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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

「在特会」を考える  21世紀の「モッブ」?

2013-11-29 16:29:16 | 社会評論
 「在特会」、正確には「在日特権を許さない市民の会」といいます。
 この集団をとみに有名にしたのに、彼らの発するいわゆるヘイトスピーチがあります。在日に対して「出てゆけ!」「消えろ!」はまだしもましな方で、「死ね!」「殺せ!」も日常茶飯事なのは周知の通りです。
 私にいわせればそれだけでも自殺教唆や殺人教唆だと思うのですが、そうした怒号は止むことなく続いているようです。

          

 彼らの存在が、日本の伝統的右翼や街宣右翼ともまた異質であることはすでに指摘されていますが、それがどう異なるかについて考えてみたいと思います。
 既存の右翼団体のうち、彼らの尻馬に乗っかるのも一部にはあるようですが、在特、ないしはそれに近い連中のネット上でのコメントでは、こうした伝統的な右翼もまた在日によって支配されているとあります。彼らにいわせると、暴力団関係もほとんど在日の組織下なのであって、それとの関連が深い伝統右翼はやはり在日の支配下にあるということなるのでしょう。

 では、在特会がこれまでの右翼とはどこが違うのかというと、在日への執拗なあげつらいはあるものの、そしてその排除や抹殺を叫ぶものの、意外とポジティブな主張が少ないということです。
 例えば、伝統的右翼には「大和魂」や「日本精神」、ないしは「勤皇」といった立場にたっての左翼批判などが通例なのですが、在特会にはそれらが希薄なのです。それどころか右翼一般の通念である「愛国心」もあまり登場しません。

           

 在特会の綱領と行動方針を併せもったような「7つの約束」というのがありますが、それらを見ても在日への対応が書かれているのみでポジティヴな点でみるべきものはほとんどありません。
 にもかかわらず、それなりのインパクトをもち、これまでの右翼の街宣などとは異なるスタイルの行動に、若い女性や乳母車を押した母親が参加するというのはどうしたことなのでしょう。

 私はここで、先般の日記で触れたハンナ・アーレントの分析になる「反ユダヤ主義」の歴史的変遷を思い起こします。
 彼女は、ヨーロッパにおいての反ユダヤ主義が宗教的なものから始まり、民族的差別、政治的差別、ないしは文化的差別などに至る過程を巡るのですが、前世紀の前半、第一次世界大戦終了後までの過程では、それらの反ユダヤ主義のありようは差別の段階に留まり、のちのナチスによる殲滅=民俗浄化のようにその存在自体を抹殺するものではなかったといいます(そういえば、先にみた伝統的右翼でも、在日への差別はありましたが、「死ね」とか「殺せ」はなかったと思います)。

          
          映画の方ではなくハンナ・アーレント自身の肖像

 にもかかわらず、それが人種的差別となり、ついにはユダヤ人抹殺にまで至る過程として、アーレントは19世紀末から20世紀の初頭にかけて生み出された「モッブ」といわれる層に注目します。この層は資本主義の余剰の中で生み出された部分で、「あらゆる社会階級からこぼれ落ち、自分たちがどの位置にいるのか決してわからない落伍者の集団」(経済的にではなく、心理的精神的にです)として位置づけられます。
 彼らは、自分たちを代表してくれるものを社会や議会の中に見い出せないことにいらだちを覚え、怨恨や猜疑心を培養してゆくのですが、「政治的生活の現実的な力は内幕で働く秘密の影響力の運動のうちにある」という陰謀論的な視点から自分たちのこの焦燥の対象を特定の部所に見出し、それへの憎悪をもって自分たちのアリバイ(存在理由)を見出してゆきます。
 そうした彼らにとって選び出された対象、悪の根源こそユダヤ人、ないしはユダヤ民族であったわけです。

 在特会に関していえば、彼らは表層にある「顕在化した」現実の在日にその牙を剥くのみならず、「潜在的な」在日探しを執拗に行い、その「成果」をネットに公表しています。それによれば、彼らに不都合な言説の主はすべて在日なのです。与党野党を問わない政治家たち、学者、文化人、芸能人(その中にはどう見ても在日でない人も含まれます)などなどが地下で同盟を結び、日本をあらぬ方角へと誘導しているという対象の確定がその作業のようです。
 かくして彼らの陰謀論=在日の日本支配の構造は完成するのです。

 それが、20世紀初頭でのヨーロッパにおいてはユダヤ人であり、「ユダヤ人に死を!」というモッブの叫びだったのはすでに述べたとおりです。
 こうしたモッブを特徴づけるのは、その反倫理性であり、直情径行型といえます。したがって、一度信じ込むともはや手がつけられない様相となります。ようするにモッブは、ある種の「閉塞感」が生み出した産物なのですが、かれらの「ユダヤヘイト」は、第一次大戦敗戦のなかで経済的、社会的、かつ精神的な負荷を一心に背負わされていたドイツ人のコンプレックスを解き放つものとしてナチスに引き継がれ、ひいてはその組織的なユダヤ人の迫害や排除、そしてついには殲滅へと組織されてゆきます。
 モッブはそれへの先駆的役割を果たしたのですが、しかし、ナチスの政権獲得後は、彼らも「おじゃま虫」として駆逐されたようです。

          

 アーレントは、ナチスによる殲滅作戦をそれまでの反ユダヤ主義と区別して、「全体主義的反ユダヤ主義」と名づけます。すなわち、「誰が生存し、誰が死ぬべきか」を仕分けする権力のもとへと反ユダヤ主義が引き渡された瞬間です。
 
 もちろん、この事例をもって、在特会をモッブだと断定したり、それが在日殲滅に即繋がるというわけではないでしょうが、にもかかわらず、安倍政権にかいまみられる直情的なアナクロニズムには、そうした在特会的なモッブを利用し、それと呼応しようとするむきがあることは否定できません。以下は、ある在特会シンパによるネット上でのコメントです。
 
 「先日、在特会や片山さつき議員をはじめ、心ある人達のおかげで、朝鮮人に侵され反日洗脳に狂った兵庫県立大付属高校の韓国修学旅行(反日教育のための研修 旅行)が中止になり、日本中で心配されていた、韓国での集団食中毒や集団レイプ・暴行・詐欺・強制土下座(パワーハラスメント)の恐怖から、生徒が助けられました。日本を朝鮮人の悪意から守り、日本を取り戻すために、在特会は無くてはならない団体です。」

