六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

残り菊と六の時事川柳 06.12.31

2006-12-31 05:42:59 | 川柳日記
 正月というものが人為的かつ恣意的な区切りであることは十分承知している。
 にもかかわらず、何か敬虔なものを感じてしまうのはなぜだろうか?
 答えは意外と簡単だと思われる。
 そもそも人間は、そうした人為的かつ恣意的なものの中に身を置くことによって人間になったということではあるまいか。
 犬や猫や猿は、正月を知らない。


  来る年を覗いてみんと残り菊    六

 <今週の川柳もどき> 06.12.31

フセイン処刑さる】
  フセインを殺してもなお深き闇
  内戦に油を注ぐ処刑劇
  殺戮を問わばブッシュも処刑せよ
  第三位を最悪役が処刑する
   <米市民による今年の悪役ランキング>
    *第三位  フセイン(6%)
    *第二位  ビンラディン(8%)
    *栄誉ある第一位 ブッシュ(25%)

【欲の上限】  
  あれほどに稼いだ上の税逃れ
    (トヨタ60億の脱税

【犬から猪へ】 
  米国のポチで終わった年が逝く
  改憲へ猛進をする年明ける

 今年一年、下手な川柳にお付き合い頂きありがとうございました。
 来年もまた下手の横好きで継続する所存。なにとぞ宜しく。

 今年の書き込みはこれが最後です。
 お読み頂いた皆さんに満腔の感謝を!
 そして来年も宜しく!
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ケリとツグミと六の時事川柳 06.12.24

2006-12-24 17:10:14 | 川柳日記
 近くの田圃にケリが集まっていた。
 この鳥、結構勇猛果敢で、近くを通りかかった者に鋭い警戒の鳴き声を浴びせ、ときとして頭上すれすれに飛んで威嚇したりする。
 私も一度それをやられたことがある。まるでヒッチコックの映画みたいだった。


 
 つがいでいることが多いが、こうして2羽以上いることもある。家族だろうか、それとも二つがいであろうか。こっそり近寄ったのだが、ツツツと向こうへ逃げられてしまった。
 私の写真ではどんな鳥か分かりにくかろうから、図鑑から転載しておく。形状でご覧のように千鳥の仲間だとのこと。


 
 別の田圃にはツグミが来ていた。地味な色合いなので気付かずにいたら急に飛びたたれてホイ仕舞ったと思った。
 これも図鑑から借用したものを載せておこう。


 
 水のあるところを通りかかると、魚はいないか覗き込むほど魚を観ることが好きであるが、鳥を観ることもも好きである。
 一丁前に双眼鏡をぶら下げてその辺をうろつき回ったこともあったが、どうも覗きのおっさんに間違えられそうなので今はやめた。
 でも、鳥がいるとつい目が行く。飛ぶ動物なんて、不思議でファンタスティックではないか。

 須磨学園、世羅高校、そしてディープインパクトが勝った。





<今週の川柳もどき> 06.12.24

  集まっただけが成果の六ヶ国
   (まあ戦争してるよりいいか)

  愛の巣と椅子を返して逃げ帰る
   (本間氏)
  何もかも一身上の都合です   
   (任命責任回避の安倍総理)
  
  強きへとてこ入れをする予算案
   (企業増収が頼りだとか)

  混迷を再生させているばかり
   (教育再生会議まとまらず)

  来年の選挙を鬼が笑ってる
   (7月22日参院選決定)

  聖俗がまだら模様のクリスマス
  翌朝はまた異教徒のクリスマス
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エコール・ド・パリと戦争

2006-12-23 04:49:07 | よしなしごと
 名古屋市美術館で開催中の、「巴里憧憬---エコール・ド・パリと日本の画家たち」を観る。(12/24まで)


 
 エコール・ド・パリといっても、その絵画に何ら共通する特色をもつものではない。それはそうだろう、このいわば「パリ派」ともいわれる画家たちは、出身国も、そのキャリアや技法もまちまちであり、したがって、その作品は逆に、驚くほど多彩なものなのである。

 それでは、彼らに共通するものは何かといえば、そのそれぞれが青雲の志を抱いてパリに集まり、情報を交換し、ある者たちはアトリエを共同で持つなどしながら、世界有数の美の消費地、商品としての流通可能性の高い街で、あわよくば自分の作品を美術展で認めさせたり、あるいはその買い手を見つけたりしようとするその懸命な営みである。

