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クマゼミ参上と「未来の予めの搾取」

2014-07-28 17:46:33 | よしなしごと
 写真は今日はガキを出しに行った折に撮ったもの

 近くに樹木がある家が少ないせいか、うちには結構セミが集まってくる。狭い土地だけれどここで生まれたセミもいる。
 今朝も早朝からセミが鳴き立てているのだが、どうも今までとは違った急き立てるような鳴き方だ。
 「ん?これは?」と思ってネットでのものと聞き比べてみたら間違いなくクマゼミの鳴き声だ。

          
              休耕田に取り残された一株の草

 もう名古屋はほとんどクマゼミの天下なのに、私の家ではアブラゼミしかいないと書いたのは去年の今頃だった。ようするに、今年が初お目見えなのである。
 しかし、アブラゼミが駆逐されたわけではない。それはそれで健在で、これを書いているいま、数メートルの範囲で複数のものが鳴いている。
 ちなみに、クマゼミは今のところ一匹しか確認していない。

 今のところ彼らは棲み分けているようで、鳴く場所も違うし、時間帯も違う。
 どうも、クマゼミは午前中、アブラゼミはもっぱら午後のようだ。
 なお、以前はニイニイゼミもいたが、ここ何年も姿も声も確認していない。

          
      ここにカラスアゲハが 慌てて携帯で撮ったがこの枠外に逃げた

 毎年、夏が終わりに近づく頃、ツクツクボウシが現れるが今年はどうだろう。あの独特の鳴き方には郷愁を覚えるところもあって、夏のフィナーレにはふさわしい。

 子供の頃、大垣の郊外で過ごしたが、そこではアブラゼミ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、それにミンミンゼミ、さらにはヒグラシもいた。
 しかし、クマゼミはいなかった。

 それもそのはず、クマゼミはもともと南方系のセミで、それがかくも北上したのは地球温暖化との関連を指摘する声が大きい。もしそれが事実なら、人間が地球をそのように加工しつつあることの一つの指標といえる。

          
          わかりにくいがセキレイのつがい 携帯の限度

 ついでながら、これまで人類は、次の時代のためのインフラの整備などの遺産を少なからず生み出してきたのだが、ことここに至って必ずしもそうではなくなったようだ。

 膨大は資源の消費による先取り、二酸化炭素の過剰な放出による地球環境そのものの破壊、原子力利用によるこの先何万年に及ぶ危険な廃棄物の放置などなどは未来への奉仕ではなく「未来の予めの搾取」ともいえる。
 ようするに、現代に活きる私達は、未来の人々への膨大な借財のなかで暮らしているわけだ。

 クマゼミの何かを急き立てるような鳴き声は、物品の消費や情報のやりとりにヒステリックに対応している現代人のBGMなのかもしれない。



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季節のうつりゆき 大暑 立秋 処暑

2014-07-27 03:09:26 | よしなしごと
 連日の猛暑で茹だっている。
 25日、岐阜気象台は38度(多治見は全国でもっとも暑い39.3度)といっていたが、岐阜気象台は川べりの風通しのいいところ、私の家では40度超だ。

 40度といえば風呂の温度が38度から42度というから、いってみれば風呂へ入りっぱなしということになる。
 私は風呂は熱めが好きだ。しかしこれは、上がった時の爽快感とセットになったものであるから、入りっぱなしの風呂は好きになれない。

          

 この時期暑いのも無理はなくて、暦の上での二四節気のうち、一番暑いとされる「大暑」はこの23日であった。
 それでは、これを過ぎれば暑さが和らぐのかというとそうはいかのおツンツンで、岐阜の多治見市と埼玉県の熊谷市で当時の日本新、40.9度を叩きだしたのが実に8月16日(2007年)であった。
 そして昨年、それを上回る41度を四万十市が記録したのが8月12日のことであった。

 やはり、二四節気のひとつの「処暑」は、この頃から暑さが和らぐということで、今年は8月23日であるが、ようするに、この頃まで暑さは去ることはなく、続くと考えた方がいい。

 ちなみに、2007年の8月16日、私はなぜだか多忙で、岐阜市内を自転車で駆けまわり、自宅へ辿り着く寸前で異様な感覚に襲われ、帰宅と同時にどっと倒れ伏す状態であった。「あ、これは熱中症だな」という自覚があったが、バタンキューの何時間かのダウンでなんとか回復した。