 ここに出てくる片山さつき氏が安倍内閣の総務大臣政務官で、現在進行中の生活保護の削減や福祉関係などセーフティネット全般の後退に辣腕を発揮しているのは周知の事実です。それに、上の引用での「日本を取り戻す」はまさに安倍氏の先の選挙でのキャッチコピーでした。

             
 
 在特会は様々な意味において異色の存在です。とりわけ、戦後社会の中でいつも存在し続けた赤尾敏総裁の愛国党などを始めとする右翼団体とはそのありようを異にします。それは、不特定な閉塞感を嫌中や嫌韓に紛らすネウヨ的部分と連携しながら「日本的なモッブ」を組織する可能性をはらむものであり、政権内部にもある足がかりをもつ可能性が皆無ではないことを指摘しておきたいと思います。


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ハンナ・アーレントと「高度な客観性」、そして思考すること

2013-11-26 15:49:18 | 映画評論
 映画『ハンナ・アーレント』(監督・脚本:マルガレーテ・フォン・トロッタ)を観ました。
 予告編などで想像したとおり、ユダヤ人虐殺に深く関わったナチスの高官・アイヒマンの裁判を傍聴しその記事を書いた彼女の『イェルサレムのアイヒマン』(最初は雑誌『ザ・ニューヨーカー』に、後にはその記事への非難に対する反論を「あとがき」として加えた単行本)を巡って起きた諸状況を通じて彼女の思想や行動を描き出すものでした。

 実は4年ほど前、今は8号を数える同人誌の創刊号に、私は同じシチュエーションを巡って、以下の様なタイトルで小論を書いたことがあります。
  
   「高度な客観性」とハンナ・アーレント
       『イェルサレムルサレムのアイヒマン』をめぐって

 この書き出しで私は、以下のように記しました。
 「ちょうど六〇年安保の攻防戦がピークに達しようとしている頃、地球の反対側、アルゼンチンではちょっとした事件が起こっていました。ヴェノスアイレスの近郊で、仕事帰りの一人の男がバスを降りて家路に向かっていたところ、待ち伏せしていた三人の男に取り囲まれ車に引きずり込まれ、そのまま拉致されてしまったのです。」

             

 この映画もまた、全く同様に、このシーン、アドルフ・アイヒマンがイスラエル当局の組織によって拉致される場面から始まっています。あまりの符号におののきに近いものを感じながら画面を観ていました。
 しかしもちろん、すべてが同じではありません。私の小論は、『イェルサレムのアイヒマン』という彼女の著作に即して、その言わんとするところを解明しようとしていたのに対し、映画は、その著が公にされることによって生じた事態(それは彼女に対する轟々たる非難を含むものですが)とそれに対する彼女自身の非妥協的な対応を描くことの中でアーレントの思想そのものを浮き彫りにしてゆきます。
 その集大成がラスト近くの大学の階段教室での力説のシーンですが、その彼女の演説は英語に暗い私にもドイツなまりの強いものであることが分かるもので、アーレントを演じたバルバラ・スコヴァの緊迫感溢れる演技が身にしみました。

          

 ところで、なぜアーレントの記事がそれほどまでの非難を巻き起こしたのかというのは、私も小論のタイトルに借用した、その「高度な客観性」にあるといえます。この言葉は、決して彼女を賞賛したものではなく、逆に彼女の著述がユダヤ人(とりわけ、その指導層やシオニストたち)にとって辛く、ナチであるアイヒマンに対して甘いのではないかという非難、ないしは揶揄を含んだものでした。

 しかし、私はあえてこの「高度な客観性」こそがアーレントがこのアイヒマン裁判を緻密に検証した結果として到達した彼女の境地であると評価したのです。
 ユダヤ支配層(主としてシオニスト=現実のイスラエルを立ち上げ、今も支配している層)や世間の常識が好んだ図式は、「ユダヤ人=無辜の被害者 vs ナチス=悪逆非道の鬼畜」というスタティックなものでした。
 
 しかし、この裁判が明らかにしたのは、ユダヤ人指導層がナチに協力していたという事実、そしてアイヒマンが何らの反ユダヤ主義者でもなく(彼はシオニズムを学んだある意味でのユダヤの理解者)、人や鬼畜でもなく、ただ単に、命令を粛々として実行した有能な官吏でしかなかったことなどです。
 だから彼は無罪を訴えます。「私は当時のドイツの法体系に従って命令を粛々と実行したまでで、ユダヤ人に対する憎しみなどは少しももってはいませんでした」と。

             

 ようするに、「ユダヤ人=無辜の被害者 vs ナチス=悪逆非道の鬼畜」では事態そのものが解明できないのです。なぜ「絶対に起こってはならない事態=人類に対する犯罪」が起こってしまったのかの説明がつかないばかりか、その再発に備える道も見いだせないからです。だからこそ、この図式を脱構築する必要があったのです。
 
 被害者の側にあった現実との妥協の数々、加害者の側にあったその事態そのものへの無頓着な加担、それらはようするに、立ち止まって思考することの欠落を示しています。そして、これこそが巨悪を支えていたのです。
 したがって、アーレントがこうした事態への対案として提起するのはただひとつです。
 「思考せよ」、ようするに「考えろ」ということです。
 思考とは他者との対話によって促されるものであると同時に、自己自身との対話によっても可能となるものです。「私がなそうとしているのは何なのか。これはほかならぬ私自身にとって恥ずべきものではないのか」と問うことです。

 映画は、それを語ったアーレントが、それをろくすっぽ読んでもいない周辺から理解されないまま、「ユダヤへの裏切り者、ナチスのシンパ」といったレッテルを貼られてゆくさまを伝えます。そして、それらに屈することなく、自分の主張を貫き通すアーレントの姿をも。

 それから半世紀を経た現在、私たちの手元には、あのホロコーストを実現した事態への最もラディカルな分析とその記述として、アーレントの『イェルサレムルサレムのアイヒマン』が残されているのです。


