六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

映画『哀れなるものたち』を観る

2024-03-22 02:23:13 | 映画評論

 年始の開演から少し遅れたが、やっと観る機会があった。
 こんなの観せられるとやはり映画ってすごいなぁと思う。
 回想シーンを主としたモノクロの映像とリアルな世界のカラー、外部世界として見せる都市シーンのガウディを漫画チックにしたような様相、それらはこの映画が描く時代を「はてな?」のなかに入れてしまう。解説によると19世紀末の英ヴィクトリア朝の出来事だとのことだが、そんな限定は吹っ飛んでいる。
 色彩と画像の面白さに加えて、音響も効果的で面白い。

          

 高度な脳外科手術が可能で、異種生物の接合手術すら可能なことを見せる映像からはSF的な近未来が頭に浮かぶが、登場する人物たちの衣服や振る舞いはなるほど19世紀末なのかもしれない。にも関わらずである、主人公が成長し到達する世界はまさに21世紀の現実ですらある。

      

 いささかネタバレになるが、映画の状況設定としての主人公の特殊な情況を述べておこう。
 彼女は、胎児を宿しながら自死した女性なのであるが(その自死の原因が夫のサディスティックなDVであることは後半で判明する)、脳死はしているものの生体反応はあるということで、宿していた胎児の脳が彼女に移植され、赤ん坊の脳を持った成人女性としての復活を遂げる。

      



 彼女を規定しようとすると妙なことになる。彼女は自分の母であると同時に自分の娘でもある。そうした「胎児の脳をもった成人女性」の知能と精神の成長過程の映画である。
 外界へと旅する彼女のロード・ムービー風の冒険は凄まじい。それも、この映画がR-18に指定されている面でのものが多い。しかし彼女は、それを身体的快楽としてのみではなく、「女」が生きてゆくうえでの体験として対象化し、それによってたくましく成長して行く。

      

 脳の移植という特殊な条件はあるものの、ようするにこれは女性の成長物語である。
 しかし、そうした女性の成長というのはこれまではそれを見守る「寛容な男」に支えられたものとして描かれてきた。ギリシャ神話のピグマリオンの物語、源氏物語の「若紫」の話を始め、映画では『マイ・フェア・レディ』もその類だろう。

      

 しかし、この映画はそうした寛容な男の影は皆無ではないにしろ、むしろ彼女の成長は彼女自身の体験と学習によるものとする。この辺が新しいといえば新しいのかもしれない。

 主演のエマ・ストーンの体当たり演技がすごい。脳がまだ幼少期の身体の動かし方から次第に成長する過程の表現、表情の変化。後半の何処かで、かつてやはり映画で観たメキシコの女性画家、フリーダ・カーロを思わせる表情にも出会った。

          

 後半の彼女のレズ体験の場面で、席を立って帰った老夫婦(カップル)がいた。何を話ながら帰ったのだろう。

 『哀れなるものたち』監督:ヨルゴス・ランティモス 主演:エマ・ストーン 23年

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名古屋に名画座系新映画館、今日発足!

2024-03-16 17:16:45 | 映画評論

 

名古屋に映画ファンのための新しい小劇場、ナゴヤキネマ・ノイが本日、発足しました。

私も呼びかけ人の一人です。クラウドファウンディングには、想定を超える人々が応じてくれました。

そのお陰での今日の発足です、名古屋周辺での映画ファンの皆さん、あなたのフィールドの一つに是非ともお加えください。

https://nk-neu.com/

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映画『そして父になる』再見

2024-03-12 16:44:22 | 映画評論
NHK/BSで是枝裕和監督の『そして父になる』を観る。2013年秋の公開時、劇場スクリーンで見ているので2度目である。
初見時、タイトルも適切でいい映画だと思った。それが再見の理由だが、この映画が逡巡するところで私にはかすかな違和感がつきまとうのだった。
それは、私が養子であり、父母との血縁関係をもともともっていないからかもしれないと思っていた。
ある種の動物たちは血縁に支配され、自分の血縁を守るために血筋の違う子を殺すこともある。
そうした野蛮から開放されたのが人間社会なのだと漠然と理解していた。血縁なんかどうでもいいのだと。
しかし、よく考えてみたら、私自身、万世一系の血筋をもって国の元首とする日本国の臣民なのだった。嗚呼。
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無為と有為・・・・アキ・カウリスマキ『枯れ葉』を観る

