六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

桑名紀行 六華苑・七里の渡し跡・蛤うどん御膳

2018-03-28 11:55:14 | 歴史を考える
 過日、歴史や故事来歴に詳しい人とともに桑名を訪れた。
 桑名はこれまで何度も通ったことがあったが、いつも「通る」だけの通過地で、街そのものに足をとどめたことはない。
 岐阜から大垣経由で、養老山脈に沿って南下する。山裾に早咲きの桜などが散見でき、のどかな山里の風情が広がる。

            
            

 桑名駅で名古屋から来た人と落ち合い、最初の目的地六華苑へ。
 ここは、山林王として知られた桑名の実業家諸戸清六の邸宅で、大正二年、当時としては最先端でモダンな洋館と、伝統的な日本家屋とが接合する珍しい複合建築として建てられたものであり、その洋館部分は鹿鳴館なども手がけたジョサイア・コンドルによるものである。

                          
            
            

 入り口で入苑料を払おうとしたら、「今日はテレビのクルーが入っているため、見学に制限があったりして支障を及ぼす恐れもありますので無料で結構です」とのこと。
 え、え、この段階ではそれが吉なのか凶なのかはわからなかったが、結論を言ってしまうと「ラッキー!」であった。確かに庭園の一角をそのクルーが占めて取材をしていたり、似つかわしくない場所にケーブルが這っていたりしたが、彼らの取材手順と私たちの見学コースがバッティングしなかったせいもあって、何の支障もなく、見るべきものは見ることができた。

    
    

 1,800㎡という広大な敷地に、和洋複合様式の建築がとても面白いバランスを見せている。和風建築の南北両側には、長~い廊下があり、その間に幾つかの部屋がある。そのどれもが少しずつ違った佇まいを見せているのも面白い。突き当りは、当時の町家建築がそうであったように蔵造りとなっていて、ここが貴族や武家の住まいではなく、商人のそれであったことが実感できる。



 六華苑をあとにして、というかすぐ近くの七里の渡し跡へ。
 ご承知のように東海道五三次は、熱田の宿とこの桑名宿の間は、海路であって、その距離が約三〇キロ弱であったことから七里の渡しといわれた。
 現名古屋市の熱田宿周辺はすっかり埋め立てられて、今や海の面影もないが、こちらの桑名は、無論当時のままではないにしてもその面影を残している。

 
 木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)のうち、長良川と揖斐川が合流し伊勢湾に注ぐ河口近くにその場所はある。
 それが一望できる辺りに来たとき、実に醜悪で嫌なものを見てしまった。長良川河口堰である。予め覚悟はしていたものの、改めてこんなものは目にしたくない。
 洪水対策と銘打ったそれは、実際には天然鮎の遡上やサツキマスの往来をほとんど遮断し、長良川の生態系を激変させたほか、この周辺のシジミ漁に壊滅的な打撃を与えた土建屋行政のシンボルともいえるものだ。

            

 そちらはできるだけ見ないようにして、辺りを散策する。かつての船着き場辺りから西の方角には、名古屋駅前の高層ビル群を望むことができるし、さらにやや北へ視線を移すと、白い冠雪を輝かせた御岳を見ることもできた。
 写真の水門の間、やや左の茶色い建物の上に見えるのが御岳である。

 海上往来の無事を祈る住吉神社、かつての船着き場のランドマークであった蟠龍櫓などを見学し、いにしえの東海道の賑わいを回想したのだった。

            
            

 けっこう歩き疲れたので、ランチということに。
 やはりここに来た以上、ハマグリを食べないことにはゆかないだろう。ということで、「歌行燈」というお店で「蛤うどん御膳」をいただくことに。
 小ぶりな蛤が入ったうどんは、それでも出汁に蛤の味がでて、けっこう美味しかった。

 このあとも結構面白いところへ行ったが、それはまた次回にでも。
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今年の鵜飼いの漁獲量は? 鵜飼い桜を観る

2018-03-27 00:48:01 | 花便り&花をめぐって
            

 同じ岐阜市に住んでいても、なにかの用件でもなければ北部へはあまり行くことはない。たまたまそちらの方へ行く機会があったので、ひょっとしたらと寄り道をしてみた。そしてその寄り道はまことに正解であった。

               