               
         1940年 ベルリンの日本大使館 三国同盟の旗が誇示されている

【重要な補足】この映画とは直接関係はありませんが、私たちがナチスの暴虐、とりわけ600万人に及ぶユダヤ人虐殺という事実に接する際、ともすれば遠い昔の遠い国で起こった、したがって私たちとはほとんど無関係な事実として受容されることが多いと思います。『アンネの日記』をはじめ、それらの書物や、映画などを観ても、「ユダヤ人、かわいそう」、「ナチスってなんて残虐なの」ぐらいで済んでしまうことが多いのです。
 しかし、これらユダヤの悲劇やナチスの暴虐は、私たち日本人と無関係ではないどころか深いつながりがあるのです。

 歴史を紐解けば誰にでも分かる事実ですが、ナチスが残虐の限りを尽くしていたとき、私たちは彼らと同盟を結んでいたのです。それ以前からのさまざまな経緯がありましたが、日独伊の三国が正式に同盟を結んだのは1940年です。そしてそれに呼応して1941年12月8日には、日本は真珠湾攻撃をもって大戦に参加します。
 これはドイツにとってはまたとないメリットをもたらすものでした。
 これまで一身に引き受けていた連合国側との応戦を、日本の参戦によって分断することができたからです。

 はたせるかな、ナチスドイツが、それまでのユダヤ人への迫害からその殲滅へとより決定的で残虐な一歩を進めたのは、日本参戦後の1942年からでした。
 日本の同盟への参画と太平洋での参戦は、かくして、ナチスドイツの延命と、それに比例したユダヤ人の虐殺を可能にする条件として働いたのでした。
 したがって、私たち日本人は、「ユダヤ人、かわいそう」、「ナチスってなんて残虐なの」と傍観者の立場に立つことは許されないのです。私たちはいわば「当事者性」を分かちもつのです。
 日本でのホロコーストの叙述などにも、この視点はほとんど見られません。
 繰り返しますが、私たちはそのナチと同盟を結んでいたのです

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川合玉堂展を見る なぜか惹かれるんです

2013-11-23 02:24:29 | アート
 先月、ルドン展を見た岐阜県美術館へ、今度は川合玉堂を見に行った。
 川合玉堂は好きな画家である。
 端正で明解な線を多用しながらも、どこかに暖かみがある。
 村落や里山、そして深山などを描きながらも、点描としての人や荷馬、そして牛などが配されていて、それらを見つけるとなんだかホッとする。

       

 彼がよく描く里山の風景は、私が子供の頃疎開していた田舎の風景とさほど変わらないのもどこか懐かしい。
 私が暮らしていたところは村落のはずれで、少し行くと「玉池」という灌漑用水用のかなり大きな池があった。これはたぶん「溜池」が訛ったものか、あるいはそのものズバリでは味も素っ気もないと玉池にしたのだろうと睨んでいる。事実、当時の老人たちの中には溜池という人もいた。

 そこをさらに西に進むと南側は養老山脈から三重県にまで広がる穀倉地帯だが、北側は緩やかな斜面を登るように昼飯大塚古墳(東海地区最大級の前方後円墳 もっとも子供の頃はそんなことを知る由もなかった)を経て山地へと連なる。ようするに、濃尾平野の突き当りである。
 その一帯は、雑木があり、また鬱蒼と茂る箇所があり、私たち子どもも、そして大人も、ただ「林」と呼んでいた(この辺は大江健三郎の「万延元年の・・・・」ぽいな)。

    

 その辺りにはいろいろ思い出があるが、そこにこだわるとどんどん逸れていきそうだ。ただ、大人たちからは、「あんまり奥へ入ると帰ってこれなくなるぞ」などといわれていたし、敗戦直後、米軍がやってきたらあの林へ逃げ込もうという話もあったことは記しておこう。

 回りくどくなったが、そのへんの里山の風景と玉堂の絵とが私の中ではどこかで繋がってしまうのだ。そこは憩いの場所であり、同時に臨界のような場でもあった。
 玉堂が描くあの端正で静謐な自然の中にも、これ以上は行ってはならないという禁忌のようなものが含まれているのだろうか。

        

 この美術展は、「川合玉堂と彼を支えた人びと 素顔の玉堂」と題している。
 これは、例えば彼の師匠筋である橋本雅邦などをも指すが、むしろ、隣の木曽川に生を受けた彼が、成人するまで育った岐阜の街での交流や交友を指していて、その記録を示す直筆の手紙などが展示されている。
 それが実に達筆で、それ自身、書として鑑賞できるのだ。

 そうした背景から、東京の青梅に住みながらも岐阜との交流は絶えなかったようで、手紙のやり取りはむろん、たびたび岐阜を訪れていて、鵜飼などを題材とした作品も多い。
 そんな縁もあってか、前回のルドン展同様、岐阜県美術館やこの周辺の美術館の所蔵がとても多く、「彼を支えた」というタイトルに秘めたこの美術館のプライドのようなものが見てとれる。

     

 それはともかく、好きな玉堂が堪能できていい時間をもつことができた。
 見終えて外へ出ると、天気予報に反して氷雨模様であったが、なんとなくほっこりとした気分を抱いていたせいか、さほどの寒さを感じなかった。





 

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一つの世代の終わり 叔父の葬儀に際して

2013-11-20 16:10:01 | よしなしごと
 叔父が亡くなって葬儀に出た。
 母の兄弟姉妹の末っ子であった。
 その兄弟姉妹というのは成人しただけで10人で、母はその真中ぐらいだったが4年前に亡くなっている。
 そして、今回の叔父の死去で10人のすべてが世を去ったことになる。

 ちなみに、亡くなった叔父は87歳で、私より一回り上である。というか踵を接して私たち次の世代が続いていることになる。

           
                    叔父への献花

 叔父や母の世代に戻ろう。
 この10人は、敗戦時、上は40歳代から下は10代の後半であった。
 にもかかわらず、あの激しかった戦争で、戦死したものはいない。
 それどころか兵隊にとられたものもいない。
 これは当時としては珍しいことというべきである。

 しかし、種明かしをすれば簡単で、この10人の兄弟姉妹の内訳は、上の二人と今回亡くなった末っ子が男で、その間の7人はすべて女性だったのだ。
 つまり、上の二人はすでに兵士になるには歳をとり過ぎていたし、末っ子はまだ兵役年齢に達していなかったというわけだ。

