これのみ岐阜 JR岐阜駅バスターミナルの中が楕円の小公園になっていて岐阜県内の名桜の子どもや孫の 木が植えれれている。写真はその一本。荘川桜か。ソメイヨシノではなく、エドヒガン。
物心ついてから名古屋へ行った経験を思いおこす。
1944年、父が招集され、都市部への空襲が始まるにつれ、母方の実家大垣市の郊外へ疎開するのだが、敗戦以前の名古屋体験は、父が入営していた名古屋六連隊兵舎に、まさに父が満州へ派遣されるその日に、そこで将校だった母の従兄弟のはからいで面会できた折であった。
その連隊は名古屋城内にあり、その頃はまだ、翌年5月には空襲で焼失する建築当時のままで国宝に指定されていた天守閣がすぐ近くにそびえていたはずなのだが、自分の記憶をどうまさぐっても、そのイメージを呼び出すことはできない。残念だ。
父はそのまま、満州での敗戦時、ソ連に囚われ、1948年まで帰ってこなかった。
その後、敗戦後の小学生時代、幾度か名古屋へは出たが、いずれも通過地に過ぎなかった。名古屋駅で降りて、市電で堀川まで行き、そこから瀬戸電のターミナル駅であった堀川駅(いまは栄地下が始発点であるが、当時は堀川駅がそうだった。これは瀬戸電が、もともと瀬戸の陶器を堀川駅まで貨物電車で運び、そこからは堀川運河を艀で名古屋港へ運ぶために開発された路線だからであった)へ行き、瀬戸電で終点の瀬戸まで行くのが常だった。
瀬戸には、母の姉妹三人が嫁いでいて、いずれも陶器業に従事していた。もっぱらそこへ行き、そして帰るの繰り返しで、名古屋の中心部へ出たり、駅前近くで何かを食べたりをした記憶はまったくない。父が帰還前の母子家庭同然にとっては、きっぷの手配が精一杯で、ほかへ注意を向ける余裕さえなかったのだろう。
中学生の頃、まだ中区の御幸本町通りにあった(いまは中区三の丸)『中日新聞』本社へ社会見学で行ったことがある。もう70年前の話だから詳細はほとんど記憶にないが、巨大な(と思った)輪転機と、あとは屋上に飼われていた伝書鳩(これが当時の遠隔地との通信手段だったのだ)の群れを覚えている。
まだ、テレビ塔もなく、名古屋城も再建されていなかった。
一人で名古屋へ出たのは、大学受験の折だった。商業高校からの受験で、当時は実業高校からというのは殆どなかったので、願書の提出から受験会場の下見まで全部一人でやらねばならず、大変だった。私の志望した大学は当時、蛸の足大学といわれ、瑞穂区の滝子(いまは名市大になっている)や本部があった名古屋城内(上に書いた六連隊跡)など、足を運ぶ箇所も複雑だった。
しかし、それをきっかけに名古屋との縁が結ばれ、学生時代、サラリーマン時代、居酒屋時代を名古屋で過ごし、岐阜に家はあるものの、それらの時代に築いた人脈を中心とした同人誌への参加や勉強会などの交流、それに映画館、美術館、コンサートホールなどの諸施設の利用などなど、今も多くそして濃厚な関係をもっている。
このコロナ禍のなか、ここ2,3年は制限されてはいるものの、それが緩んだ隙に勉強会などにひょこひょこでかけてはいる。いちばん最近は27日(日)の読書会だったが、この会場はJR名古屋駅近く(徒歩10分ほど)で、会場へ向かい、二次会を経て帰るまで、その間の往復しかしなかった。
写真はその際撮ったものだが、駅周辺だけでも、様々な思いが交差する。とりわけその変貌の激しさは、ただただ驚嘆に尽きる。
もちろん先代の名古屋駅は慣れ親しんで来たが、その思い出も次第に薄れつつある。
「大名古屋ビルヂング」はこれで二代目だが、その初代ができる前を知っている。この一角は、ズラッと安い定食屋が並んでいた。今のように新幹線がない時代、大垣始発の夜行列車でゆっくり出かけるとちょうど朝方に東京に着くことができる。東京で用を済ませてやはり夜行の鈍行で帰ってくる。名古屋へ着く頃は朝だ。東京でろくな食事をとっていないので腹が減っている。そこでその安い定食屋の一軒に駆け込む。温かい味噌汁がついた朝定食が、確か40円だったと思う。そう…完全に戦後の食糧次事情の延長にあった食生活の場であった。
駅近くの駐車場の脇に咲いていたハクモクレン
高層ビル街そのものが、ニューヨークのそれを映像で見ながらも、これは遠い未来のSF的イメージのように思っていた。
それが今、かつて「偉大なる田舎」と形容された街の玄関口となっているのである。
*河村某とかいうふざけた市長をみていると「偉大な田舎」という形容は当たらぬではないが、この場合の「偉大な」は、「どえらけにゃぁ」と訳すべきだろう。