 もっとも、たまに絵が売れたからといって、彼らがそれで潤うのは、せいぜい、その代金で新たに画材を買ったりしながら、次の制作にいそしむといった程度であった。

 したがって、彼らの共通点は、その作品の背後にある、ある種のドラマのようなものといえるであろうか。その作品に添えられた経歴を読む時、日本人画家であると、他の国の画家であるとを問わず、驚くほどよく似た様相を持っていることに驚く。

       
         藤田嗣治「5人の裸婦」 1923年
          この際だった白が特色



 さて、美術展に話を戻すが、その展示は、意外に多くの日本人画家たちが、エコール・ド・パリの一翼を構成していたことを伝えてくれる。
 いち早く名をなした藤田嗣治をはじめ、自ら絵筆を執りながら大原美術館のための絵画収集に奔走していた児島虎次郎、何とか自分の絵を売りながら詩の世界に彷徨っていた若き日の金子光晴など多士済々であった(金子光晴が絵も描いていたことはどこかで読んだが、その絵を今回はじめて観た)。
 
 彼らの絵画を十分楽しませて貰ったが、それらについての評論らしきものは私の手に余ることなので書くまい。

 しかし、エコール・ド・パリの時代はそれほど長くはない。せいぜい1910年代の後半から30年代の後半にかけてであろうか。先ほど彼らに共通するドラマのようなものに触れたが、そのドラマが展開される舞台としてのパリそのものが大きな変貌を迫られるのだ。

 この舞台を、そしてそのドラマの構成員を規制するもの、それは 戦争に他ならない。先ほど見た、約20年間というのは、まさに 第一次世界大戦から第二次世界大戦の間の一時的な晴れ間に過ぎなかったのである。
 日本でいったら、大正モダニズムから、昭和初期のモボ・モガの時代といっていいだろう。


   
         シャガール展会場の模様
 

 ヨーロッパで猛威をふるったドイツ・ナチスの進撃は、1940年には遂にフランス占領にまで至る。
 パリはもはや芸術家たちにとって決して住みやすいところではない。
 それどころか、エコール・ド・パリの中でかなりの部分を占めていたシャガールキスリングなどのユダヤ人画家たちにとっては、その生死に関わることであり、ドイツ軍侵攻に前後して、その大半は亡命を余儀なくされた。

          
      キスリング 「モンパルナスのキキ」1925年
       なお、このキキは当時、写真家マン・レイの愛人


 日本人画家たちにとて、もはやのんびり絵を描いているどころではなかった。在外邦人の帰国令などが出される中、大半は帰国せざるを得なかったのであった。

 帰国後の彼らにとっても、日本の国状は平穏ではなかった。軍国主義の嵐が吹き荒れる中、彼らの選択は別れた。
 藤田嗣治などは、パリで築いたキャリアを買われて軍部の宣伝機関の一員として、戦意高揚画の制作にいそしんだ。
 一方、金子光晴のように、田舎に引っ込み、反戦の意志を抱えながら、嵐の通り過ぎるのをひたすら待つ人たちもいた。

 その評価は日本の敗戦で大きく反転する。藤田らは、軍国画家として糾弾の矢面に立たされることとなる。そんな中、藤田はふたたびフランスへと脱出し、1968年にスイスで没するまで、二度と日本の地を踏むことはなかった。
 一方、金子が日本の戦後詩壇へと復帰し、活躍したのは周知の通りである。


               
         藤田嗣治 晩年の自画像 1960年


 かくして、エコール・ド・パリの歴史は戦争の谷間に始まり、その激化の中に終焉するものであった。

 しかし、そこから帰還した日本人画家たちが、その郷土や後輩の画家たちに残した足跡は大なるものがある。それは、今回の展示作品そのものが彼らの出身地の県立など地方美術館の収集の中心になっていて、そこから提供されたものであることことからも充分うかがえる。そしてその地域は、日本全土にわたっている。

 そうした、戦争という歴史の中に描かれたいくつかのドラマ、ないしは それと対峙しつつ自らの境地を切り開いてきた画家たちの青春群像を感じさせる興味深い美術展であった。

 
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小国民の思い出と六の時事川柳 06.12.17

2006-12-17 13:56:08 | 川柳日記
 六が国民学校へ入った頃、学校には忠魂碑と奉安殿というものがあった。
 忠魂碑は、お国のために死んだ人たちの顕彰の碑で、奉安殿は天皇皇后のご真影(写真)と教育勅語が収められていた。
 それらの前を通る時は、服装を正し、それぞれに最敬礼をしなければならないこと、ある時友人の呼び声に誘われてその礼をしなかったばかりに、見張っていた教師からビンタを食らった話は前に述べた。