 しかし、それぞれが戦争と無縁であったわけではない。空襲で逃げまわったり、食料の確保に汲々としたりで、それぞれの場所でそれぞれが辛酸を舐めてきた。
 伯母のひとりは、田舎へ買い出しに行く途中、米軍の艦載機による機銃掃射に狙われて、わずか一尺(30cmほど)のところで弾が土煙を上げたという話を、いつも引きつったような顔で話していた。

 これらの世代10人を送り出した。
 私にとってはひとつの世代、まさに私の上の世代が終わったという感が今更ながらにある。
 では、次は私たちの世代かというとそうでもない。私たちはもう、限りなく前の世代に近いとことに押しやられて、その次の世代が世の中の中枢を占めている。
 私たちの世代は何をしてきたのだろう。
 というより、私は何をしてきたのだろう。

 私の葬儀のとき、人びとは私の世代を、ないしは私自身を、どのような表象でもって思い描くのだろう。
 そんなことを考えながら読経を聞いているのであった。

           
 葬儀場の近くにある美濃赤坂の金生山。子どもの頃、この近くに疎開していたため毎日見ていたが、その頃はもっとこんもり盛り上がった山であった。全山石灰岩で大理石もとれるとあって、採掘が進んだ結果こんな姿になった。

 ついでながら、真宗では、こうした葬儀の際、蓮如が書いたという「白骨の御文」というものを読み上げる。
 この御文はけっこう美文調でこれでもかこれでもかと人の世のはかなさを説き立てる。
 「されば、朝(あした)には紅顔ありて、夕べには白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉じ・・・・」
 と、いった具合である。
 
 こうした無常の教えが八割方、延々と続き結語へと至る。
 「されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すものなり。あなかしこ、あなかしこ。」
 しかし、この世のことは無常だという前半と、だから後生を願えという後半とでは飛躍がありはしないか。いくら真宗が他力本願であるとはいえ、これでは人間が生きるということ自体がなにか虚しいものになってしまう。
 グノーシスではないが、人間が生まれること自体がある種の堕落であることにもなりかねない。

 親鸞を参照して論証する暇もないが、彼のいう往相・還相という実践的コミュニケーションの例などを見るに、人間の生にもう少し能動的な契機を見ていたように思う。
 そしてそれは、アーレントのいう、
 「人間は必ず死ぬ。しかし、死ぬために生まれてきたのではない」
 と、矛盾するものではあるまいと思うのだが、このへんまで来るといささか牽強付会というべきであろうか。

 話が逸れたが、叔父を最後に去っていった父母の世代、そして、それに続くべきはずだった私たちの世代がなんであったのか、やはりそれを考えるべき節目のように思う。


 《追記》定年まで、ある電鉄会社に勤めていた叔父の法名は、「◯鉄院釈光徳」。
     なんとわかりやすいことか!
     ただし、◯の部分は電鉄会社そのままではなく同じ読みの別の字が当てられている。

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これだけ出揃うとやはり「狼は来る!」

2013-11-18 11:53:19 | 社会評論
 【若い人たちへ】いささか長文ですがこれは読んで下さい。

 私のようにものごころついた頃は戦争で、疎開をしたり空襲で命からがら逃げ惑ったりした老人は、往時の経験がこびりついています。
 敗戦時、国民学校一年生だった私は、校舎を焼かれ、お寺の本堂が学校で、教科書に墨を塗ったこともあります。もうこれで、空襲警報がないと知った時、はじめて恐怖感なしに青空を見上げることが出来たものでした。

            

 ですから戦後になって、むかしへ逆戻りするような法案や制度には一貫して反対してきました。あの、周辺でバタバタ人が死んでいった戦時への逆戻りはもうコリゴリだからです。
 そんな私のような者に対して、今は、政治、経済、軍事、外交など往時とはまったく条件が異なるのだから、戦争への懸念など杞憂にすぎない、ようするに「戦争が、戦争が」といいつのるのは、「狼が来た」の類だといわれてきました。

 たしかに、世界各地でさまざまな戦争が勃発するなか、日本はそれへの「直接の」関与をかろうじて免れてきました。その意味では「狼は来なかった」のかもしれません。
 しかし、ここに至って事態は一挙にきな臭くなってきました。
 またかといわれるかもしれませんが、あの悲惨な戦前への回帰が加速しているように思えるのです。

              

 そのひとつが、現在問題になっている「秘密保護法案」です。
 公明党あたりが「知る権利」という文言を織り込むようにしたといっていますが、法案を見る限る「その他」という箇所が三十数箇所もあり、時の為政者によりどのようにも運用される余地があるのです。
 これらはもちろん戦前にもありました。
 改正軍機保護法(1937年)や軍用資源秘密保護法(1939年)、国防保安法(1941年)などがそれで、それらの拡大解釈はほとんどすべての情報を覆い尽くしていました。

 私の父がくれた戦地からの軍事郵便には、何箇所か墨塗りの箇所があったのですが、地名、時刻、それに天候を知らせるものは全てアウトでした。ことほど左様に各所轄が管理する「秘密条項」は必ず拡大解釈され、私たちの得る情報は大幅に制限されるのです。

          
            私もまた、このように戦争ごっこをした!
 
 
 ついで問題は、昨今叫ばれている道徳教育の必須化とその徹底です。
 私の頃は、それは「修身」でした。「教育勅語」をバックボーンとした少国民の育成は「死して国家=天皇陛下」のために身を捧げよでした。それがどれほどの洗脳力をもつかは、わずか6歳の幼い私が、大きくなったら軍人になり天皇のためにこの身を捧げるのだと思い込んでいたことでもわかります。

 ついで、最近の新聞によれば、教科書の検定を強化し、歴史認識の一元化など実質上の国定教科書化への動きが現実の課題になりつつあります。
 戦前の教科書には、日本は万世一系の神の国であり、危機になれば「神風」が吹くと書いてありました。ようするに「神州不滅」という根拠のない新興宗教に皆が陶酔し、為政者のリードするまま、あの無謀な戦争に突入していったのでした。
 過ぐる戦争の末期、片道の燃料のみを積んで、戦艦に体当たりを試みた特攻隊は「神風」というカルト的な命名がされていたのです。そのほとんどは虚しく撃墜され、そうした無謀な人間爆弾の死者は6,000人に及びます。