2024-03-02 02:07:55 | 映画評論
 今年の2月は、1日おまけがあるからそれを消費する意味でも映画を観に行った。正確に言えば映画と言うよりもアキ・カウリスマキを観にいったといったほうがいいかもしれない。もう何年も前だったろうか、、彼は引退を表明した。あの独特の画面がもう見られないのかという思いを覚えている。その彼が、改めて映画を作ったというのだからそれはやはり見るしかない。しかも、2月のおまけ29日だ。

           

 カウリスマキのファンなら、目隠しをして連れて行っても、5分もその画面を見ている間にそれがカウリスマキの映画だということに気がつくだろう。彼の画面は余計なものをそぎ落とし、セリフも決して饒舌に過ぎることはない 。 映像と出演者の表情と佇まいがその全てを語っていく。付随的に音楽が使用されるが、その使用の仕方も いわゆる映画音楽を超えた独特のものである。

 冒頭近くラジオから流れるのは「竹田の子守唄」だし、昔懐かしい「マンボ・イタリアーノ」が演奏されるかと思うと、カラオケでシューベルトの「セレナード」が朗々と歌い上げられるといった具合だ。

                   

 前置きはともかくとして、映画の内容は一見変哲のない 中年の男女の恋愛物語である。 彼らがなぜ惹かれあったのかなどの余分な説明はいっさいない。カラオケバーでのふとした出会いというしかない。その二人がどうしようとしているのかの説明もない。

 しかし、その二人の共通点といえばコスパやタイパを重視する「有為な」世界でお互いに疎外されているということだ。女性は、勤務先のスーパーで賞味期限切れで廃棄するものを食料を乞う人に与えたことで馘になるし、男性もまたその隠れた飲酒で馘首される。
 いって見れば、そうした「有為な」世界から疎外された「無為な」男女の出会いと言うほかは無い。

       

 そうした有為と無為を際立たせるのは、二人がつけるラジオで絶え間なく流れる ロシアとウクライナの戦争についての情報がである。これぞまさに、経済、軍事、国家、同盟などなど「有為」の極限で行われているこの時代の確固たる現実である。
 この「有為な現実」と、二人の恋愛劇の並列こそこの映画の骨格をなしている。

 もちろん、無為とはいえそこにはささやかな(が本人同士にとってはただならぬ)ドラマがあり、事態は進む。

       

 そしてそのラストシーン、二人がカウリスマキおなじみの愛犬「チャップリン」とともに歩くシーンのバックにはシャンソン「枯れ葉」が流れる。
 カウリスマキのラストシーンの歌としては、私などは『ラヴィ・ド・ボエーム』(1992年)のあの「雪の降る町を」の哀愁に満ちた調べを思い出すが、この『枯れ葉』での歌は、本場フランスのそれよりかなり明るい表情で歌われる。もちろんそれは、映画の内容と呼応している。

       
 なお、かつてのカウリスマキの映画といえば、スクリーンのこちら側まで煙が漂ってきそうな喫煙シーンが普通だったが、今回のそれは、前半にそれらが出てくるにとどまる。それもまた、映画の内容の反映であろう。

*ここで用いた「有為」・「無為」という言葉は、哲学者たちが使うそれ、例えばモーリス・ブランショのそれやナンシーの『無為の共同体』などでの概念とは異なるが、多少、かすめるものはあるかもしれない。
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戦後は誰が? 『ほかげ』(塚本晋也:監督 趣里:主演)を観る

2024-01-28 02:36:40 | 映画評論
 前回、映画を二本観たことを述べた。
 実はこれから述べるのが観たかった本命の方なのである。
 『ほかげ』(塚本晋也:監督 趣里:主演)

          
 舞台は先の戦争直後の闇市が幅を利かせている時代である。
 映画の前半は、その一隅で名前のみの居酒屋で、酒一杯を飲ませ、二階で体を売る女の店が舞台となる。その女と、かっぱらいの戦争孤児と、金のない復員兵の奇妙な同居が続く。

