おそらくこういう書の選び方はあまり尋常ではないかもしれない。作者の名前に惹かれたのである。
図書館の新着図書の棚で、タナハシ・コーツという著者の小説を見つけた。アメリカの小説ということで、 カズオ・イシグロが日系イギリス人であるように、日系のアメリカ人だと思った。しかも黒人だということで余計興味を惹いた。
そればかりではないこのタナハシに対しての思い入れがあったのだ。それは私の母の旧姓がタナハシであり、その母の実家であるタナハシ家の敷地内 に1944年から50年までの6年間、私は疎開生活を送っていたからである。要するに私はタナハシの孫なのである。
タナハシは日本では姓名の姓に相当するが、しかしこの書の表示においてはタナハシは名に相当するように書かれている。それにいささかの違和感をもったのだがそれもそのはず、このタナハシは日本語とは何の関わりもなくアフリカのある地方にある名前だとのことであった。
こんな馬鹿げた 前置きはともかく、このタナハシ・コーツは私が知らないだけでアメリカでは評論やドキュメンタリー風の作品でとても有名な文筆家ということである。特に自分のルーツである黒人問題に 関する叙述では極めて高い評価を受けているとのことであった。だから私が目に止めたのは小説としては彼のはじめても作品だが、やはり黒人問題を主体としたものだった。
その目次やあとがきなどをみて、やはり借りようと決意したのはちょうど昨年の春前後にアメリカの長編小説を2冊ほど読んでいて、それらのテーマと今回のタナハシの小説 『ウォーターダンサー』とが深い関わりを持つものであることを確信したからである。
そしてそれは的中した。昨年読んだアメリカの黒人作家、コルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』と『ニッケルボーイズ』はどんぴしゃり、この『ウォーターダンサー』に呼応するのであると確信した。
『地下鉄道』と『ニッケルボーイズ』については、昨年私が記した文章のURLを文末に貼り付けておくのでみていただきたいが、ここでは『ウォーターダンサー』について多少のネタバレも承知で(かといって後でそれを読む人の興を削がぬ程度に)述べてみよう。
舞台は19世紀中盤のバージニア州の疲弊したタバコ農場で、ハイラムという若い奴隷が主人公。彼は奴隷主が女奴隷に産ませた子供である。にもかからずその母は彼が幼い頃、別の地域に売られれてしまう。
この農場は無計画な耕作によりすでに土地が痩せてしまって生産性が極めて低く、農園主たちはこれまでで保有 していた奴隷を売り払うことによってそのぜいたくな暮らしを維持しているというまさに退廃的な状況にある。
主人公ハイラムは、やはり自分の子供を売られてしまった老女シーナを頼りにそのもとで暮らすが、やがて奴隷主の息子つまりその農場主の本妻(彼女はすでに死去している)との間にできた子供、メイナードの召使いとして働くことを命じられる。ようするに自分の異母兄にあたるのだが、その身分は使用者と奴隷ということで変わるところはない。
ハイラムには、生まれつき、その見聞を余さず記憶するという特殊能力があり、それが兄の家庭教師である白人男性の目に止まり、親密な教育を受けることとなる。この家庭教師とはさらにまたまったく違うシュチエーションで出会うことになるだろう。
前半はそうした彼の生活、老いてはいるが誇り高いシーナ、彼が思いを寄せる若き女性奴隷のソフィアなどが描かれる。ソフィアは白人の所有でもなく、かといって黒人の誰かの所有でもなく、個としての自分を貫こうとする近代的女性として登場する。
さまざまな成り行きで、ハイラムとソフィアはその農園からの脱出を試みるが、しかし、無残にも賞金稼ぎの奴隷ハンターに捕獲されてしまう。
そしてハイラムは別の所有者に買い取られる。
後半はそれによって著しく変化をしたハイラムの環境が描かれるが、今度は黒人奴隷たちを救出する側に回っての活動である。それは南部の奴隷たちを北部へと逃亡させるために尽力する「地下鉄道」と呼ばれる秘密結社であり、ハイラムはその一員となる。
赤い線が「地下列車」の工作員が利用した南部から北部への奴隷逃走ルート
これは、コルソン・ホワイトヘッドの小説『地下鉄道』では、南から北へアメリカ大陸の地下を走る列車を描写してファンタスティックであったが、実際にはそんな路線はなく、ただ複数の逃亡ルートが用意され、その要所要所を白人・黒人たちの結社員が固めていたにすぎない。ただし、それらのルートの管理は、車掌、駅、駅長、乗客などなど、鉄道であるかのように組織されていた。
主人公ハイラムは、子どもの頃からの特殊能力を磨き上げることによって、リアルな現実を超えた救出能力を身につけてゆく。それは「導引」と名付けられた特殊能力なのだが、これは西洋合理主義を超えたある種の超能力といっていいものである。
詳細は小説をお読みいただくほかはないが、ある時はとてもリアルであり、また時にはロマンティックであり、またファンタジーに溢れていている瞬間もあって、400ページがアッという間に進む。
ここに表出されたアメリカの暗部と、にもかかわらずそれと戦う強固な意志との混在、これが現代のアメリカ まで引き継がれるアメリカの明暗のありようを象徴している。
世界資本主義の総本山。軍備大国として世界を睥睨するする警察国家としての面構え。征く先々で西洋合理主義的な価値観を押し付ける尊大さ。ついでながら、その尊大さに敗戦時の日本は右から左まで何の抵抗もなく屈服したのだった。それをよしとしてアメリかは、軍事力で制圧した国々に対し、日本で行った同じ手法に及んでいる。ヴェトナムで、アフガンで、イラクで・・・・。
しかし、その試みは民衆の抵抗に合い、至るところで失敗している。日本のだらしなさが目立つ成り行きではある。
とはいえ私は、ゴリゴリの反米主義者などではない。むしろ、アメリカにはある種の可能性をみている。この小説の「地下鉄道」が象徴するように、アメリカ的な悪には、それにアゲインストする運動が必ずといっていいほどついてまわる。
南北戦争を経由し、さらには戦後の幾度かの運動の波によって、黒人差別は軽減されつつあるとはいえ、なおしぶとく残存している。
2008年のオバマ大統領の実現は、感動的な出来事だった。19世紀にはまだ家畜扱いだった人種がトップにまで上り詰めたのだから。
しかし、これはまた、反動をも呼び込むものだった。コアな共和党員はその法案の是非に関わらず、オバマの提案にはすべて反対し、その後登場した白人プアー層を支持基盤とするトランプは、「アメリカ」・ファーストを掲げたが、この「アメリカ」のなかには黒人を始めとする異民族が含まれることはなく、むしろ、排除、抑圧の対象であった。
トランプは、国境を壁で閉ざすとともに内部の異民族、異人種への攻撃を強めた。黒人が容易に殺されるような事件もそんな中で起こり、今日のBlack Lives Matterにつながる問題が再度提起されざるをえなかった。
この小説もその路線でのものであり、黒人問題に限らず、アメリカのプアーな層へのケアーも含まれていそうである。
作者、タナハシ・コーツの父は、1960年代から70年代にかけて、黒人による解放闘争を呼びかけたブラックパンサー党のコアな党員であり活動家であった。
また、タナハシ・コーツは、過去の大統領選では、バーニー・サンダース議員を支持している。
■以下に、昨年読んだコルソン・ホワイトヘッドの『地下鉄道』と『ニッケルボーイズ』についての感想文を掲げておく。
https:/
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20210513
もちろん雪国に比べたらこの辺は大したことはないが、何しろ積雪の回数が多い。
夏の風を受けた青々とした稲の波模様
周囲100mに人家はないような田んぼの中の一軒家に住まって以来半世紀、田園地帯と市街地とのせめぎ合いのなか、ついに最終段階を迎え、ここ2,3年の間に殆どの田んぼが消え失せ、市街地化が凱歌をあげつつあることはもう何度も書いてきた。
10年ほど前の稲刈りの様子 下の二枚も同様
それを象徴するのが、私が長年ウオッチングをしてきた2反=600坪=約2,000㎡の田んぼが、耕作されなくなり、ついには埋め立てられてコンビニができるというこの現実である。
その田は、わが家から歩数で50歩ほどの箇所で、数年前までは専業農家の耕作者によって熱心に農作業が行われていた。「熱心に」というのは、私の友人の農作業機器の専門家が驚くような旧式の農作業機器を使い続け、それでも頑張っていたからだ。