 それ以来、臆病になって、25日は徒歩数分で通常はもちろん徒歩で出かけるスーパーへ車で出かけた。

          
 
 暦に関していうならば、例年そう思うのだが、意外と早いのが立秋で、8月7、8日で、今年は7日だという。
 注目すべきは、最高気温のレコードはいずれも立秋後だということだ。
 
 しかし、ここには、季節のグラジエイトな変化へのそれなりの感性があるのだと思われる。
 だから「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)とか「秋たつとひとにつげねど知られけり みやまのすそのかぜのけしきに」(西行法師)などの歌が可能になる。

 立秋まで後10日間、そして処暑までは約一ヶ月、残された夏を私たちはどんな季節感のうちに過ごすのだろうか。

          
 
 いずれにしても私の実感からいえば、熱中症というのはこのぐらいはなんのその思っていながらやられるようだ。私の孫のような連中が病院に担ぎ込まれている。彼らが死すことはないが、私と同年輩の人たちはそこで生涯を閉じる。

 お互い気をつけたいものだ。
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県立図書館と植物の仲間たち

2014-07-21 00:53:56 | 日記
 土曜日、県立図書館へ行く。
 借りていた本を返すためである。
 今は本を読む時期ではない。締め切りを控えて、これまで勉強したものを必至で文章に紡ぎだす時期だ。書かなければならないのだ。

          
 
 だから、今回新しく借りるのはよそうと思った。
 しかし念のため、新刊の箇所へ行ってみたら、ジァン=フランソワ・リオタールの『なぜ哲学するのか?』(松葉祥一:訳 法政大学出版局)が目についた。
 手にとってパラパラっとめくってみると、彼が1964年に自分の学生たちにした講義のテキストのようである。
 誰もまだ読んでいない書の独特の臭いが鼻孔を刺激する。

 すぐにゲットした。
 1964年といえば20代なかばの私が迷いに迷っていた時期である。
 その同じ時期の若者たちにリオタールが何を説こうとしたのか。
 当時の私がこの書に出会っていても、さまざまなドグマで思考の自由を失っていたこともあってなにも読み取れなかったかもしれないと思いつつ、それでも青春のやり直しのつもりで読んでみようと思った。

 
        左は4月16日

 さいわい、そんなに長いものでもないので、書きながら平行してでも読めるだろう。うまくゆけば、今書こうとしているものにさらに追加すべきものを与えてくれるかもしれない。
 タイトルがいい。普通なら、『哲学とはなにか?』というところなのだろうが、『なぜ哲学するのか?』は、すでにしてそこに私が参加している気がするではないか。

 
 
                    上は6月28日

 ついでに、図書館中庭のアメリカハナミズキに挨拶をし、ついで隣の県立美術館南のナンキンハゼの樹ともエールを交わした。
 両方共、可愛らしい実をちょこなんとつけていたが、今年は実の付き方がいいように思った。
 これらの花の時期を写したものがあったので、比較のために載せておこう。

 


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We shall be free! 映画『チョコレートドーナツ』を観る

2014-07-18 01:11:50 | 映画評論
 We shall be free! 
 映画のラスト、主人公が失意のうちにも未来への希望を込めて朗々と歌い上げるフレーズがいつまでも頭や胸に残る(実際にはエンドロールとオーバーラップする曲がもう一つあるのだが)。

          

 1970年代末、アメリカで実際にあった出来事の映画化である。
 ショーダンサー(ルディ)と検事(ポール)というゲイカップルが、麻薬常習者の母に捨てられたダウン症の少年(マルコ)と出会い、ある意味では擬似的であるものの、情が通い合った「家庭」を持つに至る。まさに、マイノリティが肩を寄せ合うようなトリオではあるが、当人たちにいささかの悲壮感もなく、お互い胸襟を開いた関係が進展して行き、少年を学校へ通わせるなどの積極的な姿勢が共感を呼ぶ。