 お目当ては岐阜金華山の北の山麓にある通称「鵜飼い桜」であった。樹齢は百年以上といわれ、幹周り約2.5m、高さ約8mの大木で、枝張りは16mに達する。
 この桜、なぜ「鵜飼い桜」といわれるかというと、この樹に付く花の量で長良川鵜飼いの漁獲量を占ったからだという。

            

 これはエドヒガンザクラで、ソメイヨシノより開花が一週間ほど早い。
 3月26日、この日に立ち寄って大正解だったのは上に述べた通り。ここのところの暖かさで、ソメイヨシノもどんどん満開に近づいているのだが、鵜飼い桜はまさにその頂点、これ以降は爛熟期に入ろうとする段階であった。
 微風しかなかったのだが、それでもそれに連れて、幾ばくかの花びらがチラホレヒレハラと宙を舞う風情はえもいわれず仇っぽかった。

               

 もう二〇年近く前だろうか、亡母と、生まれてすぐ生き別れになった姉(その後四〇年ぶりに再会)と共にこの桜を見た折も、ちょうどこんな風情だった。
 三者三様、どのような思いでこの桜を見上げたのか、今となっては推し測るすべもない。

            
 
 岐阜県の桜といえば、「薄墨の桜」が全国区で名をとどろかせているが、私の心の桜といえばこの桜かも知れない。
 他にも、胸キュンの思い出もあるのだが、それは墓までもってゆくことにしよう。

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わが家の花物語 レンギョウ、ユキヤナギ、そして亡母のこと

2018-03-24 01:38:50 | 花便り&花をめぐって
 「はなぞむかしのかににほいける」などといい、人は変わるが花は変わらず咲き続けるなどといったりするが、私のように古びてくると、私は変わらないが花の方が変わることもある。

 今年は亡父譲りの紅梅が咲かなかった。樹そのものが枯れたか死んだかしたのかと思ったが、ちゃんと若葉は出てきた。どういうことなのだろう。結果は来年を待ちたい。

            
 
 サクランボのなる樹が枯れてしまったので、泣く泣く伐ったのも去年だった。残した若枝がどうなるか固唾を呑んでみていたが、先般、まことに頼りなげだが、2~30輪の花をつけた。この桜は毎年開花が早く、三月の第一週ぐらいに花をつけて今頃はもう散ってしまっている。
 しかし、残ったこの若枝が成長し続けたら、以前のようにたわわなサクランボが収穫できるようになる可能性があることがみえてきたので、期待は大きい。

            

 いま、ほとんど同時に花をつけ、満開になったのがレンギョウとユキヤナギである。
 レンギョウは例年とあまり変わらないが、ユキヤナギは例年より多くの花をつけた。いつもはこれほど花をつけないので、これはこの土地が山土のがらがらのモノで埋め立てられているせいだと諦めていたが、今年はいままでになく多くの花をつけ、樹そのもののボリューム感が増したように思われる。
 これは、すぐ隣のクワの大木をやはり去年伐ったので、クワが摂取していた養分がユキヤナギの方に及んだのかもしれない。

            

 冒頭に書いたように、「ひとはいざこころもしれずふるさとは」であるが、花もまた歳々に変化する。
 私はどこまでそれを見届けることができるだろうか。

            

 ここまで書いて、亡母が、「ひさかたのひかりのどけきはるのひにしずこころなくはなのちるらむ」がお気に入りで、正月の歌留多とりでも、この札だけは他の者にとらせなかったのを思い出した。母の通名は静子であったが、戸籍上は「しず」だったからだ。
 ついでながら、昔は女性の名前はひらがなもしくはカタカナで二文字が多かったが、いまと違って、「子」をつけるのがモダンであるとみなされ、通名にはこれを付けて用いた例が多かった。たとえば、「つね」は「常子」に、「せつ」は「節子」に、「マツ」は「松子」にといった具合だ

            

 それはともかく、高等小学校出の母が、どこまでこの歌を理解していたのかは分からないが、この歌意を理解していたひとにもまして、この歌を愛してやまなかったのは事実だ。
 だから正月の歌留多とりの折、その札をとることができたにもかかわらず、あえて手を伸ばさなかったのは、親不孝な息子のせめてのも償いであった。


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賞について少々述べまショウ 桃子さんの「おらおらでひとりいぐも」

2018-03-20 11:48:12 | 書評
 この前、「賞について少々述べまショウ」というタイトルで、実は二つの賞について述べるはずだった。ところがいつものだらだらとした文章で、そのひとつ、米アカデミー賞の 「シェイプ・オブ・ウォーター」について書いたところで終わってしまった。

