六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

異質のコラボとオーバーラップが楽しい二人展

2019-04-28 15:01:28 | アート
  まったく私には関心のない元号騒ぎとそれに伴う十連休が近い日、「小笠原宣・荻下丈二人展 旅の途中でジョー君とであった」に出かけた。
 入場は無料である。



 場所は十六銀行旧徹明町支店で、いまは岐阜市の歴史的建造物に指定されている「じゅうろくてつめいギャラリー」。昭和十二年に建設されたこの建造物は、戦火をくぐり私とほぼ同年を生きてきた。だから内部には、往年の金庫がデンと控えている。

       

 二人展だが、この二人が対照的だ。
 小笠原氏は1952年生まれ、岐阜市の出身で、安井曾太郎の画業にちなんだ洋画壇の芥川賞ともいわれる安井賞を1984年に受賞しているベテランだ。
 片や、荻下丈君は、2004年生まれ、若干15歳の大垣市の現役中学生である。
 年齢差約半世紀、異色の取り合わせである。

       
       
 会場に入る。天井も高く、ゆったりした空間のなかに、作品が展示してある。
 通常の展示と違って、一方向への流れというのとはちょっと違う。
 「いらっしゃい」と近づいてきた作務衣の人に、「どちらから観るのでしょう」と尋ねたら、「どこからでもご自由に」とのこと。

       
 全体の作品の展示は上の案内のようで、小笠原氏の作品を取り巻くように丈君の作品が描かれている。そして、その接点には両者の合作、丈君の線描に小笠原氏が彩色したものがある。その意味で、この展示は二人の作品の並列ではなく、その差異そのものの提示であると同時にその融合の試みでもある。

       
         

 作務衣の人が小笠原氏だろうと当たりをつけて、二人の出会いを尋ねる。
 その説明によれば、岐阜県展に出品された丈君の作品に県展審査員の小笠原氏が出会って以来だとのこと。

       
       
 それ以来出来上がってきたこの二人の関係、そして、この展示に至る過程を示す写真が会場で公開されているが、約半世紀の年齢差の両者が、マイペースでのびのびと作品を仕上げているのを観て、微笑ましいものを感じる。
 なお、この写真は小笠原氏が住職を務める上宮寺(岐阜市大門町)の庫裡で撮られたものだが、小笠原氏はこの境内を、様々なアートフォーラムの会場として提供されていて、この5月1~6日には、写真展「around…」(入場無料)が開催される。

       
 二人の作風はまったく異なる。だからこそそのジョイントやオーバーラップした部分が面白い。小笠原氏が、丈君のマイペースを容認し、抱擁しつつ、その味を引き出しているように見受けた。

         
       
 実は、この美術展にでかけたのは、私が参加している同人誌の表紙の絵を丈君が描いていてくれるからである。私が行った日は平日で学校の授業があるため、丈君には会えなかったが、そのお母さんにお目にかかることができた。



 そこで私が冗談半分に、丈君がこれ以上有名になると、私たちの同人誌の表紙にはもう絵を提供してくれなくなるのではないかと言ったら、お母さんも、小笠原氏も、丈君に限ってそんなことはないと保証してくれた。

 一見異質な二人の作品が、その実、相互に反響しつつ、有機的につながっていてとても楽しい展示だったので、もう一度全部の作品を観てから会場を後にした。
 小笠原氏、お母さん、そして会えなかったけど丈君、ありがとう。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ツツジがほぼ満開になりました。

2019-04-27 15:57:47 | 日記
 白いツツジも・・・・
  
  
  

 赤いツツジも・・・・
  
  
      
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タケノコを食べました。

2019-04-26 18:21:24 | よしなしごと
 わが家の木の芽が葉をつけたので、タケノコが食べたくなったと前に書いた。
 善は急げ?と農協の野菜売り場でゲットした。
 
 朝採れなら早く湯がかねばと急いだあまり、写真を撮るのを忘れた。
 だから写真は、米ぬかと鷹の爪で湯がきあげたところから。
 性急に水洗いなどしてはいけない。そのまま冷ますのが常道だ。
 落し蓋などにこびりついているのは、米ぬか。

        
 この鍋、年に二、三回、タケノコを湯がくためだけに使っているから薄汚い。
 一度、きれいに磨いてやらねば。


 常温に冷めたところで取り出す。
 根っこを掃除し、先端を斜めに切って、縦に包丁を入れるという作業は湯がく前にすでにしてある。


 皮を剥くのは意外と手間がかかる。
 皮の付け根にある姫皮を捨てないできれいにとっておくとそれだけで一品ができるからだ。
 姫皮はさっぱりとした出汁と生姜でお浸し風にいただく。
 吸い物にしても美味しい。