            
      六の学校は田舎だったのでこんな感じ。
     ただしこれは残存するもので、当時はもっときれい。


 今日は奉安殿の話である。
 それらは日常は固く閉ざされていた。そして、儀式の折りのみ、主に教頭によってその扉は開けられるのだった。
 ただし、その折りは、全員最敬礼であるから、その中をうかがい知ることは出来ない。勇気ある者がそっと首を伸ばそうものなら、激しい叱咤の声が飛び、慌てて亀の子のようにその首を引っ込めるのであった。

 礼服に白い手袋という出で立ちの教頭は、漆塗りの箱に収められ、紫のふくさに包まれた教育勅語を恭しく押し頂くと、それを同じく礼服に白手袋の校長の待つ壇上へと運ぶ。

 そこで、校長がそれを読み上げるのだが、それはまた緊張に満ちた儀式で、読み間違えたり、途中であくびやゲップなどしようものなら、たちまちにしてその首がとんだであろう。

 もちろん、私たち低学年にはその意味するところなど分からず、ある種のオマジナイのようなものでしかなかった。

             
       都会の学校では講堂の中にあった。
      そして奉安殿ではなく奉安庫といわれたりした。

    
 
 勅語が終わると、次いで校長の訓話である。

 「昨日、△△村の○○上等兵が、南方戦線で、名誉の戦死を遂げたとの報が届いた。
 ○○上等兵は本校を優秀な成績で卒業され、家業の農業にいそしんでおられたのであるが、国家存亡に際し、鍬持つ手に銃を持ち替え、戦線へと赴かれたものである。
 ○○上等兵はその最前線に立ちよく闘い、多くの敵兵を殲滅せしめたが、敵兵の卑怯きわまりない待ち伏せ作戦に遭遇した。そこでもよく闘ったのだが多勢に無勢、ついには深手を負うこととなった。
 しかし、○○上等兵はなおもひるまず、敵兵めがけて激しい突撃を繰り返したのであるが、もはやこれまでという折りには、生きて虜囚の辱めを負うことなきよう、果敢にも自決して果てたのであった。そして、ああ、その最後の言葉は『天皇陛下バンザ~イ!』だったという」

 <講釈師見てきたような嘘を言い>のたぐいであるが、演技派の校長はここでグッとこみ上げるものをこらえ、胸のポケットからおもむろに白いハンカチなど出してみせるのであった。
 校長の話は続く。
 
 「かくして○○上等兵は、生きながらにして陛下の御盾となり、果てたのであるが、彼は本校の誇りとして、否、帝国軍人の鑑して、皇紀2600年余の歴史の中に深く刻み込まれるであろう。
 願わくば、ここにいる小国民の皆も、らを鍛錬し、立派な帝国軍人として、陛下と大日本帝国のため、その命を投げ出して闘う日の近からんことを!
 ○○上等兵の死を無駄にしてはならない。それに続くのは君たちなのだ!

 私は感動していた。
 自分の進むべき道は定まっている。問題は陸軍に入るか、海軍にするかであった(空軍はなかった。それぞれ、陸軍航空隊、海軍航空隊であった)。
 海軍将校の白いエレガントな軍服はたまらなく魅力的であったし、かといって陸軍将校の乗馬姿も捨てがたいものがあった。

   
         奉安殿と小国民を描いたイラスト


 しかし、私の悩みも長くは続かなかった。
 蝉時雨の中、チューニングの悪いラジオから、現人神の甲高い声が流れ、敗戦は確定した。

 焼け出された校舎の代わりのお寺の本堂や、工場の倉庫などで、私たちはひたすら教科書に墨を塗った。
 気が付くと、何人も、何人も、そして何人もの人が、そのまま還っては来なかった。
 軍部の隠匿物資を闇市に流してその腹を肥やしていた連中を除いて、私たちは飢えていた。

 その厳しい生活環境の中で、これからはもう戦争はよそうというのが多くの共通した願いであった。
 そして、それから61年・・。


<今週の川柳もどき> 06.12.17

  六〇年前に歴史が軋み出す
  思い出は勅語と軍部と検閲と
  三代目祖父の事業をしかと継ぐ
   (基本法、省への昇格、世論統制)