 しかし、そうしたささやかなつかの間の幸せに牙をむき出す者たちがいる。
 法と正義、道徳を振りかざすマジョリティの「社会」である。
 このエスタブリッシュメントからなる「社会」は、あの手、この手を使ってこの「家庭」を破壊しようとする。
 もちろん、彼らカップルも、あらゆる手段を動員してこれに抵抗する。

          
 
 その結末はこの映画のハイライトなのでここでは述べないが、法と正義を振りかざして襲いかかる者たちのなかでスッポリ抜け落ちているのは、この少年の具体的な生、そしてその未来であることだけはいっておこう。

 情に流されやすいルディと論理的で理知派のポールは考えてみたらいいコンビである。そして、一見愚鈍そうに見えながら、周囲の人間の情感を的確に受け止め反応してゆくマルコの感受性、そして顔中をくしゃくしゃにする笑顔も素晴らしい。

          

 彼らは打たれても、叩かれても戦い続ける。
 それを象徴しているのが冒頭に述べた「We shall be free!」で終わるルディの歌だ。そしてそれは、容易に妥協したり屈服したりしない者のみが口にできる歌詞でもある。

 なお、ルディを演じるアラン・カミングの演技と歌が圧巻である。

【特記】ホモセクシャルに違和感をもつ方にとくにお勧めします。世の中にはそんなことへのこだわりよりも、もっと普遍的な問題があることを教えてくれるからです。もし、映画の冒頭に抵抗があったとしても、見続ける内にそんなことを超えた地点へと至ることができると思います。

 
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IT社会もまんざら捨てたものではないということ

2014-07-17 02:06:55 | 社会評論
 写真は、私の散歩道や買い物帰りのものです。

 森喜朗氏が総理だった頃でしょうか、わかったようなわからないような口調で「IT社会が、IT社会が」と盛んにのたもうた頃、「あんたらの音頭取りには乗るものか」とそっぽを向いたことはありますが、所詮は避けては通れない社会のありよう、IT弱者と言われようがなんだろうが、よたよたと最小限度の足取りでそれに随伴してきました。
 しかし、ここへ来て、「IT社会侮れず」という事態がいくつも起こってまいりました。

          

 発端は、FBでの私の友人で私のブログにも時折コメントをくれるSさんが愛鳥のインコをフトしたはずみで逃してしまったことにあります。
 このSさん、とても行動的な方で、ヤフーのリアルタイムで、「迷い鳥」と入れると、鳥を見失った人たちや、逆にそれを保護している人たちのツイートが並んでいるのを見て、ご自分もツイッターのアカウントを取って、逃げたインコの特色などをツイートしたそうなのです。
 するとどうでしょう、一週間ほど後にそれを保護している人からの応答があり、無事そのインコは手元に戻ったというではありませんか。

 その経緯をFBなどで知った私にもハッとひらめいたことがありました。私の場合は「迷い鳥」ではなくて「尋ね人」です。
 ヤフーのリアルタイムを開いて「尋ね人」と打ち込むと、幾分深刻そうなものから半分ふざけたようなものまで、いろいろ載っています。
 私はもともと持っていたツイッターのアカウントを利用し(普段はほとんど利用していなかったのです)、その人の名前や経歴などを書き込み【拡散希望】としました。
 するとすぐに若干の方が私の書き込みをフォローしてくれ、拡散してくれました。

 で、私が探していたのは、今から約20年ほど前、私がまだ居酒屋をしていた頃、そこへバイトに来てくれたRさんという中国からの留学生の女性でした。
 日本語の習得がとても早く、仕事も適切でしたが、同時に学業の方も怠ることなく、私の店を辞めてから、風の便りに学位をとったと聞きました。

             
 
 彼女を探すのはこれで三回目で、第一回目はフリーライター時代の私の仕事の都合で、その時には居場所もわかっていたので、そこへアポをとったところ、なんと一週間前に中国へ帰国したとのことでした。
 
 そして第二回目は三年前、中国へ行った折にどこかで出会えたらということで、探したのですが空振りでした。
 そして今回は、インコが見つかるのなら人間も見つかるだろうとということでただその消息を知りたくて探したのでした(インコと一緒にしてゴメン)。
 