              

 今回はそのとき書こうとしたもうひとつの賞、芥川賞についてである。「文藝春秋」の三月特別号で二つの受賞作を読んだ。
 ひとつは、石井遊佳さんの「百年泥」。インドのチェンナイで百年に一度の大洪水で氾濫したアダイヤール川に架かる橋の上がほとんどの舞台。ある程度水が退いた後、この橋の上に残された汚泥の帯、それこそが「百年泥」である。

            
 
 物語は、SFっぽい奇想を含んで進展する。狂言回しはこの百年泥の中から次々に現れるモノたち。それらが、この地で日本語学校の教師をしている主人公(女性)の過去と結びついて回想風に物語は進む。
 それらを縫うようにして書かれる、多用な側面を見せる生徒の青年、デーヴァラージとの絡みもおもしろい。
 それらを語る主人公の、どこか自分を突き放した叙述が、百年泥の粘っこくもどろっとした感じとは対照的に、からっとした、あるいはさっぱりした後味を残す。

            

 これとは違った形で、徹底して自己にこだわるのが、若竹千佐子さんの「おらおらでひとりいぐも」だ。
 読み進むうちに、これはきわめて哲学的な自己省察の書だと思った。とはいえ、決して哲学的な概念や論理が語られているわけではない。むしろ逆に、七〇歳代半ばの主人公桃子さんの独白の部分(それが大半だが)は、岩手弁の「どごがおもしぇ」ユーモアが全編に滲み出ていて、スンナリと読めるし、その展開もじつにおもしろい。

 にもかかわらず、なぜ哲学的かというと、桃子さんの独白は常に桃子さんの中に居る他者、それは一人であったり複数であったりするのだが、それらとの対話として展開されるからだ。
 「オラダバオメダ、オメダバオラダ」というわけで、桃子さんはそれを、「頭の中に大勢のひとがいるなぞと、これはもしかしたら認知症の初期症状でねが」といぶかりながらも、そうした複数の自己を「柔毛突起」の現れと名付けたりする。

            

 桃子さんはその柔毛突起と共に、あぐまでも東北弁で、過去を回想し、いまを思いやる。家族のごど、老いのごど、周辺の環境(八角山など)のごど、そして後半は先だった連れ合い、周造のごど。
 それらが単に思い出の連鎖としてのみではなく、まさに自己省察として展開さるのだ。思考とは、「自己のなかにおける他者との対話である」というのは一般的なテーゼだが、桃子さんは巧まずしてそれを行っている。堅くいえば、常に思考しているのだ。それもほがならね東北弁で。
 
 この際、「東北弁で」というのは単に技巧ではねぐ、平準化された言葉では語れない内容そのもののへのこだわりなのだ。それについては桃子さん自身が前半でそう語っている。
 「当たり前ど思っているごどを疑え、常識に引きずられるな、楽な方へ逃げんな、なんのための東北弁だ。われの心に直結するために出張ってきたのだぞ」

            
            小説中に出てくる八角山のモデル、六角牛山

 一般的にいうならば、これは東北弁でねぐともかまわねのかもしれね。極端に言えば、九州弁でも名古屋弁でもいいのだが、ただし、ネイティヴな言葉でなければならねだろう。なぜなら、平準語が平均的意味へとそぎ落としてしまったネイティヴな言葉の「余剰」とも思える部分こそがその土地に住まいする「われの心に直結する」部分を語りうるのだから。
 だがら、桃子さんの場合はそれは東北弁でなげればならなかった。

 桃子さんの「おらおら」も「ひとり」も、そこにはたくさんの桃子さんが「柔毛突起」のようにひしめいでいて、その対話によって「思考」が進む。そこにいる桃子さん(たち)は、いわゆる近代的自我を、ひょいと「横へ超えてしまう」ようなところがある。
 なんて書いてしまうと、桃子さんに叱られそうだ気ぃもする。
「………おらおらおら、ちょっと目を離すとすぐこれだ。おめだば、すぐ思考停止して手あかのついた言葉に自分ば寄せる。………それはおめが考えたごどだが」


  文中、桃子さんの東北弁を真似した箇所があります。誤字ではありません。
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土曜日は図書館とコンサート シューマン&べートーヴェンそして村田英男?