  早々と効力急ぐ基本法
   (教員免許見直し、能力給)

  収入が増えてないから使えない
   (個人消費が伸びないといわれるが)

  税制は強きについて弱き捨て
   (企業減税、老人増税、福祉軽減)

  暴れかた決してノロくはありません
   (各地で猛威)

  警察の不祥事もはや驚かぬ
   (フン、またか
  
  銭金の単位狂わす大リーグ
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冬の晴れ間のプロムナード・茜部

2006-12-16 15:43:05 | よしなしごと
 梅雨のような日々が続いていたが、昨15日は久々の好天であった。
 いつもはバイ・バイスクールで出かける所用だが、暖かい日射しの中を歩くことにする。

 所用をすませての帰り道、少し回り道をして、郊外の風情が残っているところを歩く。
 かつて、奈良は東大寺の寺領で、染料とするための茜草を栽培していたことから、茜部(あかなべ)と名付けられたこの一帯は、私が住み始めた40年前ぐらいは、まだ、車道を雉の親子が渡るほどののどかさを残していた。しかし、その後の高度成長の中で、どんどん都市化が進行し、田圃一反が潰されてビルやマンションが建つといった具合で、何年かしたら、遠景として見えていた長良川の花火も見えなくなってしまった。

 その後のバブル崩壊の中で、その勢いはとどめられ、まだ都市化されないままの地域が、まだら状に残っている。歩くにはそんなところがよい。

 

  いつももっと下流で見かける三羽のアヒルに出会った。日だまりの中で午睡をむさぼっている。
 物音を立てても目だけちょっと開けて、動こうともしない。
 「何だ、いつものおっちゃんか」などとほざいている。


   

 畑の隅に、もはや何の木か分からないくらい伐られてしまったのに出会う。
 これで来年も芽吹くのだろうか。
 多分大丈夫だろう。一見、木を虐めているように見えながら、そのじつ、あまり大きくして結局は除去することにならないよう、かえって木と長く付き合う知恵なのかも知れない。



  久しぶりの晴れ間、これを見逃してなるものかとどこも洗濯物の満艦飾だ。とりわけこの家のものは多い。二階から庭の隅々まで、日の光を一杯に浴びた洗濯物が幸せそうだ。

   

 家の近くの神社を通りかかる。木漏れ日が美しい。

    

 神社の近くにある茂みの中で、真っ赤に熟れたカラスウリを見つけた。草むらをかき分けて撮影し、戻ってみたら、ズボンの裾に何種類もの草の実が一杯くっついていた。いちばん取りにくいのは盗人萩の実だ。

 好天とはいえ、夕刻になると寒さが増す。

 夜、多くの子供たちが置かれた状況や、その子育てに苦悩する親たち、そして教師たちのとまどい、そんな現場の声とは一切関係がないところで、教育基本法の改正(?)が可決され、そして、防衛省への昇格法案も可決された。

 子供の頃、何かことあるごとに聞かされた教育勅語と、軍部や大本営という言葉が頭の中でぐるぐると回っていた。
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中華料理店と憲兵隊員(戦後秘話)

2006-12-14 16:30:38 | よしなしごと
 ここんとこ少し堅い話が続いたので、オチでも付いた話を書こう。
 といっても根が真面目(?)だから、その中には戦後の街の状況なども含むのだが・・

 これは2,3年前、取材に行った中華料理のお店で聞いた実話である。

 このお店、1945年の終戦すぐあとで開店したというから、ゆうに半世紀の歴史を数える。
 開店当時は、現在の白川公園(名古屋市中区)の近くにあった。
 ところで、この白川公園、名古屋の中心地に近く、近年、機動隊の大がかりな出動でホームレスを排除し、公園内や近隣に諸文化施設を配する文化ゾーンを誇っているのだが、戦後、1945年から58年までの間、鉄条網で厳重に包囲されたアメリカ村(キャッスル・ハイツ)であったことを知る人はもう少ないであろう。  

    
 

 要するに、占領下においてのアメリカ軍の幹部たちの居住地域だったのだ。
 まだ、戦禍の爪痕が色濃く残る街並みに対し、そこだけは別世界であった。
 緑の芝生に囲まれ、濃いグリーンの柱に白板造りという、いかにもアメリカ風の家々が整然と並んでいた。

