最近読んだ複数の論文を集めた本の中のひとつに、最近のこの国の殺人事件についての面白い考察が載っていた。
この国の殺人事件の犠牲者は年間千数百件(ただしこれには未遂も含む)で、10万人あたりにすると1.1人に相当するという。これに対し、独仏英は約3倍、アメリカは約5倍となるようだ。
瞠目すべきは中南米諸国では、日本に比べて50倍、つまり、10万人に50人が殺されていることになるという事実だ。その要因は様々だろうが、いずれにしても数が多すぎるので新聞記事にさえならない程だという。
その加害者の方であるが、どこの国でも男性が多く、年代別の分布では20歳前後がもっとも多い。これを縦に発生件数、横に加害者の年齢を表す折れ線グラフにすると、10代後半から20代前半が圧倒的に多く、それ以後は漸進的に減少するため、「ヘ」の字型、しかもピークが鋭角的な形になる。
この傾向に普遍性があることを示す面白いデータがある。というのは、殺人事件発生率が異常に高いアメリカのシカゴと、世界で最低レベルのイングランド=ウェールズのデータで、上に述べたようなグラフを作成するとどちらもなぞったように同じ「ヘ」の字になるということなのだ。
ここからはこの国の話になるが、ここでもまったく同様の傾向を示していた。「いた」と過去形で語るのは、それが1950年代の終わり頃までのことであり、それ以降はこの「へ」の字の頂点がだんだん下がってきて、現在はほぼフラットに近づいているというのだ。ようするに、殺人加害者の年代別の差異が少なくなり、いってみれば、どの年代も同じように殺人に関わっているということになる。
ここに挙げた二つのグラフは、直接それを示すものではないが、上の折れ線グラフでは最近凶悪な少年犯罪が増えているというメディアの強調にもかかわらず、10歳から19歳の少年犯罪は確実に減少しており、20代前半の現象と相まって、上に述べた「ヘ」の字の頂点を抑えこむ役割を果たしていることがよく分かる。
下の棒グラフは、年代別の構成比を表しているが、スタート時点が平成元年(1989年)であってみれば、すでにして若年のピークはとっくに過ぎ去った後であるが、それにしても平成23年の時点で、その年齢層がほぼ均等になっていることが分かるであろう。
ところで、上に述べた、10代後半から20代前半がピークを示す「へ」の字傾向についてのこの論文の説明では、思春期にあたって男性は、動物界の雄同様リスクを賭けて成人の雄としての自分をアピールしようとするからだといわれている。これはもちろん、「雌の獲得のために」という明確な目的意識ではなくとも、例えば誇りやつまらない見栄、メンツ、他者との軋轢、自己顕示、といった情感の高ぶりとして、無意識のうちにこの時期の衝動として埋め込まれてきたものだという。
だとすると、先にみたこの国の傾向はどうしたことだろう。そのように埋め込まれてきた動物的本能の名残りとしての生殖期の雄の資質が劣化してきたということだろうか。あるいはそれだけ、動物からテイクオフして進化の新しい段階を迎えているということだろうか。しかし、それにしても、それがほかならぬこの国において生じたということはなぜなのだろう。それがわからない。まあ、この事実が、いわゆる「草食系男子」の増加と関連するだろうことは想像できる。
いろいろ検証すべき点もあるが、「へ」の字グラフの説明として採用されていた、繁殖期を迎えた雄の衝動説もひとつの仮説としてあるに過ぎなく、それに還元してしまっていいかも問題であろう。思春期は確かに動揺が激しい時期ではあるが、同時に、社会的経験の浅い時期でもある。その未熟さが周辺とのトラブルを円滑に解消する、あるいはやり過ごすスキルをもっていないがゆえに、極端な行動に走るということも考えられる。
確かに人間は、動物との連続性をもってはいるが、同時に、社会的な存在として形成される側面が強いからだ。
そう考えてくると、この国の若者たちが人を殺す比率が低下したのも、動物からのテイクオフというよりも、この国の状況から説明されるべきだろう。なお、ちょっと違う角度からであるが、若者たちの動物化ということがいわれたりもしていたのだから(例えば、東浩紀等による)。
私なりに考えた仮説は以下のようだがどんなものだろう。
【仮説・1】憲法9条の存在とそれによる70年の無戦争状態の継続。
これはその第一項にあるように紛争のために武力を用いないということと関連する。これは曲がりなりにも、守られてきた。少なくとも、戦争という事態のなかで直接殺し合うということは回避されてきた。
今の若者達は、そうした殺し合いを目の当たりに経験しないできた。いい意味での「平和ボケ」状態ともいえる。
【仮説・2】理不尽な状況に憤り抗うという能力の減退。長いものには巻かれろ主義。