 でその結果ですが、ツイッターの方ではなくて友人がその友人である在日の中国人の学者さんに尋ねてくれたところ、何年か前、ここに在籍していたはずだがという情報を提供してくれました。
 その組織は国際的なものでしたが、その東京事務所にメールをしました。この時点では返事が来るかどうかさえもわからない状態でしたが、その返事はきました。しかし、そのRさんはもう数年前に退職しているとのことでした。
 ところがです、そこのスタッフが彼女の連絡先を知っていて、彼女の了承を得た上でその電話番号を教えてくれたのです。

          

 恐る恐る「+86」から始まる中国への国際電話をかけました。
 早口の、というか日本人にとってはそう聞こえる中国語が返ってきました。私は一呼吸整えてから、「もしもし」といいました。相手はしばらく絶句してから、「あ、マスター?」という日本語が・・・・。
 かくしてメルアドを交換し、お互いの消息を確認し合ったのでした。

 話はここまでですが、13億人のなかからピンポイントで一人を特定できるってすごいことだと思うのです。
 前に、中国の人名で検索した時、同姓同名のひとがどっさり出てきて、しかもその説明が当然ながら中国語なのでとても特定できませんでした。

 今回の場合、幸運にも恵まれたとはいえ、電子メールや国際電話の簡素化、ツイッターなどのツール、ブログなどの相互リンクなどなど、まさにIT(information technology)が私のような情報弱者にまでメリットを与えてくれた瞬間でした。

 確かに、IT社会のなかで失われてゆくものへのノスタルジーはありますし、それによる情報牢獄(Lineにとらわれた子どもたちや情報に振り回される大人たち)のような状況、そして、昨今問題になっているようなそれを逆手に取った犯罪、ないしは犯罪まがいの事態も続発しています。
 しかし、私たちはもうこの状況から後戻りできない以上、この事態が指し示すものと真摯に向き合いながら、その状況下での可能性や不可能性を考えてゆくことしか出来ないのだと思います。

             

 最後に、IT社会が私にもたらしたもう一つの出会いを書いておきましょう。
 FBで、私の友人たちのところに趙博さんというひとがいろいろコメントをつけているので、ひょっとして私が知っているあの人ではということで友人になりました。
 やはり、私が居酒屋をやっているとき、河合塾の講師をしていて常連だったあの趙博さん本人でした。
 
 趙博さんは知る人ぞ知る「浪花の唄う巨人・パギやん」で、私はそのライブも聴いたことがあります。
 詳細は以下のWikiを参照してください。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8D%9A

 私が送った同人誌などに対して、趙博さんは、自分のCDを送ってくれたのですが、それに添えられた手紙にはまさに、「IT社会も捨てたもんじゃないですネ」と書かれていました。

 「パギやん」の歌はメッセージ性の強いものが多いのですが、とりわけ、ブルース調のものがいいと思います。これは私の主観ですが、ブルースと関西弁というか関西のイントネーションとは相性が良いように思います。
 そういえば、一度ライブで聞いた木村充揮も大阪の出身だし、女性シンガーでは和田アキ子がやはり大阪出身ですね。
 
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琵琶湖沖島 関西の水瓶を汚染させてなならないということ

2014-07-15 02:14:42 | 旅行
 日本はいわゆる海洋国だから、実に多くの島を擁しているが、淡水湖のなかで集落(人口約350)をもっているのは近江八幡の近く、琵琶湖に浮かぶ沖島しかない。

 

 琵琶湖にはほかに、観光地としてはこちらのほうが知られている竹生島があり、そこには大型観光船が着き、竹生島神社への参拝や観光客が絶えず、何軒かの土産物店などもあるのだが、そこの寺社関係者ならびに店舗従業員はいずれも島外から通っているため、無人島となっているのだそうだ。

 

 さて、その沖島だが、至近距離にある港は近江八幡市の堀切港で、ここから定期便が出ているが、私たちの一行は10人いたので、一人1,000円で往復してくれるというチャーター便を利用した。

 

 この堀切港自体が琵琶湖の水産物の水揚げ港で、船を待つ間に多くの漁船が寄港し、小エビや鮎などの小魚を水揚げしていた。

 やがて、私たちの船がやってきて沖島へ運んでくれたのだが、その行程は約10分ほどであった。
 港の風景はどこにでもある漁港といった感じだが、当然ながら潮の香が一切しない。この小さな島になぜこれほどと思うほど船の数は多い。ほかにも副漁港があるというから、人口に対する船の数は半端ではない。
 それもそのはず、この島ではほとんど全戸が一艘以上の船を所有しているというのだ。