 それぞれが戦争に依るトラウマ=PTSDを抱えていて、睡眠時などの追体験に依る発作にしばしば見舞われる。
 復員兵は戦場での凄惨な場面に、孤児は自分が一人で放り出された悪夢に、そして女は夫と子を失った記憶に苛まれる。

       

  この疑似家族のような関係は、復員兵のPTSD症状の悪化によって崩れる。後半でこの男が廃人になったことが示唆される。
 残った女と孤児は共に失った親子関係の回復であるかのように心を通わせ、孤児は女の「ちゃんとした仕事をもつんだよ」との言いつけを守ろうとする。

 ここまで(映画の前半)はほとんどが女の店を舞台としてる。
 様相が変わるのは、孤児が謎の男(森山未來)と出会って以降である。二人は、ロードムービーのように行動をともにするが、彼もまた、戦争のトラウマ=PTSDを抱えた男であることが明らかになり、その軽減のために(本質的な解決はない)孤児の協力のもと、ある行為を実践する。

       

 それは、原一男監督のドキュメンタリー『ゆきゆきて、神軍』で描かれた奥崎謙三の行為に似ているが、より暴力的である。

 彼との一連の行動を終えた孤児は女のもとに戻るが、女は戸を閉ざしたまま対面しようとはしない。しかし、彼に「ちゃんとした仕事をもつんだよ」と繰り返し、もう、ここヘは来てはならないと言い渡す。

 孤児は闇市へと歩み、まともな仕事をと忙しそうな店の手伝いを進んで行うが、それまでのかっぱらいの行為が知れ渡っていて、信用されず、殴り飛ばされたりもする。
 それでも必死にその仕事にしがみつき、やがては一定の位置に居座る過程は、女との約束を守ろうとする孤児の懸命さを示していてジーンと来るものがある。

       

 そんな折から、一発の銃声が闇市に響く。それは、女の言いつけに従って孤児が置いてきた拳銃で、おそらく梅毒に侵されて容貌が崩れていった女が、自らの終焉を選んだことを示唆している。

 それはまた、戦争に依るトラウマ=PTSDの一つの終わりを描くと同時に、少年に託された未来を表しているかにも解釈できる。しかし、その解釈は凡庸すぎると思う。
 あの孤児は、実はほぼ私と同年だと思われる。何が言いたいかというと、私たちが歩んできた戦後は、果たして戦前や戦中をどのように凌駕してきたのか、凌駕してきたといえるのかという問いに行きつく。

       


 この映画に出てくる人物のほとんどが何らかの意味で戦争に依るトラウマ=PTSDに侵された者たちである。
 しかし、戦後の「復興」といわれるものは、この人たちのリーダーシップによって、再び戦争に依るトラウマ=PTSDを生み出さないものとして形成されたのであろうか。

 そうではない。むしろ、トラウマ=PTSDの被害者ではなく、そんなものは経験もしなかった、むしろ加害者たちによって形成されたのではなかったか。
 国体は護持され、戦前の精神に根ざした保守政治家たちが一貫して支配してきたのがこの国ではなかったか。
 かつての日独伊の三国同盟において、国旗も、国歌も、そして国家元首すらそのままであるのはこの国だけである。

       

 だから、戦争に依るトラウマ=PTSDは今なお解消されないままこの国の底辺でうごめいている。塚本監督のこの映画は、改めてそれを知らしめたともいえる。

 なお、主演の趣里は、今の朝ドラの主役とはとても思えない役柄を、重みを持って演じきっている。こんなに幅がある女優さんだとは知らなかった。
 それからもう一つ、戦災孤児の少年塚尾桜雅くんの眼差しがとてもいい。上に述べたように、映画が描く時代、私は彼と同じ年代だったが、どんな眼差しをしていたろう。

■以下に予告編を載せておく。
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今年始めての映画、しかも二本。『ポトフ』とそして・・・・

2024-01-27 02:20:53 | 映画評論

 1月ももう終盤。もちろんTVの画面で観た映画はある。しかし、私が映画を観るというのは劇場でのスクリーンでのことである。

 なぜ、二本観ることになったかというと理由は単純である。本命の映画の上映時刻を検索していたら、同じ映画館、同じスクリーンで、私がマークした映画の前に、ン?これもという映画を上映していたからである。
 ならば、どうせ交通費を使ってわざわざ出てゆくのだから二本まとめて観てしまおうということになった次第。