社会的にしろ政治的にしろ、理不尽で抑圧的なものに反抗するのはかつては若者たちの特権であった。今なお、世界的にはそうであろう。
しかし、この国では若者たちはもはや怒ることはない。「怒れる若者」自体が稀有な存在である。かつてなら暴動が起きそうな事態に対しても、われ関せずである場合が多い。これもある意味での「平和ボケ」かも知れない。
【仮説・3】大衆社会の普遍化により、各個人はバラバラの原子状態にされている。こうしたなか、一部の個人は、現状の説明原理を求め、陰謀史観的なものにかぶれて「過政治化」し、エキセントリックな政治行動に走る(その象徴は在特会。彼らは在日に特権があろうがなかろうが、そんな「事実」とはかかわりなくそれを信じ、それによってアイディンティティ・クライシスを収集しようとする)が、他方では、膨大な無党派層、無関心層を生み出す(この辺りは丸山理論のパクリ)。これは若い人たちの投票率にダイレクトに現れている。
こうした無党派、無関心で、エキセントリックなものとの接触をできるだけ避けようとする層の増加は、人生にとってもう一つのエキセントリックなシーンである恋愛やそれによる他者との軋轢を避けることにもつながるのかもしれない。
したがって、この時期の雄の衝動は出口のないままに内面化され、ルサンチマンとして渦巻いているのかもしれない。これは、ニフティ通信やMixi、Facebookなどの他者との広がりを一応はもっていたコミュニケーション・ツールが、Lineという閉鎖され、限定されたものに収束されてゆく傾向とも関連があるかもしれない。
まあ、これはどれも思いつき的なものにすぎないが、それぞれ目下の政治状況に関わる。何にせよ、若者による殺人事件が減ったのは悪いことではないが、上の三つの仮説が当たっていて、若者の感性が鈍化し、他者への関心が行き届かず、何のリアクションもない間に、現在国会で審議されているような軍事法案が通り、戦争が出来る国になってエキセントリックな武力行使が日常的になったとき、またしても若者による殺人事件の増加をもたらすことがないことを祈るばかりだ。
*もっとも、戦時期にあっては殺人事件が減少するという。それは殺人衝動が、戦場での殺戮によって代行されるかららしい。しかし、国内での殺人事件が減っても、かつての戦争のように300万の国民が犠牲になり、2,000万の近隣諸国を巻き込むようではなんとも致し方がない。これもまた、メガサイズの殺人事件なのである。
この国の殺人事件の犠牲者は年間千数百件(ただしこれには未遂も含む)で、10万人あたりにすると1.1人に相当するという。これに対し、独仏英は約3倍、アメリカは約5倍となるようだ。
瞠目すべきは中南米諸国では、日本に比べて50倍、つまり、10万人に50人が殺されていることになるという事実だ。その要因は様々だろうが、いずれにしても数が多すぎるので新聞記事にさえならない程だという。
その加害者の方であるが、どこの国でも男性が多く、年代別の分布では20歳前後がもっとも多い。これを縦に発生件数、横に加害者の年齢を表す折れ線グラフにすると、10代後半から20代前半が圧倒的に多く、それ以後は漸進的に減少するため、「ヘ」の字型、しかもピークが鋭角的な形になる。
この傾向に普遍性があることを示す面白いデータがある。というのは、殺人事件発生率が異常に高いアメリカのシカゴと、世界で最低レベルのイングランド=ウェールズのデータで、上に述べたようなグラフを作成するとどちらもなぞったように同じ「ヘ」の字になるということなのだ。
ここからはこの国の話になるが、ここでもまったく同様の傾向を示していた。「いた」と過去形で語るのは、それが1950年代の終わり頃までのことであり、それ以降はこの「へ」の字の頂点がだんだん下がってきて、現在はほぼフラットに近づいているというのだ。ようするに、殺人加害者の年代別の差異が少なくなり、いってみれば、どの年代も同じように殺人に関わっているということになる。
ここに挙げた二つのグラフは、直接それを示すものではないが、上の折れ線グラフでは最近凶悪な少年犯罪が増えているというメディアの強調にもかかわらず、10歳から19歳の少年犯罪は確実に減少しており、20代前半の現象と相まって、上に述べた「ヘ」の字の頂点を抑えこむ役割を果たしていることがよく分かる。
下の棒グラフは、年代別の構成比を表しているが、スタート時点が平成元年(1989年)であってみれば、すでにして若年のピークはとっくに過ぎ去った後であるが、それにしても平成23年の時点で、その年齢層がほぼ均等になっていることが分かるであろう。