 本体はそれだけでシンプルに、あっさり味で煮付けた。
 若竹煮にもと思ったが、乾燥ワカメしかなかったので諦めた。
 うまくアクがとれていて、おいしかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【戦争と言葉】言葉を閉じ、他者も自分も閉じた大日本帝国

2019-04-24 11:53:28 | 日記
 締切のあるものを書いたり、その他のものを読む合間に、黒川創氏の『鶴見俊輔伝』を読んでいる。遅々として進まないが、締切分を脱稿したら一挙に読み上げる予定。

 書の冒頭から、後藤新平や鶴見一族の、分野を問わぬ絢爛豪華たる人脈の豊かさとその広がりに圧倒されている。
 それらを含めた全体の感想は読み上げた段階で書きたいが、それはともかく、いままで読み上げた日米開戦の段階の話で、ちょっと興味深い点があったので、メモ代わりに書いておこう。

            
 それ以前から、日本の大陸への侵略以来きな臭くなっていた日米関係は、1941年12月8日の真珠湾攻撃をもって抜き差しならない戦争状態に至る。
 その折、伝記の主人公、鶴見俊輔はハーバード大学へ留学中であった。

 そんな時期のことである。アメリカにおいては、敵国となった日本の言語を学ぼうとする人たちが急増し、各日本語学校は大盛況で、日本語習得のためのテキストが編纂され増刷されたというのだ。

            
 当時、ハーバードでは、戦後日本大使となるエドウィン・オールドファザー・ライシャワーが日本語を教え、後に、日本文学の研究家となり、晩年は日本に帰化し、今年2月に亡くなったドナルド・キーンもいた。

            
 この、「敵国」の言語に対する、彼我の対応がまったく対照的なのだ。
 年配の方はご存知のように、私たちの国においては、英語は敵性言語として全面的に禁止されたのだった。
 ベースボールは「野球」になり(これはいまも継承)、ストライクは「よし」、ボールは「だめ」だった。

 うかつにに英語を話そうものなら、スパイの疑いで憲兵隊へ連行され、下手をすれば拷問にあったりしたものである。
 ジャズは敵性音楽で、愛好家は押し入れで布団を被って蓄音機でそれを聞いたという。

         
 先の戦争において、アメリカが全面的に正しかったと強弁するつもりはないが、この言葉に対する対照的な対応は面白い。
 アメリカが、自分に挑んできた東洋の島国の実情を知ろうとしてその言語を学んだのに対し、私たちの国は、自同的、かつ自閉的に自らのうちに閉じこもったのであった。

 これによりこの国は、国際情報からも閉ざされたまま、無限地獄ともいえる最後の段階にまで至った。
 むやみにもてはやされた孫子の兵法、「彼を知り己を知れば百戦あやうからず 」の言葉とはうらはらに、「彼を知る」こともなく、したがってそれとの比較で「己を知る」こともなく、あの悲惨への突入を余儀なくされたのだった。

 なお、最後の写真の回答はおわかりだろうか。アレですよ、アレ。お皿にご飯を盛って、その上から、あるいはその横にかけるアレ。
 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そこんとこを理解してくれ、鳥たちよ!

2019-04-22 01:17:12 | ラブレター
 鳥たちよ!
 とくによくくるムクドリやヒヨドリたちよ!
 君たちの食欲からサクランボを護るために、不要になったCDを吊るした。

        
 このサクランボが熟したら、学童保育の子どもたちのおやつになる予定まのだ。
 だからどうかしばらくはそっとしておいておくれ。

        
 懐かしいCDもあるだろう。
 1995年に、私が初めてインターネットに接続した折のディスクだ。
 それらを含めて6枚を吊るした。

        
 でも意地悪だとは思わないでほしい。
 ある程度収穫したら、君たちへの分前も残してやるつもりだ。
 その折には、このCDをはずすつもりだ。

        
 そのときには存分についばんでくれて結構だ。
 きみたちを駆逐しようとしているわけではない。
 一時的にきみたちの旺盛な食欲に待ったをかけるのみなんだ。
 そこんところをわかってくれて、これらのCDがぶら下がっているときには近づかないでおくれ。お願いだから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

わが友、ナンナンくんへの惜別の言葉

2019-04-20 11:26:06 | 想い出を掘り起こす
 私が長年親しんできたナンキンハゼくん、こんな日が来るのだったら君にちゃんとした固有名を付けておくべきだったね。
 「私がよく行く岐阜県図書館の正門あら道路を挟んだ岐阜県美術館の南門横のナンキンハゼ」では回りくどくっていけない。この際、南門近くのナンキンハゼだったから、きみのことを「ナンナンくん」とでも呼ぼうか。

