ハンガリー映画である。ハンガリーは私が行ったことがある数少ない国のうちの一つ。それに、高校生の折に遭遇したハンガリー革命(1956年)は、当時のいわゆる既成左翼に対する私の批判的マナコを開かせる契機となったという事情もある。
もっとも、その約半世紀後にハンガリーを訪れた際には、ソ連圏崩壊後15年しか経っていないにも関わらず、ここがかつて「社会主義国」といわれた痕跡はどこにもなく、ましてや56年革命の記憶もほとんど失われているかのようだった。
などという私的な回顧はさておき、映画の話をしよう。といっても、上の前置きのような歴史的、政治的な問題と直接絡む映画ではない。
邦題は『心と体と』。原題は『Testrol es lelekrol』(「心のテスト」といった意味のようだ)。
舞台はブタペスト郊外の食肉処理場。そこへ休職者の代理で臨時雇用としてやってきた検査職員の女性マーリアは、寡黙でどこか神秘的な美しさをもつが周辺からはほとんど浮いた存在である。
そんな彼女に注目する左手が不自由な上司の中年男性アンドレ。しかし、どうやらそれは彼の片思いではないようで、マーリアの方も彼を意識している。
しかし、不器用な二人はすれ違うばかり。
そんなときに起こったのがこの処理場での盗難事件。盗まれたのは牛に発情を促す薬品。しかし、早とちりは禁物、この薬品は二人とは関係ない。この事件が関係するのは、真相解明のために派遣された心理分析家の女性(高島礼子似の濡れた感じの女性。私が容貌にこだわるのではなく、それが映画の中身とも関連するから?)の従業員全員に対する聞き取り調査の方だ。
この調査で、判明した驚くべき事実は、マーリアとアンドレが毎夜みる夢の共通性である。それが、冒頭から現実の映像に差し込まれる夢のシーンで、二人は、夢の中では、冬の森で寄り添うように生きる鹿の雌雄なのである。
もっともこのシーは最初から食肉工場の現実にしばしば差し込まれていて、私たち観客にはそれが二人の夢だということが示唆されている。それが二人の共有のものだということを相互に知るのがこのシーン。
食肉処理場で、生きた牛を麻酔にかけ、処理し解体し肉塊にしてゆく気の弱い人なら目を背けたくなるような映像(FBやTwitterなら掲載不可かも知れない)と、冬の森でゆったりと寄り添う鹿のカップルのロマンティックでファンタジックな映像との対比はとてもシュールである。一方は騒音のなか床に流れるおびただしい鮮血の赤、もう一方は静謐のなか森に降り積む真っ白な雪。
共通の夢という接点をもとに二人の仲は急速に・・・・といいたいところだがそうはゆかない。その心理テストで示されたマーリアの抜群の記憶力、潔癖症などは同時に彼女の接触障がいをも示すものであった。
彼女は、それを克服すべく、人知れず努力をする。その過程は痛々しくも微笑ましいものがある。なぜなら、それは彼女の明日へ向かっての意志の発露なのだから。
ようするにこれは、人生を諦めたかに見える中年の男性と、周辺との接触、とりわけ特定の相手との接触がうまくゆかない女性との自分との葛藤の物語なのである。
ここまでは映画前半の概要だが、その後のことはいうまい。ただし、後半ではこれらの前提をもとに事態が推移し、ラストに向かってはサスペンスまがいな緊張感溢れるシーンも出てくる。
「他者」との触れ合いは人間にとっての永遠のテーマなのであろう。そしてそれには、心も体も慣れなければならないのだ。それについて、もっといいたいことがあるのだが、それをいうと完全なネタバレになるので残念ながら控えたい。
他者との触れ合いのためには心も体もそれに備えなければならないといった。その意味では、この映画の邦題、『心と体と』はむしろ原題の直裁的ないい方よりは適しているのかもしれない。
もっとも、その約半世紀後にハンガリーを訪れた際には、ソ連圏崩壊後15年しか経っていないにも関わらず、ここがかつて「社会主義国」といわれた痕跡はどこにもなく、ましてや56年革命の記憶もほとんど失われているかのようだった。
などという私的な回顧はさておき、映画の話をしよう。といっても、上の前置きのような歴史的、政治的な問題と直接絡む映画ではない。
邦題は『心と体と』。原題は『Testrol es lelekrol』(「心のテスト」といった意味のようだ)。
舞台はブタペスト郊外の食肉処理場。そこへ休職者の代理で臨時雇用としてやってきた検査職員の女性マーリアは、寡黙でどこか神秘的な美しさをもつが周辺からはほとんど浮いた存在である。
そんな彼女に注目する左手が不自由な上司の中年男性アンドレ。しかし、どうやらそれは彼の片思いではないようで、マーリアの方も彼を意識している。
しかし、不器用な二人はすれ違うばかり。
そんなときに起こったのがこの処理場での盗難事件。盗まれたのは牛に発情を促す薬品。しかし、早とちりは禁物、この薬品は二人とは関係ない。この事件が関係するのは、真相解明のために派遣された心理分析家の女性(高島礼子似の濡れた感じの女性。私が容貌にこだわるのではなく、それが映画の中身とも関連するから?)の従業員全員に対する聞き取り調査の方だ。
この調査で、判明した驚くべき事実は、マーリアとアンドレが毎夜みる夢の共通性である。それが、冒頭から現実の映像に差し込まれる夢のシーンで、二人は、夢の中では、冬の森で寄り添うように生きる鹿の雌雄なのである。
もっともこのシーは最初から食肉工場の現実にしばしば差し込まれていて、私たち観客にはそれが二人の夢だということが示唆されている。それが二人の共有のものだということを相互に知るのがこのシーン。
食肉処理場で、生きた牛を麻酔にかけ、処理し解体し肉塊にしてゆく気の弱い人なら目を背けたくなるような映像(FBやTwitterなら掲載不可かも知れない)と、冬の森でゆったりと寄り添う鹿のカップルのロマンティックでファンタジックな映像との対比はとてもシュールである。一方は騒音のなか床に流れるおびただしい鮮血の赤、もう一方は静謐のなか森に降り積む真っ白な雪。
共通の夢という接点をもとに二人の仲は急速に・・・・といいたいところだがそうはゆかない。その心理テストで示されたマーリアの抜群の記憶力、潔癖症などは同時に彼女の接触障がいをも示すものであった。
彼女は、それを克服すべく、人知れず努力をする。その過程は痛々しくも微笑ましいものがある。なぜなら、それは彼女の明日へ向かっての意志の発露なのだから。
ようするにこれは、人生を諦めたかに見える中年の男性と、周辺との接触、とりわけ特定の相手との接触がうまくゆかない女性との自分との葛藤の物語なのである。
ここまでは映画前半の概要だが、その後のことはいうまい。ただし、後半ではこれらの前提をもとに事態が推移し、ラストに向かってはサスペンスまがいな緊張感溢れるシーンも出てくる。
「他者」との触れ合いは人間にとっての永遠のテーマなのであろう。そしてそれには、心も体も慣れなければならないのだ。それについて、もっといいたいことがあるのだが、それをいうと完全なネタバレになるので残念ながら控えたい。
他者との触れ合いのためには心も体もそれに備えなければならないといった。その意味では、この映画の邦題、『心と体と』はむしろ原題の直裁的ないい方よりは適しているのかもしれない。