2018-03-19 02:16:53 | 音楽を聴く
 陽気がよかった土曜日、午後、少し読書をしてから三時半頃から図書館へ。
 借りていた森一郎の『世代問題の再燃――ハイデガー、アーレントとともに哲学する』(明石書店)などを返却。森一郎は前著の『死と誕生 ハイデガー・九鬼周造・アーレント』(東京大学出版会)でよく勉強させてもらったが、今回のものは前半はまあまあだったが、後半は同じことの繰り返しのようでいまいち。
 ジュディス・バトラーの『自分自身を説明すること 倫理的暴力の批判』などを借りる。

 時間が少しあったので、図書館の中庭を散策してから、音の反響がいい(辻井伸行君などがそういっている)といわれるサラマンカホールへ。
 毎年三月、大阪フィルの岐阜定期公演があって、私は飲食店を退いて以来十数回、ず~っとそれを聴いてきた。で、今年もそれを聴きにサラマンカホールへ出かけた。指揮は御大、秋山和慶氏。

            
                図書館中庭のマンサク

 小手調べはメンデルスゾーンの序曲「フィンがルの洞窟」。弱冠20歳の彼の才気がほとばしる曲で、やがてこれは交響曲「スコットランド」へ収束されてゆくだろう。
 
 前半のメインはシューマンの「ピアノ協奏曲」。何を隠そう、私はシューマンの隠れ信者だ。三、四年ほど前、あるところでシューマンに関する報告を行った際、シューマンのほぼ全曲を聴いた。しばらくは、あの独特のシューマン節が頭から離れなかった。
 このピアノ協奏曲も、出足からシューマン節全開である。
 シューマン節とは、私が勝手に名付けたのであるが、彼独特の悲哀の表現である。そう思って聴くと彼の音楽のどこを切っても哀しみの色合いがついて回る。たとえばクララと結ばれた後の充実した時期に書かれたという交響曲第一番「春」にも、そこはかとない悲哀のようなものが流れている。

            
        図書館と美術館の間のシデコブシは三分咲きぐらいか

 私はこれを「実存的哀しみ」と名付けた。小難しい言い回しだが、ようするに、具体的ななにか、たとえば失恋した、母に死なれた、財布を落とした、などといったことが悲しいのでなく、このようにあること、あることそのもの、存在することそれ自身が哀しいといったらいいだろうか。シューマンの音楽にはどれにもそれが通奏低音のように流れている。

 ピアノ協奏曲にはとりわけそれが顕著である。聴きようによってはそれが息苦しいほどだがそれがシューマンの音楽なのだ。
 ソリストは幼少時からその才能を発揮してきた小林愛美。そうしたシューマン節をあまり意識せず、若々しいタッチで淡々と弾いていたのがかえってフレッシュだった。それを堪能して前半は終わり。

            

 後半はベートーヴェンの第六「田園」。
 この曲は、ベートーヴェンの中では最も写実的で、聞き易いというか分かり易いのでいくぶん軽んじられている向きがあるが、彼独自の構成美がはっきりしていてとてもいい曲だと思っている。
 とりわけ私は以下の三つの理由で思い入れが深いのである。
 
 最初のそれは、中学生の頃、クラシックの名曲にアニメ映像をつけたディズニーの『ファンタジア』を観たことによる。私にとっては音による印象よりも視覚による印象の方が強い。だから、ずいぶん後まで、「田園」を聴くたびにこの映像がちらついたものだ。
 ギリシャ神話を題材としたそれは、実に楽しい映像だから以下を観ていただきたい(「田園」は4分40秒ぐらいから)。

 https://www.youtube.com/watch?v=rwZUh48wBXU

 もうひとつの思い入れは、何を隠そう、私が高校生の頃、初めて買ったLPがこの「田園」だったのだ。カラヤン指揮、ベルリンフィルのものだった。
 ただし、当時、わが家にはちゃちな電動式(かろうじて手回しではなかったが)の再生装置しかなく、音は乾いた無機的な単色で味もそっけもないものだった。
 そこで私は一計を案じ、親父にもう少しましな再生装置を買ってもらうべく、そのカラヤンの盤とともに、彼が好きだった村田英男を買った。そして親父に、もう少しいい音で聴いたらと提案したのだった。
 村田英男のLPに収録されていたのは以下のような曲だった。

 https://www.youtube.com/watch?v=Em_6pq5FbnQ
 https://www.youtube.com/watch?v=vF2_ScuCrvY
 