              

 秘密保護法、道徳教育の必須化、検定強化による国定教科書化の3点セットはまさに戦前回帰を思わせるに十分なのです。
 国民に国の実態を知らせることなく、国のために死ぬよう洗脳し、それらに反する人たちを徹底して弾圧し排除したあの戦前が彷彿とするのです。

 この国には、第一次大戦後の景気を背景に、「大正デモクラシー」という表面上は比較的開けた時代がありました。その後、昭和初期にはモガ・モボ(モダン・ガール&ボーイ)と言われた人たちが最新のファッションをまとい帝都を闊歩しました。
 しかし、その背後で上記のような法案や教育制度を駆使しながら、戦時体制が着々と進行しつつあったのです。

 当初は、宣戦布告なしの「事変」と呼ばれた実質上の戦争状態から、この国はズルズルと敗戦までの15年間を戦争に明け暮れるのですが、その折、ほんの一握りの人を除いてはもはや戦争に反対するひとはいませんでした。
 その一握りのひとは、非国民とされ、後述する「治安維持法」などで検挙され、拷問の末に転向したり、それに屈しない場合は殺されたり、獄舎に繋がれたりしました。
 そして、国内で戦争に批判的な勢力はもはや皆無という状況のなか、行くところまでいった結果が、日本人300万人、近隣諸国2,000万人という死者の山だったのです。

            
             軍民問わず多くの犠牲者を出した沖縄での地上戦

 「なんであんな戦争を」と今いうのは簡単なことです。
 「私たちだったらそんな状況になったら反対するから戦争なんか起こりっこない」と思っている人も多いでしょう。
 しかし、当時、大多数の人たちは戦争に浮かれ、ひとつひとつの戦勝に、まるでスポーツの大会で優勝したかのように提灯行列までして歓呼の声をあげていたのです。

 なぜでしょうか。
 戦前の人たちがとくに好戦的であったわけではありません。
 しかし、戦争が必然であるかのように刷り込まれてしまっていたのです。
 また彼らがとくに情報に疎かったわけではありません。
 情報源が少ないなか、彼らは今の私たちより必死で新聞を読み、ラジオを聴きました。
 しかしそこでは本当のことは何一つ伝えられなかったのです。
 ボロボロに負けていても大本営は勝利を謳歌していました。
 疑うことも許されませんでした。
 「こんなに空襲があるというのは日本が負けているからではないか」と呟いただけで特高警察に連行され、半殺しの目にあって「背後関係」の自白を強要されたりしました。

             
                   沖縄で収集された遺骨たち

 そうした事態に陥ったのは、先にみた軍機保護法や国防保全法などにより、軍事はもちろん、政治、経済、外交や国際情勢や国際世論などが全く国民の耳目には達していなかったからです。
 更には徹底した軍国教育、忠実な兵士育成のための教育が教育勅語や修身による洗脳によって思想的、イデオロギー的に完膚なきまでに叩きこまれていたからです。

 ですから、今回の秘密保護法、道徳教育の徹底化、教科書の国定化への動きを前にして、やはり「狼が来た」といわざるをえないのです。
 戦前への回帰はあとほんの僅かで完成するのです。
 ひとつは治安維持法とそれに基づく特別高等警察(特高)による思想信条の徹底した管理と取り締まり、それにもう一つは九条を放棄し、戦争条項を盛り込んだ憲法の制定です。

            
                   軍人や兵士たちの墓標

 それでもなお、こうした言い分は「狼が来た」だといわれるかもしれません。
 しかし、先の原発事故を考えてみて下さい。
 あれだって、実際に起こるまではまさかということで「安全神話」は暗黙のうちに了承されていたのです。評論家の加藤典洋氏は率直に、自分もまた安全神話を信用していたことを認め、自分の新たな立脚点を求めると述べています(『ふたつの講演』岩波書店)。

 情報は本来、国民全体のものです。
 それらの一部を行政上の都合で公にできないこともあるでしょう。
 しかしそれは必要最低限に絞り、一定期間が経過した後は公開するのが原則なのです。
 今回のように「その他」を連発し、秘密事項を恣意的に増やすような法案は主権在民や民主主義に真っ向から挑戦するものです。

 最後にもう一度いわせて下さい。
 「狼は来ているのです!」

 
 


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映画のハシゴ はずさないで下さいね。

2013-11-16 03:30:48 | 映画評論
 久々に映画のハシゴをした。
 そのつもりで行ったわけではない。
 計らずもそうなってしまったのだ。
 最近の映画館の上映時間などは煩雑でわかりにくい。
 名古屋へ出た某日、前からマークしていた映画を観るべく、それまで話していた人たちと袖を分かって息せき切って映画館へと駆けつけた。

 で、館内の表示を見たら、15:00からと思ってマークしていた映画は、この日は17:35だというのだ。その間2時間30分、不器用な私はその空隙を埋める方法を知らない。
 もう一度館内の表示を見たら、同じスクリーンで私がマークしていなかったまったく別の映画が上映されるとある。それが終わったら私のお目当てになるわけだ。
 結局、両方観ることにした。ようするにハシゴになってしまったのだ。

 ここでこのふたつの映画を詳しくは述べない。概略に止めよう。

         
 
 先ずは時間つぶしのつもりで観た映画、これが拾い物だったのだ。
 タイトルは『四十九日のレシピ』。
 シリアスな面と、マンガチックな面とを併せもった映画である。
 愛妻に先立たれた石橋蓮司、夫が浮気をし外に子どもを作ってしまったために離婚を決意して帰ってくるその娘(永作博美)、そこには明るい要素はない。
 しかし、そこへ現れるキャピキャピ娘の二階堂ふみや日系ブラジル人三世の岡田将生によって事態は思いがけない方へ進んでゆく。
 淡路恵子が扮する石橋の姉がラストで大変身をしてものすごいことになる。
 結局事態は収まるところへ収まるのだが、実はその筋書きを予め用意したのは、亡くなった石橋の愛妻・乙美だったという次第。
 荒唐無稽ともいえる状況が映画全体を支えているのだが、それは同時に、観客を楽しませてくれる要素でもある。