          
 ナンナンくん、きみにはじめて逢ったのは、もう二〇年近く前、現業からリタイアしてゆっくり書でも読もうかと図書館へ通い始めた頃だ。それまでもそこへは行ったことがあったが、そしてその折もきみはそこにいたのだが、私はさして気にもとめなかった。ごめんよ。

            
 きみを心に留めたのは、きみのスペードのような青葉が風に揺れて、表面の深い緑と、裏面のやや白っぽい部分とが混じり合うようにグラジエイトしていたときだったろうか。それとも、深秋の頃の見事な紅葉の折だったろうか。いまとなっては定かではない。

        
 その契機はともかく、きみは美しい樹だった。大木の大仰さもなく、若木の頼りなさもなく、ちょうど私に相応しい気の合う友のようにきみはそこに立っていた。
 いつしか、図書館や美術館に行くたび、きみに挨拶し、折々のきみの姿を眺めるのが私の習わしになっていた。

        
 私がきみを意識してからの年月、何枚きみの写真を撮っただろう。春の若葉、夏には黄緑の房のようなその花、秋の紅葉、それが散った後の真珠を散りばめたような白い実。
 この実が和ろうそくの原料になることを知る人は今では少ないだろう。

        
 私の四季は、ナンナンくん、きみとともにあっといっていい。
 それなのにだ、別れというのはいつも突然やってくる。

          
 つい先日だ。私はいつものように図書館へ行き、返すものは返し、新しく借りる数冊を選んできみに逢いに行った。
 今の時期のきみは、葉もなく、むろん花や実もなく、その絡み合うような枝を広げているのみだ。それでも私はそのきみの枝ぶりが好きだった。

        
 きみを視界に捉える地点に至った私は目を疑った。
 きみがいないのだ!
 きみがいたところは工事用のフェンスに覆われ、今年の11月にリニューアル・オープンとある。

        
 で、きみは?きみがそこにいれば、そのフェンスより高いから当然、見えるはずだ。しかし、きみはいない!
 きっとどこかへ移植されていて、リニューアル・オープンの際にはまたここに戻されるのだろうと思った。

 し、しかし、リニューアル・オープンの予定図にはきみの姿はない。なにもない空間が広がっているのみだ。
 では、きみは一体どこへいったのか。
 きっとどこかへ移植されて無事に生き延びていると思いたい。

        
 しかし一方、私は悲観的になってもいる。
 ナンキンハゼなどという樹木は決して希少なものではないし、ナンナンくん自体が個体として特に優れていたわけではない。ただ私が一方的に好意を抱いていたにすぎない。

 きみにくだされた運命についてはあまり考えないことにしている。とりわけ伐採という言葉は脳裏から追い払うようにしている。
 いずれにしても、もうナンナンくんとは逢えないだろうと思う。
 いまとなっては、長年、私の目を楽しませてくれたきみに感謝するのみだ。
 ナンナンくんがそこにいた四季を、私は決して忘れないだろう。
 ナンナンくん、ありがとう。そして、サヨウナラ!

 きみとの別れを惜しんで、芭蕉の『奥の細道』冒頭の句を掲げておこう。
        行く春や鳥啼き魚の目は涙

 





コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

観桜@雨の奥美濃・郡上八幡

2019-04-17 01:48:41 | 花便り&花をめぐって
 4月14日、地域の人達と一緒に奥美濃の花を求める小紀行に同行した。
 目指すのは旧白鳥町(「しろとり」と読みます)の入り口の牛道谷沿いに登ったところにある岐阜県指定の天然記念物、樹齢数百年の善勝寺桜。

          
 国道156号線から右折し、どんどん登る。標高が高く成すのが車の角度で分る。
 到着。しかし不安がよぎる。駐車場の傍らに何やら白いものが列をなして・・・・。残雪だ。これで桜(ここはエドヒガン)が咲くのだろうか。

          
 坂を登って境内へ。本堂の前にも、そのひさしから落ちた雪が。
 何やら大木があるが花の気配はまったくない。しかし、これが善勝寺桜、蕾はまだ固く、桜である印もない。聞けば、開花は20日以降で、見頃は月末とのこと。

