六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

先達にして同人、稲垣喜代志さんを悼む!

2017-10-31 14:27:22 | ひとを弔う
 私の家の居間にここ20日ぐらい前から、新しい絵(正確にはリトグラフ)が飾られるようになった。タイトルは「海」らしい。「らしい」というのは作品のなかにはそれと明記してあるわけではなく、私にそれをくれた人がそう言ったからである。ただし、後日ネットで確認はとったがやはりそうだった。

 全体に黒のモノトーンンによる墨絵のような作品であるが、縦長のそれの三分の二以上を空が占める。その下が海なのだが水平線は水平ではなく弧を描いている。
 画面右側からは岬、ないし半島が突き出ていて、右手前にはその半島のものと思われる岩礁が描かれている。
 よくみると、水平線と半島が交わる辺りの上空に、10羽近くの鳥が飛翔している。

            

 どこか底知れぬ寂寥感が漂うが、にも関わらずそれ自身は決して無機的ではなく、かつての童謡や唱歌の短調の曲のように、どこか人恋しく、懐かしさを覚えるような作品だと思う。
 なお、この半島は知床だということだ。
 
 画家は香月泰男。旧満州で兵役中に敗戦、ソ連軍によりシベリアに抑留され、収容所で強制労働に従事した。そのせいで、シベリア・シリーズなどそれを画題にした作品が多い。
 私の養父(実父はインパールで戦死)がほぼ彼と同じ経験をしているせいもあって、私自身も彼の作品にはシンパシーを持っている。

 この絵が私のうちに来たについては以下のような事情がある。
 私はここ8年ほど、同人誌『遊民』に関わってきた。この雑誌は2010年平均年齢76歳で発足し、この月初めに刊行した16号でもって終刊を迎えたが、現在の平均年齢は83歳に至っている。
 中部地区発の緩やかな、しかし一本筋が通った連帯をバックとした雑誌で読者はこの地区のみならず、北海道から沖縄にまで点在し、熱心な感想をくれたりするコアな支援者たちに支えられてきた。

 当初の主宰者、伊藤幹彦さんが病に倒れた結果、この雑誌の後半の編集作業は私に託されることになった。
 この同人の中では私は若造でしかなかったが、編集を託された以上、年長の先達をも相手に、原稿の遅れなどをチェックし、時にはやや強くそれを促すこともしなければならなかった。
 その先達のひとりにしていつも遅筆で、最も私がマークしていたのが稲垣喜代志さんだった。
 その稲垣さんの訃報が入ったのが10月28日の夜半であった。

 彼が連載していた「怪人・加藤唐九郎伝」は、若くして唐九郎に魅せられ、その内懐にまで入って親交を結んだ彼にしか書けないもので、多くのファンをもっていた。
 それだけに、欠筆のままの発刊は避けたいところであった。残念ながらそれは2号を数えたが、終刊号は私のマークがあっけないほどに締め切り前にちゃんと入稿があって有終の美を飾ることができた。しかし心残りはまだまだ未完ということであった。
 
 最終号の見通しがったったある時、私は機会を見て稲垣さんと話し、2つの点で詫びを入れた。そのひとつは、毎号毎号、締切が迫るにつれ、稲垣さんの出来具合を厳しくチェックし、その遅れをただすように督促を続けたことへのそれであった。
 そして第2には、その「唐九郎伝」が未完のまま終刊しなければならなくなったことであった。

 そうした私の詫びを、まったく意に介さないと言ってくれたのみか、ご苦労だった、ついては君にもらって欲しい絵がある、とのことだった。
 いささか驚き、かつ嬉しかった。若輩者の私の無礼を水に流してくれるのみか、それを評価し、記念のものすらいただけるというのだ。

 後日、名古屋のホテルのロビーでお逢いし、それをいただくこととなった。そしてその折にいくらかの話を交わした。
 私の方からの話は、もっぱら未完の「唐九郎伝」で、ぜひ何らかの媒体で書き続けるか、描き下ろしで単行本にまでもっていってほしいということだった。
 稲垣さんからは、君は勉強家だからこれからも新しいことを学ぶだろう、どこかそれを発表する場があればいいのにという温かい言葉を頂いた。