 さて、本命は『もうひとりの息子』。
 これは、新生児が手違いで入れ替わってしまう物語である。
 その意味では、私がこのブログで先月書いた『そして父になる』(監督:是枝裕和)とシチュエーションは似ている。

   http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20131005

       

 しかし、是枝作品は家族や血統を考えさせられる映画だったが、『もうひとりの息子』にはまさに「もうひとつの」要素がある。
 それは、取り替えられた子どもが、かたやイスラエルの軍人の息子、かたや、イスラエルの占領地・ヨルダン川西岸地区で自動車修理業を営む家の息子と、この両者は、イスラエルが築いた高い塀と厳しい検問によって隔てられているからだ。

 兵役や進学の中で、二人の若者はそれぞれ実子ではないことが明らかになる。それどころか、一朝ことあれば互いに殺しあわねばならない関係ですらある。
 そうしたなかで彼らの交流がさまざまなエピソードを伴って始まる。
 相互の風俗習慣も異なり違和感もある。
 そうした状況に馴染めない家族もいる。当たり前だろう。
 
 結論はいうまい。
 ただし、これらの地で生まれ育った若者たちが、現在もなお、一触即発の中で日々を送っていることは肝に銘じるべきである。
 そしてそれらは、決してそれら若者たちの責任ではない。

 身近なところから世界史的な分野にわたって、いろいろ考えさせられた。
 映画のハシゴもたまには悪くはない。

 
 
 


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「ひとりでいるときはよ~」 閑居と不善に関する考察

2013-11-13 17:49:49 | よしなしごと
   写真は本文と関係ありません。「黄昏る街」

 
 けっこう自己顕示欲が旺盛で誰にも相手にされないと寂しいくせに、それとは矛盾するようだが、ひとりでいるときが好きだ。
 単純に、自分が自分の王様でいられるからだろう。

 ひとりでいるときは、かなり際どいことを考えたり夢想したり、実際に、実にくだらないことをしていたりもする。
 それらのうちには、決してひとにはいえないことであったり、発覚すれば人格を疑われ、破綻者扱いもされかねないこともあったりする。
 しかし、ひとりでいる限り露見する恐れはない。
 私が何をし、何を考えているかは誰も知らない。

            

 いわば、深山で木の葉が一枚ハラホラと落ちるのをだれも知らないようなものだ。
 ただしこれも「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」という、いわゆるバタフライ効果というものがあるそうだから、無碍になかったことにするわけにはゆかないのかもしれない。

 ひとりの折の私の行為に戻ろう。
 それがなんの痕跡も残さないことには一抹の寂しさもあるのだが、ひとの言動や行為が何らかの意味を獲得するのは他者を前提としてであることを考えれば当然なのかもしれない。

            

 誰にも知られないでする悪事についてはどうだろう。
 迷宮入りの殺人事件でもいいし、そんな大したものではなくとも、まさにひとりでいるときにする小悪事などについてである。私も、後者の小悪事やインチキぐらいはすることがあるが、その場合、やはり多少は引っかかるものがある。ひとによってはそれを良心などというかもしれない。
 それはつらつら考えてみるに、幼少時から亡父にいわれていた、見つからないといって悪いことをしてはいけないという教えによるのかもしれない。高等小学校卒の父は、倫理だの道徳だのと七面倒臭いことはいわなかったが、諺や箴言をよく知っていてそれで私を諭すのであった。

 上の事例に関して父がよくいっていたのは「天知る地知るわれも知る」であった。「だ~れも知らぬと思っていても、どこかでどこかでエンゼルが~」というのは森永のコマーシャルソングだが、それと同様、だれも知らないと思っていても知るものがいるぞよというわけである。
 この場合のミソは、「われも知る」であろう。天や地は解釈次第によってはないことにしてしまうことができるし、あって、それに知られたところでそれがどうしたで済ますことができるかもしれない。
 しかし、「われ」の中に残る痕跡は容易に消すことができない。

           

 これはいってみれば、「われ」はつねにすでに「孤立したわれ」ではないからだと思われる。
 上に述べた「ひとの言動や行為が何らかの意味を獲得するのは他者を前提としてである」のと並行した事柄であるが、「われ」というもの自身が他者や他者のうちにある自分を内面化したものにすぎないからだと思う。
 ようするに、白紙の「われ」などというものはありえないのだと思う。

 カントの有名な定言命法に、「汝の意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ」というのがある。平たくいえば、自分の行為が普遍的な立場に照らして常に通用するものとして振る舞えということだが、この場合の「普遍」というのは他者たちからなる世界そのものであろう。

 ようするに、私の父もかのカント先生と同じことを私に諭していたわけで、私のなかの道徳律は父によってもたらされたものかもしれない。
 とはいえ、それに決して忠実なのではない。どちらかといえば、もうひとつ父が残してくれた箴言、「小人閑居をして不善をなす」の方を日々実践している始末なのだが・・・。




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当世「一攫千金術」に関しての考察 あなたならどうする?

2013-11-11 13:59:57 | 社会評論
 昨日のことです。
 村上(春樹ではありません)と名乗る男から5回にわたって以下の様なメールが送られてきました。

         

    =================================

 私は現在 台湾の現地 法人の代表を務めておりま す。
震災時にも台湾におりましたのでニュースでしか現状を知れず、数か月経過した頃にようやく帰国を致しました※その際に、とても悲しい 思いも致しました 
 何か役に立てればという思いから売 上の一部を震災義援金としてご送金させて頂いておりました。
ですが今回、日本 でいう損金算入限度超過となり総額5800万円程の余剰 金となり上海の銀行を経由して送金していた物が全て停・止となってしまった次第 で御座います。
 こちらも既に処理してしまった手前、 戻して しまいますと外貨収入と なり高額な税金等が掛かってしまいます。
 その為 社内にて協議した結果、rokum*****様 へご送金するのが一番得策という結論に至りました,
一括での送金が日本国内の銀行法上、ちょ っと手間がかか りま す為、分割してご送金させて頂きたいと思っております。
 送金内容は以下の通 りで御座います
 ≪総額送金:5800万円≫  初回送金:800万円  残高 送金:5000万円
-----------------------
※ 残高送金5000万円に関し まして初回 送金後10日以内に5回に分けて送金を致します※
色々とご心配な事があるかと思います。
ですが それは全て無いものとお考え下 さい。
 返金やトラブル等が発生するという事は 一切無い ということをお約束致します。
そして , 必ずお手元の口座に送金されると いう事を お約束させて頂きます.
良いお返事をお待ちしています = (原文のママ)