          
 道中、ソメイヨシノの満開を見てきたのが嘘のようだ。ただし、善勝寺桜にすれば、日が浅くひとに馴致されたソメイヨシノと俺とを一緒にするなといったところだろう。

       
 でも、ここで自然物以外に、郡上の歴史を語る上での重要極まりない史跡を見つけ、いささか興奮したのだが、これはまたあとで別途まとめてみたい。

          
 境内の池で、純白の鯉など撮して、郡上八幡へと。どんより垂れ込めていた雲からはついに本格的な降雨が。
 郡上八幡のいろいろな桜はいまを盛んと咲き乱れ、ソメイヨシノなどは、樹によってはもう散り始めているものもある。

          
          

 雨にもめげず、それらをカメラに収める。やはり外国人観光客が多い。出会った中で、最大のグループは英語を話す人たちで、雨中でもけっこう陽気で賑やかだ。

          
          
 郡上八幡は水の街だ。長良川、吉田川、小駄良川などの清流のほか、無数の小さなせせらぎが街を走っている。
 雨の散策もまた風情がある。しかし、この時期の雨はまだシンシンと冷える。

          
          
 やがて始まる遅い春まつりの幟が、風雨にはためいていた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブラック・クランズマン」(スパイク・リー監督)について思うこと

2019-04-13 00:54:38 | 映画評論
 映画、「ブラック・クランズマン」(スパイク・リー監督)を観た。
 動機としては、先般、昨年度アカデミー賞をとった「グリーンブック」を観てけっこう面白く思っていたところ、そのアカデミー賞授賞式でのスパイク・リー監督に関するエピソードを読んだからであった。

          
 それによれば、当日、彼の作品も六部門にわたってノミネートされていたこともあり会場にいたリー監督は、最優秀作が「グリーンブック」とコールされると同時に、舌打ちをして席を立ちかけたが、思い直してその場にとどまったというのだ。

       
 ようするに、自分の作品に対してそれだけの自負があったということである。それならば、「グリーンノート」のみを観て済ますのは片手落ちで、リー監督の熱い思いにも応えるべきだと思った。
 「グリーンノート」に関しては、以下の拙ブログでその感想を書いている。だから、どうしても両作品を比較しながら観ることになる。
 時代は同様1960年代の後半、ともに人種問題を題材にしている。また両者ともに、実話を題材にしているところも似ている。
 https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20190331

       
 
 以下「ブラック・クランズマン」を「BK」、「グリーンノート」を「GN」と表記する。

 さて、映画自身に戻ろう。両者ともに人種問題を対象にしているが、「GN」の方が黒人対白人の葛藤を描いているのに対し、「BK」はもう少し複雑で、ユダヤ人差別をも含み、白人たちがより攻撃的に他者を排除する、ないしはテロルの対象とする場面を描いている。
 映画の作りも、冒頭と最後に、記録された映像を取り込むなど、「BK」の方がより激越でアジテーションの要素に満ちているし、それだけに、リー監督が「GN」をやわな表現とみなした事情もわかる気がする。

       
 しかし、そうした実録的な映像に挟まれた「BK」の本編の方は、ユーモアとサスペンスに溢れた面白い作りとなっている。
 主人公は、コロラドスプリングスの警察署で、初の黒人刑事として採用されたロン・ストールワース。彼は黒人差別団体、「KKK(クー・クラックス・クラン)」への潜入捜査を試み、その渡りをつけてしまうのだが、黒人の身、自らが組織へ潜入することはできない。そこで、同僚の白人刑事フリップに協力してもらうことにし、電話での応対はロン、実際の潜入はフリップが行い2人で1人の人物を演じながら、KKKの潜入捜査を進めていく。

       
 それに先立ち、ロンは、ブラックパンサー(黒豹党)の幹部の演説会に潜入し、それを招請した女子大生の組織の委員長、パトリスに接近し、いい仲になってしまう。
 この彼女と、KKKとがある接点で関連するところに映画の山場があり、物語が終焉する。
 これらの過程をいくぶんコミカルに、しかし山場ではけっこうサスペンスに満ちたものとして描き出してゆく。

       
 この映画では、KKKの当時の最高幹部だったデビッド・デュークも登場するが、彼は、電話で接近してきた相手が黒人のロンであることを知らないまま、ロンを称賛してやまない間抜けな役どころとして登場する。ただし、本編が終わったあとに付け足された映像で、私たちはこのKKKの幹部が単なる道化師で終わらなかったことを知ることとなる。

       
 映画の最後は、冒頭同様、実写によるモンタージュのような映像で締められる。そこに登場する人物こそドナルド・トランプであり、そこで彼が叫ぶ、「アメリカ・ファースト」、「アメリカ・グレート・アゲイン」のスローガンは実は上にみたKKKの当時の最高幹部だったデビッド・デュークのスローガンのそっくりそのままの再生なのである。
 ここに至って、私たちははたと知ることになる。リー監督が描きたかったのは決して過去の「お話」ではなく、現実に今日の世界に突きつけられている問題だということを。