         

 バスで岐阜の中心街へ出る。車中で本を読んでいたら、降りるべきところを通り過ぎてしまった。ひとつ先のバス停から徒歩で引き返す。
 時間に余裕をもって出たからその点は大丈夫だが、その道が危ない。というのは、昨日、岐阜はかなりの雪に見舞われたから、それが溶け切らず歩道を覆っていて、しかも、朝から踏み固められたところではうまく歩かないとツルリンスッテンの危険がある。
 若い人がさっさと歩くのをみながら、一歩一歩慎重に踏みしめてゆく。こんなところでツルリンスッテンで足腰を痛め、寝たっきりではたまらない。

 映画料金のシステムはよく分からないが、二本分まとめて買ったら2,000円になった。いつもはシニア料金でも一本1,200円なのに。バス代の往復分が浮いた勘定になる。

     

 で、最初は本命ではない方の映画『ポトフ』(監督:トラン・アン・ユン)。画面はいきなりドキュメンタリータッチの調理の場面で始まる。この瞬間、この映画も観てよかったと思った。この迫力、臨場感、登場人物の張り詰めた動作・・・・これらは私んちのTVのさして大きくない画面では味わえないものだ。
 ちなみに私は、映画館ではいつも前方に陣取り、画面全体の迫力を浴びるようにしている。

 料理の演出家と思われる主人公の意志を理解し、ときに自分なりの流儀をも発揮してその演出を現実の料理に仕上げてゆく女性の機敏な動作と適切な判断が素晴らしい。
 脚本家や演出家がいて、それに呼応したアクターが一つのドラマを完成させるように、鮮やかに料理が完成する。いずれも、和食系の手抜き料理しか作らない私には縁遠いものだが、その手順は素晴らしい。

     

 この料理のレシピ考案家=脚本家とその造り手=主演女優はすでに中年に差し掛かったいるが、恋仲ではあるといえ結ばれてはいない。これが映画の中盤、結ばれ、結婚にまで至るのだが、その途上のセックスシーンに至る過程を思わせる描写が面白い。
 いずれも、シャワーを浴びたりベッドに横たわる女性の美しいヌードが後ろ姿で出てくるのだが、そこでシーンがカットされる。

 二人の結婚式で新郎が語る「人生の秋に結ばれる」くだりのセリフは詩的で美しい。しかし、映画の前半から示唆されていた彼女の体調の悪さが災いして、彼女の死に至り、秋は冬へと転調する。
 折しも彼は、ユーラシア皇太子歓待の晩餐の調理を任され、豪華絢爛なフランス料理ではなく、家庭料理ポトフでチャレンジしようと彼女と決めていて、その準備を進めていたのだが、哀しみの中で酒浸っている彼にはもうその気力はない。

     

そんな彼を再び立ち上がらせるのは、冒頭で出てきた初々しい少女である。彼女は、絶対音感に相当するような絶対舌感をもち、出来上がった料理を一口味わうのみで、もはや原型を留めぬその食材の数々や用いられた調味料などを言い当てることができるのだ。
 この彼女の再出現が、彼の最高のポトフへの挑戦を蘇えさせるところで映画は終わる。
 
 ここには、最後に青少年を登場させて未来への希望を託すという映画や小説でよく用いられる一般論もあるかもしれないが、老年の私はむしろ彼自身の再生の物語としてこれを解釈したい。

     

 私は普通、映画の紹介では古いものはともかく、最近のものではこれから観る人たち
のことも考え、その映画のストーリー展開まで語ることはない。
 しかしあえてここまで突っ込んで語ったのは、この映画はまさに劇場の画面で見聞するものでストーリーの解釈などは二の次だと思ったからだ。
 
 「見聞」と書いたのは、映像はもちろんだが、この映画ではいわゆる映画音楽や効果音などは一切使われず、現実音のみで表現されていることだ。だから、その調理の場面などの臨場感は半端ではない。
 厳密に言えば、ラストシーンとクレジットで音楽が流れるが、これはクラシックコンサートなどのアンコールでよく用いられるマスネー作曲の「タイスの瞑想曲」で、原曲がヴァイオリンなのに対しピアノ演奏となっている。