    =================================

            

 まことにありがたい話ですが、いくぶん欲ボケをしてる私でも、世の中にこんなうまい話がころがっているはずはないことぐらいは分かります。
 振り込みと称して銀行の口座番号を聞き出そうとする稚拙な詐欺なのでしょう。
 「何を馬鹿いってるんだか」と笑ってやり過ごすのですが、それが一日に少しづつ文面を変えて5度も送られてくると、私がそれに引っかかりそうな薄ら馬鹿だとマークされているようで多少腹が立ってきます。
 
 なお、これとほぼ同文のものがしばらく前に(その際は野崎とか寺崎と名乗っていました)送られてきているのですが(その際は一日2回)、その場合の金額は4,300万でした。
 それから1,500万も増えているのですから、そのうちに一億ぐらいになりそうですね。

                  
 なぜ、こんなものが横行するのでしょうか。
 一方では懸命に働いても年収が200万にも届かない現実がある一方、額に汗して働くことなく一攫千金をと期待する向きがあるようです。いや、このふたつの現象は連動しているのかもしれません。額に汗しても食えないようだったらいっその事・・・とつい思ってしまうのでしょうか。

 先般も、ネットの闇サイトで知り合った三人組が、初顔合わせのその日に女子中学生(JCというのだそうですね。女子高校生はJK)を誘拐するという事件がありましたが、これもまたずさんで稚拙な犯罪でした。
 主犯は家族持ちで借金を背負った男でしたが、応募したのは沖縄から首都圏に働きに出てきたのですが、いい職にありつけなかった若者のようです。
 やはり、一攫千金のための安易さがあるように思います。

 最近、ネットにはそうした一攫千金の話があふれていますね。
 つい最近も、自称ニートだった若者が大阪の西成に流れ付き、そこで出会ったヤクザのおっさんとの交流を深める間に働くことの意義を見出し自立してゆく物語に接したのですが、そこで彼が見い出した仕事とはパソコン一台で世界を闊歩しながら月収ン千万円を得るに至ったということで、その秘訣を教えるから本を買えとかアクセスしろとかいう話になってゆくわけです。

 この前半の話は結構面白くて「イイネ」をつけている人が結構いたのですが、後半まで読むと、何だ、やっぱり「釣り」だったのだということがわかります。
 これもまた、安易に稼ぐという趨勢に乗ったものでしょう。

            

 私のような古い人間にとっては、働くということは額に汗する事で(汗は比喩で、必ずしも肉体労働のみを指すものではりません)、できればその仕事に意義なり誇りなどもちたいと思うのですが、今はそれがままならぬのでしょう。であれば、途中の労働という過程はどうでもよくて、なにはともあれ金を得ることということになりますね。

 私はあるところで「一般的等価性」ということで貨幣のことを論じ、それが世界の主要動機になっている後期産業資本について書いとことがるのですが、そこでは、「お前は誰か」ではなくて「お前は何をどれだけ持っているか」という「所有の問題」にすべてが換算されるわけです。
 ですから、何をどんな方法ででもいいのです。とにかく「所有をする側」にのし上がることさえできれば。

 最初に引用したメールも、稚拙とはいえそうした風潮を踏まえての詐欺行為であることは改めていうまでもありません。だからこそ、それに引っかかることが皆無とはいえないのです。

 さて、その5,800万円ですが、どうしましょう。
 もし、あなたに応募する気があるようでしたら、「村上」とかいうひとへの返信用のアドレスを教えますよ。
 ただし、その結果については、もちろん一切の責任を負いません。

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「今日は何曜日?」 老いの免許証更新をレポートする

2013-11-09 11:31:23 | よしなしごと
 免許証の更新に行ってきました。
 2,500円かかりました。しかし、その前に、義務付けられている高齢者講習なるもので6,000円をとられていますので、かなりの出費です。
 誕生日はもう過ぎているのですが、実はこの事前の高齢者講習の申し込みを忘れていて、遅れてしまったわけです。

 この高齢者講習、その冒頭に「講習予備検査(認知機能検査)」なるものがあります。
 それは三項目に分かれていて、最初は、今年は何年、今何月、何日、何曜日、今何時何分頃、を回答するものです。現状認識の検査でしょうね。
 正直に言いますと、私、曜日が危なかったのです。十数年にわたって曜日などと関わりのない生活をしているからですが、それでも、3日が日曜日だったから今日はといった具合に、なんとかたどり着くことが出来ました。

         

 問題は次第に複雑になって、次は記憶力。
 4つの絵を書いたカード4枚、計、16の絵をを見せてそれを記憶しろというのです。懸命に記憶しました。さて、では次にそれらを書くのかと思いきやそうではありません。

 それらは置いといて、次の問題なのです。
 羅列された数字の表の中で、指定された4つの数字を消してゆくものです。これは判断力のテストでしょう。時間内に全てできたと思います。

         
 
 さて、それが終わったところで、「はい、それでは先ほどの16の絵を思い出して書いて下さい」というわけです。
 その間、10分程でしょうか。でも、これだけ間が開くと大変です。
 え、え、え、あれほど一生懸命記憶したのにと焦りまくりです。
 結局、所定の時間内に何とか思い出せたのは12だけでした。
 
 その次には、それらにヒントが付いた記憶の想起です。
 例えば、花とか、果物とか、虫とかいった想起するためのヒントが付いているのです。これが付けば大丈夫です。16の絵すべてを思い出すことが出来ました。

         

 これらの結果は採点の後、すぐに通知書として返してくれます。
 私の結果は92点でした。
 他は全部出来たとして、思い出せなかった4つの絵について1つにつき2点が減点されたのでしょう。

 ちょっと悔しい思いをしながら、判定欄を見ると次のような判定基準が書かれていました。
 76点以上  記憶力、判断力に心配はありません。
 49~76点 記憶力、判断力が少し低くなっています。
 49点未満  記憶力、判断力が低くなっています。
 セーフティ・ラインまでまだ16点の余裕があるとちょっと安心しました。