 結果は失敗だった。わが父は、音の善し悪しなどは関係なく、村田英男が歌うだけでよかったのだった。そういえば当時のラジオだって大した音ではなかった。

              
         かつてはロビーといったがいまはホワイエというようだ

 最後は、私がウィーンのベートーヴェンが「田園」を作曲するために散策したという場所を訪れた話である。
 ウィーン市内で80回近く引っ越した(これに勝る記録はわが葛飾北斎の江戸市中93回の記録。一日に三回???)ベートーヴェンの住まいのうち、有名な「遺書の家」の近くがそれである。
 田園のイメージや一般にパストラルから来るイメージは田舎の広々とした平野であろう。しかし、ベートーヴェンが歩いたという散歩道は、郊外のお屋敷が建ち並ぶような箇所で、視界が開けたような箇所は全くないのだ。わずかにそれらしいのは、そうしたお屋敷町の傍らを流れる小川で、それは清楚な水を運んでいた。もちろん、時代の変化もあるだろうが、地形からいって、広く開けた田園ではなかったと思う。
 そこはべートーヴェンの想像力の勝利といっておこう。

             
               サラマンカホール 客席へのドア

 大阪フィルの演奏は朝比奈さん譲りの重厚な音色ですばらしい。秋山和慶氏は中部フィルでも振っていてこれで4回ほど聴いているが、臨機応変というかオケの音色をうまく引き出しているように思った。包容力のある指揮者ではないだろうか。

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賞について少々述べまショウ 「シェイプ・オブ・ウォーター」

2018-03-17 13:26:13 | 映画評論
 子どもの頃はともかく、大きくなってからは賞とは無縁の生活をしてきた。競馬だって、有馬記念は結構いい配当でとった(それでカメラを買った。カメラにはそのとき勝った馬の名前でダイユウサクと名付けた)ことがあるが、桜花賞や菊花賞はとったことはないと思う。たぶん。

 そんなわけで、世の中で賞をとったという代物にはあまり飛びつくことはなかったというか、あえて避けていたふしもあるのだが、どういうわけか今回はそれを賞味してみようという気持ちになった。

              

 まずひとつは、アカデミー賞を取った映画「シェイプ・オブ・ウォーター」である。
 舞台は1962年のアメリカ、航空宇宙研究センターであるが、若い人にはその時代背景が分からないかもしれない。ようするに、公民権運動がやっと始まった時代で、マイノリティへの差別や偏見は日常的であった時代である。

 この映画は、徹底してそうしたマイノリティが登場する。
 主人公のイライザは幼少時のトラウマで聞こえるけど発話はできない聾唖者である。その友人のゼルダは黒人であり、1962年当時の黒人はその半世紀後には黒人大統領が登場するなどとは夢に考えられない存在だった。この二人は、航空宇宙研究センターで掃除婦として雇われている。
 また、イライザが心を許す老いたる友人はゲイであり、彼が心を寄せたマッチョな青年からは汚物のようにあしらわれる。

            

 この三人が物語のクライマックスをつくるのだが、そうしたマイノリティたちの中心に現れるのが、全くの異物、究極のマイノリティである半魚人である。
 この半魚人は、アマゾンで捕らえられ、航空宇宙研究センターでの米ソ宇宙戦争での研究対象として「飼育」されている。
 
 このもっとも異質な存在にまず心を通わせたのはイザベラであった。彼らを媒介するものはまずは食というプリミティブなものであり、ついで音楽であった。論理的な意味での理解を媒介としない共感、共存とでもいうべきだろうか。その交流は、言語をも超越し、この世界に共に存在しているという実感に基づくものかもしれない。究極の他者との共存。


            

 その半魚人が科学的必要から生体解剖されることになり、それを救うべく、上に述べたマイノリティたちが結束してその救出作戦を展開するのがこの映画の山場なのだが、その詳細は書くまい。
 ただし、マイノリティたちの原始的な作戦が、航空宇宙研究センターという高度な防御体制をまんまと出し抜くくだりはおもしろい。
 しかし、そこで映画が終わるのではない。

 イザイラの部屋で、浴室を締め切って部屋中を水でみたし、半魚人と彼女が繰り広げるセクシャルなシーンは、状況そのもののナンセンスを通り越して異次元ともいうべき美しさを醸し出す。
 そしてこの描写がラストシーンに引き継がれ再現されてゆく。

            
 