 私たちは、その鉄条網の外から、まるで未来社会をのぞき込むように彼らの住居やその周辺、スクリーン以外ではじめて見る「外人さん」たちの暮らしの様子を眺めるのだった。
 そんな私たちを、巡邏の兵士たちが威嚇するように銃を振って立ち去るように促したりした。

 さて、先の中華料理屋さんに話を戻そう。
 この店、今でこそ老舗であるが、当時は屋台に毛が生えたような店で、夕方ともなれば、一日の労働を終えた常連たちが居座り、賑やかに一杯やったりしていた。店内も店外もないような有様で、その喧噪は相当なものであったらしい。

 そんなある日の夕方のことである。いつものように賑わっている店先に米軍の憲兵(MP)隊員が二人立った。
 そして、渦巻く喧噪に負けないくらいの大声で怒鳴ったのだ。
 
 「ヤカマシ~!!!!」

          

 座は水を打ったように静まり、一同はその場に完全に固まった。
 相手は泣く子も黙る米軍で、しかも、もっとも強面(こわもて)する憲兵である。

 当時、言語や習慣の違いによる誤解から、街頭で射殺される日本人も結構いた。
 米軍による犯罪、とりわけ女性などへの暴行事件も後を絶たなかった。
 しかし、占領下の検閲制のもとで、新聞はそれらを決して正確には伝えなかった。それらは、「大男たちに襲われた」と表現されるのみだったが(大江健三郎の小説の中にも確かそうした表現があった)、読者はそれだけで全てを了解した。
 当時の日本人男性の平均身長が160センチに満たなかったということもあって、この表現は「適切な」ものであったのかも知れない。

 さてさて、また例の中華料理店に戻らずばなるない。
 その場の全員が凍りつく中、憲兵二人はズカズカと店内に進み、調理場近くで中華鍋を抱えて震えている店主に再び言ったのだ。
 「ヤカマシ、ツー!」

 お分かりになったろうか。彼らは、外にまで漂う匂い誘われ、「焼きめし」、つまり、チャーハンを注文したという次第なのだ。

 同店は今、御園座の西に移ったが、あまり油っこくないサラッとした中華料理を提供して好評を得ている。
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「近未来」<通信>ではなく現実として・・。

2006-12-12 17:46:57 | 現代思想
 かつて、というのは私の若い頃だが、近未来小説のバイブルといったら、ジョージ・オーウェルの『1984年』であった。
 そこでは、当時のソ連など一般に全体主義国家をさらに徹底したようなディス・ユートピアが描かれ、行動の自由はむろん、内面の思想などまでが、ハイテクを駆使した監視下にある状況が描かれている。
 もちろん一党独裁管理の社会だが、その社会のスローガンは、
   1)戦争は平和
   2)自由は屈従
   3)無知こそ力
 というものである。

 ところで、この小説、私の若い頃はほとんど必読書扱いであったが、最近はあまり読まれていないようだ。
 その要因は、「1984年」が実際に過ぎ去ってしまったこと、さらにはその後数年をしてソ連圏などの一党独裁支配の国の大半が姿を消したことにあると言えよう。


 
 しかしそれは、そうした時間的・歴史的変遷にとどまらず、オーウェルのこの小説の射程距離の限界をも示すものではないだろうか。
 その限界を私は以下のように考える。
 
 1)そこで描かれた管理社会を、例えば狭義のスターリニズムのようなものに限定し、いわゆる民主制の回復によって問題が解消しうるかのように考えたこと(だから、単純な反共小説として迎えられた側面をも持つ)。

 2)それをある特殊な閉塞された社会の病理として描き出したが、実は科学技術の発展に内在するさらに普遍的な問題でもあるという側面を描ききっていないこと。

 3)従って、そこでの状況は、ある種の狂気による病いとして描かれているが、反面、理性という名の狂気という病いでもあり、それは体制の如何に関わらず今日も継続しつつある問題ではないかということ。


 以下は、最近読んだ本からの抜粋であるが、それは、あとから種明かしするように、哲学や社会科学のようないわゆる硬派の本ではなく、エンターティメント性のある小説である。
 
 「20世紀の夢はついえ去った。共同体は啓蒙された市民が自発的に集まってくる場所だという考えは永久に葬り去られたんだ」
 
 「われわれは・・・・ほとんど、あらゆる形の市民参加を放棄して、社会の経営を一握りの政治技術者に任せて満足している。・・・共同体的価値を尊重するような口ぶりをしているが、実際はひとりでいたいんだ」