 三分余の予告編を以下に載せるので興味のある方はどうぞ。
 https://www.youtube.com/watch?v=o0_1wXxZo5k

 もう一本観たのは塚本晋也監督の『ほかげ』で、こちらの方が観たい本命だったのだが、もうじゅうぶん長くなってしまった。回を改めたい。

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マジョリティが恐怖する時 映画『福田村事件』を観る

2023-10-15 02:29:21 | 映画評論

 森達也監督によるはじめての劇映画である。これまで、彼の作ったドキュメンタリーは2,3本観ていて、対象に真摯に向き合う監督であるとは思っていた。その監督の初めての劇映画ということで、やや上から目線の言い方になるが、お手並み拝見という意識もあった。さらに私には、ここは外さないで観ようという点が若干あった。

 映画が描いているのは、100年前の関東大震災の際、6000人に及ぶ朝鮮人虐殺に関し、朝鮮人と「間違われて」千葉県福田村で殺された香川県からの行商人老若男女9人(胎児を入れると10人)の経緯を描いている。
 私の関心は、この映画がそれをどのレベルまできちんと描いているかにあった。
            

 どういうことかというと、この朝鮮人虐殺事件は、通説では無責任な流言飛語によって(今日流にいえばフェイクニュースによって)広汎な付和雷同を生み出し、それが惨劇に繋がったということになっている。このレベルでさえ認めない小池百合子(惨劇は自然災害の一端であり改めて弔う必要はないとする)などを考えると、ひとまずそのレベルでの了解は妥当かもしれない。

        

 しかし、このレベルで終わらせてしまうと、流言飛語を飛ばし、それに惑わされた無知蒙昧の人々の責任に事態は決着してしまう。だが、本当にそうであろうか。私はこうした疑問をすでに自分のブログなどに書いてきた。
 なにがいいたいかというと、事実とは異なる流言飛語が生産され、流通する基盤が、他ならぬ国家権力とそれに追随するメディアによってすでに張り巡らされていたということである。

 震災に遡ること13年、1910年に日本がその軍事力をもって朝鮮を併合し、植民地とした。しかも、その言語や宗教、あるいは姓名をも奪うような内鮮一体を図りつつあった。もとよりそれは朝鮮の民衆にとって屈辱的であり、それに抗して解放独立への機運が高まってゆく。

        
 
 そして、1919年(震災の4年前)3月1日、朝鮮の宗教界(天道教、キリスト教、仏教)をリーダーとする独立運動が起こり、それは瞬く間に朝鮮全土に広がった。その中には一部、暴徒化するものもあったが、それに対する日本側からの警官、憲兵、軍隊による鎮圧行動は凄まじかった。一説によれば、朝鮮側の被害は、死者7,509名、負傷者1万5,849名、逮捕者4万6,303名、焼かれた家屋715戸、焼かれた教会47、焼かれた学校2に上るともいわれる。

        

 ところで、これに対する日本の国家権力の公式見解はどうであったかというと、独立解放の背景などには一顧だにすることなく、「不逞鮮人の不埒で無法な暴動」で片付けてしまい、当時のほぼ唯一のメディア(ラジオ放送は25年から)新聞もそれを垂れ流すに終始した。その結果、朝鮮人=不逞鮮人=無法な暴行殺戮の実行者というイメージが当時の日本人には予め刷り込まれていたのであった。

 なにがいいたいかというと、朝鮮人虐殺の要因は無知で無責任な連中の流言飛語とするのは事実ではない。そればかりか、日本の国家中枢が、震災後の非常時に不逞鮮人の(日常的な被抑圧に対する)報復的な行動がありはしないかと警戒した事実が報告されている。
 したがって、朝鮮人虐殺は、実際には日本の国家権力が直接的、間接的に主導したともいえるのである。

        
 
 日常の平穏時、マジョリティ(多数派)はマイノリティ(少数派)の力による抑圧の上に自分たちの体制が築かれていることに無自覚のまま、その平穏をむさぼることができる。
 しかし、一旦(大震災のような)コトがあると、その平穏はゆらぎ、自分たちが踏みつけてきたマイノリティによる報復があるのではという猜疑心のなかに立たされる。

        