       
 もうひとつ付け加えるなら、これらは遠く離れたアメリカの「お話」でもないということだ。KKKのメンバーが放つヘイトスピーチは、そのまま今日のこの国で、在日の人たちや近隣諸国の人びとに向かって放たれているものと寸分異なることはないし、「南京事件はなかった」とする歴史修正は、KKKのメンバーが語る「アウシュビッツはなかった」とそのまま重なる。
 また、KKKで連想されるビリー・ホリデイが歌うところの「ストレンジ・フルーツ」の歴史は、そのまま関東大震災で殺された6,000人に及ぶ朝鮮人や社会主義者の歴史に通じるのだ。
 なお、知らない人たちのためにいっておくと、彼女の歌う「ストレンジなフルーツ」とは、KKKなどによって吊るされた黒人のことなのだ。

 https://www.youtube.com/watch?v=Web007rzSOI

 奇しくも、同様の題材を扱い、アカデミー賞を争ったた二つの映画を観たわけだが、その優劣はいうまい。
 「GN」は「BK」ほど直接に状況を語らないが、洗練された映画の文法のうちにある。その点、「BK」は感傷を排し、極めて明快で直截的なアジテーションをぶっつけて来る。

 曖昧で𠮟られるかもしれないが、私は両方共あるべき映画の姿であると思う。その意味で、両方観てよかったと思うのだ。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フェルメール・大阪城・難波宮 大阪紀行終話

2019-04-09 01:01:09 | 写真とおしゃべり
 大阪紀行の第二日、ホテルで朝食をとり、すぐ近くの天王寺公園内にある大阪市美術館で開催中のフェルメール展へ出かける。
 開館の9時30分にはまだ余裕があるので、公園内を散策。

       
 まずは北の端にある茶臼山古墳、いわゆる茶臼山へ。ここは、大阪冬の陣(慶長19年=1614年)には徳川家康が本陣を構え、その翌年の夏の陣(慶長20年=1615年)には真田幸村が本陣をしいたところである。
 その夏の陣では、勇猛果敢な幸村の軍勢が二度にわたってあわや家康の首をというところまで追い詰めながらも、味方の凡ミスともいえる手違いにより、形勢が逆転し、ついにここが幸村自身の終焉の地となった。

 かつての居酒屋時代の店名やPCを始めて以来の私のハンドル・ネームからして、真田一族には親近感があり、何やら懐かしいロケーションで、一度は来てみたかったところである。

       
 そこから河底池という珍しい名前の池(かつて流れていた河川がここだけに残ったのだろうか)に沿って散策する。池には、カルガモやオシドリなどが朝の陽光を浴びて泳ぎ回っている。その一隅に、アオサギが一羽、身じろぎもせず一本足で立っている。この鳥は人に対して物怖じしないから、数メートルぐらいまでは接近可能である。おかげで、こんなアップの写真が撮れた。

       
 河底池にかかる朱塗りの橋越しに、通天閣がそびえている。あべのハルカスが、現代の象徴であるとしたら、通天閣は近代以降の浪速の伝統を感じさせる建造物だ。

 まだ時間があるので、美術館南にある林芙美子の文学碑を見る。彼女が大阪に触れた小説「めし」の一節が刻まれている。

       
 そうこうしているうちに美術館の開館時間が迫ってくる。さすがフェルメール、平日の開館前なのにもう並んでいる人たちがいる。

 こうして並んでいる人たちと塊になって入場するのはあまり得策ではない。のっけから混雑することは必定だからだ。先頭集団が駆け抜けるように入館してから、一呼吸も二呼吸も置いてから入る。
 一枚の絵の前に数人程度、これなら許容範囲内だ。

 これまで、私はフェルメールの絵は一枚しか観たことがない。もう小十年前、愛知県豊田市美術館に来た「地理学者」がそれだ。
 その折にはたった一枚のそれの展示方法が仰々しくて、なんだか絵画が解剖されているようでいささかたじろいだ覚えがある。いってみれば、展示する側の絵画に対する付加価値の押しつけが強烈過ぎたということであろうか。あれでは鑑賞というより拝観だと思ったりした。

 今回の展示はそうした仰々しさはなく自然に観ることができた。
 展示絵画の総数は五〇点ぐらいだが、全六章に振り分けられ、フェルメールのものは第六章の六点であり、それ以前の五章までは、当時のオランダ絵画の系譜をなぞる様な編集になっていいる。