 「隅々まで正気が支配する社会では、狂気が唯一の自由なんだ」

 「ファシズムとは、根深い無意識の要求を満たす>仮想的な精神異常正常であることが危険な世界に突入したんだぜ」

 「人間の魂にすらバーコードが印刷されているんだ」

 既に述べたが、この小説は、何ら思想的な問題を正面に掲げたものではなく、いわゆるミステリー小説なのである。そして、以上の台詞は、この小説の主人公、いわゆるヒーローのものではなく、その犯人と目される人物のものなのだ。

 前にも述べたように、私は幾分堅いものを読んだりした後、固まった頭へのご褒美としてミステリーを読む。それもトランダムで、上記のものも、図書館で題名を観て、映画が絡んだものかなと思って借りてきたに過ぎない。



 作者は、英国のJ・G・バラードで、小説の題名は『スーパー・カンヌ』(2000年・新潮社刊)。もともとは、SF作家らしいが、この小説についてはミステリーサスペンス風である。
 実は、この前に同じ作家の『コカイン・ナイト』を読んだのだが、これもミステリー風であった。

 さて、先に引用した台詞を思い起こしていただきたい。
 私はそこに、オーウェルの『1984年』の続編を、そして、さらに一層拡大された現代という病いを読みとるのだ。
 小説のことだから、あまり詳しくは述べないが、その舞台は、カンヌ近くのシリコンバレーを思わせる先端企業や研究所の集まった理想都市、「エデン=オランピア」である。人々は、そこでありとあらゆるものを与えられ、自由に研究や事業にいそしむことが出来る。ところが・・。

 私たちは今、20世紀の経験に懲りたのか、自分たちを投企すべき近未来に関する思考やイメージを棚上げしたままで生きている。そして、生産と消費という枠の中でしかその知力を働かせようともしない。

 一方ではそれは、科学技術のめざましい発展に裏打ちされてもいる。私たちの未来は、その発展により無限に開かれているのであり、その運用の効率と享受、つまり、生産と消費のみが課題なのである。
 
 生産と消費とは確かに人間的な行為ではあるが、同時に、限りなく動物的なものとの接点でもある。そこにはプリミティヴな意味での生が張り付いていて、その維持と延命が課題となる。
 それは、私たちの個人においてそうであるばかりでなく、政治全体がその生の管理に関わる「狭義の政治」に限定されてしまっているということである。これは、かつてハンナ・アレントが説き、ミッシェル・フーコーが幾分別の切り口で語り、今日、ジョルジョ・アガンベンが展開しつつあるところであるが、その詳論はおく。

     
 
 その意味では、「歴史は終焉」したのであり、ある種の「ポストモダン」状況の到来とも言えるのであろう。

 ギリシャ時代のポリスにおいての「活動」としての政治(それは奴隷労働や女性の家事労働というエコノミーに支えられていたという問題を孕んでいるのだが)や、生産と消費にとどまらない、自分たちのありようの近未来への投企としての政治といういわゆる「広義の政治」は、もはやほとんど問題たり得ない。
 それを敢えて言い立てるのは「ダサイ」ことなのだ。

 こうして私たちは、その魂にもバーコードを貼り付けて、生きていくのだろうか。
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「私」と「僕」& 六の時事川柳

2006-12-10 15:45:14 | 川柳日記



 日記などで、普通、私は「僕は」という言い方をしない。「私は」という。後者は、その発言を出来るだけ客観的に受け止めて欲しいという願望によると思われる。私の用法によれば、「僕は」というのは極めて私的な、それだけに自己告発的なものといえる。

 言うまでもなく、「私」とは曖昧な存在である。いつから私は私なのか、どこまで私は私なのか、人は自ずからそれを確定することは出来ない。
 それは、他者の介在において、それも自分でも想起もしなかったものとして表象されるのだから、私は、私にとってすら「他者」であるのだ。

 だとすると、私はいつ、「僕は」で始まる言葉を発することが出来るのだろうか。
 私が遺言を書く時(それはそんなに遠い先ではないし、また書くとしての話だが)、それは「僕は」で始まる物語だろうか。
 例えそれが、「僕は」で始まっていたとして、やはり「私は」を消去出来ない「僕は」なのではないだろうか。

 「私」も「僕」もそうした主体のアンビバレンツな二重性の中に生きているなどといったらやはり衒学的な戯言なのだろう・・たぶん。







<今週の川柳もどき> 06.12.10

 離縁した嫁が出戻り内輪もめ
  (岐阜、佐藤ゆかりvs野田聖子)

 天の声袖口辺りから聞こえ
  (ここへ入れろ!)
 