 それが、冒頭に書いた香月の絵が私の家の居間にあるいきさつである。

                 
 
 稲垣さんについては多くを語るまい。知る人ぞ知るだし、添付した新聞記事が要点をうまくまとめている。
 ただ私との、30年ほど前に遡る個人的付き合いについては若干述べておこう。

 最初の出会いは私がやっていた「炉端酒房 六文銭」の顧客としてだったが、もちろん風媒社という出版社は知っていた。常連となってくれた稲垣さんは、晩年と違ってけっこう飲んだ。カウンターを挟んだ客と亭主という関係だけでなく、今池界隈の飲み屋で、肩を並べて飲んだことも幾度かある。

 そんなわけで、「お前も俺のところで何か書け」ということになって、豚もおだてりゃ木に登るで同社から本を出してもらったのがもう20年以上前になる。
 その本は、一日14時間労働という厳しい条件のなかで書き急いだのと、私自身の未熟さで失敗作に終わり、稲垣さんの会社には迷惑をかけたが、それにもかかわらず、今日まで温かいお付き合いをさせていただいた。

 絵を頂いてから、もう一度、亡くなられる10日ほど前、同人一同とともに会ったが、11月には終刊の打ち上げを兼ねて、岐阜は長良河畔で会えることをお互い楽しみにしていたのに・・・・。
 一番最後に、どんな言葉を交わしたのか覚えてないない。
 当分は、稲垣さんがくれた絵に向かって話しかける以外ないのだろう。

 いろいろな別れが続き、冬へと向かう。寂しいことだ。 





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「ポスト真実」時代に関するドイツの友人への返信

2017-10-29 01:52:44 | 社会評論
 前回のブログに記した拙文に対し、ドイツのライプツィヒ大学の教授をしている若い友人K氏から丁重な感想が送られ、彼が少し前、『文學界』に寄せた同趣旨のエッセイを添付してくれました。
 彼が、現状の趨勢について、見るべきものはちゃんと見ていると、改めて思った次第です。
 以下は、そのメールに対する私の返信です。

   ===========================================

 エッセイ、拝読しました。
 さまざまな「偏り」が、それ自身の牙城を築くなか、いわゆる「共通感覚」のようなものが崩壊しつつあるのではという気もします。

             

 私自身、まだ整理していないのですが、1990年代中頃からネットへ接近してきた経由から考え、いま直面している問題と、インターネットという情報伝達との関連性についてもいろいろ考えています。
 当初、それが登場した折、既存のメジャーが一方的に垂れ流す情報伝達と異なり、その双方向性、誰もが発信者たりうる可能性は新しい局面を切り開くツールたりうるかもしれないという期待感がありました。
 しかしそれは、どうも、諸刃の剣であったようです。

             

 情報選択の可能性は、同時にそのタコツボ化をもたらしました。それがフィルター・バブルといわれる現象だと思います。ネットの場合、情報がそれらの総体的、かつ相対的な位置づけから分離されて、それ自身として並列に提供されます。
 
 それを示すのが新聞との対比です。
 新聞の場合、紙面という媒体のなかに様々な情報が、発行元や編集者の主観を経由するにせよ、総体的かつ相対的な位置づけをもって提示されます。そこで私たちは、どの情報がどのような比重をもっているのか、あるいはそれがどのジャンルに属しているのか、そしてそれらがどう関連しているのか、などなどを無意識のうちにも感得し、それらのなかでその情報を位置づけて受容します。
 こうした新聞のあり方は、政権の広報誌のような読売や産経などの新聞を含め、いろいろな立ち位置の相違はあっても、ある種共通したものをもち、それ自体は広い意味で「共通感覚」のうちにあるような気がします。

             

 しかし、現今、新聞は徐々にそのシェアーを失いつつあります。とりわけ、ネットを情報授受のツールとして尊重する部分に於いてはまったく新聞を読まない層が増加しつつあります。
 知り合いで、某大学で情報分野の講師をしている人が、情報を学ぶ学生の多数がもはや新聞をまったく読んでいない状況に愕然としていました。

 ネットと新聞という対比にのみ力点を置いては論じきれない問題なのでしょうが、いずれにしてもネットという媒体の功罪がいま一度俎上に乗せられるべきだろうと考えています。

 長くなりました。
 またいろいろご教示いただきますよう。

             
 
《追伸》 スペイン・カタルーニャの独立のニュースが入ってきました。
 グローバリズムが進むなか、ナショナリズムや宗教対立など、一方では分散化が作用する複雑な情勢になってきたことをひしひしと感じます。  
 先ごろ読んだ「ポスト真実の時代」で、津田大介は、現行の情報のあり方をグローバリズムとナショナリズムの二重性として位置づけていました。
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誕生日! 見渡せばポスト真実の時代!

2017-10-25 16:05:18 | 社会評論
     「金も七九 七九七九至る 七九」  七九歳の誕生日に
      (五・七・五の川柳になるように読んで下さい)

 天皇陛下の御ん為に、本土決戦で一人一殺、アメリカ兵と刺し違えて死ぬはずの軍国少年が、気がつけばユニセフ、ララ物資の脱脂粉乳で育ち、アメリカ軍のジープを「ギブミー・チョコレート」と追いかけ回していました。

             


 その後、軍隊が復活し、アメリカとの軍事同盟が結ばれようとするいわゆる「復古調」のなかで、私たちの一世代上がそうであったように、私たちもまた戦場に送られ、人を殺したり殺されたりする危機を覚えました。
 それ以後、そうした趨勢に対するアゲインストをしてきましたが、いつの間にか自分は戦場ではもはやお呼びでない年齢に至りました。

 ただし、うかうかすると今度は若者たちを戦場へ送り出すことになりかねません。もちろん、目の黒いうちはそこまでは落ちぶれたくはないと思っています。

                

 ところで世の中、ポスト真実(トゥルース)時代とやらで、怪しげなフェイクニュースが飛び交い、フィルターバブルとやらで、自分にとって心地よい情報のみを身にまとって、虚構の世界に逃げ込む人が多くなっているといいます。

               

 とりわけ、ネットの社会では、何が真実かよりも、嘘であろうがクズであろうが衝撃的で人々にシェアされ広まる情報が、あるいはニュースソースはどうでもよく、自分と似た連中の垂れ流す情報が尊重され、そこに安住する人たちがいます。

 こういう人たちにとってはネットの中の仮想空間こそが戦場で、自分たちの信じる快楽の領域を批判し傷つける「敵」を見出して炎上させることが溜飲を下げる最大の娯楽なのです。

             

 これらはいまさら始まったことではないといわれますが、無視できない兆候として肥大化しつつあることは事実です。
 アメリカのトランプの後押しをしたのは明らかにそうした趨勢ですし、トランプそのものが言いっぱなしのフェイクニュースを振りまいています。イギリスのEU離脱に観られるいわゆるブレグジット=Brexitでも、イギリスの経費負担が実際の三倍であるかのようなフェイクニュースが跋扈し、離脱決定後に、「あれは違ってた」といとも簡単に済まされています。つまり、イギリスの負担は過分であるとの偽情報が決定的な役割を果たしたわけです。

             

 ヨーロッパでの極右政党の増加もそうしたフェイクニュースや陰謀説と、それを快として受け止める人々によるものといわれています。
 もちろんこの国でも、そうした趨勢は目に見えて強くなり、ヤフーニュースのコメント欄や2CHなどはヘイトとフェイク、そして群れを成して噛み付く炎上軍団の巣窟と化しています。
 また、産経や読売といったメジャーな媒体が、フェイクすれすれのニュースを垂れ流したりします。

 誤認ではなく、わざわざ作られたフェイクニュースも大手を振ってまかり通っています。それを生業としているサイトもたくさんあるし、その筋からの経費負担による情報操作組織もあるようです。

             
 
 だから、私たち老人は大変です。
 足元から迫りくるオレオレ詐欺や還付金詐欺などの特殊詐欺と戦わなければなりませんし、一方では日々生産されるフェイクニュースを真に受けた連中を払いのけるべく、まさに前門の虎、後門の狼とに対峙しなければならないのです。
 いずれにしてもその手段は情報リテラシーに徹するということです。

 とくに与えられたそれの情報源、伝達経路の信頼性など二重三重のファクトチェックが必要となり、必要ならそことは違うところからの違う情報をも参照しなければなりません。まあ、いずれにしても、自分の居心地の良い情報のなかに安住しないで、あえて他なる言説にも時には耳を傾けることが必要なのでしょう。

                 

 いずれにしても、油断も隙もない世の中です。
 そんなわけで、七八歳最後の読書は『ポスト真実の時代』(津田大介×日々嘉高 祥伝社)。
 もっとも上のようなことには従前から着目し、先ごろ発刊した同人誌「遊民」にもすでに書いているのですが、前々から感じ、言葉としても散見できる事柄をいま一度整理し、復習してみたということです。






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油断もすきもありゃしない! この国は詐欺師の王国か!

2017-10-22 01:44:57 | よしなしごと
 昨日、突然こんなメールが舞い込んだ。

        ================================== 
 親愛なるクライアント
 あなたのAppleIDは、iCloudウェブサイトにサインインし、iTunes Store経由で支払いを行うために使用されました:
 日時:2017年10月20日、11 : 07 GMT ブラウザ:chrome
 サポートチームが不正な人物を検出したためアカウントにアクセスしましたが、セキュリティ対策のためにアカウントへのアクセスがロックされたため 、Apple IDアカウントページからパスワードを変更する必要があります:

ここをクリック

 敬具、アップルのサポート

        ================================== 

 正直、ちょっと驚いた。何者かが私になりすまし、AppleI Store から何かを買ったというのだ。さっそく指定された箇所をクリックしてパスワード変更をと思ったが、どうも様子がおかしい。メールのスタイルが、アップルサポートのものとは違って泥臭いのだ。

            

 はは~ん、これはパスワードを盗み出すための釣りだなと思い、その確認のため、アップルサポートへ電話をし、画面共有でそのメールを見せたところ、これは弊社からのものではありませんとのこと。私の勘は当たっていたのだ。

 ついでに、私が最近アップルのストアーから買ったり、無償でダウンロードしたものを再確認したが、私の記憶以外に不正使用された痕跡なない。
 逆に私が、偽メールをクリックし、その誘導に従ってパスワードを変更していたら、確実に彼らの餌食になっていたものと思われる。

 アップルサポートには、そのメールの発信元のアドレスなどを知らせたので、大いに感謝された。

            

 そういえば昨年、還付金詐欺の電話もかかってきた。
 なんでも医療費の過払いが5万6千円ぐらいあり、それを還付するのだが、還付の代行を金融機関に任せているので取引銀行を教えてほしいというのだ。銀行名ぐらい教えてもかまわないのでそれを告げたら、次の段階へという。これは最初から疑っていたので、「電話でのやり取りではなく、還付金受取のための文書を送付してほしい、そうしたらあなたの手を煩わせずに私が自分で取りにゆくから」といったら、電話口で何やらぐちゃぐちゃ言っていたが、突然電話を切ってしまった。どうやら、彼らのマニュアルには私の言い分への対応はなかったらしい。

 それで済んだわけだが、ひょっとして同様の手口で私のような老人が騙されてはいけないと、軽い気持ちで警察に一報したら、何分か後、ドカドカっと3人ほどの警官(うち一名は婦人警官)がやってきて、事細かに事情聴取をされたのには往生した。

            

 それと関連して思い出したのは、いまから10年ほど前、私んちへインターネットの〇〇の会員になっているのに会費が払われていない、直ちに5万円を払えというはがきが届いたことがある。やはり詐欺だろうと放置しておいたら、10日に一通ぐらい届き、その都度請求額が上がりついには50万円になり、これを払わなければ裁判だとまことしやかに弁護士の名前まで記してある。