 なお監督のギレルモ・デル・トロはメキシコ人、いわゆるヒスパニックで、いまなお、トランプによって差別されているマイノリティであることも言い添えておこう。
 
 煩雑を避けるために書かなかったが、この時代は同時に米ソの冷戦時代であり、相互にスパイたちが暗躍した時代でもある。科学者、ホフステトラー博士もまたそうした軋轢の中で興味がある存在である。
 反面、航空宇宙研究センターを牛耳る軍人、ストリックランドは典型的なマジョリティとして、その家庭生活も含め、当時の白人のアメリカ人を絵に描いたような存在として描かれている。

            

 映画の主題はマイノリティ、そして私たちのコミュニケーション能力でもってしては理解し合えないかもしれない「他者」との遭遇であり、それは半世紀以上経過したいまも、変わらぬ主題であり続ける。
 そんな屁理屈を抜きにしても、ファンタジックなラブロマンスとしてじゅうぶん楽しめると思う。

 実はもうひとつの賞についても書くつもりであったが、例によってだらだらと長くなった。次回に譲りたい。

 

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材木屋へテレビクルーがやってきた

2018-03-16 01:23:43 | よしなしごと
 材木屋について三回ほど書いてきましたがそのおまけのようなもの。
 
 私んちというか、私んちに隣接する材木置場にテレビクルーが入ったのです。私を撮しに来たわけではないから関係ないのですが、材木置場との境界にある洗濯干場の使用はやめました。私のパンツで画面を飾るわけにはゆかないからです。

            

 ところで、何を撮しに来るかというともちろん材木ですが、今回はその中でもイチョウの製材されたものが主役なのです。
 なぜイチョウかというと、いま密かなブームとなっているイチョウのまな板生産プロジェクトの最初の関門、原材料となるイチョウを私の甥がやっている材木商が供給しているからです。

              

 テレビの番組は、そのイチョウのまな板が原木から製品になってできるまでをドキュメンタリーとして撮すものらしいのです。
 イチョウがどうしてまな板になるのかをWikiは以下のように書いています。
 「イチョウは油分を含み水はけがよく、材料も均一で加工性に優れ、歪みが出にくい特質を持つ。カウンターの天板・構造材・造作材・建具・家具・水廻りなど広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされるほか、特にイチョウ材のまな板は高級とされている」

            

 ほかにもこんな記述もあります。
 「いちょうは、和食の料理人が好んで使うまな板です。特にいちょうの一枚板のまな板を使うのはプロとしての憧れのようなもの。なぜいちょうが選ばれるかというと、最大の特徴は、含まれる油分が多いため、水はけがいいこと。カビの原因となる水が残りにくいから、カビが発生しにくいのです。
 まな板は、硬すぎると包丁を傷めてしまうし、柔らかすぎると傷が多くついてそこから雑菌が発生してしまいます。いちょうは硬すぎず柔らかすぎず、ちょうどいい硬さ。さらに、フラボノイドが多く含まれていて消臭効果があり、生魚を切っても匂いが残りにくいところも大きなポイントですね」

               

 といったわけで、写真はすべてイチョウの木で、「A」とか「B」とか記してあるのは、節を避けた大まかな木取りの印なのです。
 なお、ライトを浴びてインタビューに応えているのは私の甥っ子です。
 まだ若いのですが、木に関しては、私の亡父、義弟譲りの三代目の専門家です。丸太を観ただけで、どの角度でどうノコをあてて製材したら、どんな木目の材木が得られるかを熟知しています。それによって、自然が育んだ命が私たちへの有用性として生き返るのです。

 家業を継がなかった不孝者の私ですが、やはり材木屋の息子なのだと思います。
 若年の頃(1960年頃)、私がTVで撮されたり、新聞に書かれたりして、同業の集まりなどで、「あんたんとこの息子さん、えらい派手にやっとんさるなも」と冷やかされても、「あれにはあれの考えがありますから」といってくれた亡父をしみじみと偲んでいます。



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あなたもできる改ざん 政府、公文書改ざんの民主化を検討

2018-03-14 01:51:33 | よしなしごと
【USO通信】政府は今回の公文書改ざんという事態を受けて、これを民主化することとした。具体的には、内閣府に設けた窓口に申し出、料金を支払えば誰でも改ざんできるということで、その動機に関連した料金体系を設ける。

            
 
 それによれば、今回のように政権にしがみつくためのものは特別Aクラスとし一兆円、最低はCクラスで、公文書に自分の痕跡を残したいといった無邪気なものには一千万円ほどの料金設定を予定。
 