 それが大震災時の「報復への反撃」として実行されたのが、自分たちがそれを抑圧することによって平穏を得ていた代表格としてのマイノリティ=朝鮮人であり、さらには、それと間違われたとされる香川県から来た行商人=部落民であり、東京亀戸署で殺された社会主義者10名であり、憲兵特高課で殺された大杉栄、伊藤野枝、甥で6歳の橘宗一少年であった。殺されはしなかったが、それらマイノリティの一員として、この映画は、当時の癩病患者(ハンセン病患者)の巡礼も登場させている。

        
 
 また、これも殺されはしなかったが、村長やその同級生で3.1運動での朝鮮人虐殺を目撃し、不能になり、教師も辞めて帰郷した男をともに大正デモクラシーの末裔としてマイノリティの地位へと格下げされる様子が描かれている。

 もちろん、このマジョリティ・マイノリティの関係はさほど単純ではない。本来、マイノリティである部落民が、朝鮮人に対する強烈な差別意識をもってることもこの映画は描いている。
 そんななか、朝鮮人かどうかを疑われ、それによって生死が分かれる境地にある部落民のリーダーが、「じゃ、朝鮮人だったら殺されてもいいのか!」と叫ぶシーンが強烈であった。

 結果的にいうならば、以上みたように、森監督はそれらの事象を描ききっていたように思う。
 
        
 
 さて、今日の私たちはどうであろうか。流言飛語やフェイクニュースから自由であろうか。日常的にはマジョリティに逆らうことなく生きたほうが暮らしやすいかもしれない。しかし、それ自体が実はマイノリティを抑圧する側にブレているのではないだろうか。例えば私たちは、辺野古に基地はいらないと何度も民意で示している沖縄の人たちを見殺しにしてはいないだろうか。

        

 私は、映画評論というのは苦手で、その映画が描いているものについてしか語ることは出来ない。しかし、森達也監督は、「福田村」で起こった事件について、過不足なく、その要因を描いているように思った。


なおこの映画には、私の40年近い友人、浪花の歌う巨人・バギやんこと趙博氏が出演している。在日である彼が、それを襲う日本陸軍の軍人で出ているのは皮肉だが、彼のこの映画の主旨への共感からの出演として、もちろんそれは納得できる。
 
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映画『ひろしま』 戦後の息吹が伝わる・・・・

2023-08-07 14:21:45 | 映画評論
 この時期、皆様に見ていただきたい映画『ひろしま』。1953年のものです。
 
 
 監督は関川秀雄。
 
 岡田英次、月丘夢路、山田五十鈴など往時のそうそうたる俳優が、汚れ役で登場します。
 音楽はこの翌年『ゴジラ』でやはり音楽担当をする伊福部昭。何となくその繋がりもわかります。
 
 
 ラストシーンをみると、CGのない頃、この膨大な民衆が熱気を込めて実際に参加していた事がよくわかります。
 
 投下後、8年、その凄まじさがまだ物語や歴史になってはいない頃の映画です。
 
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今年始めての映画館 ドキュメンタリー二本のうち『スープとイデオロギー』

2023-02-09 15:27:43 | 映画評論

 TVの画面越しでの映画は観ていたが、映画館のスクリーンでは今年初めて。しかも、二本続けて、さらにどちらもドキュメンタリー。

      
                  

 一本は、かつて私が観て感動した、帰国事業で北へ渡った兄が一時帰国でやってくるということを巡っての劇映画『かぞくのくに』(安藤サクラ、井浦新など)を撮ったヤン・ヨンヒ監督(在日二世のコリアン女性)が自分の母を対象にしたドキュメンタリーで『スープとイデオロギー』と題されている。

            

 この母も、そして既に亡くなっている父も、朝鮮総連(北側の在日コリアンの組織)の活動家であった。そのせいで、ヤン・ヨンヒ監督の三人の兄はすべて、いわゆる帰国事業で北へ「帰って」いる。その兄の一人が一時帰国した折の状況を踏まえた劇映画が私の感動を呼んだ『かぞくのくに』だったわけだ。
 このドキュメンタリーは、監督の一家がなぜ「北」を選んだのかを1948年の済州島事件に遡って明らかにする。

       