        

 その代わり、この島では特殊な工事車両以外、いわゆる自家用車というものを一台も見なかった。それもそのはず、自家用車が通れるような道がない。したがって、信号もない。
 集落の主たる交通手段は、サドルの後方に大きめの荷籠を付けた三輪車が主であった。

   

 島へ着くと、何やらイベントがあるという。それも島の小学生11名総出演だという。ちなみにこの島には中学校はない。中学生は船で対岸の近江八幡市へ通学する。

 小学生たちの出し物は和太鼓と合唱であった。
 決して巧いとはいえない。しかし、その和気あいあいさと、全学童総出演というのがとてもいい。
 ギャラリーは決して多くなかったが、学童たちの懸命さが伝わってくる。

 

 その後、島のあちこちを散策した。
 小学校は、昔懐かしい雰囲気で、クローバーの中にねじれ草が交じるグランドでしかもすぐ前が小さな漁港というロケーションが素敵だった。

 私が行ったのは、ちょうど滋賀県知事選挙の前日だった。漁港や集会所付近にはポスターが貼ってあって、その去就を密かに注目していた私には、無視できないものがあった。

 

 この滋賀県の琵琶湖は、その北端で福井県の原発群と至近距離にある。もしそこで、福島並みの事故が起これば、琵琶湖の汚染は必至である。
 ここで獲れる小鮎や小エビ、モロコ、鮒寿司のフナ、琵琶マスなどの被害は甚大だろう。したがって、他にさしたる産業がないこの島はほぼ全滅に近い状態になる可能性もある。

 

 そればかりではない。琵琶湖は関西の水瓶といわれているように、地元の滋賀県は無論、京都府、大阪府、そして兵庫県の上水道の水源なのである。もし琵琶湖が汚染されれば、関西の人たちは即飲料水に窮するのこととなる。

   

 沖島から帰った翌日の知事選では、前知事の「卒原発」を継承した三日月氏が自公維新が推す候補を破って当選した。これで、福井原発群の再稼働に対するひとつの防波堤が出来たことになる。

 

 東北大震災の教訓を受けて各地の原発はその対策を強化したという。しかし、それらは人知の驕りにすぎない。そうした姑息な防備を越えて自然が猛威をふるうのは、ノアの方舟を始めとする様々な教訓がもたらすところである。
 しかも原発は、未来に何かをもたらすよりその後始末などを押し付ける、いわば未来を予め搾取するものにほかならない。

 沖島の子どもたちのあのさわやかな笑顔が絶えないように祈るのみだ。

 
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私が経験しなかった幼稚園と三輪車

2014-07-12 02:33:15 | 想い出を掘り起こす
 私の幼児期というのは戦争のまっただ中で、空襲警報で防空壕へ駆け込むような日常だったから、平和期の幼児体験とはずいぶん違う。
 
 違いをあげたらきりがないが、まずひとつは、私は幼稚園というものに行ったことがない。戦時中ということもあるが、私が田舎へ疎開していたからかもしれない。街中では同年令で幼稚園に行った人もいるようだ。

 私がこの歳になってもなおかつ非常識な点があるとしたら、きっとそうした幼児教育を受けてこなかったからだろう。
 今からでも遅くはないから幼稚園へ入園しようかなとも思う。よくホラ、定年退職してから高校や大学へ入り直すひとがいるではないか。そのノリである。そうすれば、「むすんでひ~らいて」も習得できるし、「あのこはだあれ、だれでしょね」の「なんなんなつめのはなのした」で泣いている「かわいいみよちゃん」に出合えるかもしれない。

          


 ただし、国民学校の一年生になった折、私はカタカナ(当時は最初にカタカナを学習した)もひらがなも読み書きできた。たぶん九九も知っていたと思う。
 これは、農家の10人兄弟姉妹の中ほどで、自分が学問をしたくてもできず、高等科卒(今の中学2年)であった母が私を特訓してくれたおかげであった。
 しかし、その特訓は怖かった。私が間違えたりすると、母が内職にしていた縫い物などの2尺物指し(60センチ余)が遠慮会釈なくとんできた。