 「フェルメール展」と銘打ちながらたったの六点とはと思われるかもしれぬが、この六点を極東の地にいて観ることができるということ自体が稀有なことなのだ。何しろ、フェルメールの作品は、今のところ、世界中で35点しか確認されていなくて、しかもそれが、世界各地に分散しているのだから、そのうちの六分の一を観ることができる機会はそんなにあるものではない。

       
 絵画や音楽を文章で書くのは苦手だが、フェルメールの絵は、どこか肩肘張らずに観ることができる。題材が風俗画中心だからということもあるだろう。しかし、今回、六点のうち一点は「マルタとマリアの家のキリスト」という宗教に題材をとったものなのだが、それ自体が少しも宗教画らしくなく、むしろ、彼の他の絵画と同じくドメスティックな感じがするのだ。

       
 これはおそらく、そこに描かれている人物の視線の行方にもあると思う。この「宗教画」での彼らの視線の交差は他者への啓蒙などという気配は一切含まず、気心知れたものの対話という家庭的なものでしかない。
 ゴタクはともかく、私の好みでは「手紙を書く婦人と召使い」が一押しで、構図や色使い、婦人と召使いの視線の対比、カーテン、スカートのヒダ、床の市松模様などの直線の素晴らしい配置、これが一番印象に残った。

       
         
 ついで大阪城。ここは三度目か。やはり大阪の目玉、折からの花の開き具合からして多くの人出は当然であろう。もちろん、ここもインターナショナルである。最初にここを訪れた半世紀前には、中国からの団体と思われる人たちや、スカーフをまとったムスリムの人たちがこんなふうにここを訪れる日がこようなんて夢想だにしなかった。

       
       
       
 規模がすごいし、石垣が美しい。今考えても、これだけの大規模な建造が、さほどの日数を要することなく構築されたのは、やはり専制時代の特色であろうか。

         
       
 大阪城から見て西南にあたるところにある大阪歴史博物館を訪れる。
 このモダンな建物のうちには大阪の歴史がびっしり詰まっているようなのだが、その全部を見ることは時間的にも無理がある。
 私がこれまで知らなかったことなどを重点に観る。

       
 その一つは、大阪の最古層に埋もれていた難波宮についてである。
 宮というのは古代のこの国の首都を指しているから、それがこの大阪の地にあったということである。しかも、二度にわたって。
 
 その時期はというと、645年、中大兄皇子らが蘇我氏を打倒したクーデター「乙巳(いっし)の変」の後に孝徳天皇が新しい都として建設したもの(前期)と、726年から聖武天皇が再び整備し、744年には一時、都にした(後期)の二度に及ぶ。

       
 当時は、天皇が変わるごとに都を変えていたから、その変遷の中での位置づけからいうと、前期は飛鳥板葺宮と飛鳥宮の間、後期は、平城宮と長岡宮の間ということになる。
 
 ちょっと驚くのは、日本書紀にも記され、大化の改新の舞台ともなったこの難波宮の所在が全くわからなくなり、幻の宮とまでいわれていたということである。そして、なんと前世紀の中頃以降、1950年代になってやっとその所在が突き止められたという事実だ。

 この発掘に情熱を燃やし、実現にこぎつけた功労者は、考古学者の山根徳太郎(1889年 - 1973年)氏で、彼は、戦前からこの土地ではないかと目をつけていたにもかかわらず、当時は日本帝国陸軍がこの一帯を用地接収していたため、調査自体が不可能だったという。
 1945年、日本の敗戦によりこの制限が解かれたのをきっかけに山根氏の各方面への根回しが始まり、ついに大々的な発掘調査が実現し、今日のようにその全貌を観るに至ったのだという。

         
 古代、この一体は海が切れ込んで河内湾をなしており、その一角にあったのが難波潟であり、この港を海上交通の玄関としてもっていたのがこの難波宮と考えられる。いまはもう、大阪城の南側で、海の痕跡は全く見られないが、往時は著名な港であって、「難波潟」を含む歌は百人一首のみで三首も採られている。

 難波潟みじかき葦の節の間も会はでこの世をすごしてよとや(伊勢)
 侘びぬれば今はたおなじ難波なるみをつくしてもあはむとぞ思ふ(元良親王)
 難波江の葦のかりねの一夜ゆゑ身を尽くしてや恋渡るべき(皇嘉門院別当)

       
 そうしたいきさつを知ったのち、この歴史博物館の最上階、10階から見下ろす大極殿跡を中心にした難波宮跡地の全貌は、いまは平面だが、そこに古代の都を思い絵がく想像のキャンバスを提供しているようだ。