 済州島事件というのは、第二次大戦後(日本敗戦後)、38度線で分断された南側の権力者たちが、南側だけの選挙を行い、分断されたままの国家を立ち上げようとしたのに対し、それに反対する済州島の住民に対し加えられた大弾圧である。
 1954年まで続いたというその弾圧の凄惨さは、「政府軍・警察及びその支援を受けた反共団体による大弾圧をおこない、少なくとも約1万4200人、武装蜂起と関係のない市民も多く巻き込まれ、2万5千人から3万人超、定義を広くとれば8万人が虐殺されたともいわれる。また、済州島の村々の70%(山の麓の村々に限れば95%とも)が焼き尽くされたという」(Wikiによる)。

       

 このドキュメンタリーの主人公=監督の母は、その折、18歳であり、後に監督の父(朝鮮総連幹部)となる男性とは別に、若き医師と婚約関係にあったが、この男性はその父とともに済州島事件で殺害されてしまった。
 済州島事件で、活動家でもない住民をも対象とした殺戮撃は凄まじく、母の証言によれば、かたわらの小川は赤く染まって流れていたという。

 この済州島事件を始めとする南での惨事の連続は、日本の敗戦で一度は帰国した在日コリアンを、さらには新しいコリアンをも亡命同然に日本へ向かわせた。
 監督の母も、幼いきょうだいを伴い、済州島で30キロを歩き、手配した船で日本へ入国したのであった。

       

 ここに、彼女と、後に連れ添った夫とが、南側ではなく、北側の朝鮮総連の活動家になった経緯がある。そして同時に、戦後の在日コリアンの90%以上が南の出身でありながら、なぜ北側の「朝鮮総連」に圧倒的に多くの人々が所属していた時期があったのかを解く鍵がある。

       

 さらにはそれが、のちの北への帰国事業に発展し、息子たち三人の北への「帰国」となり、そしてこのドキュメンタリーの主人公の連れ合いにして監督の父は、亡くなったあと平壌郊外の墓地に眠っているという。
 要するに、済州島事件は朝鮮半島分断とその双方におけるその後のいきさつを決定づけた事件だったのであり、ヤン・ヨンヒ監督一家はそうした歴史的経由をまるまる抱え込んだいっかだともいえる。

       

 映画のクライマックスは、認知症に侵された母が、2018年、済州島で行われた4・3弾圧70周年記念大会に参加するところである。記念式場では、沖縄の平和祈念公園同様、済州島事件で亡くなった犠牲者を彫り込んだ黒い御影石が建っている。刻み込まれた無数の名前。それを前に、半ば記憶を失った母は、かつての婚約者などの名を捜す。
 そこでは見つからなかったものの、後に訪れた広大な共同墓地で、それは確認されたという。

       

 タイトルの『スープとイデオロギー』は、しばしば出てくる全身の鶏肉の腹に、にんにくやナツメなど香辛性のものを詰め込んでじっくり煮込んだ蔘鶏湯に似た料理が対象で、いろいろな歴史的変遷、立場の変化などがあっても、その味は変わらないというところから付けられたらしい。

       

 在日コリアンの一家族、その母の記憶、並びに記録だが、それは既に述べたように、朝鮮半島の戦後史を凝縮した形で色濃く保つものであった。 とはいえ、そのタイトルが示すように、話はその母と監督夫妻を中心としたホームドラマのような展開で、固っ苦しかったり、重苦しかったりといった感はない。

 もうじゅうぶん長くなってしまった。もう一本の方はまた回を改めることにしよう。

   名古屋シネマテーク 2月17日まで   

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赤い実の競演と映画『サンザシの樹の下で』の思い出

2022-11-02 15:06:48 | 映画評論
 
 出先で見かけた赤い実の競演。ナンテンとサンザシ。
 
 かつて観た『初恋のきた道』のチャン・イーモウ監督の映画、『サンザシの樹の下で』(2010)を思い出した。
      
 
 文革のなか、党幹部の息子である若者と、地方へ追放された娘との恋物語。固く誓い合ったはずの恋であったが何故か男は離れてゆく。そして・・・・。
 
     
 
 今思い返すと、チャン・イーモウなりのソフトな中国批判であったと気づく点がかなりある。文革もだがその核政策への問題点をも含んでだ。
 
     
 
 これを観たすぐ後、11年前に書いた映画そのもの記事は以下。
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