 しかし、私が懸命に字を覚えたのはそれによる恐怖感からではない。当時軍隊にとられ、満州はハルビンにいた父の軍事郵便を読み、それへの返事を書きたかったからでもあった。

 幼児体験に戻ろう。
 もうひとつ私が体験していないのは、いわゆる子ども用の三輪車に乗ったことがないことである。これも戦時中に関連するが、やはり裕福な層に限定されていたのだと思う。
 しかし、その限定されていた三輪車も、やがて「献納」という金属類は全てお上が召し上げるという制度で消えていった。
 この献納では、各家庭での必要最小限の金属以外はすべて召し上げられたばかりか、寺院や神社などの金具や、今なら重文級の梵鐘すら召し上げられ、人々の安明をを祈るべき仏具の鐘や神具が、敵を殺傷する武器へと転じられた。

 といったようなわけで、私は三輪車に乗ったことはない。ついでながら、子供用の自転車にも乗ったことない(そんなものは殆どなかった)。したがって私の自転車体験は、小学校の高学年での、大人用の自転車を用いたいわゆる三角乗りという方法であった。
 どういう方法かは説明が面倒なので図を参照されたい。まあ、いってみればサドルには跨がらない(子どもだからサドルに跨がれない)自転車の乗り方なのである。

          

 なんか話はチャランポランになるが、私の経験はともかく、子どもが最初に自分で乗る乗り物は圧倒的に三輪車が多かったのではないかと思う。
 ところがである、最近、その三輪車も見ないしそれに乗っている子も見る機会が少ないのだ。

 かつては、そこらの路地に溢れていたし、地域の小公園や社寺仏閣の境内などに放置されたそれらがいっぱいあって、母親などが「まあ、うちの子ったらこんなところに放りっぱなしにして・・・」と回収して歩いた風景はきわめて一般的なものだった。
 しかし、今はそれらを見ることがない。



 
 ひとつ考えられることは、現今の交通事情のなかで、三輪車が、どんな路地や田舎道であれ、走ることができなくなっていることである。ということで、三輪車に乗る子どもというのは今では稀有のありようである。

 では三輪車は終わってしまったのかと検索してみたら、もちろんそうではなかった。私が見かけなくった三輪車は図のように「進化」していたのだ。
 背後に取っ手があってそれらを保護者がキープして安全性を確保するものである。
 なるほどと思った。
 と同時に、三輪車というものが子どもがはじめて自力で動かすことができる乗り物ではもはやなくなっているを目の当たりにした。
 これでは、開放型の乳母車にほかならない。

 だから最近、そのへんに三輪車が転がっていることがなくなったのだと納得した。
 私自身はまったく経験がないが、かつて公道で三輪車レースをしていた子どもたちを懐かしく思い出した。
  

 

 

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整然とはしないこの世の捻れ草

2014-07-07 18:03:05 | 社会評論
 かつて私は、野中広務氏だとか加藤紘一氏などは自民党の実力者として、それを忌避する立場にあった。そしていま、そのスタンスに多少のゆらぎを感じている。もちろんこれは、私自身の立ち位置がここへ来て変わったということではない。
 
 変わったのは政治的な見取り図というか座標軸自体の方で、その変動によって相互の相関関係がかつての物指しでもってしては測りがたくなったということである。

     

 具体的にいえば、上の両氏は、安倍内閣の軍事、外交政策、そしてその根幹にある主に中韓を対象にした歴史認識に対しては真っ向から批判的である。
 両氏はそれを、さまざまな機会を捉えて公言して憚らない。

 したがって、いわうるネウヨといわれる人たちからの攻撃はすさまじい。
 敢えて彼らの使う語彙を再現するなら、両氏は「チョン」であり「ブラク」であり、したがって「北朝鮮へ帰れ ! 」ということらしい。これらの具体的検証や論理の飛躍は問題ではない。両氏がどのような出自であろうがそんなことは問題ではない。問題はその政治的見解の内容なのだ。

             

 思えば、加藤紘一氏邸の放火事件があったのはもう数年以上前だが、その折に、被害者である加藤氏にさも当然であるかのような冷笑的な発言をしたのが、安倍氏の「お友だち」の稲田朋美議員であった。