 品不足心配される段ボール 
  (検察や県警の使用増加)

 荒らすだけ荒らし見直すイラク戦
 フセインの時代の方がましだった
  (米国の米国による米国のための侵略

 拉致のツケ回り回って蟹高値
  (北からの入荷はなし)

 秀吉が五年も早く殺される
  (NHK大河ドラマで時代考証ミス)

 美しい国にしようとアライグマ
  (全国で激増)




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『フラガール』と三つの炭鉱(やま)の物語

2006-12-08 17:55:59 | 映画評論
 今年は、図らずも三つの炭鉱に関心を持つこととなりました。 
 その三つとは、三池、常磐、夕張で、現在ではその全てが閉山されています。

 三井三池炭鉱については、熊谷博子監督が大牟田市に委託されて撮ったドキュメンタリー映画『三池 終わらない炭鉱(やま)の物語』で、改めてその全貌に触れることが出来ました。

 物語は大きくいって三つに別れています。
 ひとつは戦前の囚人労働、強制連行労働、捕虜(白人も当然含む)による労働の頃の話です。私たちが知らなかった興味ある歴史的事実が続々と出てきます。

 第二は、1960年頃の、千何百人かの指名解雇に端を発する労働争議の模様です。「総労働対総資本の戦い」といわれたこの争議は、まさに日本の労働史上最大のものでした。

   
    かつて、「あんまり煙突が高いので」と歌われた大煙突。

  映画は、それらの事態を、当時の実写と、関連した人達との証言で綴って行きます。そこには、第一労組、第二労組、会社側の人の証言も生々しく記録されています。
 そして、それは同時に、エネルギーの根幹を支えてきた炭鉱という産業が、基幹産業から脱落して行くばかりか、やがては消えて行く運命を決定的に象徴するものでもありました。
 
 第三は、その争議の三年後の、炭鉱史上最大の犠牲を出した三川坑炭じん爆発事故で、死者458人を数えるに至りました。一説には、先の争議の結果としての徹底した合理化による保安対策の弱体化によるとするものもあります。
 この事故のもうひとつの問題は、一酸化炭素中毒患者839人を生み出したということです。彼らの症状はまちまちですが、完全な脳死状態のもの、記憶喪失、幼児化、ときおり訪れる激しい発作などなど、40年以上経過した今もなお、それに苦しむ多くの人たちがいます。

大牟田市は、今や炭鉱の街から脱皮する道を模索しています。炭鉱節をアレンジした若い人達の「さのよい」踊りが、鉱山の遺物の間にこだまします。
 それが新たな希望へと繋がることを祈らずにはいられません。

 

 いまひとつ遭遇したのは、やはり閉山に追い込まれた福島県の常磐炭鉱の例です。



 ここでは閉山後の余剰人員の吸収として、いち早く地下の湧水(温泉)を利用したリゾート開発が計画されます。
 そして当時(1966年)の夢の島であったハワイをイメージした「常磐ハワイアンセンター」をオープンします。
このセンター、最初は年間155万人の来場(1970年)があるなど活況を呈したのですが、次第に時代のニーズから見てダサイといわれ始めたのを機に、リゾート内容の多様化や近代化を図り、同時に、その名称も「スパリゾートハワイアンズ」と改めて、再び集客能力を取り戻したといわれています。
 今年は、開園以来の述べ入場者数5,000万人を越えたといいますから、この種のテーマパークとしては長寿を誇る成功例といって良いかも知れません。

        

 それと似たようなレジャー施設の開発を目指し全くの空振りでついに市の財政そのものを破綻させた例が、夕張だと言えます。
 その悲惨さはかなり報道されていますが、それによると社会福祉の大幅な削減、各種料金の値上げ、市民税の増加などなどで、力のある市民は、ドンドン脱出を計っているようです。
 そして取り残されるのはやはり老人などの弱者です。
 福祉が削除され、バス代が600円もするところで、生きて行かねばならないのです。
 夕張市の財政を吸い上げ、利益を懐にしたのは一握りの土建屋のみです。そして、その悲惨な結果には、往時の幹部も含めて誰も責任をとろうとはしません。

 もちろん、夕張の場合も、何とか再生をと企画されたことはいうまでもありません。しかし、その発想はあまりにも安易ではなかったでしょうか。もはや、箱ものさえ作れば人が集まという時代ではないのです。
 夕張のような市のお役人ではなく、経営のエキスパートが企画したテーマパークですら、苦戦し赤字を余儀なくされているのです。