 その後、視力(視野・動体視力)、運転適性、コースでの運転などがあって3時間みっちりの講習が終わったわけです。

         

 それから一日おいて、講習修了証をもって免許証の更新に行きました。
 気分を変えるために、岐阜市内の講習所ではなく、大垣市の綾野というところにある西濃講習所へ行きました。距離はやや遠いのですが、時間はさほど変わりません。街中のちまちましたところで信号に遮られながら行くよりも、深秋の西美濃路を走るほうがよほど爽やかです。
 
 この更新の時間帯は老齢者専用ですから、私を始め年寄りの大集団で、若い人が見たら気持ちが悪くなるほどです。
 暇なので辺りを見回すと、腰が90度近く曲がった人もちらほら、なかには杖を突き、人に支えてもらいながらの人も、あるいは申請書の記入が自分ではできなかったり、視力検査の担当者の言うことがよくわからない人もいます。

         

 う~ん、と考えこんでしまいました。もちろん、それらの人たちを非難したり軽蔑したり、あるいは憐れんでいるわけではありません。それらは確実に、私自身のほんのすぐ後の姿なのですから。
 そして真剣に、私自身の免許証返還の時期を考えるべきだと思いました。あまり粘ると、自分の安全のためにも、そして世のため人のためにもならないと思うのです。

         

 しかし、一方、返還してしまうと簡単には行けなくなる場所が念頭に浮かびます。この日も、その帰りに寄り道をして図書館へ行ったのですが、それも車があればこそです。
 例えばこの図書館やコンサートホール、もし免許を返還したら、まず自宅から岐阜駅までバスで出て、JR東海道線で西岐阜まで行く、そこから図書館や美術館、県庁などへ行くバスに乗るといった具合で、ほとんどU字型のコースで、時間的にも数倍以上を必要とするのです。

 そんなことに悩みながらも一方、動体視力などの低下をデータで示され、やっぱり付けるべきかなあと思って買った高齢者マーク(ほかにもシルバーマーク、もみじマーク、枯葉マークなどの呼称。これを付けた車に対しては周囲は保護をする義務があるのですぞ)を未だに付けないままでいる自分がいるのです。
 
 なんに抵抗してるんだか、まったく。


  写真は免許更新に行った大垣市綾里界隈で
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映画『デンデラ』 老婆軍団とヒグマの壮絶な戦いが意味するものは?

2013-11-07 17:23:16 | 映画評論
 さて、前回は私の歯の話から今村昌平の映画、『楢山節考』でおりん婆さんが自分の歯を石で砕く話をしましたが、あれを演じた坂本スミ子さんの役への入れ込みはすごかったようで、実際に前歯を4本ほど人工的に削ったようですね。その後、インプラントで補ったようです。
 いずれにしても40代で、実年齢より30も上の老人を演じるのは大変だったろうと思います。

 さて、今村昌平の長男の天願大介(沖縄に多い姓だそうで、彼は東京生まれですが沖縄の大学出身のようです)という人も映画監督で、2011年には『楢山節考』を逆手に取ったような映画『デンデラ』を撮っています。

         

 『楢山節考』の後日談というか、捨てられた老婆たちが人知れず山中にコンミューンのような共同体をつくり自分たちを捨てた側に挑戦する復讐劇とあって、とっくに捨てられる年齢を越えている私にとっては必見とも思われたのでした。
 しかし、あまり良くない評価があちこちから聞こえてきたりして、グズグズしているうちに上映期間が終わってしまいました。それでも気になっていたのでしょう。先般、BSから録画しておいたものを改めて観たわけです。

 まずキャストですが、 浅丘ルリ子、 倍賞美津子、 山本陽子、 草笛光子、山口果林、白川和子、 山口美也子、角替和枝、田根楽子、赤座美代子といったそうそうたる女優陣を取り揃えていました。もっとも、全体に暗いシーンが多く、おまけに全員、これでもかといわんばかりの汚れたメークでしたから(ただし、ここに載せた写真はスチール用に撮られたもので全員の顔立ちが明瞭です)、どれが誰だかとてもわかりにくく、もったいない気がしました。

         

 捨てられた老婆たち50人は、その中に復讐に反対するグループをも含みながらもそれを強制することもなく、いよいよ決起派の出発前夜となるのですが、ここでとんでもないことが勃発します。
 巨大なヒグマが老婆たちの集団を襲うのです。
 この辺りから、私のなかで描いていた展開は完全に失われ、気がつけば、老婆たちVSヒグマという特撮ホラー映画に終始することとなります。

 目が点になった私を尻目に、老婆たちが無残に殺され、血しぶきがドバドバと登場するのですが、アクションシーンが巧く撮れておらず、どこがどうなっているのかがよくわからないのです。
 それに、突然の雪崩シーンもあって、老婆軍団は今や壊滅状態です。

 ん?最初の設定はどうなったのかな?このままではストーリー展開の完全な破綻ではないのかな?と思うのですが、最後の最後、生き残りが自分を捨てたの方へと逃げ、それを追ったヒグマがの男どもを襲うというところでかろうじて繋がったようにも見えます。
 そこで生き残りの老婆が、「オレとお前、どっちが勝ったと思う?」とヒグマに問いかけて映画は終わるのですが、問いかけられたヒグマも困ったものと見えてなんにも答えません。

 もっと困ったのは観ていた私で、これは一体何なんだろう、明らかに剥製と思われるこのヒグマが含意するものは何なんだろうと考えこんでしまうのです。別に私が無理やりそこに意味を見出そうとしているのではありませんよ。上に見た最後の問いかけにあるように監督自身が明らかにそこにある寓意をもたせているわけなのです。しかし、勘の鈍い私には、それが感得できないのです。

         

 ある種の不条理劇としてはありかなという気もしますが、これだけの女優陣を集めて、エンタメとしてもシリアスドラマとしても筋が通らない映画は少しもったいないような気がしました。

 映画は映画館での信条から、あまり録画では見ないのですが、しかし、録画で見るメリットもあります。これは公共放送でしたからCMはなかったのですが、退屈で冗長なシーンをスキップすることができました。

 なお、この原作は佐藤友哉という人の小説だそうですが、そちらの方は未読ですから、上の私の記述はあくまでも映画に関してのみです。 


 

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