 ネウヨ的な言動やヘイトスピーチを繰り返す人たちと安倍氏の立ち位置は同一とはいわないが、明らかに親和性がある。
 私は、2012年末、安倍氏の返り咲きが可能になった衆議院議員選挙の最終段階での安倍氏の街頭演説に林立する日の丸と旭日旗に慄然とした思いを抱いたものだ。これは、彼のコアな支持層が奈辺にあるかを如実に物語るものであると思う。

          

 ところで、加藤氏邸の放火事件のきっかけとなったのは加藤氏が時の小泉首相の靖国参拝に反対したのに激昂した右翼の仕業であったが、その折の小泉氏が今や原発反対の論陣を張っている。したがって、ネウヨ諸氏にいわせれば彼も「チョン」なのであり北朝鮮へ帰らなければならないのだそうだ。

 ことほど左様に、この何年かの間にこの国の政治的相関関係は大きな変化を遂げている。そして、その一方ではレイシズムを含んだ愛国主義が強固な核を形成しつつあるように見えるが、一方では流動的な部分も出始めている。

 最後に一言付け加えれば、加藤氏や野中氏、それに小泉氏の言動に関し、「彼らはもっともらしいことを言っているが、その本質は・・・」といった批判がついて回ることについてである。
 この言い分にはいくぶん原理主義的な臭いがする。しかし、一般的にいって人間の本質なんてそんなに固定したものではない。ましてや政治の世界では「本質的に良い人や正しい人」が善政を行うわけでは決してない。
 かつて小平がいったという「黒い猫でも白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」というのはそれほど間違ってはいないと思う。

 いずれにしても「本質」云々による言説は、「自己の絶対的正しさ」(そんなものがあるとしてだが)を強調するのみで何ら生産的ではないと思う。


ネウヨやレイシスト諸氏の言動を具体的に再現するために、敢えて差別的な用語を用いました。お気に障る向きがありましたら、幾重にもお詫び致します。
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「死」の意味  私の読書ノートから

2014-07-06 16:45:51 | よしなしごと
 写真は内容とは関係ありません。農協の花売り場での薔薇三態

 《死 ひとりで絶対的単独性へと引き渡されること 日常的な生を前提とする政治という地平、他者とともに在る生という地平からの離脱

 以上は最近の私の読書ノートからだが、以前はそんなフレーズに接しても一般論として「なるほど、そんなものか」とスラッと通り過ぎることできたが、いまではフト立ち止まって考えざるをえない。これは一般論ではなくて、ほかならぬ私の近未来のことについてなのだ。
 私の読書ノートは続く。


          

 《しかしここでひとつの逆転が生じる これは主として、ハンナ・アーレントの持論によるものだが、人々の間での活動の場面では死はその相貌を変える
 われわれが所属する社会が(相対的な)不死性をもっていること、われわれの種が潜在的な不死性をもっていること、それはあたかもその個々の生命の間断なき生死によってひとつのより巨大な生が生き続ける様相を呈している そこへと自分は生まれ来てそして去ってゆくということは自分の死が決して単独なものではないことを意味している  
 そしてそのように死を受容するのは人間においてのみである(だから人間以外の生物は死なない ただその生を終えるのみ)


          

 たしかに私が「未来」というとき、私の存命中には限定されない。とりわけ歴史や世界を考えるとき、私がまだこの世に生を受けなかった時期から、死後に至るまでその思いは広がる。まさに私は生を受けてここに来て、やがてここから去ってゆくのだ。
 
 しかし、もうひとつ考えることがある。
 それはかつての戦争において、特攻隊を始めとし、死を賭して戦地に赴いた若者たちも、個にとっては理不尽な死を、上記のアーレントと似た回路でもって考えたのではあるまいか。
 先ごろ再読した『きけ わだつみのこえ』にも、上記ほど洗練された言葉ではないにしろ、それに似た思いが(それはまた必死で自分の死を意味づけようとする試みなのだが)、縷々綴られていた。

          

 私のように老齢による死を待つ身はともかく、未来のある若者たちが、自分に課せられた理不尽な死に、無理やり取って付けたような意味付けをしなければならない世の中にはしたくないものだ。

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