 馬鹿馬鹿しいと思ったが、ほかに被害者が出てはと思って近くの警察署の生活安全課に届け出た。出てきた警官は、それを一瞥して、「あ、そういうの最近多いんですよね」と言ったのみで詳細も聞かずに引っ込んでしまった。その間約30秒。
 その警官の表情には、「どうせ変なエロサイトでも見たんだろう」という表情が。
 特殊詐欺が問題視されるようになったのはここ数年、今ならこんな応答をした警官は懲戒免職ものだろう。

            

 近代というのは、額に汗して働く者たちより、「頭」を使って稼ぐヤツのほうが上流だという意識が蔓延している。
 私にいわせれば、楽して稼ごうとする起業家と詐欺師とは紙一重だということだ。
 人の営みは、どのような社会形態であれ、モノを生産し、流通させる人々が基本である。その基本を中心にさまざまなサービス業や管理業が成り立っている。
 それらの堅実な営みをどこかで飛び越え、あらぬ利益を志す営みは,私のように地を這って生きてきたものからいわせると、すべからく詐欺である。

 ということで、近代は、詐欺師たちが実業を離れた虚業集団のなかでとりわけ幅を利かせている。

            

 ところで、騙される方に一言だけいっておきたい。
 自分の払った努力や実労以上の供与を求めてはいけないということ。さらには、自分の負った義務以上の過重な負担は拒否すべきだということ、この二つである。

 私がいつまで理性的でこれらのセオリーを守れるかどうかは定かではない。



 
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パラミタ(波羅蜜多)ミュージアム @三重・菰野

2017-10-15 17:45:42 | 催しへのお誘い
 過日、三重県は四日市市のとなり、菰野町にあるパラミタ・ミュージアムを訪れた。



 この美術館、御在所岳を仰ぎ見る地点にあって、創立はいま選挙中の岡田克也の叔母さんに当たる小嶋千鶴子によるもの。この千鶴子さん、岡田屋呉服店をジャスコからイオンにまで育て上げた人で、その関係で、このミュージアムは岡田文化財団の運営になっている。
 なお、この千鶴子さん、101歳でご存命との由。


 
 一階の常設会場には、池田満寿夫の陶作「般若心経シリーズ」や千鶴子の連れ合いで洋画家の小嶋三郎の作品が展示されている。
 二階はその都度の催しであり、今回は平山郁夫の作品展であった。
 また、館の裏手には回遊できる庭園があり、さまざまな樹木や山野草の咲くなか、彫刻作品などが点在している。



 このようにロケーションが良いせいか、いつ行ってもけっこう人が多く、今回も平日にもかかわらず賑わいを見せていた。
 作品については余り書くまい。
 というのは私が訪れた前日、ここでお知り合いのSさんが行ってらっしゃって、もうレポートを書いていらっしゃるからだ。
 だから、Sさんとは違うアングルの写真と、やはりここまできたら御在所岳に近づいて私の好きな渓谷の写真でもと撮ったもののみを載せようと思う。



 あいにくのどんよりとした曇り空、御在所岳もロープウエイの白い鉄塔が見えるものの、やはり山の写真はバックの空がねぇ・・・。
 渓谷は三滝川。水源から海への距離は短いが、いろいろな表情を見せる川である。



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岐阜・信長まつり 写真集

2017-10-11 00:55:45 | 日記
  これは8日に撮ったものです。
  今年は信長がかつての井ノ口村を岐阜と名付けてから450年ということでけっこう賑わっていました。
  ということで、今年の信長役はやや太めでしたが藤岡弘。
  かなり長距離(6~7キロ、2時間以上)の馬上での行進でしたが、役者魂全開で、沿道の観衆に笑顔を振りまいていました。
  後半のものは歩行者天国でのパフォーマンスなどです。


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な〜んでもない記録 「名月」名古屋バージョン付き

2017-10-07 02:04:36 | 写真とおしゃべり
  ご政道向きの話では、安倍vs小池のモノトーン対決ではどっちが勝っても大した違いないからヤダなと思っていたら、いろいろ混沌としてきたようだ。そのほうが面白い。
 というようなことは置いといて、極めて私的でどうでもいい話を。

          
                   (1)
 
 中秋の名月、夕刻、東の空にポッカリと立ち上るそれにしばし見とれていた。そのせいか、その夜は、持病のような途中覚醒の睡眠障害にも遭わず、熟睡できた。
 翌朝は当然寝覚めもよく気分も爽快だ。
 新聞を熟読。ついで多少の読書をしたらもうお昼。
 
 午後は前日予約がしてあった理容店へ。聴覚障害の人がひとりでやっている店で、もう3年ほどここばかり。意思疎通はちゃんと出来る。
 彼が「うう」と語尾を上げて問う。
 「どうしますか?」という問いだ。
 私は親指と人差し指の間を狭くして示し、その後親指とその他の指を広げたり狭めたりする。
 「バリカンを使って裾を刈り、短くしてほしいという意味だ。
 それで通じる。
 彼は「うう」と今度は語尾を上げずフラットで答える。
 「わかった」ということだ。

          
                   (2)
 
 それからあとは静寂の世界だ。もちろんBGMもない。
 瞑想にもってこいの機会だが、凡人の悲しさ、下世話で凡庸な思いしか浮かばない。後半になると半分は睡魔の虜だ。いくら前夜熟睡していても、心地いいものは致し方ない。

 こうして時間にして1時間20分、実にていねいな仕事だ。これでもってシニア料金は1,700円。なんだか申し訳ないくらいだ。

          
                   (3)
 
 身も心もさっぱりしたところで、しばらく歩いていない界隈をぶらつきながら帰る。
 いつみても風格のある蔵がある。いつ頃できたものだろう。(1)

 この辺の田んぼは、やっと稲の穂が色づき、頭を垂れてきたぐらいで、まだ稲刈りをしているところはどこもない。
 たぶん月半ばになることと思う。(2)

             
                   (4)
 
 私の顔よりもでかいくらいの柑橘類がなっている。鬼柚子とはちょっと違うようだ。帰宅してネットで調べたら、どうやら晩白柚(ばんぺいゆ)というベトナムあたりが原産のものらしい。
 あまりにも巨大で樹がもたないのか、まあまあの樹なのに2個しか実がついていなかった。(3)

 トタン屋根を直している人たちがいた。この間の台風で傷んだところの補修だろうか。かいがいしく働いている人を見ると、のんべんだらりんとほっつき歩いているのが少し恥ずかしい。(4)

             
                   (5)
 
 最後の2枚は自宅で撮ったもの。
 最初は今年どこからやってきたのか一本だけひょろひょろ生えてきた朝顔。ちょっと土の肥えたところへ移植してやったら、あちこちへ触手を伸ばし、白い花を付けた。
 流石にもう花は見られないが、これはその後に付いた実。
 種を採取して、来年は本格的に植えてやろうかどうか思案中。(5)

          
                   (6)
 
 最後は一階居間の窓。
 緑はもちろん外側の樹木だが、白いところは網戸に陽射しが当たっているところ。左下かが伸びているのはその白い部分に映った陰。光はときとして思わぬ文様をかもし出す。(6)

 最後に小林一茶の句の名古屋バージョンを。

   元歌    名月をとってくれろと泣く子かな
   名古屋版  名月を とってちょと子どもが にゃぁとるぎゃぁ

 
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前橋汀の晩年チャレンジ そのカルテットを聴く

2017-10-03 14:55:00 | 音楽を聴く
  過日、岐阜サラマンカホールでの前橋汀子カルテットのコンサートへいってきました。
 曲目や演奏者については以下の通りです。