 この夕張と常磐の違いはどこにあったのでしょうか。
 確かに、常磐の方が先行したという時代の違いがあります。しかし、常磐には箱ものに依存するのみというのとはちょっと違った取り組みが見られます。

 その一端を取り上げた映画に『フラガール』(李 相日監督)があります。あの映画は、『ウオーターボーイズ』や『スウィングガールズ』と似ていて、観客にアピールする勘所を外さない優れたエンターティメントですが、後の二つに比べて、決定的に違うのは、閉山後の受け皿を自分たちがつくるのだという決意に裏打ちされていることです。

 あの映画では明記されていませんが、あのフラガールたちの養成は、既にして開園一年前の1965年に、「常磐音楽舞踏学院」が設立され、そこでアトラクションの目玉となる人たちをと行われてきたのです。
 どこかのプロダクションに依頼して、既成の芸人を、しかももはや峠を過ぎたような芸人を引っ張ってくる安易さとはわけが違うのです。
 映画の中には、冬の時期、椰子の木を守るエピソードが出てきますが、そうした環境の整備をも自分たちで行い、その過程を通じて目標に向かっての団結心のようなものが形成されてきた様相が偲ばれます。

 もちろん、常磐を手放しで礼賛しようとしているのではありません。そこにはおそらく私たちが知り得ない負の問題点もあったでしょう。
 しかし、単に箱ものに依存するのではなく、その中味としての自分たちを鍛えるという営為があったことは事実なようです。

 あまり具体的なことも知らずに夕張を批判することは出来ないのですが、かつての「ふるさと創生資金」と称した一億円のばらまき政策なども、その大半が土建屋の懐に吸収され、肝心の市町村にはほとんど役に立っていない現状を見る時、つい、夕張にその象徴を見てしまうのです。

そして、今日、引きもきらずに続いている、それらの箱もの行政の裏にある県知事や各自治体の首長の業者との癒着、贈収賄による税の流出をも考えてしまうのです。
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『百年恋歌』・イルミネーション・お湯わり

2006-12-05 14:47:21 | よしなしごと
 以下は、昨12月4日の出来事です。 

 映画の試写会に行く。
 ホウ・シャオシェン(侯孝賢)監督の『百年恋歌』(原題『最好的時光』)。

     

 ひとりの監督による、三篇からなるオムニバス形式の作品だが、主演(スー・チー&チャン・チェン)も脇役も三作を通じて同じである。しかし、時代とシチュエーションは全く異にする三つの物語である。

 タイトルどおり、百年の恋物語で、時代は、1911年、1966年、2005年にわたり、それぞれの恋が描かれる。
 ただし作品における順序は、66年、11年、05年の順である。そして真ん中の11年は、意図的にサイレントの形をとる(ただし、音楽はシンクロしている)。

 映画の内容や評価については触れないでおこう。私自身、今もそれを反芻しつつあるのだから・・。

 名古屋地区での上映は、07年1月、シネマテークにて。

 試写会場を出ると、冬の陽はもうすっかり暮れなずんでいた。
 そこで、恒例の名古屋駅頭のイルミネーションの撮影に。


     

     


 

 今年のそれは、上段中央に巨大スクリーンがあり、その内容とそれを取り巻く並木の色あいが変化するのが特徴。
 それらの変化を全て収めたかったが、何せ今年いちばんの冷え込み、カメラを持つ手も凍えてくる。

 その後、知り合いの通称、「りりこ@マタハリさん」のお店「ロジウラのマタハリ・春光乍洩」へ。
 焼酎のお湯割りなどすすりながら、りりこさんといろいろな話を。
 だいたいは映画の話題なのだが、この日はそれに続いて、最近の若い人達の政治アパシーと、ネット上での右翼的恫喝などについてが話題となる。

 実際のところ、2ch的なネウヨの人たちが攻撃するほど、若い人達のなかには左翼志向の人はいないようだ。

 いずれにせよ、自分たちの未来を語り、それへと自己を投企するという意味での広義の政治が失われつつあるということは事実だろうと思う。
 これは重い課題だが、やはり、私としては語り続けるしかない。

 外へ出ると、寒気のなか、先ほど写したイルミネーションの裏っ側のツインタワーが黒々とそびえ立っていた。
コメント (1)
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