 なお、この利用を広く普及させるために、ポイント制度も設けることとし、毎週月曜日はポイント二倍デーとし、また、二〇ポイントで一回分を無償とする方針。
 同時に、初回利用者に限り料金は半額にすることも検討中。
 家族割引制度も検討されたが、未成年が参加する可能性があることなどが問題視され、継続審議事項となった。

            

 詳しくは内閣府に設けられた以下の窓口を利用されたい。
  Mail abeabeasoso@kaizan.com
  フリーダイアル 0120-uso-800
 希望改ざん分野は音声ガイダンスにしたがって選ぶこと
 
 なお、改ざんのために支払った経費は、課税対象から控除されるため、確定申告時に領収書を添付して申告すること

            

 な公文書の改ざんが民主化された例はこれまでなく、世界規模での、事実とは何か、記憶ないし記録とは何か、歴史とは何かと言った哲学レベルでの論議も広く提起されるものと思われる。
 とりわけ、ファクトとフェイクが金銭を媒介として交換されうるという意味では、そうした状況下での倫理の可能性いかんの論議が巻き起こるものと思われる。
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もっともわかりやすく単純な事件

2018-03-13 15:48:40 | 社会評論
 今回の事態につきあれこれもって回った言い方が横行しているが、実際にはこれほどわかりやすい事件はないのだろうと思う。 
 まずは安倍夫妻が森友学園経営の塚本幼稚園での「教育勅語」や「五ヵ条の御誓文」を唱和させるような「教育」にいたく感動する。それで、そうした教育を義務教育である小学校にも普及させるよう、森友の小学校設立に協力することとする。

            
 
 籠池理事長はそのお墨付きを最大限利用して財務局に迫る。昭恵氏は直接財務局に問い合わせるなどの圧力をかける。
 安倍氏の方は流石に直接指示は出さなかったかもしれないが、籠池氏や昭恵氏の圧力の背後に彼が存在することは財務局には明らかだった。
 そこへもってきて、2014年に設置された官僚の人事を官邸が掌握するという「内閣人事局」の存在はそれ自体大きな圧力であった。昭恵氏の意向に逆らうことは即安倍氏の意向に逆らうことだからだ。

            
 
 だから、改ざんされた最初の公文章にある如く、「特例措置」として国有財産である土地をタダ同然で籠池氏に払い下げることにした。
 しかし、そんな無理があからさまにならないはずがない。その払下げの問題点が国会で取り上げられることとなった。
 その払い下げ価格が不当であることが明らかになり、なぜそうしたことが行われたかの論議が巻き起こるなか、財務省、財務局の第二の迷走が始まる。最初の嘘は第二、第三の嘘で塗り固めなければならない。

            
 
 佐川財務局長の答弁は、この価格設定が正当であること、その決定に際して政治的な関与はまったくなかったことをいい続けた。ようするに虚偽答弁である。
 ところが、困ったことに当初の決裁文書などには、この事案は「特例的」なものであり、総理夫人の昭恵氏からの要請があったと明記されている。
 これはまずいとばかりに14ヶ所、なかには書き換えたり、あった記述を全面的に削除した利して改竄を施した。

            
 
 で、麻生氏は、これらは現場の下っ端が勝手にやったことだからそれを見つけ出すという。そして手始めに、辞任した佐川氏の俸給カットなどを行ったという。
 安倍氏は、「そのような事態があるとすればまことにまことに遺憾」と他人事のようなしれっとした口ぶりである。
 しかし、私たちは思い起こさねばならない。こうしたわれらが宰相のグロテスクなイデオロギー的偏向に発する教育への関与が発端であり、それを実現しようとする理不尽な過程のなかで、一人の命が失われていることを。

            

 なんでそんなことで命をと人は言う。私も、なんで安倍ごとき卑しいやつのために大切な命をと思う。
 しかし先に見た「内閣人事局」の官僚支配は、官僚の独自性を徹底して排除し、官僚として生きようとする人たちをがんじがらめにしているのだ。
 
 かくして安倍氏の罪状には、今回の森友・加計問題での直接の関与共々、いい意味でも悪い意味でも、国家行政のインフラをなしている官僚機構を徹底的に私物化し、破壊し尽くしたという大罪が加わるのである。

 ようするに日本会議に属する(安倍氏がそうであることも改竄された部分に明記されている)右翼イデオローグの安倍氏が、自らの偏狭なイデオロギーに即した「安倍記念小学校」のために一肌脱ぎ、そのためのリスクを、自らの権力によって官僚に託したというのが事態の真相なのだと思う。