 ベートーヴェン 弦楽四重奏曲  
   第4番ハ短調 作品18-4
   第11番 ヘ短調「セリオーソ」作品95 
   第16番 へ長調 作品135

  *アンコール 
    チャイコフスキー「アンダンテカンタービレ」 
    ベートーヴェン 作品18-2 フィナーレ 

  前橋汀子(第1ヴァイオリン) 
  久保田巧(第2ヴァイオリン) 
  川本嘉子(ヴィオラ) 
  原田禎夫(チェロ) 

          

 前橋汀子さんといえば、まだ戦後の雰囲気が残るなかでヴァイオリニストを志し、とりわけ、オイストラフの日本公演に触発されて、当時のソ連への留学を目指して中学生の頃からロシア語を学び、1960年、17歳でレニングラード(現・ペトログラード)音楽院への留学を果たし、さらに3年後には、アメリカのジュリアード音楽院に留学したひとです。

 ようするに、60年代初頭の雪解け現象があったにしろ、東西冷戦下のその双方の音楽を身をもって学んだことになります。
 さらに60年代後半には、渡欧し、スイスのモントルーに住居を構えていた晩年のヨーゼフ・シゲティの門を叩き、その教えを乞います。

            
             サラマンカホールのシャンデリア

 デビューは、1970年4月、ストコフスキー指揮によるアメリカンシンフォニーで、ニューヨークカーネギーホールでのことでした。
 以来、半世紀、デビュー以前の演奏活動も含めると、今年で演奏活動は55年になるそうです。

 以後、国内外の一流オケとともにソリストとして協演する傍ら、リサイタルなどでも活躍してきました。
 こうしてもっぱらソリストとして活躍してきた彼女が、カルテットを組み始めたのは3年前からでした。それは、若き日にジュリアードに留学した折知ったカルテットによる表現への魅力を、晩年に至って自ら再現したいということのようです。
 今回のプログラムもそうでしたが、ベートーヴェンの弦楽四重奏の全曲の演奏を目標にしているようです。

          

 で、具体的な演奏ですが、プログラムなどによると彼女がリーダーのカルテットということになっていますが、アンサンブルの場の仕切りといいましょうか、音による誘導といいましょうか、それらはむしろチェロの原田禎夫によっているように思いました。長年ソリストとしてやってきた彼女に比べ、アンサンブルとしての経験は原田禎夫のほうが遥かに豊かなのですから、それはやむを得ないのでしょう。

 同様のプログラムですでに行われた地方の演奏をお聴きになった音楽経験豊かで耳の肥えた方の、彼女の醸し出す音色などへの意見も拝見しているのですが、耳の悪い私には確たることはもちろんいえません。
 しかし、1943年生まれ(私より5歳下だ)、古希を過ぎた彼女が、これまで未体験のカルテットで、ベートーヴェンの全曲に挑むそのチャレンジャー精神を買ってやりたいと思います。

 聴衆の拍手に対して、子どものような表情で(もともと童顔なのですが)破顔一笑して応えていた彼女を今後も応援してやりたくなりました。
 かつてのビッグネームも、その陰りが見え始める年齢、それをも押して頑張れとういのは単に自分と重ね合わせた、いってみればエゴイスティックな投影なのかもしれません。

 考えてみれば、音楽を聴くということも好きなのですが、それ以前に人間が好きなのでしょうね。だから、シニアグラスをかけて、楽章ごとに楽譜を確認してでなければ弾きはじめることができないそんな彼女に、勝手に感情移入してしまうのです。

            

 まあ、私の音楽の聴き方も、恣意的で皆さんの参考にはならないようでしょうね。
 このカルテット、今後共にこれらのプログラムで全国ツアーを行うようです。
 あなたのお近くにいった際には、ぜひ前橋汀子さんに会いに行ってやってください。

なお、以下に世界を舞台に活躍していた彼女が、1980年に日本に戻ってくるまでの軌跡を、自ら綴った文章があります。
 すでに鬼籍に入った一世代も二世代も前のビッグネームとの交流が綴られていて、彼女自身の長い活躍の跡が偲ばれます。


  http://www.officemusica.com/maehashi_history.html
 



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