ところで、上に述べた、10代後半から20代前半がピークを示す「へ」の字傾向についてのこの論文の説明では、思春期にあたって男性は、動物界の雄同様リスクを賭けて成人の雄としての自分をアピールしようとするからだといわれている。これはもちろん、「雌の獲得のために」という明確な目的意識ではなくとも、例えば誇りやつまらない見栄、メンツ、他者との軋轢、自己顕示、といった情感の高ぶりとして、無意識のうちにこの時期の衝動として埋め込まれてきたものだという。
だとすると、先にみたこの国の傾向はどうしたことだろう。そのように埋め込まれてきた動物的本能の名残りとしての生殖期の雄の資質が劣化してきたということだろうか。あるいはそれだけ、動物からテイクオフして進化の新しい段階を迎えているということだろうか。しかし、それにしても、それがほかならぬこの国において生じたということはなぜなのだろう。それがわからない。まあ、この事実が、いわゆる「草食系男子」の増加と関連するだろうことは想像できる。
いろいろ検証すべき点もあるが、「へ」の字グラフの説明として採用されていた、繁殖期を迎えた雄の衝動説もひとつの仮説としてあるに過ぎなく、それに還元してしまっていいかも問題であろう。思春期は確かに動揺が激しい時期ではあるが、同時に、社会的経験の浅い時期でもある。その未熟さが周辺とのトラブルを円滑に解消する、あるいはやり過ごすスキルをもっていないがゆえに、極端な行動に走るということも考えられる。
確かに人間は、動物との連続性をもってはいるが、同時に、社会的な存在として形成される側面が強いからだ。
そう考えてくると、この国の若者たちが人を殺す比率が低下したのも、動物からのテイクオフというよりも、この国の状況から説明されるべきだろう。なお、ちょっと違う角度からであるが、若者たちの動物化ということがいわれたりもしていたのだから(例えば、東浩紀等による)。
私なりに考えた仮説は以下のようだがどんなものだろう。
【仮説・1】憲法9条の存在とそれによる70年の無戦争状態の継続。
これはその第一項にあるように紛争のために武力を用いないということと関連する。これは曲がりなりにも、守られてきた。少なくとも、戦争という事態のなかで直接殺し合うということは回避されてきた。
今の若者達は、そうした殺し合いを目の当たりに経験しないできた。いい意味での「平和ボケ」状態ともいえる。
【仮説・2】理不尽な状況に憤り抗うという能力の減退。長いものには巻かれろ主義。
社会的にしろ政治的にしろ、理不尽で抑圧的なものに反抗するのはかつては若者たちの特権であった。今なお、世界的にはそうであろう。
しかし、この国では若者たちはもはや怒ることはない。「怒れる若者」自体が稀有な存在である。かつてなら暴動が起きそうな事態に対しても、われ関せずである場合が多い。これもある意味での「平和ボケ」かも知れない。
【仮説・3】大衆社会の普遍化により、各個人はバラバラの原子状態にされている。こうしたなか、一部の個人は、現状の説明原理を求め、陰謀史観的なものにかぶれて「過政治化」し、エキセントリックな政治行動に走る(その象徴は在特会。彼らは在日に特権があろうがなかろうが、そんな「事実」とはかかわりなくそれを信じ、それによってアイディンティティ・クライシスを収集しようとする)が、他方では、膨大な無党派層、無関心層を生み出す(この辺りは丸山理論のパクリ)。これは若い人たちの投票率にダイレクトに現れている。
こうした無党派、無関心で、エキセントリックなものとの接触をできるだけ避けようとする層の増加は、人生にとってもう一つのエキセントリックなシーンである恋愛やそれによる他者との軋轢を避けることにもつながるのかもしれない。
したがって、この時期の雄の衝動は出口のないままに内面化され、ルサンチマンとして渦巻いているのかもしれない。これは、ニフティ通信やMixi、Facebookなどの他者との広がりを一応はもっていたコミュニケーション・ツールが、Lineという閉鎖され、限定されたものに収束されてゆく傾向とも関連があるかもしれない。
まあ、これはどれも思いつき的なものにすぎないが、それぞれ目下の政治状況に関わる。何にせよ、若者による殺人事件が減ったのは悪いことではないが、上の三つの仮説が当たっていて、若者の感性が鈍化し、他者への関心が行き届かず、何のリアクションもない間に、現在国会で審議されているような軍事法案が通り、戦争が出来る国になってエキセントリックな武力行使が日常的になったとき、またしても若者による殺人事件の増加をもたらすことがないことを祈るばかりだ。
*もっとも、戦時期にあっては殺人事件が減少するという。それは殺人衝動が、戦場での殺戮によって代行されるかららしい。しかし、国内での殺人事件が減っても、かつての戦争のように300万の国民が犠牲になり、2,000万の近隣諸国を巻き込むようではなんとも致し方がない。これもまた、メガサイズの殺人事件なのである。