 中世、西行の歌の世界から始まった大阪探訪は、現代俗世の象徴のような道頓堀にいたり、翻って17世紀オランダの絵画の世界へと転じ、さらには戦国の大阪の陣、そして最後には古代の都・難波宮へと至ったのだった。その時間の振幅たるや、千数百年に及ぶ旅だった。

       
 この日は効率よく回れたので、名古屋行の近鉄アーバンライナーの始発駅、難波についたのはネットで予約したチケットレスの特急券よりも一時間も早かった。
 そこで、一時間前のものに変更をして帰途につくことができた。
 要するに、前日、バスがないため一時間のロス(全く無駄ではなかったが)が出た分を、最後の最後で取り返したことになる。

 二日間で約3万5千歩、いささか疲れたが、歩数が伸びた分だけ、老いの身でありながら知らなかった領域に接することができたということだろう。
 まあ、いってみれば、地獄の閻魔様への土産話のようなものにすぎないが・・・・。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西行・あべのハルカス・道頓堀・フェルメール・大阪城・難波宮(前)

2019-04-06 23:12:13 | 写真とおしゃべり
 この国の吟遊詩人といえば西行や芭蕉が思い浮かぶ。ただし、芭蕉自身が自分の吟行の旅は西行にならったものであると言っているから、元祖吟遊詩人は西行といえる。

        
 西行についてのエピソードはいろいろあって、まずは北面の武士であった彼がなぜ23歳の折、突如、出家したかを巡っての謎がある。
 ある説は、親しい友人の急逝を目の当たりにして無常観に襲われたという。
 またある説は、ベタだが失恋によるとする。ただし、この失恋の相手が複数あって、これと特定できぬとあって、一層、確たるところはわからない。

 定住を好まず、つねに旅の途上にあったという点も冒頭に述べた元祖吟遊詩人としての面目躍如たるものがある。
 彼がどれくらい歩き回ったのかを調べると、北は奥羽地方から南は四国にまで及ぶ。どういうわけか九州には足を踏み入れていないが、これがもし実現していたら、当時のこの国の支配領域全部をカバーしたことになる。

        
 私にとって興味深いエピソードは、彼が自分の死に様をどんぴしゃり、その歌で言い当てていることである。自殺でもない限り、人は自分の死に様をあらかじめ言い当てることはできない。
 ましてや西行のように、その時期や情景まで言い当てることはまずはできないであろう。ちなみに西行が詠んだ自らの死の風景とは以下のようである。

 ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ (『山家集』)
 ねかはくは はなのもとにて 春しなん そのきさらきの 望月の比 (続古今和歌集)

        
 二つ挙げたのは、微妙な表記の違いがあるからである。とりわけ違うのは、「花の下」と「花の元」だが、私の乱暴なボキャ能力からすると、「下」も「元」も大して変わるまいということになる。もっとも、「下」は「もと」とも読むが、「元」は「した」とは読まない。
 私の語感としては「もと」の方が、「した」という空間的位置関係よりも広く状況そのものを表現しいるように思えるのだが、これも今様の解釈にすぎないのかも知れぬ。

        
 で、この歌が的中したかどうかの検証だが、彼が亡くなったのは文治6年2月16日で、これはもちろん旧暦だから、西暦換算では1190年3月31日ということになる。とすれば、今年の開花状況などからするに、やはり的中していることになるだろう。ただし、当時はまだ地球温暖化などは始まっていなかったし、今回、実際に行ってきた彼の入寂の地、大阪府南河内郡河南町の弘川寺は山間部(大阪府と奈良県の県境近く)であるから、まだまだ満開ではなく、贔屓目に見ても咲き始めだったろうと思われる。
 ここまで書いてきてふと気づいたが、この開花状況などは昨今のソメイヨシノをつい基準にしてしまっている。しかし、ソメイヨシノは江戸末期に生み出されたクローン桜だから、西行の時代にはない。きっと別の桜のもとで亡くなったのだろう。

        
 といったことで、今回の大阪への旅の最初は、西行入寂の地、弘川寺であった。
 近鉄電車の富田林駅から、一時間に一本しかない金剛バスの河内行に乗り終点で下車。そこから山地へ向かって10分ほど歩いたところに古刹弘川寺がある。
 西行は死の前年に当時のこの寺の座主、空寂上人の法徳を慕って訪れたとされる。

        
        
 そんな経緯で、この寺には西行ゆかりの御堂や墳墓などがあり、近年になって設置された西行記念館もある。ただし、それらがなくとも山裾に抱かれた落ち着いた風情をそなえ、回廊沿いの枯山水風の庭園も、周囲の山地を借景にしっとりとした味わいを見せるなど、それなりの風格と雰囲気をもった寺である。