そんなこともあって、他の田はどうなろうともここだけは引き続き、私の死後までも耕作されるだろうと思っていた。にもかかわらず、それが中断されたのは不幸な出来事のためだった。
数年前の雪の日 手前の休耕田は埋め立てられたが彼の田は健在
彼は4年ほど前の正月、なにかの発作で急死したのだった。結構広い昔ながらの農家に住んではいたが、一人暮らしだったため、その発見は遅れたという。
その田んぼをウオッチングする上で、何回か話を交わす機会もあったが、今どき珍しいまさに実直な農民といった風情であった。なお、年齢は不詳であるが、私の息子といっていい世代だった。
枯れ草の原っぱとなった箇所に捨てられたゴミ
彼の姻戚関係は、それぞれ遠隔地の都会暮らしで、その耕作を継承する気は毛頭なく、それどころかその土地を管理することも放棄していたため、その地は荒れ放題になり、雑草の繁殖はもちろん、ついには1mを超える灌木までが生えるに至った。
それに追い打ちをかけたのが、粗大ゴミ級の大型ゴミなどの不法投棄であった。
ついに灌木まで生え始めた
長年、その田で若苗が植えられ、夏には青々とした稲が風に波打ち、秋には黄金色に実ったそれらが刈り取られるのをみてきた身には、それらは実に痛々しい風景であり、そんなゴミをわざわざ運んできて捨て去る連中の精神を疑い、そして憎んだ。
昨年末、若干整理され、普通の休耕田へ
しかし、昨年暮れ近く、それらの粗大ゴミは片付けられ、灌木や背の高い雑草は刈り取られ、普通の休耕田の姿へ戻った。その折、この土地は、誰か第三者の手に渡ったことを確信した。
そして年が改まり、「近くで工事をさせてもらいます」とマニュアル通りに挨拶に来た建設会社の従業員は、私の問いに、「できるのはコンビニです」と応じてくれた。
今月初めから始まった工事 下も同様
今月はじめからまずは埋め立てる工事が始まった。ダンプカーが土砂を運び入れ、ブルド―ザーがそれを均してゆく。その響きはかつての平穏な耕作地が跡形もなく消え失せる葬送行進曲に聞こえる。
ここに載せた写真たち、そして何本かの動画は、私のPCの中に残っていた10年以上前からのこの田の記憶の映像である。
もう3年もすれば、誰もがかつてここに豊かな田があり、それは何百年(それ以上長い歴史があるかも)にわたっての農民たちによって継承されてきたものであったという事実を思い起こしもしないであろう。私もまた、それを思い起こすことがあるかどうかは怪しいものだ。
コンビニになることが示されている
ここにそれらを載せることにどんな意味があるのかはわからない。
ただ、ここで積年にわたって展開された稲作の歴史、その最後の担い手であった急死した彼へのレクイエムとしてこれを残しておきたいと思う。
■以下は私が撮った関連する動画(年代順は不同)
1)耕作されなくなって4年目の夏
https://www.youtube.com/watch?v=aJ-rX4b8f9U
2)10年以上前の田植え風景
https:/
3)これも10年ほど前の稲刈り(広告はスキップしてください)
https:/
4)これもかなり前 田植えされた彼の田の手前の休耕田を飛び交う燕たち
https:/
5)埋め立てられる手前の休耕田と彼の稲刈り(合成)
https:/
今年の冬は実に真面目に寒気や雪を運んでくれる。
ここ何年にはない寒さが続いているし、積雪も今年に入ってから数度にわたる。
私の暮らす岐阜市では6日の積雪量が今季の最高であるが、とはいっても20センチ足らずで、3メートルを超えているという豪雪地帯からいったら、問題外であろう。
しかしながら、やはりこの寒さと雪は、老いの身にはこたえる。風邪など引こうものなら、このコロナ下、感染者の容疑のもと、隔離など様々に面倒な手続きに晒されるであろう。
雪もこたえる。朝の雪景色には多少心が躍るが、その後の外出への差し障りなどを考えると、いろいろ不安も増す。
今日も、動物性たんぱく質の在庫が皆無なので、買い物にでかけたいのだが、スーパーへの道筋が気になる。これを書いてる時点で、少し薄日がさしてきたので、なんとか買い物はOKだろうとやや安堵はしているが。
しかし、ここんところの運動不足はやはり否めない。
そこで今季の「冬くん」へ申し入れたい。冬くん、今季の君はよく頑張った。もう充分その責は果たしたといえる。もうそろそろ、適当に手を抜いて、春に席を譲ることを考えてもいいのじゃないかい。
そういえば今年の立春は4日に過ぎた。暦の上ではもう春なのだよ。
いつまでも粘らないで、潔く身を引くのもいいもんだぜ。
今回の積雪を有終の美として、もう休んではくれまいか。
そうしたら、次の君の訪問時、また歓迎してやろうじゃないか。
もっとも、それまで私自身が元気でいられたらだが・・・・。
前回は、かつては田園地帯だった岐阜郊外の周辺が、徐々に市街地化され、ここ何年かでとどめを刺されるところまで来ていることを述べた。
その象徴として、長年、私がウォッチングしてきた二反(=600坪=約2千㎡)の田が、耕作者の急死により荒れ果てて、雑草のみならず灌木すら生える荒れ地になったことを述べた。
それはそれでいいのではないか。そこを懸命に耕していた彼に代わって、その土地の変遷を見届けてやるのも彼への供養かもしれない、などと勝手に思っていた。それにしても、かつての青田が伸び放題の草木に彩られ、それをいいことに、粗大ごみ級のものが打ち捨てられるのを見ることは苦痛だった。
しかし、昨年末、その様相が変わったのだ。もう1メートル以上だった灌木を始め、すべての草木が刈り取られ、放棄物も排除され、普通の休耕田に戻ったのだ。
遺族の誰かが管理を継承したのか、あるいはどこかが買ったのかと思った。しかし、それを改めて確認する手段ももたずにいたが、つい先日、その行く末が明らかになった。
2,3日前、ピンポ~ンとドアフォンが鳴って出てみると、とある建設会社の社員というのがいて、「お近くの田を埋め立て建築をはじめさせていただきますので、何かとご迷惑がかかってはと思いご挨拶です」とのこと。うやうやしく包装してあるだけで、百均でも買えそうなフェイスタオルのようなものをおいて帰っていった。
その帰り際に、「何が出来るんですか」と尋ねると、「コンビニです」とのこと。
日頃、コンビニのお世話になっている人はラッキーと思うかもしれない。何しろそれが、一軒離れた隣、私のうちから100歩以内のところに出来るのだから。
ところが私は、ほとんどコンビニで買物をしたことがない。コンビニ利用は年2,3回、予約コンサートの発券依頼ときている。だから、コンビニでの私は低姿勢だ。「すみません。すみません」と言いながらチケットをゲットする。
前にも述べたが、わが家の目の前にはドラッグストアがある。そして今度はコンビニだ。こんな便利なロケーションはないだろうといわれそうだ。
しかし、私にとっては必ずしもそうではないのだ。どう説明していいのか戸惑っているが、まあ述べてみよう。
問題は、食材の調達である。現在の私は、それらを以下のように組みたてている。
1)二つのスーパー そのうちのひとつは歩いて行けるが、鮮魚類が弱い。もうひとつはある意味オールマイティだが車でないと行けない。
2)農協野菜売り場 ここは旬の野菜を安価に手にれることが出来るメッカであるが、車でないと行けない。
3)業務店用のスーパー「アミカ」 ここはラーメンなどの生麺、その他そば、うどん、きしめん、パスタなど乾麺が豊富で安い。調味料も豊富。冷凍食品なども買い物に行けない折の予備としてゲットできる。ただし、ここも車でないと厳しい。
ようするに、これらの仕入先が私の食生活を支えてくれている。
それにドラッグストアとコンビニもあって、いうことないではないかという声が聞こえそうだ。
確かにいまのところはそうである。しかし、それは私が運転免許を保持している限りの話である。80歳を3年ほど過ぎたいま、免許証返納の圧力はあるし、事実、衰えは確実に来つつある。
で、運転できなくなった際のことを考えるのだ。そうなると私の食材入手は、鮮魚類が弱いスーパーと、ドラッグストア(ここは肉類は置いてるが生鮮野菜と魚類はない)、それに今度できるコンビニということになる。
白状するが、それほどのこだわりはないとはいえ、私は食に関しては保守派である。インスタントラーメンやカップ麺は出だしの頃、「どんなもんかいのう」と食したことはあるがそれぞれもう何十年も前で、以来全く縁がない。
麺類はラーメンの生麺か、各種乾麺を湯がき、スープは自分のその折の気まぐれで味をつけている。
何がいいたいかというと、免許を失った場合、私は食について危機に瀕するということだ。近い方のスーパーだって、足腰の条件によっては行けなくなるだろう。そうすれば、真ん前のドラッグストアと今度できるコンビニとで食生活を満たさねばならなくなることだ。
しかし、そこらで売っている既製品や冷凍食品は私には馴染みの少ないものである。
さてさて、免許返納後の私の食生活はどうなるのか、コンビニやドラッグストアが供給するものに慣らされてゆくのだろうか。
これは決して些細な問題ではない。もはや、ほとんど食にしか生きている実感、自分の生へのアクティヴな関わりを感じられない私にとっては・・・・。
【余談】ハンバーガーというものも一度しか食べたことがない。家族連れで出かけた帰途、ドライブスルーというのがあるので、その仕組みを確認するために買った。帰宅して食したのだが、なぜこんなに顎を外さなければならないほど口を大きく開けねばならないように食べにくくしなければならないのかが理解できなかった。
パンと、その間に挟むものを別々に食べたほうが美味しいのではないかとも思った。
その意味で、サンドウィッチは抵抗なく食べることができる。
ここに住んで五十数年、当然のこととして環境の変化は大きい。当時は100m以内に人家がない田んぼの中の一軒家だったが、徐々に進む市街地の侵食によって次第に変貌を遂げてきた。
それでも、10年ほど前までは、わが家の東方向、北方向には青々とした田園が眺望できた。それらもまた、失った今、ついにわが家から見える田はなくなってしまった。
毎日散歩する習慣はないが、郵便物を出しに行ったり、クリニックへ行ったりしたついでに、自然が残っていそうな場所をぶらぶら歩くことはする。しかし、その田園風景が残っている場所がほとんどなくなってきた。
とりわけここ2,3以来、残った田んぼ潰しはまるでゲームの終盤に差し掛かったように急速に進んでいるのだ。
つい最近まで耕作されていた田が休耕田になり、そこが埋め立てられて建設会社の看板が立ち、三ヶ月もしないうちに今様の分譲住宅が立ち並ぶという勢いだ。ここまでくれば、半世紀以来の私が見続けてきた風景はアッという間に消え去ってしまうだろう。ほんとうにその勢いな加速度的なのだ(かつてのようにマンションやビル形式のアパートは少ないのもこの変化を早めている)。
市街地までは遠い田舎と思っていたが、一時間に2本しかないバスに乗れば、10分ちょっとで岐阜駅に着き、中心部までも15~20分だ。しかも、300mほど離れたところには、もう一本のバス路線があり、そこもまた一時間に2本とすれば、その双方をうまく利用すれば15分おきの運行状況になる。
一方、JR東海道線の快速は、岐阜・名古屋間を18分で結ぶから、この辺から名古屋駅近くは一時間以内、名古屋の中心部も一時間少々でたどり着ける。今や、名古屋のベッドタウン化しつつある岐阜市のなかでも利便性がある箇所といえる。
事実、私の娘をはじめ、この辺から名古屋の職場に通う人は少なくはない。
最近の身近での変化について述べよう。
もう何十年前から、私が自宅二階からウオッチングしてきた二反(600坪)の田があった。しかし、その田と私の家の間の休耕田が宅地になり、2階建ての家が遮ることによってそれも不可能になった。
しかし、その田は家から数十歩の距離、外出時には否応なしに目につき、その状況を把握することが出来た。ところが、今から四年ほど前、急に耕作がされなくなり、ああ、やはり休耕田化、そして宅地にと思っていたらどうもそうではないようで、聞けば私がウオッチングしてて言葉も交わしたことがあるあの熱心な耕作者が急死し、あとを継いで耕作する者がいなくなっての結果だという。
地元に身寄りもなく管理を継承する者もいないままのその田は、普通の休耕田とは違って、荒れに荒れ、粗大ごみに属するものから小型電化製品まで捨てられ、雑草のたぐいは生え放題、おまけに灌木の種類まで伸び放題で、やがて何年か後には原始林化するのではと思わせるものがあった。
ここからが、私が述べたい本題なのだが、もう充分長くなった。
本題とは、私の生の終焉を迎える様式に関連するのだが、それは次回述べよう。