【おまけ】たくみに逃げおおせたかに見える加計学園のケースも上記と同様であったと思う。年に七、八回ゴルフをする盟友が、加計氏の学園開設計画を知らなかったはずはないし、それに国有地をタダ同然位払い下げた官僚たちが、安倍氏と加計氏の関係を知らなかったはずはないのだ。

 これで安倍氏が無傷で権力の座に坐り続けるとしたら、この国はもうどうしようもないかもしれない。
 




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去るもの、来たりしもの わが家の花物語

2018-03-11 16:39:45 | 花便り&花をめぐって
 悲しいことや嬉しいことがあるものです。
 「梅は咲いたか 桜はまだかいな」という俗謡(「しょんがえ節」)がありますが、今年は亡父譲りの紅梅の鉢植えが花をつけませんでした。私が引き継いでからもう25年ほどになりますが、その前、父がどれくらいの間育てていたのかは定かではありません。
 ひょっとしたら寿命かも知れませんが、木は枯れ切っていないし、小枝の先端には緑の部分もあるようなので、その再生を願ってもう少し様子を見てみようと思います。
 写真は昨年の二月末、元気に花をつけていた折のものです。

 

 うちにはサクランボのなる木があります。もう半世紀ほど前からあって、毎年、たわわな実をつけていたのですが、一昨年頃から実のつきが悪くなり、ついに昨年はほんの数える程の実しか目にすることはできませんでした。
 よく見ると、メインの枝がもう枯れてしまっています。そこで、泣く泣く伐ることにしました。そのついでに、諸般の事情で諦めざるをえなくなったビワの木とクワの木も伐ってしまいました。
 
 こうして、サクラ、ビワ、クワとそれぞれ実がなる木三本を同時に失ったのでした。
 ただし、サクラに関しては、こんなこともあろうかと保険をかけていました。数年前に、完熟したサクランボの種を何個か鉢植えにし、出てきた芽から一本の苗木を育ててきました。それがいまでは、ちょうど私の背ぐらいになり、三月に入ってから新芽を出し始めました。

              

 しかし、ここでちょっと待ったです。
 これは、二、三年前から気づいていたのですが、一般的にサクラは、花がついてから芽吹くものが多いのです。サクランボのなる木もそうでした。だとすると、この桜は違う種類のもので、花は付けないのかもしれません。
 これは昨年の話ですが、この桜は傍を通っただけでもとてもいい香りがするので、ちゃんと葉が緑になった頃、アサリの酒蒸しに二、三枚ほど入れてみたら、実にいい香りがするのです。いわゆるアサリの桜蒸しです。

              

 そんなことから考えると、私の記憶では種から育てたつもりなのですが、どうも違う種類のサクラかもしれないのです。あるいは、サクランボのなる木にするには、これを他のものに接ぎ木するなどの技術が必要なのかもしれません。

     

 しかし、いいこともありました。
 それは昨年、サクランボの木を伐る際、念の為に側面からでていた小枝を残しておいたところ、そちらの方にまだチラホラですが花が咲いたのです。
 先週の初めころに開花し、いまや満開です。と言ってもまだ密集していないのでいかにも頼りなげですが。
 やがてこの木が、成長し、かつてのように、それなりのサクランボをもたらしてくれるのではないかと期待をもたせます。

 年々歳々、人が代わり花も代わるといいますが、まことにそのようで、またそうした先入観をもつがゆえに、去ってゆく花、来たりし花に、私たちは一喜一憂するのかもしれません。
 「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と詠嘆した在原業平も、そのように春を「深読み」したが故だろうと思います。

 

 
【おまけのトリビア】
 冒頭に引用した俗謡は以下のように続くのですが、「山吹ゃ浮気で 色ばっかり」のくだりは、「みのひとつだになきぞかなしき」の和歌を捉えたものです。ようするに「色ばっかり」で「情実」の「実」がないという意味ですね。
 しかしです、山吹に実がつかないというのは俗説で、普通の山吹にはちゃんと実がつきます。実がつかないのは、八重咲きのもので、それは、雄しべや雌しべなどが花弁に変化すると八重咲きになるからなのです。
  
  梅は咲いたか 桜はまだかいな
  柳ゃなよなよ風次第
  山吹ゃ浮気で 色ばっかり
  しょんがいな
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