六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

カダフィ、カストロ、そして映画弁士の私

2011-02-26 04:51:20 | 想い出を掘り起こす
 リビアのカダフィ大佐が民衆のデモや軍の寝返りにより危機的状況にあるようです。
 最近のリビアの情勢には疎いので何かをいおうとは思いませんが、このリビアのカダフィがアラブの希望の星といわれた時期をどれだけの人が覚えていることでしょう。
 1969年、それまで王政であったリビアを無血クーデターで倒し、以後は汎アラブ主義、イスラム社会主義を掲げてアメリカに支援されたイスラエルの拡張主義にもっとも激しく対立し、抵抗してきたのが彼でした。

 それが祟って1986年には米軍機による自宅のピンポイント爆撃(アメリカによるテロ爆撃といわれた)を受け、末娘を失っています。
 建国の父でありアラブの星がいまや民衆によって排除されようとしているのです。
 繰り返しますが、リビアの国内事情に疎いのでその是非をとやかくいう立場にはありません。
 ただし、エジプト革命とか中東革命とか簡単に「革命」という言葉が氾濫していますが、それが革命であるか単なる政変であるかはさらに観察し続ける必要があるように思います。

                    

 ここまでは前降りで、私はいまキューバのフィデロ・カストロのことを思い出しています。彼もまた、1959年に旧体制を倒して以来、依然として権力の座に居続けます。その期間たるや既に半世紀を上回っています。
 それはどうしてでしょうか。いろいろな要因が思い浮かぶのですが、それはともかく、私の若年の頃の想い出を記しておこうと思うのです。

 1960年ぐらいのことです。
 戦後一貫して日本共産党の支配下にあった全学連(全国学生自治会連合)をその党支配から離脱させた当時(1958年全学連11回大会 私はそこにいた)の委員長、香山健一氏(1933年 - 1997年 のち学習院大学教授 清水幾太郎氏などと交流)の講演と、併せて、キューバ革命のに関する記録映画の自主映画会(日本初公開)が催されることとなりました。
 会場は、いまや松坂屋の東で久屋大通になってしまっている旧名古屋タイムス社の本社講堂でした。
 
 私も主催者の一員ではありましたがその映画を楽しみにして観に行きました。
 当時日本では、キューバ革命が何であるかの実態がほとんど報道されていなかったのです。
 会場は若い人を中心に立錐の余地がないほどの入りでした。

                    

 ところがです。
 フィルムは来ましたがそれが無声映画で解説の台本付であることが分かったのは上映時間の一時間ほど前でした。
 急遽、以前、演劇部の不良部員だった私に「お前が台本を読め」と白羽の矢が立ちました。リハーサルもなにもないまったくのぶっつけ本番です。
 舞台監督に相当する人が画面を見ながらキューを出します。
 私は必至でマイクの前で台本を読みます。

 結果として、あの会場で唯一その映画を見なかったのは私でした。
 しかし、終わったあとで、盛大な拍手(私にではなく映画に対してです)が起こったとき、人々が映画に感動した一助たり得たことに密かな満足を覚えました。

 若者たちが変革を求めてとてもアクティヴで、熱気ムンムンの時代でした。
 たとえそれが幾多の誤謬を含むものであったとしても、状況への関心を若者たちが持ち続けた時代として記憶されるべきでしょう。
 
 ところで、あのモノクロで弁士つきの映画の内容って何だったのでしょう。
 必至で台本と格闘していた私にはさっぱり記憶がないのです。
 そのとき観たひとがいたら教えて下さい・・・ったって無理だろうなぁ。


    写真はそれぞれWikipediaより拝借しました。
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節操がない「春」への日記

2011-02-23 03:45:38 | 花便り&花をめぐって
 この前の日記が冬木立の美しさについてだった。
 そこで急に「春」を語るのはいかにも節操がないではないかと自問する。
 しかし、自然はそれに先行する季節のなかで、静かに、だが確実に次の季節を用意する。
 私のような鈍感な人間は、ある日、何かのきっかけで急に次の季節の到来を知ることとなる。

     
 
 農協の野菜売り場に付帯した花売り場の花の種類が確実に多くなりその色彩感を強めている。
 よそ様の花ばかりではない。
 私のうちの猫の額に庭にも確実な変化が・・・。

      

      

 亡父の遺した紅梅の鉢はチラホラ花を付けはじめた。
 せっかく花芽を数えるに至ったのに、30センチのどか雪にやられたしまった日本水仙のあとを追って、
今度はラッパ水仙が芽吹きはじめた。

      

 人の世と同様、巡る季節はもう後戻りはしない。戻り寒の寒さが襲おうが、一気に春へと走り出した
勢いがある。
 遅まきながら春に追随しつつも、春には春の愁いがあるなどとくだらない先回りをしているひねくれ
者がいる。むろん私のことである。

 そんなことは知ったことかと、生を受けた春たちは、ひたすら自らの命に華やぐ。
 私もまた、素直にその華やぎのうちに浸りたいとは思うのだが、寄る年波の猜疑心のようなものが私
を抑制する。
 弱ったものだ。
 やはり春は、私のように不純なもののためではなく、その季節に素直に共感できる若さのうちにある
のだろうか。

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冬の木立のラプソディ

2011-02-21 04:19:09 | 写真とおしゃべり
       
 
 冬に見かける木々は美しいと思います。
 それは一見、死んだものの絵姿のようですが、そこには再生への意志を秘めた生命そのものが宿っています。
 しかも、花や葉などを失ったその姿には、その生命の骨格がくっきり表現されています。

     
      
 私たちも再生するためには一度は枯れねばならないのかも知れません。
 再生は自分の再創造です。
 その都度多様性を生きることです。
 美しく枯れることが出来れば、美しく再生できるかも知れません。

      


 冬の木立もなかなか見捨てたものではありません。
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【書を読む】忘却された混沌とその記録・1950年代

2011-02-19 02:03:13 | 書評
 『1950年代----「記録」の時代』 鳥羽耕史(河出書房新社)

 私の自分史と照合するなら、朝鮮戦争特需の「金偏景気」に便乗して空き地や周辺から集めた屑鉄など金っ気のものを業者のところへ持ち込み、キャラメル代を稼いでいた小学校の高学年の頃から、何も分からないままやたら自意識過剰な中高生時代を経て大学へと進み、やがて、安保闘争へと傾斜してゆく10年間に相当する。
 いまから振り返ると、その時代は戦後世界がその後、半世紀にわたる冷戦体制へと固定化されてゆく時代(先に触れた朝鮮戦争もその一環)であるが、その内実についてはその後の60年代に比べさほどクリアーではない。とりわけ、わが国におけるそれはいわゆる55年体制などを前後して複雑な経由を辿っただけに一層、不鮮明である。

         

 この書は、その不鮮明な時代を、様々な抵抗運動を試みた側の記録を収集することによって解明しようとする試みである。従ってこの書は、「記録の記録」という多かれ少なかれ自己言及的なものたらざるを得ない。
 第一章で、50年代がミッシング・リングとして現代に繋がることを示唆した著者は、第二章で当時の運動形態であった「サークル運動」とその記録を展開するのだが、若い読者は、初めて目にする固有名詞の羅列にいささか戸惑うかも知れない。乱暴な言い方で著者には申し訳ないが、分からないところは飛ばしてもいいだろう。

 なぜなら、この書は第三章以降俄然面白くなるからである。
 ここで紹介されている闘争のプロパガンダに参加しているメンバーの多様性には目をみはる。
 社会主義リアリズムをお題目にしている当時の「党」是とは全く相反する(果たせるかな後日離反してゆくのだが)アヴァンギャルドの芸術家たち、シュールリアリストやダダイストたちが例えば小河内ダムの建設現場を対象とした山村工作隊の分隊、「小河内文化工作隊」として現場にも往来し、絵画や映像、文章などで「参戦」しているのである。
 敢えて参戦と書いたのは、当時の党は、山村工作隊を体制に対する革命戦争として位置づけているからである。
 だとするならば、ここへ参加した芸術家たちは、戦争中の従軍芸術家との連続性を持って語られるべきかもしれない。

 第四章はテレビや映画との関連でドキュメンタリーないしはそれを模した映像作品について語られる。
 そこでは、検閲による修正、自己規制、イデオロギー的限界によるそれらの揺れが語られていて、面白い。

 先にこの書が「記録の記録」として自己言及的であるといったが、記録にはもうひとつの自己言及性がある。
 それは、記録はある状況下においてそれを叙述するものとして行われるのだが、一方、その叙述によって状況へと影響を及ぼし、それがさらに叙述されるという自己運動的なものを内包するということである。
 それが、この書の第五章、第六章が示しているところである。
 そしてそれは、今なお状況を記録し続ける人にとっては重要な示唆を含むものである。
 かくして私たちは、状況を記録するということがもつ一見、受動的な行為が、その実、実践的な行為でもあることを学ぶのである。

 本書は、あたかもミッシング・リングのように背景に退いている50年代を、その記録の面から明るみに出そうとする画期的な企図をもっている。もちろんこの小冊子でそれがすべて達成されたわけではないが、そうした問題に端緒をつけた意味でも本書の存在価値は充分にある。
 それらを前提にしての無い物ねだりだが、この年代のど真ん中、55年は様々な意味でもう一歩突っ込んで特記さるべきだと思う。一つには、いわゆる55年体制という政治的バランスが半世紀にわたってこの国を支配したからであり、もうひとつは、この書では「背後の主役」である「党」が、これまでの武装闘争路線とそれの賛否を巡る壮絶な党内闘争をいわゆる「六全協」によって終結した年であるからである。
 そして、この一つの結節点は、それ以前と以後との「記録」のありようにもなにがしかの関わりを持ったに違いないからである。
 例えば、「火炎瓶闘争」(ビフォアー)と「歌ごえ運動」(アフター)のように。






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目黒殺傷事件と情報テクノロジーについて考える

2011-02-16 16:30:21 | 社会評論
 一ヶ月前の目黒の資産家夫妻の殺傷事件で、福島県在住の容疑者が逮捕された事実は被害者の無念などを思うとき、一応の解決にたどり着いて良かったと思います。
 事件には動機や手段を含め、不可解な点もまだまだあるようで、一刻も早い解明が待たれます。

          
 
 私はそれを前提にしながらも、捜査当局が容疑者にたどり着いた過程に非常な感嘆と、そして一抹の不安を覚えます。
 今回の事件は、動機や繋がりなどが全く不明ななか、僅かな目撃情報と専ら監視カメラの映像を追うことによって容疑者にたどり着いたのでした。
 これはまさに驚異ともいうべき情報技術の勝利といわねばなりません。

 関東から東北南部に在住する何千万の不特定な人物の中から、これと名指す特定の人物を見いだすことが出来る技術はすばらしいものです。
 しかし、それは同時に諸刃の剣のような反面をも持った技術ともいえます。
 この事態は、容疑者ではない私もあなたも、同様に、ある特定の日どのような経由でどこへ行ったのかが解析されてしまうことを示しています。

          

 従前から、高速道路や主要道路での監視カメラが、特定の容疑者の事件にかかわる挙動をキャッチし、それが事件解決に繋がることはありました。しかし、この場合は容疑者が予め限定されていて、その車のナンバーなども既知のもので、残された記録と照合すればいいものでした。

              

 今回の場合は、予め不特定な人物がどのように移動したのかが何千万という人々の挙動のなかから析出されたのです。つまり、私もあなたもその挙動は総て追跡可能なのです。
 ようするに、私たちはこれまでにない監視社会に住んでいます。
 この監視は、社会そのもの、あるいはその成員のセキュリティのためだといわれます。

 しかし反面、この技術は個人のプライバシーの存する余地を極限にまで限定したことを示しています。私たちは常に情報網によって監視され、然るべき時には事後的にその軌跡が明らかになるのです。
 こうした情報テクノロジーの恐るべき進展にどう向き合うのかはまさに今世紀の私たちの課題でしょう。

          

 ここに見られるのは、プライバシーとセキュリティのせめぎ合いなのですが、同様な問題は、DNA操作などのバイオ・テクノロジーの許容範囲をどう考えるのかといったことにもあります。
 この中にはクローン技術や種そのものの改変といった問題、いま話題のiSP細胞の利用も含まれます。新たな抗生物質や薬用成分の抽出から、生物種そのものの改変までです。
 さらにはナノ・テクノロジーにおいての物質そのものの改変がどこまで許容されるかも含まれます。

          

 監視カメラは情報テクノロジーの一つの成果でしょうが、それをも含めて人類はいま、新たなテクノロジーの洪水のなかで、どのようにして二〇世紀までの人間のままでいられるか、あるいは人類そのものがその身体やモラルをも含めて変わるべきなのかが試されているように思えるのです。

 
 

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聖バレンタインディの今昔

2011-02-14 16:05:24 | よしなしごと
 今日は、聖バレンタインデーとか。
 「とか」などという言い方は、自分が疎遠になっていることを白状したようなものだ。

 もちろんかつてはそうではなかった。
 もう10年以上前、まだ私が店をやっていた頃である。
 店のスタッフがくれる。
 出入りの業者がくれる。
 女性客が次々とくれる。
 私の前にはチョコが山となった。
 
 余り多すぎるので、それを分類するのが大変だった。
 少し混じった義理チョコ、私への淡い憧れの大部分のもの、その中に混じった明らかに本気と思われる複数のものたち・・・。

 持って帰るのが大変だった。
 普通は乗用車で通うのだが、その日はレンタカーでトラックを借りた。
 しかし、それも面倒になったので翌年からは明らかな本命以外は今池の交差点で配ることにした。
 人だかりが多く、機動隊がでて、私は千種署で始末書を書かされた。

        
             昨夜飲食店でもらったもの

 そして今・・・。

 昨夜いった飲食店で、小じゃれた和紙風のハート型のラッピングンに収まったクッキーをもらった。
 私だけかと思ったら、そうではないようで他の客にも渡していた。
 心の大きいママさんであると解釈した。

 その前日、ネットで知り合った女性から土佐産の文旦をもらった。
 彼女は土佐の人ではないが、わざわざ手に入れたものをお裾分けで贈ってくれたのだ。

 梱包を解くと、つややかな肌合いの果実が華やいでいた。
 そして南国の爽やかな香りが鼻腔を充満した。
 この方がいい。
 かつて、限界糖尿病と診断されたのは明らかにチョコレートの食べ過ぎだと思われる。
 負け惜しみではなく、今にしてチョコレートの数ではないとしみじみ思っている。

        
          ネットのお友達が贈ってくれた高知産文旦

 え?それだけかって?
 いや、まだ届いてはいないが大本命がある。
 しかし、それを明かすことは出来ない。
 なぜなら、この日記は複数いる本命が相互に監視し合っている可能性があるからである。


ットでググったら「聖バレンタインデーの虐殺」が出てきた。
 アル・カポネが絡んで7人が虐殺された事件らしい。
 せっかくの日に、無粋なことをするものだ。
 聖バレンタインデーには平和な一日がふさわしい。




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エジプトの変と二月の川柳もどき

2011-02-12 17:28:33 | ポエムのようなもの
       
           私の勉強風景 外付けHDの向こうは亡父の肖像写真


 ムバラク体制がついに瓦解したようですね。
 倒したのは民衆の積年の怒りでしょうが、それを結びつけた Face Book の威力もなかなかなものですね。
 アメリカン・ドリームの出世物語だと思っていましたが、その機能はまた別ですね。

 昨年末の日記に、アメリカの週刊誌「タイム」の恒例の企画「Person of the Year」に、ウィキリークスのアサンジ氏を退けてFace Bookのザッカーバーク氏が選ばれたことに批判的なことを書きましたが、どうやら自己批判しなければなりませんね。

     http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20101228

 もっとも、媒体の創設と隠された情報をリークするということとは次元が異なりますから、アサンジ氏の仕事を過小評価するものではありませんが・・・。

 しかし、これからのグローバルな情報網が、Face Book や Google のもとに一元化されるとしたら、それもまた恐いのではないかと臆病な私は考えてしまうのです。

 といったこととは関係なく唐突ですが、「二月の川柳もどき」です。

    二月来る お神籤がもう外れてる

    口笛が鋭角になる二月の夜

    こら二月あんかけうどん食べに来い

    さざめきを秘めて二月の梅になる
 
    二月には二月の掟 東風も吹く


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野鳥の密猟とヤマガラのお神籤

2011-02-10 22:36:08 | よしなしごと
 岐阜市のシンボル的な山に金華山というのがあります。
 知名度としては宮城県の同名の山のほうがよく知られてでしょうね

 こちらの方は岐阜の街中に独立峰としてそびえ、結構絵になります。
 そしてこの山、実は野鳥の宝庫でもあります。
 春夏秋冬、様々な野鳥の姿を見ることが出来ます。

     
          立春の日の金華山 手前は長良川
 
 全国的に有名なのは、秋、ここが渡りの鷹の中継点なることです。
 様々な鷹が飛来し、しばし山頂付近を舞います。
 その様子を見、撮影するために鳥好きの人が全国から集まります。
 鷹たちは次第に数を増し、一定程度揃うと次の中継点、伊良湖岬へ向かいます。
 そこでさらに各地から来た鷹と合流し、さらに南を目指すのです。

     
          金華山に棲む野鳥を図示した看板

 金華山にいるのは、もちろん、そんな大きな鳥ばかりではありません。
可愛い小鳥たちもたくさん棲んでいます。
 しかし、最近悲しいニュースが伝えられました。
 それはこれらの小鳥たちが金華山で密猟されているというのです。

 狙われるのはカラの仲間たちです。
 ヤマガラ、シジュウカラ、ヒガラなどどれも可愛い鳥です。
 なぜカラの仲間が狙われるかというと写真のようにとても可愛いからです。
 そして、同時に彼らがひとなっつこくて捕らえやすいのです。

 山中で休憩して弁当など食べているとよく集まってきたりします。
 密猟者はピーナッツなどを用意し近づいてくるものを鳥もちや手網で獲るのだそうです。
 人なつっこさにつけ込むなんて良くないですね。

        
       シジュウカラ ネットの「野鳥図鑑」から拝借

 これらカラの仲間は捕獲も飼育も法で禁じられています。
 各地で個体数が減っているのだそうです。
 ですから獲ったりしないで、いくら可愛くとも自然の中でさえずりを聴くようにして欲しいものです。

 ヤマガラの捕獲や飼育が禁止されたおかげで、なくなった伝統的な見世物があります。
 それはかつて、縁日やお祭りなどでよく見られたのですが、ヤマガラを仕込んでお神籤を引かせるという芸です。

        
        ヤマガラ ネットの「野鳥図鑑」から拝借

 私の子どもの頃ですから、せいぜい5円か10円なのですが、お客がそれを小振りの賽銭箱に入れると、やはり小振りのお社の扉が開いて、ヤマガラがお神籤をくわえてでてきて、所定の三宝などの上に置くとまたもとのお社へと帰って行くのです。

 大人たちもおもしろがってそこでお神籤を引きます(本殿の営業妨害?)。子どもたちは親にせがんでお神籤を引いてもらったりします。
 私のようなはな垂れは、回りにしゃがみ込んで次の客を待ちます。
 やっていたのは香具師のひとたちでしょうが、私たちを追い払うことはしませんでした。やはり人だかりがあったほうが商売になったからでしょう。

 あ、また脱線ですね。
 小鳥の密猟は許せませんが、ヤマガラのお神籤をもう一度見てみたいと思うのは正直な気持ちです。


調べていたらヤマガラは他にも、「つるべ上げ、鐘つき、梯子のぼり、乳母車押し、輪抜け、かるた取り、那須の与一」などの芸をするとありましたが、それらにつき、だいたいのものは想像がつきましたが最後のものがよく分かりませんでした。
 よくよく考えたら、たぶん、源平合戦のうち、屋島の戦いで那須与一が扇の的を射たという故事から、ヤマガラが扇をつついて落とす芸だろうと見当をつけました。
 ヤマガラの芸については、それを専門にした学術的な本もあるということで、驚いています。

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冬の名古屋中心街と「前衛」の目線

2011-02-09 02:24:22 | 社会評論
 これらの写真は、それぞれ一月の終わり頃のものです。
 この日、実は愛機の MacBook Air のトラブルで名古屋のストアーを訪れたのですが、時間に余裕がありましたので、久々にゆっくりと名古屋の中心部を歩きました。
 この辺はよく来るところなのですが、いつもはあちこち目線を泳がせる余裕もなく、従って風景もただ無機的に通り過ぎるのみです。
 しかし改めて視線を上げて見回すと、結構いい街だと思いました。

      
 
 それにしてもこの日、名古屋は喧噪に満ちていました。駅前でも、そしてこの栄地区でも・・・。
 例のトリプル投票(愛知県知事選、名古屋市長選、市議会のリコール)の運動の真っ最中だったからです。
 それから一〇日余、周知のような結果が判明し、あの辺りもすっかりふつうの冬の街に戻っただろうと思います。

 ところでその結果についてですが、サヨクを自称する人のコメントに「こんな馬鹿な投票をした愛知県民、名古屋市民ってホントに馬鹿ばかりだと思います」(原文のまま)を見かけて私は激怒し、それに抗議致しました。

       

 私は河村氏の限界や問題点について、おそらく彼よりもよく知っています。ですから、河村氏を支持せよというわけではありません。
 このサヨク氏は、愛知県民、名古屋市民のこの選択がこの閉塞状況へのひとつの具体的な反応であることを全く理解していません。私の回りでも、苦渋の選択をしたひとが沢山います。彼女や彼らは、教条主義者の彼よりも遙かに悩み考えて投票したのです。

 その選択が正しかったと言い張るつもりはありません。誤っていたかも知れません。
 しかし、それを「馬鹿ばかり」と表現する彼の目線が問題だと思います。そこには、「唯一の真理や正義はわが方にある」という「前衛」の目線があります。従って、それに反する見解は「馬鹿」なものに過ぎないのです。
 そして、そこに表出されたものを具体的に見ようとすらしないのです。

         
 
 この「前衛の目線」というのはスターリニズムのそれです。
 自分と見解を異にするものを馬鹿=人に値しないとして粛清し、集団で反抗するものには戦車隊を動員して圧殺する(かつてのハンガリーやポーランドでの事実のように)という思想です。

 彼や彼の仲間の悲劇は、彼らのそうした前衛の目線(人民の解放などをいいながら人民に平気でつばを吐きかける)を人々は敏感に感じ取っていて、彼らが相対的に正しくとも決して彼らを支持しないことにあります。

 彼は私の抗議にもかかわらず「こんな馬鹿な投票をした愛知県民、名古屋市民ってホントに馬鹿ばかりだと思います」を未だに取り下げていません。
 私は、彼らが中央で権力を持っていなくて本当によかったと思います。もし彼らが中央政府を握っていたら、今頃は「ホントに馬鹿ばかり」な人民を抑圧するために、名古屋の街は戦車隊によって制圧されていたと思います。

 繰り返しますが、河村氏が正しいのだというつもりはありません。ただ、そこでの選択はこの閉塞状況へのひとつの反応であり、河村氏を批判し、人格的にも嫌いだとした人たちの苦渋の選択も含まれていたことを知らねばなりません。

           

 「前衛の目線」は、それらを具体的に見ることをせず、ただただ自分の優位に比べて、それに反する人々は「ホントに馬鹿ばかり」で済ませてしまうのです。
 これは思考の頽廃ですね。ある意味、ネウヨよりも質が悪いと思います。

<補足>民主主義とポピュリズム
 彼ら前衛のもうひとつの批判は、河村氏の手法をポピュリズムとして葬り去ることです。
 しかし、ポピュリズムは民主主義に必然的に伴うリスクなのです。
 独裁者は、いつの場合も「民主主義はポピュリズムに流されるから真理に基づく体制ではない」として民衆から民主主義を取り上げます。
 ですから、ポピュリズム批判は、逆に、では民主主義を返上するのかという問いへと行き着きます。ヒトラーやスターリンはそれに「ウイ」と答え、現今のあらゆる独裁者がこの論理で権力に居座わっています。




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浅川マキがいた頃

2011-02-07 01:16:50 | 想い出を掘り起こす
 友人のBEEさんからお借りした「浅川マキがいた頃」というDVDを観ました。
 肉体労働者の弁当箱ほどもあるエイト・トラックのカセットで、自宅と職場の往復の車の中、繰り返し彼女の歌を聴いていたのはもう40年ほど前でしょうか。
 
 その頃の彼女は専ら寺山修司の詩を歌っていました。幾分、ファドに近い雰囲気があったと思います。それから、次第にジャジィなものになったように思います。
 このDVDは後期の映像が中心で、もう少し彼女の歌をじっくり聴きたいなという欲求不満は多少残りますが、それをバックの演奏のすばらしさがカバーしています。

          
            これはネットから 割合初期の頃の彼女

 いろいろなシーンが出てきますから、次はなんだろうという思っていたらどうも見たことがある男が出てきました。シーン9「夜 見知らぬ男 マキ」です。
 慌ててライナー・ノートを見たら、果たせるかな柄谷行人氏でした。
 正直いって、さほどかっこいいとは思えませんでした。
 ついでですが、このシーンのバックの弦楽四重奏はなかなかのものですし、その後のシーン10のチェロ・ソロも面白く聴けました。
 
 その他のシーンでのカルテットやクインテットの演奏ももちろん素敵です。ワン・フレーズを歌い終えて、演奏者たちの真ん中で煙草をくゆらせながらその演奏を聴く浅川マキの表情は素敵です。

 このDVDには特別映像として生前最後のライブ、2009年12月末の新宿PIT INNでの映像が収録されていますが、厳密に言うとこれは誤りです。
 彼女の最後のライブは明けて2010年1月16日の名古屋の jazz inn LOVELYのものです。このライブは16日、17日の2日間の予定でしたが、17日には会場に現れることなくホテルの一室で亡くなっているのが確認されたのです。

        
        一昨年、1月17日の jazz inn LOVELYの会場にて(六の撮影)

 なぜそんな日時に詳しいのかというと、ちょうどその一年前、2009年の1月17日、同じく名古屋の jazz inn LOVELYでのライブで、私はこのDVDを貸してくれたBEEさんと一緒にその場にいたからです。亡くなったのはちょうどその一年後ということになります。
 その折、私と彼女は割合ステージ近くにいて、彼女がライブ中にたて続けに吸うたばこの煙が流れてくる距離にいました。
 
 近年、煙草は白眼視されていますが、そして私自身がやめてからもう30年以上にもなりますが、浅川マキというと煙草とは切り離すことが出来ないイメージがあり(このDVDでも、彼女を始め登場人物の喫煙シーンが過剰なほどに出てきます。たぶん、意識的にだと思いますが)、そのときはどんなに煙が流れて来ようが構わないと思ったものでした。

 1960年代に始まった一つの時代、それは私の時代でもあるのですが、そこへ一つの区切りが挿入されたように感じました。

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