 まあ、それはともかく、西行の足跡はちゃんと観ておこうと、本坊などの離れ風に建てられた西行記念館を一通り見学する。しかし、やはりこの寺のハイライトは、往時の西行の名残りを留める場所であろうとそちらへと向かう。

        
 本堂横の山の斜面に設けられたやや険しい石段を登り、もう少しで息が上がりそうになる地点に、やはりこの場所にはこれかといった風情で西行堂が建っている。この西行堂は享保17年(1732年)、この地を西行終焉の地たることをつきとめた歌僧似雲法師によって建てられたもの。

        
 その似雲法師が発見、確認した西行の古墳・墳墓はさらに登らねばならない。もう、弘川寺の境内も全く見えない山地へと差し掛かり、どれくらい先かと心細くなって来る頃、ここにこんなところがと思うほど広がった平らな土地に出る。
 その突き当り、お椀を伏せたような高さ10メートルほどの半円の古墳が西行の墳墓である。正面両側の大きめな花筒には、折からの桜の枝が手向けられていた。

        
        
        
 同じ平地には、例の「ねかはくは・・・・」の歌碑があり、さらには、ここまで西行の足跡をたどってきた似雲法師の墳墓も、西行のそれと向き合うように設えられている。
 なお、この似雲法師について調べたが、主著に「としなみ草」という歌集があり、やはり西行を慕っていた歌人らしく、以下のような歌があるという。この歌、下句は諧謔じみていて、全体の歌意は、西行に比べての自己謙遜となっている。

   西行に姿計(ばかり)は似たれども心は雪と墨染の袖

 といったことで、第一日のメイン、弘川寺探索を終えて、ここを毎時30分に発車するというバス停へと向かう。
 バス停で時刻表を改めて確認して目を疑った。な・な・なんと、確かにネットで確認してきたように毎時30分の発車なのだが、私が乗ろうとした14時30分のものはないのだ。要するに、13時30分はあり、また、15時30分はあるのだが、14時代のみはすっぽり抜けていてないのだ。ここでの一時間をどう過ごせばいいのだろうか。

        
 山近くの集落で、喫茶店もコンビニもない。いわゆるお店屋さんが一軒もないのだ。そんななか、「ハイカーさん歓迎!」というカフェらしきものの看板が。藁にもすがる思いで矢印が示すように歩を進める。ダラダラとして登り坂をたどるとそれらしき建物が。これぞ地獄に仏、弘川寺の霊験あらたかと近くの看板を確認したら、「金・土・日のみ営業」とあるではないか。訪れたのは水曜日、嗚呼、ナンタルチア、惨タルチア。

        
        
 仕方がないので、山あいの集落の風情や花々を写真に収めたりして時間を過ごす。この辺の独特の建築様式らしきものを見つける。古い家は同様の文様や様式に従っているし、帰途、バスから見かけた富田林の市街でも、旧家らしきところはこうした建物であった。家屋の建築が全国一律、機能本位のあじけないものになってしまったいま、こうした地方色を残した家屋に出会うとホッとした気分になる。

          
        
 なんとか時間を潰してバスで富田林へ到着、近鉄で阿倍野橋駅へ。
 その駅の上には、日本一のあべのハルカスビルが聳える。近くで見上げても首が痛くなるだけだ。首を痛めずに観られるのは通天閣の方だ。あべのハルカスははじめて観たが、通天閣は2、3度は見ているはずだ。
  
          
 天王寺公園近くのホテルにチェックインして、地下鉄で心斎橋下車、心斎橋筋を通って道頓堀へ。ここ商店街は日本で指折りの繁華な通りであろう。若者たちや私のようなお登りさん、加えて諸外国からのヴィジターなどなど様々な衣装風俗が通りを埋め尽くし、諸言語が飛び交い響き合っている。

        
        
 道頓堀の飲食街も一昔前と様変わりし、若者向けの騒々しい店が大半のようだ。昔なじみの河豚の「ずぼらや」へ入る。ここは落ち着くし、河豚といってもリーゾナブルな値段で食わせてくれる。
 河豚御膳に冷たいお酒で、5,000円でお釣りが来る。

        
 法善寺横丁の水掛不動明王などを見て難波まで行き、ホテルへ帰る。
 弘川寺の帰途で、一時間のロスが出てしまったが、マアマア大過なく、山あいの落ち着いた風情を満喫できたし、夜はまた、それらを全て打ち消すような大都会の喧騒を味わうことができた。
 明日、二日目は、フェルメールからの幕開けだ。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする